【指定質問2】犯罪被害と語り

大谷通高(立命館大学大学院先端総合学術研究科院生)

本日はこのような質問の機会を与えていただきましたことを、みなさんに感謝します。とりわけフランク先生に感謝します。私は主にフランク教授の『傷ついた物語の語り手』というご高著から多くを学ばせていただき、大いに啓発されたのですが、このたびはあくまで自身の関心にひきつけて以下質問させていただくことをご了解ください。
『傷ついた物語の語り手』の中で、フランク教授は、物語ることを道徳的、もしくは倫理的実践として位置づけ、まず語り手自身が語ることのよさについて論説なさっています。すなわち語り手である病む者にとって語ることのよさとは、生の目的地や海図を新たに描いていくことで、自らの生に新たな意味を与えることであり、それは生の偶発性を引き受け、自らの生をよく生きようとする試みであると。また他方で、フランク教授は、他者にとっても語りのよさがあることも論説してくださっています。病む者が他者に自己の物語を語ることで、自らの痛みを差し出し、生の苦しみを他者とともに享受し語ろうとすることで、他者にとって生のよき模範となろうとすること、それによって他者は開かれた身体となり、病む者が苦しみの中で得てきた「恩恵」を享受することができる。つまり、このように、語ることは、病む者と他者の身体を繋げ互いに生のよさをもたらそうとする実践であるために、道徳的かつ倫理的な実践であるというのが、フランク教授の理論の要諦であると理解しています。
さて、私は、犯罪被害者、特に遺族について研究しているのですが、ここでは傷ついた物語の語り手として犯罪被害者を取り上げたいと思います。トラウマの語りが何かしらの負担と負荷と傷を負っているという点では、病いの語り手も、犯罪被害の語り手も同一の語り手として捉えることができます。しかし、犯罪被害と病いとでは、見過ごすことのできない差異があり、その差異によって生じる語りの問題についてフランク教授に三つご質問させていただきたいと思います。
まず、一つ目の質問は、それは語り手の苦しみに関する質問です。犯罪被害者が自らの生を語るとき、被害と加害という関係を基点として語らざるをえません。それは傷の原因として加害者がいるためです。犯罪被害者は、自身の傷について語るたびに、まさにその語るという行為それ自体において傷の原因である加害者のことが想起され、そして反復され、そのつど加害者への「反応 response」が求められてしまいます。その「反応」とは、たとえば応報的なものや、拒絶や拒否、あるいは許しなど、文字どおり多様なものであります。またそれだけではなく、決して固定化されたものでもありません。たとえば応報から許しへなど、時間の経過やさまざまな契機によって移り変わったりもします。
フランク教授は、傷ついた物語の語り手が、自らの生に新たな意味を与えるためには、探求の語りが必要となることを指摘されております。また探求の語りにおいて語り手は自らの逃れがたい苦しみを引き受けなければならないと仰っています。
とすれば、犯罪被害者が、「探求の語り」へといたり自身の生に意味を与えていくためには、まさに生が偶発的なものであるがゆえに自らの生が他でもあり得たにもかかわらず、自分の生が加害者と関わらざるを得ないものであるという逃れがたい苦しみを引き受けることが必要になってきます。
しかし、それを引き受けようとした途端に別の苦しみが立ち現れてしまいます。それは、「なぜ、私が加害者との引き離しがたい生を引き受けなければならないのか」という被害者たちの問い掛けのうちに伺うことができる、そのような傷のことです。
このように被害者の語りには必然的に加害者が伴うがゆえに「探求の語り」へと至ることが困難な場合があります。そしてまさにそのような困難があるゆえに、語ることで「混沌の語り」へと、つまり自らの経験の意味がモザイク状に現れたり、あるいは経験の意味づけが宙吊りの状態になったり、その意味がばらばらでその強弱や濃淡も多様になったりすると考えられます。すると、本人には、生の「目的地や海図を新たに描くこと」の良さとはまた別の意味での、「傷ついた物語の語り手」が「語ることの価値」(それは、目的や海図を新たに描いて生きていくことそれ自体の良し悪し)について考える必要が生じます。本人にとっての語ることのよさが一概にいえない場合、フランク先生は、この点をいかに考えておられるのかについてご意見をお聞きできれば幸いです。
第二に、他者の苦しみについての問題です。加害者も多くの場合、これまで生きてきた中で受けてきた苦しみ、または自ら犯した加害行為それ自体によって生じた様々な傷を負っていることがあります。その意味では加害者も傷ついた物語の語り手であるともいえます。ここでの加害者が負っている傷とは、以下のようなものです。一つに、これまでの生のなかで受けてきた苦しみ(例えば、親や兄弟からの虐待や、経済的、また人間関係の貧さの中で生きざるをえなかったこと、また、自らが受けてきた犯罪行為や、友人や知人からの裏切りといった経験など)があります。もう一つは、犯罪を犯したことで生じた苦しみ(例えば、犯した罪と切り離せない生を送ることや、被害者への想い、親や友人といった親しい人たちへの想い、受けた罰のことなど)があります。しかし加害者が語ることで、被害者の傷がいっそう深まってしまったり、別の傷を負わせてしまうことがあります。例えば、加害者と被害者の二者関係で考えた場合、加害者の側から被害者へと謝罪の手紙が送られてくることや、直接謝罪をしにくることで苦しむ犯罪被害者がいることもまた動かせない事実なのです。このような事実に鑑みたとき、加害者が自らの傷について被害者に語ることは、道徳的、倫理的であると言いうるでしょうか。
