第Ⅱ部 思考 ーフェミニズムをめぐる論考 ■読解/倫理 6.宝塚歌劇にみる男役・娘役の向こう側 ー生きていくためのファンタジー

読解/倫理

宝塚歌劇にみる男役・娘役の向こう側
―生きていくためのファンタジー―

川端美季

1 はじめに

現代の日本で暮らす人の多くが宝塚歌劇団を観たことはなくても、名前だけでも聞いたことがあり、そうした人の多くは宝塚歌劇が女性だけが舞台で演じているということを知っているだろう1。
女性のみで構成されている舞台ゆえなのか、宝塚歌劇を好きだと言うと、私はよく次のようなことをよく聞かれる。「女性のみの舞台を観て面白いというのは、川端さんは(恋愛対象として、性的指向として)女性が好きなの?」ということ、そして「宝塚歌劇は男女の社会的役割を強調している/男女の役割分担を舞台で演じているに過ぎないのに、どういう点が面白いと思うの?」ということである。こうした疑問を口にする人は宝塚歌劇を知ってはいるが観たことのない場合が多く、観ていないからこその疑問であるように思われる。そして、彼女らや彼らが口にするのは、おそらく宝塚歌劇に特化したいささか特殊な疑問である。簡単に比較できるものではないが、単一の性のみが舞台で演じるという意味において、男性が女形としてもパフォーマンスする歌舞伎や大衆演劇などが思い浮かぶ。たとえば歌舞伎や大衆演劇が好きだと言った場合、観客のセクシュアリティはそれほど問われるものではないだろう。歌舞伎や大衆演劇のどういう点が面白いのか問われる場合は、何か別の関心に駆動されているか別の答えがイメージされているのだろう。つまり男が女を演じることについては何も問われない傾向があるが、女が男を演じることについて、観客側のセクシュアリティが大きく問われる傾向がある2。このことは、女性の演じる男役メインのスターシステムをとる宝塚歌劇がセクシュアリティやジェンダーと強く結びついているというイメージを持たれていることの示唆である。加えて、宝塚歌劇が歌舞伎などの伝統芸能とはやや異なる、何か「倒錯」した印象を持たれている可能性が高い3。
それは宝塚歌劇が100周年を迎えたといっても歌舞伎ほどの伝統ではまだなく、洋装での異性装であることも関係しているのかもしれない。これまでこうしたジェンダーやセクシュアリティへの関心、またそれのみならず様々な領域から宝塚歌劇に関心が寄せられ論じられてきた4。
多くの人が想起しがちなセクシュアリティとの関連について、宝塚歌劇における観客の同性愛的関心があまり見られないことは先行研究によって明らかにされている5。また異性装である男役が、セクシュアリティと関連づけて想起される際、性にまつわる身体意識(たとえばGIDなど)との関わりが想起されるかもしれない6。ただし、身体意識と実際に行なわれていることは分節化され論じられてよいことであり、衣服や仕種などを身に着ける異性装と身体を加工することは位相が違うことであり、同等に論じられるものではないだろう。そもそも宝塚歌劇の男役が異性装であるからと言って、それがすなわち男性を意味すると考えること自体が問題だろう7。多くの観客は男性とは違う「男役」が演じる、そして娘役が演じる宝塚歌劇の世界を観に来ているのである。
またフェミニズムと宝塚歌劇とはあまり親和性はみられないとされる(宮本 2014: 33-47)。フェミニズムにおいては古くから宝塚歌劇が男女の役割分業を補強するものであるという指摘がよく成されていた。けれども近年は新たな位置づけを提示するものも現われている。大越は、「近代的観点からいえば、「女性の自立」はフェミニズムの最大の目標だが、宝塚の魅力はさらに進んで、時代の先端をいくポストモダンの段階に突入しているところにもある」と位置づけている(大越 2014: 82)。
従来の研究が明らかにしてきたように宝塚歌劇には長きにわたって花嫁修業的な意味も付与されていた⁸が、これはレビューなど芸能を行なう女性のイメージなどを取り払うことを意味しており、また大越が指摘するように、「女性だけで異性装のパフォーマンスを行う劇団への偏見に対する防御策」でもあったろう(大越2014: 82)。現在の宝塚歌劇はこうした側面が以前と比較すると薄くなっており、現在劇団に在籍する多くの演者は「舞台人」としてどうありたいかということをまず述べるようになっている。大越は、現在の「宝塚は「女性が集団の中で相互的に助け合いつつ、自らの立場を形成していく力を習得する場、自立の場」であり、それが可能となるために多様な教育的・文化的装置が準備されている場」だと位置づけている(大越2014: 82)。宝塚歌劇団の演者は、劇団に入団する前に宝塚音楽学校で2年間を過ごし、声楽、舞踊、演劇などの芸事を学ぶ。それ故、入団後も演者は「生徒」と位置づけられ、演者内でも上級生、同期生⁹、下級生で厳密に分かれている。現在では退団後の演者が音楽学校での指導にあたったり、劇団の公演の振付を担当したりすることが多くなっており、宝塚歌劇を実践した/している演者間での芸の伝達がより可視化された状態になっているといえる。
そのうえで、宝塚の魅力とは何だろうか。多くの場合、とくに宝塚歌劇を観たことのない人たちにとっては、観客(ファンも含む)は彼女らに理想の男性像を見て、相手役となる娘役に自身を投影する恋愛を主軸とする物語が展開される夢々しい舞台にあると考えるのではないだろうか。もちろんそうした見方・楽しみ方もあるが、おそらく宝塚は様々な見方が可能な舞台なのである10。大越は、「宝塚の観客が求める「夢」は、現実にありえないロマンティックな恋物語の場面にあるのではない。現実の男性中心社会を、容易に変化しない障壁と(それはジェンダー関係だけでなく、人々の意識や慣習、制度も含めて)実感するからこそ、その障壁が揺るがされ、解体され、その意味内容が変換されていく遊戯的世界を欲望し、そこに参入することを、女性たち(オトメな男性も)は望むのである」と述べる(大越 2014: 83)。私もこの指摘にほぼ同意である11。男女という役割を女性のみで演じることにより、大越の言うところの「遊戯」、ある種の虚構がそこに生じる。女性だけで演じる世界はやはりファンタジーであり、演者がジェンダー役割をわかりやすく演じているのにも関わらず現実世界から浮遊している。舞台上で演じられるジェンダー役割を見ていると、それらが現実よりも軽くなる印象を持つ。宝塚歌劇の舞台は限りなく男女二項対立の性別を超える役割を果たしているともいえる。異性への「ジェンダー転換」(三橋 2012: 471)ということのみではなく、「男女を区別する性(セックス・ジェンダー)の境界を侵犯し、既存の性差及び性役割の転倒・交換、時によっては解体を体現する」ことを指す(押山 2013: 70)。「女」から「男」へ、「男」から「女」へという二つの性の間を越えるというより、男女で分けられた性別二元の世界の向こう側へ超えるというイメージである。ただし、このようなことに自覚的でなくても、宝塚歌劇の舞台はエンターテインメントとして洗練されており、提供される表現を娯楽として楽しむことができる。女性のみで演じる舞台を「嘘」の世界だと寒々しく捉えるものではなく、違和感なく観るコードというものが観客には共通してある。ただ、これまでの研究ではこうした観客側の視点に何が起きているのかという視点のもとに宝塚歌劇が取り上げられてきた傾向がある(大越 2014; 宮本 2011など)。
では、こうした舞台/世界を提供する演者側の認識はどのようなものなのだろうか。阿部彩子は宝塚歌劇団を退団する演者すなわちタカラジェンヌの挨拶からそれぞれの生徒評を試みているが(阿部 2014)、演者の言葉を中心に扱ったものは管見の限りほとんど見られない。
そこで本稿では、宝塚歌劇という女性のみで演じる舞台がどのような認識のもとでつくられているのか、宝塚歌劇団の生徒(OG含む)にこれまで成されてきたインタビュー12、『歌劇』の公演座談会、生徒らの著作、『宝塚GRAGH』における演出家の柴田侑宏との対談などを中心に検討したい。「男役」と「娘役」に分かれ舞台の内外でその役割を演じるという演者の実践を通じて、宝塚歌劇の世界が観客やファンたちに提供される。彼女たちが会得する技法や演じるうえでの内面性の両方に注意しながら、宝塚歌劇というファンタジーの成り立ちについて考察することを試みたい。

2 宝塚歌劇における演者
―男役の形成―

宝塚歌劇の演者は基本的に「男役」、「娘役」(「女役」13)に振り分けられる。けれども、もともと、宝塚歌劇の原型である宝塚唱歌隊が創設された1914年からしばらく「男役」・「娘役」という分化はなかった。宝塚唱歌隊は、小林一三が宝塚方面に敷いた箕面有馬電気軌道の沿線開発のひとつとして、宝塚温泉(プール)の余興として始まったものであった。しかし、温泉ではなく唱歌隊を目当てに客が来るようになったため、少女歌劇の方が注力されるようになった。当初は少女歌劇には教育的側面が強く「学芸会」のように思われてもいた(渡辺1999: 21)。男役・娘役という分化は、1930年代のレビュー流行期に、大阪松竹歌劇団(松竹楽劇部、大阪松竹少女歌劇団)が男装の麗人という表象を取り入れ、宝塚でも現代につながるような男役が表れるようになった(川崎 2005: 130-131)。ただし、宝塚歌劇に「男役」とは別に男性を入れるという構想が1950年代初頭まであったようで14、1930年代から戦中戦後すぐの「男役」も舞台から降りればスカート姿であった15。宝塚歌劇団の雑誌『宝塚GRAGH』などで男役タカラジェンヌのスカート姿(舞台衣装ではなく普段着のような)などがポートレートに挙げられている。
現在の宝塚歌劇はスターシステムという、各組(花・月・雪・星・宙16)にトップスターの男役を置き、その相手役としてトップ娘役がおり、基本的にはこの2人を中心とした演目が行なわれる17。現在の歌劇団の雑誌のポートレートで男役がスカート姿で掲載されることは滅多になく、各男役スターの個性が表れる男性らしい(あるいはボーイッシュな)普段着のような衣装で写っている18。また男役たちが宝塚大劇場や東京宝塚大劇場の入出においてスカート姿でいることは今ではほぼ見られない19。現在の男役たちは、舞台の上以外でも見た目において男役らしい規範の下にあるといえる。
従来の研究においてまず注目されてきたのが、こうした「男役」である。では男女に分かれて演じるとき、男性を担当する側は男らしさをどのように追求してきたのだろうか。そして、女性のみの舞台で、男役の追求によってどのように男女の役割分担は成立するのだろうか。宝塚歌劇に馴染みのない人は、冒頭に紹介した質問の前提である「宝塚歌劇は男女の社会的役割を強調している」と考えがちで、すべての男役を男らしさを過剰に表現していると思っているのではないだろうか。しかし、宝塚歌劇の男役は様々な系統がある、体格も所作も男性らしいタカラジェンヌもいれば、少年のようなタカラジェンヌもおり、非常に中性的な美しい妖精のような持ち味のタカラジェンヌもいる。
ただし、どの男役を演じるタカラジェンヌたちも男役の所作というものを徹底的に身に着けようと宝塚歌劇団に入団後も努力し続ける点が共通して言えることかもしれない。宝塚歌劇の男役は、音楽学校2年では到達できない芸だと考えられており、男役を極めるには「男役10年」と演者・観客双方から言われるように、劇団に入って10年程度必要だとされている。
1996年にNHKで放送された「宝塚懐かしの名舞台」20のなかで、松あきら21と順みつき22は、自信をもって演じられるようになるまでに10年くらいかかるものなのかという問いに次のように答えた(インタビューは双方、退団後)。

