第二部 生存と制度をめぐるノート

生存と制度をめぐるノート
 
安部彰

思想に値段をつけることができるだろう.ある思想の値段は高く,ある思想の値段は安い.さて思想の代金は,なにによって支払うのか.勇気によって,とわたしは思っている.(Wittgenstein 1977=1981: 141)

1 はじめに

 私たちは日々「制度(institution)」とともに暮らしている.あるいは制度を使いながら暮らしている.では何故私たちの傍らには制度があるのか.そうして,私たちが制度を形成する所以はなにか.いや,そうではなく制度は自生するものなのか.
 このように問うてくると,けれども,また別なる,それどころか矛盾しているとさえ思える自問が生じる.すなわち,おそらく人々は多く,制度と呼ばれる「それ」がいったいいかなるものなのか正確に知らないのではないか.すくなくともこの私はよく知らない.だけど現に,こうして,私やあなたは「それ」を使っている.使えている.そうして,暮らしている.だからこそ,暮らしている.ならばそれで十分ではないか.その事実,その外部に,いかなる特別な問題があるというのか.それゆえ制度をめぐる一連の問いをあらためて俎上にのせること,それはむろん禁じられるべきことではないが,でも酔狂な趣味にも似た所作でしかないのではないか.
 たしかに,たとえば「言語」という制度についてなら,我々はそれをもちいえてさえいれば十分に思える.我々のふだんの暮らしにおける「言語」の賭金はその使用可能性に存し,それ──たとえばその規則──について我々が十全な理解を有しているかどうかは問題でさえないといえるからだ.「言語(という制度)とはなにか」と執拗に問うことで,むしろその円滑な使用と日々の暮らしが阻害されることはあるにせよ.
 ところが数ある制度のなかでも「生存を支える制度」についてはすくなくともそうはいかない,人々は多く,そう思うのではないか.私もそうだ.というのは端的に,それなくして我々は暮らしていくことができないからだ.それはあらゆる制度を支える基底的な制度だからだ.そしてまさにこうした思いこそ,生存学(Ars Vivendi)において「生存をめぐる制度」がその主要な研究課題のひとつとして掲げられ1),そのさらに具体・実践的な研究課題として「生存を支える制度の構想」──以下これを《構想》と呼ぼう──が導かれる所以でもあるはずだ.とはいえむろん,そうした課題設定はもとより斯学に固有の関心にのみもとづくものではない.その意味でも本稿で私がささやかな試論を呈してみたいと考えることがらへの関心は広範にわたり,根深くもあるだろうが,いずれにせよここにはあるひとつの想定が透かしみえる.すなわち生存を支える制度は「構想されるに値する(なにかである)」,したがって「構想されるべきである」という想定である.だがこの想定はいかなる認識にもとづいて導かれているのか.
 かかる想定の背後には「生存は制度によって支えられる」という認識──以下これを《認識》と呼ぼう──があるに相違ない.だがこの《認識》によってしめされているのは,そのじついかなる認識なのか.すなわち一方で,「生存は制度によってのみ支えられる」のか,「生存は制度によってこそ(十全に)支えられる」のか,「生存は制度によっても支えられる」のか,そのいずれなのか.他方でまた,生存を支えるその制度は,公的なそれに限定されるのか,私的なそれもまた含むのか.
 こう問うと,けれども,なにを瑣末なことに拘泥しているのかと訝る向きもあろう.だがすくなくとも生存学にとってこの問いはまさに拘泥すべき問いなのだ.《認識》の内実が上述のいずれであるかによって《構想》という研究課題の位置や重みづけが変わってくるからだ.すなわち仮に──ひとまず公的/私的にかかわらず──「生存は制度によってのみ支えられる」という《認識》が正しければ《構想》はまさに課題たりうるし,「生存は制度によってこそ(十全に)支えられる」という《認識》が正しい場合でも課題となりうる意義を有するといえるだろう.しかるに「生存は制度によっても支えられる」という《認識》が正しい場合,《構想》が課題となりうる意義は必ずしも自明ではないということになるはずだ.したがって生存学の研究課題はまず《構想》の手前で,それを志向する《認識》を精査し,見定めることにある.というのもその課題を看過──すくなくとも軽視──したまま,たとえば「生存は制度によって支えられるべきである」と主張するなら,それは論点先取にすぎないからだ.ましてや「生存は制度によってのみ支えられる」とする《認識》を自明視したうえで「生存は制度によってのみ支えられるべきである」と主張するなら,それは端的に騙りであるというほかない.
 かくして本稿において私は《認識》の探究という課題との格闘を試みたい.とはいえ以下においてしめされるのは,文字どおりその端緒をひらく試みにすぎない──本稿が「ノート」と名づけられる所以である.そのことをあらかじめ断わったうえで,この試論ではふたつの《構想》をとりあげる.すなわち「(社会的)連帯」論2)という興味ぶかいしかたで実質化され,展開されている齋藤純一の《構想》,そして制度と生存についての我々の見解を転回するG・ドゥルーズの《構想》を.

