成年後見に代わるもの

日本(座長:季錫九)

成年後見に代わるもの

立岩真也
(立命館大学先端総合学術研究科教授、同生存学研究センターセンター長)

皆さん、おはようございます。立岩です。45分、時間を頂きましたけれども、可能であれば短めに話は終えて、皆さんといろいろ質疑、議論をしたいと思っています。最初の挨拶にもなるのですが、一昨日から私の今日の話に関係があるテーマで随分前に書いた、『私的所有論』という本があります。これは、紙で出ているものはこんな形態のもので、日本ではこれを「文庫本」といいます。これは小さいサイズで出ていますが、その分、1000ページぐらいの本になってしまっています。それの英語の電子書籍版を今回、作りました。今日、海外から来られた方には差し上げるということで、一昨日からそういうことをしていますが、皆さまに差し上げるために作って持ってまいりましたので、まだ受け取っていないという方は、ご覧ください。今、このページに出ているものがこの本です。そこで、基本的なことを僕は書いているつもりなのですが、その話は後で補足的にできるならします。いったんここまでで最初から始めます。
日本では、今の成年後見制度というのは、今から16年前の2000年に始まっています。これは実は日本では、公的介護保険の制度が始まった年と同じです。日本の高齢化というか、高齢者に対するある種の対策の一環としてなされたものです。今日は私はこの制度の細かなことについて詳しくお知らせすることはいたしません。昨日、聞いていて、必要ではないと思いました。というのは、各国の制度というのは基本的に同じです。時期は違います。日本は今回参加した国の中では早めで、2000年に始まりました。ただ、内容としては各国がここ10年、数年の間につくってきた成年後見制度と基本的に中身としては同じものを日本は2000年につくってきたということです。例えば、韓国の方が昨日、その法律を詳しく説明されましたが、それをもって基本的にはわれわれの国における制度も大体同じものだということで足りているのではないかと思います。そういう意味では、時期はずれながら、おおむね同じような制度を各国がこの十数年の間につくってきたということは確認できると思います。
今回、ここで少しお話しするということもあって、2000年といえば、私は研究者の生活を始めていた時期です。ところが、あまりたいしたことを覚えていないのです。「あのとき、何があったのだろう」と思うのですが、恐らく日本ではあまり大きな抵抗や疑問が呈されることなく、この制度は始まったと言ってもいいと思います。にわかに、その当時出た本が実は何十冊とあります。急いでそういうものを買い込んで今ざっと見ているのですが、大体、ノーマライゼーション、あるいは自己決定などといったスローガンが頭に出てきて、そういうことが大切であるが故にこの制度をつくるのだといった解説、紹介の本が始まっています。
当時、そういう形でおおむね反対というか、疑問が呈されることなくするっと高齢化、介護保険の導入といったものを背景として、この制度は日本でつくられたということをあらためて今、思います。実は、そのときに全く何もなかったかと言えばそうではなくて、日本でも本当に古くから障害者の運動に関わっている人たちの中から、「これで一体、われわれの生活は変わるのだろうか」という若干の疑問。確かに禁治産といいますか、ある意味恥辱的といいますか、そういう言葉の代わりに制度はできるわけですが、主に家族によって自らの生活が決められるという状況は大きく変わるようには思えないというような類いの悲観、あるいはそういう楽観はできないだろうというような見方も若干ありましたが、おおむね社会の中では肯定的に受け止められました。
このこと自体をわれわれは歴史的に起こった出来事として見なければいけないと思います。それから10年以上たって、韓国でこの制度が導入されようとするときに、障害者のサイドから「こういう制度は要らない」という形で抗議行動がどういう規模で何をもって主張をされたのかということは、昨日のご報告では詳しく知ることはできなかったのですが、あったということと比べると、そのこと自体が興味深い。つまり、日本で難なく導入されたものが、約10年たって韓国で同じものがつくられたときに、韓国の障害者たちは少なくとも抵抗の姿勢を一時見せました。これは何だったのか、そのときに何が主張されたのかということは、こうした幾つかの国が共通のテーマによって議論をするときに極めて大切なポイントだと思います。
