研究報告2 「自死遺族が自らの経験を語ることの困難——傷(wounds)が真実性を担保する時代のなかで——」

藤原信行(立命館大学大学院先端総合学術研究科院生)

 立命館大学大学院先端総合学術研究科の藤原です。では私のほうの報告をはじさせていただきます。
 まず初めに、「傷」といっても水準は身体的なものであったり、身内での社会的なものであったり、感情や精神といったもののように、そのように傷というものは、さまざまな水準があるのですけれども、そのような傷は語りないしは物語が真実であることの証しとなるということにかんしては、フランク教授もご指摘されているように、疑いのない真実であると言えます。
 ところが、現代社会で起きているのは、傷がなければ語りや物語は真実だとは見なさないという、いささか倒錯した事態であったりするわけです。社会学者の土井隆義さんが『友だち地獄』という本のなかで指摘しているんですけれども、現代社会では登場人物が、これでもかとばかりに傷を負う、例えば『恋空』のようなケータイ小説であったり、セルフ・ノンフィクションが、真実の物語として圧倒的な支持を受けていたりします。それだけではなくて、現代社会では、自分の存在や経験が真実であることの証として、トラウマ経験が探求されて構築されるという事態に至っていると土井さんは指摘しています。
 裏を返せば、現代社会は傷なき者の存在や、傷なき者の経験というものは真実ではなく、よって傷なき者の語りを真実とは見なさない、見なされないという倒錯したような時代だといえるかと思います。
 ここまでが前ふりです。今日の報告では、このような傷を負うことが存在と経験の語りの真実性を担保する状況のなかで、傷の引き受けをやり過ごしながら語りの真実性も担保することによる状況の困難を、ある自死遺族の方の語りに依拠しながら見ていきたいと思います。
 つぎに一番上のほう、「1. ことばを奪われる/押しつけられる自死遺族たち」というところにいきます。
 何らかの関係をもつ他者の死に直面すれば、死因がなにであれ、私たちはなんらかの罪責感を感じるものだと思います。まあそれは、お見舞いに行かなかったことは申しわけないというぐらいのものから、かくかくしかじかのことをしたから、もしくはかくかくしかじかのことをしなかったから、こんなことになってしまったというものまで、水準もさまざまではあるかと思います。
 ところが自死、自殺という死は、ほかのほとんどすべての死因とは異なる特徴を持っています。というのも、この自死というのは、ほかのさまざまな死因と異なって、死が起きることが偶発性、偶然であったというように説明される余地が限りなくゼロに近いという特徴を有しています。これを言い換えますと、現代社会では、自死は犠牲者であったり遺族であったりの、作為や不作為にもとづいて起きたと見なされがちであるということになります。
 例えば、社会学者のエミール・デュルケムによる自死の定義であったり、自殺免責特約のある生命保険契約や労災認定(ご存じのように業務に起因する精神疾患により希死念慮が生じたと認められない限りは、自死は労災とは認定されません)そういったものから見れば、現代社会では自死は犠牲者の自発的な意思により起きたと見なされていることは明らかかと思います。
 それに加えて、精神疾患というラベルによって、自死が犠牲者の自発的な意思により起きたということを否定する精神医学にしても、主に家族員や友人、知人といった周囲の人たちが、身近な人の自死の兆候であったり、自死の主因である精神疾患、特にうつ病の兆候を早期に発見し、精神科を受診させることであったり、それと精神疾患の治癒に必要なサポートを提供することであったりを要求しています。
 そういった要求は意図せざる結果として、自死が現実に生起した場合に、適切な対応を怠った、適切な対応に無知であったというかたちで、自死の原因を遺族たちの作為ないしは不作為に帰属させて、遺族たちに問答無用で罪責感、すなわち傷を負わせてしまうことになります。
 まあ、こういった状況のなかで自死遺族たちは、みずからの経験を語ることが困難になっているといえるかと思います。なにしろ、偶然そうなったという余地が存在しないために、問答無用に近いかたちで「お前が悪い、罪責感、傷を引き受けろ」ということになってしまうわけですから。このあたりの詳細は、例えば副田義也さんや時岡新さんや、若林一美さんであったり、ハーヴェイ・サックスという方の研究などを参照していただければと思います。
 そんなわけで裏を返せば、われわれの生きているこの世の中というのは、罪責感ないしは自責の念により傷つき苦しまない者を、真実の自死遺族としては認めないし、傷つき苦しまない自死遺族が仮に存在したとして、そういった人たちの語りを真実としては認めない、ひどい世の中なわけです。