松「娘役を受け止める状態ですからね、男役というのは。やっぱりある程度時間がかかるものですね。」
順「まず、男役の歩き方ひとつで10年かかるっていいますね。だから、私なんか一番チビだったもんですから、今も(見ていて)恥ずかしいのは、(胸を張り肩をあげながら)突っ張ってるの(笑)。必死に突っ張ってるの。その肩が抜けるまでやっぱり10年かかるっていうか、根は女ですからリードするっていうことが、そういう面で難しい。」

宝塚歌劇の男役は、入団してから徹底的に男役であるよう訓練される。2010年にNHKで放送された「ディープピープル」で真琴つばさ・春野寿美礼・安蘭けいの三人が対談している。このなかで元月組トップスターの真琴つばさ23は、男と女の姿勢の違いとして肘が開いてるか閉じているかということを指摘しており、男役は、姿勢において脇に握りこぶしひとつ分ほど開けるということを求められていることを挙げている24。そうした姿勢や仕草、そして娘役を受け止める寛容さなどのメンタリティーを含めたものを、肩の力を入れずに自然にできるようになるのに10年かかるということを松と順は説明しているのだろう。
こうした男役の所作というものは姿勢だけではなく黒燕尾服やスーツの着こなしなどにも求められる。そのうえでタカラジェンヌたちは自分に合ったものを模索し続ける。自身に合った男役のスタイルを模索し続け、その魅力を大きく花開かせた代表の一人が真矢みき25だろう。真矢みきは後続のタカラジェンヌたちにも大きな影響を与えたひとりである。春野は真矢について、次のように述べた26。

春野‌「新人公演時代に、本役さんを見るじゃないですか。それで盗んでたりしてたんですけど。その本役さんが真矢みきさんだったんですね。」
真琴「真矢みきさん、すごく個性的よね。」
春野‌「真矢みきさん、すごく仕草が派手な方だと思うんですが。(中略)ちょっと足を組んだりするのに、動く前にワンアクションあるみたいな。私はどちらかというと、そこまで派手じゃなくて、こんなに出来ないよとか思ってたんですけど。でもそういうこととかって、広い舞台でお見せしていくにはすごく大事なんだなということを学びましたね。」
(中略)
春野‌「そうですね。カフスをするじゃないですか、男役は。そのとき、こう袖を出して、こうカフスをいじってとか。そういう仕草をやってましたね。」
真琴「え?台詞言いながらとか?」
春野‌「そうですね。台詞言いながらとか、自分が踊る前、踊る直前にアクションを起こすと、さっきの足を組む前に何かアクション起こすとじゃないですけど、自分がセンターに出ていって踊る前に、(中略)お客様の目線をこっちにいただいて、それでセンターで踊り出すとか。」

春野の発言から男役の所作は、客席からの目線を注目させることにも一役買っていたと演者がとらえていたことがわかる。春野の言う本役とは、入団7年目までで行われる「新人公演」27の役に対して、公演中に上級生が演じる同じ役のことである。公演中、下級生は本役である上級生を見て舞台での所作などを学んだりアドバイスをもらったり演技のみならずその心構えについて教えを請うたりする。たとえば、1996年の花組の「ハウ・トゥー・サクシード」新人公演での春野寿美礼が演じたのが真矢みき演じるフィンチであり、この場合、春野の「本役」が真矢みきということである。春野は、本役でもあった真矢みきを参考にすることがあったというが、本役を参考にすることは、ほぼすべてのタカラジェンヌに共通して言えることである。
様々なことが生徒間、組子28内で伝えられた。そのひとつが化粧である29。生徒たちは舞台に上がる際、ドーランを塗る、紅をひく、アイラインをひく、つけまつげをするだけではなく、髪の生え際やもみあげなども化粧で描いている。真琴たちは化粧にも男役らしさがあると言う。

真琴‌「あとメイクとかもそうじゃない?あの、大浦みずき30さんに、下級生時代に勝負は眉毛ともみあげよと。」
安蘭・春野「うんうん。」
真琴「もみあげがないと、男役は成立しない。」
安蘭「そうですよね、不思議と間抜けになっちゃいます。」
真琴「もみあげにこだわりなかった?」
春野「ありましたね。」
安蘭‌「年齢がいっててすごくダンディな役にしたいときは、こう(もみあげを横に)一本一本描いていたんですよ。」
真琴「横にね。」
安蘭「でもちょっと若かったり、元気だったりすると、縦に描いてました。」
春野「ああ、そうそう(笑)縦に描いてた(笑)」
安蘭「なんでしょう、あれ。なんか自分で勝手に決めてたんですけど。」
真琴「あ、でもあるね。私、若い役多くてさ、ほとんど縦だった。」
春野「あ、そうですか。」
真琴「横派?(春野に)」
春野‌「私も縦でした。色々試してみたんですけど、どちらかというと縦派。あんまりごっついのが似合わないというか、線が細かったので。」
(中略)
真琴「このもみあげの上の(おでこの髪の毛の)生え際も?」
安蘭「描きましたね。おでこが四角くみえるように。」
真琴「あれで男らしさが出るのかしら。」
安蘭「出ますよ。」
春野「ないとすごく変よねぇ。」
安蘭「額がすごく丸くなってすごくかわいくなっちゃう。」

男役は所作で男らしさを表現しているが、見た目という点では化粧も男役に欠かせない技術であった。彼女たちが額の形に注意していたのは、細かい造形に表れる男女の差異に気付きそこで違和感を持たせないためでもある。それは真琴が言うように、先輩の生徒から伝授されていることでもあった。また伝授されたことを単に行うだけではなく、役や自身の顔のかたちに合わせ化粧していたことが安蘭と春野の言葉からわかる。このほかに眉の描き方についても生徒間の伝授について、彼女たちは示唆している。

真琴「眉毛もさ、細い方が繊細に見えたりとか」
安蘭「そうですよね。あと角度とか。まみ(真琴)さんとかどうでしたか?」
真琴「漢字の一(をイメージして描いていた)」
春野「ああ、わかります。まみさん、すっごく印象的ですね、それ。」
真琴‌「唯一の自慢は(眉が)左右対称系だった。みんな、どっちかが不得意だったりするのよね。」
春野「そうそう。あれ、なんでああいうふうにできるんですか?」
真琴「わかんないですね。感覚?」
春野「すっごいきれいに描いてました。」
真琴「この感覚も大浦みずきさんが教えてくださって。」
安蘭・春野「(感心する溜息)」
真琴「先輩からの伝授ってすごく多かったり」
安蘭‌「ありますね。それで組によってメイクが全然違ったりとかしますもんね。」
真琴「違いますね。」
安蘭「色づかいとか。」
真琴「組の伝統があったりとか。」
安蘭「本当にそれはけっこうびっくりするっていうか。」

組によって化粧が違うという点については、春野は入団してから退団するまで花組で過ごしており、真琴と安蘭は組替えを経験していた。真琴と安蘭が組ごとの違いに気付いたというのはそうした点にもとづいていることが大きいだろう31。彼女たちは生徒間の伝授について引き続き話す。

真琴「私は目がね、きかない方なの。ちっちゃくって黒目が多いの。」
安蘭「まみさんの宝塚時代のお顔ってすごい目が印象的でした。」
真琴「眼力かけてたもん。」
安蘭・春野「(笑)」
真琴‌「あるとき、郷ちぐさ32さんて大先輩の方がいらっしゃって、その当時は二階の手すりに向かって、(郷さんが)「あの手すり見んねん。でな、白目にライトが光んねん」って言って、あそこ(二階の手すり)をね、白目で見るの。」
安蘭「白目で見るんですか。」
真琴‌「そう。白目にスポットライトを入れるんではなく、手すりを見ろと。そうすると、目がきいて見えると。その当時、ずっとこうやって(横目で目線をやる)ましたね。絶対正面はなかった。」
安蘭・春野「(笑)」
安蘭「真上より、こう斜めの感じですか。」
真琴「はすよね。斜め45度。」
一同「(笑)」
真琴「なかった?45度。」
春野‌「ありましたね。私も目が小さいし、黒目がちで、やっぱり白目の方が舞台では映えるって言われていたので、すっごい意識して、今まみさんがおっしゃったみたいにちょっと意識してましたよ。白目で見るっていう感覚。」

