基調報告 「人が物語るのを助けることについて─困難を抱える生についてのナラティヴ研究」(通訳)

通訳:三田地真実(教育ファシリテーション・オフィス代表/東京学芸大学兼任講師)

(通訳)ご紹介頂き、ありがとうございました。お手元に資料がありますので、少し要約しながらいきたいと思います。

まず、物語論(ナラトロジー:narratology)、という複雑な学術用語のことからはじめたいと思います。数年前、車を運転しながらの学会からの帰り道、私はナラティヴに関心をもつある同僚と一緒でした。この同僚の妻はナラティヴの専門家で、彼女は神学を専門に、福音書のナラティヴを研究していました。私の同僚は自分の妻の仕事のことを物語論として理解していました。しかしこの用語は異なる専門領域で、それぞれに異なる意味で使われているものですから、私は彼に、その言葉をどういう意味で使っているのかと尋ねました。彼は少し考えてから、物語論というのは次のように問うことと関わる、と答えてくれました。つまり、「人が語ろうとする物語はどのような物語か、またそれを邪魔しているものは何か」。
物語論とは何か。文学者であれば、語りのいくつかの側面をとくに強調するでしょう。たとえば、時系列、視点、登場人物(キャラクター)、筋書きなどです(Charon, 2006)。しかし私の同僚の物語論に関するコメント─物語論とは、「人が語ろうとする物語はどのような物語か、またそれを邪魔しているものは何か」を問うことである─は、エレガントで単純なのがよい。とくに、病・障害・トラウマといった人生におけるさまざまな困難についての語りを考えるときに、有効な考えかたです。病や障害といった困難について人が物語を語ろうと努力するとき─多くの場合、こうした努力は奮闘を要するものですが─、人は自分がどんな物語を語ろうとしているのかを理解しようと努めているものです。ナラティヴを分析すること、とは、私に言わせれば、分析の専門家が他人の物語についてその主題をあきらかにすることではありません。そうではなく、ナラティヴを分析することとは、物語を語っている人がどのような物語を自分は語ろうとしているのかということを理解しようとして奮闘しているところに立ち会うことなのです。物語とは、多くの場合、それを語ろうとすることに反対する力によって定義されるものなので、語り手は、自分の語りを妨げるもの─語りを邪魔するもの─を理解することによって、自分の語ろうとしている物語の内容を認識することができるのです。そこで私は今日の講演では、物語の語り手が自分の語りを邪魔する要因について理解することを、ナラティヴの研究家がいかに助けうるか、ということを考えたいと思います。
自分の人生を物語ることを困難にするのは何なのか。このような否定的な問いの方からはじめるのがおそらくよいでしょう。というのも、社会科学の学術的な研究は、人の生にトラブルを引き起こす要因を明らかにするのがもっとも得意だからです。しかし同時に、研究は、そういった要因がいかにトラブルを引き起こすのかを覆い隠しもします。人生のトラブルについて物語ることは難しいことです。そうした物語ははじめからそこにすでにあって、語り手がそれを話し始めるのをただ待っているというようなものではありません。あるいはそうして語られるのを学者がやってきて収集するのをただ待っている、というようなものでも決してありません。社会科学でよく使われる述語である「収集する(collect)」という言葉をここでナラティヴ研究に応用して私が用いることにみなさんが違和感を覚えることを私は願います。ナラティヴ研究が含む複雑な対話的応答関係の中において実際に起こっていることをこの言葉は否定してしまうのです(Mishler, 1986; Riessman, 2008)。
トラブルを抱える生について物語ることは、発見の営みです。語り手は、物語を作っていくうちに、自分が経験してきたことを発見するのです。物語が有するひとつめの大切な価値は、それ自身が、経験を継ぎ合わせる機会を提供することにあります。さらに大切なことに、語り手が、自分の語っている物語を自分で聞くことによって、自分がどうしてそのようなタイプの物語を必要としているのかを発見することができる、ということがあります。しかし、この発見としての物語は、容易に妨害されうるものでもあります。
