日本の成年後見制度・意思決定支援と グッドプラクティス

日本(座長:季錫九)

日本の成年後見制度・意思決定支援と
グッドプラクティス

桐原尚之(立命館大学先端総合学術研究科院生、
日本学術振興会特別研究員(DC1)、全国「精神病」者集団運営委員)

ありがとうございます。全国「精神病」者集団の桐原です。「日本の成年後見制度・意思決定支援とグッドプラクティス」という表題で発表します。よろしくお願いします。
僕からは、まず日本の成年後見制度について簡単な説明をします。成年後見制度の立法事実には、「意思能力のない者の法律行為は無効とする」という今から100年近く前に出された判例があります。この「意思能力」とは、有効に意思表示する能力のこととされています。「意思表示」とは、法律上の効果を発動するための行為とされています。日本の民法では、まず「動機」というものがあり、続いて表意者が法律効果を欲するきっかけとなる「効果意思」が生じ、その効果意思を発動しようと思う「表示意思」によって最後に「買います」と相手に宣言する「表示行為」に至ると、このような段階、過程として説明されています。
今回、ポスターセッションにもALSのことが出ていましたが、内心は正常だけど表示行為ができない、そういう人への支援が必要な場合など、いろいろなことを考える上でも、この枠組みに基づいて考えられている部分は事実としてあると思います。
この伝統的な意思表示理論においては、効果意思が法的な効果を生じさせるものと考えられています。そのため、泥酔状態で誤ってした契約などは効果意思が不在であるために意思無能力として法律行為を無効にできます。
しかし、高度に産業化された社会では、外見からは顧客の内心的効果意思を確認できず表示行為しか知り得ないため、こういう予期できないものによって契約を無効にされてしまうことで生じる損害を、「取引の安全が損なわれた」と考えるようになっていきます。この取引の安全のために、民法では意思能力の有無が個別の法律ごとに判断されることを回避するために、「行為能力」という有効に法律行為をなし得る能力を採用し、画一的に「成年後見」「保佐」「補助」という三つの類型で測定できるようにしました。これが成年後見制度です。この三つの類型プラス、「任意後見」という、後見人を自分で選べるというだけのはなしなのですが、後見人(guardian)の権限を表にしたものが下の方にあります。
これが大体、日本の成年後見制度です。他の国も大体こういう形になっていたかと思います。ただ、いろいろなはなしを聞いていて、どれくらいどうなっているかが分からない部分もありましたが、日本の成年後見制度は人格の代理権というものは認められていません。つまり、居住を選択することや、性や生殖の決定、結婚の決定など、あるいは事実行為である医療同意などというものは後見人の業務の中には入っておらず、制限の対象とはされていません。
障害者権利条約第12条2項に、なぜ日本の成年後見制度が違反するかということですが、これについてはなるべく手短に話したいと思います。要するに、第12条というのは法的能力の制限などをなくし、他の者と平等にしろということを謳っています。別の言い方をすると、障害者本人の決定を他人がしてしまうことが悪いといっているわけではありません。他の者に等しく認められていることを障害者本人の決定に限って法律上有効と見なさないことが悪いのです。これが、障害者権利条約権利委員会が示している法的能力不平等の考え方になっています。
日本では障害者権利条約の批准に向けた議論ということで、近年、「意思決定支援」という言葉がはやっています。しかし、この「意思決定支援」という言葉は、使う論者によって恣意的に使われていて、具体的にどういうことであるかという定義にかかわる議論はほとんどされていません。ただ、成年後見制度というのは、本人のことを決定する人をあらかじめ決定しておくという代理決定の枠組みを採用したものなのですが、意思決定支援といった場合にも、どういう人がその人の支援者としてふさわしいかという議論になってしまっていて、基本的には枠組みが変わらないものになってしまっているのではないかと思います。
また、成年後見制度とこの意思決定支援、つまり、guardianとsupported decision-makingは共存可能なのだ、両方ともをやるべきなのだという考え方が、日本国内でも専門職団体や政府を中心に示されています。もちろん障害者団体は反対しています。