宝塚歌劇は濃く派手に化粧をするため、もとの目よりも大きく見えるようにアイラインを引いていることが多いのだが33、舞台上ではその化粧を活かし、かつライトも自分を引き立たせるように、とりわけ目線がよくわかるように使っていた。目線のやり方やライトの使い方についての真琴の言葉は先輩からの伝授を示しているだけではなく、目がききにくかったという自身の身体への気付きとそれに伴う工夫を述べている。春野も同様である。
芸能に関わり表舞台に立つひとたちは当然ながら自身の身体で勝負しているが、宝塚歌劇の場合、自身の身体のあらゆる部分が大きく持ち味になる。タカラジェンヌには音楽学校入学前にバレエを長くやってきたひとが多いが、そのなかには身長が高くなってしまったためバレエの道を断念し宝塚歌劇にやってきた者もいる34。平均よりも高い身長も女性としては大きな手も男役にとっては大きな武器となる。また、身長や顔の造形だけでなく、等身のバランス、骨格、肩幅、声(歌声も芝居での声も)、踊るうえでの身体の筋肉のバランス、持っている雰囲気や華やかさなど持てるものがすべて持ち味としての武器となる。もちろんこれはトップスターに限ったことではなく、脇を固める演者たちにも同様なことが言える35。自身の身体を含む持ち物すべてを武器とするためには、各々自身が持っているものが何かを認めるところから始まる。
元星組男役トップスターの安蘭けいは自身の身長について次のように述べた36。

私、あの、男役では背が低い方なので、少しでも高く見せるようにヒールを高めにしてたんですけど、それによって腰とか悪くしちゃって。高いの履くと、見栄えはいいんですけど、動き出すとちょこまかちょこまかして、すっごい男らしくなくなっちゃったのでやめたんですけど。普通の高さにしようと。普通の高さで、見た目で男役を見せるのではなくて中身でというか。なんというか、見せかけで誤魔化すのではなくて。

安蘭は男役らしさを身長などの単に見た目の問題ではなく、結局は中身で見せていくことに行き着いた。また現役の星組男役の天寿光希37は、自身の身長や声がコンプレックスだったとしたうえで、「自分が持ってるものってこれしかないし。自分は自分だからこれをうまくとって、他の人には真似できない芸名の自分を作り出そうって」38と述べている39。安蘭も天寿も男役としては大柄ではないが、自分が現在もっているものを認め、男役スターとしての独自の立場を作り出し、また現在も作り出している。ポジティブに見える側面だけでなく、男役としてネガティブに見える側面もまた男役としての魅力として活かそうとする試みの連続なのである。
蜷川幸雄40は、元月組男役の久世星佳41との対談のなかで、こうしたタカラジェンヌの自身への気付きについて次のように述べている(久世 1995: 197)。

宝塚の人の良さってさあ、自分の姿に対してコンプレックスを抱かないで肯定できる、そういう風に育てられてる良さっていうのかな。

タカラジェンヌたちは自身が持っているすべてを認め、それを磨きあげていく。おそらくそのような意識あるいは心構えの系譜がタカラジェンヌの間に脈々と流れている。先ほど挙げた真矢みきも男役としては身長が高いわけではなかった。小柄であることをそう感じさせないようにいかに見せるか、それが彼女独自の大きな濃いアクションや強烈な目線の使い方につながり、魅力を開花させた42。演者たちは演じる役や生徒間での交流などを通じて、自身の魅力に気付き、宝塚の「男役像」を追求しているのである。これには演出家の指導もあるが、それについてはこの後の節で述べたい。

3 男役の構築
―ベルサイユのばら・風と共に去りぬ・海外ミュージカルを通じて―

宝塚歌劇の一大ブームのきっかけになったのが1970年代に繰り返し上演された『ベルサイユのばら』である。さらにその後すぐに上演された『風と共に去りぬ』において、現在まで宝塚歌劇で究極の男役像だと言われるレット・バトラーが登場した。そして宝塚歌劇への海外ミュージカルの輸入・上演が宝塚歌劇の男役の規範化に一役かったと言われている(宮本 2014: 33-47)。これら3点から、宝塚歌劇の男役像についてタカラジェンヌの発言から考えてみたい。

3.1 ベルサイユのばら
『ベルサイユのばら』はよく知られているように池田理代子の同名の漫画が原作であり、漫画そのものが1970年代当時流行していた。宝塚歌劇では1974年に月組が初演し、それ以降再演が繰り返され、宝塚独自ともいえる様々なバージョンを作り出してもいる43。初演では潤色・脚本、演出を植田紳爾が担当したが、同じく演出を担当した長谷川一夫44に大きく頼ることになった。
「ベルサイユのばら」初演の経緯にあたっては制作担当の組プロデューサーの野田と植田が以下のように述べている(宝塚歌劇団出版部 1974: 40-41)。

野田 (前略)今回の「ベルサイユのばら」は、宝塚歌劇60周年の年の後半を飾る作品になるであろうと(中略)長谷川先生に強引にお願いして、再び話題作を上演したいと望んだわけです。作品については長谷川先生イコール日本物と云うイメージが強いけれど、宝塚を演出して下さるなら洋物結構ですよ、おっしゃるので、どんな洋物がいゝか、とかローマ王朝ものとか話している内に、若い人に人気のある「ベルサイユのばら」はどうか、と、この企画の誕生をみたわけです。
(中略)
植田 (筆者注:脚本にするには)大変むずかしいでした。一昨年位に東京で友人の女の子が、おもしろいですよ、と連載中の「ベルサイユのばら」を見せてくれました。読んでみると面白いし、僕は以前からマリーアントワネット(ママ)はいつかやりたいと思い資料集めもしていたものですが、この作品には大スターを三人揃えなければならん前提がありますよね。マリーアントワネットとフェルゼンとオスカル。(後略)

1974年は宝塚歌劇60周年であり、それを記念する大きな公演と目され企画されたのが『ベルサイユのばら』であった。おりしも演出を担当する長谷川も芸歴60年であり、長谷川自身も力を入れていた。長谷川は「ベルサイユのばら」上演にあたり、宝塚歌劇の演目そのものについて次のように述べた(宝塚歌劇団出版部 1974: 40)。

私は宝塚の作品は、洋物とか日本物とか区別されることより、宝塚歌劇従来の持つ「楽しい作品」の方がいゝと賛成したので(中略)楽しんで頂く作品にすればいゝと考えております。(中略)楽しく観せることと、深刻に考えならんことを区別しなけれやならないので、むずかしいですよね娯楽は。(中略)賞をもらう作品は年一本でいゝのです、けれど大衆娯楽のいゝ作品は何年に一本しかできません。私が子供の頃から宝塚歌劇をみて来ていても(中略)五本位しか考えられませんよ。(後略)

長谷川は、宝塚歌劇は芸術というよりも「大衆娯楽」である45とみなし、大衆娯楽ならではの舞台上でのスターと脇役の見せ方について述べた(宝塚歌劇団出版部 1974: 44)。

(筆者注:舞台に)出るとき榛名由梨46の演るオスカルの出ですよ、と出て、芝居をやり始めれば、これがオスカルです、と見せるのです。ワキ役の人達はこの逆で、最初の出は役になってでる。そして、誰がこの役をしてるのかな?、あゝこの人がやっているのか、と見せるのが大衆娯楽に出る人のコツで、これを覚えといてね。

ベルサイユのばらの登場人物の表象などについて冗談のように次のようにも話している(宝塚歌劇団出版部 1974: 40)。

(筆者注:漫画「ベルサイユのばら」の)あの絵と同じイメージにするなら(マリー・アントワネットを演じる)初風さんなど、六角の目玉に顔を作り直さんならんものね。(笑)

漫画原作なので、漫画のように、目のなかで星をきらきらさせる光をつくるということも課題のひとつであった。
 長谷川はベルサイユのばらの作品そのものの性質とオスカルについても話している(宝塚歌劇団出版部 1974: 42)。

(筆者注:「ベルサイユのばら」は)重く暗くなり勝ちだから、どこかで軽くした方が見ていて助われますね。オスカルをあこがれている女の子は、あんな恰好がしてみたいナ、とみていて、ああ、あれは女だったんだわ、と思うわけでしょ。オスカルは意識して男になろうとしてますが、お前は女なんだよ、というようなニュアンスを、お父さんとの会話のところでこさえるとか、そういう点で軽くみられるようにしたいですよね。

長谷川の述べる「軽く」というのは、深刻になりすぎず客席が重苦しい気持ちになり過ぎないようにするということを意味しているのだろう。そこには大衆娯楽、つまりエンターテインメントとして洗練させること、また宝塚歌劇の現実世界から浮遊する軽さにもつながるものを示しているのではないだろうか。
また主演する榛名は漫画を舞台化するにあたり役がイメージダウンするのではないかと不安をにじませているが、月組組長の深山しぐれが、色彩がつき、音楽も踊りもあれば絶対に大丈夫だと励ましている(宝塚歌劇団出版部 1974: 42)。長谷川は、オスカルとアンドレのラブシーンなど男役の姿がより美しく見えるポーズを生徒たちに教え、またバスティーユ牢獄にオスカルが向かう場面などをより迫力が見えるように演出したと知られている。
結果的に『ベルサイユのばら』は大々的にヒットし、早くも翌年、花組で再演されることになった。そしてその後現在まで続く宝塚歌劇の名物となる公演のひとつとなっている。

3.2 風と共に去りぬ
『ベルサイユのばら』は一大ブームとなり、宝塚歌劇の客席動員数も急激に増えたと言われている。その後つくられた公演がマーガレット・ミッチェル原作の『風と共に去りぬ』である。この公演ではレット・バトラーを演じる主役の男役が髭をつけることも話題となった。宝塚歌劇の二枚目男役で髭をつけることはそれまでなかったと言われているからである。1977年の月組による『風と共に去りぬ』初演でレット・バトラーを演じたのは『ベルサイユのばら』初演でオスカルを演じた榛名由梨であり、演出は植田紳爾が担当した。初演に際し行なわれた座談会で公演決定の経緯とバトラーの髭について彼らが語ったことを見てみよう(宝塚歌劇団 1977: 48-49)。