 そうはいっても、語りの真実性を担保しながらも罪責感、すなわち傷の引き受けをやり過ごす技法もないわけではありません。ジェームズ・ヘンズリンという方や副田さんや私の研究などをごく簡単に要約すれば、次に述べるようなやり過ごしの技法もあるかと思います。①他人(ないしは特定の組織・集団)のせいにする。②社会のせいにする。③病気のせいにする。④不可避性を強調する。⑤愛他性ないしは自己犠牲によるとする。⑥自死であることを否認する。⑦これまで述べたような動機ないしは正当化図式を付与せずに語る。こういった技法で罪責感、すなわち傷の引き受けをやり過ごすということが可能なのですけれども、最後の⑦は、直面した自死の原因を未決のままにしておくことなので、きわめてむずかしい技法であるとはいえます。
 もっとも、今日の報告で強調したい点なのですけれども、たとえこれらの技法を用いたとしても、ほとんどの場合、自死遺族の方々が困難から救済されるようなことはなくて、たんに別の困難をかわりに招くだけだということ、におそらくなるかと思います。
 では、これから自死遺族M さんの事例に言及して、いま述べたような困難の内容を明らかにしていきたいと思います。
 つぎに「2. 調査の目的、方法、および遺族について」に移ります。目的については、ちょっと今回は飛ばします。
 今回は、岩手県A町B地区在住の自死遺族M さんへのインタビュー内容を検討することになります。なお、この報告で引用・言及されるM さん、およびO さんの語りは、あくまで彼女たちの立場からした場合に自明なもので、立場が異なれば彼女たちの語りは自明なものではありません。私としてはMさん、およびO さんの主張に与して、対立する主張をする人たちを攻撃するということは、一切意図しておりません。
 私は2006 年3 月にM さんに対してインタビューをおこないました。その際、M さんの隣人かつ同業者でもあるO さんも同席しています。この方がM さんと私のあいだを取り持ってくれました。インタビューの録音をし、逐語録の作成と使用はM さんおよびO さんの了解を得ています。ちなみにインタビュー時のO さんの本来の役割というのは、私がM さんに失礼をはたらかないように監視するお目付役というものであったのですが、実際にはそのO さんが、M さんの語りに積極的に介入するという事態が起きました。ただ、そのことで調査活動にバイアスがかかったということはないと考えています。
 今回インタビューに応じていただいたM さんは、現在60 代の農業従事者です。M さんは2000 年に夫のN さんを自死によって失いました。この亡くなった夫であるN さんは高校卒業後、会社勤務のかたわら家業である農業を手伝い、のちに農業専従となりました。M さんはN さんの死後、外出を控えるようになったと述べています。M さんはこれまで夫を自死で喪った経験をほかの人たちに語ったことはありませんでした。そしてこれから述べるように、義父母との対立が続いています。
 このA町B地区というのは、日本のなかでもっとも貧しくて、またもっとも統計上の自殺率の高い県の一つである岩手県の県庁所在地近郊の農村地帯です。ただ、この地区は県庁所在地に近いために岩手県内では相対的に就業・就学・医療環境に恵まれています。県内のほかの地域より相対的にマシという程度にすぎませんけれども、そういった事情ゆえに、世帯数の減少や人口流出ということもほとんどありませんし、住民たちの多くが昔からの同族団の結び付きを維持するということも可能になっています。
 つぎに「3. 義父母との不和を語るM さん」というところにいきたいと思います。
 インタビューのなかでのM さんの語りは、M さん自身と義父母の関係を主題として語られることになります。N さんにかんする人物像やエピソードも、その主題との関連においてのみ言及されることになります。彼女の語りは、自死とは直接関係なく、彼女自身の義父母、特に義母との対立関係を主題として進行しました。まるでみずから自死に直面した経験を語ることを避けているかのようでした。
 このM さん(とO さん)は、この亡くなったN さんが、父母、つまりM さんにとって義父母にあたるのですが、とくにこの母に甘やかされて育ち、その後も亡くなるまで甘やかされていたと語っています。また、N さんがアルコール依存症であり、そのため自動車の運転もできなくなり、働くこともできなくなったとも語っています。そんなN さんの自死と関係があるかと思われるこれらの語りも、それとは関係ないかのように、M さんと義父母との関係のなかに位置づけられて語られることになりました。
 夫であるN さんが、いかに義母から甘やかされて育ったかは、深夜に夫婦そろって働いているときに、義母がN さんにだけ就寝を勧めて、そのことにたいしてM さんが疑問をもったというエピソードを語るなかで言及されています。これが引用の1 になります。N さんのアルコール依存症への言及は、義母が断酒を妨げているという文脈においてなされます。これが引用2 と、あと3、4 のほうにも引用があります。M さんが自動車の鍵をとりあげたことも、そのことにたいして義母が憤慨したこととセットで語られています。これが引用3になります。労働能力を喪失したN さんに代わって、M さんが一家の大黒柱として働いていたことも、義父母との不和を語るなかで言及されているわけです。これが引用4 になります。M さんはこれらのことを、N さんの自死と結び付けて語るということはありませんでした。
