セクションⅢ:コンフリクト シオニスト運動と「アラブ問題」—「解決」としてのアラブ住民移送
1.シオニスト運動とアラブ住民移送構想
1880年代以降登場したシオニスト運動は、パレスチナにおけるユダヤ国家建設運動であり、その目的は、パレスチナに離散ユダヤ人を移住させ、居住地・耕作地という形で領域を確保し、ユダヤ民族から成る国家を「再興」させることだった(1)。19世紀後半、「シオニスト運動の父」テオドール・ヘルツェルは、「ユダヤ人問題」の合理的解決の手段として、シオニスト運動の呼びかけを行なった。しかしヘルツェルの後に続いたシオニスト運動の指導者たち(2)は、実際にパレスチナでの入植活動を進めるにあたって、新たな問題に直面した。それは、パレスチナに住むアラブ住民の存在である。
パレスチナに住むアラブ人の存在は、パレスチナの土地にユダヤ人が多数派となる領域を打ち立てようとするシオニストたちにとっては、対処すべき問題となった。パレスチナ人歴史学者たちは、この問題の解決としてシオニスト指導者たちが用いたのは、アラブ住民のパレスチナ外への「移送 ha-transfer」政策だったことを主張してきた。彼らの主張では、シオニスト指導者の構想・実行したアラブ住民移送は、パレスチナの先住民の組織的な追放を表す婉曲表現だったとされ[Khalidi 1988:8][Masalha 1992:1]、パレスチナ難民問題(3)に対するシオニスト運動の責任を問う姿勢を見せている。とりわけヌール・マサールハは、シオニスト運動の開始から1948年までのシオニスト指導者の思想史を分析し、シオニスト指導者たちは、目標達成のための不可欠な手段として、アラブ人移送構想を持ち続けてきたと論じた。
国連パレスチナ分割決議(1947年11月29日)、イスラエル独立宣言(1948年5月14日)とイギリス委任統治終了(5月15日)という時期の前後にかけて、約75万とも言われるパレスチナ難民が発生した。彼らが難民となった直接的原因は、1つの出来事に帰されるものではなく、時期・地域においてそれぞれだった。国連分割決議の直後は、イシューヴ(パレスチナのユダヤ人コミュニティ)との緊張の高まり、将来の先行きが不透明ななかでの退去・避難という形で、パレスチナを離れるものが大多数だった。しかし、1948年3月、シオニスト民兵によって組織的な軍事攻撃が開始されると、パレスチナ・アラブに対する強制的退去・追放が行なわれた[Morris 1987]。イラン・パペは、シオニスト指導者が1948年に実行したアラブ人の追放は、20世紀後半に犯罪カテゴリーとして誕生した「民族浄化」の現象と共通性を持つと主張し、パレスチナにおける住民移送を、ナショナリズムや民族自決の歴史とともに捉え直すという、挑戦的な議論を展開してきた[Pappe 2006]。
パペは、少なくとも1948年の出来事とそれ以降のイスラエルの対アラブ人政策に対しては、「民族浄化」政策、あるいはその思想によって説明しうるが、その視点からシオニスト運動の歴史を「還元主義的」に評価することには警鐘を鳴らしている。彼は「シオニスト指導者たちは、委任統治の期間を通して、他の解決を提示したし、その全てが移送に直接的に関係付けられていたわけではない。さらに何よりも、指導者たちは両義的な立場を示していた」[Pappe 2003]とし、シオニスト運動が目的達成のための手段として、絶えずアラブ人移送を第一の選択肢としていたというマサールハの主張の評価に疑義を呈した。実際、「バルフォア宣言」(1917年)によってシオニスト運動の要求がイギリスから承認された後も、パレスチナにおけるユダヤ住民の数はごくわずかであり、シオニスト指導者らにとっての喫緊の課題はアラブ社会の指導者との交渉であった。その際の交渉内容は、ユヤ移民受け入れと、土地購入の許可であり、アラブ人移送は第一の選択肢として挙げられてこなかった。シオニスト指導部が移送提案を行なうのは、1930年になって初めてであり、それもイギリスの承認を求める形においてだった。
しかしシオニスト運動の始めの段階で、アラブ人移送が公的には語られなかったとはいえ、パレスチナにおけるユダヤ国家の建設を目指すシオニスト運動の原則的な主張は、パレスチナの先住民の存在と矛盾するものである。このシオニスト運動とアラブ人移送の構想の複雑な関係性について、パペは次のように述べている。「〔パレスチナ人の〕追放は、シオニスト運動の原則的な目的ではなかったが、シオニストたちが〔パレスチナに〕存在することの避けられない帰結であったと言えるかもしれない」[Pappe 2003]。
