あとがき

天田 城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科 准教授)

 本報告書は、2008年2月17日・18日に立命館大学衣笠キャンパスで開催された、国際シンポジウム「多文化主義と社会的正義におけるアイデンティティと異なり—コンフリクト/アイデンティティ/異なり/解決?」において報告した方々が当日発表した内容をもとに執筆した論文を編んで完成したものである。全体構成としては、「基調講演」があり、「セッションⅠ:異なり」として3本の論文が集められ、「セッションⅡ:アイデンティティ」として4本、「セッションⅢ:コンフリクト」として4本、「セッションⅣ:解決?」として4本の論文がそれぞれ掲載されている。加えて、西川長夫氏による極めて刺激的な特別講演「差異とアイデンティティのための闘争の先に見えてくるもの—タゴールの反ナショナリズム論とイリイチの『ヴァナキュラーな価値』を手がかりに」の記録が収録されている。いずれの論文・講演録も極めて示唆に富む内容であり、ここにまとめ刊行する意義は極めて大きいものであると言えるであろう。

 上記の企画の目的・趣旨・経緯等については、冒頭のポール・デュムシェル氏と後藤玲子氏によって書かれた「Introduction」で言及されており、また各論文の内容についてはここで私が中途半端な形で拙い紹介をするよりは直接各論文を通読していただくほうがよいかと思うので、ここでは割愛させていただくが、改めて読み返すと、本報告書は、ここで提示された諸現実からこそ私たちが思考すべき様々な問いが立ち上がっていくことを痛感させるものとなっている。むろん、基本的には、それらの何をいかに思考するかは読者一人ひとりに委ねられているのであるが、私たちはそれらの問いに随伴する困難と厄介さを感じつつも、それこそがこの世界に内属して生きる私たちが格闘すべき問いであることを知ることになるのだ。それぞれが一筋縄には解けないかなり難しい問いとなる。ましてやその解決は容易ではないことは誰にとっても明らかな問いである。とは言え、そのような思考作業こそが「多文化主義」と「社会的正義」をめぐる諸問題を真に考えることに連接することを可能にする作業であるのだ。
 これらの問題を思考する上では幾つもの困難があるのだが、以下2点についてのみ記しておこう。第一には、私たちの社会における異なりは身体をめぐって、あるいはその身体をもとに構成される世界をめぐって現出し、存在し得るのだが、それは幾重にも錯綜する諸力のせめぎあいの歴史=時間の中で現れているがゆえに—それ自体は当然といえば当然の現実ではあるのだが、それゆえに—、それが現実を解明することの困難をもたらしているという点である。加えて、いずれの言説もそのような時空を経て構成されているものである以上、そのような世界の只中で紡ぎだされざるを得ないがために、自らが解析せんとする思想・イデオロギー・権力などの諸力に囚われてしまうことになる。そこから離脱して思考することの難しさがあるのだ。性・障害・病い・老い・宗教・民族・国家・思想などなどの問題をめぐって何がいかにして起こってきたのか/現に起こっているのか、それらをめぐって何がいかに語られてきたのか/現に語られているのかという事実を知った上でも、そのような根本的な困難は常に残ってしまうのだ。本報告書の「最大の意義」は、そうした事実を踏まえつつ私たちが何をいかに思考するかを様々な形で指し示してくれていることだ。そうであるがゆえに、当該テーマに関心を寄せる方々だけではなく、一人でも多くの方々に本報告書を手にとって熟読してほしいと切に願う。そこから私たちは考えていける。
 第二に、本報告書に収められた論文が主題とする内容は様々であり、取り上げている国だけ見ても日本・韓国・中国・フィリピン・スリランカ・カナダ・オランダ・EU・その他、など極めて多様である。そして、それらの主題に対する各執筆者の方法論も立脚する立場も当然ながら異なっている。だが、それらの現実が私たちの生きるこの時代=歴史において同時に起こっている/起こってきたという事実があり、更にはそれぞれに起こっている/起こってきた現実がお互いに絡み合いながら現出しているのである。むろん、私は「世界地図」を広げ眺めつつ、それぞれの空間でいかなる現実が起こっているのか/起こってきたのかを理解することが大切である云々といった「道徳的」なことを言いたいのではない。上述したような、私たちがこの世界に内属するゆえのこの世界を捉えることの困難と厄介さがあると同時に、現在起こっている現実それ自体を「全体(性)」として捉えなおし、組み替えていく作業が困難であることを言いたいのである。とりわけ、経済的にも政治的にも言語的にも宗教的にも思想的にも様々な形で組み入れられてきた歴史とその構造ゆえに、その現実—そこにはそれらの現実を「思考する」という「現実」も当然含むものだ—を組み替えようとすれば、それらの現実を惹起させている「全体(性)」を考えざるを得ないにもかかわらず、その「〈全体(性)〉の思考」さえも私たちの現実の只中にあるという困難があるのだ。だからそこでの「思考」と「解決」は極めて厄介なことにならざるを得ない。だが、本報告書は、私たちがその困難と厄介さを引き受けつつも、緻密かつ堅実に考えていく道筋があること、そこから幾重にも折り重なる形での解決のための戦略と方策があること、そのことを教えてくれている。私たちはここから考えていくことができるのだ。

 なお、本企画は立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点と、科学研究費補助金基盤研究B「潜在能力アプローチの定式化に基づく重層的な福祉システムの構想」(代表:後藤玲子)ならびに科学研究費補助金基盤研究B「多文化主義と社会的正義」(代表:Paul Dumouchel)との共催によって実現したものである。

 最後に、私たちが思考すべき/解決するための道筋を示した本企画のために多大なるご尽力をされたポール・デュルシェム氏と後藤玲子氏に、また本企画に参加してくださった報告者の方々、基調講演をしてくださった韓敬九氏、招待講演をしてくださった西川長夫氏にこの場を借りて厚くお礼を申し上げたい。本当にありがとうございました。