第Ⅱ部 思考 ーフェミニズムをめぐる論考 ■特別寄稿 9.異性愛批判の行方 ー支配服従問題の消失と再興【翻訳資料1】レッドストッキングス宣言 【翻訳資料2】政治的レズビアニズムー異性愛反対論

特別寄稿

異性愛批判の行方
―支配服従問題の消失と再興―

小泉義之

1 再生産概念と〈学校‐家族〉批判

再生産(reproduction)は、経済的な意味での再生産と生物的な意味での生殖の二重の意味をもつ概念として使われることが、いまだに続いている。私は、そのように再生産概念のダブルミーニングに寄りかかる論法には多くの難点が潜んでいると考えている。そもそも再生産論は、既存の秩序や構造が安定的に維持されている外見を説明するために、当の秩序や構造がいかにして再生産されているのかを問うものであるにしても、そのように説明するという身振りでもって、既存の秩序や構造の外見的な安定性を追認し合理化する保守=保存的な面を持たざるをえないことは指摘するまでもないし、同時に、再生産論は秩序や構造の発生や起源の歴史的な説明だけではなく理論的な説明をもあらかじめ放棄しており、そのことでもって、秩序や構造の発生や起源とその後の変化や過程の分析を、いわば前理論的で経験的な通念に丸投げしてしまうことになるとも指摘することができるが、私の見るところ、再生産論に潜む問題はもっと根深いところにある。本稿はそのことを見据えながら、また、再生産論とフェミニズムが結びつく経緯を念頭に置きながら、1960年代後半から1970年代にかけての異性愛批判を想起することを通して、それ以来、何が失われてきたのかを考え直すことを課題としたい。そこで、ルイ・アルチュセールの再生産論を検討することから始めてみる1。
アルチュセールによるなら、社会構成体が存在するためには、生産諸力と生産諸関係が再生産されなければならない。すなわち、同じ一つのものが存在し存続するためには、その何かがそのものとして再生産されるというのではなく、言いかえるなら、その何かが自己生産し自己保存し自己によって存在するというのではなく、その何かを構成する諸力と諸関係が再生産されなければならないというのである。そして、それが何を「生産」する「力」「関係」であるかはとりあえず不問にふしたまま、その何かを生産するものが再生産されなければならないというのである。
いまは、このような理論的端緒の構成については論じないが、注目すべきは、その端緒の次のステップで「労働力」が導入されることである。しかも、その労働力には二重の理論的な機能が課せられていく。第一に、労働力は「生産諸手段と生産諸力を区別するもの」と規定される2。第二に、その労働力がいかにして再生産されるのかと問いが立てられる。すなわち、社会構成体の再生産の条件の問いは、生産諸関係の再生産のことを一旦は括弧に入れて、労働力の再生産の条件の問いへと転位されるのである。そして、問いはさらに限定される。労働力の再生産を「保証」するのは賃金であるとする通例の理解が追認された後に3、「労働力の専門技能」の再生産はいかにして「保証」されるのかと問いが立て直されていく。では、それを「保証」するものは何であるのか。アルチュセールが出した解答は、「学校」であった。

この労働力の専門技能の再生産とは、「現場で」(生産そのものの内部における見習い)保証されるのではなく、次第に生産の外で、すなわち資本主義的な学校のシステムによって、またはそれ以外の諸機関と諸制度によって保証される傾向(ここでは傾向法則が問題である)にある4。

では、学校(及び、学校的で学校化された諸機関や諸制度)では何が教えられるのか。アルチュセールによるなら、それは技術や知識だけではなく、分業に応じた礼儀作法の諸規則、フランス語で正しく命令することなどである。総じて、学校は、「専門技能の再生産」に加えて、「労働者に対しては支配的イデオロギーへの服従の再生産、さらには、搾取と抑圧の担い手たちに対しては、支配階級の支配を同じく「言葉によって」保証するために支配イデオロギーを使いこなす能力の再生産」を保証する傾向にある。要するに、学校とは、「支配的イデオロギーに対する服従の再生産、あるいはこのイデオロギーの「実践」の「再生産」を保証する傾向にあるのである5。
ここで少し、立ち止まろう。社会構成体の再生産の問いは、労働力の再生産の問いへと転位された。労働力の再生産の問いは、賃金による保証と学校による保証へと転換された。学校は労働者と支配階級を生産するわけではない。また、それぞれを再生産するわけでもない。そうではなくて、学校は、支配的イデオロギーに対する二種類の主体の差異や関係を再生産する。一方の主体である労働者は支配イデオロギーへの服従を学習し、他方の主体である支配階級は支配的イデオロギーの運用を学習する。そのことによって何が再生産されるかというのなら、支配階級と労働者の関係、支配と服従の関係が再生産されるというのである。ここまでの議論において生産諸関係の再生産のことは括弧に入れられている。ということは、生産諸関係と支配・服従の関係は区別されていると解さざるをえない。その区別の指標は、支配的イデオロギーの介在の有無である。そして、社会構成体が安定的に存在するためには、支配的イデオロギーを媒介とする支配階級と労働者の関係が再生産されなければならず、それを保証するのが学校であるということになる。
次いで、アルチュセールは、国家を導入し、国家権力と国家装置を区分する。後者の国家装置としては、「警察‐裁判所‐刑務所」だけではなく、「軍隊」「国家元首、政府や行政機関」があげられる。そして、プロレタリアートは、国家権力を奪取するだけでは足りず、国家装置を「利用」しながらそれを「解体」しなければならないとその使命を語ってから、「国家のイデオロギー装置」を導入する。

国家理論を前進させるためには、ただ単に国家権力と国家装置の区別を考えるだけではなく、同時に、明らかに国家(の抑圧)装置の傍らに存在するが、しかし国家(の抑圧)装置とは異なったまた別の現実を考慮に入れることがぜひとも必要である。われわれはその現実を、その概念にしたがって、国家のイデオロギー諸装置appareils idéologiques d'Étatと呼ぶことにする6。

この「国家のイデオロギー装置」としてあげられるのは、「専門化された諸制度」、例えば、教会、公的・私的な学校、政党、新聞、ラジオ・テレビ、文学・美術・スポーツである。とりわけ学校については、国家のイデオロギー諸装置のうちで「支配的な地位」を占めているともされる。
その後で、アルチュセールは、家族を主題化する。アルチュセールによるなら、家族もまた、国家のイデオロギー装置の一つであるが、それは特別なものである。というのも、「〈家族〉は明らかに国家のイデオロギー装置とは別の「機能」を果している。〈家族〉は労働力の再生産に介入する」7からである。では、家族において、その労働力の再生産はどのように規定されるのであろうか。ここでは、労働者の維持という意味での労働力の再生産のことよりは、強調点は、支配的イデオロギーに服従する労働者の再生産に、あるいは、そのような労働者の生産に置かれる。その際、国家のイデオロギー装置がイデオロギー的に機能することに重点が置かれて、家族は、学校や教会と同様に、「賞罰、排除、選抜、等々の適当な方法によって、彼らの祭式執行者のみならず、信徒をも「調教」する」8と規定される。
さて、問題は、社会構成体の再生産であった。そのための生産諸力と生産諸関係の再生産であった。そして、問題は、労働力の専門技能の再生産と、支配的イデオロギーへの労働者の服従と支配的イデオロギーの支配階級による運用の再生産であった。その再生産を果たす国家の装置が、かつての〈学校‐教会〉に取って代わってきたところの〈学校‐家族〉であるとされるのである9。とするなら、〈学校‐家族〉こそが、社会構成体を再生産するための核心的な機能を担うものであるということになる。しかし、本当だろうか。〈学校‐家族〉にそれほどの機能があるとするなら、〈学校‐家族〉の変容はただちに社会構成体の変容を引き起こすはずである。社会構成体の再生産を阻止するためには、〈学校‐家族〉による労働力の再生産を阻止すればよいことになる。しかし、そんなことが信じられるだろうか。そのようなことが信じられたとするなら、それはどうしてであったのだろうか。あるいはまた、当時、〈学校‐家族〉は、社会構成体を別の仕方で再生産されるように再編成されたのであろうか。これらの問いについては他日を期し、アルチュセールに戻ろう。
アルチュセールは、こう進めていく。支配階級が国家権力を掌握できているのは、その支配階級が国家のイデオロギー装置に「対して」、またはその「中で」、「ヘゲモニー」を行使しているからである。それ故に、国家のイデオロギー装置は「階級闘争の場」でもある10。ということは、支配階級は、学校‐家族に対して、かつ、学校‐家族の中で、ヘゲモニーを行使しているということになる。しかも、学校‐家族そのものが階級闘争の場であるということになる。現在の支配階級と明日の労働日の労働者の階級闘争の場であるということになる。ここにきて初めて、アルチュセールは、生産諸関係の再生産を主題化する。生産諸関係と搾取諸関係を等置した上で、国家のイデオロギー装置の主要な役割は、搾取者と被搾取者のそれぞれに相応しい役割を身につけさせることである繰り返していく。言いかえるなら、〈学校‐家族〉は、労働力を再生産して生産諸力を再生産するだけではなく、支配的イデオロギーに服従する労働者を再生産することによって、実は生産諸関係をも再生産するのである。〈学校‐家族〉こそが、社会構成体そのものを再生産するのである。ただし、事態がさほど単純にならずに混濁していくのは、そこにイデオロギー概念が介在するからである。アルチュセール以降を見通すとき、この点が重要である。アルチュセールは、どのように抑圧者と被抑圧者の役割を身につけさせているのかということについて、こう書いている。