松原 (筆者注:月組プロデューサー)『ベルサイユのばら』の後に大作を演りたい、ということから、そうすると『風………』ぐらいしかないんじゃないかナァと、おととしの11月頃から話し合っていたんです。それが今度実現したわけです。(中略)それに『ベルサイユのばら』でお世話になりました長谷川一夫先生はお忙しいので、場面の要所要所を見て頂いたり、生徒の役作りのご指導を願っております。
(中略)
植田 『ベルばら』が随分当たったから、この次は何がいいだろうって、ショーちゃん(榛名)と喋ったことがあるんです。その時、やっぱり『風と………』だろうけれども、スケールが大きいから大変だし、暗くなるから、宝塚ならどういう具合に料理したらいいだろうって話し合ったんです。(中略)世間の人は『ベルばら』の後、宝塚がどうやるだろうと言う気で見ているから、何か責任感と重圧感みたいなものがあるわけです。今さらどうして『風と………』などやるのか、って言われないように、またどうやるか、という具体化の段階でも大変で、色々な意味でしんどかったです。
(中略)
記者 まずスカーレットがアトランタへやって来た、というところから始めたのが一番の勝負でしたね。
植田 そうですネ。映画になっても舞台になってもいかんし、宝塚がやってさすがに宝塚だって言わせないと、我々の値うちもないし、その為にはどうするか(後略)

月組プロデューサーと演出家が述べていることからもわかるように、『風と共に去りぬ』は『ベルサイユのばら』の次のさらなる動員を狙う演目として考えられていた。また演出家が次の演目について榛名と話していたことから、タカラジェンヌが単に演目を受け取って演じるのみの役目でないこともうかがえる。『風と共に去りぬ』は1939年にアメリカで映画が制作され、1952年に日本でも上映されている。よく知られているようにスカーレット・オハラをヴィヴィアン・リーが、レット・バトラーをクラーク・ゲーブルが演じており、今でも宝塚歌劇で『風と共に去りぬ』が上演される際には、演者たちは映画を参照することもある47。またすでに『風と共に去りぬ』は日本で舞台化されており、1966年に帝国劇場で上演され有馬稲子48がスカーレットとして演じていた。植田が述べるように「さすがに宝塚だって言わせ」るために、これらの作品とはまた違う宝塚歌劇の『風と共に去りぬ』を作る必要があった。
こうした『風と共に去りぬ』でバトラーに髭をつけることについてタカラジェンヌと演出家はどのように考えていたのか。バトラーを演じる榛名と演出家の植田は次のように語った(宝塚歌劇団 1977: 49-50)。

榛名 ひげのことをとやかく言われますが、そのことよりも、レット・バトラーって聞いてから、宝塚で今まで男役やってきて、その男役の範囲から越えたっていう感じがするんです。今までも割とリアルな、例えば『ウエストサイド物語』などはやりましたけど、今度はすべて大人っていう感じですし、こんな膨大な作品っていうのも初めてで、はじめは、どのように演じるったらいいのか分からなかったんですけど、植田先生にすがりついて、かじりついゆくしかないなって、そういう感じでした。着ているものもリアルな衣装ですし……ね。
植田 はじめ『風と………』をやるって決まった時、宝塚でひげをつけるのはおかしいと思っていたんですけど、頭からヒゲ(ママ)はダメと片づけてはつまらないし、進歩がないと思ったんです。それで一度ショーちゃんにメーキャップテストをやってみて、ひげをつけたり取ったりしてみたら、“アッ、これはいける”と思ったんです。今まで60年間、先輩方が男役の演技というのを創ってこられて苦労されたものを、今はただこういうものだと思ってやっているわけで、それではちょっと進歩がなくて、財産のくいつぶしみたいなもので、ここで、お客さまがたくさん来て下さっている今この時だけに、苦労してやった方がいいんじゃないかと思うんですよ。そのために、一から男役というものを見直したらどうか、ということをショーちゃんに話したら、“わかりました”と言ってくれたし、ひげも“つけます”と答えてくれたので、僕は“これでいい”と思いましたね。何かみんなの腹の中がお嬢さん芸でなくなっている、と感じられたんです。ひげをつけるとかつけないとかは、別問題やと思ったわけ。この『風と………』で、2枚目としての演技の幅を、これでもう一つ大きく出来るのではないか、という期待を持っています。

いまでもレット・バトラーは宝塚歌劇の究極の男役だと言われる。榛名がバトラーを、ひげをつけることよりも「男役の範囲から越えた」と評していることも、そのように言われる背景のひとつかもしれない。また植田が述べているように、男役の演技を「財産のくいつぶし」みたいなことをするのではなく、ここで新たな面を切り開こうとして作ったのが『風と共に去りぬ』であり、レット・バトラーであった。植田が「何かみんなの腹の中がお嬢さん芸でなくなっている、と感じられた」と指していることは、おそらくこれまでの宝塚歌劇になかった新しい作品を作り出そうと、演者たちが覚悟し作品をつくりあげようと、もがいていたことを言っているのではないか。『風と共に去りぬ』は、宝塚歌劇団が急速に生じた人気に安寧せず、次なる勝負を仕掛けた公演だったのである。
『風と共に去りぬ』は『ベルサイユのばら』と同様に、今日まで何度も再演されている宝塚歌劇名物ともいえる演目にもなった49。宝塚歌劇の『風と共に去りぬ』には独自の側面がある。スカーレットがハミルトン未亡人となった後、アトランタに来た場面から自身の心の声であるスカーレットⅡ(舞台上に実際にスカーレットが二人いる)と会話し、まるで分裂しているかのような印象を与える。さらにバトラーとスカーレットが結婚した後には原作とは違い、子供もいない。バトラーもスカーレットも強烈な人物であり、ほかの登場人物も原作や映画の『風と共に去りぬ』を下敷きにした豊かな人物描写がなされており、それが魅力のひとつになっている。スカーレットの激しさや力強さは有事の際に発揮されるが、ひとつの目的のためには見境がなく平時にはあまり近づきたくない人物でもある。ここで描かれるのは、ひとりの女性の生き方というよりもスカーレットにしかできないような激しい生き方である。バトラーは冷静に時を読み、南北戦争当時では進歩的な側面を持っている一方で、スカーレットに対する愛情表現などに包容力がありながらも疑問を感じるところがある。またスカーレットの初恋の相手でもあるアシュㇾはバトラーとは対照的な優しく考え深い青年であるが、非常に難しい役で演者によって何度も解釈が更新されている。要するに『風と共に去りぬ』は、スカーレットとバトラーの人物像や人間関係などがすぐには理解するのが難しい作品であり、観るたびに新しい気づきがある。また演者の解釈によって新しいバトラー像やスカーレット像が提示され、それが面白いのである50。
宝塚歌劇の『風と共に去りぬ』の有名な一場面にこのようなシーンがある。スカーレットとバトラーが結婚した後、スカーレットとアシュㇾに嫉妬したバトラーがスカーレットを責めたて、「君の頭を胡桃のように砕くこともできる」と言って、スカーレットの頭を抑えつける(スカーレットは苦悶の表情である)。最初、私はこの場面を観たとき、この場面の意味するところが理解できなかった。バトラーのスカーレットへの愛ゆえの嫉妬も怒りも理解できたし、スカーレットの身勝手さもわかりつつ、バトラーが酒に酔ってくだをまきスカーレットを痛めつけるような、この場面が何を意図して観客に見せるために挟まれているのかがよくわからなかったのである。
その後、過去の作品などを見るなかで、解釈の鍵は意外にも別の作品から見つかった。1981年に上演された雪組の『青き薔薇の軍神』51には主役のフィリップを演じるトップスターの麻実れい52がアンジェリクを演じる遥くらら53と言い争う場面54が何度も挟まれている。こうした諍う場面は二人の役者が大きく感情的に交流する場面であり55、ここから『風と共に去りぬ』のあの場面も実は最も感情的な交流が盛り上がる官能的なコミュニケーションの一つとして示されていることに気づいた。こうした気づきには麻実れいの美しさや演技も大きい。麻実もまた、1984年に『風と共に去りぬ』でレット・バトラーを演じている。バトラーという役と髭をつけることについて、麻実と遥の対談のなかで、麻実が髭をつけることやバトラーの化粧について不安や抵抗を感じていたことがわかる(宝塚歌劇団 1984: 67)。

麻実 初めてヒゲを付けた時は嫌で……でも同期生が似合うよって言ってくれたのが心丈夫でしたね。
遥 女の人がヒゲを付けるということ自体、不自然なことですよね。
麻実 普通の男役の線より、も一つ男っぽくないと駄目だし、ショーちゃん(榛名)がバトラーのメイクされてるのを見せて頂いた時、凄いオークルの地色にもみあげでしょ、ウワーッと思ったもの。

 麻実れいは後日、柴田侑宏との対談のなかで、バトラーについて以下のように述べた(山本編 1995: 39)。

柴田 「『風と共に去りぬ』はどうだった?レット・バトラーは立役という以上の役だったよね。」
麻実 「そうですね。あれは本当に男の中の男という役だったし、男性の強さとやさしさを表現するのが難しかったです。ただ、私は背丈があるし男性的な体型をしてるから(笑)、その点は大分救われたと思います。無理に男っぽくしよう男っぽくしようっていう意識はなかったです。」
柴田 「あれは男役の一つの限界だったと思うけど、その宝塚の男役についてターコ(筆者注:麻実の愛称)はどう考えている?」
麻実「男役を演ってても、自分が女であることを捨てることは絶対できないでしょ。だから、女である自分というものは失いたくないけれども、舞台で演じる時は、自分の女である部分は見せたくないと思います。」

