第二部 生殖技術 公開シンポジウム iPS・ES細胞と生殖技術──その学問的成果・技術的有用性・倫理的問題

第2部 生殖技術

1 公開シンポジウム iPS・ES細胞と生殖技術──その学問的成果・技術的有用性・倫理的問題

1-1 ヒトが人らしく生きるために先端医療技術はいかにあるべきか
 
柘植あづみ

3つの経験

 まず、本日の私の話の題名を「ヒトが人らしく生きるために」とした3つの経験についてお話しします。最初の経験は、ある医学部の学生さんが主催したシンポジウムに講師として招かれ、再生医療について「治す」ことが強調されすぎているけれども「治す」以外の選択肢もあるはずだ、といった発言をしたら、(再生医療によって治療が可能になるのを期待している人たちが)「治らなくっていいということですか」という内容の質問をされたんです。ちょうど人のES細胞の研究が始まった頃で、ES細胞を作製するための受精卵の集め方に対して審議会の下で議論されていました。ES細胞研究について批判的に紹介したら、要するに治らなくていいって思っているわけですか。それって患者さんにとってひどくないですかというような、もっと柔らかい言葉だったのですが、内容としてはそういうことを医学部の学生さんから質問されました。治すことを願って新しい技術に期待する患者さんの気持ちを理解しようとすることと、新しい技術研究の問題点を指摘することの関係については、私がずっと考えてきたことなんです。
 もう一つの経験は近しい関係にあった叔母の闘病と死の経験です。このテーマに決めたのは昨夏くらいで、最初にこのセミナーが予定されていた9月の初旬には叔母は最後の入院をしたばかりでした。その後、9月末に亡くなりました。がんだったんですけれども、彼女が59歳のときにかなりひどく進行していると診断されまして、それから65歳まで生きました。その彼女を見ていて、新しい治療技術については、思うところがいろいろありました。彼女と私は新しい治療技術について意見が違うところも多かったし、余談ですが、実は今日着ているこの洋服は叔母のものなんですけれども、私にはちょっと派手なんですけれども、そういうふうに全然性格が違いました。一緒にワインを飲みながら、いろいろ議論をしながら、がんの末期に自分らしく生きるのを見せてもらいました。あと1年生きられるのが10パーセントと言われたのが彼女が59歳のときだったんです。医師はかなり丁寧に説明してくれて、データでは1年生きられた人は10パーセントだけれども、個人差はあって、中には10年生きた人もいれば数カ月で亡くなった人もいるんだよ、というような説明をして、手術とか放射線治療とか化学療法とかいろんな選択肢を出されたときに、私はその場にいたんですが、そのときに叔母は「先生、いいんです。とにかく楽しく生きられるようにしてください」って言ったんです。そういう言い方をしたものですから、「へえっ」って思って聞いていたんです。亡くなる前に、「楽しい人生だった」って言っていたのでよかったなと思いました。
 3つめの経験は、これは本の宣伝になりますが、『生殖技術』の中に書いています。デュシェンヌ型筋ジストロフィーの方や、ウェルドニッヒ・ホフマン症、筋ジスと同じく難病と言われているものなんですが、その方たちにインタビューさせていただいたことがありました。その方たちはインタビュー時には自立生活をしていた方たちです。その方たちに再生医療とか、遺伝子治療とか、新しい治療法ができるということに対する期待について質問したら、「いや治療っていうのに関心ないんです」と言われて驚いたのです。「僕は治療には関心ありません。関心があるのは人間らしく生きるということです」と話されました。「それじゃあ、人間らしくってどういうことですか」って尋ねました。そうしたら、お一人が、「スーパーマーケットに行って、自分で今日何を食べるかを選ぶ、そして今日どこに行くかというのを決める。今日何を着るかというのを決める。そういうのが人間らしい生活だ」という答えを聞いて、「はっ」としました。ご自身が長年生活していた療養施設があるんですが、そこにいたときには人間らしくなかったというふうなことをおっしゃっていたのが大変印象に残っています。
 その3つのエピソードから「ヒトが人らしく生きるために」とうまくまとめていけるかというのは、ちょっと自分では心配なんですれども、お話させていただきたいと思います。
 タイトル中の片仮名で「ヒト」としたのは、これはES細胞研究の指針を作成する最初の議論のときに、文部科学省のたたき台に片仮名で「ヒト胚」「ヒトES細胞」って出してきた。私は生物学を学んだ者ですが、ヒトと片仮名で書くことは、人間、人をもう対象化しているんじゃないか、実験材料とまでは言わないですけれども、その「ヒト」と片仮名で書くのと、漢字で「人」と書いてみるのとでは、随分印象が違うじゃないか。ヒト胚とかヒト受精卵とかではなくて、漢字で、人の受精卵、人の胚って書いてみたら印象が違うんじゃないですかというようなことを、私は指針案を検討する審議会の小委員会の委員をしていたので、そこでそんな発言をしたりして嫌がられていました。この表記には、2000年ころからこだわっています。医学とか生物学の対象として見る「ヒト」と、自分の人生を生きている「人」との違いを思い描いて、このタイトルを付けました。