宗教装置は、〈説教〉や〈誕生〉、〈結婚〉、〈死〉などの大きな儀式において、人間は一方の頬を打った相手に他の頬を差し出すまでに彼の兄弟を愛することができなければ、単なる灰にすぎないのだということを思い出させることによって。家族装置は……。この程度でやめておこう11。

宗教装置の機能を家族装置が引き継ぐのであるからには、家族における誕生・結婚・死の儀式こそが、被支配者・被抑圧者たる労働者を再生産するということになる。そして、その再生産は、「イデオロギー的な再認」の生産として規定される。

ある個人が、生まれる以前からでさえ、つねに‐すでに主体である(un individu soit toujours-déjà sujet)ということは、しかしながら誰にでも受け入れられるごくふつうの現実であって、少しも逆説ではない。〔……〕各人は生まれる子どもがどれほど、またどのように待たれているかを知っている。そして、このことは結局、きわめて散文的に言えば、もしここで「感情」を、すなわち生まれてくる子どもがそのなかで待たれている家族的な、つまり父性的/母性的/夫婦的/兄弟的なイデオロギーの諸形態を問題にしないことに同意するならば、この子どもが父の名前をもち、したがって身元をもち、かけがえのない存在になることはまえもって確定している、ということである。それゆえこの子どもは、生まれる前から、つねに‐すでに主体であり、懐妊以後、子どもが「待たれて」いる種差的な家族的イデオロギー的な布置のなかで、またこの布置によって主体であることを割り当てられているのである。この家族的イデオロギー的な布置は、その単一性において強度に構造化されており、またかつての未来‐主体(l'ancien futur-sujet)が「自己の」場所を「見出さ」なければならない、すなわち彼がすでにまえもってそうである性的主体(男の子あるいは女の子)に「成ら」(« devenir » le sujet sexuel(garcon ou fille)qu' il est déjà par avance)なければならないのは、多少とも「病理学的な」(この用語にひとつの割り当て可能な意味があると仮定して)この仮借のない構造のなかにおいてであるということは付け加えるまでもない12。

「かつての未来‐主体」は、他ならぬ家族の中において、イデオロギー的に再認される。言いかえるなら、病理的に再認される13。では、何ものとして再認されるのか。また、何ものとして自己を再認するのか。父として、母として、夫として、妻として、兄として、弟として、である。語彙的性差(ジェンダー)の制限を解除するなら、加えて、姉として、妹として、でもある。ところが、強調しておきたいのは、ここでのアルチュセールが、「かつての未来‐主体」が「性的主体」に成ることが、イデオロギー的で病理的な構造の内部において成立するしかないとしても、それでも、男の子と女の子に分かたれることが、その限りでの性別化が、論理的に、イデオロギー的で病理的な再認に先行する可能性を認めているということである。つまり、アルチュセールは、それについて十分に展開してはいないものの、父性的/母性的/夫婦的/兄弟的なイデオロギーは支配的なイデオロギーであって、家族はそれに服従する労働者を生産し再生産することによって社会構成体を再生産することになるとするのであるが、こと性別化の意味での性化については、それを支配的イデオロギーに数え入れない余地を残しているのである。少なくとも対象論文ではそうなっている。アルチュセールによるなら、支配的イデオロギーの核心は家族イデオロギーである。それは、アルチュセール以降、家父長制(イデオロギー)として語られ続けるものであるわけだが、しかも、資本制と対にされて資本制の支配服従関係を再生産する機能をあてがわれるものとして語られ続けるものであるわけだが、こと性化としての性別化については、支配服従関係を免れうる余地を残しているのである。性化としての性別化は、異性愛だけではなく同性愛も可能にする条件であるが、その限りでの異性愛と同性愛は、支配服従関係と階級闘争を免れうる余地を残している14。さらに言えば、性別化に基礎を置く限りでの異性愛と同性愛は、国家のイデオロギー装置における支配的イデオロギーから除外される余地をも残しているのである。
このように、アルチュセールこそが、資本制と家族の関係、家父長制と異性愛・同性愛の関係をめぐる議論のフレームを提出していたと言うことができよう。アルチュセールは学校の危機について言及するものの家族の危機については論じていないが、アルチュセール以降、家族の危機こそが議論の中心を占めるとともに15、異性愛批判と異性愛擁護が前景に出てくることになる。

2 「男は敵である」/「汝の敵を愛せ」

被支配者からするなら、支配者は敵である(と解しておく)。家族こそが、支配階級がヘゲモニーを握っている支配服従関係の再生産の場であり階級闘争の場であるなら、その家族内部において誰が敵であることになるのか。家族こそが国家のイデオロギー装置であるなら、被支配者たる労働者にとっても家族そのものが敵となるはずであるが、家族の内部に位置する労働者にとって家族内部の誰が敵であることになるのか16。事態は複雑であり錯綜する。歴史的に振り返って、その事情があからさまになったのは、レズビアン・フェミニズムが家父長制批判を深化させて異性愛批判にまで議論を進めたことによると見ることができる。
1960年代後半から1970年代にかけての、フェミニストによる男批判をたどっておく17。著名なものの一部を列挙するなら次のようになる。

Valery Solanis, SCUM(Society for Cutting Up Men)Manifesto(Olympia, 1967)
Redstockings Manifesto(1969)
Christine Delphy, “L'Ennemi principal”(1970)
→ The Main Enemy(WRRC, 1977)
Leeds Revolutionary Feminist Group, “Political lesbianism: The case against heterosexuality”(1979)18

これらの文書に共通する主張を取り出してみるなら、第一に、男と女の関係は、それがいかなる関係であれ、すなわち、二個人の関係であれ、二集団の関係であれ、性的関係であれ、支配者・抑圧者と被支配者・被抑圧者の関係である。第二に、その関係は、階級関係である。したがって、第三に、男と女の間の対立は、それが集団的な場合はもちろん、それが個人的・私的な場合であっても、政治的な対立である。第四に、女の個人的・私的経験、社会のいたるところで女であるがために経験する苦渋や苦痛は、そうした対立によって引き起こされているし、逆に、それら女の経験こそがそうした対立の存在を証している。総じて、女にとって男は敵であり主敵である。
このとき、実践的結論はどうなるであろうか。一部のフェミニスト、とりわけレズビアン・フェミニスト(の一部)は、決然と分離主義を唱えていった19。女だけで生計を立てること、女だけで暮らすこと、男との婚姻や家族形成に関与しないこと、男と性的な関係を取り結ばないことなどを実践していった。アルチュセールの用語で言うなら、国家のイデオロギー装置である家族そのものを拒絶しただけではなく、性別化を基礎とする異性愛そのものを拒絶していったのである。この点を理論的に突き詰めてみるなら、男と女に性化して性別化するというそのことが異性愛における男的なものと女的なものの形成と区分できなくなっているからには、起源にあると目される性化としての性別化そのものが男女の支配服従関係の基礎となっているし、逆に、後者によって前者は常に既に条件づけられているということになる。とするなら、異性愛に対して同性愛を対抗することよりも、異性愛と同性愛を共に可能としていると目されているところの性化としての性別化そのものを拒絶しなければならない。そのことをレトリカルに表現するなら、家父長制と異性愛からの分離主義者は、男の対で語られる女ではないし、端的に女ではないということになる20。とするなら、分離主義者こそが、それを「主体」と呼んでよいとするなら、社会構成体の再生産を危うくする真の革命的主体であることになるはずである。
しかし、このような分離主義の理論と実践を多くの人は受け入れることができなかった。その一部の人々は、理論的な反論を試み始めた。それが表立ってくるのは、1970年代後半から1980年代にかけてである。幾つか取り上げておく21。アマンダ・セベスティアンが、分離主義から転向しながらも迷走する様子を見ておく。

