全体論議コメント3

立岩真也(立命館大学大学院先端総合学術研究科教授)

 私はさらに手短に、そして単純なことをお話しします。
 聞くことをしなければ、あるいは語ってもらわなければ、そのままに消えていくかもしれない語り、事実を記録することの大切さを、一方で私は確信しています。院生のケアをしたり、COEの役を仰せつかったりして、なかなかできないのですが、それは大切なことだと思ってます。
 そして、いま私ができないからというわけでもないのですけれども、それはまさに、このCOEプログラムの目的の一つでもあります、すでに書かれ語られているものから、また聞かなければ存在しない語りを新たに聞くことによって、多くのものを受け取ってほしい。このことを、ここでも、みなさんに呼びかけたいと思います。そして、その際のさまざまな注意事項について、今日のフランクさんの話から多くを受け取ってほしいと思います。
 そのことを受け入れながら、なおその手前にある問題は残ると思います。単純な問いです。つまり、なぜ語ることがよいのか、語ってもらうことがよいのか。それはフランク先生のお話を受けて質問者が執拗に問うたことでもあります。そして、それはまた私の問いでもあります。そして、その問いについて考えるということは、まだここにおいても継続されている。そのように私は思います。

(三田地) 語ることがナラティブに考えているという。

(立岩) よいかです。

(三田地) よいか。語ることがよいか。

(立岩) なぜ語るということがよいのか。それには、いくつもの理由がありました。しかし、ここでは二つだけおうかがいします。そして一つ目については、ごく簡単に申しあげます。
 一つは私たちのために、あるいは社会のためによい、と言えると思います。つまり、私たちは社会の在り方を誤ってはならない。少なくともこれからは、そうであってほしい。そのために、人の語り、証言を聞く必要がある場合があります。ただ、このときに考えなければいけないことは、一つに、もし私たちが誰かの具体的な証言を得なくても、ものごとを判断できるなら、また本来はことのよしあしがわかるべきなのであれば、それをわざわざ語ってもらうに及ばないということです。今日いくつかの話にもありましたように、負荷、負担がかかるというふうにもなってしまう。できれば語ってもらわずにすむ、そういった在り方というものもまた、ここからは導き出されると思うのです。そして、このことについては、フランク先生は同意してくださるだろうと思います。
 もう一つ、自分にとって、あるいは人間という存在にとって、語ることがよいと答えられる可能性があります。

(三田地) それは勝手ですが、一般の人ですか。語る。
 語るということが。
 語っている人そのものが。

(立岩) まずは、その人自身にとって。そして次に、人間という存在にとって、常に。先生の最初の著作における記述に即せば、人は病にかかって混乱している。その混乱というものが、私自身にとって耐え難いものとなるかもしれない。そこ中から、脈絡というか、意味を見つける。そういったことが自らにとってよい。そういったことは、確実に、現実にあると思うのです。しかしながら、それと同時に自らにとっても、病の意味というものを見いだせない。あるいは、さまざまなことが起こって、それは散乱していく、拡散していく、拡散しきったままである、そういったこともまた当然、多々あるのだろうと思います。
 そうしたことを認めるのであれば、そのうえで、なお語るということを肯定するという在り方は、おそらく二つあるだろうと思うのです。
 一つには、とりあえず、そこに混乱があるのだけれども、それは何らかのやり方によって、あるいは語らせ方によって、しだいに何らかの意味を持つものになる。何か、どこか一つのことに収斂していく、そういう可能性です。その可能性があることを私は否定しませんけれども、しかし常にそのようになるということは、私には言えないと思います。
 そして、にもかかわらず、そこに意味が見いだされるのだとすれば、なぜそのように考えられるかを、質問のかたちとしては、お尋ねしてもよいかと思います。

(三田地) 先生、なぜそういうふうに思われたかを?

(立岩) 何らかの意味に収斂していく、収まると思えないけれども、それでも意味があるとするなら、それは一つに、描こうとすること自体に意味があるということでしょうか。とすれば、なぜそういうふうに言えるのか?