第一に、これはあきらかなことですが、ある種の物語については、それが語られることを好まない人々、グループ、制度などが存在します。それはたとえば、当の語り手が抱えるトラブルを引き起こした張本人である人々やグループであるかもしれません。あるいは、トラブルを軽減することも可能だったのにそうしなかった人々かもしれない。カイ・エリクソン(Kai Erikson, 1976, 1994)が自身の著書に記録している彼のいうところの「人災(man-made disaster)」は、そうした物語、つまりそれを語る必要のある人もある一方で、他の人々はそれが語られることを邪魔しようとするような物語のよい例でしょう。エリクソンは、大きなリスクを伴う活動に従事する会社から危害を被った共同体に降りかかった苦難を研究しました。たとえば毒性の老廃物を出す会社などがその一例です。こうした会社は、自分たちの活動と、共同体の被った被害とのあいだにつながりがあることがあきらかになると、責めを負うことになります。物語がそうしたつながりを作り出すかもしれないのです。
エリクソンの仕事は、たいてい、そうした被害にあった共同体のために働く弁護士から連絡をうけるところから始まります。彼の仕事は多くの場合、裁判所で終わりをむかえます。彼は被害にあった人々のために証言者として裁判所に向かい、被害者の物語を裁判所の公の記録に残し、また被害者のために賠償がなされるよう働きかけます。彼の仕事の中では、文字どおり、物語を邪魔する人々が現れます。ここでは、物語が語られるのを邪魔するのは、とくに会社が雇う弁護士です。しかし、他の場合には、困難を抱える人の物語が語られるのを邪魔するものは、もっと微妙で、それほど簡単には見分けのつかないものである場合もあります。
病の語りに関する私自身の研究の中では、他人が恢復するのを助けようとしている人々が、かえって当事者が物語るのを困難にしてしまうということがあります。医師や看護師は、医療システムが患者の苦しみをいかに大きくするかについて物語るのを聞きたくはありません。こうした物語は、たとえば医療ミス─北米では、7 人に1 人の患者が医療ミスの被害に会います─や、処方された薬の副作用についての物語であったり、あるいは患者をケアしきれない制度や、患者の苦しみを大きくするような特定のヘルスケア・ワーカー個人についての物語であったりするわけです。
病人の家族にとってもまた、自分たちの努力や善意にもかかわらず、自分の愛する人(患者)が苦しみ続ける話を聞くのはつらいものです。病人を看護する人々は、すべてがうまくいってくれることを望み、そのために多くの努力もしています。そうした人々は、患者の苦しみに関する物語を聞くと、自分の努力や善意には誤りがあったように、つまり、個人的に責められているように感じます。そこで家族は、こうした物語が不適当で望ましくないことを患者にそれとなく示唆することによって、そうした物語が語られることを防ごうとします。病人も、それを感じ取り、物語を内に抱えたまま、黙ります。物語をこうして内に抱えたままにしていることもまた、新たな苦しみを引き起こす原因になります。
人々が物語を語るのを妨げる第二の力は、当の物語が理解し、伝えようとしているトラブルの内容にあります。数年前、スウェーデンの学会でのことです。同僚と私は、「破れた語り(broken narrative)」について議論していました(Hydenand Brockmeier, forthcoming)。破れた語りの一類型には、トラウマがあまりにも酷いため、それについて語ることが無理ではないにしても難しい、そういったトラウマについての物語があります。ホロコーストや戦争の生存者のアダルトチルドレンによる回顧録には、破れがあります。第二次世界大戦中のオランダに関するある家族の回顧録を著した二人姉妹は次のように書いています。「私たちの祖父母は当時のことをほとんど語らない。……だからここに記したことは、彼らから聞いたことではなく、まるで幽霊の足跡のように残された手掛かりから推して書かれたものである。……私たちは、彼らの物語がこのままでは消滅してしまうことに気付いたとき、それを探し出さなければならないと強く感じたのだ」(Hileden, 2008)。戦時の物語は、世代が交代するにつれて、見かけとは裏腹に、全体としては消えていってしまう、というパラドクスに注目して下さい。語られるのは物語の断片だけです。それは、多くの場合、明示的には与えられず、子供たちはそれを解釈する術を身につけなければならないのです(Eisenstein, 2006)。
