障害者運動における労働観 ―「働くことができない人/できる人」のズレ

ポスターセッション

障害者運動における労働観
―「働くことができない人/できる人」のズレ

寺前晏治(立命館大学先端総合学術研究科院生)

1.報告の趣旨

本報告においては、全国障害者解放運動連絡会議(以下、全障連)の1976年の活動を対象として障害者運動が障害者の「自立」を志向する過程において根底におかれていた労働観がいかに能力主義と抵抗し、その結果マルクス主義における「労働」概念を用いることとなった過程とその限界を明らかにする。
全障連とは障害をもつ当事者を中心として1976年に結成された運動団体である。全障連の結成の過程に関しては立岩(1990)に詳しい。

七四年、大阪の第八養護学校建設に反対して関西青い芝の会連合会と関西「障害者」解放委員会が共闘したのを契機に、この二団体と八木下浩一が全国的な組織の必要性を訴えるよびかけ文を配布する。七四年「二月に全国代表者会議を開き準備会発足を決定、全国代表幹事に横塚、事務局長に楠敏雄を選出、七五年に七回の全国幹事会を開き、七六年八月の結成大会をもって正式に発足する。各地域ブロックの連合体として構成され、各々が役員組織、事務局をもつ。と同時に、毎年夏に各ブロックの持ち回りで開催される全国(交流)大会で全国役員、事務局長が選出される。その活動は、機関紙、全国大会の報告集等によって知ることができる(立岩[1990:187])

この団体における運動上のキータームは「自立と解放」である。それは1976年の結成大会での「1.全障連はすべての障害者差別を糾弾し、障害者の自立と解放のために戦う」という結成大会宣言からも明らかである。このように全障連が仮想敵として措定しているのは、第一には障害者差別、第二に優性思想となっている。それでは全障連はいかにそれらの仮想敵と戦い、障害者の「自立と解放」をどのように目指していくのだろうか。そこで全障連の戦術の理論的な基礎を提出したのがマルクス主義なのであった。

2.対象と方法

本報告は全障連の活動の展開を記述することで障害者運動のマルクス主義との結びつきを明らかにする試みである。全障連に関する先行研究は極めて少数に留まる。高木博史(2003)においては、「発達保障」という概念を中心として戦後の障害者による社会運動の発展が記述されている。また榊原賢二郎(2014)では、障害児教育における「排除と包摂」を考察するための一つの事例として1976年以降の全障連の活動の一部である「養護学校義務化阻止闘争」への言及がなされている。しかしながら、これらの先行研究は全障連を(一部)対象としながらも、その運動において主眼とされている「自立と解放」という目標、目標達成のための戦術およびマルクス主義的なイデオロギーを持った政治闘争的な側面を軽視している。それゆえに、本報告の意義としては従来焦点が当てられてこなかった全障連の側面に着目することでその運動の新たな意義を見出し、連綿と続く障害者運動の初期の形態として全障連を新たに位置づけることが可能となる点にある。
研究対象としては、1976年および1977年の「全障連結成大会」と「全障連第2回交流大会」に限定する。資料は『全障連結成大会報告集 1976年8月8日〜10日/於・大阪市立大学』、『全障連結成大会 基調報告(案) 資料集』、『全障連 第2回交流大会 分科会レポート集』、『全障連第2回交流大会 基調報告(案)』を用いる。1976年から1977年の全障連の活動に対象を限定するのは、この2年間に「日本脳性マヒ者協会全青い芝の会」(以下、青い芝の会)が全障連に参加しており、1978年以降は意見の相違により「青い芝の会」が脱退するからである。「青い芝の会」とは、先述のように全障連の結成の中心に位置し、初期の全障連の大会においても同様に中心的な存在であった。「青い芝の会」は、「重度障害者」を中心として組織されている。すなわち、全障連は「重度障害者」から「軽度障害者」まで自らの障害の程度が異なる人々によって組織されていたのであった。したがって、障害の度合いによって自らがおかれている状況―具体的には、働くことができるか/できないか、自らの生活においてどれほど他者からの介助を必要とするかなどもおのずと異なり、それによって運動の方針に関しても差異が生じてくるのである。そのため初期の全障連の大会には度々意見の対立がみうけられる。本報告ではその点を重視することで、「軽度障害者」と「重度障害者」の自らの立場性に関する位置づけを明確する。さらに、マルクス主義的な色彩が濃くなる「労働」部会を中心として全障連の活動を記述することとする。

3.理論的視座

本報告では理論的視座として疎外論を用いる。マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において次のように疎外を定義する。

