【指定質問1】「証言」をめぐる倫理への問い─語ることの負担から

山口真紀(立命館大学大学院先端総合学術研究科院生)

立命館大学先端総合学術研究科の山口真紀です。よろしくお願いいたします。私は本日のシンポジウムに向けて、集中講義の参加者と共に事前の研究会を開き、フランク教授の議論を検討いたしました。本日は私の関心に即して質問させて頂きます。本日の講演を受けての質問ではありませんが、何卒ご寛容いただければと存じます。
先生は著書『傷ついた物語の語り手』の中で、苦しみを備えた身体が自己をどのように規定・選択していくのか、参照となる理念型を提示し、理論的水準で明らかにしています。そして、病いの語りを「回復の語り」「混沌の語り」「探求の語り」に分類し、聴き手と語り手が「証言」をめぐる同心円状の輪を生成することに理想型を見出しています。病いの語りとは、これまでに意味を与えられてこなかった経験に意味を与えるものであり、私たちの生の臨界へ迫る営為として位置づけられるものです。
身体と身体の緊密性に視点を置くことで、自己と他者の関係性は響応する身体という形で相互補完的なものになります。この響応がまさに偶発的に“生起してしまう”関係性の磁場を、先生は「共にある」という言葉で表しているのだと、質問者は理解しています。
私はこの「共にある」関係性という視点と記述に、自身の経験の理解に対する新たな視座を得ることができました。
私が先生の著書を通して幾度も思い返したのは、交通事故で子供を亡くした母親の事例です。この事故をめぐっては社会的責任を問われるべき人物がおり、天災とは異なる不条理さが存在しています。事故後の裁判を含む社会的手続きの過程において、保険会社から事故の写真が自宅に届けられ、また加害者から謝罪が繰り返されるなど、母親である彼女は自身の苦しみと対峙せざるを得ない状況にありました。しかしながら、彼女は感受している苦しみを言葉にして明らかにせず、加害者への叱責や憐れみも表さず、他者からその経験を一般化するよう促された際にもその度ごとに抗おうとはしていません。
しかし、彼女はため息やつぶやき、生前の故人の話、悲しみを促す場からの静かな退席といった所作をもって、それらに対しています。彼女は苦しみを言語化する代わりに、身体と響応する自己の生のかたちを一連の所作で示しているのではないかと私は現在考えています。他者である私は彼女に対峙しながら、生がどのようにしても語り得ないものを内在的に含んでいることを教えられています。
こうした経験は、誰しもが覚えのあることだと思います。語り手に対して何も声をかけることができないもどかしさに直面しながら、その響応する身体をもって「共にある」かたちを模索する瞬間に、語り手と聴き手の倫理が立ち現れると質問者は理解しています。
その上で、本日は二点質問させて頂きたいと思います。一点目の質問は、私の理解についての確認となります。私はフランク教授の議論では私が目撃した母親の病いに対する処し方もまた「証言」と理解してよいのだろうかと疑問を抱きました。私が目撃した彼女のつぶやきやため息は、先生の議論においては「混沌の語り」と「探求の語り」の振幅のあいだに位置するものであると私は理解しています。彼女の語りは、他者や社会の変換可能性に賭けるような意図を持って発せられたものではなく、また、彼女は雄弁な語り手とは言えません。しかし他者である私においては、彼女の所作はまさに病いに対峙した者からの新たな導きとして受け取ることができるものです。そして私がこの場で彼女の事例を提示することにおいて、「証言」をめぐる同心円状の輪が生成されていくとも言えるのではないかと思うのです。先生の議論において、この母親の事例もまた、身体と身体の間で声が与えられていく現象に他ならないのではないかと思います。先生はどのようにお考えでしょうか。
二点目の質問は、語り手の倫理についてお聞きしたいと思います。先生は『傷ついた物語の語り手』の第八章で展開している議論において、語り手の倫理を、「社会的真実」を表明する証言者になることへと収斂されていかれるよう、質問者には思われました。しかしもし事例の母親の所作を「共にある」関係性から導かれた「証言」であると理解して良いならば、なぜ先生は、生と対峙して紡ぎだされる語りの様々に対して、ある一つの生のかたち、言い換えれば、「他者に語る」ことによって価値を示し得る何者かになろうとする営みに、語り手の倫理を定位されるのでしょうか。