2 《構想》としての連帯論の検討

 2.1 「制度化された連帯」とその問題
 政治理論を専門とする齋藤の仕事はじつに多岐にわたるが,その中核をなすひとつに「連帯」をめぐる一連の論考(齋藤 2004a; 2004b; 2011)がある.以下にみるとおり,これらの論考において齋藤が試みていることがらはまさに《構想》と呼ばれるに値する.ではその《構想》を支えているのはいかなる《認識》なのか.齋藤の《構想》の変節を追跡しながら,それを詳らかするのが本章の課題である.
 まず「連帯(solidarity)」(という概念)の規定を見定めることからはじめよう.齋藤(2011)によれば,連帯は「諸個人の間に相互の生を支援しよう──そしてそのための義務・責任を引き受けよう──という意欲/動機づけがある関係性」(齋藤 2011: 113)をさしている.すなわち(諸個人の)「相互性(reciprocity)」および(義務/責任を引き受けようとする)「意欲(willingness)あるいは動機づけ(motivation)3)」が,その重要かつ不可欠な構成要素とされる.ではそれらはそれぞれいかに規定されるのか.
 J・ロールズに依拠しつつ規定される「相互性」は,利益の増大という合理性(rationality)にもとづく相互利益(mutual advantage)とは区別されるところの相互尊重(mutual respect)を導出するための原理と位置づけられる.すなわちその原理は合理的な自己への配慮に還元しえない(異質な)他者への配慮を含んでおり,お互いにそれぞれの生を──保護ではなく──尊重の対象とみなすことを要求する.またかかる要請は,それが現実/実践的な機能をもつためにも「相互支援(mutual support)」として制度化される必要がある.というのも相互支援として実装化されてはじめて,相互尊重は各人の自律的な生を平等に実現することが可能となるからである.またかかる自律は私的な自律のみならず公共的な自律をも可能とすることで4),相互支援を達成するために各人がお互いに課しあう義務・責務を道理性(reasonableness)にもとづける.さらにそのうえで,かかる相互尊重としての相互支援(という義務・責務)は「動機づけ」によって支えられる必要があるとされる.
 他方で,連帯という「関係性」──連帯の形式──はふたつに区分される.「非人称の連帯」と「人称的な連帯」がそれである.齋藤(2004b)によれば,まず「非人称の連帯」とは,見知らぬ人々のあいだに成立する強制的な連帯のことである.この関係においては,見知らぬ者たちが保険料や税金の拠出・徴収をつうじて互いに生のリスクを支えあう.これにたいし「人称的な連帯」とは,特定の人々のあいだで自発的なネットワークとして形成される連帯である.この関係においては,多くの場合,既知のメンバーらによって相互的な生の保障が形成される.
 さてここまでにおいて,ひとまず我々が確認しておきたいのは以下のことである.
 第一に,「相互性」と「動機づけ」の関係について.齋藤において両者はそれぞれ,前者は(連帯の)理念/目的,後者はいわばその可能性の条件と位置づけられている.とはいえ,かかる関係規定は奇妙なものではある.というのも相互支援は道理性にもとづいた義務・責務とされるのだから.ふつう義務・責務はそれを強制的に課すのが正当である行為を意味する.にもかかわらずそれは「動機づけ」によって支えられる必要があるとされるのだから.とはいえこれをたんなる矛盾として切り捨てるべきではない.後述のとおり,むしろかかる矛盾/規定にこそ齋藤の中核的な問題意識が反映されているからである.
 第二に,「非人称の連帯」が齋藤(2011)では「制度化された連帯」と呼びなおされていること.これは裏からいえば,齋藤において「人称的な連帯」は「非制度的な連帯」と位置づけられているということである.したがってまた,齋藤において「生存を支える制度」と呼ぶに値するのはあくまで「制度化された連帯」──すなわち公的な制度──にかぎられるということである.このことは,上述のとおり,相互尊重は相互支援(mutual support)として制度化されねばならないとされることにも明らかである.だがそうすると問題はいかなる論拠にもとづいてこうした区別だてが導かれているのかである.そしてまさにその消息が上述の矛盾/規定と密接にかかわっているのである.どういうことか.
 まず齋藤(2004b)によれば,「人称的な連帯」に比して「非人称の連帯(制度化された連帯)」はつぎのような特長を有しているとされる.この点については旧拙稿にて整理を試みたことがあるので,以下その引用をもって代えよう.