こうした家族の回顧録の中には、2種類のナラティヴの苦しみが対比的に現れます。まず、はじめに傷を負った生存者の苦しみがあります。その経験は、あまりにも過酷すぎて、それを完全に詳細にわたって語ることによっても傷から解放されることのないものです。他方に、自分たちの両親の物語を聞くことを必要としながら生きてきたアダルトチルドレンの苦しみがあります。これら二つの苦しみは、お互いに、相手の必要としているものと相容れないものを必要としています。
破れた語りと対をなすタイプの物語としては、共同体の記憶から忘れ去られた物語があります。物語が忘れ去られてしまうのは、多くの場合、共同体に対してふるわれた何らかの暴力に原因があります。ファースト・ネイション(訳注:カナダの原住民)の一人であり、教育者でもあるジョアン・アーチバルド(Jo-AnnArchibald, 2008)は、共同体の長老たちが「眠りにおちた」と表現する物語について書いています。物語が「眠りにおちた」というのは、長老たちも曖昧にしか覚えておらず、だれひとりその細部を思い出すことができない、ということを意味しています。アーチバルドは、別々の長老たちがそれぞれに断片的に覚えている物語の断片を互いに繋ぎあわせ、全体としてのひとつの物語に再構成していく作業のことを「物語の仕事(storywork)」と呼んでいます。
アーチバルドのナラティヴ研究は、このような共同体が語りの記憶を喪失するのは、たんに時間を経たためではないという点を強調しています。語りの記憶が乱されたのは、ファースト・ネイションの子供たちを寄宿学校に無理やり住まわせるといった、カナダ政府の方針に原因があります。寄宿舎では、子供たちから自分たちの文化の記憶や民族の言語を奪うという目的のためであればいかなることでも行われました。物語の忘却は、20 世紀型の植民地主義の直接の結果として起こったことだったのです。
人々が物語を語るのを邪魔する第三の要因としては、物語を語ろうと奮闘している人々に物語るために必要な資源が十分に与えられていないということがあります。ふつう人は物語を語ることを技術として学習します。私たち人間は、人生の早い時期に、物語とは何かということを学び、また、物語の語りかたを学びます。物語の導入のありかた、筋書きを発展させる仕方、登場人物の性格の描きかた、一貫した視点から物語を語る仕方、そして物語に結末を与える仕方を学習します。こうした学習が、十分なものであってもそうでなくても、わたしたちにとっては、語りに必要な資源となります。問題は、こうした資源が、語る必要のある物語を語るのに十分ではないことがあるという点にあります。語る必要のある物語がトラブルや苦しみに関する物語である場合にはとくにそうです。
語りの資源は、厳密にいえば、個人的なものではありません。むしろ多くの人が共有しているものです。人々は物語を語ることを学習し、家庭や共同体の中で語りの資源を獲得していきます。したがって、一般に、私たちは、自分の属する共同体が物語の主題としてこなかった類の出来事については、物語を語るための資源をもたないのです。さきほどお話した例に戻っていえば、共同体は、戦中に経験した極端に酷い被害については物語ることを知りません。あるいは、カナダの原住民は、寄宿学校に無理やり子供たちを取られていったときの経験を語りません。ほとんどどんな家庭でもなんらかの病気が経験されているはずなのに、慢性疾患や障害の苦しみについて物語が語られることはあまりありません。とくに子どもに向かって語られることはまずありません。こうしたトラブルについて語ることに人々が困難を覚えるのは、単純に、類似した物語を十分に聞いたことがないからです。語りの資源とは、類似した物語を聞くことを通して学習されるのです。
幸いなことに、語りの資源は修復することができます。最近わたしは語りの修復についての特別に感動的な話を聞きました。ジェイン・ジェイコブソン(Jane Jacobson)という学校教師が、それまで極端に不遇な生活を送ってきた子供たちにたいする教育について書いています。この子供たちには家がなく、多くは法的なトラブルに巻き込まれており、彼らにとっては、学校は教育のための施設であるよりもむしろ避難所であったといいます。ある日、ジェイコブソンが子供たちの現実に訴えかける物語を見つけ出そうと模索していたときのことです。彼女は、ドイツの民族学者グリム兄弟によって19 世紀に収集され、今では西洋の伝統にはもっとも親しみ深い民話のひとつである「ヘンゼルとグレーテル」の物語を子供たちに語りました。物語のはじまり、あまりに貧しくて自分自身と子供たちのことを養っていけない両親が、子供たちを森に送り出し、そこで道に迷って死んでしまうよう計画を立てます。避難所の子供たちはこの物語をこれまで聞いたことがありませんでした。彼らはヘンゼルとグレーテルの身に起きた出来事に深く揺り動かされました。