本稿では、シオニスト運動の移送構想を取り上げ、シオニスト指導者たちのパレスチナ・アラブに対する姿勢を追いながら、とりわけシオニストたちとパレスチナ・アラブの対立が深刻化した1930年代後半に焦点を当てる。なかでも、1936年4月から始まった「アラブ暴動」(4)と、その後イギリス王立調査委員会から出された報告書におけるパレスチナ分割提案が、シオニストの移送構想をどのような論理で後押ししたのかを論じていく。
2.シオニスト運動と「アラブ問題」
19世紀後半から20世紀始め、シオニスト指導者たちは、エレツ・イスラエル(ヘブライ語で「イスラエルの土地」、すなわちパレスチナ)(5)への入植活動を開始した。今日のイスラエル社会の言説では、エレツ・イスラエルへのユダヤ人の移住は、「アリヤー」(ヘブライ語で「登ること」)という語で表される(6)。しかし1880年代に始まった、東欧・ロシアのユダヤ人移民からなる「第1派アリヤー」は、宗教的な動機に裏づけされた個別的な運動という性格のほうが強い(7)。本格的なイシューヴ(パレスチナのユダヤ人コミュニティ)建設に着手したのは、第2波アリヤーであった。彼らも大多数は東欧・ロシアの出身であったが、多くは社会主義思想の影響をより強く受けていた。組織的移住、土地購入、キブーツなどの入植地建設という活動のなかで、「ヘブライの労働」という概念を強調し、ユダヤ人の労働力によって成り立つ自立的な社会経済構造の建設を目指した。
この新しい形態の入植活動は、パレスチナ・アラブからの土地購入という「合法的」手段によってであった。しかし、当時のパレスチナの土地所有・利用において、公式に登録された土地所有者と、実際の耕作者が一致しないという現象は極めて多く見られた。シオニスト入植者たちに土地を売却したものの多くはレバノン、シリアに住む「不在地主」たちだった。そのため、実際にパレスチナで耕作していたパレスチナ・アラブたちは、土地を失う形となった(8)。
当時のパレスチナ・アラブのシオニスト活動に対する反応には、さまざまな議論がある。従来の研究では、バルフォア宣言以前のパレスチナ・アラブは、シオニストの目的を明確には把握しておらず、ユダヤ人入植地に対する反発も広がりを持たなかったとの評価が多い(9)。しかしR.ハーリディによれば、シオニスト運動に対するパレスチナ・アラブの反感は、第2波アリヤー以降のシオニストの入植活動によって土地を失った農民の間に着実に広がり、青年トルコ革命(1908年)以降顕在化していたとされる[R.Khalidi 1997:94-6]。1909年には、シオニストたちがとりわけ集中的に土地購入を行なったガリラヤ近郊で、シオニストが1899年に購入していた土地に対してパレスチナ・アラブ農民が権利主張を行い、3名のシオニストに危害を加える事件も起こった[Mandel 1976: 67-68](10)。青年トルコ革命以降メディアに対する検閲が停止されたことで、シオニストたちとの衝突事件が新聞などの媒体を通して伝えられ、シオニストたちへの反感が広まっていった。このシオニストへの反発は、パレスチナ・アラブの集合的アイデンティティ形成において、重要な要素の一つとなった[Khalidi 1997:89-117]。
こうした例は、シオニスト運動の「民なき土地に土地なき民を」という有名なスローガンに反し、パレスチナでの入植活動を進めていく上で、シオニストたちはパレスチナに住む先住民のアラブ人との衝突を経験していたことを示している。その結果、シオニスト指導者らは、アラブ住民の存在を、ユダヤ人国家建国というシオニスト運動の目標のために考慮せざるを得ない「アラブ問題 ha-beayah ha-arabit/ha-sheelah ha arabit」[Caplan 1978][Shapira 1992:40-52]となった。