すなわち、加害者が自らの生とともに、加害行為の責任を引き受け、誰もが傷を負う、誰もが人を傷つけてしまうものとして、自らを他者と苦しみを分有する者として、他者とともに語り、他者の励ましになろうとすることは、当事者たる被害者にとって、それはよいことと言えるでしょうか。
また、今は加害者が語ることの問題について述べましたが、他方で被害者の語りが別の被害者に傷を負わせてしまうこともあります。つまり、同じ被害を受けた者同士が、その経験を語り合うことで、互いが苦しむ場合があります。受けた被害は同じでも、個人の身体は異なるため、その経験の意味に差異が生じます。その差異については互いに引き受けることができたとしても、その差異によって加害者への反応が異なった場合、その反応の違いで苦しむことがあります。例えば、大切な子息をなくされたご遺族において、母親と父親では、加害者への反応が異なる場合があります。一方が怒りや憎しみの思いから加害者について語り、一方が怒りとも嘆き哀しむともつかない複雑な思いから加害者を語った場合、それぞれの加害者への反応の違いによって双方が傷つき苦しむことがあります。このときも、まさに語ることで苦しむ者がいるのですが、語ることは、どのような意味で道徳的、倫理的であると言いうるのでしょうか。言い換えれば、本人(加害者や犯罪被害者)にとっての善や利益を超えた地平においてこそ可能となる「語ることの道徳、倫理」とはどのようなものでしょうか。この点についてもフランク教授のお考えをお聞かせいただければ幸いです。
第三は、いわゆる「語りのポリティックス」に関する質問です。犯罪被害者が自身の傷のことを語るとき、その語りのなかで加害者への反応が求められてしまうことについてはすでに述べました。その反応は多様かつ流動的であるために、ある一つの反応に収斂させることはできないし、また「応報」や「許し」といった語りの言葉によっても表現しがたいものであります。しかし、その多様で豊かでもある「反応」は、まさに語りにおいては、「応報」や「許し」といった言葉や文脈によってでしか語られざるをえず、そのため多くの場合、そのようなものとして、つまり、当事者の本来のあり様を離れて社会に受け取られてしまいます。
例えば日本では死刑制度を存置しているために、その存廃をめぐる議論が現在もなされています。その死刑存廃をめぐるポリティックスの中で、被害者が加害者の死刑を望むような語りをした場合、応報の語りとして意味づけられ、死刑存置の言説へと回収されてしまいます。また、今日の我が国のように厳罰化が社会的にドミナントな趨勢のなかで、被害者が加害者の刑が軽いと語った場合、その語りもまた、応報の語りとして意味づけられ、厳罰化の言説へと回収されてしまいます。つまり、本来、多様かつ流動的であった被害者の語りが、現実の/現在のポリティックスの力動によって、ある特定の語りとして限定的に意味づけられることになるのですが、これは、被害者の語りに加害者の語りを抑圧する効果を付与させてしまうことにもならないでしょうか。このように本来多様であるはずの語りが、ある一つの意味へと収斂しある語り手の物語を抑圧していくという語りのポリティックスについて、どのように考えることができるでしょうか。またそのポリティックスを超えでるところでの語りの道徳/倫理とはなんでしょうか。すなわち今のべたような「語りのポリティックス」を超えてなお「傷ついた物語の語り手」の「語り」が道徳的、倫理的であるとすれば、これについて、どのように言えるのか先生のご意見をお聞きできればと思っております。
以上、3 点について先生からご意見をお聞かせ頂ければと思います。以上です。
本日は、ありがとうございました。

(天田)大谷さん、ありがとうございました。二人の大学院生から出された指定質問は、全部で5 点に及ぶ非常に多岐にわたる質問ですので、短い時間のなかでフランク先生にお答えいただくのは非常に難しいかもしれませんが、フランク先生がお考えになるポイントに絞ってコメントをいただければと思っております。コメントに対するレスポンスは、できましたら20 分ほどでまとめていただき、その内容を通訳していただくというように進めます。なお、ここからの通訳は、三田地さんと、われわれの「生存学」創成拠点におけるポストドクトラルフェロー(PD)である有馬斉さんにも加わっていただき、適宜通訳をしていただくということでよろしくお願いいたします。
それでは、フランク先生、どうぞよろしくお願いいたします。