ジェイコブソン(Jacobson, 2008)は、この物語を聞いた子供たちの経験について次のように書いています。「彼らはそれまでまさにヘンゼルとグレーテルの虐待と貧困の物語を生きてきた。しかし私が彼らにこの物語を読んで聞かせるまで、私たちの文化が彼らの経験してきたことに対してどれだけの認証と反省とを与えうるかということを彼らは知らなかったのだ」。ほとんどの子供たちが人生のもっと早い時期にとうに聞いている物語をジェイコブソンがここで読み聞かせたことは、困難を生きてきた子供たちにとっては、語りを修復する役割を果たしたのです。19 世紀の民話が、子供たちに、自分自身の物語を語るために必要な資源を与えただけでなく、さらには自分たちの語りがその一部を成すべき大きな物語の伝統に自分たちが属する様子を想像することを可能にしたのです。
さまざまな異なる種類の物語を語ることを学習することだけが、語りの資源の学習ではありません。物語を語ることは、共同体、とくに自分の物語が属する共同体の中で、自分の居場所を獲得するための手段でもあります。自分の物語が共同体のなかに居場所を有することを発見するという経験─別の言い方をすれば、自分の物語が受け入れられ、尊敬されるという経験─は、それ自体としては、苦しみを和らげるものではないかもしれません。しかしそれは、自分たちに起きたトラブルを表現したいと思っても共同体がその語りに必要な資源を与えてくれないときに人々が感じる疎外と狂気の感覚を和らげるきっかけを与えてくれます。
以上、人が物語を語ることを妨げる力を三つ挙げました。他人とその利害、トラウマとなる経験の深さ、そして語りの資源の不足がそれです。ナラティヴ研究には、人々が物語を語ることを阻害する要素を研究することによって、人々がこうした力をうまく処理することができるようにする責任があります。多くの民話が教えてくれるとおり、何かに名前を付けて呼ぶことができることは、それ自体、ある種の力なのです。たとえ物語ることを阻害する力を取り除くことはできなくても、そうした力を名前をつけて呼ぶことができるようになるとすれば、そのことが彼らに力を与えるでしょう。
ナラティヴ研究が有するもうひとつ、今いったものと対をなす積極的な責任は、容易には語ることのできない物語を人が語ることができるよう援助することにあります。まずはっきりさせておきたいのですが、私が考える研究においては、社会科学者は、研究に参加する人々へのフィードバック効果をただ受け入れるだけでなく、そういった効果が起きるよう積極的に働きかけます。こうしたフィードバック効果を狙う研究のことを、今日の用語ではアクション・リサーチ(action research)と呼んでいます。私が今考えているナラティヴ研究も、ある種のアクション・リサーチです。
ナラティヴの研究者は、第一に、インタビューを行うことによって人々が物語を語るよう援助することができます。インタビューといってももちろんさまざまなタイプのものがあります。一方では、質問はひとつだけで、そこからひとつの長い物語を引き出し、聞き手はただそれを聞くだけ、というインタビューもあります。おそらくこれがもっとも望ましいタイプのナラティヴ・インタビューでしょう。しかし、物語はいつもこんなにスムーズに語られるわけではありません。すでに述べたように、多くの人は、自分の語りを邪魔しようとする聞き手に出会ってきています。あるいは、自分の語りをある特定の鋳型に嵌めてしまおうとする聞き手に出会っています。語り手が経験してきたこうした抵抗のために、物語は断片的なものになってしまっています。インタビューを行う側の人は、こうした断片を組み立てなおすために「物語の仕事」をしなければなりません。ここでもまた私は、政府の介入のために語りの記憶が切断されてしまった原住民の共同体に関するジョアン・アーチバルドの仕事から、「物語の仕事(storywork)」という有用な用語を借りてきています。ジェイン・ジェイコブソンが苦しみを抱えた子供たちに関する物語を、トラブルを抱えた学校の生徒に聞かせたときに行っていたこともまた、「物語の仕事」と呼べるものです。それは、子供たちの語りの資源を修復したのです。インタビューには、より完全な形のナラティヴを語ることができるよう語り手を指導していくことも可能なのです。