麻実れいは、自身は体格に恵まれたため、「無理に男っぽくしよう男っぽくしようっていう意識はなかった」と言いつつ、「舞台で演じる時は自分の女である部分は見せたくない」、けれども「どうしたって女性であることは捨てられないだけに難しいですけどね。」と述べている(山本編 1995: 39)。ここに男役であることの逡巡がある。
「男役」は女性が演じる「男性」であるため、当然、「本物の男性」にはなり得ない。順みつきは柴田侑宏との対談で「やっぱり本物の男性じゃないから、どうしても限界がある」と述べ、「やっぱり本当の男性ではないから、先生(筆者注:演出家)が要求しているうちの半分しか理解できないかもしれない。」と話していた(山本編 1995: 36)。順の発言を受けて、演出家の柴田は、「宝塚の場合、男性にしか出せないものを望むのはまず間違い」として、「僕の男役に対する指導法というのは、演じるのは女性だから、男性としての表現を求めるのは無理だけど、台詞とか仕種に少しでも多くの男性の要素を表現するように導く」と、指導法について述べている(山本編 1995: 36)。演出家も本当の男性像は当然求めないながらに何らかの男性らしい要素を導入しようとしていた。それが男役らしさのエッセンスなのではないだろうか。

3.3 海外ミュージカルの導入
男役の男らしさを演者が理解するのに役立ったもののひとつが海外ミュージカルの導入であった。宝塚歌劇では、1967年に『オクラホマ!』、1968年に『ウエスト・サイド物語』、1969年に『回転木馬』が上演された。その後、今でも再演されているものに、『ミー・アンド・マイガール』、『エリザベート』、『ロミオとジュリエット』、『ガイズ&ドールズ』などがある。
『ミー・アンド・マイガール』は1987年の月組の初演が好評となり、同じ演者で1年間のロングラン公演を行なった。初演から1996年まで繰り返された再演に出演し、また自身のトップお披露目公演56も海外ミュージカルの『CAN-CAN』57であった久世星佳58は、海外ミュージカルで男役を演じることについて次のように述べている(久世 1995: 102-103)。

海外のミュージカルをするたびに、私たちは普段の宝塚の公演の時よりも強く、リアルさを要求されるような気がします。または自分自身、より追求しようとします。
宝塚の台本は、始めから女性が男性の役割をし、女性が女性をしている男を相手にするから(なかなか表現が難しいなァ)、すべて現実より柔らかく描かれているのです。でも、海外のものであれば、できるだけオリジナルに忠実である事も、上演の条件に含まれている要項ですよね。(中略)
そこなんです。私が“男役”というものを意識しなくなれたのは。
どんな事をしたって女のコが男になれるわけがないのです。「男の気持ち、よくわかる」などと言ったところですべてわかっているはずがない。たとえ同性同士であろうとすべてがわかるはずないのです(いろんな考えの人がいるでしょうから決めつけはしませんが)。
だったら、ただひとりの人間としてなら? 性別うんぬん関係なく、何かこう、いろいろな部分を乗り越えて、無垢なところへ辿り着けたら、共通点が見えてくるかもしれない。感じるところがあるかもしれない。

久世は元々娘役を希望しており、男役をするのに入団後3年くらいは違和感を持っていたが59、海外ミュージカルの男性像と出会うことで男役を演じることについて腑に落ちるように理解し、トップスターになった。久世の発言は先の麻実や順の、女であることを捨てきれないということと共通している。男役として表現するうえでの逡巡から迷いを断ち切るため、または男役として開き直るための手がかりが海外ミュージカルにはあったと考えられる。
宝塚歌劇で海外ミュージカルを演出・潤色したものとして今や大ヒット公演となったのが『エリザベート』だろう60。『エリザベート』で特徴的なのは、トップスター演じる「トート」が生身の男性ではなく、「死」を体現した黄泉の帝王ということであった。潤色を担当したのは小池修一郎であり、小池はこの作品を契機とするように宝塚歌劇に限らない海外ミュージカルの潤色を担当していくようになる。エリザベート初演の際の座談会で小池は作品そのものについて次のように述べている。まず小池が言及したのが声の問題であった(宝塚歌劇団 1996: 56)。

但し、非常に個性的な作品なので、宝塚にぴったりかと言うと、すごく合っている部分と合わない部分と両方あって、それをどうこなしていくかというのが、今の私達の課題であります。その中でも一番のポイントは、やはり総て歌で処理されるということで、そこは音域の問題がすごくあるんですね。男性と女性で楽々歌っているものを、男役と女役の音域にしていくとそのままでは出来ないという問題点が全編に亙ってあります。(中略)それをちゃんとクリア出来れば、宝塚でも又新しいジャンルを開拓する一つのきっかけになればいいなと思います。

女性のみで演じる宝塚歌劇で、声を男役と娘役とで分けることは重要である。男役は芝居でも歌声でも低い声を出せるように訓練し、また娘役はかなり高音で歌わなくてはならない。
また、小池が「宝塚でも又新しいジャンルを開拓する一つのきっかけに」と述べているように、エリザベートという新しいミュージカルの導入が宝塚歌劇をさらに発展させるものとして位置づけようとしていたことがうかがえる。
小池が続いて述べたのが、役そのものについてであった(宝塚歌劇団 1996: 56)。

主役の“死”、トートという役名なのですが、これは宝塚の男役に合っていると思う反面、ウィーン版のように本物の男性と女性が演じている中で一人だけ中性的な役というのはすごく面白いと思いますが、宝塚の場合は全員が女性ですよね。だからそれだけでどんな役を演じていても既に中性の魅力が出ていると思うので、その中でより透明感を出していくのは非常に難しいことだと感じます。

そのうえで、トートを演じる一路真輝61については役そのものについての指導というより、退団公演ということも含んでか一路の持ち味とトートという役について話している(宝塚歌劇団 1996: 56)。

一路さんの一つの魅力として、瞬間の殺気みたいなものが醸し出されるところや滅びの美学を感じさせてくれるところがあると思うので、それを今回は非常に生かせるのではないかと楽しみにしています。

一路もいかに役作りするかというより、『エリザベート』がほぼ歌で構成されているため、誌面上では歌について心配している(宝塚歌劇団 1996: 59-60)。
また小池は、他のスタッフにエリザベートが宝塚歌劇としてどうなのかということを小池は問いかけた。同席していたのは、音楽監督の吉田優子、振付の羽山紀代美62、尚すみれ63、前田清実、歌唱指導の楊淑美64などであり、前田以外は元タカラジェンヌであった(宝塚歌劇団 1996: 57-59)。

前田「エリザベートが“死”に恋をするというニュアンスが私はとても宝塚チックだと思いますし、そこは面白いんじゃないかなと。唯全体のカラーとしては決して宝塚っぽくない作品ですね。でもその似つかわしくないものをやるといった面白さはすごくあるんじゃないでしょうか。」
(中略)
尚「宝塚らしいとからしくないとかいうことではなくて、宝塚の生徒はどんなものでも与えられたらそれに応じてやり遂げると思うんです。だから、きっと立派に創り上げてくれると信じていますし、みんなで創り上げるのを楽しみにしています。らしくないものもらしくするし、らしいものはもっとらしく、皆さんが楽しく観られるようなものに絶対になると思いますよ。」

尚の発言は、非常に職人的なタカラジェンヌの側面を提示している。そして、やはり「楽しく観られる」ということに作り手が重きを置いていることがわかる発言でもある。『エリザベート』は結果的に成功をおさめ、これを通じて宝塚歌劇は、男役とはやや異なる「死」という役を主題においた新たな側面を得ることになった。

4 男役の違和感
―娘役への試みと娘役の位置づけ―

ここまで男役への追求を中心にとりあげてきたが、宝塚歌劇では演目によって男役が娘役(女役)を演じることもある。それには演出家の意向や人事としての冒険など様々な背景があるが、男役を追求してきた/している演者がいったん娘役(女役)をするというのは、別のシフトチェンジがおそらく必要となるなのだろう。かつ彼女たちは身体的に女性でありそして男役を経験し、その身体で娘役(女役)を演じるという、個人の上で男役・娘役の役回りが何回転かしている。このような、男役が娘役を演じるにあたって注意・苦労することについてまずはみてみたい。
1975(昭和50)年の花組による『ベルサイユのばら』再演に際し、ポリニャック夫人を演じることになった神代錦65は次のように述べた(宝塚歌劇団出版部 1975 : 47)。

もともと女ですのに男役をしていると全然音域が低くなるのです。ですから女の声を出すのに私は私なりの苦労をしてます。可愛いらしくなくても女らしい声を出したいと……裏声を洋物の時に出すと日本調になるので、声に苦労よ。(中略)大体女役をしても私って仇役が多くて今度もそうですけど、女らしくとか優しくとかいうのが私としては一番つらいの、声でどこまで化けられますかね。

男役の演者が歌唱法など訓練することによってより低い声を出すことはよく知られているが、そうした訓練を経た後に娘役をやるのは、仕草なども含め声の表現の問題もあった。
1977年月組の『風と共に去りぬ』初演でも、男役である順みつきがスカーレット・オハラを演じ、また街のうるさ方と言われるメリーウェザー夫人やワイティング夫人などの女役も男役が演じることにもなった。この座談会でスカーレットを演じる順みつきは、配役が発表されて「夜逃げでもしようかと思うくらい」ただただ驚いたと言っているが(宝塚歌劇団 1977: 50)、他の男役も女役をやるの初めてであることが多かった。メリーウェザー夫人をやることになった藤城潤は男役であり、次のように述べた(宝塚歌劇団 1977: 53)。

今現在感じている事は、女が男をやっている中で、女をやるという事はとても難しいナァっていうことだけ。(笑)だから娘役さんて本当に大変だナァって思います。女以上に女じゃないといけないから、ようやっているナァて感心します。だから、今度自分が男をやる時は、今以上に男になれたらと思っています。

藤城は女役を経験して、娘役が実際の女性以上に女性らしさを演じなくてはいけないということに気づき、男役に戻るときはこの経験を糧にすると述べた。街のうるさ方は現在でも男役が演じることが多い。藤城は女役を経験してそのことに気づき、再び男役をやるときは、この経験を糧にすることを述べた。
また、前節にも挙げた麻実れいは、演出家である柴田侑宏との1979年の対談(当時、麻実は雪組2番手)で次のように述べている(山田編 1995: 39)。

宝塚の場合、男役も女役も両方女性が演じてるから、勿論男役のリードは必要だけど、女役が一歩控えて男役を立てるっていうことも大切だなと思いました。二人の微妙なやりとりで、二人の持ってる実力以上のものが出せると思うんです。