何年かの分離主義を経て現在の妥協的な立場(compromise position)に到って思うのは、私は男との何らかの関係を、性的な関係も含む何らかの関係をたしかに望んでいるということである。しかし、私は、依然として、分離主義が目指している仕方で自分の生活を変えたいと望んでいる。私はラディカル・フェミニストである。そのことが意味していることは、私は男を政治的な敵と見なしているということである。しかし、私は男たちを殺したいわけではない。それは解決としては保守的すぎる(too conservative)。私は、男たちが男であることを止めることを望んでいるのだ22。

セベスティアンにとって、男は政治的な敵であるが性的な友である。分離主義者にとって、男は、政治的な敵であり、かつ、性的な敵である。このことを家族に限定して言ってみるなら、男は、政治経済社会的に支配階級であり、かつ、家族における支配階級である。男は、自己を支配階級と労働者として再生産することによって社会構成体を再生産する限りで政治的な敵であり、かつ、家族で形成され家族を構成したがる異性愛者である限りで性的な敵である。以上の複数の二重の意味において男は主敵である。とするなら、社会構成体の再生産を断つには、主敵を打倒する以外に戦略があるはずがない。このような帰結が出てくるのは「政治的」に考えても避けがたいはずである23。
ところで、異性愛者としての男に対する男による批判は、1970年代における男らしさ(masculinity)批判として始まっている。そこでは、異性愛そのものの批判は回避されて、男の異例な異常性のみが批判されていくのだが、これに対し、男の側から異性愛そのものに対する批判を放っていくのがゲイ・リベレーションの担い手たちであった。ジェフ・ハーンによるなら、この点で決定的であったのが、1977年にイタリアで刊行されたマリオ・ミエリの著作である24。

ミエリは「普遍的同性愛」を掲げ、彼らを服従させている(異性愛的)ノルムに対抗する同性愛の意識と行動こそが革命的な力をはらんでいると主張している。こうして、ミエリは、ゲイ・リベレーションを、女・子ども・黒人・「分裂病者」・老人の解放一般に、さらに資本主義下の労働者の解放へと、それらがゲイ・コミュニズムに向かって動いている限りにおいて連結させるのである。ミエリは、男らしさを心理‐内部的に吟味するだけではなく人格関係の水準でも構造の水準でも吟味するのであるが、その際に、「多型倒錯」・オイディプスコンプレックス・エロスといったフロイトやマルクーゼの諸概念を援用している25。

このようにして、男は、再生産のダブルミーニングの結節点としての労働者=異性愛者である点において、レズビアニズムとゲイ・リベレーションの双方から挟撃されることになる。そして、私の見るところ、この厳しい論点を回避する過程で、家父長制概念が前景化してそれと資本主義の関係が詮議されるようになるのである26。思想史的に回顧するなら、その詮議の過程で、労働者=異性愛者=男の支配性と敵性が回避され隠蔽されるようになるのである。その点についての検討は別の機会に譲り、本稿では、その回避と隠蔽の別の経緯を取り上げておく。

3 異性愛の奇怪な擁護

1992年のある雑誌の特集と27、それを拡大増補した1993年の書物を検討してみる28。発端は、スー・ウィルキンソンとセリア・キッジンガーの二人が、雑誌Feminism & Psychologyの特別号の特集を組むにあたって、異性愛者ではないことを「公表」していない人々、あるいは、異性愛者であることを「公表」している人々に、次の設問への回答を寄せることを依頼したことにある。

「あなたの異性愛は、どのようにあなたのフェミニスト政治(そして/あるいは、あなたのフェミニスト心理学)に寄与しているか」。私たちは、この問いに対する1000語の応答を求める手紙をフェミニスト(フェミニスト心理学者を含む)に送った。それらの人々は、私たちの知る限りでは、異性愛者以外のものであると自己同定する公的な言明を一度も行ったことのない人々である29。

そして、二人の編者は、特集を組むにあたって、次の一連の設問を提示してもいた。

異性愛とは何であるのか。また、どうして異性愛はかくも普通(common)なのか。どうして異性愛者がその「性的指向」を変えることはかくも難しいのか。異性愛の性の本性とは何か。どのようにして異性愛の活動は、女の生活、女の自己感覚、女の他の女との関係、女の政治関与の総体に影響を及ぼしているのか。

以上の設問に対して、雑誌では21人が回答を寄せ、拡大増補版の書物では8本の論文と9本のコメントが加えられている。ここでは、二人の編者による「序言」を取り上げておく30。
キッジンガーとウィルキンソンは、二つの理論的な傾向を批判する。一つは、女におけるレズビアンと異性愛を連続するものとして捉える傾向、もう一つは多様性や差異を強調する傾向である。
前者の傾向は、第二波フェミニズム以前から始まっていた。すでにアルフレッド・キンゼイは「異性愛‐同性愛連続体」なる概念を作り出して、誰もが「バイセクシュアルのポテンシャル」を有しているとしていた31。ところで、近年のジェンダー・ニュートラルな語彙を選好する傾向にあって、性的に関係する相手のジェンダーが特定されないように、ラヴァー、パートナーといった語り方が普及してきたが、このことは女の側に限って見るなら、女の相手が男であっても女であっても、女の性は同質的なものであると見なしていることになる。これを裏から言うなら、少なくとも異性愛者の側が、異性愛の女とレズビアンは異なると主張するなら、それはホモフォビアの徴候であると見なされることにもなる。いずれにせよ、異性愛と同性愛が女において基本的には同質であると示唆することは、女の側におけるリベラリズム的な平等原則に適合的であると見なされているのである。以上の傾向に対して、二人の編者は強い疑念を表明している。すなわち、異性愛の経験が強制的異性愛の経験として形成されているとするなら、当然のことであるが、その経験は異性愛者の女とレズビアンではまったく異質のはずである。とするなら、近年の傾向は、とくに後者の経験を不可視化していると批判されなければならない32。
次に、多様性や差異を強調する傾向については、それは、異性愛が他の性の形態と違ってそれだけが特権的であるということを覆い隠してしまう。この点に関して、二人の編者は、メアリー・クロフォードの論考から一節を引用している。

私の子どもの学校でも、医者の診察室でも、職場でも、私を困らせるような人はいない。私が母として不適格であると告げるような人はいない。私が正式に結婚しているからであり、私の職のおかげで私のパートナーと家族に医療保険も提供されているからである〔……〕。遺言と担保、税金と自動車保険、退職年金と子どもの入学―個人が社会構造と接触する際の方途の一切―は、私や私のパートナーのような人々に合うように設計されている33。
それらは、異性愛の婚姻と家族に賦与されている特権である。女の側から見るなら、男を通して、男との関係を通して、男との性関係を通して賦与されている特権である。二人の編者によるなら、異性愛を他の性愛と並ぶ一つに数えて済ませることは、まさにこの特権を不問にふすことになる。
ここで少し立ち止まってみる。1990年代初頭における異性愛批判が、それが同性愛の側から提出される批判であっても、あるいは、そうであればなおさらのこと、1970年代の異性愛批判と何かが決定的に変容しているという感触がある。結婚して家族をもち相当の稼得のある異性愛者が特権を有しているとの指摘はその通りであるが、1990年代においては、その特権批判は、異性愛者と同性愛者を政治経済的に平等に扱うべきであるとの原則に基づいて発せられるようになる。その場合、政治経済的な解決は、基本的に、異性愛者の特権を抹消するか、同性愛者に異性愛者の特権に相当するものを配分するかの二択になるはずである。そして、前者の場合においては、後者の場合においてさえも、その制度設計に相応の難しさはあるものの、基本的に婚姻制度と家族制度に対する批判は無用ということになる。1970年代には、国家のイデオロギー装置として位置づけられていた家族に対する批判が無用ということになるのである。さらに、その場合、主敵はもちろんのこと、敵もいないことになる。解決すべき問題は不平等であって、支配服従関係ではないからである。では、ひるがえって、強制的異性愛の経験についてはどうであろうか。この点では、シスターフッドが保持されていると言うべきであろうか、強制的異性愛に楽に適合してきた女と強制的異性愛の強制性を日常的に経験している女とのあいだに、支配服従関係や非対称的関係が設定されてはいないことに留意されるべきである。とするなら、一定の女性に対して日常的に強制的異性愛の強制を働かせる者が敵であり主敵であるということになる。ところが、もちろんその主敵は社会構造体に位置を占めているわけでもないし、国家のイデオロギー装置に内蔵されたり補填されたりするものの位置を占めているわけでもなく、あげて問題は、基本的に二者関係とその重合に還元されるようになる。他にも1970年代と1990年代の差異をあげていくこともできるが、さしあたり強調しておきたいことは、現在のわれわれは、1990年代の思潮のフレームの内部にいながらも、そのフレームの綻びを経験し始めているのではないかということである。以上のような観点から、もう少しだけ、二人の編者による書物を検討しておこう。
自称・他称の異性愛者による回答の基本線は、異性愛は基本的に権力関係・不平等関係であるものの、平等な異性愛関係も可能であるとするものである。そして、異性愛者が異性愛を捨てるのを難しくさせ、異性愛の不平等関係を見えなくさせているものは何かとの問いに対しては、独りで生活することに対する怖れの故であるとするものである。その際、女と住む可能性を否定はしないとの留保が付けられるが、孤独への怖れこそが異性愛へ固着させるというわけである34。いずれにせよ、異性愛者は異性愛の権力関係を経験するものの、しかしそれでもと続けることにおいて、権力関係と区別されるような性関係や親密性が語り出される次第になっていく。その典型例として、キャロル・ナギー・ジャクリンの回答を引いておく。