人間たちが自然成長的な社会にいるかぎり、したがって、特殊的利害と共同的利害とのあいだの分裂が存在するかぎり、活動が自由意志的にではなく自然成長的に分割されているかぎり、人間自身の行為が、彼にとって、疎遠な対立する力となり、彼がこの力を支配するのではなく、この力が彼を抑えつけるということである(Marx and Engels [1845]1932=[1974]2002: 29)

ここでは、分業による諸個人の活動の細分化の結果として個人的・特殊的利害と共同的利害の間で対立が起こり、その結果が疎外という状態なのであるとされる。疎外状態としての定義はフォイエルバッハと同様であるが、その過程において両者は異なるのである。
また、疎外状態の前提条件として労働を媒介とした排他的活動領域の成立過程をマルクスは史的唯物論と呼ぶ。
現実に活動している人間たちから出発し、そして彼らの現実的な生活過程から、この生活過程のイデオロギー的な反映や反響の展開も叙述される。人間の頭脳における茫漠とした像ですら、彼らの物質的な、経験的に確定できる、そして物質的な諸前提と結びついている、生活過程の昇華物なのである。道徳、宗教、形而上学、その他のイデオロギーおよびそれに照応する意識諸形態は、こうなれば、もはや自立性という仮象を保てなくなる。これらのものが歴史をもつのではない、つまり、これらものが発展をもつのではない。むしろ自分たちの物質的な生産と物質的な交通を発展させていく人間たちが、こうした自分たちの現実と一緒に、自らの思考や思考の産物をも変化させていくのである(Marx and Engels [1845]1932=[1974]2002)

すなわち、意識が先立って物質を規定するのではなく物質(ここにおいては生産)が先行する形で意識を規定しているのである。生産活動が自然発生的であるために人間はあたかも外部に強制力が自存しているかのごとく、拘束され支配下に置かれることになる。
疎外は人間の意識から独立した形態をとることを特徴とする。これは疎外を経験する人びとによって主観的に規定される‐できるものではないのである。その本質は疎外状態にある人々の意識の中には存在せず、資本主義的産業組織という客観的条件に、あるいは人間が外的な自然にはたらきかける「労働」そのものから疎外された状態にこそ存在する。
『経済・哲学草稿』においてマルクスは疎外を四つの形態に分類する。(1)労働生産物または自然からの疎外、(2)労働からの疎外、(3)類的本質からの疎外、(4)人間の人間からの疎外、である(Marx and Engels 1843-45→1932=1964)。ここで明らかとなるのは、疎外論の射程が賃労働者のみならず、その外部にも広がりをもつものであるということだ。松井暁(2010)の議論では賃労働者の外部へと置かれる人々が疎外論においていかなる位置づけがなされている。
疎外論の持つ可能性としてマルクスの疎外論に対する評価としては、あくまでも資本主義国家における労働という経済的な特殊カテゴリーでの議論であり、その外部に置かれた人々―女性、障害者、犯罪者、ルンペンプロレタリアートへは目を向けていないとの批判がなされてきた。しかし松井(2010)は、次の二点を指摘し、疎外論の持つ「幅」の広さを明らかにしている。
第一には、「疎外論は資本主義社会における賃労働者のみを対象とした理論ではない」という点だ。松井は「労働の疎外が集中的に現れるのが賃労働者であることは確かである」としながらも、マルクスは「自己労働に基づく所有という原則」を否定し、それ自体が「疎外された論理」であると指摘した点に焦点を当てる。すなわち、労働した者がその成果物を所有するというロック以来の所有原理がここでは批判されているのである。それと対置する形で措定された原理が「必要に応じた分配」という原理であった。そこでは労働したか否かは分配の基準として適切ではなく、「労働に携わらない者も含めすべて分配の対象となる」(松井 2010)のである。この点を松井(2010)は「マルクスが追求したのは労働と分配のリンクを断ち切ることで」あったとしている。加えて、分業と私的所有に基礎を置く商品交換が経済の根幹をなす資本主義社会ないしは商品経済においては、諸人間個人間の関係性は「商品交換の規範によって律せられ、本来は協同的存在である人間を分断と競争の関係へと投げ込む」。それによって疎外状態へと陥るのは、賃労働者のみではないことはもはや明白である。賃労働者、資本家、そして労働に携わらない人々までもがこの資本主義の論理へと包含され、各個人は孤立を強いられるのである(松井 2010)。
第二に、「疎外論は生産的労働のみが人間の本来の生き方であるとする規範理論ではない」という点である。マルクスが生産的労働以外を軽視しているわけではないのである。却って人々が生産的労働に駆り立てられること、それそのものが疎外であるとマルクスは断定し、達成されねばならない目的として共産主義社会における生産的労働の縮小を掲げているのだ。生産的労働の縮小がもたらすのは、自由時間の拡大である。したがって、「自由な自己実現の活動が可能になることであり、疎外の克服はむしろ生産的労働の解放」の中にあるのである(松井 2010)。
以上の二点からも明らかなように、疎外論は賃労働者のみを対象としているのではない。それは、人間全般へと否応なしに降りかかる資本主義とそれがもたらす負の側面を徹底的に暴露するのである。よって、このような疎外論の解釈は全障連がマルクス主義を理論的な武器として用いて自分たちの置かれている状況をいかに定義したかという問いに対して答えるための理論的視座として適切なのだ。