今年の4月ぐらいに、成年後見制度利用促進法案というものが議員立法で可決されました。世界的には成年後見制度の利用を減らす方向で進んでいるはずなのに、日本では成年後見制度の利用を拡大しようという世界の風潮に逆行する動きが出てきています。かつ、先ほど人格代理権は日本の後見制度にはないという話はしたのですが、医療同意に関して今のところ後見人の代理業務に入っていませんが、この法案では、今後、医療同意を後見人によって代諾可能にしていこうという方向性が示されています。
この制度の説明を簡単にします。まず、成年後見という類型は一番制限が強いのですが、この類型ではなくて、より制限が少ない保佐、補助の類型を増やそうということが一つ目です。それから医療同意に関する代諾を認めていこうということが二つ目で、被後見人の人が死んだ場合の事務が三つ目です。最後に、これらの利用拡大をしていくにあたって任意後見、それから、民間の後見人を積極的に活用しよう、専門職ではなくて市民の後見人を活用しようということが四つ目です。このようなことが具体的に示されています。
日本には、障害者の支援制度として障害者総合支援法という法律があります。この法律の中に、「意思決定支援」という名前の制度が新設されています。具体的な中身は今、厚生労働省の中で検討されています。
この制度の「意思決定支援の定義」というのは、「意思決定支援とは、知的障害や精神障害等で意思決定に困難を抱える障害者が、日常生活や社会生活等に関して自分自身がしたい(と思う)意思が反映された生活を送ることが可能となるように、障害者を支援する者(以下「支援者」と言う。)が行う支援の行為及び仕組みをいう」と定義されています。何のことではない、本人の自己決定を支えるということで、どこにでもいわれていることではあるのですが、具体的にこれが、意思決定が難しいとされる人をターゲットにして進められているということが特徴的かと思います。
次に、「意思決定支援の留意点」も示されていて、「決定を行うに当たって必要な情報を、本人が十分理解し、保持し、比較し、実際の決定に活用できるよう提供すること」「本人が自己の意思決定を表出、表現できるよう支援すること」「本人が表明した意思をサービス提供者等に伝えること」「本人の意思だと思われるものを代弁すること」と、このように書かれています。ベストインタレストに基づく判断をすること、ということは支援者に要請するかたちになっています。
これに対して障害者団体は今のところは表だった大きな反対運動のようなことはしていませんが、ちまたでは、批判の声を耳にすることが多いです。内容的には、やはり意思決定支援というのは、意思決定の支援にふさわしい支援者をあらかじめ決めておくという点で支援者適格性による代行決定のパラダイムではないかということ、ベストインタレストに基づく代理決定を許容していること、それから、自己決定を尊重した代行決定は、必ずしも自己決定を尊重していれば支援された意思決定の枠組みかというと、そうではないだろうといった批判を耳にしています。
これはもう少し踏み込んだ話ですが、障害者権利条約自体の中で考えられていることも限界があるだろう、あるいは、民法という法律自体に限界があるだろうということでまとめたものがこれです。
民法が前提とする、合理的に判断できる人間という法的人間像に含み込まれない人たちが存在します。これが障害者です。法律自体が、障害者がいるということを前提に構築されていないことが問題だと思います。その意味では、真に障害者を法的人間像に含み込むことが必要であると思います。そうなると、今の民法体系、つまり、私法体系の解体が必然ではないかと思います。この解体をしないまま、民法の枠組みに当てはめるだけの意思決定支援では不十分ではないかと思います。