異性愛関係は、非‐衡平であらざるをえないのであろうか。そんなことはない。今の私は、平等な異性愛の関係にいる。さらに言うなら、私の知る限り、多くの衡平な異性愛関係があるのに対し、不衡平なレズビアンの関係もある。とはいえ、権力の非対称性は、異性愛関係ではより普通のことである。/私が20年にわたって不平等な異性愛関係を続けたことは、私のフェミニスト政治にとって重要なことであった。というのも、そのことによって、権力の核心的問題が親密な関係などの制度にあることが、感情的にも知性的にも私にとって明白になったからである。権力的な不衡平は、多くの異性愛関係の基礎であり続けている。個人的なものは政治的である。私が権力的不衡平を経験したことは、そのような不衡平がより大きな社会問題に広がっていることを理解する助けになってきた35。

したがって、ある個人が平等で親密な異性愛関係を経験することは、それもまた政治的であるということになる。その衡平性の経験は、大きな社会問題の次元においても衡平性が広がっていることを理解させてくれるということになる。個人的なものは政治的であるというわけである。
先に回答を引用したメアリー・クロフォードは、1971年に、あるコンシャスネス・レイジング・グループに参加したとき、マルクス主義のレズビアン・フェミニストによって自分のブルジョア的異性愛を非難されたことがあるが、そのときも、それ以後も、自分は変わることがなかったとする一方で、自分が経験している平等な異性愛関係は、自分が教職に就いていることに由来していることを認めながら、その特権性についてこう書いている。

私は異性愛の特権の立場から語っている。その特権のおかげで、教室内で私は安全でいられる。しかし、それでも、私はその立場を使って、学生たちが心地よく受け入れている前提を覆している(subvert)。パラドキシカルなことであるが、私は、異性愛主義(heterosexism)を覆すために異性愛の特権(heterosexual privilege)を使っているのである36。

異性愛主義なるものに比して、異性愛特権は無垢であるというのである。そして、異性愛者は、おのれの立場のパラドキシカル性を引き受ける主体であることにおいて、なにほどか罪を免れているというのである。
1990年代の議論の特徴であるが、ロザリンド・ジルとレベッカ・ウォーカーは、その回答において美と欲望の論点に触れている。その論脈では、異性愛の女にとって、(男に)美しく見えたいと思う欲望は両義的で矛盾的なものとして現われてくる。そして、前項と同じ構成の弁明が示唆されていく。

美の神話による女に対する継続的な抑圧(oppression)に対する私たちの怒りと、魅力的でありたいと望む私たちの欲望のあいだの矛盾は、われわれの生活のいたるところに見いだされる。フェミニズムによって私たちは抑圧について語る言説を与えられてきたが、フェミニズムは、私たちが自分では不健全(unsound)であるとわかっているものを欲することを(いや、渇望することを)停止させることはなかった。/私たちは、平等で民主的で支持的な男とのパートナーシップを欲している。しかしながら、私たちにはファンタジーもある……。私たちは激しく餓えて欲しがり、より多くを望んでいるのだが、こうした欲望を生きるに際して、フェミニズムの言説を通してではなく、家父長的ロマンスの言説を通して生きているのである。しかも、アイロニカルなことに、私たちはそのことを知っている。ところが、そのことによって欲望が消え去るわけではない37。

このような知と欲望の分裂が、今度は、異性愛の主体を構成していると見なされていく。そして、その分裂的でアイロニカルな主体は、神話やファンタジーと名指されるなにほどか客観的な現実そのものの分裂を反映したり転写したりするものと見なされることになる。そのような主体であるということにおいて、異性愛者はおのれの健全性の証とするわけである。「抵抗」しているというわけである。この立場からするなら、男一般はもはや敵ではなく、同様の分裂した主体であり、平等な異性愛関係を目指す男はむしろ友であることになる。エリザベス・マップストーンはこう書いている。

現実世界の権力は男たちの手のうちにあるけれど、また、男たちはその些細な一部ですら手放したがらないままであるけれど、私たちが苦しめられている社会構造について諸個人に責任はないのである。たしかに、男たちは非難されるべきである。それは当然である。とくに男たちが、私たちのシスターたちが壊そうとしている鉄鎖を修復することに固執するときには。しかし、その伝統的な役割を拒絶し、搾取者と被害者としてよりは平等なる者として女と暮らし女の友を持ちたがる男たちがいるということを私たちは認めなければならない38。

敵を愛さなければならない、とりわけ回心した敵は愛さなければならない、というわけであるが、もはや男は敵として「本質化」されていないのである。このように、二人の編者の質問に対する回答の一部を見ても浮き彫りになってくることは、異性愛者が自己と男の一部を正当化しようとするその仕種において、何か決定的な変化がもたらされているということである。その変化を理論的・思想史的に捉え返すことも別の機会に譲るが、少なくとも権力論の変化と主体論の前景化がその指標になることは間違いない。その点で、二人の編著に寄せられた諸論文から、規律訓練権力概念を導入しているニコラ・ガベイの論文を取り上げておく39。

直接的な力や暴力によらずとも、規律訓練権力(disciplinary power)の作用を通して、男性支配(male dominance)は異性愛実践において維持されうる40。

ここで男性支配の典型例として差し出されるのは、「望まない性交(sex)や強いられた性交」である。支配の事例はいわば異例なるものへ縮減されるわけであるが、その際の男性支配への服従については、規律訓練権力の作用によるとの説明があてがわれる。では、それはどのようにして作用するとされるであろうか。国家のイデオロギー装置を介してではないとするならば、その作用はどこかに局所化されうるのであろうか。こうした問いに対して答えることなく、ガベイは、その作用の効果のみを書き出していく。

私たち女の主体性と行動のレギュレーションとノーマライゼーションを通して、私たち自身が服従していく過程において、私たちが外見的に共謀することに納得してしまうのはどのようにしてなのかということが、規律訓練権力の概念によって理解できるようになる41。

ところが、この規律訓練権力は、自己が自己を規律する権力、自己が自己を監視し調教し統御するようにさせる権力として捉えられている。それがどこから到来するのか不問にふしたままで、主体性と服従性を併せて形成する自己内関係性に作用する権力として捉えられている42。あげて問題は主体化され個人化されているのである。この分析の下では、女と男がその自己欺瞞から目覚めて平等な主体として自己形成することが要諦となる。そして、覚醒した反省的な主体たちは、平等という特権を享受するところの男と女として集団形成されてきたのである。ここに来て、敵は男だけではなくなる。あるいはむしろ、敵そのものがいなくなる。ガベイはそのことに自覚的である。