注意すべきなのは、シオニスト指導者たちが「アラブ問題」において想定している対象は、「アラブ人」であり、「パレスチナ・アラブ」ではなかった点である。シオニスト指導者らはパレスチナ・アラブの「独自のアイデンティティや、パレスチナ・ナショナリズムとして映るものすべてを否定」し、パレスチナにおけるアラブ問題の解決を「パレスチナ外部にある、アラブ諸国のより広い枠組みのなか」[Masalha 1992:17]に求める傾向があった。つまり、シオニスト指導者たちの議論では、パレスチナ・アラブは単にパレスチナに居住している「アラブ人」としてしか想定されなかったのであり、パレスチナ・アラブは自律的な集合体として取り扱われなかったのである。例えば1929年、ベングリオンは次のように述べている。「ユダヤ人のエルサレムに対する考え方と、アラブ人のそれとは同じものではない。アラブ人はより広い土地に住んでいるのだから」[Teveth 1985:39]。これは、パレスチナ・アラブをより広いアラブ世界に属する存在として扱うことで、彼らとパレスチナの土地との歴史的なつながりや愛着を否定しようとする論理である。この論理によって、シオニスト指導者たちが示したのは、パレスチナ・アラブたちは偶然その土地に住んでいただけであって、他のアラブ地域への移動は彼らにとっての障害ではない、という結論であり、これがパレスチナのその後のアラブ人住民移送についての議論を正当化する理由として用いられていった(11)。
3.「1936年暴動」とピール委員会分割提案
イギリス政府が、パレスチナにおけるユダヤ国家の建設を望むシオニストたちの要望に対して初めて肯定的な姿勢を示したのは、バルフォア宣言(1917年)においてであった。しかし、そこでは1つの条件が付けられていた。その条件は「パレスチナの非ユダヤ人・コミュニティの宗教的・政治的権利が損なわれない」限りにおいて、ユダヤ・ナショナル・ホームの建設を認める、というものだった。当初、シオニスト指導者は、この条件を満たす形でのユダヤ国家設立のための交渉の道を探るが、パレスチナ・アラブの自律性を否定しようとするシオニスト指導者にとって、直接の交渉相手はパレスチナ・アラブではなく、アラブ諸国家の指導者たちであった。
バルフォア宣言直後、シオニスト運動の指導的メンバーの一人ハイーム・ワイツマンが交渉を試みたのは、メッカのシャイフ、ファイサルとの間においてであった。パレスチナ・アラブのイシューヴへの反発が高まるなかで成立した「ワイツマン・ファイサル合意」(1919年)(12)では、ファイサルはバルフォア宣言の履行と大規模なユダヤ移民の受け入れを支持しつつ、パレスチナ・アラブ農民の権利保護と経済発展のための措置を条件付けた。シリア国王を宣言したファイサルがフランスによって追放され、パレスチナに対する発言権が弱まった後も、シオニストはアラブ諸国の指導者との交渉を試みてきた。
バルフォア宣言以降の主流派シオニスト指導者たちの「アラブ問題」に対する態度は、実に曖昧なものだった。1920年代、イシューヴの各政党の間では「政党のマニフェストや公約において、アラブ問題への言及を避ける」点においての合意が存在した[Teveth 1985:114]。これは、当時のシオニスト指導者たちの間に、委任統治がしばらく継続し、その間にイギリスの保護のもとでユダヤ国家の建設を行なうことが出来るという想定があったためである。事実、マパイ自身もユダヤ国家の最終目標を、公的には提示して来なかった。シオニスト指導者たちはむしろ、アラブ人指導者との交渉の過程のなかで、それぞれの姿勢を決定していったと言える(13)。
パレスチナ・アラブのナショナリズムが存在しない、と考える点においては共通理解があったとしても、シオニスト指導者たちのアラブ人のナショナリズムに対する態度は3つに別れていた。まず、第1のグループは、ユダヤ・ナショナル・ホームへの反発は、アラブのナショナリズムに基づくものではないという考えがあった。第2のグループは、第1のものとも関わりがあるが、アラブ人が、シオニスト事業がもたらす経済的恩恵に気づけば、反発は弱まると考えていた。第3のグループは、ユダヤ人側の人口・経済における成長によって、アラブ人はユダヤ人がパレスチナに存在することを事実として受け入れざるを得なくなると想定した。この第3のグループの考え方は、パレスチナにおいて「ユダヤ国家」に向けての領域を既成事実化するための実力行使を主張するものであったが、1929年の「嘆きの壁事件」以降、パレスチナ・アラブの反発がより強くなるなかで、シオニスト指導者たちは、徐々にこの考え方へと傾いていった。[Haim 1976:2-14]
1929年に起こった「嘆きの壁事件」は、パレスチナ・アラブとユダヤ人の衝突のなかでも、とりわけ深刻な事件であった。この年の8月、エルサレムのユダヤ教の聖地、「嘆きの壁」(その真上にはイスラーム第三の聖地、ハラム・アッ=シャリーフがある)で、シオニスト運動右派の修正主義者たちが行なったデモに端を発し、パレスチナ各地で衝突が起こり、ユダヤ人側には133名の死者、339名の負傷者、アラブ人側には116名の死者、232名の負傷者が出た。この事件を発端に、各地でパレスチナ・アラブとイシューヴとの衝突が起こったことによって、翌月イギリス政府はシャウ調査委員会を指名し、原因究明に当たった。
