研究報告1 「なぜ、セルフヘルプグループの参加者はグループ通いが長期化するのか」

中田喜一(立命館大学大学院先端総合学術研究科院生)

 私は、修論のテーマの一部でもあるのですが、セルフヘルプグループ(以下、SHG)の研究について発表します。SHG のなかには依存症のSHG があり、そういう人たちによく見られるのは、比較的長期にSHG に通い続けているというような状況があるのですね。こういうふうな疑問を出発点にして、なぜセルフヘルプグループの参加者は長期化するのかという点に注目し発表させていただきます。
 まず、大まかにあらすじを言わせていただくとSHG についての効果の研究がそれなりに社会福祉学の分野で形成されてきました。すごく大雑把にいうと、SHG に体系化された知識がそれぞれのメンバーに伝達されて、SHG で癒しの効果なり回復の効果が起きるといった前提で議論されてきました。しかし、近年の研究において、そういう体系化知識が確認されていないのではないかという批判の研究があります。それで近年、ナラティヴの研究が注目されており、臨床心理などでもナラティヴ・セラピーのように臨床技法としても使われています。この、ナラティヴという視点でSHG を観察するときの分析枠組みにして分析していきます。最終的な結論としては、そのナラティヴ・セラピーを、そのSHG に当てはめて効果を見たときに、依存症者特有の自己のパラドックスが解消されてくるという事態を確認し、この社会学的な機制自体がSHG に通うことが長期化している原因として機能しているのではないかというフレームワークを提示していきたいと思います。なお、原稿の随所で引用されている当事者の話というのは去年、京都でアディクションフォーラムという市民に対して当事者が自分の依存症経験などをカミングアウトする場に実行委員と参加したその参加者からいただいたものです。本論はSHG 通いの長期化が悪いとかいいとかではなくて、それがそういうメカニズムというだけにとどめておきます。そのような長期化することに対して、当事者がどう考えているのか。依存症の支援として長期化することを支えるためにどのような支援が必要なのか。そのような問いは、今後の研究課題にしたいと考えています。
 まず、最初にAA の歴史を説明していきます。SHG は、依存症者のSHG 以外にも様々なものがあります。ですが、起源を遡るとAlcoholics Anonymousというような匿名性を原則としていて、会費や入会金も必要ないようなアルコール依存症のグループが起源です。このような依存症グループは、「12 ステップ」といわれるようなプログラムを通じて回復を目指しています。この「12 ステップ」という回復のプログラムは、アルコールに限っていませんので、例えば薬物依存のNarcotics Anonymous とか、過食問題のOvereatersAnonymous だとか、ギャンブル依存のGamblers Anonymous だとか、いろいろなところで「12 ステップ」が使われています。SHG では、「12 ステップ」を使うグループと使わないグループという二つのグループに分かれています。これらは非常に有効な分類であって、「12 ステップ」を使っているグループというのは「自己は無力である」 というような概念や「ハイヤーパワー」といった概念を信じていくことによって回復を目指していくというものです。また、そういうような「12 ステップ」と「非12 ステップ」という分け方ではなくて、治療志向系と社会変革志向系というものが存在していて、SHG には、自分が癒やされたらそれでいいのではないかという方向と、そうではなくて、社会を変えていかなければ問題は解決しないのだという、大雑把に分けてこの二つがあります。この分類は明確に分かれるわけではなくて、取りあえずその一つの指標として、そういうふうな二つの分類をしておいたほうが効果的です。本論の対象としては、そういう主に治療志向系を目指しているような、アノニマス系の依存症者の取り組みについてです。これらを分ける理由は、比較的語りをある種の方向に促すグループの分析であるということ指摘しておきたいからです。
