基調講演「障害者権利条約第12条(法的能力) 実施の国際的課題」

基調講演「障害者権利条約第12条(法的能力)
実施の国際的課題」

池原毅和(弁護士、東京アドヴォカシー法律事務所所長)

おはようございます。私からは、障害者権利条約12条の法的能力の平等性というものが実のところ成年後見制度について極めて厳しい立場に立っているということ、そして、では成年後見制度に代えて、どのような新しい意思決定の支援の仕方があるのかということについて概略をお話ししたいと思っております。
最初の方は、時間の関係で少し皆さんに後で読んでいただくという前提でお話ししますけれども、この権利条約の12条の理解の仕方として、権利能力の平等性だけを定めたものなのか、それとも行為能力の平等性まで定めているのかということについては議論のあるところです。実のところ日本政府は、行為能力の平等性についてまでは定めたものとは言えないという立場に立って、成年後見制度は障害者権利条約に抵触するものではないという理解に立っているわけです。しかし、この障害者権利条約に関する障害者権利委員会は一般的意見(General Comment)を既に発表していて、これを読みますと、行為能力の平等性まで要請しているものと考えざるを得ないと理解できると思います。
そのポイントになる点を幾つか指摘しておきたいと思います。まずGeneral Commentのパラグラフ6においては、女子差別撤廃条約において同じように法的能力という概念が使われているけれども、ここに言う法的能力は明らかに行為能力の平等性まで含んでいると理解されているということです。
それから、パラグラフ12は、法的能力の概念の中には二つの要素があって、一つが権利能力に関する側面、もう一つは行為能力に関する側面であるということを明確に指摘しております。
パラグラフ14は、とりわけ行為能力の制限というところに大きな問題があるというものです。歴史的、社会的に見て、障害のある人は行為能力を不平等に制限されてきたということがある。それを正していくというのが障害者権利条約の12条の最も重要なポイントである。だからむしろ行為能力の平等性を実現していくことのために12条がある。こういう位置付けであるということです。
パラグラフ26は、既に行われている各国の政府報告に対して、権利委員会としては、たびたび成年後見制度から支援付きの意思決定制度に変えるべきであるということを勧告しているということを述べています。さらにパラグラフ28は、極めて徹底した態度ですけれども、成年後見制度を残しながら支援付き意思決定制度を作ったところで、障害者権利条約12条の趣旨には添わないものである、成年後見制度が残っている限りにおいてはやはり法的能力の平等性が実現されたとは言えない、ということを明確に指摘しています。こういう立場から見ますと、障害者権利委員会の立場は極めて明確で、いわばラストリゾートとしても成年後見制度を残すべきではない、完全にパラダイムを転換して支援付き意思決定の方法に変えていくべきであるということを明確に述べているわけです。
これはある意味、法律家の立場からしますと、極めて厳しい指摘ということになりますが、どうしてそういうことを言っているのかということについて少しこの後考えていきたいと思います。
一つ理論的なことを置いておいて、政策的な観点で考えたときに、私のスライドの2番目のパラグラフのところに指摘していますが、実は欧米先進国においては既に1980年代ぐらいから、成年後見制度はラストリゾートでなければいけない、本当に必要なときだけに使うものでなければいけない、つまり成年後見制度の利用を最小化していかなければといけないということをしてきているわけです。では、1980年から約30年間、そういう努力を欧米先進国で行ってきて、本当に成年後見制度がラストリゾートに収まるようになったのだろうか、必要最小限度の場合だけに使われるようなものになったのだろうかというと、結局はそうなっていない。つまり、われわれの社会が成年後見制度というものを置いておけば、必ず不必要に権利の制限を受ける障害のある人が発生してしまうということが一方にあるということです。
