全体論議コメント2

天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)

 私は、第2 番目に全体討議コメントをする役回りのために真ん中に座っていることもあるので、「時間調整役」を自覚して報告します。短時間でコメントすることで、司会者であるサトウさんに多大なる貢献をしたいと思います。
 それでは、フランク先生にいくつもの質問を用意してきたのですが、私のほうからは非常に簡単に、ごく限られた点についてのみコメントしたいと思います。
 極めて乱暴に要約すれば、本日の基調講演のなかでは、「誰が、誰に対して、いかに、何の話を語ろうとしているのか」あるいは「それらを何がいかに邪魔している(してきた)のか、それらを困難にさせている(させてきた)のか」という観点から、文脈依存的な観点から、つまりはコンテクストを踏まえたうえでの「ナラトロジー(narratology)」なるものの提唱という構図になっていたように思います。
 そのうえで、アクションリサーチ等を通じて、「応答的効果(reactive eff ect)」の視点からのストーリーワークとして、何がしかをコーチングすることを可能にさせるという点をご指摘されていたと思います。また、人々の日常におけるあらゆる振る舞いについては、利得(ベネフィット)があると同時に負担(コスト)があるのであり、したがって、その負担をいかに最小化するか、という点を指摘をされました。
 そこでお聞きしたい1点目ですが、「単純」なように見えながらも、その実、やや「難しい」ことであるかと思うのですが、その「負担の最小化」のための「最小化」の判断を、誰が、どのように遂行するのか、遂行すべきなのか、ということをお尋ねしたいと思います。
 具体的に一例を挙げるとすれば、あるデイサービス等において、「アルツハイマー病(アルツハイマー型老年認知症)」と診断された高齢者が、周囲からの働きかけによって、それまでの来し方・来歴をまるで糸を手繰り寄せるようにして、ある「語り」を物語ることで、あるいはそのような「語り」を周囲に求められることで、気分が落ち着くことがあります。ただ同時に、そのように自らの来し方・来歴を手繰り寄せる、まさにその営み(行為)によって、逆に、その夜に大きな混乱をもたらしたりすることがあったとします。そのように、私たちの社会においては、当事者にとっての何がしかの「利得」と、何がしかの「負担」や「損失」が同時に立ち現れたりすることが多々あります。
 そうすると、それは誰がどのように判断するのでしょうか。たんにその現場のスタッフが判断するべきなのか、それとも第三者の別の誰かが判断するべきなのでしょうか。かりに「負担の最小化」ということを主張するのであれば、それはいかなる「根拠」によって根拠づけられ、正当化されるのか。その判断は「現場の裁量」なのか、「コンテクスト(文脈)に応じて」なのか。それとも何がしかの「判断基準」というものを設定するべきなのか。この点についてのフランク先生のお考えをお聞かせください。なお、これは「負担の最小化」の「負担」をいかになる内実として位置づけるか、その「負担」の強弱・濃淡・成分・相反性などの問題も孕みつつ、難しい質問であるかと思いますが、ご意見をお聞かせいただけばと思います。
 2点目は、フランク先生のご著書のなかで強い表現で書かれていた部分でもありますが、「探究の語り(quest story)」という言葉を用い、また「ヘラクレス的英雄から菩薩的英雄への移行」という言葉で表現されていた内容に関わります。非常に乱暴に表現すれば、現代社会においてこそ、自らがコントロールすることができないような自己の身体、自分がコントロールすることができないような身体のままならなさを受け入れ、他者との関わりのなかで自らを欲望することを通じて、自らの「生」を立て直すことを強調されていたように思います。要するに、「慎ましき思慮深い英雄」の主張であると言えるかと思います。ただ、これも私が研究している老いや高齢者をめぐる現実を見るならば、実際はそのように「病気を慎ましく静かに受け入れ、そのことを思慮深く受け止めるような高齢者」こそが、今日の我々の社会や周囲によって強く求められてしまっているのではないかということです。そのような「語り」こそがある種の「病語り」のための資源として供給されていると同時に、逆説的ではありますけれども、第1 点目の「利得」と「負担」「損失」の構造をますます見えにくくさせているような気がしています。
 そうすると、そのような「病語り」をポジティブに評価してよいのか。私たちの社会の中で「病のある身体のままならなさを受け入れ、他者との関わりの中で自らの生を立て直していく患者像」が私たちの社会において強烈に求められているとすれば、そのことをいかに社会学的にそれこそ語るのかという問題があるかと思うわけです。もっと言えば、社会学の「病語り」の語り口こそが、この社会が(都合のよい人たちにとって都合がよい形で)回っていくための言説として備給されているのではないかということです。
 以上2 点に関して、先生のご率直なご意見をお聞きいただければ幸いです。

(三田地) その求められている意味で、そういうふうに、どこか。

(天田) 平たく言えば、「病のある身体のままならなさを受け入れ、他者との関わりの中で自らの生を立て直していく患者像」が求められている状況・現実をよいと判断するのか、逆にそのような状況・現実を否定的に捉えるのか、ということです。更には、そのような肯定・否定の社会学者の言葉もこの社会の内部において作動しているのではないかということです。以上のような問題をどのように「評価」されるかということです。

(三田地) 働いているそのものが、そういうものであっても、いかに捉えるかという。

(天田) どちらで捉えるかによってかなり立場の違いが生じます。むろん、白黒つける、二者択一ではないにせよ、そのような問題をどのように考えるかということが問題の核心であると思います。分かりやすい例で言えば、病気を静かに受け入れ、病気と思慮深くつきあっていくという像が主張されていますが、現実的には、病気を生きるなかでの我々の身の処し方は様々であり、あれこれと右往左往したり、当て所のない怒りを顕わにしたり、ドタバタしたり、その意味の宙吊り状態を生きたり、沈黙をするしかなかったり、状況に応じてやり過ごしたりするわけです。病気を生きるなかでは、現実として、そうした状況であるにもかかわらず、なぜか「(最終的には)病気を静かに受け入れていくという像」が求められてしまう。そのような現実を念頭においています。
 あと、最後は「おまけ」になるので、これはあとで懇親会のときにもお話しできればと思いますが、『傷ついた物語の語り手─身体・病い・倫理(TheWounded Storyteller: Body, Illness, and Ethics)』にしろ、『からだの知恵に聴く─人間尊重の医療を求めて(At the Will of the Body: Refl ections on Illness)』にしろ、フランク先生は「神話」を用いることで倫理を語ろうとされています。更には、シャガールの展覧会のなかにそれを見て非常に感銘を受けたというふうに書かれていて、先生の「倫理」を支えている大きな立脚点として、そのような「宗教」と「倫理」の結節点に立っているのかなと思いました。この点は、この場ではなく、あとでゆっくりと説明をしたいと思います。以上です。ちょうど時間ぴったりの終了です。

(サトウ) 天田先生、どうもご協力ありがとうございました。それでは、最後のコメントを立岩先生、よろしくお願いします。