1930年1月、シャウ委員会の調査報告が提出される以前、シオニスト機構およびユダヤ機関の長官ワイツマンが、委員会に対する意見陳述を行なった。そこでワイツマンが提起したのが、アラブ住民のトランスヨルダンへの移送であった。このときが、イギリスに対してシオニスト指導部が正式に移送を提案した最初であった[Masalha 1992:33]。イギリス役人との強いコネクションを持つワイツマンは、シャウ委員会だけでなく、本国イギリスの植民省とも交渉を行ったが、最終的にはこの機会において移送案がイギリスから承認を得ることはなかった。シャウ委員会報告書にもあるとおり、この時期のイギリス政府は、シオニストの土地購入の結果として土地を失ったパレスチナ・アラブの不満が、暴動の直接の要因であると考えた。そのため、移送のための財政コストとともに、アラブ人の反発を考慮して、ワイツマンの提案を拒否したのだった[Gorny 1983:71-85]。
以降も、シオニスト指導者らの間で議論が続いたが、イシューヴの最高指導者ベングリオン自身がシオニスト運動内の会議体以外の場で、最初に住民移送について議論したのは、1934年8月のことだった[森 2002:183]。ベングリオンはここで、パレスチナ・アラブのなかでも指導的立場にあったムーサ・アル=アラミーと会談を行い、ユダヤ人の移民受け入れ・土地購入に関する承認を求めた[Haim 1976:104-5]。このベングリオンの態度変化の背景には、ドイツからのユダヤ人移民の急増(14)によって、ユダヤ国家建設の可能性が具体的に見えたためだった。
このユダヤ人移民の急増は、1936年のパレスチナ・アラブの「暴動」の背景でもあった。1936年4月15日、パレスチナ・アラブがトゥルカレム−ナーブルスを結ぶ道路を封鎖し、ユダヤ人通行人に対して発砲したことによって2名が死亡したことを皮切りに、その後の数日間に各地で衝突が起きた。早くも4月20日には、ナーブルス、ジャッファなどの都市のアラブ民族主義者たちがそれぞれに「民族委員会」を召集し、ゼネストの呼びかけを行なった。翌21日には、各地のゼネストの呼びかけに対して、パレスチナ・アラブの主要政党からの支持声明が出された。これらの政党が4月25日に設立した民族委員会執行部は、その後のアラブ高等委員会(Arab Higher Committee、以下「AHC」)の母体となった。この一連の出来事から分かるとおり、このゼネストはパレスチナ・アラブの政治的エリートによって煽動されたのというよりも、大衆的な性格を持つものだったといえる(15)。[Haim 1976:112-4]
このゼネストを見たイギリス政府は、5月19日、「嘆きの壁事件」の際と同様に、王立調査委員会の立ち上げを決定した。ピール卿を始めとする委員会メンバーの指名は8月に行われたが、パレスチナでの情勢が依然として不安定であったため、実際のパレスチナ入りは11月となり、調査は翌年1月まで行われた。委員会は、調査の際、両社会の代表による意見陳述を求めたが、AHCは当初からピール委員会に対する協力を拒否し、意見陳述を行わない旨を宣言していた[Royal Commission Report 1937:x]。一方、シオニスト側の代表者らは、委員会設立決定が下された当初から、その対応を集中的に議論し始めた[Galnoor 1995:55]。
報告書において、委員会が定義した「暴動」の性格は、「アラブ・ナショナリズムとユダヤ・ナショナリズムとの間の対立の結果」[Royal Commission Report 1937:2]とされた。しかし報告書では、パレスチナ・アラブ社会とイシューヴは、対等なものとしては扱われず、アラブ人社会が後進的な社会であるという点が強調された[Ibid. 6]。そのため、バルフォア宣言において示されたユダヤ人のナショナル・ホーム建設も、アラブ人にとっての経済的利益につながる肯定的なものだと評価された[Ibid. 119]。パレスチナ・アラブにとって、第2波アリヤー以降のシオニストたちの土地購入によって、多くの人々が土地を失ったのに対し、都市における産業発展や政府の公共事業(道路、橋建設)によって、土地のないアラブへの雇用の門戸が開かれ、結果的にはパレスチナ・アラブ農民の生活水準が向上したとの見解を示した[Ibid. 127-28]。