他方で、確かに成年後見制度を廃止してしまうと、例えばしばしば指摘されますが、完全に意識を失っている状態の人、いわば植物状態にある人というイメージかもしれませんけれども、いろいろな働き掛けをしても反応を全く読み取ることができないという状態の人について、どうやって意思決定の支援をするのか。やはり成年後見制度は必要ではないかという議論が一方にあります。それは確かにそうなのかもしれないけれども、では、成年後見制度があることによって権利を制限されたり奪われてしまったりするたくさんの障害のある人が片方には存在する。成年後見制度がなくなることによって、もしかすると意思決定が事実上できなくなってしまうような意識を失っている状態の人がいる。残してもマイナスの部分がありますし、なくしてもマイナスの部分が発生する。どちらのマイナスがより大きいのかということを考えたときに、やはり成年後見制度があることによって生じるマイナスの方が大きいのではないか。そこを障害者権利委員会は考えると、政策的な判断としたら、これはむしろここでもう方向を変えるべきである、つまりパラダイムを完全に転換して、むしろなくしていくという方向によって、では残った問題をどうやって解決して行ったらいいかと考えるべきだというのが、恐らく12条の根底にある政策的な価値判断であろうと私は考えているわけです。
これは一つの政策的な観点ですけれども、もう一つ、もう少し理論的な部分を考えていきたいと思います。もともと日本の民法を含めて、民法が意思決定や成年後見制度というものをどのように考えていたかということです。これは、いわば近代の資本主義社会といいますか、つまり自由競争の社会というものを前提と考えたときに、それぞれの人が自分の才能や能力を最大限に生かして利益を追求していくというモデルで社会を考えていくわけです。オリンピック、パラリンピックで100mの競技をするようなものです。皆が一生懸命練習して、自分の能力を最大限に生かして試合に勝っていくというモデルです。そういう中では、誰か他の人に手伝ってもらうとか、何か特別な機材を使うというのは競争としてはいんちきであって、個人が自分に内在している能力を最大限に発揮して利益追求していくことによって社会は発展していくのだというのが、アダム・スミス的な世界観です。この世界観や社会観に基づいて意思決定のあり方を考えていくと、個人が自分の心の中で、どうしたら自分の利益が最大化できるだろうかということを考えて、例えば、今、株の値段が上がっているから株を売ろうとか買おうとかということを心の中で考えて、あるいは証券会社に行って「では私の株を売ります」とか「新しい株を買います」という意思表示をする。そういうモデルになるわけです。
それを前提にして、民法の意思決定のモデルは出来上がっているというわけです。ですから、このモデルはいわば個人モデルということになります。それぞれのばらばらな個人が自分の能力を最大限に生かして利益追求をしていくというモデルなわけです。ではその能力はどうやって判定されるかというと、個人の内在的な能力を、心理学あるいは精神医学という手法で判断していく。ですから、必然的に医学モデルということになるわけで、いわば近代民法の意思決定モデルは、個人モデルであるし、医学モデルであるということになるわけです。
それに対して、しかし実際の意思決定のあり方はどうだろうか、われわれが生きた社会の中で生活している、私たちが普段している意思決定はどうだろうかということを考えてみます。例えば仕事を変える、あるいは結婚するとか離婚するとか、あるいは大きな財産を買ったり売ったりするというようなことを考えたときに、果たして本当にわれわれは自分1人だけで考えて決めているのだろうか。そういうことは普通、日常生活では起こらないわけです。
この少し比喩的な図で見るように、この考える人の背後にある家族や先輩、同僚、友人や知人、あるいは必要であれば専門家の助言などの社会的なネットワークの中で自分の考えを練り上げて、批判されたり励まされたり、いろいろな情報をもらうことで決めていくというのが私たちの日常的な意思決定のあり方です。さらにその意思決定の基盤には、それまでに受けてきた教育による知識、あるいは社会経験があるわけです。