ES細胞、iPS細胞の倫理的問題とは何なのか

 「倫理」基準の緩和
 それでずっと引っかかってきたことなんですけれども、よくiPS細胞に倫理的問題はないと、これは新聞記事でも必ずと言ってよいほど出てきます。iPS細胞には倫理的問題がない。ES細胞には倫理的問題がある。では、その倫理的問題というのは何かというと、ES細胞はヒト胚を材料として使うから倫理的問題があり、iPS細胞は体細胞から作製するので倫理的問題はない、とされます。本当にそうなんだろうか。ES細胞、iPS細胞の倫理的問題というのは、単に受精卵を壊してつくること、もしくはクローンES細胞の場合は受精卵じゃなくて未受精卵を使うんですが、そのことだけが倫理的問題なのか、ということについて考えています。ES細胞の使用に関する指針(平成22年)では、「ヒトES細胞を取り扱うものは次に掲げる行為を行ってはならない」。「1 ヒトES細胞を使用して作成した胚の人又は動物の胎内への移植その他の方法によりヒトES細胞から個体を生成すること」。片仮名のヒトがいっぱい続きますが、「2 ヒト胚へヒトES細胞を導入すること」。それから「3 ヒトの胎児へヒトES細胞を導入すること」。「4 ヒトES細胞から生殖細胞の作成を行う場合には、当該生殖細胞を用いてヒト胚を作成すること」。つまり、ヒトES細胞から生殖細胞を作成するところまで認めていて、そしてその生殖細胞を用いて、またヒト胚をつくり、それを子宮に戻せば人間が生まれてくる。それが禁止されているわけです。これが倫理的問題。ここで禁止している、規制していることが、指針ですので「禁止」とまで言えないかもしれないんですが、規制していることが倫理的問題だというふうに認識されているわけです。
 ただし、この指針による規制というのは、実はなし崩し的にと言っていいのかどうかわかりませんが、緩められてきています。一番最初に、2000年から2001年ぐらいに議論されていたときには、ヒトES細胞から生殖細胞を作成することは規制されていました。それから生殖細胞は作成してもよいが、受精はさせない、となった。さらに、ES細胞でつくった精子と卵子の受精はさせてもよいが、その受精卵を子宮には移植しない。というような、議論になってきています。なので、指針の倫理基準というのは常に変化している。その変化は誰が起こしているのかは、皆さんおわかりだと思うんですけれども、こういう技術を進めたいところ、人たちが中心になって審議会の議論は進んでいるのです。