「人称的な連帯」が特定の人々のあいだでのネットワークという形態をとるがゆえに,その生の保障が社会の全域に及ばないのにたいし,「非人称の連帯」は社会保険という制度的な形態をとるため,構成メンバーの生の保障を遍く可能とするという点において安定しているとされる.またそれは制度によって媒介されているがゆえに,保障される側と保証する側の関係が相対的に不可視化され,そのことによって相互のあいだに依存や犠牲といった否定的な感情が生じるのを抑制しうる点で優位性をもっているとされる.(安部 2011: 160-1)

 このようにしめされる「非人称の連帯(制度化された連帯)」の特長を旧稿では「安定性」と「優位性」として整理したのだが──かつ批判したのだが,それはここでは措く──,それをふまえて注目したいのはこの点にかんする齋藤の認識の推移である.すなわち齋藤(2011)では「安定性」についての言及はないが「優位性」についてはその意義があらためて強調されている5).またそのうえで「制度化された連帯」の難点が指摘されている.

第一に,福祉国家〔制度化された連帯〕においては,人々の相互支援はルーティン化した負担‐受益の関係に化し,それが相互性のある制度であるとはなかなか実感しにくいという問題がある.第二に,福祉給付の実態においては,相互の連帯という面よりも,権力行使をともなう行政という面が前面に出てくる.……第三に,福祉国家の連帯は,自発的なものではなく,強制されたものとして感じられる,という問題がある.人々に求められる連帯の行動は,ほとんどの場合,他者の具体的必要に直接応答することなではなく,税金を納付し,社会保険料を拠出するという迂遠なものである.しかも,それらは法的制裁をともなう義務であり,自らの行動が他者との連帯の行動であるとはなかなか実感しにくい.(齋藤2011: 106,補足は引用者)

 重要なのは,この指摘をふまえて齋藤の問題意識がつぎのように焦点化されていることである.すなわち「制度化された連帯」はまさに制度によって媒介されているがゆえに,そして強制的な性格を有しているがゆえに「動機づけの欠損(motivational deficit)」という問題を不可避のものとしてかかえこんでいる.のみならず今日では,その欠損は世界レベルでの経済停滞やグローバル経済の進展もあいまってかなり深刻なものとなっている.そしてそれはとりもなおさず「制度化された連帯」が崩壊の危機に瀕していることを意味している.したがって齋藤によれば,だからこそ,連帯という資源をいかにして再生産していくかが重要な課題となる.だからこそ,かかる再生産を支える「動機づけ」が重要な問題となる.すなわち相互支援の義務・責務の遂行という連帯の理念/目的をまさに実効的な規範とするためにもプラグマティックに重要な問題となるのである6).

 2.2 「動機づけ」という問題とその超克
 ところで「動機づけ」は,齋藤によれば,近年多くの論者によっても認識され,共有されている問題である.なかでも耳目を惹くのがナショナル・アイデンティティに訴えることで,かかる問題を克服しようとする思潮であるとされる.それには新右翼的な「福祉ショーヴィニズム(welfare chauvinism)」のみならずリベラル・ナショナリズムも含まれる7).齋藤によれば,福祉ショーヴィニズムはともかくリベラル・ナショナリズムは「動機づけ」が感情にかかわる問題でもあること──感情の紐帯を必要とすること──を見通している点では正しい.しかるにそれは,価値の多元化状況にある現代にあって集合的アイデンティティの共有をはかることで問題の解を導こうとする点で誤っている──ナンセンスである.
 ではいかなる解であれば適切なのか.齋藤によれば,その解は「相互の生を支援する制度の共有(とそのもとでの諸権利の実効的な享受)」(齋藤2011: 119)によって導かれるべきである.というのも,この「動機づけ」問題への解はつぎの充たすべき要件をともに充たすからである.すなわち第一に,かかる制度へのアクセスから誰も締め出されていないという「非排除性」.これは「動機づけの欠損」を生じさせる自尊感情の毀損(disrespect)を回避するために不可欠である.したがってかかる毀損をうむ危険性の高い制度は改められる必要がある8).また第二に,かかる制度の存在理由がみずからとすべての成員を裨益することに存すると感受することで醸成される「普遍性」.これは連帯の果実が遍く共有されることをつうじて「動機づけ」が喚起されるためにも不可欠である.したがって制度は選別主義的なものから普遍主義的なものへ,さらには困窮した者への事後的な救済からすべての成員の自律的な生きかたを可能とする事前の支援へと改められる必要がある.
 かくして齋藤において「動機づけ」は,制度に先立って,あるいは制度の外部において超克される問題ではない.そうではなく,まさに制度とともに,あるいは制度の内部において,すなわち制度へのコミットメント(愛着)とそのピースミールな改良──「連帯が制度を持続可能なものとして支え,制度が連帯への動機づけを生みだしていくという好循環(齋藤2011: 126)──をとおしてはじめて超克可能な問題にほかならない.