 SHG 既存の研究において、T.Borkman という人が「体験的知識」という概なぜ、セルフヘルプグループの参加者はグループ通いが長期化するのか67念を提唱し、これが今でもSHG の効果として語られています。これはどういう概念かというと、そういう上から見たような専門家の知識よりも、いまここですぐ効くような処方箋的な知識のほうが、当事者にとっては有効であるという概念です。そういう普遍的な概念や抽象的な概念よりも、処方箋である、日々の実践のような知識を伝達するほうが回復には有効なのではないかという知識を「体験的知識」と言います。また、P.Antze という人はイデオロギーがSHG のなかに存在していると指摘しています。どういうことかというと、個々のSHG の中には「教え(teaching)」の体系が存在していて、そういうものが回復に向かわせているのではないかということです。具体的な例としては、「ハイヤーパワー」とか、「12 ステップ」とかというものが「教え」として存在していると指摘しています。さらにF.Riesumann という人は、「ヘルパー・セラピー・原理」の存在を指摘しています。「ヘルパー・セラピー・原理」というのは通常、私たちの日常生活のなかでは、教えるほうが教えられる側をサポートするつまり要素が強いというようなことを普通、考えるものです。例えば教師と生徒なんかは、生徒のほうが教えられるということが考えられるけれども、SHG の場合はこれが逆転していて、「相談する側」が「相談される側」へシフトする、つまり援助する側になるということに寄与しています。またさらにLave は、SHG は、徒弟制に似ていると指摘しています。徒弟制というものは、些末なものから重要な役割を担うところまでどんどんシフトしていって十全な役割を担えるようになると言っていますが、これがAA のグループ全体に見られるということを言っています。
 このような、既存の研究をひっくるめて、社会学者でAA のフィールドワークの調査をしたこともある伊藤智樹が批判しています。既存の研究の議論に共通するものというのは、SHG に存在するある種の知識が様々なかたちでメンバーに伝達されるというような前提が、この先ほど挙げた四つの分類のなかのいずれにも含まれています。しかし、そういう知識なり知恵なり、教唆的な内容、メッセージというのが確認できないということ、つまり観察不可能性なのではないのかということで批判されています。「ヘルパー・セラピー・原理」について言うならば、「ヘルパー・セラピー・原理」は、たとえば依存症が非依存症に変化するということについては何も述べていなくて、「援助する側」が救われるということはわかるのですけれど、「援助される側」から「援助する側」に移行する、きっかけとか、あるいは変わるにはどうしたらいいのかということは述べていません。たとえば、依存症者でいうなら「援助する側」が、自分の飲酒体験で、これまでどういうふうにして自分はやめられてきたか、やめ続けられてきたかということを、相談者に語ることを通じて自分を確保していくという要素があります。しかし、どのように断酒し続けていられるかということにつながっているかを説明していないのです。変化について、考えるのは依存症者の「回復」とは何なのかということについて考えるのと共通することだと思います。「回復」というのは、単に依存、嗜癖(しへき)の対象をとめることではなくて、いろいろな人がいろいろなことを言っているのですけれど共通して言えるのは、「ドライ・ドランクであったら回復ではない」ということです。ドライ・ドランクというのは、つまりたとえ断酒をできていたとしても気分の変調とか、一貫した気持ちでいられないとかいらいらするとかそういう気持ちであっては、「回復」ではないということが、AA のフィールドワークをされた葛西賢太さんは指摘しています。重要なのは、客観的にやめられているとか、そういう客観的な指標も必要なのですが、自分自身が納得し、生きづらさがなくならなければ回復とは見なさないということです。このことは物語として人をとらえるときに重要な視点となってきます。なぜなら、他者から見られたときにどうなっていればよいかというよりは、自分自身が納得して、自分自身に対して物語を語れて初めて回復するということを示唆しているのではないかということになります。
 また、SHG を物語論から論じた研究も、少なからず存在します。例えばC.Cainは、AA における個人の物語が語られる過程をアイデンティティ獲得過程にとらえたうえで、新参のメンバーはグループのなかでのベテランメンバーとのコミュニケーションによってAA の理念を学習して、語りを修正していくことを指摘しています。
 D.R.Mains は、糖尿病患者のSHG においてメタな水準で語る方向性を規定する規範の存在を指摘し、この規範を「メタ・ナラティヴ」という概念で表しなぜ、セルフヘルプグループの参加者はグループ通いが長期化するのか69ました。こういう物語の研究にも伊藤さんは、知識、結局、物語というのは知識の伝達という前提があって、それ以上の何も言っていない。これでは物語論的な良さが欠けてしまうということも指摘しています。物語論的なSHG の回復の効果について論じた文献においてもそれ以前の効果を述べている研究と同様の批判があります。