この委員会の見解をまとめると、ユダヤ人移民の流入によって、生活水準が向上したにも関わらず、アラブ人がユダヤ人に対する反発をますます強めている、ということになる。報告書は、この事態について、アラブ人のナショナリズムは彼ら自身の経済状況の悪化を背景にしたものではなく、エリート層によって煽動された、イデオロギー的な性格を持ったものだと説明した。実際、委員会が述べているアラブ・ナショナリズムの高揚の背景は、出版メディア(特に新聞)、教育といった内的要因、エジプト・シリアにおける民族運動からの影響という外的要因に求められていた[Ibid 132-135]。つまり、委員会に理解では、パレスチナにおいて見られるアラブ人のナショナリズムは、困難な経済状況が生み出した大衆的な性格を含む運動であるよりも、メディアや教育、国外からの影響という、媒体を通した性格が強いものとされた。このことは、この暴動について、その責任をAHC執行部メンバーに帰する姿勢からもうかがえる[Ibid. 178-9]。
パレスチナ・アラブのナショナリズムの高揚に直面し、委員会は報告書の結論において、ユダヤ・ナショナル・ホームに対する展望は暗いと言わざるを得なくなった。そこで提案されたのはパレスチナの土地の分割であり、委員会はこれを「問題の根源に対処する上で、我々が提案しうる唯一の方法」[Ibid. 380]だとした。この提案の内容は、トランスヨルダン政府、パレスチナのアラブ住民の代表、そしてシオニスト機構との条約システムによって成り立つもので、トランスヨルダンに統合されたアラブ国家(南東)、ユダヤ国家(北西)の独立を承認し、エルサレム−ベツレヘム地域、ハイファ、アッコー、ナザレ、ティベリア、サファドなどの地域をイギリス支配の下に置く、というものだった。
しかし分割案における境界線では、ユダヤ人国家には225,000人のアラブ人、アラブ人国家には1,250人のユダヤ人(16)が居住することが予想された。この点について報告書は、近年ヨーロッパやアジアで顕在化している「マイノリティ問題」との関連において位置づけた。委員会はこの「マイノリティ問題」を「戦後(第一次世界大戦後——引用者)のナショナリズムにおいて、最も厄介で手に負えない問題」だとし、この問題への対処として、ユダヤ国家とアラブ国家設立後、政府間合意に基づいて土地と住民を交換することを提案した。ここで委員会が先例として言及したのが、ギリシア・トルコの住民交換の例であった[Ibid. 389-90]。
ギリシア・トルコの住民交換は、「ギリシアとトルコの住民交換に関する議定書」(1923年)に基づくもので、ギリシア・トルコ間の戦争後、ローザンヌ条約に付随する形で両国の間で締結された和平条約だった。ここではトルコ領に住むギリシア正教徒130万人以上と、ギリシア領の40万人以上のトルコ人が両国の同意によって交換された。しかし、両国政府の合意に基づく交換とは、実際の住民にとっては政府からの強制であった。そしてピール報告書においても同様に、条約では必要な際の強制的な住民移送の可能性にも言及するよう提案された[Ibid. 391]。
このピール委員会分割提案は、シオニスト指導者らのアラブ住民移送構想に対する画期だったと言える。それは、「住民交換」という形で、住民移送を正当化する国際的なコンセンサスのなかに、アラブ住民移送を位置付けたためだった。委員会が言及した「マイノリティ問題」とは、第1次世界大戦後の同盟国の帝国体制の崩壊によって、少数民族が独立国家建設を承認されたなかで起こった境界線の決定に伴って生じた問題だった。第一次大戦後のヴェルサイユ条約は、「民族自決」を旧帝国内の少数民族の権利として原則化し、民族という「文化的単位」と、国家という「政治的単位」を一致させる形でのナショナリズム運動[ゲルナー2000:1]の論理に立脚したものだった。この過程に位置づくギリシア・トルコ間の住民移送は、「民族自決原則と現実の国境線との不整合が生み出した少数民族問題の処方箋」として実に有効な手段と評価されてきたが、委員会提案はパレスチナの事例における「アラブ人移送」も、この処方箋に準じる形で正当化したのだった[森2002 : 181-2]。