4.対象の分析

『全障連結成大会 基調報告(案) 資料集』の冒頭では「全障連結成の意義」が次のように述べられている。

私達障害者をとりまく状況は今日大きくかわろうとしている。これまで米帝との安保法制の下に、'55年以後急速な高度経済成長を展開してきたが、こうした戦後日帝国の支配体制も一方においてベトナム・インドシナの民族解放の完全な勝利によって、米帝を中心とした戦後支配体制が崩壊した。……国内的な経済の破綻・インフレの同時進行という状況の中でその矛盾を、より一層の差別・分断攻撃によって労働者人民に転嫁しようとしているのである(全障連 1976: 7)

ここでは、「その矛盾」という言葉からも明らかなように日本の経済体制、すなわち資本主義が胚胎している矛盾の表出として「労働者人民」が存在する。さらに、

これまで日帝は、一方で障害者を徹底して差別してきたし、他方で多くの障害者を再生産してきた。つまり利潤追求を至上命令とした日本帝国主義は高度経済成長を展開しつつ、多くの公害・薬害・労災・職業病をもたらし、それは労働者・人民を障害者にしてきたのである。そしてまた障害者が働こうとしても、一方では労働力商品たりえぬ者は排除され、他方で労働力として利用できる障害者は差別的な就労賃金条件で徹底収奪されてきた。そしてそれは、施設・コロニー等を安価な労働力供給源としてリハビリテーションを行う医療・厚生機関と位置づけ、他方では障害者を隔離し、あるいは人体実験するところとしたのである(全障連 1976: 7-8)

「労働者・人民」が「公害・薬害・労災・職業病」によって障害者となる可能性が示される。それらは障害者の「再生産」とされており、この「再生産」こそ、同じく資本主義による「被害者」として健常者と障害者の接点となりうる。併せてここでは障害者が置かれている状況が―労働・施設・医療・教育・生活と多岐にわたって言及されている。この諸項目は分科会という形で独自に議論されている。殊、労働に関しては「働くことのできる人/できない人」と分けられており、それは「重度障害者/軽度障害者」に対応する。この二分が後の議論の際にあたかもそれぞれの立場において対立の様相を呈するのである。
障害者の「自立と解放」のためには労働者との「有機的結合」が不可欠である。マルクスは「革命」の主体としてプロレタリア階級を措定したために「資本主義体制」と闘争し、それを打倒するためには労働者と共闘せねばならないのだ。その共闘の場となるのが春闘であるが、74年春闘を経て1976年の全障連結成大会では、次のように総括されている。

総評を中心とした国民春闘委は、74年春闘の中で「弱者救済」として障害者年金の増額などを掲げ、不十分ながら闘うポーズを示した。しかし不況インフレ下の76年春闘においては要求項目に掲げることもなく、これは闘いを放棄しているとしか見えないものである。「弱者救済」路線が、これまで関係をもった障害者団体に20万円ずつの金を出す事、集会時に共同行動をとるといったことへ転換した事は、規制の労働組合の体質として我々は疑いを持たざるを得ない(全障連 1976: 148)