麻実は、自身が男役を追求しつつあるなかで、さらに娘役を経験した後に上記のような発言を残した。これは舞台上で男役のみが引っ張るのではなく、娘役(女役)が少し引いて男役をたてるという、いわば女性の社会的な役割とされるふるまいを顕在化させることで、男役と娘役の機微がくっきり見えるということを言い含んでいる。ただし、麻実は男役より娘役(女役)が小さくあるべき、おとなしくあるべきということを言っているわけではない。あくまでも、男役と娘役(女役)のコンビがどう機能するか、どう見えるかに重きを置いている。
また、元月組トップスターの久世星佳は演出家植田紳爾との対談のなかで娘役の重要性について、さらに踏み込んで触れている(久世 1995: 73-74)。
植田 昔は公演時間が三十分ほど長かったから、それで女役とかの見せ場も作れたけれど、いまの公演時間でお客さんのニーズに応えると、やっぱり男役スター中心ってことになるでしょう。だけども長谷川一夫さんんが最初に来られたときに「紳ちゃん、宝塚が大きくなるときはいい女役が出てるときだよ。女役を育てたら、絶対男役のスターは育ってくるよ」っておっしゃってね。先生は僕らよりもずっと昔から宝塚をご覧になってて、その結果論としておっしゃったと思うから、なるほどな、それも一つの方法かなと思ったんだけど。
久世 その意味はなんとなくわかるような…。私の個人的な理想っていうのは、組んでる女役さんをかわいく見せることで、女役さんが自由にしてたほうがその人のいいところが出る気がするんです。で、それに合わせてると男役がかっこよく見えるだろうなって。
(中略)
やっぱり、女役さんが魅力的に見えたほうが男役が立つって、絶対あるなあって思う。あと女役さんが頑張ると、「ヨッシ、私も負けない」っていう気にさせられるし。もしかしたら長谷川先生は違うところでおっしゃってるのかもしれないけど、私は「女役さんが大きいほうが〜」っていうのは、なんとなくわかるような気がする。

久世と植田が述べていることは、麻実の求める娘役(女役)像とは真逆に見える。しかし、ここでも関心の重点は男役と娘役(女役)の双方でいかに舞台を成立させるかということにある。舞台上で男女役割を分担して演じるには、「男役」一方だけが男らしさを追求するだけではなく、娘役もより女性らしくあること、そして存在感を提示することが求められたといえる。このことは、宝塚歌劇が男女の社会的役割を誇張していると思われる点であるが、そうではない。大越(2014)の言葉をかりるなら、舞台の「遊戯」の上でのことなのである。現実世界とは違うのである。柴田侑宏も、「男役を娘役がたてるというのは結果論としてそうなるということで、男役より光っていけないかといえば決してそうではない。娘役が男役より光って、それで男役が光を失うのなら、それはその男役が力がなかったということ。その娘役が娘役として完璧であろうとするならば、できたらできるだけドンドンやるべきだし、それを感じながら男役も更に伸びていくというのが理想的な関係」だと述べている(山本編 1995: 314)。
すなわち娘役もまた、舞台上の男女役割の遊戯の導き手であった。これは芝居や踊りのみならず、歌においても同様である。娘役の演者は自身の声そのもので歌えばいいというものではなかった。星組トップ娘役を務めた遠野あすかは、男役といえども女性が歌っているので、娘役はさらにキーを高くして歌わなければならないと述べている66。宝塚歌劇の舞台上での男女の演じ分けは、男役・娘役(女役)双方の尽力によって成立するものなのである67。

5 おわりに
―向こう側にあるものと宝塚歌劇にかける思い―

ここまで男役と娘役(女役)の振舞、男役が娘役(女役)を演じること、娘役(女役)の存在のありようなどについてみてきたが、同じ性だとされる者が別々の性を演じることで何が見えてくるだろうか。久世星佳との対談で蜷川幸雄は次のように述べた(久世 1995: 186)。

昔、平(幹次郎)さんが『王女メディア』('78年)って芝居で女形演った時にね、「男を演る時にもこれぐらい自覚的にやったら、僕はいい俳優になったのになあ」って言い方をしてたのね。つまり、男が男を演るのは、男が女を演る時ほど自覚的ではない。セリフや動き、あらゆることに関してね。女形を演じる時のように男を演ったらよかった、っていう言い方をしてたね。

男役だけでなく、娘役(女役)を演じる際にも演者たちは自身も女性でありながら、身体的にも社会的にも「女性らしさ」というものを意識しながら演じた。このように宝塚歌劇で男役と娘役に分かれる際に、それぞれの性の所作、身体的特徴を表すための化粧などを研究し追求することで、性別をよりくっきりと見せていった。安易に比較することは難しいが、多くの人が歌舞伎についても思いをはせるだろう。性別をはっきり見せることは歌舞伎にも共通して言えることかもしれないが、歌舞伎が伝統芸能として確立しており、また演目も着物を着ているのに対し、宝塚歌劇には洋物の演目が多く、また漫画などを原作としたメディアミックスとなる作品も多い。洋物の多くの演目も同時代で流行しているトピックや話題となっているミュージカルの潤色などである。そういった意味で宝塚歌劇は常にその時代性を作品に反映させており、そのなかで演じられる男役像というものも時代によって少しずつ形容している。これまで見てきたように、宝塚歌劇では節目などに大きな作品を上演する、または外部の人間をスタッフとして採用するなどして、宝塚歌劇の作品を常に更新していこうとしている。柴田侑宏と榛名由梨は宝塚歌劇についてこう話していた(山本編 1995: 19)。

柴田「我々内部の者が、観客は宝塚に対して夢々しいものを求めているという固定観念で見すぎてはいないかと考えている。観客は世相と共にどんどん変わっていくし、最近の若い人は、かなりの刺激でも平気で受け入れるよね。だから、我々が「宝塚だからここまで」と考える線より、もう一歩先に行っても観客は受け入れるんじゃないかと最近思うね。」
榛名「私ら演じる側から言うとね、宝塚の枠よりも役に入ったときの自分の姿勢でしょ。だから、ドラマの中で必然性があれば枠も何もないし、「宝塚だからイケマセン」なんて言えないと思う。」

私が今回、本稿を書くにあたり資料を見るなかで興味深かったのは、宝塚歌劇の作品を作る過程やそれ以外の場でも、演者と演出家のディスカッションが思っていたよりも激しくなされていることであった68。宝塚歌劇の演者は全員女性だが、作り手が男性であるということはフェミニズム研究会でも何度か指摘された点である。演者が作り手に単に管理されて兵隊のように動かされているというよりは、演出家と演者ともに作品を作っているという印象を持った。現在では演出家やスタッフなどにも女性が多く入り、また新たな作品を作り出そうとしている。
そうした宝塚歌劇の可能性は、やはり男役・娘役と分かれて、また男役がときに娘役を演じるといった自由さにある。汀夏子は、自身が宝塚歌劇の男役にこだわることをその自由度に求めている(山本編 1995: 15)。

私が宝塚がすごく好きで、男役に執着しているのは、いろんな時代の、いろんな世界の、いろんな年代の人を演じられるからなんです。役の幅がすごく広いでしょ。これがもし外の舞台だったら、自分と同じ程度の年齢の女性しか演じられない。そんなの面白くないもん(笑)。

こうした自由度が演者にとっても面白いと同時に、劇場で観ている私たちにも自由な面白さを伝えてくれているのではないだろうか。現実世界とは異なる自由さを舞台と客席ともに、劇場全体で共有している。もちろん共有するものはそれだけではない。宝塚歌劇に限らないが、舞台は演者だけで成立するものではない。観ている客席と場を共有することで初めて舞台そのものが、作品そのものが、成立するのである。
宝塚歌劇団は2014年に、創立100周年を迎えた。今後も更新していくにあたり、演者たちはどのように考えているのか、彼女たちの思いを最後に見ておきたい。
現雪組の男役である真那春人は宝塚歌劇100周年を迎えるにあたって、次のように語った69。

宝塚(歌劇)ってもっと皆が知れば、世界が平和になると思ってるんですね、私は。
(中略)
誰しも持ってる悩みとか、ファンのときに(宝塚歌劇を)みて、そういうのが全部吹っ飛んだというか、あ、こんなとこあったんだみたいな。生きがいと言ったらちょっと大げさかもしれないけど、そういう風に感じさせてくれるものだったから、人によってそれぞれ違うものかもしれないけど。意外と宝塚って知っているけど、観たことないっていう方もたくさんいるじゃない?だから、目標はもっと(宝塚を)知ってもらう。やっぱり生の舞台が一番いいと思うから、宝塚は。生の舞台に触れてもらってそこで感じるエネルギーとかを感じてもらえるとすごくいいかなと思って。

タカラジェンヌたちは様々な理由で宝塚音楽学校に入学し、宝塚歌劇団に入団するが、そのなかには宝塚歌劇のファンであった人たちも大変多い。真那が「生きがい」と話す彼女たちの舞台にかける情熱には、客席にいた頃の歓びや癒しや憧れが動力ともなっているのだろう。現星組の男役である天寿光希は自身を振り返りながら、宝塚歌劇について次のように述べた70。

私、ファン時代がすごい長い人間なので。それぞれの時代みんながすべてをかけて、自分の人生すべてをかけて、お稽古して、一回一回命がけで舞台に立ってこられた。そういうたくさんの先輩方がいるおかげで、いま、今日の宝塚があると思うので、それを、絶対私たちがその質を、レベルを落としてはいけないという責任をひしひしと感じてます。(中略)宝塚とは、いまの自分の人生のなかで、命がけで、自分のすべてをかけられるものですね。