研究者は、ひとまず他人の物語を中断せずに聴いたあと、それまで簡潔に語られた物語を今度はもっと発展させるよう促します。そのとき研究者は「物語の仕事」を行っているのです。発展させるといったのは、たとえば、語り手に、特定の登場人物についてもっと細かい事実を語るよう促すことであったりします。たとえば、インタビュアーは、語り手に、ひとりの登場人物にもどって考え、その人の身体的な特徴についてより細かい説明をさせ、そこからより広く質問を展開する、そうすることによって登場人物について語るための方法を語り手に教える。そういうことができます。あるいは、インタビュアーは、物語が起きた場所の情景についてもっと視覚的な記述を加えるよう促すのもよいかもしれません。あるいは、会話の具体的なやり取りの内容を覚えていないか尋ねるのもよいだろう。もっとも大きな発展を促すためには、プロットの中でも、とくに欠けていると思われる部分について語り手に質問することが有効です。注意してもらいたいですが、私は、インタビュアーが、物語に描かれている事柄に関する語り手の感じ方を聞きだすべきだといっているのではありません。私は、感情的な反応に関する質問をすることはしません。むしろ、物語それ自体が、適当な感情を表現するよう促すようにします。質問の焦点は、あくまでも物語の筋書き・登場人物・情景にあるべきです。そのような質問が目指すのは、より完全な物語を語るための能力を引き出したり発達させたりすることにあります。
もちろん、物語の細部を発展させるよう語り手に要求することは、語り手自身がもともと曖昧にしか覚えていなかった細部を語り手がその場で創作してしまうリスクを伴います。しかし、そんなことをいいだせば、すべてのナラティヴ研究は記憶に頼らざるを得ないものですし、記憶とは常々、創作されているものです。ここで私が述べている「語りを導くこと」の利点は、第一に、より細部の充実した物語を研究の記録に残すことができることにあります。また第二に、とくにこの点はアクション・リサーチにとって重要な点ですが、語り手が自分の生をよりうまく語るための道具を身につけるよう学習できることにあります。インタビューが語りの資源を学習させるにつれて、人々は自分の言うことが他人にとっても意義のあることなのだという自信をもつようになります。すべての物語はこの自信の上に成立します。
ナラティヴ研究は、インタビューなどの社会的なミーティングの中で語られる物語から開始されます。研究は、最終的にはなんらかのレポートになります。それは、カイ・エリクソンが人災を研究する中で用意した裁判所の証言の形をとるかもしれないし、あるいは、現場の医療従事者や為政者あるいは他の研究者仲間に読まれる学術雑誌の論文の形をとるかもしれません。興味深いことに、研究成果は研究に参加した語り手を対象として書かれることはほとんどありません。しかしそうした形で出版することもナラティヴの研究者たちは考慮した方がよいでしょう。
研究のレポートには、第三者の分析が入ってくるので、必然的に、語り手の物語を傷つけるリスクを伴います。おそらくもっとも深刻なリスクは、研究者が聞いた物語を不当に私用に供することです。アメリカの学界では、不当私用(appropriation)を行った研究は強い非難の対象になります。学会は、他人の物語を取り上げ、それを語った本人の利益にはほとんどならないような仕方で物語を用いている─たとえば研究者自身の業績にしかならないような仕方で用いる─として、非難されています。たとえば、他人の物語が本来からもっている力に依存しきって、それに何かを付け加えていると主張されてはいるが実際にはもとの物語の語り手が既に言っていること以上にはほとんど何も述べていない凡庸な論文は、不当私用そのものです。病気に関するナラティヴ研究の論文を読んでいると、研究者のコメントなどなくして、ただ聞き取った物語をそのまま書き写してくれさえすればよかったのに、と思わずにはいられないようなものがあまりに多いのです。引用されている物語の喚起力に匹敵するようなことは研究者自身なにひとつ述べていないにもかかわらず、物語は研究者の著作の一部となってしまう。
研究者はつねに、他人の物語を、自分では重要なことを何も加えずに不当に私用するリスクを負っています。研究の対象とする語り手の人生について、語り手自身と比べれば、私たちはほとんどなにも知らない。そんな状況の中で仕事をするということは大きな不都合です。しかし、それでもなお、私たちには、物語に何らかの価値を付け加えることができないというわけではありません。少なくとも三つの重要な仕方で、価値を付け加えることができるはずです。
