全体論議コメント1

伊藤智樹(富山大学人文学部准教授)

 富山大学の伊藤と申します。私はセルフヘルプグループへのフィールドワークを行っていて、そこに参加してくる人たちが、どんな自己物語を語るか、それがどのように変化していくのかということを研究しています。具体的には、アルコホリズムからはじめまして、死別体験、それから吃音、それから最近では神経難病のパーキンソン病やALS(筋萎縮性側索硬化症)といったグループに参加しています。
 まず今日のお話を含めてフランク先生のご研究を私がどのように理解しているのかについてコメントいたします。キーワードは「リサーチ」という言葉。実は、今日のご講演のタイトルは変更されておりますけれども、前のタイトルが“The Problem of Saying Something About Trauma Narratives”となっていたのが、変更後は、“Helping People Tell Stories: Narrative Research on Troubled Lives”となっています。つまり、help する者としてのresearcher という部分がかなり前面に出てきています。
 これは、おそらく今回の講演についてだけいえることではなくて、2005 年ごろからの、“Qualitative Health Research”誌に発表された論文なども含めて、先生のご研究の最近の傾向として理解できるのではないかと思っています。“The Wounded Storyteller”では、まず語ることに焦点があてられ、2004 年の“The Renewal of Generosity”では、医師や看護職といった聞き手たちにも焦点が広がる。そして、さらにresearcher という存在にまで、焦点が広がってきているといえます。
 そのことについて、私自身は、先ほど申し上げたような調査研究をしていますので、help する者としてのresearcher という考え方は興味深く、基本的には賛意を表したいと思います。
 ただし、さらに細かく考えると、今後help する者としてのsociological researcher を構想するにあたって、まだまだ考えていかなければいけないところがあると思います。
 私自身が重要だと思うポイントが二つあります。一つは、語り手になる困難性、易しく言えば「難しさ」があります。ストーリーテラーになる難しさですね。これは先ほどの発表の、二人目の藤原さんの研究も、その点にかかわる発表だったと思いますし、フランク先生の講演のなかにも、簡単に語ることができないという事例は言及されていたと思います。そのような難しさは、さまざまな事例へ視野を広げるにしたがって、いろいろと出てくるだろうと思います。そのような難しさを社会学が掘り起こす必要がある。単純に「語り手になりましょう」だけでは済まない部分を、私たちはまだよくわかっていないのではないか。
 それからもう一つは聞き手のバリエーション。つまり、インタビュアーというのは確かに聞き手であるけれども、あくまでもそれはさまざまな聞き手のうちの一つとしてとらえられる。さきほどの研究発表の、一人目の中田さんが研究されていたセルフヘルプグループも聞き手になりうる存在ですし、それ以外にも、援助専門職者の中にも、聞き手になる人がいます。そういったさまざまな聞き手の一つとしてのインタビュアーが考えられるかもしれない。しかし、そのように言うためには、それぞれの聞き手の持ち味というか、特徴がもっととらえられていなければなりません。これも、私たちがまだよくわかっていないことだと思います。
 さて、時間もないようですので、これまで申しましたコメントに関連して、一つだけ質問したいと思います。それは、フランク先生が、インタビューをどのようにとらえていらっしゃるのかということにかかわります。
 フランク先生は、ナラティヴをリペアする、という表現を使っておられます。リペアするというのは、例えば、社会のなかにおけるナラティヴの布置をリペアしていく、つまり、あまり社会の中で目立たない存在であるナラティヴを、こういうナラティヴがありますよと(特定の個人というよりも人々に対して)指し示すということが考えられます。一方で、具体的に目の前にあらわれた個人に対して、こんなふうに語ったらどうですかとリペアするということも考えられます。前者を「社会におけるリペア」と言うならば、後者は「個人におけるリペア」と言うことができるでしょう。
 さきほどのご講演の中で、『ヘンゼルとグレーテル』を子どもたちに実際聞かせるという話が出てきました。それは、さきほどの区分でいえば後者、つまり『ヘンゼルとグレーテル』を基にして、その子どもにセルフ・ナラティヴを作りなさい、という営みですから、「個人におけるリペア」だと思います。このようなアプローチは、相手にとって、自分が勧めるようにセルフ・ナラティヴをつくるのがよいことなのだという見込み、あるいは確信が相当にあって初めてできるのではないかと思います。
 そうすると、フランク先生がイメージされているインタビューというのは、そのような「個人におけるリペア」を行おうと意図された場なのか、ということが気になってまいります。つまり、インタビュイーがどのような方向でセルフ・ナラティヴを作っていけばよいのか、researcher の側にはある程度分かっていて、そうなるようにかかわっていく、そのような場なのでしょうか。これは、かなりセラピューティックなイメージです。ただ相手の言っているのを聞き終わって、結果として本か何かにまとめて出版して、それを渡すというのとは異なります。そうではなく、インタビューの中から既に、特定のナラティヴを意識し示しながらかかわっていくことになります。
 しかし、そのようなとらえ方で本当にいいのだろうか、とも思います。フランク先生は、特に“The Wounded Storyteller”で、人々の語りのカオティックな部分に敬意を払うべきだ、ということもおっしゃっています。すると、それと、先ほどのセラピューティックなresearcher のかかわり、あるいは「個人におけるリペア」の場としてのインタビューというイメージとの間のギャップを、どのように理解すればよいのでしょうか。

(サトウ)伊藤先生、どうもありがとうございました。それでは、引き続き天田先生、よろしくお願いします。