ですから、実のところ、意思決定あるいは自己決定の構造は、先ほどの近代民法の構造とは随分違っていて、「熟慮のプロセス」というところに書いてあるようなさまざまな社会関係、人間関係の影響や支援を受けながら物事を考えていく、あるいは、その前提にはそれまでに受けてきた教育や社会経験が大きな土台になっているということがあって、最終決定に向かっていくというわけです。民法が見ている成年後見や意思決定は、この熟慮のプロセスの一番右側の端の矢印の先端部分、最終決定というところに何か焦点を当てて、そこだけが意思決定であるというように見ていると考えるべきなのかもしれません。
障害者権利条約がもう一度私たちに考えさせているのは、われわれがあまりにも今まで意思決定というものを個人モデル、医学モデルで考えてきたのではないか、もう一度、社会モデルに引き戻して考えていくべきではないかという指摘であろうと思います。
例えば、これを比喩的に考えると、障害のない人はそれなりの素質、個人的な能力を持っているかもしれません。それに比べると、障害のある人の素質や個人的な能力は制限を受けているかもしれません。しかし同時に、障害のない人は非常に豊富な社会的な資源を持っている。それは学校教育、あるいは職業など、さまざまな社会参加の機会に知識や経験を増やしたり、人間関係や社会関係を広げることができているので、非常に豊富な社会的支援を持っているということです。それに比べると、障害のある人は社会から排除されてきました。通常学校には通えない、就職の機会は与えられない、他の社会参加の機会もない。そういう中で、教育による知識も社会的経験も、あるいは自分を支えてくれる社会資源も極めて乏しい状態に置かれている。この違いを比べてみたときに、結果として出てくる現象面として見える能力の差は確かにあります。これについての従来の説明の仕方は、いわば素質、個人的な能力の部分だけに着目して、「いや、それは知的障害があるから、精神障害があるから、あるいは認知症があるから能力が小さいのですね」という評価の仕方をしていたわけです。けれども、権利条約はそうではなくて、そこの部分よりむしろ社会的な支援の量の違いにもっと着目すべきであるということを指摘していると考えるべきだと思います。
少し比喩的に言えば、もし、ある問題の解決に100の能力が必要だと考えたときに、障害のない人は、素質が50、社会的支援の力が50で、両方足すと100になるのでその問題が解決できる。障害のある人は、確かに素質が25かもしれない。しかしそれと同時に、社会的支援の量が10しかない。従って合計点が35点なので、とてもその問題が解決できない。しかし、その社会的支援の量を65増やしてあげれば、結果的に100点になる。そうしたら問題解決できるようになるではないか。そういう65足すというところが、いわば支援付き意思決定の基本的な考え方ということになるのだろうと思います。
もう一つ、能力についての非常に重要な点は、この成年後見制度は、人の能力を客観的、科学的に測定することができるということが一つの大前提です。そうでなければ、能力が十分だとか不十分だとか、ないとかあるとかということが言えないわけです。科学的、客観的に測定できる技術をわれわれの社会が持っているということが一つです。もう一つは、その科学的、客観的に測定した結果に基づいて能力の最低ラインを決めることができるということです。これも客観的、科学的に決めることができるということがなければなりません。この二つの前提がなければ、成年後見制度を成り立たせることができないわけです。
しかし、どうでしょうか。その能力を科学的、客観的に測定する方法があるかというと、これは現代の心理学や精神医学をいろいろ調べてみても、人間の能力を客観的に測定するということは技術的に今のところ、できていません。だから、まず一つの前提が欠けるということです。
もう一つは、では科学的に測定できる、客観的に測定できるのだと仮に考えたとして、「では、能力のあり・なしの最低ラインはどこになりますか」というときに、このグラフのように、例えば0〜7点まで点数を付けることができるとします。そして、これは科学的、客観的なものであると考えたときに、最低ラインは3点ですか、2点ですか、あるいはむしろ4点ですかということを決める決め方は全然科学的ではないわけです。自己決定を非常に大事にしようと思えば、この最低点のラインはなるべく点数を下げて行った方がいい。つまり自己決定をできる人の領域が広がります。でも逆に、そうすることによって、失敗したり損失を被ったりする人が増えたりするので、守ってあげなければいけないというようにパターナリズムという点に重点を置くとすれば、点数は上に上げていった方がいい、4点とか5点を最低点にした方がいいということになります。つまりこの最低点のラインは科学的、客観的なものではなくて、われわれの社会が何を大事だと考えるかということによって変わってくるということです。