第一に、出版すること。これは不当私用のリスクは伴いますが、物語に価値を付加することでもあります。出版は、人の苦しみの証言者の輪を格段に広げます。あるいは、他人の日常的な現実や奮闘にたいする私たちの感受性を高めます。「出版(public)」は字義どおりに理解すれば、「公にすること(makepublic)」を意味します。公にすることはまた、保存することでもあります。とくに今のように電子データを蓄えることができる時代にはなおさらそうです。人々の物語を出版することは、物語に永続性を与え、聴衆の数を増やします。最低限、私たちにはこのような価値を加えることだけはできるはずです。さらに、学術研究者はまた、そのままでは誰にも注目されることのなかった物語に光を当てるだけの大きな力を有しています。私たちには専門性がある(少なくともそう思われている)からです。一般の人々が私たちに求めていることの一部は、編集するという働きです。私たちの仕事が有するひとつの価値は、注目するに値するものとそうでないものとを仕分けすることにあります。もちろん私たちにこの役割をどれだけ上手に果たせるかという疑問はあるかもしれません。しかしそれは他のジャーナリスト、出版業界の人、編集者でも同じことです。重要なのは、読み手である一般の人々が、私たちが出版するものを重要なものとして受け止めているということです。私たちは、人の注目に値するものを差し出すことができるだけの専門性を備えていると思われているのですから。
カナダの物語作家であるトマス・キング(Thomas King, 2003)が、とくに原住民族の物語について書いた彼の著作の中で述べた一言に、出版の価値は要約されています。キングはどの章でも、その中心に、ファースト・ネイションの経験に関する物語を置いています。ほとんどは、さまざまなレヴェルにおける圧制を反映した深い困難を湛えた物語ばかりです。ファースト・ネイションの生活は、ほとんどのカナダ人にとっては縁遠いものなので、これらの物語は一般によく知られていないことを、キングはよく承知しています。そこでキングは、各章の終りに繰り返し読者に呼びかけて、そこに記した物語についてはどんなことでもしてくれてかまわないと書き記しています。読者が当の物語を読んだ結果なんらかの行動をとってくれるならそれもよい。あるいは他の人にその物語を話してくれても構わない。あるいは物語を忘れてくれても構わない。しかし、誰も自分にそんな物語を教えてくれたことがないと主張することだけはしてはならない。「あなたはもうこの物語を聞いた」。各章の終りに、キングはそう繰り返します。どんな物語を出版するにしても─トラブルを語る物語の場合は特別にそうですが─いつもこれと同じ文句で締めくくられるべきです。「あなたはもうこの物語を聞いた」。
学者が物語に付け加えることのできる第二の価値は、互いのことを知られていない二人以上の語り手の物語を互いに接続することです。あるいは、どのように接続されるべきかということが自明ではないような二つの物語を互いに接続することです。今日の講演の中で、私は、災害の物語と、病の物語と、戦争やホロコーストの物語と、そしてカナダのファースト・ネイションの物語とを接続しました。こうしたつながりはもっと拡張することができます。接続させることに伴う危険もあります。それぞれの物語の個別性や共同体の生活の個別性が失われるかもしれないことです。しかし、利点もあります。それは、1950年代の偉大な社会学者であるC・ライト・ミルズ(C Wright Mills, 1959)が、社会学の価値として記したことと同じです。つまり、個人のトラブルを社会的な問題と接続すること、これです。どんな人の物語にもある優れた特質は、本人の人生をユニークなものとする経験を表現する能力にあります。しかしこの表現も、それだけでは、当の語り手を孤立したままにしてしまいます。物語は他の物語と接続されなければならない。物語のつながりは、人をもつなげるからです。
ナラティヴ研究者の非常に大きな特権は、他人の物語に関する理解について解釈上の特権をもっているということにあるのではありません。そうではなく、ナラティヴ研究者にあるのは、たくさんの物語を聞くことができる、という特権です。簡潔に述べれば、私たち研究者は、他のほとんどの人と比べて、いろんなところへ行くことができます。ナラティヴ研究について考えるとき、私がよく思い浮かべるのはミツバチやハチドリのイメージです。私たち研究者は、他家受粉を手伝う役割を担っているのです。私たちは、ナラティヴの受粉を行います。これによって、ある場所にあるひとつの物語が他の場所にある別の人生に伝わり、その人生を豊かにします。ミルズが社会学の課題として述べたこととつなげていえば、私たちは人々が孤立感を感じないようにすることができます。むしろ、人々の物語や彼らの抱えているトラブルが、他の人の物語やトラブルとかかわりあっていることをあきらかにする。ナラティヴ研究は、接続を媒介するのです。