この分析の政治的な含意は、伝統的な分析のそれとは異なっている。伝統的なフェミニストの分析は、家父長的権力が女をトップ‐ダウン式に支配するとする単純な構想にしばしば依拠していた。その分析によるなら、個々の男たちが家父長的権力を行使し、そのことによって(すべての)男たちが直接的にも間接的にも恩恵を受けるというのである。この支配についての伝統的な理解と、それを管理の用語で表現することは、「権力を中心に置くこと(centering of power)を前提としている。しかし、そのような権力集中は現代ではもはや存在していないであろう。私たちは、権力がもはや明確に同定可能で一貫性のある集団によって保持されていないときに、権力を掌握することを求められているのである」43。しかしながら、レギュレイトしノーマライズする規律訓練権力の機能に焦点をあてる分析は、権力の唯一の中枢的な源泉といった想定に依拠することはない。だからこそ、その分析は、公然たる力や暴力を含んでいないような、望まない性交といった異性愛の強制の諸形態に対して女が共謀していることを説明するために特に有用なのである44。

女は、被支配者・被抑圧者から、服従化する主体へといわば昇格している。規律訓練権力によって内的に成型された主体へと、その限りで男と同型の主体へと昇格している。権力関係が中枢化も局所化もせずに拡散しているとする理論は、主体化論と結びついてそのような事態を招いているのである。振り返るなら、あらためて一連の問いが湧き出てくる。権力が集中する中枢は、もともと無かったのか。それとも、それは解体されたのか。規律訓練権力は一箇所に集中していないとしても、局所的に集中していないのか。それとも、それは当初から空気のごとく拡散していたのか。それとも、主体の内部に内面化されるだけのものなのか。男性支配についても同様の一連の問いが湧き出てくるが、少なくともその男性支配は、男集団と男個人の両方に分極化していると見なされ、かつ、その基礎には異性愛があると見なされていたはずであるが、とすると、異性愛を覆すとはいかなることであると理解されていたのか。また、規律訓練権力論とその主体論の下で、それはどのように理解されているのか。そして、ガベイに見られるように、男性支配と異性愛に対する抵抗は、結局のところ、平等要求と再分配要求以上にも以下にもならないのだが、それでよいのであろうか。また、男性支配と異性愛の共謀関係が局所的ではなく大域的に成立していると見るなら、その抵抗は、異性愛の放棄要求以下にはならないはずだが、それを以上のように回避するだけでよいのであろうか。さらに言うなら、自己をレギュレイトしノーマライズする反省的な主体たちにこそ権力の中枢が存しているのではないのか。そのとき、国家のイデオロギー装置が存在する場所を明確に指差すこともできるのではないか。
1990年代には主体論が身体論と関係するなど、性政治そのものは表見的には豊かになっていくわけだが、再生産論と国家のイデオロギー装置論の布置から、規律訓練権力論の布置への移行の過程において、何ごとかが捩れて、何ごとかが失われたという感触は拭えない。そして、その変化が進歩であったのか退歩であったのか、私にはいまだに判断がついていない。

4 「政治哲学の根本的問題」の再興

ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは『アンチ・オイディプス』(1972年)で、「政治哲学の根本的問題」を次のように定式化していた。

社会的再生産の最も抑圧的、屈辱的な形態(les forms les plus répressive et les plus mortifères de la reproduction sociale)も欲望によって生産され、欲望から出現する組織において生産される。まさに私たちは、この組織がどのような条件において出現するかを分析しなければならないだろう。だからこそ政治哲学の根本的問題とは、スピノザがかつて提起したものと同じなのだ(それをライヒは再発見したのである)。すなわち「何ゆえに人間は隷属するために戦うのか。まるでそれが救いであるかのように」。どうして人は「もっと税金を!もっとパンを減らして!」などと叫ぶことになるのか。ライヒがいうように、驚くべきことは、ある人びとが盗みをし、また別の人びとがストライキをするということではない。そうではなくて、むしろ飢えた人びとが必ずしも盗みをしないということ、搾取される人びとが必ずしもストライキをしないということである。なぜ人々は何世紀も前から、搾取や屈辱や奴隷状態に耐え、他人のためだけでなく、自分たち自身のためにさえも、これらを欲するようなことになるのか。ライヒは、ファシズムの成功を説明しようとして、大衆の誤解や錯覚をその原因として引き合いに出すことを拒否し、欲望の観点から、欲望の言葉で説明することを要求しているが、ライヒがこのときほど偉大な思想家であったことはない。彼はこう語っている。いや、大衆はだまされていたのではない。大衆は、一定のとき、一定の情況において、ファシズムを欲望していたのであり、まさにこのこと、群集心理的欲望のこの倒錯(cette perversion du désir grégaire)を説明しなければならない、と45。

本稿の主題に関して言い直しておくなら、政治哲学の根本的問題は、抑圧的で屈辱的な社会的再生産の組織である異性愛家族が、いかにして出現するかを分析することであり、わけても、どうして女がそこに救いがあるかのようにして隷属のために戦うのかを分析することである46。さらに絞れば、どうして女が男との関係に救いがあるかのようにして男への隷属のために戦うのかを分析することである。驚くべきは、女が男に逆らうということよりは、女が男を欲するということである。この事態を女の側の誤解や錯覚でもって説明することはできない。女は騙されているのではない。そうではなくて、一定の状況の下で、女は男を欲望する。そして、政治哲学の根本的問題は、その異性愛的で家族的で「群集的な欲望の倒錯」を説明することになる。
私の知る限り、1960年代後半から1970年代にかけて、その政治哲学の根本的問題を提起することができていたのは、アルチュセールやドゥルーズ+ガタリを除けば、レズビアン分離主義だけであった47。そして、繰り返すなら、国家論・権力論の変化と主体論の前景化を経て、政治哲学の根本的問題は別のものへと転位され、現在に到っている。しかし、現在から振り返るなら、その経緯において失われたものは大きかったと思わざるをえない。本稿の最後に、ジョイス・トレビルコットの発言を引いておく。

活動家であることは、いかなる政治権力を誰が持っているかについて変化をもたらそうとする行動に関与することである。男性‐思考においては、特定の状況においては、権力の固定量があると想定される。したがって、男たちの理解では、活動は権力の再分配(権力の創造とは区別されるところの)を目指すことであり、それは本質的に対抗的なものになる。〔……〕活動についてのこの異性愛家父長制的な概念は、二種類のフェミニストの中心的な活動を、すなわち分離主義と私的活動を排除してしまう。分離主義の活動が基礎とする理解によるなら、権力の分配を変える一つの道は、これまで無権力(powerless)であった集団が分離・離反して自らを権力化(empower)することである。〔……〕女たちの権力は、男から奪取されるのではない。女たちの権力は、女たち自身によって創造されるのである。こうして、分離主義は権力を再分配することはない。分離主義は、ときに根本的に、権力の分配全体を変更するのである48。

同じことは、権力についてだけでなく、地位や身分についても、所得や負担についても、種々の権利や資格や権能についても考えられていたはずである。今日、再興すべきは、そのようなロゴスとパトスであると思わざるをえない。そして、今日、「群集的な欲望の倒錯」の所在を明確に指差すことができるし、そこからの分離・離反が再び課題となりつつあると思わざるをえない。