この質問の理由は、第一に、病いに向き合い、紡ぎだされる語りには様々な位相があるということを、先生の議論から教えられたためです。先生が、聴き手の倫理について、語りを「多声性」の中に置きなおすことであると述べているように、苦しみを備えた身体に呼びかけられた者の処し方は、沈黙せざるを得なかったり、病いの意味を変えてやりすごしたり、迫られる意味づけの中で宙吊りのままでいたり、他者と苦しみを分有したり、あるいは語らなければ生きられない、など様々にあるはずでした。そして、病いをめぐる身体の語りの多様性を、聴き手は、生の臨界を証言するものとして等価に受け取るものだと私は理解しています。
また第二の理由は、以上の理解から、「語り」に付随する負担について考える必要があると考えたためです。先生はホロコーストの証言者の語りとまさに共にあり、緊密に寄り添っておられると質問者は理解しています。病いの語り手とホロコーストの証言者の間には、「実存的普遍性」が見出されます。苦しみとは比較不可能なものであり、また傷とは半ば開かれたものであるがゆえに、聴き手の有無が重要になるという点で、両者は事態を共有するものです。それゆえ先生は、社会的事実を表明する証言者となることに責任を付随させ、語り手と聴き手の倫理を見出しています。それは、圧倒的な加害/被害という非対称性のもと、被害者たちが声を挙げなければ知り得なかった事実があることを、先生は十分すぎるほど踏まえておられるゆえだと思います。
しかし、私はまさにホロコーストの証言者たちが担わされてきた苦痛と困難を伴う語りの負担について、今一度考察する必要性を感じています。誰がなぜ「語り」を要請しているかを知り、「なぜ語らなければならなかったのか」について考えておかなければ、語り手への語らせる圧力へと倒錯してしまいかねないと思うためです。
確かに、病いの語りを「証言」として位置づけることで、聴き手の倫理の必要性は、説得的なものとなります。そして語り手と聴き手の倫理とは、先生の議論においては、呼びかけられ、向かい合うべき関係性と理解すべきものだと思います。しかし、もし仮に語り手にも同様に証言者となることが要請されたとするならば、本来多様であるはずの語り手の身体の所作は、研究者や聴き手によって一方向へと価値づけられてしまことを意味してしまうのではないでしょうか。私は、もし事例の母親が更に「語らなければならない」のであれば、その事態とは私たちが彼女に課してしまっているものではないかと考えます。また、もし事例の母親の所作を「証言」と理解して良いならば、必ずしも「他者に語る」ことに語り手の倫理を定位する必要性はないように思われました。
改めて質問を繰り返します。一点目は、事例の母親の生に対する処し方を「証言」として理解してよいでしょうかというものです。二点目は、語り手の倫理が「他者に語る」という行いに定位されるとき、獲得されるものと失われるものについてどのように理解すればよいでしょうかというものです。この問題は私がこれから研究を進めていく上で避けて通ることの出来ない課題であり、だからこそ質問させて頂きました。
私は病いの語りが、ある支配的な理解を超え出る経験のリアリティを示すものであり、私たちの生の在り方を照射するものであるという先生の主張に感銘を受けました。また脱近代において、自己物語の生成は新たな自己の可能性を示す、確かな到達点です。そのことを踏まえたうえで、私は病いに対峙した生の処し方の様々な位相について考察し、非対称性のもとで個人に「語り」の負担が付される事態に対して、いかに私たちがその負担を知り、担うことができるのか検討していくことを自身の課題に置きたいと思います。そしてまた、語ることが当人において必ずしもよいと言えないのであれば、語らずにすむ、あるいは「語り」を要請しない社会の可能性へと問いを差し向けたいと思います。私が先生の著書から受け取ったこの課題は、決して「語り」がひらく自己と社会の可能性を減ずるものではないと理解しています。
質問者はまだ問いの入り口に立ったばかりですが、先生にご示唆を頂ければ幸いです。ありがとうございました。

(天田) 山口さん、ありがとうございました。重要な問題提起だったと思います。それでは、引き続きまして、同じく先端総合学術研究科の大学院生である大谷通高さんに指定質問をお願いしたいと思います。では、よろしくお願いいたします。