つまり、なぜそれが起こったのか、あるいは、日本でいち早く16年前につくられた制度が、この国において十何年たって、それがどういうものであったのかということを、私の報告では詳しくお話しすることはしませんが、新しくその制度を導入することになった国において、その経験を教訓にして、それにどう対応するのかということを考える、あるいはそれに基づいて主張することができると思うのです。そういうことが幾つかの国が集まって共通のテーマについて論じるということの意味合いではないかと思います。
日本では導入されて約15年たつ制度で、その具体的な問題点を列挙することはいろいろできますが、基本的には本人に成り代わった他人がその人が行うことを決めるというスキームになっています。そのことに基本的な問題があります。例えば、そのときに、自分はそれに不満であると言うということが、この制度の枠組みの中では極めて困難になります。なぜならば、その後見人が本人を称しているという言い方になるわけです。そうすると、本人はその本人の名において、その出来事に抗議するということが困難になります。ちなみに、成年後見制度の導入に当たっても、100%その人ができないので100%その人に代わるというタイプの保護、後見ということではこれからはなくなるということが肯定的に受け止められました。つまり、部分的に保佐する、保護する、後見するという類型が認められるので、この制度は前の制度に比べると良い制度であると受け止められました。
現実には、日本の十数年の経験は、そういうタイプの部分的な後見といった制度はあまり使われず、結局のところ、従来の基本的にこの人に別の人が成り代わるというタイプの制度が多く使われてきました。例えば、それは契約であるとか、政治など、要するに、誰か代わりの人がいて、その人の言うことが本人の言うことであるというような簡単な枠組みの話で事が済めば、その方が簡単だということであって、そのために、三つの類型が制度として始まったわけですが、結局のところ、実態としては本人の代わりをする人はこの人という出来事が起こってしまいます。そちらの方がメジャーになってしまったという出来事だと思います。基本的にはそこに問題があります。
そして、それに関わって、その人がどういう人であるのかということによっていろいろなことが起こっています。例えば一つには、日本でも、それから皆さんの他の国々でも家族というものが代理、後見になりますが、そこに一つの大きな問題が起こっています。特にその財産などという問題をめぐって、家族というものは本人と利害が一致しない、一致しないだけではなくて相反する可能性が非常にあります。このことは昨日も皆さんの報告の中でなされたとおりです。
ちなみに、例えば東アジアにおいて家族というものが大切にされているという話も昨日出されました。私はそのこと全般について、良い、悪いことであるというようには思いません。東アジアの国々において、家族というものがもし本当に大切にされているのであれば、それはそれで良いことであると言っていいだろうと思います。しかし、そういう家族を大切にすべきであるという、アジア的と言うべきかどうか分かりませんが、そのような価値観に照らしても、この後見の制度というものは、麗しい良い家族というものを破壊する可能性があります。つまり、そこに潜在する利害の対立を顕在化させ、その一方の利害を通させるということにおいて、良好な家族の関係を破壊するものとして作用し得るし、実際に作用しているのです。
そういうことにおいて、仮にアジアの家族主義、家族を大切にする美風というものを肯定するとしても、この制度がかえってそういう家族の環境を破壊する形で作用しているということは、日本の15年の経験をもってしても明らかなことだと思います。
では、他方、それが職業的な後見人によって担われたときにうまくいくのか。もちろん、その職業的な後見人の中には使命感を持って、良心を持って仕事をしている人たちが多数おられます。その人たちの気持ちといいますか、実践というものを低く評価するものではありません。しかしながら、これも前日さまざまな形で示されたように、言ってみれば、弁護士やそういう人たちの生活の糧のためにこの仕事が使われているということも一つの事実です。また、収入を得るためにその仕事をするということは十分にその職務の範囲内ですが、その範囲外においてさまざまな不正が行われていることも、各国において共通に行われている出来事なのです。
そうすると、今の話では十分であるとは思いませんが、少なくともその成年後見という枠組み、仕組みというものが十分なものだとは思われません。私は特にその権利条約がこうこう書いているので、良い、悪いなどという議論をするつもりは実はあまりありません。しかし、それを前提にするにせよ、あるいは、それをあまり考えないにしても、これが障害者の生活を十全に良くするものとして作用するものとは思えません。