 2.3 考察
 以上が齋藤による《構想》の要点の素描である.ではその背後にはいかなる《認識》が存するだろうか.以下では,齋藤において「動機づけ」問題は上述のしかたで解決可能な問題であると同時に解決されるべき問題でもあるという点に注目して考察を試みておきたい.
 まず齋藤の《構想》,すなわち「制度化された連帯」というプロジェクトは,たんに成員が相互に生存を支えあうことのみをその目的としてはいない.

「市民が形成する連帯──それは間人格的なコミュニケーションだけではなくコミュニケーションのネットのネットによって媒介される関係をも含む──の役割は,政治的公共性における民主的な意見形成─意思形成を,それ自身の熟議にもとづいて意思決定を行い,法を制定する政治システムにつなげていくことである.」(齋藤 2011: 123)

 J・ハーバーマスの理説に全面的に依拠したこの連帯の規範は「制度化された連帯」と「運動/活動としての連帯」の関係をめぐる考察を梯子にしつつ導かれる.すなわち齋藤によれば,ポーランドの「連帯(Solidarno´s´c)」をその範例とする運動としての連帯は,制度への不正義感覚と被抑圧の共通経験(経験の共有化)によって(連帯へと)動機づけられる.こうした方向性はC・ムフらの「闘技デモクラシー(agonistic democracy)」とも共振するもので,そこでは人々の相互熟議ではなく,感情の民主的な動員,集合的な同一化をつうじた共闘集団の形成と(支配的な)多集団との政治的抗争によって「動機づけ」問題の解決が志向される.
 さて齋藤によれば,こうした連帯にも一定の意義はある.すなわち「運動としての連帯」は連帯の豊穣な可能性を「制度化された連帯」へと縮減する硬直した思考にゆさぶりをかける効果をもつだろう.そのうえで,けれども,「運動としての連帯」はその支持者が主張するように「制度化された連帯」と決して相容れないわけではない.齋藤によれば,むしろ前者は後者を補完する機能をはたしうる.

とはいえ,運動としての連帯が制度の具体的な不正義を正そうとし,そのために制度を改革していくことを求めるのであれば,制度へと接続していく回路に開かれている必要がある.実際,制度の外部で行われる運動の多くは,制度のあり方──物質的な再分配のあり方や「生活形式の文法」のあり方──を市民として問いなおしていく活動でもある.(齋藤 2011: 124)

 すなわち「運動としての連帯」は党派的・闘技的な政治をそれじたい目的とするものではない.齋藤によれば,そもそも闘技/熟議という区分じたいがあくまで分析的なものにすぎず,社会運動の実体を反映したものではない.むしろ「運動としての連帯」は公共の議論をつうじた政治的意思の形成や公共的に審議されるべきアジェンダの設定を喚起することをとおして連帯の規範を支えてきたのである.つまりそれは「闘技・熟議のいずれのかたちにおいても,制度化された連帯との関係においては,その機能不全や副次効果を問題化し,制度の硬直化を防いでいく役割を果たす.」(齋藤 2011: 125)
 では以上の立論からして,我々が齋藤の《構想》の背後に看取すべきは「生存は公的な制度によってのみ支えられる」とする《認識》であろうか.いや,その判断は早計である.どういうことか.
 すでにみたとおり,たしかに齋藤において「生存を支える制度」と呼ぶに値するのはあくまで「制度化された連帯」ではあるだろう.しかしながらそのことは,「制度化された連帯」が排他的に生存を支える機能を有するということを意味しない.つまり「人称的な連帯」もまたその機能を有する可能性までもが否定されているわけではない.じっさい齋藤は「人称的な連帯」についてつぎのように述べている.