 このように物語の具体的な効果を論じる研究において、心理療法と同質の効果を論じる研究の流れが存在します。それはどういうものかというとナラティヴ・アプローチです。ナラティヴ・アプローチというのは、これまで自然科学が依拠してきたような、論理科学的な受動的なアプローチとは違って、人間を能動的な主体としてとらえることから出発しています。さらに物語は、人を世界の主人公とさせて、ストーリーのすべての語り直しは新しい語りとなり、人々は他者とともに再著述に関与し、それゆえ、彼らの人生や関係をもつくっていくことになるとWhite & Epston は指摘しています。また、K.J.Gergen は、社会構成主義の立場にたつセラピーというのは、これはナラティヴ・セラピーに相当しますけれど、これは多声性というものに注目しています。多声性とはどういうことかというと、困難な状況における「声」を多様にすることだということです。この声のなかから、何らかの解答やストーリーを見つけることではなく、声のなかから一つだけの答えを出すストーリーではなくて、いろいろなその声のなかで、いろいろな答えがあるということがナラティヴ・セラピーの立場です。この種のことを、私はSHG に適用できるのではないかと、ナラティヴ・セラピー的な効果がSHG のなかで確認可能なのではないかという仮説をもって研究しています。
 社会学者で野口裕二という方がいますけれど、この方は「言いっぱなし・聞きっぱなし」のルールが、ナラティヴ・セラピーの手法と同種の効果をもたらすと指摘しています。「言いっぱなし・聞きっぱなし」とは、要するに人が発言している間は、自分は批判も意見もなく聞き、自分が話しているときは人は批判も意見もなく黙っているというようなルールなのですけれども、このようなルールを通じたミーティングのなかに、ナラティヴ・セラピーと同じような原理が見て取れるのではないかということを言っています。
 このような、「言いっぱなし・聞きっぱなし」のルールがあり、それがある種の安心感を与えて、語りを引き出すということは探求的な効果があります。アーサー・フランクは、「病いの語り」を三つに分類しています。「回復の語り」、「混沌の語り」、「探求の語り」です。K.Plummer は「セクシュアル・ストーリーの時代」で、いわゆる「12 ステップ系」のSHG の語りは、「回復の語り」だと述べているのですけれども、これは少し違うなと感じます。なぜかというと、「回復の語り」というのは単線的に発展していくような語りです。「12 ステップ系」のメンバーが外部に発信するときは、そういうふうな語りとして認められるのですが、実際のミーティングであるときは、例えばステップというのは1から12 まであって、進んでいく過程、つまりステップが上がることによってポジティブな側面があるとメンバーたちに意味として共有されていますが、実際は例えばステップを戻っていくというような、可逆的にステップを進めていくという側面があります。そういうような実践は、例えばフランク先生はニーチェを例に挙げて「探求の語り」として指摘しています。ニーチェは、原因不明の慢性的な病状に苦しめられていました。そこで、自分の痛みに「イヌ」という名前を与えたそうです。そういうイヌのように名前を与えることと同じことが、「12 ステップ」の1から12 ステップの可逆的な側面と同じようなものと理解しています。そういうことを、アーサー・フランクは、「12 ステップ」というのは「探求の語り」だと考えています。
 ナラティヴ・セラピーをたどっていくと、ユニークな結果を生み出すことがSHG の目的になってきます。近年の構築主義者の議論において、ナラティヴ・セラピーと構築主義的な議論と一緒にされていて、区分がされていません。野口によると、構築主義というのは、ある種の権力関係というのが人の変化をうながすうえで、もっとも必要だというふうに言うのに対して、ナラティヴ・セラピーは、そういうふうな権力関係を放棄しています。SHG では平場性といいますけれど、対等なメンバー間同士で語り合っていくということがナラティヴ・セラピーとSHG の共通の前提です。
 White & Epston は、「実際に生きた経験」と、それについて「語られた物語」を比較して、「実際に生きた経験」が「語られた物語」によってすべて語なぜ、セルフヘルプグループの参加者はグループ通いが長期化するのか71りつくせないという自己の絶対的な恣意性を指摘しています。つまり、過去は完全には語りつくせることができない、それには必ず穴が存在すると指摘しています。この穴をベースにして、ドミナントストーリーとオルタナティヴストーリーが作られ、その相互作用が自我を構成するということが社会学では自我論において研究されてきました。このオルタナティヴストーリーとドミナントストーリーのずれが大きい場合、それが生きづらさになってしまいます。依存症者は、ある種ドミナントストーリーとオルタナティヴストーリーに引き裂かれている状態にあります。こういう引き裂かれている状態をナラティヴ・セラピーは、「生きた経験」になじむようにオルタナティヴストーリーを引き出すというような前提で話を進めていきます。それはどういうものかというと、実際に生きた体験に合った物語を引き出す、そういうドミナントストーリーの外側にくみ残されている体験をその体験の語りを含みこんだをストーリーの再創生に向けて語っていきます。絶対に語りきれないユニークな結果が人間にはあって、そういうユニークな結果を引き出すために、物語を語っていく。それが心理療法家なら心理療法家の役割だということですけれども、これがSHG の場合は、メンバー間同士で語りを引き出すようなきっかけをつくりあっているのです。