たまたま日本では今、成人の年齢を20歳から18歳に下げるという変更が行われましたけれども、これなども、なぜ18歳なのか、17歳や19歳ではない理由は何なのかということを追求していくと、決めようがないわけです。どれぐらいの人たちに、親の同意を得ないで契約をさせてもいいのか、酒やたばこをたしなんだ結果についての自己責任を負わせていいのかということの価値観によって決まっているだけ、あるいはもしかすると、政治家が若年者に選挙権を与える方が有利だと考えたかどうかという、そういう政治的な思惑によって決まっているというところもあって、この能力の最低ラインは、その時代、その社会の価値観によって影響されるということになるわけです。
ですから、これは実は障害者権利委員会の一般的意見も述べていますけれども、結局のところ、判断能力は社会的および政治的文脈に左右されてしまうということになるわけです。
さらに、そういう政治的、社会的文脈という観点から考えると、成年後見制度のもう一つの何か不思議さがあります。今まで私自身もだまされていたのかもしれませんけれども、成年後見制度が必要だ、有効だと言われる一つの理由は、自由競争の社会の中でみんなが競争していくときに、能力の高い人と能力の低い人が同じ場所で競争したならば、能力の低い人の方が負けてしまうのではないか。だまされたり弱みにつけ込まれたりして、不利な契約をさせられてしまう。それは気の毒だから、成年後見人を付けて損しないようにしてあげましょうという説明の仕方です。
しかし、これはどうなのでしょうか。この絵を見ていただくと、だます人、人の弱みにつけ込む人が片方にいる。もう片方には、だまされてしまう人、つけ込まれてしまう人がいる。このときに、どちらの権利を制限すべきなのか。成年後見制度は被害を受ける人の権利を制限するというわけです。「あなたは放っておくと被害を受けてしまう。だからあなたは勝手に契約できないように手錠をはめておきますよ」という考え方です。そうなのでしょうか。むしろ、人をだましたり弱みにつけ込んだりする人の権利を制限すべきではないのか。例えば日本の公職選挙法だと、その選挙のときに不正な行為をすれば選挙権が5年間停止されるという制度があります。むしろ、人をだましたり人につけ込んだりした人については、あなたには今後成年後見人を付けます、勝手に契約はできませんというようにするのであれば、まだ理解できます。なぜ被害を受ける人の権利を制限するのか。この辺に、いわばわれわれは無意識に成年後見制度を受け入れてきたけれども、実はその制度自体に大きな差別性が隠されていると考えなければいけないのではないかと思っているわけです。
あとは、日本の少し特殊な状況かもしれませんが、1990年代に高齢者や知的障害の方で施設に入所されている方が、施設で年金を横領されてしまうとか、家族が高齢者のお金を横取りしてしまうという、いわば財産権侵害が横行して、そういうことを防ぐために成年後見制度が必要だったということで、2000年に新しい成年後見制度ができたわけです。
しかし現在、成年後見人の約65%以上が職業的な専門家成年後見人であり、後見人が付けられている人の側から、後見人に対して、年間約230億〜250億円の報酬が支払われています。果たして後見人がいなかったらば、毎年、日本の社会で高齢者や知的障害の人が250億円近い財産権侵害を受けるのだろうか、それほど私たちの社会は腐りきってひどい社会なのだろうかと考えると、恐らくそこまでの被害は発生しないはずです。皆さんが海外旅行に行くときに旅行傷害保険に入られるのは、もしかしたら人にボストンバッグなど盗まれて50万円ぐらい損してしまうかもしれない、だから保険金を払って200万円の保険に入るかということです。これは明らかにコストパフォーマンスのバランスが崩れているということではないかと思います。