早くも1937年2月には、シオニスト指導者たちは、委員会の最終決定において分割が提案されることを認識し始めていた。この時期、彼らはまだ分割案の詳細を把握していなかったが、分割の是非について、集中的に議論を始めた。シオニスト指導者の中心メンバーは、分割案の詳細が最大限シオニスト側に利のある形となるよう、ロンドンでのロビー活動を行なう一方、イシューヴで修正主義者などの分割案反対派のシオニストたちとの議論を行なった。[Haim 1976:385-6]
とりわけ1937年8月の第20回シオニスト会議では、分割の受け入れの是非を巡って議論が紛糾した。それは、シオニスト指導者たちの予期せぬ内容が報告書に組み込まれていたため、事態が複雑になったことにも起因している[Rose 1973:137-8]。彼らは、報告書において分割が提案されることは以前から把握していたが、そのなかでは、イシューヴの土地購入と、移民数に対して制限が課されていた[Royal Commission Report 1937:306-7]。移民・土地購入制限という条件についての議論を戦わせた結果、シオニスト会議において、「シオニスト会議は、ピール委員会が提出した分割案は受け入れられないものと考えているが、執行部に対しては、ユダヤ人国家建設提案に対するイギリス政府のはっきりとした態度を確認するために、交渉を始める権限を与える」という声明が出された[Haim 1976:426]
ピール委員会の提案は、パレスチナ全土ではなくその一部においてではあったが、ユダヤ国家建設に正当性を与えたものだった。しかし、ベングリオンを始めとしたシオニスト指導者たちは、この提案を「受け入れられないもの」としたシオニスト会議での声明に賛成票を投じた。このシオニスト指導者たちの判断の背景には、分割反対派を押し切る形で委員会提案を支持した結果としてシオニスト運動内に分断が生じることを避けたい、という政治的な事情があった。[Haim 1976:428]。シオニスト会議における決議に対するベングリオンの政治的判断については、同じ8月に開催されたポアレイ・ツィオン世界大会での彼の発言からも読み取ることができる。この大会でベングリオンは、以下のように移送を道徳的に正当化する演説を行い、それに対してシオニスト主流派の間のコンセンサスが形成された。
追放と移送の深く根本的な違いを説明する必要はないと私には思われる。今までも我々はある場所から別の場所へと住民を移す事によってその地に於ける我々の入植を行なってきたのである。・・・・・・移送は今までは委任統治領内部で行なわれた。王立委員会〔ピール委員会〕の移送提案における根本的相違は、移送がより広範にユダヤ地域からアラブ地域へと行なわれるという事である。イギリス委任統治領内のある村から別の村へアラブ人を移送する事が可能であるとしたら、彼らをユダヤ人支配地域からアラブ人支配地域へ移送することに反対する政治的・道徳的論拠を見出す事は難しい。[森 2002:200]
1937年11月以降からは、上に述べたコンセンサスをもとに「住民移送委員会」が設立され、移送構想の具体化ための議論が始まったが、それとは相反して、イギリスのパレスチナ問題に対する態度は、1938年11月以降、急激に分割提案の撤回の方向に傾いていった(17)。これは1937年から38年にかけて、ヨーロッパでの戦況が次第に深刻化していくにしたがって、イギリスがアラブ諸国の支援をより必要としたことによるものだった。シオニスト指導者たちは、この事態に対し、国家建設は戦争終了までの間の「延長」だとの理解を示しながら、移送議論を進めていくこととなった[Masalha 1992:126]。
以上のことから、シオニスト運動における「アラブ問題」に対する「解決」において、ピール委員会提案の分割案は、シオニスト指導者をアラブ住民移送という選択肢に傾かせる結果となったということができる。移送を正当化するシオニスト指導者たちの間の議論の基礎は、パレスチナ・アラブの社会を、土地に根ざしたナショナリズムによって捉えるのではなく、より大きなアラブ社会の一部として理解することだった。ピール委員会の提案は、第1次世界大戦以降の少数民族の「民族自決」の論理に立脚して、パレスチナの分割と住民移送を正当化したが、このことはシオニスト運動に、国家建設の可能性を具体的に認識させるに至った。その時点において、シオニスト運動の目的にとっての「避けられない帰結」としてのアラブ住民移送が具体的に議論され始めたのだった。
注