ナラティヴ研究の第三の価値は、まだ自分たちの物語を語ることができていないが、語りたいと望んでいる人々を助けることができるという点にあります。人生の困難を物語るときに人々がどのような資源を用いたかをナラティヴ研究が明らかにするとき、研究は私が先に述べた「ナラティヴの修復」を行っているのです。まだ自分の物語を語ることができないでいる人に必要なのは、他人が用いている語りの資源を見て、それを自分でも獲得するようにすることです。こうした語りの資源があれば、彼らにも物語を語ることができるようになります。物語を語ることができるようになれば、彼らはそれまで完全には自分のものといえなかった経験を自分のものだということができるようになります。この複雑なアイデアを私なりにもっともうまく言い表そうとすればこうなります。つまり、私たち人間が生きていく中で、私たちは人生のある部分については、それを生きてはいるが、それを経験してはいない。というのも、経験するためには語りの形式が必要だからです。経験は物語を必要とします。
私の考えでは、ナラティヴ研究は、本来、限界づけられた営みです。しかしまさにその限界のために決定的に重要なものであります。ナラティヴ研究者は、自分たちが聞いてくる物語の深さを決して理解することができないということを認識し、それを受け入れ、そして自分の読者に向かって正直にそのことを認めなければなりません。しかしこうした理解の不完全さは、人間に与えられた条件そのものなのです。自分に親しい人々にとって生きるということがどのようなことなのかということを、私はどれほど知らずにいることか、私は、日々、思い知らされています。これが遠く離れたところにいる人であればなおさらのことです。遠くに、といったのは、何も地理的な距離の問題だけではありません。経済的な資源の差や、あるいは、象徴的な価値、共同体の形式、文化的な記憶など、さまざまなことに関して距離がある場合を指しているのです。しかし私たち人間にとって、物語は、それがどれだけ傷つきやすく不完全なものであっても、私たちがお互いにもっとも近づきあえる可能性です。ナラティヴ研究の課題は、もっとも簡単にいえば、人々が互いの物語を知ることによって近づくことができるよう助けること、そして人々が自分自身の物語を知ることができるよう助けることにあります。
最後に一言、私たちは自分たちの仕事をナラティヴ研究やナラティヴ分析として理解するよりも、むしろ自分たち自身、ナラティヴの応答関係の中にあるのだと考えたほうがよいだろうということを述べておきたいと思います。毎日の生活の中で、人々は他人の反応を予想しながら物語を語ります。反応の質が、人々のあいだの関係あるいは関係の欠如を創り出します。最低限の反応しかしなければ最低限の関係しか生まれません。私は、一緒に研究をする学者には、インタビューを終えるときは、語り手に、自分の物語にたいしてどのような反応を期待しますか、と尋ねることを推奨しています。どんなグループの人々に自分の物語を聞いてもらいたいか。物語を聞いた人々に、どんなことが起きてほしいか。私たちは必ずしも、語り手の期待に応じて、自分の反応の可能性を狭めなければならないということではありません。しかしやはり、彼らが望むことを聞いてはじめて私たちは反応を択び始めるのです。またそこから私たちの反応は展開していくのです。私たちが彼らの望んでいる以上に反応してしまっている場合には、私たちは自分に問い続けるのです。「私は、相手との関係を発展させるような仕方で反応できているだろうか」、「私は相手の物語を、たとえ相手の予想していた仕方で用いることはしていないにしても、相手に喜ばれるような仕方で用いることができているだろうか」。このような質問に導かれながら、私たちの研究は、人々が物語を語るのを援助することができるのです。

(天田) フランク先生、貴重なご講演、誠にありがとうございました。最後はポイントをまとめていただき、理解が深まったように思います。どうもありがとうございました。いま一度、みなさん、拍手をお願いいたします。
それでは、時間が20 分ほど超過していますが、プログラムに沿って進めていきたいと思います。
では、続きまして、指定質問者である山口真紀さん、大谷通高さんから指定質問をしていただきたいと思います。まずは、最初の指定質問者である山口さん、お願いいたします。