 受精卵は人か?
 お手元の資料でちょっと説明させてください。この次に倫理的なものとしてよく議論されるのが、ではES細胞をつくるために胚を使う。それは倫理的に問題があるとするならば、「受精卵は人か」という議論がよく出てきます。日本では実は受精卵は人かという議論は、あまり徹底的に話し合われることはないんですけれども、アメリカに滞在していたときには、やっぱり「受精卵は人か」というのがすごく議論されていました。それで資料には、キリスト教の影響の強い国では受精卵の研究利用に対して抑制的である、という書き方をしましたけれども、もちろんキリスト教というだけではなくて、他の宗教でももちろん関係してきます。ただ、アメリカの状況はもう、宗教というだけじゃなくて、政治的なものになっています。例えば私がアメリカにいたのは、ES細胞研究のカリフォルニア州での中心になっているスタンフォード大学に2004年から2005年にかけて滞在していたのですが、スタンフォード大学はもう、研究の最先端を走っている大学なので、「ES細胞研究って問題あるんじゃない?」って問題提起をしても、「どうして?」って言われるだけでした。それで、「人の胚を集めて、不妊治療している人から集めてもらってきて、それを材料としてES細胞を作製していくわけだよね」と問うと、「あなたは受精卵を人間だと思っているのか」って尋ねられるんです。それで、「いや、人間だとは思っていないけれども、でも人間になる可能性はあるわけだし、ある人にとってはもういらないもの、体内から出ていってほしいものだけど、ある人にとってはとても大事なものですよね。もう、子宮には移植しないとしても、大切なものだという思いはありますよね」という説明をしたのだけれども、伝わりませんでした。やっぱり、アメリカにおいては、受精卵が大事な存在だということ自体が、もう受精卵は人間であると考えている立場にあって、政治的には中絶反対派である、と。そういう政治的な立場が問われてしまうんです。日本でそういうことを私が言っても、中絶反対派なのかとは、まず言われません。そこの日本とアメリカとの温度差を随分感じました。
 じゃあ日本ではどうかというときに、やっぱり受精卵に対する命のもとというような視線はES細胞研究を批判する人だけじゃなくて、ES細胞を使って研究しようとしている人たちにもありました。2003年ぐらいに何人かの再生医療の研究者にインタビューさせていただいたことがあったんですが、受精卵についてどう思いますかって4人ぐらいお話を伺ったんですが、その中で「あれは物だよ、物」とおっしゃったのはお1人だけでした。それ以外の方たちは「いやあそれは人になっていく可能性はある存在」、存在という言い方はされませんでしたが、だからまあ「大事ですから」というようなことをおっしゃっていました。ただ2000年、2001年ぐらいの審議会の議論では、ES細胞を樹立するための材料として期待されていたのが、不妊治療で「余った」受精卵だった。だから、不妊治療をしている人たちにとってもうそれはいらなくなったものなんでしょ、捨てるわけだよね。だからそれはもらってもいいでしょ、という論理で指針が作成されていきました。じゃあ女性の感覚ではどうかと思って、その当時、不妊治療している方たちに何人かお話を聞いたんですけれども、その同じ人でも子どもが欲しければ受精卵はとても大切な、いとおしい、存在です。不妊治療、体外受精をかなり初期のころにしていた方がおっしゃったんですけれども、体外受精をして、受精卵を顕微鏡で見せてもらって、もうあなたの場合はたくさん受精卵ができなくて、1個しかない。もうそれは年齢とか、いろんな原因、病気もあったんですが、それでもなんとか1個受精卵ができた。それを子宮に戻します、でもかなり確率は低いですと言われていた。彼女は、その受精卵を顕微鏡で見たときに、すごくいとおしかったというような表現をしていました。
 でも、妊娠したくない女性にとってみれば、妊娠している自分の体をなんとか元に戻したい。妊娠していない状態に戻したい。だから、受精卵は人とか、いとおしいなんて思えないわけです。そういう、うとましい存在というふうに受けとめられる。それが、アメリカでは政治的な立場によって中絶への姿勢が凝り固まっているという印象があります。民主党支持なら、中絶に賛成なら、ES細胞研究には賛成しなければいけない。中絶反対で共和党支持なら、それでES細胞には反対しなければいけない。というような政治的な姿勢がES細胞研究に影響を与えるということは日本ではほとんど見られなかった〔例外としてナンシー・レーガン(レーガン元大統領の妻)が夫のアルツハイマー病を治すためにES細胞研究を支持していたことがメディアでよく取り上げられていました〕。