次の問題は、では、われわれの社会は意思決定というものにどう関わるべきか、あるいは、それを支えるのかという話に移っていくだろうと思います。私はそれに対して一つの答えはないということを確認するということの前提から始めるべきだろうと思っています。「この人は決められない人だから、決められる人を別に一人立てましょう」ということは、ある意味非常にシンプルで分かりやすい簡単な仕組みです。
そういう意味ではこれから私がお話しすることは、より面倒くさい、細かい、一つ一つへの対応を並べるという形になるかもしれませんが、私はこの人の代わりにこの人にするというある意味分かりやすい簡単なやり方よりも、いろいろな手だてを複合的に使うというやり方の方が、意思決定を支援されながら暮らす人にとって良い形であるということを私は思っています。そのことの認識は大切だと思います。
それに対するそのアイデアは昨日も幾つか出されました。特に、最初に基調講演をなさった池原さんのサイドからは、誰か一人だという形ではなくて、その人の周りにいる幾人もの人たちみんなが、そして、法律によってこう決めるというのではなくて、もっとソフトな形で話をしながら、その人を見守りながら決めていくというタイプの支援の仕方が提起されました。
私は、それはそれでもっともだと思っています。ただ、それだけでもないだろうし、他にも考えるべきことが幾つもあるようにも思いました。誰か代わりの一人というよりも、みんなが良いということは、随分たくさんの場合にそういうことはあるだろうけれども、一人よりもみんなの方が怖いということもあり得るわけです。自分の代わりの人は一人だといったら、一対一でまだ何かけんかができるかもしれません。けれども、自分の周りの人たちが何人もいて、その人たちが「おまえ、こうした方がいいよ」と言ったら、「何かそれに従わざるを得ないのかな」というようになるかもしれません。ということを考えると、一人よりみんながということは、一般論としては多くの場合に言えるだろうけれども、それだけでうまくいくというわけでもないだろうと考えると、まだわれわれとしてはいろいろ考えるべきことが出てくるのだろうと思います。
今日皆さんにお配りしたものは、今、話している順番どおりに書いたものではないので、参考までにと思います。「では、おまえはどう思うのだ」ということですが、一つに、本人が「私はこうしたい、だからそれを認めてください」という手続きというものがどれだけ本当は必要なのかということをわれわれは見直してみるべきであると思います。例えば、これは日本だけではなくて、他の3カ国においてはほぼ同じだと思いますが、日本では「申請主義」という言葉があります。何か制度を使うといった場合に、本人が「私はこういう者で、こうであるから、これを使います」ということを役所に行って申請しないと、その制度が使えないという仕組みが基本です。
そうすると、申請をしに行く人が必要で、そのためのさまざまな手続きが必要になります。それを本人ができないので、代わりの人がやるという話になっています。けれども、そういうことが本当はどれだけ必要なのかというところからわれわれは考えてみてもよいと思うのです。仮に、本人の申請を待たず、例えば、所得保障の問題のテーマ、あるいは社会サービスといわれているものが政府によって自動的に支給されるという仕組みになっているのであれば、そういうことは必要なくなります。そうすると、そのレベルで言えば、誰かが代理する、では、誰が代理するのかという問題は生じなくなります。
そういう不要な申請、不要な申し込みが、一つ一つ点検していくと、われわれの社会の中には結構な数があるのではないか。そのようなことを簡素にする、必要でないものはなくするということが、所得保障、社会サービスに関わる場面ではたくさんあるように私は思います。社会の中で行われている、申し込む、それが認められるといったものを点検していくと、要らないものはたくさん出てくるかもしれません。これは、例えば知的障害を持っている、あるいは言葉に対するアクセシビリティが低い、そういう人たち全般に関しても考えるべきポイントなのではないかと思います。それが、では、代わりにどうするのだというときに私が考えていいことだと思います。