(1)もちろん、シオニスト運動は生成当初より内部に様々な分裂を抱えていた。しかし、各グループにおいて、原則的な一致が見られた点として、ゴルニーは次の4点を挙げている。①歴史的祖国パレスチナにおけるユダヤ人領域の集中への願望、②パレスチナにおけるユダヤ人の多数派性の獲得への願望、③ユダヤ人大衆の生産能力を向上させ、ユダヤ人労働力のみを雇用し、自律的な社会を創出すること、④民族再生のためのヘブライ文化の復興[Gorny 1987:2-3]。
(2)本稿で主に言及するシオニストたちは、シオニスト運動の主流派を形成した労働シオニストたちである。非主流派グループには、修正主義政党、二民族主義者グループのブリット・シャローム、二民族主義・社会主義グループのハ=ショメル・ハ=ツァイールなどがあった。
(3)「オスロ合意」(1993年)以降のイスラエル政府とパレスチナ人との間の和平交渉では、パレスチナ難民問題は具体的な議論が先送りにされ続けている困難な課題の一つとなっている 。現在、西岸・ガザ内外のパレスチナ難民数は約400万人以上にものぼり、彼らの帰還・土地と財産補償に対して、「ユダヤ国家」という原理を掲げるイスラエル国家が、どう対応するのかについての議論は、平行線をたどっている。
(4)1936年4月、パレスチナ・アラブによるゼネストが始まり、その後暴力を伴う形に発展し、イギリスおよびイシューヴとの衝突が1939年まで続いた。この出来事に対しては、「暴動 Disturbance」という表記と、「大反乱 Revolt」という2つの表記が存在する。ここではピール委員会報告書が用いた「暴動」という語を使用する。
(5)本稿で用いる「エレツ・イスラエル」「パレスチナ」という地域名は、委任統治国イギリスが1922年に確定した区域、つまりトランスヨルダンとは切り離された区域を指す。
(6)イシューヴの最高権力者で初代首相ダヴィッド・ベングリオン、労働シオニスト精神的指導者ベール・カツェネルソン、その他イツハク・ベン・ツヴィ、モシェ・シャレット(後のシェルトク)、レヴィ・エシュコルなど、最も有力なシオニスト指導者らも、この時期に移住を行なった[Gorny 1987:13]。
(7) シオニズム運動の歴史記述において、アリヤーは第1波(1882-1903)、第2波(1904-1914)、第3波(1919-1923)、第4波(1924-1931)、第5波(1932-1945あるいは1948)の5つに区分される。イスラエルの歴史研究の多くにおいて、エレツ・イスラエルへの移住者全てをアリヤーと呼び表すことで、移住者の動機をシオニズムと関わりにおいて扱う傾向があることに対しての批判もある[Kimmerling 1995]。
(8)19世紀後半以降、東地中海地方の経済・社会構造は著しく変化した。この変化の背景には、3つの要因があると考えられる。1つ目はクリミア戦争以降、ヨーロッパ列強のオスマン帝国領への進出が加速したこと、2つ目は、先の要員の結果として、東地中海地方が徐々に世界経済に組み込まれていったこと[Owen 1982]、3つ目は1830年代から1876年までのオスマン帝国の近代化改革・タンズィマートのなかでの土地制度変革(1858年)である。とくに3つ目の要因によって、それはで原則的には国有地であった帝国内の土地に対して私有を認める方針へと転換した。[R.Khalidi 1997:94-5]。
(9)これらの議論は[Mandel 1976:xviii]が紹介している。
(10)こうしたパレスチナ・アラブとの緊張関係のなかで、1909年にはシオニストの自衛組織「ハ=ショメル(警護者)」が設立された[Bein 1952:44]。
(11)こうした見方は、現在のイスラエル歴史学者の間にも根強く、アラブ人移送の正当化にも使われてきた。1948年のイスラエル「独立戦争」の際のシオニスト軍の暴力行為を記述するという、イスラエルにおいては革新的な作業を行なったモリスも、同様の見方を示している。「少なくとも、1920年代あるいは1930年代に遡れば、パレスチナのアラブ人たちは、確固たる「民族people」として自分たちを見ていなかったし、他のものたちからもそのようには見なされていなかった。彼らは「アラブ人」として、あるいはより具体的に言うなら、「南シリアのアラブ人」として見なされていた。それゆえ、彼らをナーブルスやヘブロンからトランスヨルダン、シリア、そしてイラクへすらも移送することは—とりわけ適切な補償が受けられるならば—故郷homelandからの追放と同義ではないだろう。」[Morris 2004 : 42]