[注]
1 ルイ・アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置―探求のためのノート」(1970年)『再生産ついて』(西川長夫他訳、平凡社、2005年)。
2 同、323頁。生産諸関係と生産諸力の区別ではない。
3 同、323-324頁。ここで言われているのは、労働力の再生産であって、労働者の再生産ではない。
4 同、325頁。
5 同、325-326頁。
6 同、335頁。
7 同、430頁。
8 同、338頁。
9 同、345頁。〈学校‐家族〉は、ミシェル・フーコーにおいて〈刑務所‐工場〉へ転換されるであろう。後述するが、その経緯は、マルク主義フェミニズムからラディカルフェミニズムへの移行と並行している。そこに切断を入れたのが、ドゥルーズ/ガタリでありレズビアン分離主義である。
10 同、339頁。
11 同、346頁。誕生‐結婚‐死の順番で書かれており、結婚後の生殖はとくに強調されていないことに留意しておきたい。
12 同、368-369頁。
13 カンギレム『正常と病理』の病理概念の援用であると解することができる。
14 子どもへの言及の不在から推して、生殖についても、その余地を残していると解することができる。
15 大学闘争の終息、学校化批判の終息がその契機となっている。この点で、思想史的には、イヴァン・イリイチからフーコーへの移行の線が重要になる。
16 男性稼得者モデルを採るなら、その男性労働者にとっての家族内部の敵は妻と子どもであると見るべきである。ところが、当の男性労働者の再生産は家族(妻)によって保証されると見なされる。しかし、それがために家族は労働者主体にとって一つの病理となると言うこともできる。
17 Cf. Jeff Hearn, The Gender of Oppression: Men, Masculinity, and the Critique of Marxism(Wheatsheaf Books, 1987).
18 これらのうち、Redstockings Manifestoと、Leeds Revolutionary Feminist Groupの文書については、本稿の末尾に【翻訳資料】1・2として訳出しておく。
19 分離主義の諸文書については、Sara Lucia-Hoagland & Julia Penelope eds., For Lesbians Only: A Separatist Anthology(Onlywomen Press, 1988).
20 生物的な性差は、この意味で拒絶されたのである。後に、生物学主義・本質主義に対する批判と称するクリシェが繰り返されることになるが、歴史的に振り返るなら、拒絶の深度が異なっていたと言うべきである。
21 ここでは取り上げないが、女性解放運動に協同する黒人男性を前景化することで議論を進めた次のものの影響は大きかった。bell hooks, Feminist Theory: From Margin to Center(South End Press, 1984).なお、これは調査の必要があるが、異性愛批判がセクシズム(sexism)批判へと重点を移してきたという変化を想定することができる。これはいまやコンセンサスになってしまったが、異性愛そのものに問題はなく、その異例で異常な現われを批判しておけば足りるとする思潮への変化である。
22 Amanda Sebestyen, “Sexual assumptions in the Women's Movement,” in S. Friedman and E. Sarah eds., On the Problem of Men(The Woman's Press, 1982). Cited in Jeff Hearn, The Gender of Oppression: Men, Masculinity, and the Critique of Marxism(Wheatsheaf Books, 1987), p. 25.
23 注記しておくが、私はその帰結が間違えているとは考えていない。マルクス主義フェミニズムや分離主義に対する単純な批判がいまや学者のクリシェとなって伝承されているのを見るにつけ、とくに分離主義の見地を真正面から受け止めるべきであると考えてきた。なお、この点で、註16を再び参照されたい。
24 Mario Mieli, Homosexuality and Liberation: Elements of a Gay Critique, trans. D. Fernback(Gay Men's Press, 1980), first pub. in Italian 1977.
25 Jeff Hearn, The Gender of Oppression: Men, Masculinity, and the Critique of Marxism(Wheatsheaf Books, 1987), p. 28.この点に対する評価も他日を期す。
26 この点では、相当数の文献がある。比較的早い時期のものをあげておく。Zillah Eisenstein ed., Capitalist Patriarchy and the Case for Socialist Feminism(Monthly Review Press, 1979). Heidi Hartmann, “The unhappy marriage of Marxism and Feminism: towards a more progressive union,” Capital and Class 8(1979). Anne Phillips, “Sex and class,” Revolutionary Socialism 6(1980-1).
27 Feminism & Psychology Special Issue 2(3), 1992.
28 Sue Wilkinson and Celia Kitzinger eds., Heterosexuality: A Feminism & Psychology Reader(Sage, 1993).
29 二人の編者は、なかには自分はレズビアンであると回答を寄せた人や、異性愛者とのレッテルに不快感を表明した人がいたと注記している。
30 Celia Kitzinger and Sue Wilkinson, “Theorizing Heterosexuality”(1993).
31 Alfred Charles Kinsey et al., Sexual Behavior in the Human Male(Saunders, 1948), and Sexual Behavior in the Human Female(Saunders, 1953).
32 この文脈で、女の経験において、人種・階級・文化・民族・年齢・障害がコアとなっていることが不可視化されることにもなると指摘されている。
33 Sue Wilkinson and Celia Kitzinger eds., Heterosexuality: A Feminism & Psychology Reader (Sage, 1993), p.10.
34 そこにこそ権力関係の働き、同性愛者にも作用する働き、アルチュセールの用語で言うなら、支配的イデオロギーへの服従を見るべきであるが、それは論じられない。
35 Carol Nagy Jacklin, Sue Wilkinson and Celia Kitzinger eds., Heterosexuality: A Feminism & Psychology Reader(Sage, 1993), p. 35.
36 Ibid., Mary Cloford, p. 44.
37 Ibid., Rosalind Gill and Rebecca Walker, p. 69.
38 Ibid., Elisabeth Mapstone, p. 87.
39 Ibid., Nicola Gavey, “Technologies and Effects of Heterosexual Coercion”
40 Ibid., p. 93.
41 Ibid., pp. 95-96.
42 実際、ガベイは、サンドラ・リー・バルツキの有名な論文の次の一節を引用している。Sandra Lee Bartky, “Foucault, Feminity, and the Modernization of Patriarchal Power,” in Irene Diamond and Lee Quinby eds., Feminism and Foucault: Reflections on Resistance(Northeastern University Press, 1988).
43 これは前掲書(p. 195)からの引用である。
44 Op. cit., Gavey, pp. 116-117.
45 ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』上(宇野邦一訳、河出文庫)62-63頁。
46 女が奴隷・カースト・階級をなすと言い切ったのは、言いかえるなら、資本制を構成するウクラードの一つであるとしたのは、Christine Delphy, “The Main Enemy,” Feminist Issues, Summer 1980.
47 これも他日を期さざるをえないが、『アンチ・オイディプス』とレズビアン分離主義の親和性については、さしあたりオイディプス的同性愛と非オイディプス的同性愛の対比を参照せよ。ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』上(宇野邦一訳、河出文庫)311-312頁。
48 Joyce Trebilcot(1986)cited in Sara Lucia-Hoagland & Julia Penelope eds., For Lesbians Only: A Separatist Anthology(Onlywomen Press, 1988), p. 7.

【翻訳資料1】
Redstockings Manifesto(July 7, 1969)
「レッドストッキングス宣言」(1969年7月7日)

Ⅰ.数世紀にわたる個人的で予備的な政治闘争を経て、女たちは、男性優位(male supremacy)からの最終的な解放を成し遂げるために結束しつつある。レッドストッキングスは、この結束を築き上げ、私たちの自由を勝ち取ることに献身している。

Ⅱ.女たちは、抑圧される階級である(Women are an oppressed class)。私たちへの抑圧は、私たちの生活のあらゆる面に影響を及ぼすほどに全面的なものである。私たちは、性的対象として、繁殖動物として、家内使用人として、安上がりの労働者として搾取されている。私たちは、男たちの生活を強化することだけを目的とする、劣れる存在者と見なされている。私たちの人間性は否定されている。私たちに指令される行動は、物理的暴力の脅しによって強要されている。/私たちは互いに孤立したまま抑圧者ときわめて親密に生活してきたがために、自分の個人的な苦しみを政治的な異常(condition)と見ることを妨げられてきた。このため、一人の女と一人の男の関係性は、二人それぞれの人格性が相互作用している事態であって、個人的にうまく事を運ぶことができるとの幻想が作り出されている。現実には、そんな関係性はすべてが階級関係なのであり、男個人と女個人の間の葛藤は政治的葛藤なのであって、それらは集団的にのみ解決されうる。

Ⅲ.私たちは、おのれの抑圧の執行者を男と同定する(We identify the agents of our oppression as men)。男性優位は、支配の最も古く最も基礎的な形態である。他のすべての搾取や抑圧の形態(人種主義、資本主義、帝国主義など)は、男性優位の延長である。男たちが女たちを支配し、少数の男が残りの者を支配している。歴史を通してすべての権力構造は、男性‐支配であり男性‐重視のものである。男たちはすべての政治的・経済的・文化的制度を管理し、その管理を物理的暴力で支えてきた。彼らは女たちを劣位に留めるために権力を使ってきた。男はすべて、男性優位から経済的・性的・心理的な利益を得ている。男はすべて、女を抑圧してきた。

Ⅳ.責任の所在を男から制度へ、あるいは男から女へ転嫁する試みがなされてきた。私たちは、そうした議論は言い逃れであると糾弾する。制度だけでは抑圧しない。制度は抑圧者の道具にすぎない。制度を非難することは、男と女が等しく被害者であると含意することであって、男が女の従属から利益を得ている事実を曖昧化するし、男に対して自分は抑圧者であるように強いられているとの弁明を許してしまう。反対に、男が他の男たちによって女のごとく取り扱われることを進んで望みさえするなら、どんな男でも自由にその優位を放棄することになる。/私たちは、女は自分の抑圧に同意しているとか女も非難されるべきであるとする観念も拒絶する。女の服従は、洗脳・愚劣・精神病の結果なのではなく、男からの継続的で日常的な圧力の結果である。私たちは自らを変える必要はなく、変えるべきは男である(We do not need to change ourselves, but to change men)。/最も中傷的な言い訳は、女が男を抑圧することもありうるとするものである。そんな幻想の基礎にあるのは、個人的な関係性を政治的なコンテクストから分離することであり、また、男の特権に対するいかなる正当な異議でも自分への迫害と見なす傾向が男にあることである。