もう一つは、私人と私人の間の契約の場面です。これに関するいろいろな事例も昨日たくさん報告されました。台湾でしたか、何かを買ってしまって随分なお金になってしまい、大変なことになってしまったという事例が幾つも報告されて、それを聞くと確かに大変だなとわれわれは思うわけです。では、それをどう防ぐか。そのままにしておくと、結局のところ、本人も被害を被ってしまいます。ただ、これも一つの手ではなくて、幾つもの対応の仕方があるのではないかということが私の考えです。実は、このセミナーを開く前に、日本でも幾つかの事前のディスカッションをするような場を設けて、そこでも議論しました。
例えば、現金で何百万円、何千万円というお金を使える人というのはそんなにいません。そうすると、例えばクレジットカードを使ってお金を払うときに、われわれの社会は既にクレジットカードを使って、手続き的な間違いかもしれないし、どんな間違いかも分からないけれども、そういうことをしないような、例えば1日の上限が何百万円、何十万円であるなどというガードを幾つか持っています。そういうものをうまく使えば、知的障害であれ、精神障害であれ、すごくハイになって物がすごく買いたくなったけれど、今日はこれだけしか使えないというようなことは既に実現されています。そういう中で考えれば、わざわざ「この人はそうやって決めさせると危ないから、別の人に決めさせる」というやり方でなくても、後々考えると、本人にとって危なくて不利なことということは既にそんなに生じなくなっているかもしれません。さらに、そういう工夫を重ねていけばできるかもしれないと思います。
そして、これは昨日の池原さんの基調講演でもありましたが、だましたら、あるいは明らかにその人にとって要らないもの、強い意味での詐欺とは言えないかもしれませんが、例えば車が3台も要らないような人に3台売るという出来事に関して、売り手側の責任を問うことは、今の法律においても、それをさらに工夫して、消費者保護の観点から、潜在的・顕在的な消費者を保護するという仕組みをさらに改善することによって、かなり改善はできるだろうと思います。そして、その方が、この人の代わりに誰かを立てるというよりも、よりマイルドで有効な策を取ることができます。
昨日、池原さんもおっしゃいましたが、悪い契約をした相手を罰する、あるいはそういう行為を禁ずる、制約することのコストの方が、そういうことをしてしまうかもしれない利用者側を保護するために、弁護士や専門家にお金を払うコストよりも、社会的に安く済むという可能性も非常にあります。だからそうすべきだとは私は思いませんが、一つの理由として、そういうやり方の方が社会はコストが掛からないということの可能性を考慮することがあってよいのではないかと思います。
それから、最初に申し上げたことですが、家族の問題です。つまり、そういう契約を本人がすることによって、家族に迷惑が掛かるということがあります。それ故に、家族はそれを心配して、この人に後見人を付けるということが各国においてもさまざま起こっているのだろうと思います。しかし、そのようなことはもうデフォルトで、所与のこととして前提としなければいけないのだろうかと思います。
例えば、この人の持っているお金、この人が管理できるお金の範囲と、家族が持っている、あるいはそれに責任と同時に義務を負う財産やお金の範囲を分けることがきちんとできれば、本人が使い過ぎたことによって、本人は多少の迷惑を被るかもしれませんが、家族が危害を被ることはないといった財産管理のシステムは、後見という代わりの人を立てるというシステムではなくても可能なはずです。とすれば、この範囲のお金は本人のお金であるので、それに関しては多少の無駄遣いがあっても仕方がなかろうと、家族側もそのことに対して気を使うことが少なくなります。本人は、自分が使い過ぎるということで家族側が心配して、自分の代わりに誰かを立ててしまい、自分は日頃のお金もきちんと使うことができなくなるということがなくなる、あるいは少なくとも、少なくすることができるだろうと思います。
しなくてもいい手続きは、自動的になされるような仕組みに変えていく。これは、社会保障の基本的なシステムに対する一つの代替案の提示でもあります。単に、今、意思決定支援ということだけではなくて、世界各国の社会保障のシステムを考えるときにも大切なポイントだと思います。
それから、私人間の契約においても、本人が危ないことをするから本人を制約するということではなくて、危ないことをさせてしまう、危ないことをするという側を制約するというやり方があります。それから、本人に起こっている危害というものが、他の身近の関係者に及ばないようにする。具体的にはその家族に及ばないようにするという仕組みを取ることは、われわれの社会が持っている知恵というものを拡大する、よりよく使うことによって十分可能であり、そういう上でなおどれだけその人に代わる人が必要なのかということを考えていくことが十分にできるだろうと私は思います。