彼女たちの宝塚歌劇への本気の姿勢が男役の追求につながり、男性とはまた違う「男役」を創出した。その姿が舞台を通じて現実世界とは違う軽々とした夢を客席に提供している。
冒頭に述べたように宝塚歌劇は男役などに注目され特殊にみられるかもしれないが、演者間では普遍的に演技することが目指されており、性別を分けて演じることを通じて、私たちに現実世界とは異なる浮遊した自由さを観せるに至っている。それを見て現実におけるジェンダーに関する規範にまつわる葛藤や軋轢を生きるための力を得ているのは、おそらく私だけではないだろう。
加えて宝塚歌劇を観る私たちにとって、観劇は日常のなかの非日常、日常に含まれるハレの場として捉えることができる。ただし、演者にとっては在団している限りにおいて、公演が繰り返されることが日常である。宝塚歌劇に限らないかもしれないが、大衆娯楽というのはそこにあるだけで抵抗を示してもいるのではないだろうか。もちろん、このことは普段、観客にも演者にも意識されていない。けれど、何か大きな事件あるいは災害が起きたときに、劇場が変わらずあるということ、公演がたとえ一時的にでも停止になったとしても続けられるということが、観客にも演者にも大きな支えとなる71。そして、公演を行なう続けることはこうした変わらない日常をつなぎ続けるという意志を双方において強くさせるものだろう。それは何かに脅かされたとき/脅かされそうになるとき、日常を手放さないということが大きな力になることを、演者も観客の私たちも、普段は自覚せずとも、実のところわかっているからにほかならない。

[注]
1 2014年に100周年を迎えた宝塚歌劇団は、阪急電鉄を母体とし歌劇事業部により運営され、制作、舞台装置、脚本、演出など裏方スタッフには主に男性が携わりながら、演者は女性のみであり、男役と娘役(女役)に二分され舞台を構成する。
2 男が女を演じることについて問われないのには歌舞伎などの歴史の長さということも背景にあるだろう。けれども女が男を演じることによって、男が女を演じる場合とは異なるイメージを喚起させもする。たとえば、その背景のひとつには異性愛主義の領域を脅かされるという危惧があるのかもしれない。
3 渡辺は、「いまいまわれわれはともすれば、宝塚というと、いささか好事家的な、場合によっては倒錯趣味的な特殊な場のように考え」ているのではないかと疑問視している(渡辺 1999: 13)。
4 近年でも、宝塚歌劇団に関してその歴史的な成り立ちを分析するものが継続して現れつつあり、宮本(2014)は男役の男声の確立と規範化について論じている。
5 先行研究の整理、分析については宮本(2014)に詳しい。宮本は、ファンへのアンケート調査を行ない、宝塚歌劇と同性愛的関心があまり見られないことを明らかにしたNakamura and MatsuoによるFemale masculinity and fantasy spaces: Transcending genders in the Takarazuka Theatre and Japanese popular cultureを挙げている。また海外の研究においてジェンダー研究からの視点のものが多い。その嚆矢がロバートソンによるものだろう(Robertson1998=2000)。「性」という視座においては、東(2015)による同性の恋愛・友愛に重点をおいた分析がなされている。
6 フェミニズム研究会で実際にあった指摘である。
7 比較するのは容易にできないと考えられるが、ドラァグ・クイーンが「女性」になりたいとは限らないことが想起される。
8 宝塚歌劇の創設者である小林一三は、花嫁学校的側面について以下のように述べている。(小林一三,1955 「宝塚生い立ちの記」『宝塚漫筆』実業之日本社.2015年12月10日取得,http://www.aozora.gr.jp/cards/001256/files/46655_29120.html)

   ‌今は学校の規則がかわって、一番若くて十五、六で入るが、もとは十三、四から入った。そうしてハタチにならない前に、十八、九までにおおよその素質なり、有望であるか見込みがないか、ということがわかるから、その間にどんどん退校してお嫁にいく。奥さんとしては、いわゆる芸術的教養があって、音楽もでき、踊りもできというふうで、手前みそで言えば、彼女らはみんな「上品なマダム」なのである。
   ‌ ところが私は、実情がそうなっていることを以前には意識しなかった。われわれ音楽学校をつくって、舞台へ出る芸術家のことばかり考えておったけれども、さて舞台人として活躍している人は三十七人しかない。あとは、ほとんど一般の善良な家庭の主婦におさまっているという事実を見ると、将来もどうもそういうふうになるんではないかという気がする。
   ‌ それにつけても、お金をかけて一人前に育て上げた者をよそへとられるなんて、いかにもばかばかしいと思った時代もあったけれども、それはまことに考えちがいで、婦人として、りっぱな教養を備えた理想的奥さんができるならば、そのほかのことは附録のようなものである。むしろ多々益々よそへとられてもかまわぬという気持にさえなっている。

