まえがき

まえがき

上野千鶴子

立命館大学先端総合学術研究科で大学院生を対象に2012年から5年間、教えてきました。
多くの大学院生が、医療・看護・介護・福祉系の現場を持った社会人経験の持ち主でした。そのひとたちは、自分の人生を賭けた現場の経験を、学位論文にして社会に発信したいと考えていました。わたしの教員としての任務は、そのためのノウハウを伝えて、アウトプットのお手伝いをすることでした。
そのなかで、毎年夏に、2日間にわたって質的情報分析の実習を実施してきました。本書でいう「うえの式質的分析法」とは、梅棹忠夫さんをはじめとする京都学派の情報整理術を受け継いだ、KJ法うえの版です。KJ法は京都学派のひとり、人類学者の川喜田二郎さんが考案した質的情報分析法です。告白しますが、わたしは川喜田二郎さんからKJ法を学んだことが一度もありません。生前に面識もありません。川喜田さんからKJ法を学んだ先輩たちから、みようみまねでノウハウを学び、自分流に創意工夫したものです。
実際に現場でワークショップをしてみると、よそでKJ法を学んだことのある多くのひとたちから、「やってみたが、それっきりになっていた」「これならつかいものになる」という反応をいただきました。他の方のKJ法と、どこが違うか、わたしにはわかりません。が、どこかに何か秘訣があるのでしょう。その「謎」を、うえのの発言と実践に沿って、受講生がこくめいに再現してくださったのが、この本です。
情報処理には量的情報処理と質的情報処理とがあります。量的情報処理には、統計学を学べばすでに多くのノウハウがあり、さまざまな統計ソフトも入手可能です。ですが、質的情報処理には、分析のノウハウが標準化しておらず、分析結果の信頼性が劣ることで、量的情報処理を用いた研究にくらべて、二流の研究とおもわれがちな傾向があります。先端総合学術研究科の院生には、自分自身の参与観察やインタビュー調査にもとづいて、質的情報をもとにした研究主題を持ち、豊かな質的情報を目の前にしながら、その処理と分析に呆然としている…というひとたちが多い、と感じました。だから、信頼できる質的情報処理法のノウハウを、徹底的に伝えようと思ったのです。
量的情報と質的情報はしばしば対比されますが、量的情報といえどももとはといえば、測定に先立ってつくられるカテゴリー化とは質的な情報処理にほかなりません。量的情報は数量的に測定可能な情報しか分析できないのに対し、質的情報は、もっと細部に立ち入った豊かな分析が可能です。また、量的情報処理には有意差を検定することが可能な一定規模のデータ量が必要ですが、質的情報処理では、極端にいえばたったひとつの事例分析でも、根拠をともなう発見が可能です。データ処理の規模と効果からいえば、質的情報処理のほうが、ずっとコストパフォーマンスがよい、というのがわたしの実感です。なぜなら量的分析ではあらかじめ予測した仮説を検証して終わることが多いのに対し、質的分析では仮説を超えた発見を見いだす確率が高いからです。そして、自分の狭い視野を超えた想定外の発見によって、きもちよく裏切られるほど、研究者にとってうれしい報酬はあるでしょうか。
近年、質的情報の価値が高まり、それにしたがってさまざまな分析法も洗練されてきました。GTA(Grounded Theory Approach)というものが外国から紹介されたとき、なあんだ、こんなことなら昔からやってきた、と既視感がありました。「グラウンデッドgrounded」は文字通り、「現実にもとづいた」「根拠のある」分析という意味です。「仮説生成法」や「カテゴリー飽和」など、あとから与えられた概念も、すでに実践のなかにありました。
質的情報処理の落とし穴は、現場におけるデータ収集がおもしろすぎて、データコレクションが終わった段階で、何ごとかをなしとげた達成感を味わうことです。その次の落とし穴は、膨大な質的情報を前にして、茫然自失してしまうことです。結果として、分析らしい分析もせず、調査の前に自分が立てた仮説にしたがって、つごうのよいデータだけをつまみぐいしてしまう…傾向があることです。質的情報にもとづく研究論文が信用ならないと疑いの目で見られてきたのは、自分のシナリオどおりにデータを切り貼りした、検証にも反証にもなっていない恣意的な研究が多い、と感じられたからでしょう。これではせっかくとってきた現場のデータがもったいないですし、面接に応じてくださったインフォーマントにも申し訳ないというものです。
社会科学は経験科学です。あくまで現実に立脚し、検証可能な根拠のある主張を、論理整合的に読者に示さなければなりません。その点、うえの式質的分析法は、徹底した帰納分析法の一種、といいかえてもかまいません。帰納法とは、演繹法とちがって、予断と偏見を去って「データに語らせる」方法です。
分析者の恣意でデータを取捨選択することはしません。KJ法でいう「はなれザル」は、統計でいう「はずれ値」に当たります。データ全体の布置をはかりながら、逸脱した「はずれ値」も無視せず、さらに情報の集合の境界外に何があるか、すなわちそこに何があり、何がないか、までを問題にします。帰納法でありながら、帰納分析を高次化していく手法、といってもよいでしょう。それによってはじめて、分析と発見が可能になり、たんなる記述を超えることができます。
さらに「うえの式質的分析法」に、プラスアルファがあるとすれば、かならずアウトプットを出すところまで持って行くことでしょうか。情報収集はインプット(入力)、情報分析はプロセス(加工)、最後に情報発信というアウトプット(出力)まで到達して、はじめて研究は完成します。どんなに情報を持っていても、どんなに知恵にあふれていても、それを伝達可能な知に置き換えなければ、ないに等しい…からです。処理した情報は、読者に伝わってなんぼ、それが研究の成果というものです。
さあ、これが研究です。わたしはかねて「学問は極道だ」と言ってきましたが、世に数ある極道のなかでも、こんなにおもしろい極道は少ない、といってもいいでしょう。本書を読んで、みなさんが質的情報処理のノウハウを通じて研究のおもしろさを味わってくださればさいわいです。