Ⅴ.私たちは、自分の個人的な経験を、また、その経験をめぐる自分の感情を、私たちに共通する状況の分析の基礎となると見なしている。私たちは、男性優位の文化の産物でしかない現存するイデオロギーを当てにすることはできない。私たちは一般論すべてを疑問に付し、自分の経験によって確証されないような一般論は一切受け入れない。/私たちの当面の主要課題は、経験を分かち合い、あらゆる制度の性差(別)主義的(sexist)な基盤を公的に晒し出すことを通して、女性の(female)階級意識を発展させることである。コンシャスネス・レイジングは「セラピー」ではない。「セラピー」は個人的な解決が存在すると示唆し、男性‐女性関係は純粋に個人的であると偽って想定している。しかし、コンシャスネス・レイジングは、私たちの解放のプログラムが私たちの生活の具体的な現実に基づいていることを保証する唯一の方法なのである。/階級意識をレイジングするために最初に要請されることは、私的にも公的にも、自己自身と他の女たちに対して誠実であることである。

Ⅵ.私たちはすべての女と一体である。私たちは、おのれの最善の利益を、最も貧しく最も野蛮に搾取されている女たちにとっての最善の利益に一致させる。/私たちは、おのれを他の女たちから分かってしまう経済的・人種的・教育的・身分的な特権の一切を放棄する。/私たちは、内部の民主主義を達成するために取り組む。私たちは、運動に参加し責任を担い政治的力能を発展させる等しいチャンスをすべての女が持つこと確かにするために必要なことなら何でも行う。

Ⅶ.私たちは、すべてのシスターに、闘争において私たちと結束することを呼びかける。/私たちは、すべての男に、私たちの人間性と彼ら自身のために、その特権を捨てて女の解放を支えることを呼びかける。/解放のために闘いながら、いつでも私たちは、抑圧者に対抗する女の側に立つ。私たちは、何が「革命的」で何が「改良的」かを問うつもりはない。私たちが問うのは、何が女にとって善いかだけである。

個人的な小競合いの時代は過ぎ去った。この時代、私たちは道を歩み切るのである。

【翻訳資料2】
Leeds Revolutionary Feminist Group, “Political lesbianism: The case against heterosexuality,” Paper first given to a conference in September 1979
In Love your enemy? The debate between heterosexual feminism and political lesbianism(Onlywomen Press, 1981)
リーズ革命的フェミニストグループ「政治的レズビアニズム―異性愛反対論」(初出:1979年9月カンフェレンス)

フェミニストはレズビアンであるべきかという問いかけが新奇なものではないことについては、私たちとて承知している。しかし、それを主題として私たちは自らの構想を練り上げてこなければならなかった。というのも、私たちが他の女たちと政治について語りながら、しばしば、男たちが敵であると主張することの意味について語ると、あらゆるフェミニストはレズビアンであるべきであると私たちは主張しているのかどうかと問い尋ねられるからである。
私たちは、これが一触即発の話題であることは自覚している。その話題は、家の中で親密で信頼できる友人たちの間で語られるべきことであって、運動の内部で政治的宣言として語られてしまうなら、私たちは異性愛のシスターたちによって女‐憎悪であると告発されるであろう。しかし、本当に、私たちが他のフェミニストと語るときには、この主題についての私たちの強い信念を隠さなければならないのであろうか。私たちは、ワークショップでの討論のために論点のすべてを提起したいのである。すなわち、あらゆるフェミニストはレズビアンであるべきかどうかということだけではなく、まさにどうしてフェミニストはレズビアンであるべきであると考えているのか、どのようにしてそのことについてもっとオープンに語ることを始められるのかということについても提起したいのである。
私たちの考えるところでは、あらゆるフェミニストは政治的レズビアンであることができるし、そうであるべきである。私たちの定義するところでは、政治的レズビアンとは、男たちとファックしない女として同定される女(a woman-identified woman who does not fuck men)のことである。それは、女たちとの性行動を強制すること(compulsory sexual activity with women)を意味するのではない。本論は二部に分かれる。第一部は、真摯なフェミニストなら異性愛を放棄せざるをえないと私たちが考える理由をあげていく。第二部は、政治的レズビアニズムに関して私たちに対して提起される問いやコメントをあげて、それらがどのように答えられるべきであると私たちが考えているのかを順に記していく。

(1)異性愛はどうなっているのか、
どうして異性愛は放棄されるべきか

性愛(Sexuality)
女たちの抑圧(oppression)において、性愛はいかなる役割を演じているであろうか。抑圧者が被抑圧者の身体の内部にまで現に侵入して植民地化するのは、男性優位(male supremacy)の抑圧システムにおいてだけのことである。性行動のあらゆる形態には、支配と服従、力と無力、征服と屈従といった意味が貼り付けられている。男性優位の下では、いかなる性的指向であれ、いかなる性的冗談であれ、いかなる性的画像であれ、それが女にはその核心部への侵入のことを想起させ、男にはその力を想起させる限りで、まさに特別な重要性が貼り付けられるのである。どうして、私たちの文化にあっては、性(sex)をめぐってこれほどの騒ぎになるのであろうか。根本にある抑圧、すなわち、男による女に対する抑圧が維持されているのは、とりわけ性愛を通してだからである。(この点を論ずるなら一冊の本を要するので、今は立ち入らない。)

異性愛カップル
異性愛カップルは、男性優位の政治的構造の基礎単位である。その中で個々の女は一人の男の管理下に入る。それは、女をゲットーや収容所に、あるいは庭の奥の小屋に入れておくより、はるかに効率的である。カップルにおいて、恋(love)と性は、抑圧の現実を見えにくくするように使われ、女たちが反抗するために相互に同一化するのを防ぐように使われ、「自分の」男を敵の一部として同定するのを妨げるように使われる。異性愛カップルに参入する女は誰であっても、男性優位の基礎を強めることによって男性優位を強化する手助けをしている。

挿入
挿入(私たちが挿入に言及するときはつねに、ペニスによる挿入を意味している)は、女の性的快楽にとっては、男の性的快楽にとってさえも、必要ではない。挿入行為は、生殖や退屈/危険な避妊へ通じている。とするなら、どうして挿入は、男性優位の特定の段階における性化された文化の核心に位置しているのであろうか。どうしてますます多くの女が、ますます若い年齢で、精神科医、医師、結婚相談所カウンセラー、ポルノ産業、人口増加運動、左翼、マスターズ・ジョンソン報告によって、ますます頻回にファックされることを勧奨されるのであろうか。男性優位の下での女の抑圧の形態が変化しているからである。女が少しばかり稼ぎを増やし生殖の圧力から解き放たれるにつれ、男個人と男階級による女の把捉は、性的管理を通して強められつつある。

挿入の機能
挿入は、抑圧者が被抑圧者の身体に入りこむという重大な象徴的意義をもつ行為である。しかし、それは象徴以上のものであり、その機能と効果は女の処罰と管理である。強姦だけがこの機能を果たすのではなく、いかなる挿入行為も、婉曲的に「抱き合う(making love)」と描かれるそれも機能を果たすのである。私たちはみな、男たちが高慢な(uppity)女について「彼女に必要なのは、良いファックである」と言うのを聞かされてきた。それは無駄話ではない。男はみな、ファックされる女は男の管理下にある女であり、その身体は男へと開かれ、飼いならされ調教される女であるとわかっている。性革命以前には、挿入が男の利益であることを見誤ることはなかった。性革命は詐欺的な騙しなのである。性革命は男性の性愛の抑圧性を覆い隠すのに役立ち、挿入は私たちの利益にもなると語られるのである。
挿入行為はすべて、女にとっては、自信を損ない強さを奪う侵略である。男にとって挿入は、一人の女に対してだけではなくすべての女に対して男をより強くする力と征服の行為である。そうであるから、挿入に関与する女はすべて、抑圧者を支え、男階級の力を強化している。

(2)質問とコメント

(a)しかし、あなたたちは、異性愛の女は敵だと言っているように聞こえる!
そうは言っていない。男たちは敵である。異性愛の女たちは敵の協力者(collaborators)である。異性愛のフェミニストのシスターたちが女のために行なう善き業はすべて、彼女たちが男たちと一緒に参入する反‐革命的な活動によって掘り崩されている。異性愛フェミニストであることは、ナチス占領下のヨーロッパでレジスタンスするようなことである。そこであなたたちは、昼に橋を爆破して、夜にはその修理を急ぐのである。女性支援を例にとってみよう。男と生活する女は、虐待される女に対して、男抜きで生き延びるのが可能であると語ることはできない。彼女自身がそれを行ってはいないからである。男と生活したり男とファックしたりする女は、彼女のシスターたちに対する抑圧を維持するのを助け、私たちの闘争を阻害しているのである。