9 同期生は音楽学校入学が同時で、年度初めの宝塚大劇場での公演でまとまって初舞台を踏む。同期生はその後、組配属され分かれるため、同期生全員でともに大劇場の舞台にたつのはこの初舞台のみであり、初舞台に向けての稽古、音楽学校でともに過ごした時間の密度などで同期生はタカラジェンヌのなかでもとりわけ紐帯が強いとされる。
10 実際、宝塚歌劇の舞台で華やかな恋愛に主軸を置くこうした公演も多いが、一方で、主役と2番手の男同士の友情を中心に描くものや、場合によっては主役と娘役の友情を描くものもある。また、『PUCK』のように人間ではなく妖精との恋を描くものや、海外ミュージカルの『エリザベート』のような、生身の男性ではない「死」という概念を体現化した存在との「恋物語」の公演もある。
11 「オトメな男性」という点について、大越が何を言わんとしているのか疑問である。宝塚歌劇は「愛と夢の世界」を謳っているが、観客側に「オトメ」という色付けをしてしまうことで、宝塚歌劇そのものにも観客にもジェンダーやセクシュアリティに基づく色付けをしているのではないだろうか。また最近では男性の観客も増えつつあり、男女に限らず宝塚が楽しまれるようになっている。
12 OGの卒業後のテレビ番組でのインタビューや、宝塚歌劇団が持っているCS放送タカラヅカスカイステージのなかで行なわれたタカラジェンヌへのインタビューも含む。
13 宝塚歌劇では女性を演じる場合、相対的に若い場合「娘役」と、そうでない場合(夫人や老女などを演じる)に「女役」と演者間でも称されるが、何歳以上などの明確な区分けをしているわけではない。
14 小林一三は、『宝塚生い立ちの記』のなかで、「宝塚の男役、女役というものは、かつてはわれわれも、女だけで芝居するなんて不自然だ、やはり男を入れて男女の芝居でなければいけないといって、何べんか宝塚歌劇を両性歌劇にしようと計画したことがあった」と述べている。(小林一三,1955 「宝塚生い立ちの記」『宝塚漫筆』実業之日本社.2015年12月10日取得,http://www.aozora.gr.jp/cards/001256/files/46655_29120.html)
15 公募研究「映像からみる戦前戦後の宝塚歌劇―日比谷宝塚劇場映像(1935)とGHQ撮影映像(1946)をめぐる考察」主催シンポジウム「映像にいる戦前戦後の宝塚歌劇」2014年1月14日,早稲田大学小野記念講堂.
16 この順番は各組が創立された順である。1921年に花組、月組が、1924年に雪組、1933年に星組(1939年に星組は一時廃止されその後1948年に復活)、1998年に宙組が創設された。各組が創設された背景には公演数の増加、宝塚大劇場及び東京宝塚大劇場の設立などがある。
17 各組の男役娘役合わせた構成人数は、60、70人である。
18 タカラジェンヌが男装、短い髪にした経過については、川崎(2005)を参照されたい。
19 劇場の入出は、タカラジェンヌとファンにとっての触れ合いの場ともなっている。ファンにとってタカラジェンヌの舞台以外の姿を見られる場であり、ファンクラブに入っている人はファンレターなどを渡すこともできる(宮本 2011)。
20 「宝塚懐かしの名舞台 宝塚ミュージカルロマン『友よこの胸に熱き涙を』」1996年12月20日,NHKBS-2放送.
21 1966年に入団。1978年に花組トップスター。1980年からは順みつきとともに二人でトップスターとなった。1982年に退団。退団後は政界などにも進出。
22 1968年に入団。雪組に配属され、1975年に星組に異動。1976年の『ベルサイユのばら』再演ではオスカルを務めた。その後月組に異動し、1977年『風と共に去りぬ』初演ではスカーレットを演じた。1980年に花組に異動しトップスターになる。1983年に退団。
23 1985年に入団。花組に配属され後に月組に異動。久世星佳トップ時に月組二番手となる。1997に月組トップスターとなる。同期の轟悠(雪組)、稔幸(星組)、愛華みれ(花組)が同時期にトップスターとなり、宝塚歌劇団初めて同期が4組でトップスターとして並んだ。2001年に退団。愛称はまみ。
24 「ディープピープル番外編 宝塚トップスター」2010年11月12日,NHK総合 放送.
25 1979年に入団。安寿ミラが花組トップスターのときは二番手として活躍し、安寿とのコンビは二人の愛称をとって「ヤンミキ」と称された。1995年に花組トップスターに、1998年に退団。男役として新たな境地を拓いたとも位置づけられている。
26 「ディープピープル番外編 宝塚トップスター」2010年11月12日,NHK総合 放送.引用中、真琴、安蘭、春野の会話はすべてこの出典による。
27 宝塚歌劇団では、各組の公演に際して、入団7年目までの下級生のみで「新人公演」を宝塚劇場及び東京宝塚劇場で1度ずつ行なう。演じるのは公演の演目(芝居とショーなら芝居のみを演じることが多い)である。宝塚歌劇に現在のようなトップスターを中心とするスターシステムがつくられて以降、例外を除き、新人公演で主演を演じたタカラジェンヌがいずれトップスター及びトップ娘役になる。タカラジェンヌにとっての登竜門的な公演でもあり、また普段の公演で出番の少ない下級生の演技や歌やダンスを目にする貴重な機会でもある。
28 組に所属する生徒のこと。花組生、月組生といった言い方もある。
29 宝塚歌劇の舞台化粧は大変派手であることが特徴のひとつに現在ではなっているが、これは旧宝塚大劇場が3000人を超える座席数であり3階席まであったため、一番後ろの客席にも表情が見えるように、濃い化粧をするようになったとも言われている。
30 1974年に入団。入団当初からダンスを得意とした。大浦の踊りの名場面は数えきれない。1988年に花組トップスターになる。1991年に退団。2009年に死去。
31 入団し、配属された組で一定過ごし、その後劇団からの指示により別の組へと異動すること。組替えの理由は劇団全体のバランスをとるなど様々だが、組替えした生徒は役付きが良くなったりトップスターへの道筋をつけたりすることも多い。真琴は花組に配属された後、入団10年目(研10)で月組に組替え、天海祐希のトップお披露目公演を支え、久世星佳がトップになった際には2番手男役として活躍し、1997年に月組でトップスターとなった。安蘭は入団後雪組に配属されたが、2000年に星組に組替え、2006年より星組トップスターとなった。
32 1963年に入団。花組配属の後、雪組に異動。1971に雪組トップスターとなる。1972年に退団。
33 現在でも、公演プログラムの写真をみるとよくわかる。
34 元星組トップスター稔幸や、元星組トップスター柚希礼音など。
35 本文では、トップスターのみを取り上げて記述しがちになってしまったが、様々な持ち味の男役がいる。たとえば、OGの未沙のえるや風莉じんなどは男役として背が高いわけではなかったが、脇役として、年配の男性を演じる名役であり、なくてはならない演者であった。
36 「ディープピープル番外編 宝塚トップスター」2010年11月12日,NHK総合 放送.
37 2005年入団。星組の現役男役。気品ある雰囲気と清廉さを魅力とし、また幅広い確かな演技力が魅力である。公演のたびに新たな魅力に気づかされる一人である。
38 「Takarazuka Precious Star#4鳳真由・天寿光希」2014年1月,CSスカイステージ放送.
39 天寿は「芸名の自分」と述べているが、タカラジェンヌには、「芸名」、「愛称」、「本名」、公演の「役名」と4つの名前がある。この構造の分析については東(2015)を参照されたい。
40 演出家。代表作に『リア王』、『身毒丸』、『NINAGAWAマクベス』など。
41 1983年宝塚歌劇団入団。1996-1997年月組トップスター。芝居、歌、踊りの三拍子揃ったトップスターであり、包容力があり渋さが持ち味であった。天海祐希が月組トップスターの際は二番手男役として天海とは異なる魅力で舞台を締めた。退団後は舞台を中心に活躍している。
42 真矢みきの宝塚歌劇現役時代の演目は映像でも一見の価値がある。
43 2008年より池田理代子原案の『外伝ベルサイユのばら』が、『ベルサイユのばら』の登場人物であるジェロ―デル、アラン、ベルナールなどをそれぞれ主役にし、全国ツアーなどで行なわれた。
44 1908生まれ。元東宝歌舞伎役者。東宝歌舞伎を牽引した。松竹の映画俳優にもなり阪東妻三郎などとならび時代劇のスター役者でもあったが、55歳を過ぎてからは舞台に専念。「ベルサイユのばら」の演出を担当したのは長谷川にとっても芸歴60年の節目の年であった。1984年に死去。
45 小林一三は、宝塚歌劇を「国民劇」にしようとしていた。この点については川崎(2005)を参照されたい。
46 1963年に入団。1973年に大滝子とともに月組トップスターになる。1974年に 『ベルサイユのばら』のオスカルを演じ、1975年には花組に異動し、安奈淳とともにトップスターになる。花組でも1975年に『ベルサイユのばら』が上演され、アンドレを演じた。安奈淳、汀夏子、鳳蘭とともに「ベルばら四強」とも称された。
47 2014年に星組全国ツアーで『風と共に去りぬ』が上演されるにあたり、スカーレットを演じる礼真琴は映画を参照したと述べている。「NOW ON STAGE 星組全国ツアー公演風と共に去りぬ」2014年11月,CSタカラヅカスカイステージ放送.
48 1949年に宝塚歌劇団に入団。花組娘役となり、主演娘役を演じることもあった。1953年に退団。
49 現在の『風と共に去りぬ』にはスカーレット編とバトラー編とがあり、スカーレット編ではトップスターの男役がスカーレットを演じることもある。バトラー編ではバトラーを主軸に話が展開されるのだが、話がだいぶ簡潔になっており原作や映画を観ていないと物語や心情がわかりにくい側面もある。
50 新しい像が提示されることはもちろん宝塚歌劇に限らない。
51 1981年雪組公演。木原敏江原作。脚本・演出は柴田侑宏。トップスター麻実れいのお披露目公演であった。
52 1970年入団、1980年に雪組トップスターとなる。妖艶で美しい男役であった。1985年に退団。相手役の遥くららと見目麗しく、二人の相性もよくゴールデンコンビと言われた。退団後も舞台を中心に活躍している。愛称はターコ。
53 1974 年入団、当時は男役であった。1977年に男役から娘役へと変わり、星組トップ娘役となる。このときの星組トップスターが鳳蘭であった。鳳蘭が退団後、瀬戸内美八がトップスターとなってからも星組トップ娘役をつとめ、1980年に雪組に組替えし、雪組トップ娘役となった。1984年の『風と共に去りぬ』で退団。退団後も舞台やTVなどで活動している。愛称はモック。
54 フィリップとアンジェリクは言い争ってばかりいて、結婚を迫られたフィリップがアンジェリクの手首を強く握る様子などがある。この二人にとっては言い争うこともまた重要なコミュニケーションのひとつであることが舞台の大半で示されている。
55 麻実と遥は、自分たちの演目ではいつも喧嘩ばかりしていたと『青き薔薇の軍神』や『かもめ翔ぶ海』などを挙げながら振り返り、「愛してるから喧嘩してしまう。」と麻実は指摘している(宝塚歌劇団 1984: 67)。
56 トップスター就任の最初の宝塚大劇場公演。
57 19世紀のパリのダンスホールを舞台にした、ブロードウェイのミュージカル作品。久世星佳のトップのお披露目公演であった。宝塚歌劇では、1996年の公演のみであるが、久世星佳が歌いながら、トップ娘役の風花舞がカンカンを踊る場面は圧巻であった。
58 1983年宝塚歌劇団入団。月組に配属。1996年に月組トップスターとなる。1997年に退団。演技巧者であり、また歌も踊りも遜色なくできる男役スターであった。久世は渋さが持ち味の男役であり、「ミー・アンド・マイガール」では、天海祐希退団公演の際(久世は二番手であった)に演じたジョン卿がとりわけ当たり役であった。この役は老年であり、二番手男役が演じる役としてはめずらしいものだったかもしれないが久世が演じた後、二番手男役によって多く演じられるようになった。
59 久世は蜷川幸雄との対談のなかで、娘役をやりたかったこと、男役と折り合いをつけたことについて次のように語った(久世 1995: 186)。

  蜷川 ほんとは娘役をやろうと思ってたんだって?
  ‌久世 ちっちゃい時には。だけどまあ、身長の問題で自然と男役になってて、最初三年ぐらいはすごく抵抗あったんです。だけど、ある時期に「男も女も関係ないや。自分が共感した部分で無理なく演っていったらいいんだわ」って思った瞬間から楽になったんですけどね。男の人の人生を舞台の上で生きるのも、人生倍のようでいいじゃない、みたいな気は最近してます。得してるかもって。

60 2014年に花組が上演した際、明日海りおのトップお披露目公演ということもあり、また宝塚大劇場公演中は夏休みでもあり、連日当日券を求める列が出来た。
61 1982年入団。雪組配属となる。1993年に雪組トップスターに就任。1996年、『エリザベート』で退団。歌唱力に定評があり、また男役としてはそれほど大柄でなく愛らしい美しさもあったため娘役も何度も経験した。1988年、1994年の雪組の『風と共に去りぬ』ではスカーレット・オハラを演じた。
62 1961年入団。1973年に退団した後、宝塚歌劇団の振付家として活躍している。
63 1968年入団。雪組に配属。月組への組替えを経て再度雪組へ。1985年に退団。退団後は宝塚歌劇団の振付家としても活動している。
64 1984年入団。在団時の芸名は碧海連。1986年に退団した後は、ミュージカルなどで活躍し、宝塚歌劇の歌唱指導も長年担当している。
65 1929年入団。踊りの名手として知られる。1989年に在団のまま死去。早稲田大学小野記念講堂で、2014年1月14日に行われたシンポジウム「映像からみる戦前戦後の宝塚歌劇―日比谷宝塚劇場映像(1935)とGHQ撮影映像(1946)をめぐる考察」では、戦前の宝塚歌劇で、芦原邦子などとともに踊りを披露する神代の映像を見ることができた。
66 「宝塚DREAM FOREVER #32 遠野あすか」2015年3月,CSスカイステージ放送.
67 1980年頃は宝塚歌劇の舞台上で男女の役割で演じるためには娘役が男役をたてるということが必要だとされていた。1968年から1981年まで在団した上原まりは娘役であったが、「宝塚の娘役のお芝居って、相手も女性が演じる男性だから、やっぱり普通のお芝居とは違うと思うんですけど」と述べている(山本編 1995: 28)。
68 白井鐵造と天津乙女と春日野八千代が1951年に当時の宝塚歌劇について対談しており、タカラジェンヌらの芝居などについてフラットに議論している。もちろんこのような議論が可能であったのには天津と春日野のキャリアもあるだろう。ただ、演出家である白井の言うことに単に賛同するようなことはなく、むしろ反論や違う側面からの切り口での意見を述べている彼女たちについては留意しておく必要がある(寶塚歌劇團出版部 1951: 32-38)。
69 「Takarazuka Precious Star#9 真那春人・鳳月杏」2014年6月,CSスカイステージ放送.
70 「スター・ロングインタビュー♯60天寿光希」2015年11月,CSスカイステージ放送
71 1995年の阪神大震災の際、2011年の東日本大震災の際にも宝塚歌劇の演目のなかには上演が中止・停止されたものもある。とくに阪神大震災の際には本拠地である宝塚大劇場も大打撃を受けた。3月には星組による演目「国境のない地図」が上演された。再開されるにあたり、演者間で葛藤があったが、震災後でも劇場に足を運んだ観客を見てやって良かったと、力づけられてもいる。「宝塚DREAM FOREVER #28麻路さき」2014年10月,CSスカイステージ放送.

[文献]
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