 何のために倫理基準を緩和するのか
 技術がどんどん発展して変化していけば、それによって倫理基準は変化していきます。それから社会とか文化の側が、同じ技術であっても受け入れる側の慣れによって倫理基準が変わっていきます。だけれどもこの再生医療に関してはこの10年でとにかくめまぐるしく変化した。再生医療という研究があります、と登場した。そしてその研究には人間の卵子や受精卵が必要です。それが困難とみるやiPSが体細胞への遺伝子導入でできるようになりました。さらに、再生医療でできたES細胞とかiPS細胞を使って精子や卵子をつくることが可能になりました、と。それを受精させるなんてとんでもないでしょうと思われていたのが、もうわずか10年で変化した。「いや精子や卵子つくるのはいいのじゃないか、受精させなければ」。「いや受精までしてもいいんじゃないか、子宮に戻さなければ」。と変化してきて、その変化が常に文化とか社会の側の変化ではなくって、技術を進めていっている側から生じている。技術を推進している側が、そのときどきの倫理をつくっている、というところが1つの特徴なんじゃないかと思います。
 もう1つの倫理、じゃあiPS細胞はES細胞のように胚や卵子を使わないんだから倫理的問題はないのか、という疑問に対しての私の考えですけれども、まず1つ補っておきますと、ES細胞には倫理的問題があるというマスコミの論調、その当時の新聞記事を見ればわかりますが、必ずというほど、そう書かれていました。ただ、先ほど申し上げたように、日本で、ES細胞は受精卵を使っているから倫理的問題がある、と誰が言っているのだろうかについて、私はかなり疑問です。私もそれを言った一人かもしれませんけれども、それほど受精卵を使用する問題について議論されていなかった。じゃあ受精卵を使っているから問題だって、本当に日本で誰が言っているのかというのは、きちんと検証する必要はあると思います。それは多分アメリカからの「輸入」ではないかと疑っています。アメリカではそれがすごく大きな議論になっているので、日本でもそうだろうとみなされたという可能性はあります。

「治す」という目的は、何にも増して大事なことなのか

 治療が難しい状態にある人
 もう1つ違う問いなんですけれども、一番最初に申し上げたことに関係します。つまり、ES細胞にしてもiPS細胞にしても、再生医療研究に対して少し批判的なコメントをつけると、それは、治したいと思っている人たちに対して治さなくてもいいと言っているのかという疑問が呈される。その問いに対する答えなんです。「治す」という目的が医学の中では常に最上の目的にされていると思うんです。それは再生医療に限らず、他のどんな医療でも、治すということ自体がそういう位置づけだと思います。例えば不妊治療について考えるときに、不妊治療が治療なのかどうかっていう問いかけを私を含めて何人かの論者がしていますが、だけれども、医師にインタビューしたとき、随分前(1991〜94年)のことなんですが、医師に不妊治療についてどう考えているかという質問をしていたころに強く感じたのは、医師にとっては治すということが最大の目的であるということですね、それが正当化されていく、そういうことだと感じました。それでは、治すという目的は何にもまして大事なことなのか。
 再生医療でも治せない疾患や障害は多い。治せないこと、治さないことについても思いをはせる必要があるのではないか、これ結構しんどいですけれども、私がずっとひっかかっていたことです。しんどいというのは、最初に申し上げたとおり医学部の学生さんからもそういう問いかけがありましたし、亡くなった叔母がもう6年、7年前に末期って言われて、元気で生きていて、実家に帰るたびに、亡くなる少し前には食欲は落ちてきていたんですけれども、一緒にワインを飲んでいました。自分でも死期が近いのを悟っているという状態だったのですが、その叔母が亡くなって部屋の片づけをしないといけないので、行って冷蔵庫を開けてびっくりしました。とにかく、かつおぶしで出汁をきちんと取って、ペットボトルに1回分ずつ分けて凍らせてあった。もう、とにかくいろんな食料が、私の冷蔵庫よりもいっぱい入っていたという状態でした。それを見て、ああ、あの人、まだ生きる気力満々だったんだなって、亡くなってからびっくりした。とにかくもうがんがあちこちに広がっていて、もう駄目だというのは医師も思っているし、本人も思っているけれども、でもそれでも生きる気力満々だったんだな、と。そう感じたときに、やっぱり最後の最後まで治したい、治りたいという気持ちはあるのかなと思ったんです。まだ考え中なんですが、叔母の場合は治したいというよりは、がんがあってもいいから、とにかくもう1日でも、もう1週間でも入院せずに生きたいという気持ちだったんじゃないかなって、やっと落ち着いて思えるようになったんです。だから、治らなくても、治さなくてもいいじゃないですか、というのはしんどいです。けれども、常に「治す」ことを前面に出して新しい技術の応用を認めろとせまることに対しては、私は疑問を持っています。