具体的に意思表示というのは、「動機」「効果意思」「表示意思」「表示行為」という4段階であるということは先ほど説明しました。例えばこの「動機」に対する支援というものを、その人が何か買いたい、欲しいと関心を与えていくという支援のことを「意思醸成支援」と呼んでいる人がいます。あるいは「効果意思」の部分で、つまり、何か買いたいと思うことに関しては、自己決定の決定する内容に関わる意思を支援者が一緒に取りまとめていくことを「意思形成支援」と呼んでいる人がいます。それから、意思疎通、つまり、表示行為自体に第三者が理解できるような形で通訳したり、障害者の言葉を表出するための支援をするということを「意思疎通支援」という言い方をします。この4段階に合わせて障害者を適用させていくだけでは限界があるので、この前提条件である法体系自体を解体しなければ、真に障害者が法律の中に含み込まれないのではないかと思います。
この障害者権利条約の第12条2項というものは、確かに成年後見制度を否定しているのですが、第1項では、もっと根本的なことが表明されています。「締約国は、障害者が全ての場所において法律の前に人として認められる権利を有することを再確認する」という条文ですが、これは飾りではありません。あくまで成文化された実定法です。ここでいう障害者が法律の前で人として認められる権利を有するということは、障害者を人として平等に扱わない法体系は解体されるべきであるということ、すなわち、法的人間像として障害者を含みこまないような法体系は、人として認められる権利に不平等を生じさせるため障害者権利条約に違反するものであると、そのように理解されなければならないと思います。
最後に、グッドプラクティスです。これは、僕もいろいろ調べていて思ったのですが、なにか良さそうな支援の事例を紹介していくだけだと語弊が生じるのではないか、理屈で考えた方がいいのではないかと思ったので、ここではあえて理屈で説明することにしました。
先ほど言ったように、論者ごとに支援された意思決定というものを恣意的に定義しているという現状があります。ですから、障害者の自己決定を支えている取り組みを研究者が恣意的に選択することによって生じる定義の複雑化を回避するために、この報告では、あらかじめ意思決定支援の諸条件を設定しようと思います。
具体的には、代理人の適格性の枠組みではないこと、つまり、誰が代理人としてふさわしいかという枠組みではないということです。それから、支援者適格性の枠組みではないこと、つまり、誰がその人の意思決定の支援をするにふさわしいかという話ではないこと、そして意思および選好に基づくものであって、最善の利益の枠組みによらないことの三つを条件として設定しました。
一つ目に「重度訪問介護」というものが日本にはあります。重度訪問介護は、24時間、居宅において生活全般にわたる援助、および外出時の移動中の介護を総合的に行う制度とされています。ちょうど今、会場に岡部宏生さんがいらしていますが、介助者の方が何人かおられますが、こうして常時介護を行うという制度です。
もう少し説明すると、これは介助者がここに待機しているということが制度の内容になっていて、具体的なコミュニケーションのサポートをどうするか、そういう中身に関しては本人たちとの間で可変的に取り決められていくことになります。なので、コミュニケーションをサポートするための制度が日本にあるという理解は誤解ですので、そのようには考えない方がいいのではないかと思います。むしろ、本人が使いやすいように、介助者にいろいろなことを頼める可変性のある人が付いているという制度と理解してもらえると正しいかと思います。
そういう意味では、ここで書いているとおり、決して多くはないけれども、基本的には障害者自身が選んだ人によって支援が行われるという制度になっています。このたび、日本でも、もともと身体障害者だけしか使えない制度でしたが、精神障害者と知的障害者が重度の場合に利用可能になっています。
運用では、意思決定の動機付け、適当な場面での表示の後押し、コミュニケーション支援がされています。この場合、民法の枠組みに影響する点で課題が認められるかと個人的には思っています。また、障害者が介助者をコントロールできていなければ、活用自体が難しく、逆に介助者によってコントロールされてしまうという可能性がある点で難しさをはらんでいると言えると思います。このように、いろいろなことを提案しては、課題だけを突き付けていく報告を続けます(笑)。
次は、「共同意思決定」です。これは池原さんが出されていたことに近いかと思うのですが、日本では知的障害者の自立生活を援助する団体が幾つか存在します。そこで実際にされている支援というのは、本人を含めていろいろな人が共同で決定するという支援です。