(三田地) そのとおりだと思うのです。おっしゃっていることで、同じ同意をします。

(立岩) そこには何も見つからないかもしれない。見つからない可能性もある。しかし、それを意味付ける、意味付けようとする、探究するという行ない自体に価値がある。人間が人間であることの価値、意味がある、そのように考えるという考え方だと思います。私は今日の先生のご講演を聞いて、そのようにお考えなのかなと思いました。

(三田地) はい。そうだと思います。

(立岩) 私がわからないのは、実はそこなのです。そういった意味を探すという行ない自体に格別の意味を見出すという、その理由が、私には見当たらないと思うのです。

(三田地) ちょっと、また戻ってしまうと言われるかもしれませんけれども。

(立岩) そうやって考えてみますと実際に、確かに人は何ごとかを語られてはいる。私は以前『ALS——不動の身体と息する機械』という本を書きました。そこに引用したその一部を、いま書いている本のなかに再引用するようなかたちで持ってまいりました。それを資料としてみなさんに見ていただけるようにしました。
 その中に、もちろんいろんな語りがあります。いろんな語りがありますけれども、少なくとも、ある場面に置かれた人たちは、自らの、あるいは自らの病、あるいはその病の意味を語るというのではなくて、自分の方向に思考を行かせるというのではなく、むしろ自分に遠いというか、ただ世界があって、その世界を受信している、あるいは受容している。そのことを語る。そして、やがては、それも語ろうとしなくなる。そういった現実があるのです。
 そしてそれは、私が見る限りにおいて、充分に肯定的なものであります。こういうふうに思うのです。いかがですか。

(三田地) すごいですね。ちょっと何と?

(立岩) 私の生の意味を問う、あるいは、それを探し続けるということに意味を感じているというふうに、その病が起きているという人もいるでしょう。しかしきっとそうでない人もたくさんいる。そして、そこから私たちは、充分に肯定的なものを感じられる、その人が肯定されるというふうに思っているという事実があります。と、言いました。

(三田地) だけでなく、何を思っているのかという?

(立岩) 例えば私が病にかかっている、あるいは自分が死に至る手前にいる。そのことがどういうことなのか考え、それを探し出す。結果は探し出せないかもしれないけれども、探し続ける。そういった営みと、別の営みがある。と、言いました。

(三田地) シルエットにすると、別のというのは何か。例えば、それが。

(立岩) それはとても単純なことで。例えば自分の身体に日が当たっているということであったり、食物や水が自分の食道を、胃を通り過ぎていったり、あるいは窓の外に山がある、そんなようなことです。そんなことを多くの人たちが語ります。

(三田地) これは、いい比喩でもあると?

(立岩) それは比喩として語られているのではないのです。ただそのことが語られるのです。

(三田地) そう思ったらいいの?。

(立岩) 時間もなくなってきますので急がねばなりません。少なくとも、そこにも確かに語りはあるわけです。しかし、その語り、それから、その語りから受け取るものというのは、ずいぶんいろいろとあるということなのです。
 それを私は、必ずしも、文化の違いといったもので片付けたくはないのですが、しかし現に差異があります。そうしますと、語ることの社会学を社会学とすると言いますか、そういった営みというものの意味というものも、またあるのではないか。つまり、語ることを意味付けていくというできごとは、いったいわれわれにとって、どういうことであるのか。それを考察する意義があるだろうということです。

(三田地) はい、すみません。語ることの社会学、原語になっているんですね。

(立岩) なぜ、われわれは語ることを肯定したり、あるいは回避したりしてしまうのか。そのことを考えるということです。

(三田地) これはもっと褒められるんだとかの?

(立岩) そういうこともある。

(三田地) こういう感じですか、立岩さんの。はい、こんなんで。

(立岩) とにかく私は、いまフランク先生の話を聞いて、まだ終わっていないと思ったということです。語るということを、われわれがどのようにに考えたらよいのか。それについての議論が継続されうるし、また継続されるべきである。そういうことを、あらためて思っています。とくに質問というかたちを取りませんでしたけれども、私がお話ししたかったのは以上です。

(三田地) それで、最初の5分を語らすのがよいことという、その前提のところを取りましょうということでよろしいですね。前提を取りましょうということ。

(立岩) うん、そうだね。

(三田地) はい。