私が今日言いたいことは基本的に以上です。その上で、今、しばらく時間があるようですので、少しだけ加えます。本人が本人のことを決める。日本語では「自己決定」といいますが、それをどれだけのこととして、どういう意味で大切なこととしてわれわれは考えるべきなのかということはとても大切なテーマであると私はずっと思っています。かれこれ20年の時間を自己決定ということについて考えてきました。皆さんにプレゼントしようと思っていて、まだ差し上げきれていない人には後でと申し上げたこの『私的所有論』という本も、そういうことについて考えた本です。
私は、その障害について考えるということは、社会の中にある大きな部品について一つ一つ点検していくという作業であるとも思っています。では、そのことについておまえは、私はどう考えるのかということを詳しく展開することはできません。そのために私は本を書いていますし、日本語がお分かりにならない方のために、それを英語に訳してもらうということをしています。ですので、それを見ていただければと思います。
なぜ自分のことを自分で決めることが良いことなのか。これは非常にシンプルな問いですが、実は、答えるのがなかなか難しい問いでもあるかもしれません。障害学というのは、そういうことを考える学でもあると私は思っています。しかし、一つの答えはとても簡単だと思います。そして、それは障害者の運動が長らく言ってきたことでもあります。つまり、私にとって良いことは、他の誰よりも私が知っているということです。これは、多くの場合、真実であり事実ですので、その人に決定を委ねる。私は、これは十分な正当化の理由だと思います。ただ、そのように本人が決めることを正当化するということは、もしかしたら、本人にとって良いことは、今、本人がこうしたいと言っていることとは違うかもしれないということを論理的に残す。お分かりですか。今、言った本人が決めることを正当化する理由そのものが、場合によっては、本人が「今、こうしたい」と言ったことは、「今はしない方がいい」ということを正当化する理由にもなるということです。
これは昨日、台湾の方でしたか、おっしゃいました。本人にとって良いことというものを何かのやり方の正当化の理由にするのであれば、常に本人が言うことがファーストでベストだということにはならない場合があるということを意味します。私は長いことこの本の後に、これは韓国語に翻訳されていますが、安楽死、尊厳死という問題について考えてきたことがあります。まさにこれはある意味では自己決定です。私は死にたい、だから死なせろ、私は障害がある、だから悲しいから死なせろということです。では、それをそのまま、この人がそう決めたことだから良いと言えるのか。私は言えない、あるいは言ってはいけないと考え、その理由を本に書いてきました。これは『良い死』という本になりました。これは、英語のバージョンはないですが、韓国語のバージョンが韓国で出されています。
そういうことを考えると、自己決定ということも大変大切な、そして「私はこうしたい」ということそのものが、その人が生きている、その人が存在していることの少なくとも重要な一部であることは確かです。単にその人にとって良いというだけではなく、その人がこうしたいという気持ちを尊重することも大切なのでしょう。ただ、常にこの人は言っているからこの人が言っていることが正しく、ベストであり、ファーストであるということは言い切れない場合があると言えるだろうと思います。そういうことも含めて、われわれは本人の意思を尊重する、あるいは本人の意思を支援するということと、本人を支援するということの同じ部分とそこからは少しずれる部分の両方を考え続け、そして、それを制度の中に組み込んでいくということを考えなければいけません。
そのような意味で、私は、この障害者権利条約第12条というものがそうしたさまざまな問題を考え尽くした条約であり、それに至る議論が十分になされたとは実は思っていません。時間も決まっていた出来事ですので、それはそれで認めましょう。しかし、われわれにはまだ、あの条約のあの条項が決まった後においても、次に考えるべき、考え残されているさまざまなことはあるだろうと私は考えています。
大体、まだ時間はあるかと思いますが、せっかく海を越えて皆さん来てくださったので、議論したり、質疑応答する時間をできるだけ取りたいと思いますので、私はここまでにさせていただきます。どうもありがとうございました。