僕は、このやり方自体は割と肯定的ですが、ともすれば少し問題があるケースもあります。かなり難しいという気もしていますが、本人の味方を一方的にするようなポジションの人が必要です。そうではない考えを言う人もいてもいいです。それから、本人と専属でびっしり付いている支援者以外にもボランティアで少しだけ来るような人も参加でき、いろいろな人が関われることは非常にいいことだろうと思います。
ただ、共同で意思決定することは良いとしても、共同で決定したのにもかかわらず、この決定によって法的効力の拘束を受けているのは本人だけです。そのため、何か不都合が生じた場合には、共同に決定したにもかかわらず、本人が決定したこととして処理されてしまいます。本人だけに帰責されてしまいます。周りも決定に携わったはずなのに、決定によって生じる効力に対する責任が本人だけが負わされるという点では、周りと本人は実は全然共同ではなくて、非対称な関係でやらされているのではないかと思います。もう少しシンプルな言い方をすると、みんなで決定したのに、何か不都合があると、「おまえが決定しただろう」と支援者がそろって言ってしまうということがよく目にする光景です。
最後にもう一つ「社会的選択」というものを入れました。これは、決める人をあらかじめ決めるということではなく、決めることをあらかじめ決めておくという枠組みのことです。例えば、日本の生活保護法に職権保護というものがありますが、職権保護というのは、資産が最低生活以下の水準になった場合は、基本的に行政権で強制的に生活保護を出すことができる制度のことです。財政的な理由で実際にはあまり運用されていませんが、制度としてはそういうものがあります。
障害者の意思決定が難しい場合などでも、場合によっては正しいことは正しいとして提供してしまうというやり方は、自己決定を必ずしも必要としません。「これはある程度必要最低限のものなので」といって提供してしまうと、こういう手はあるのではないかと思います。社会的選択は、ルールを社会全体で決めて承認したということになるので推定で同意したものと考えることができます。すなわち、ある種の自己決定であるという立場をとるわけです。すると、意思および選好に基づくものと言えるのではないかと思います。
障害者権利条約の交渉過程では、100%の意思決定と代行決定の違いについて一通りの議論が交わされています。このときの障害者団体のアイデアというのは示唆に富むものではあったのですが、同時に、自分で決めることに非常に偏重した立論であったがゆえに、やや難しい議論になってしまったのではないかという気もしています。
今回、ポスター報告の中でも、事前計画について長谷川唯さんが書いたポスターがありますが、これは障害者権利委員会の一般的意見の中にも、支援された意思決定の具体例として事前計画が明示的に挙げられています。これは、過去の自分の決定によって、今の自分の決定というものが場合によっては無効化されてしまうという、ある意味では代理決定的なものになり得るはずなのに、本人が決定しているという1点をもって無邪気に肯定されてしまっていることへの問題を厳しく指摘したものだと思います。
支援された意思決定という枠組みは、単に自己決定によればいいというものではないと思っています。また、代行決定の問題は、自己決定を尊重しないからというわけでもないと思っています。この障害者権利条約がしつこく何回も文面に書いているのは、「他の者と平等」ということで、つまり、障害者と他の者が不平等であることを問題にしているのです。しかも、第12条は、第2項で機会面の平等を、第3項で結果面の平等をと両方に不平等が生じないようにすることを要請しています。
障害学という学問が障害者権利条約や実際の障害者について議論を進めていく上では、ここから真剣に考えていかなければいけないことがたくさんあるのではないかと思います。
僕は少し短めに終わらせようと思っていたので、これから議論ができればいいと思っています。今回も海を越えて来てくださっている方、日本国内でもいろいろなところから来てくださっている方がいるので、ぜひ議論を活発にできればいいなと思います。ご清聴ありがとうございました。

日本の成年後見制度・意思決定支援とグッドプラクティス

立命館大学大学院先端総合学術研究科博士後期課程
日本学術振興会特別研究員DC1
全国「精神病」者集団 運営委員
【省略】