最後に、では成年後見制度が駄目なのだとすると、どんな方法で意思決定の支援をしていったらいいのかということについて、概略を考えておきたいと思います。
これについても、障害者権利委員会はさまざまなアドバイスというかヒントを与えてくれています。それがその後のスライドの幾つかに出ておりますので、参考までに後で読んでおいていただければと思いますが、私自身が重要なポイントだと思うのは、成年後見制度は極めてフォーマルな介入の仕方ですが、インフォーマルな支援のあり方も考えなければいけないということを一つ指摘していることです。
それから、言語的なコミュニケーションの取り方も工夫しなければいけないとも言っているということです。その辺りを一つのポイントとして理解していただければいいかと思います。
もう一つは、12条4項については既にご承知だと思いますけれども、やはり他人の支援が、後見人にせよ、あるいはインフォーマルな支援のあり方にせよ、入ってくるということは、本人の意思決定がその中で強い影響を受けるということにはなるわけです。そういう意味でもセーフガードが必要だということで、12条4項にさまざまな指摘がされていることも重要なポイントだと思います。
時間の関係で少し飛ばさせていただいて、では、さまざまなその支援付き決定のあり方に共通するものは何だろうかということを少し最後にお話ししておきたいと思います。
例えばニュージーランドやヨーロッパでは、ファミリーグループ・カンファレンスという方法が採用されていたり、あるいはオーストラリアでサポーテッド・ディシジョン・メーキングという支援付き意思決定の仕方が提案されていたり、あるいはカナダではマイクロボードというやり方が取られていたりします。
少し乱暴なやり方かもしれませんけれども、こういうものに共通しているものを引き出してくると、幾つかの共通項があることが分かります。
第1は、本人の親密圏の関係者あるいは身近な地域の福祉介護の専門家が本人を支える小集団を形成するということです。これは極めて興味深いのは、成年後見制度は、本人を知らないどこか遠くの人が公的後見人や職業的な後見人ということで入ってくるわけですが、この意思決定支援の新しいあり方は、もともと本人を取り囲んでいる、本人の親しい人たち、本人のことをよく知っている人たちが支えに入っていくというものです。そういうインフォーマルな組織を再構成していくというところに大きなポイントがあります。
2番目は、特にわれわれの地域では重要だと思いますが、親など年上の人の意見が通りやすいという社会かもしれませんので、やはり本人の意見をきちんと盛り立ててくれるアドヴォケートをその小集団の中に組み込んでおくことが非常に重要なポイントになります。
3番目は、その小集団の中で、民主的な会議運営がされるということです。参加者みんなが自由に意見を述べることができるということが非常に重要です。
4番目は、課題に向けての関係者の役割分担や、その実行、レビュー、必要なら再度の調整などを動的に行っていくということが非常に重要です。ここのもう一つの重点は、意思決定という問題をわれわれが机の上で考えると、あたかも解決すべき課題あるいは決定すべき課題が、学校の入学試験の問題みたいに動かしがたい問題のように設定されるわけです。けれども、例えばオランダで行われているファミリーグループ・カンファレンスなどを見ますと、例えばアル中の人が精神科病院に入院すべきかどうかということを決定するときに、われわれの頭の中で、机の上で考えると、入院すべきか否かという選択肢なのですが、そもそもなぜこの人はアル中になっているのだろうと考えるわけです。そうすると、行くところもないし、孤独で誰も一緒に食事もしてくれないし、家の中に閉じこもってお酒を飲んでいるしかないという状況が例えば浮き上がってくる。では、昔の友達が「1週間に2回か3回一緒に夕ご飯食べるよ」「昼間にデイケアセンターに行こうじゃないか」という働き掛けをすることによって、飲酒量が減少する。そうするとアルコール依存の状況が軽減されて、入院の必要性がなくなっていく。だから、そもそも入院すべきかすべきではないかという問題が消えてしまうということが起こるわけです。
だから、問題はもっと動的に捉えていく。そのためにはいろいろな親密圏の人たちが果たせる役割を果たすということが非常に重要な意味を持っていると言えるわけです。