 不妊治療
 最初に私が調査を始めたときに2つテーマがあったんです。1つは不妊治療です。不妊治療については調査を始めたころに『不妊——いま何がおこなわれているのか』(1991年)っていう本のグループ翻訳をしまして、晶文社から出していただいたんですが、その本が随分売れたんです。それから患者会を立ち上げたという経緯があります。大学院生だったので、時間があるときには電話当番とか手紙の返事を書く当番とかという形でやっていたんですが、それで大勢の不妊治療をしている人たちと知り合いました。その中の子どもができない方たちというのは残念ながらずっと不妊の人たちのグループに残っているわけです。そして、そのうちに不妊治療をやめていく。子どもができた人たちはそこで会からやめていくんです。お子さんができても会に来られる方たちは何人かいらしたんですが、子どもができても、普通にすぐに子どもができた人たちと公園でママ友になってもなんとなく違和感がある。何年も不妊治療してきて年を取って子どもが出来た人にとっては、なんか、どこにも行き場がない。なので自分のアイデンティティは「不妊」ということなんだと言って、お子さんができても不妊の人たちの会にいらしていた方たちもいました。でも少なかったです。
 そのときに思ったのは、医師は治療に来ている人だけを見ていて、治療を諦めてやめていく人たちのことは見ていないということです。もう何年も不妊治療をやったけれども、子どもはできなかった。つまり、治りませんでした。でも治らないって状態でもそれで生きていきます、それでも元気ですという人たちは、医師の前にあらわれないので、医師は自分の目の前にいる子どもが欲しいと深刻になっている人たちを治してあげようという意識が強くなるのです。それから実際に不妊治療の主流である体外受精の成功率が大体今20パーセントから高いところで、うちは40パーセントですというところもありますけれども、40パーセントは成功率が高いです。数字なんてどれだけも操作できますから、母数、母集団が変われば、成功率は違う。日本では余り使われていない技術を使っていればよくなるというのもある。例えば、そこが使っているかどうかは別にして、アメリカで43歳以上の方で体外受精をしてもほとんど数パーセントしか子どもができない。ところが20代の女性の卵子をもらってくると、妊娠率は50パーセント近くなる。ということをやっていれば当然妊娠率は上がる、出産率は上がっていくわけです。なので、成功率が20パーセントから40パーセントといろいろあります。それから、その20パーセントと言われるときに、20パーセントだから5回やれば体外受精で子どもができると思いますが、それは違うんです。20パーセント代の平均の成功率があったとしても、3回ぐらいやってできない人は、もう難しい。もちろん10回やってできる人もいないわけじゃないけれども、体外受精1回で30万円から50万円ぐらいします。それからそれ以外の医療費、たとえば妊娠したら妊婦健診や出産にかかわる費用もかかりますからね。そういうことを考えると、10回やる人は珍しいと思うんですけれども、だけれども10回やってもできない人というのはかなりの割合いらっしゃると思います。
 だけど、誰もそんな数値を誰も統計にして出してくれないんです。随分昔に国際的に権威のある医学ジャーナルの『ランセット(Lancet)』に載ったのは、20年ぐらい前なんですが、その当時の不妊治療の技術だったからというのもあるのでしょうけれども、その当時に、体外受精が必要だと診断された人のうち、体外受精をして子どもができた人と、体外受精をしないで子どもができた人を調べたら、ほぼ同じぐらいの数だった、という論文が載っていました。本当に体外受精をしなければ子どもができないのか。それから体外受精をしてもできない人が相当な割合いる。体外受精をして子どもができたという人は多くいるのですけれども、今、日本で年間に生まれるお子さんのうちの2パーセント以上の子どもが体外受精を使って生まれていると言われています。だけど、本当にその2パーセントの子どもは体外受精でないと生まれてこなかったのかというのは、誰にもわからない。別に、体外受精を使って生まれようが、体外受精を使わなくて生まれようが、それは問題じゃないって言われるかもしれないけれども、ただ技術評価という意味ではそれは誰かがやっておく必要があるんじゃないかなと思います。
 単に身体的なものではない、経済的なもの、心理的なもの、社会的・文化的なもの
 そう考えていくと、医療で治すというのは、本当に、何にもまして大事なことなのか、ということについて考えてみたい、と思うわけです。本当にそれは再生医療を使わないと治せないのか。そもそも治すっていうのはどういう状態からどういう状態にすることを言っているのか。ある状態をこれだけは(痛いからとか不快だから)なんとかしてほしいというのと、その病気だったり障害だったりをもたらしている全ての生物医学的な身体機能をいわゆる「正常」な状態にするということではないでしょう。では、何が治すということなのか。そういうこともひっかかってきています。この「ヒト幹細胞を用いる臨床研究に関する指針」に、こんなふうに書いてあって、私はびっくりしたんですが、「ヒト幹細胞臨床研究は臓器機能再生等を通じて国民の健康の維持並びに疾病の予防、診断及び治療に重要な役割を果たすものである」とあります。「重要な役割を果たすもの」って曖昧な表現にはなっていますけれども、ヒト幹細胞という最先端の研究で健康の維持とか、疾病の予防、診断、治療まで入るのだろうかと疑問を抱きます。自分もそうですけれども、より簡単に侵襲が低くてなるべく早く、それから値段もなるべく安く、そうして治したいと望む人がほとんどなんじゃないかなと。でも、それでいいのか、とも思います。
 これは単に推察ですけれども、ある病気、本当は自分が望ましくないという状態になったときに、そこから元に戻りたい。年を取っていくということを考えればいいと思うんですが、年を取ってから若くなりたいと思っても、20年前の自分の体力、身体、お肌のつやというのを望む人はそんなにいないと思うんです。たまに容貌が仕事に関わったりすればそういう人もいるかもしれませんが、そんなにいないと思うんです。それでも簡単で安全でそれで早く、なんか牛丼じゃないですけれども、というのだったらば、やってみてもいいかなって思う人が多いんじゃないかなと思います。私がかかっている内科のクリニックに「プラセンタ注射始めました」とか貼ってあって、えっプラセンタ注射ってそんな普通の内科クリニックで打ってるんだって驚きました。要するに早く安く、安いかどうか知りませんが、でも2千いくらとかって書いてあったような気がします。違うかな。2万円かな。
〈小門〉多分注射1回2,000円くらいで何回かするのだと思います。