(b)‌しかし、しかし、挿入を行うのは私たちではなく、男友だちと私がそれを行うのである。
もしあなたがどんな形であれ男との性行動に関与するなら、あなたは男階級の力を強化している。あなたは最も極端な形の屈辱的求愛作法から免れるかもしれないが、男たちは大きな優位を獲得し女たちは敗北するのである。「純粋」な性的快楽などはない。そんな「快楽」は、ファンタジー・記憶・経験によって創作される。性的「快楽」は、力の行使と無力の経験に伴っている感情と分離することはできない。
(もしあなたが挿入を行わないというのなら、どうして女の恋人をもたないのか。もしあなたが男から屈辱を与えるという類のない資格を剝ぎ取るなら、あなたの前に残るのは、どんな種類の官能的(sensual)活動においても女に比べて下手くそでしかない生き物である。)

(c)しかし、私の男友だちは私に挿入するのではなく、私が彼を囲い込むのである。
どんな名で呼ばれようが薔薇は薔薇であり、挿入もそうである。あるいは、おそらく、「豚の耳から絹の財布は作れない」がより適切な表現である。最も寛大に解釈しても、囲い込みを信ずるのは願望的物思いであると言えるだけである。むしろ、その活動を続けることの責任回避であり合理化であると言うほうが当たっているだろう。能動的ヴァギナが(その動きを強めることで助けられながら)ペニスを吸い込むという囲い込みは、女と男が完全に成長して生まれ、全面的に無垢であるような場所で、たとえば人の住んだことがない無人島でしか起こりえないことであろう(そこでは、女と男はファックするということを一度として思いつかないかもしれない)。挿入は孤立して起こるのではない。それぞれの挿入は、男性優位の関係のシステムの中で起こるのである。男性優位の下で個々の女が「解放される」ことはありえないように、挿入行為はその機能と象徴的力を失うことはありえない。

(d)しかし、私はファックするのが好きだ。
フェミニストがファックすることを放棄するかどうかは、あなたが自分の政治を真剣にとっているかどうかに関わっている。社会主義者の女たちには、彼女たちが享受するかもしれぬ多くのものを放棄する構えがある。というのは、彼女たちは、そうしたものが、自分たちが闘っているところの経済的階級支配の全システムにどれほど結びつきそれを支えているかをわかっているからである。彼女たちはケープ産リンゴを買うことに抵抗するだろう。その利益は南アフリカに行くからである。それに比べて、私たちが闘っているところの抑圧システムの基礎である挿入を放棄することがより難しくなっているフェミニストがいるのも当然と言えば当然である。

(e)‌そのようなことは、レズビアン・ゲットーの内部のあなたにとっては容易いが、私には困難である。私は自分の政治の矛盾を生きなければならない。それは、私がともに生活する男との厳しく容赦のない日々の闘争である。
端的に言って、それは本当ではない。異性愛特権なしで生きることは、困難であり危険である。女たちだけでパブに入ろうとしてみよ。ストリートで石を投げたり口笛を吹いたりする若者に囲まれた家で女だけで暮そうとしてみよ。
異性愛特権は、男性の認可による。すなわち、身体への攻撃から安全であること、修理を行わせるために官庁で簡単に対処できること、猥褻な電話の波から守られること、バスを待つ列や職場で女と男によって微笑みながら是認されるために男のことを引き合いに出せること、そして言うまでもないが、稼得力のある男性支配階級の一員に配属することで財政的に有利になること、こうしたことは、男性の認可によることなのである。
私たちはこのような特権なしで生きることを選んでいるので、異性愛フェミニストが自分たちの男たちとの闘争に疲れ果てるときに、異性愛フェミニストによって燃料補給所として使われることには憤りを感じている。女の解放グループや女の家は、異性愛のシスターがその矛盾を解消するために外に出る際の避難所や支援所であるべきであって、異性愛関係を支え、それでもって男性優位の構造を立て直すために使われるべきではない。

(f)しかし、レズビアン関係もまた、力の闘争によってファックされている。
それは、ときには当たっているが、一人の女の力は決して優位な性‐階級の立場に支えられているわけではない。女たちの間の闘争が直ちに、女全般に対する支配を強化したり男の強さを作り上げたりすることはない。個人関係における完成主義は、男性優位の下ではリアルな目標ではない。レズビアニズムは政治的に必要な選択であり、私たちの闘争の戦術の一部であって、パラダイスへのパスポートなのではない。

(g)‌あなたたちが私に提供してくれるものがもっとよいものでないと、私は自分が得ているものを放棄する気にはなれない。
私たちは決してあなたにお花畑を約束しない。私たちは、レズビアンが素晴らしいからということですべてのフェミニストはレズビアンであるべきと言っているのではない。女に恋すること、胸をあらわにすること、ギターを弾きソフトボールで遊ぶこと、陽光を浴びて丘を飛び回ることは、それに現実味があるとしてのことだが、ロンドン・ハックニー区よりはカリフォルニアにふさわしいお話である。
しかし、もちろん、レズビアンであることはもっとよいことである。その有利な点に含まれるのは、あなたが男たちに直接に仕えていないのだと知ることの喜びであり、あなたの個人生活の歴然たる矛盾の緊張なしで生きることの喜び、個人的なものと政治的なものを統一することの喜び、あなたが闘っている相手ではなくあなたがともに闘っている者に恋してそこにエネルギーを注ぐことの喜び、あなたが女ともっと信頼しもっと誠実にもっと率直にコミュニケーションできることの喜びである。
異性愛の女とのコミュニケーションは、男との関係に由来する困難や雑音をはらんでいる。あなたの言うことに対して、異性愛の女は異なる知覚や反応を示すであろう。異性愛の女は防衛的になるであろうし、「ナイジェルはどう?」と考えがちなものである。あなたが女の利害や女の未来と生存について話すときでも、異性愛の女の想像は自分の男と兄弟の範囲を超えてはいかないであろう。あなたは、相手を脅かさないような素敵なことを言わなければならないと圧力を感ずることになる。

(h)あなたは私たちに罪を着せている。
そんなことはない。女たちが見ている通りの真実を語るのを妨げ、厳しい政治的な現実について語るのを妨げるために罪を着せるものであるが、異性愛のシスターたちよ、あなたたちこそが私たちに罪を着せているのである。協力を止めるのは可能であり、あなたたちにそれを求めることは罪を着せることではない。
(i)すべてのレズビアン・フェミニストが政治的レズビアンであろうか。
そうなってはいない。レズビアンでフェミニストである女たちのなかにも、男性左翼の側で男の傍らで働いたり(そのグループや女性部において)、女解放運動内部で歩調が合わなくとも男の観念の代弁者を務めたりする者はいる。そうした女たちが男は敵であることを見てとるのが難しいのは当然である。彼女たちは左翼男性の代理として、ただし劣れる男として扱われているからであり、依然としてベッドの中での性的抑圧と闘っているストレートの女より優位に立っていると感ずることができるからである。彼女たちは女に同一化しておらず、男と連携しながら男性左翼イデオロギーにとって少しばかり呑み込みがたい観念を押し出すことを通して特権を得ているのである。

(j)しかし、男を放棄することがどれほど難しいかをあなたは分かっていない。
私たちの多くは、個人的経験からして、二度とファックしないと決めて、共に生活したり恋したりしている男から離れると決めることがどれほど実践的に難しく苦しいことであるかを知っている。たいていの場合、他の女たちの恋・支援・強さがあって初めて為されることである。そのような女たちによって断絶が実行され、その批判と率直な話によって私たちは励まされてきた。私たちも承知しているが、ある女にとっては、すなわち、子どものいる女、運動へのアクセスのない女、自立して暮らした経験のない女にとって断絶はより難しく、彼女たちはより多くの時間と実際的な支援を必要とする。また、移り住める女の家を見つけるのは難しい。そして、私たちも、女のディスコで「新少女」であるということがどんなことであるかは分かっている。それでも、私たち自身の選択の政治的理由をできるだけ明白に説明することや、その選択をしている女たちの困難をめぐって正直に語ることも、支援の一部となるはずである。