そうして障害者と労働者の「有機的結合」は困難をきたしている。そこから生じる新たな課題として「いかにして労働者との『有機的結合』を達成するか」が議論されることとなるのである。その過程では、労働者と障害者または働くことのできる/できない障害者の間での「労働観」の相違が浮き彫りとなった。「ブルジョア労働価値観」と「プロレタリア労働価値観」がそれである。前者は、端的にいうと「能力主義」という概念で表現される。労働者は商品として自らの労働力を切り売りし、それによって創出される労働価値(生産性)によって評価され、その価値に「適った」賃金を与えられるのである。他方、後者は「労働とは何か」という根源的な問いそのものとして議論されており、最終的に一致した意見は提出されていないが、能力主義の拒否がその前提として置かれている。
「資本の論理」に貫かれているのが「ブルジョア労働価値観」であることは明白である。日本の資本主義社会における労働者たちは「労働」という概念そのものがブルジョア的であるという意味合いをもった概念がそれである。「プロレタリア労働価値観」の一例として提出されたのが「青い芝の会」による重度障害者に関する労働観である。ここでは、「脳性マヒ者の場合は、生産現場で働くことは困難であり、生きることそのものが労働である」とされている。現実の賃労働という概念そのものから排除されている重度障害者は、労働の場へと参加することで「自立」を示すという議論には組みしえないが、それはマルクスのいう「労働」とは大きく異なるものであった。それは、疎外の中に置かれた重度障害者が「自立と解放」を目指すにあたって、あくまでも「労働者」として自らを位置づける試みであったともいえる。しかしながら、実際的な問題としてそのような「労働者」と「ブルジョア労働価値観」に貫かれた労働者との「有機的結合」はいかにして達成されうるのであろうか。この点は1976年から1977年の議論の中では明らかになっていない。
職場の待遇改善を求める軽度障害者とそこに参入しえない重度障害者はその労働観をめぐって対立する。能力主義の拒否という点では一致をみせるが、具体的にいかに労働者と連帯していくのかという点で両者は食い違う。その議論は平行線を辿り、全障連が掲げる「労働権の奪い返し」という目的から、あるいは現実の賃労働から排除されてしまっている。この対立は以下のように総括されている。

重度障害者は、現実の賃労働と言う概念から排除されているのであり、単に生産現場に入っていくと言う一般論を語るだけではきわめて安易な考え方によってしまう。重度障害者にとっては、社会的労働観を作り上げることは必要であるだろうし、その意味では青い芝の会の主張である“生きることそのものが労働である”と言う意見は、重度障害者のおかれている現実からでてきている意義ある考え方である。又、障害者差別をなくしていくには、生産現場に入っていかなければならないという意見も、職場における障害者差別が賃労働と資本と言う関係から発生している以上、生産現場に入っていき賃労働と資本の関係を打破していくと言う主張、この二つの主張が何故対立する主張として議論になったのか?(全障連 1977a: 280)

5.結論と課題

全障連はマルクス主義的な現状分析の下では、労働者と団結して共通の敵となる資本主義を打倒せねばならないとされた。あるいは、自身が自立した生活を円滑に遂行するために相応の賃金ないしは手当を運動の成果として求める。そのような事態を改善するための方法としてマルクス主義を導入することは、すなわち全障連に既存の「労働」を拒否しながらも労働者と共闘することを要求したのであった。生産現場に入って直接的な働きかけにより労働者と団結していくことは正統派マルクス主義的には至極真当な意見であるといえる。しかしながら、それならば生産現場に参入することができない重度障害者はどうするのか。この問いへの解答として「青い芝の会」の人々が用意したのが「重度障害者はいかにして労働現場に入ることができるのか」という問いそのものものを拒否することであったのだ。
旧来の労働観に抗い、さらに障害者にとっての労働観を作り上げることこそが全障連の課題の一つであったが、賃労働と資本の関係に障害者差別の根源を見出し、生産現場へ障害者が入っていくことで差別を解消していこうとする者は「生きることそのものが労働である」という労働観を否定し去ることで、青い芝の会を中心とする重度障害者と軽度障害者―既に労働の現場に参加している者で全障連内部において対立することになった。しかし、この二つの意見は対立するものではない。すなわち、「働くことのできる人/できない人」の主張は「労働とは何か」という問いに対する立場とその答えの相違を示していたが、その複数ある労働に対する意見を総合する、あるいはそれぞれの独立を認めたまま具体的な運動への方針へと組み込むことはできなかったのである。その遠因がマルクス主義での機械的な導入であったことは、理論と実践の問題を考察する上でも決して看過することのできない点の一つである。マルクス主義そのものがもたらす疎外が全障連の内部における分派主義的行動を生ぜせしめたのかもしれない。

〈参考文献〉
安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也,1990,『生の技法―家と施設を出て暮らす障害者の社会学』藤原書店.
松井暁,2010,「疎外論と正義論」『専修経済学論集』44(3): 133-158.
榊原賢二郎,2013,「障害児教育における包摂と身体」『社会学評論』64(3): 474-491.
高木博史,2003,「戦後日本の障害者運動―発達保障概念と政党イデオロギーを巡る対立を越えて」『立正社会福祉研究』5(1): 31-37.
全国障害者解放運動連絡会議編,1976,『全障連結成大会基調報告(案)・資料集』全国障害者解放運動連絡会議(準)全国事務局.
―,1977a,『全障連結成大会報告集』全障連全国事務局.
―,1977b,『全障連第2回大会基調報告(案)』全国障害者解放運動連絡会議全国事務局.
―,1977c,『全障連第2回大交流会基調報告(案)』全国障害者解放運動連絡会議全国事務局.