〈柘植〉ありがとうございます。何回もやらないといけない。なので早く安くて、もうちょっと若いときの自分というのを取り戻せるんだったらって、一部分ですが、と思ったら望むかと言ったら望まないわけです。望まない人ばかりじゃないと思いますけれども、可能であると言われても、それはしない人が多いです。それは年を取ったということが自然に受け入れられていくことだからだと、私は思っているんです。
 ところがそれ以外の治療を望むというときには、病気は自然に受け入れることじゃないと思っているのではないかと思います。病気で悩むのは、病気が生命や生活の危機を招くからというのはありますけれども、実際に消化器系の病院と、脳外科系の病院で10年ちょっと前に入院している患者さんに病院とご本人の許可を得て、インタビューさせていただいたことがあるんですけれども、そのときに皆さんが入院していて困ることをお話されるときに何をおっしゃるかというと、もちろん、経済的なこと、仕事が続けられるのかということだったり、それから自分の家庭がうまく運営されているのかということだったり、医療費が高いということだったり、というお話をされるわけですよね。もちろん経済的なことだけではないんですけれども。だけど何か身体が動かなくなって困ることとか、命や生活の危機を招くからだけではなくって、困っているという部分がある。じゃあ何か。
 人それぞれですけれど、例えばある方は大きな会社から独立して友達と2人でベンチャー企業を立ち上げました。それでやっと会社が回り始めたときに、ご自分が原因がわからない病気になりました。とても悩んでいるのはその会社がうまくいくのか、ということ。だから自分が病気で入院していることは「誰にも言うな」と、家族にも言って入院している。そんな話を聴かせていただきました。それは経営や経済的なことを心配されているというように理解もできますが、「『誰にも言うな』というのはその会社のことが心配だからですか」というふうにさらにお尋ねすると、そうすると「うーん」って考えられて、ぽつっと「なさけない姿を見られたくないからですかね」と言われました。インタビューしたときに私と年齢があまり違わなかった、40代の方ですね。十数年前です。そのときに「あらっ」って思いました。「みっともない姿を見られたくないからですかね」というプライド、彼の。大きな会社から独立して友達と一緒に会社を立ち上げて、やっと会社がうまく回ってきたというときに、創業した人が病気で入院となれば会社は危機にさらされるでしょ。だけど、その経済的な問題だけではなくて、原因がわからなくていつ治るかわからない病気の状態にある、そして入院している自分を見られたくない。自分自身もそれは受け入れたくない、という。そういうなんていうんですかね。病気であるということ、病気に悩むということは、生命の危機というのもあるし、生活の危機というのはもちろんあるんだけれども、それ以上に、人間であることの、人としてのプライドが、病気でつらいということと、つながっているんだな、というのを、インタビューしながら感じました。
 もうちょっと明確になるのが、病いによる差別があったり、それから経済的状況、身体的苦痛、それから生命が危機に瀕していることなどへの恐れはもちろんあります。あるんだけれども、それとは別に、自分は普通ではない、通常の状態ではない、というその意識と、そして通常じゃない状態、自分が普通じゃない状態を、自分自身も受け入れられないし、それを他人に見られることも嫌だという問題を病気とか障害という状態がもたらしているんじゃないかと思っています。
 あと5分ですね。のんびり話しすぎちゃってごめんなさい。それで、不妊で辛いのと、子どもがいないので辛いというのは同じではないとレジュメに書いたのはそういう意味です。子どもができないから辛いというのは、自分の体が子どもを産めないから辛いというのと、子どもがいない生活を送るのは辛いというのは違う。その社会的文化的な側面を見落としちゃいけない。だけど再生医療の研究では常に、「これで治療ができるようになります」、という。それで解決できるという意味で使われる。そういう言説というのは、私は、きちんと社会において病気になるということを理解していないから出てくるんじゃないか、と思います。既にお話したんですけれども、筋ジストロフィーの青年が「自分は治すことには関心がない」と言ったこと。治すことを期待してずっと施設にいてそして研究の協力をしているよりも、彼は実験台、モルモットのようにされてというような表現をしていましたが、それよりかは施設の外に出て人間らしく生きるという方に関心があるという話をしていただきました。