 社会学者の浅野智彦は、自我論の分野で指摘しています。浅野は、自己が物語によって生み出されているとすれば、語っているのはいったい誰なのかという問いを立てて問題提起をしました。
 ここで考えてもらいたいのですが通常、我々が自分を語るときには、「私が、私を語る」というふうに表現します。しかし、よく考えてみるとそれは不思議な事態なのです。私はあくまで私なのであって、語っている私と語られている私との二重の視点がそこにはあるのです。つまり「語っているのはいったい誰なのか?」ということを考えるときに、語る私、語られる私、つまり主人公となる私と、ストーリーテラーとしての私というのは、本来、別でないと語ることができない、少なくとも論理的にはそうなると思います。我々が日常、生活をしているときにはこの引き裂かれた事態は、浅野によると巧妙に隠蔽されていて問題がない状態ですが、こういうことがパラドックスとして現れてくるのが、主に依存症者という前提で話を進めていきます。語る私と語られる私は、本来引き裂かれていて別々のはずなのに、そのどちらかを語る自分というものを、「これがほんとうの私なのだ」と自分自身を納得していかせるような語りでないといけません。依存症者の語りは、私の語る意味に重点を置いているというところを指摘したとおり、語っている物語というのは、そういうふうに本来は切り離したはずなのですけれども、そういう矛盾を解消するような他者が必要になってくる。
 社会学者の福重清は、物語の内容に即してそういうことを言っているのですが、聞いてくれる他者が同じ当事者でかつ「言いっぱなし・聞きっぱなし」 のルールを内面化している人でないと、そういうふうなパラドックスを解消できないと指摘しています。
 福重の理論を見ていきたいのですけれども、物語行為が、経験を取捨選択していく行為だとするなら、いかなる物語を構築するにしても残余となる経験を残さないことは不可能であると指摘しています。これは具体的にいえば、例えば、ミーティングなどにおいて、ある経験を語ったとしても、それがあとに「そうは言ったものの何か違う。私の経験は、また違うものではなかったのか」というような脆弱性を生じないという保証はどこにもないということです。SHGでの語りは永久不変の完全な回復を提供してはくれない。しかし、その都度、その都度の苦痛からは回復させてくれる。だからこそグループのメンバーは、その都度、その都度の回復を求めて長期にわたってミーティングに出続け、経験を語り続けようとするのです。
 これが福重の指摘ですが、私もそのとおりだと思います。しかし、パラドックスを解消させるような、アルコールを飲む自己と飲まない自己に関する語りにおいて、飲まない自己を前面に押し出すような語りを語って、回復をはかろうとするならば、飲まない自己ということを信じてくれる他者でないと語った物語の内容がほんとうの私に帰属するという実感が得られないのです。
 アノニマス系のSHG のミーティングおいては、「12 ステップ」が依存症者の物語に緩やかな枠組みを与え、それを往復しながら物語を通じて傷に名前を付与します。ミーティングでは、「言いっぱなし・聞きっぱなし」において、傷をとらえなおす契機として「意図せざる結果」を利用しながら、依存症者はなぜ、セルフヘルプグループの参加者はグループ通いが長期化するのか73自己物語を語っていきます。しかしこのような物語のなかで語られる自己物語の前提として「語られる自己」と「語る自己」というパラドックスの存在が、それを脱パラドックスさせるのが目の前の同じ物語を抱える当事者であって、しっかり話を聞いてくれて承認してくれた人で、こういうパラドックスの解消しやすさというのが、SHG に比較的長期に頼ってしまう原因、メカニズムとして挙げられるという解釈論的な示唆が提示できたかと思います。
 本論で語りえなかったところとして、なぜ依存症者が自己のパラドックスを隠蔽しきれてないという点の依存症特有の何かについての現象の記述が不十分なので、その点を今後の研究課題にしたいと考えています。

(サトウ) ありがとうございました。それでは引き続き、本学先端総合学術研究科大学院生の藤原信行さんにお願いいたします。