一つスライドを飛ばしまして、最後に、代行決定と支援付き決定の対比をしておきたいと思います。
まず代行決定、成年後見的な介入では原則として1人の後見人が決めるということに対して、意思決定支援では親密圏の小集団とアドヴォケートが関わって決めるというやり方の違いがあります。
それから、成年後見の方では、決定が独断的になる危険性がある。1人で決めるわけですから、そうなる可能性がある。しかし、意思決定支援の方法ですと、本人中心に民主的に結論を引き出すということができる。
また、成年後見のやり方ですと、公的あるいは専門家後見人は親密圏の外側の人なので、もともと本人のことを知らない人が決めていくということになる。しかし、意思決定支援の方法ですと、本人の生き方や好みを近くでよく知っている人がいろいろ話し合って決めていくので、本人の意向に沿った決定がしやすいということになります。
それから、成年後見のやり方ですと、障害のある人だけの特別な決定方式ということになりますが、意思決定支援の方法は、障害のない人の決定の仕方と同質でユニバーサルである、つまりもともとわれわれが普段生きた社会の中でしている決定に近いものにしていくということです。
それから、成年後見の方法ですと、権利制限をしますので、どうしても裁判所が関与することになるし、そのことによって手続き自体が非常に硬直化していきます。しかし、意思決定支援の方法は、別に権利制限をするわけではないので、裁判所のようないかめしい機関が関わる必要がなく、手続きの柔軟性が確保できるという点に特色があります。
さらに、成年後見制度の方ですと、コミュニティの脆弱化が進行する。これは、われわれの社会、近代社会で徐々に社会的なネットワークが失われて個人がばらばらになっていくという現象の中で、では能力が乏しい人をどうやって支えていくのかという形で成年後見が生まれてくるわけです。そのことによって、もともとコミュニティがかすかに持っていた力が、もう後見人に任せておけばいいから後は何もしなくてもいいやということでさらにどんどん失われていくということになる。しかし意思決定支援のあり方は、むしろ、失われつつあるコミュニティの力をもう一度復活させていきましょうというやり方です。全く違うやり方なので、全く違う方向を目指すということになるわけです。
最後に1点、ご説明しておいた方がいいかと思うのは、先ほど残された、例えば意識喪失状態にある人の意思決定支援が、果たして意思決定支援の仕方でできるのだろうか。つまり、どう働き掛けても反応が読めない状態の人、あるいは、私はあまりそうではないと思いますが、非常に重い知的障害や自閉のある人でコミュニケーションが成り立たない人に意思決定の支援ができるのだろうかという問題が残るかもしれません。それについてのただ一つの反論としては、ではそのとき、もし成年後見人が付いていたら、成年後見人はどうするのだろうか。すると多分、私が成年後見人だったら、親密圏の人たちのところに行って、「この人はもともと、どういうことが好きな人だったのでしょう。あるいは、日常生活でいろいろ様子を見ているときに、どんなときに心地良さそうな様子をしていますか」ということを聞いて、「ああ、この人ってこういうことが心地良いんだな」「こういうことが好きだったんだな」という情報を得て決めるわけです。本当は後見人が決めるのではなくて、親密圏の人の意見によって決まっているわけです。そこに後見人がいなくても、親密圏の人が決めてくれれば、同じ結果が得られるというわけです。だから、実は成年後見制度がないと困ると思っているケースにおいても、結局のところ、実態としては親密圏の人が関わって決めるということになるので、意思決定支援の転換、パラダイムの転換を図っても特段困った結果にはならないのではないかというのが私の考えです。
短い時間で大急ぎでお話ししてしまいましたが、これからのいろいろな議論の中で、またご質問やご意見を頂ければと思います。どうもありがとうございました。

障害者権利条約12条(法的能力)実施の国際的課題

東京アドヴォカシー法律事務所
弁護士 池原毅和
E-mail; bipola21@gmail.com
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