提供された生殖細胞によって生まれた人

 最後なんですけれども、再生医療によって生殖細胞をつくるということに対してちょっとだけ意見を言っておきたいと思います。提供精子で生まれた人たちにインタビューをしたときに、精子の提供者を探していた方に、「どうして提供者を探しているのか」と尋ねたら、「精子提供者がどんな人だったか知りたい」と言われた。それでさらに話を聞いていたら、「何が好きだったのか知りたい。チョコレートが好きだったか」と。二十歳の女の子だったんですが、オーストラリアでの調査で、「チョコレート好きだったのか」、「どんな音楽が好きだったのか」って言われたときに、それで「えっ」て、利発な女性で、それが遺伝とは関係ないということはわかっているはずなのに、でもそう言うんです。それはどういうことって聞いたら、要するに、提供精子で親切な人が精子を提供してくれたからあなたが生まれたんだって、お父さんもお母さんもとっても感謝しているという話を聞いて大きくなった。ご両親にも話をうかがえたんですが、とても素敵なご両親でした。でも、親切な人が提供してくれたのは精子というものだと。でも自分は精子というものから生まれたわけじゃない。人間がやっぱり介在していたんだということを、自分はそう思いたい。だから提供してくれた人、親切な人というのがどういう人だったのかということを知りたい。というようなことを話していた。それもすごく印象的に残っています。だから卵子提供の場合にも同様の課題はあって、あるときに再生医療の研究者に精子や卵子をつくることについてどう思いますかって尋ねたら、不妊治療をしている人が卵子とか精子とかどうしても必要な人がいて、その人たちのために使うんだったらいいと思いますよ、つまり治すために使うんだったらいいと思いますよっていうことを非常に真面目な研究者の方、複数の方おっしゃったんです。それでその人たちが思っているつくられた精子とかつくられた卵子というのはやっぱり「物」だと思うんです。そしたらその提供精子で生まれてきた人が言っている自分は人間と人間の関係の中から生まれてきたんだと思いたいということについてどう考えるかというのを問いかけとして、まあ後で議論といってもお話できればいいと思いますというところで、一旦ここで切らせていただきます。