 M さんの語りの主題が義父母との関係にあることは、たとえN さんの自死に言及せざるを得なくなったときでも変わることはありませんでした。このお二方にうながされて、私がM さんに「N さんが亡くなったことで、かげぐちをたたかれたりしていないか」と質問したときも、返答は、義父母に「お前が息子を殺した」と責められたけれども、具体的な理由はなにも言われなかったというものです。これが引用5 になります。
 M さんはこのような感じで、N さんとのさまざまな経験を、ひたすら義父母との関係という主題に関連づけて語っています。M さんとO さんは、N さんの自死に言及することを可能な限り回避して、それに言及せざるを得なくなったとしても、結局は義父母との関係という主題のなかに還元してしまいます。そしてこのあと、N さんの自死とは無関係に一時間以上も嫁姑問題がMさんの口から語られ続けることになりました。これはこれで面白いのですけれども、本報告では省略せざるを得ませんでした。
もっとも、M さんは自死遺族でもあるのですけれども、嫁姑問題に数十年にわたって対峙している農家の嫁でもあって、そのほかにもさまざまな役割を有する多元的な自己であるわけです。そしてなによりもM さんにとっての世界の中心には、義父母との関係があったわけです。夫の自死という多大な困難をもたらす事態とかかわりがありそうなことであっても、いやむしろそれはむしろ多大な困難をもたらす事態とかかわりあいがありそうだからこそ、義父母との関係に関連づけることによってしかM さんの経験を語り得ないのです。M さんの語りはこのように進行していて、N さんの自死の動機を付与されないままであったので、私はM さんが⑦動機ないしは正当化図式を付与せずに語ることで、語りの真実性を担保しながら罪責感を引き受けずやり過ごすのではないかと考えていました。でもそうではありませんでした。つぎの「4. アルコール依存症を媒介にして、N さんの自死を〈他人のせい〉にする」というところへいきます。
 結局、M さんは、アルコール依存症をN さんの自死の動機として選択します。これは引用6 になります。しかしながら、にもかかわらずこの選択は、③病気のせいにするという技法を選択したことにはなりません。そうではなくて、アルコール依存症を媒介ないしは迂回路として、N さんの自死の動機を義父母、特に義母に帰属させることだったのです。ようするにM さんは①他人のせいにすることで、語りの真実性を確保しながら、夫の自死を経験したことにともなう自死遺族としての罪責感の引き受けをやり過ごしているのです。
 アルコール依存症という動機を付与することは、あくまでN さんの自死の真の動機を義母に付与するための媒介ないしは迂回路なのです。よってつぎのようなことが言えると思います。M さんは、N さんのアルコール依存症という動機を媒介とすることで、N さんの自死にかんして義父母、特に義母に大きな罪があるというみずからのクレイムを正当化できている、と。そしてこのことによって、みずからの語りの真実性を担保し、傷としての罪責感を回避することが可能となっています。そうである以上、自死に直面した経験にかんする語りとは関連性のないように思われる嫁姑問題の語りも、義父母、特に義母を、実の息子を結果的に自死に追いやるにふさわしい存在として構築していくうえで不可欠の手続きだということになります。ではM さんがこのようなかたちで、夫であるN さんの自死の動機を最終的に義母に帰属させたことは、いかなる事態を招くのでしょうか。
 つぎに「5. おわりに─自死遺族が自死遺族であるがゆえの困難?」というところに移ります。
 M さんは、これまでに述べたように、とくに引用5 で触れたように、夫であるN さんの自死の動機をめぐり、今日に至るまで義父母、特に義母と対立状態にあります。この対立状態こそが、①他人のせいにする、という技法により、夫の自死の経験にともなう自死遺族としての罪責感を回避したこと、やり過ごしたことの代償ではないでしょうか。M さんはこれからもずっと義母と義母の立場を支持する人たちとN さんの自死の動機をめぐる戦い(war)を継続していかざるを得ないのです。
 ではわれわれは、そのようなM さんに、その戦いを放棄して、夫の自死の経験にともなう傷としての罪責感を引き受け、その傷のもたらす苦しみと戦い(wrestle)続けることをうながしたほうがよいのでしょうか。どちらがよいなどと言うことはできないでしょう。ただ、いずれを選ぶにせよM さんにとって、なにがしかの困難を引き受けざるを得ないということだけが確かなことだといえます。
 しめくくりとしては、こんなことが言えるかと思います。どうやらわれわれの社会は、傷としての罪責感を受け入れない者を真正なる自死遺族とは認めないという以上に、残酷であり、倒錯しているようです。なにしろM さんの事例に見られるように、自死遺族たちの傷としての罪責感から解放されるかのように思われる方策を与えておいて、そのうえで出口なしの困難な状況に追い込んでしまうのですから。
 ということで報告は以上です。ご清聴ありがとうございました。

(サトウ) ありがとうございました。