これに対し、R.ハーリディは[R.Khalidi 1997]は、シオニズム以前のパレスチナ・アラブとパレスチナの土地とのつながり、またオスマン帝国崩壊以降、「南シリア」の一部としてのパレスチナ構想と、パレスチナ固有のアイデンティティ形成の関係性について議論している。
(12)この交渉の様子については、[Stein 1961:623-47]を参照。
(13)ベングリオンの思想を社会主義との関係から論じた森は、彼の思想の中心は、少なくとも1930年代までは「労働者階級の団結を通じてユダヤ人とアラブ人の和解を図ろうとする社会主義理念」[森 2002 : 227]だったと説明している。
(14)図1参照。
(15)このゼネストは、10月12日にAHCから終了宣言が出されるまで続いたが、 ゼネスト開始の1ヵ月後からは、委任統治政府に対するパレスチナ・アラブの武装反乱という性格も加わった[Haim 1976:201]。その背景には、5月18日に委任統治政府の高等委員が以降6ヶ月間で4,500人のユダヤ人移民を受け入れることを承認したことが挙げられる。
(16)分割案でイギリス支配下となっていた地域にはユダヤ人125,000人、アラブ人85,000人が居住していた。
(17)1939年、イギリス政府は「マクドナルド白書」を出し、パレスチナ・アラブの土地所有権の保護(土地売却規正法)を1年後に施行することを打ち出し、更にユダヤ人移民制限と「非合法移民」の取り締まりを決定した。「白書」では、アラブ独立国家建設が宣言された一方、イシューヴに対しては以降の5年間の移民数を7万5千人に制限した。これに対して修正主義政党は強く反発し「非合法移民船(マアピリーム)」を組織した。委任統治政府はこれらの「非合法移民(ハアパラー)」を取り締まり、パレスチナのアトリートやキプロスなどに設けた収容キャンプに送った。
参考文献
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ユダヤ機関公式統計に基づく移民数(滞留許可を受けた旅行者、「非合法移民」含む)
出典:New Encyclopedia of Zionism and Israel 1994:53
年度 | 合計 | 登録された移民 | 「非合法」移民 |
---|---|---|---|
1919 | 1,806 | 1,806 | —— |
1920 | 8,223 | 8,223 | —— |
1921 | 8,294 | 8,294 | —— |
1922 | 8,685 | 8,685 | —— |
1923 | 8,175 | 8,175 | —— |
1924 | 13,892 | 13,892 | —— |
1925 | 34,386 | 34,386 | —— |
1926 | 13,855 | 13,855 | —— |
1927 | 3,034 | 3,034 | —— |
1928 | 2,178 | 2,178 | —— |
1929 | 5,249 | 5,249 | —— |
1930 | 4,944 | 4,944 | —— |
1931 | 4,075 | 4,075 | —— |
1932 | 9,553 | 9,553 | —— |
1933 | 30,327 | 30,327 | —— |
1934 | 42,359 | 42,359 | —— |
1935 | 61,854 | 61,854 | —— |
1936 | 29,727 | 29,727 | —— |
1937 | 10,536 | 10,536 | —— |
1938 | 12,868 | 12,868 | —— |
1939 | 27,561 | 16,405 | 11,156 |
1940 | 8,398 | 4,547 | 3,851 |
1941 | 5,886 | 3,647 | 2,239 |
1942 | 3,733 | 2,194 | 1,539 |
1943 | 8,507 | 8,507 | —— |
1944 | 14,464 | 14,464 | —— |
1945 | 13,121 | 12,751 | 370 |
1946 | 17,760 | 7,850 | 9,910 |
1947 | 21,542 | 7,290 | 14,252 |
1948.5.14 | 21,665 | 17,165 | 4,500 |
総計 | 456,657 | 408,840 | 47,817 |