人称的な連帯においては,連帯への動機づけを得ることは,連帯を成り立たせている目的への関与という面においても,連帯する者どうしの忠誠や愛着という面においても比較的容易だからである(逆に言えば,そうした自発的な動機づけを得ることができなくなれば,人称的な連帯は崩壊するほかない).(齋藤 2011: 117)

 ここにしめされているのは,すくなくとも「人称的な連帯」は「動機づけ」の点では「制度化された連帯」に優越するという認識である.しかしながら齋藤において,第一に,その優越は「人称的な連帯」が「安定性」と「優位性」の点で「制度化された連帯」に劣位することで,帳消しどころか赤字となる9).また第二に,リベラル・ナショナリズムへの批判点とも重なる点だが,「人称的な連帯」においては「動機づけ」を調達するための感情の紐帯が集合的なアイデンティティにもとめられるのだが,それは望ましくない.そしてこれらが,齋藤においてそもそも「人称的な連帯」が《構想》外の対象として位置づけられる所以をなしていると考えられる.
 かくして以上からあらためて,齋藤の《認識》は「生存は公的な制度によってこそ(十全に)支えられる」とするそれであるといってよい.ただしそれは生存を支える「制度」というものをあくまで「制度化された連帯」として限定したときには──そして齋藤にはその向きがあるのだが──「生存は公的な制度によってのみ支えられる」とする《認識》にかぎりなく近似するだろう.
 しかるに以上の《認識》にもとづいて導かれる《構想》は,その是非とは別に,この私に疑念を呼びおこす.すなわちその《構想》は,生存の相互支援もまたそのうちに含む人々の生の技法の一元化を招きはしないだろうか.そうして,我々の生の多様性や可能性それじたいを切りつめることになりはしないか.そうだとすれば,そのように《構想》そのものを縮減するのではなく,むしろそれをさらにひらかれたものとする方向もまた展望してみるべきではないか.そこで私はその導きをG・ドゥルーズにもとめたいと思う.その思想は制度にたいする我々の認識の転回をつうじて,ひらかれた《構想》への示唆をあたえてくれるからである.

3 生存と制度の展望をひらく

 3.1 ドゥルーズの制度論
 ここで参照するのは「本能と制度」と題された小論(Deleuze 1953=2010)である.すなわちドゥルーズによれば,「制度」は「本能(instinct)」と相並べ置かれるべきものである.それらは「本質的には,満足を得るための異なった手段」(Deleuze 1953=2010: 75),あるいは「ありうべき満足をめざして組織された二つの形態」(Deleuze 1953=2010: 76)である.つまりそれらはともに傾向性(欲求)を充足するための方法=手段である.では両者はどこかどう違うのか.
 まず本能は──美を除外すれば──効用という性質以外のなにものでもない.それは傾向性を直接的に充たす.有機体=動物はその本能にそくして傾向性を充たす要素を環境からとりだす.本能が有する否定性はあったとしても嫌悪感ぐらいで,なすべき行動を導くのは傾向性そのものである.また行動と傾向性の関係には,個別的な生理学的諸要因の因果性と種的な因果性があり,本能はそれらの交点として理解される.
 これにたいし制度は有機体=人間に固有のものである.それは傾向性を間接的に充たす.人間は──その他の有機体=動物とは異なり──その傾向性を充たすための手段=制度をその環境として創出する.だが「これらの手段は,有機体を自然状態から解放し,別の事象にしたがわせ,傾向性そのものを,新たな環境にもたらすことによって変形してしまう」(Deleuze 1953=2010: 75).つまり制度は生来の傾向性を変形したうえで──間接的に──充たす.それゆえ制度についての理論は,制度を本能に拠らない行動のモデルと規定し,諸制度から構成される環境すなわち「社会」を肯定的で独創的な傾向性の充足手段として提示しようとする.とはいえ,いわば目的である傾向性はその手段となる個々の制度の存在理由をなんら説明しない.というのも傾向性は,いろんなしかたで,傾向性に必ずしも規定されない多くの手段=制度によっても充足されるからである10).そしてドゥルーズによれば,「ここにこそ社会というもののパラドックスがある」(Deleuze 1953=2010: 77).というのも傾向性は,制度によって「拘束されていたり,抑圧されていたり,変形されていたり,昇華されていたりするのでなければ,けっして充足されること」(Deleuze 1953=2010: 77)がないからである.つまりここでは,いわば主従の逆転が生じている.傾向性を充たすべく生みだされた制度が逆にそれが充たすべき傾向性を規定しているからである.それゆえ制度について語るさいには,たんにその有用性に言及するだけではたりない.というのも制度は我々をしてさまざまな行動規範を構成する活動へと水路づけるのだが,「この活動は,われわれにとって意識的なものでもなければ,傾向性や有用性によって説明されるものではない」(Deleuze 1953=2010: 78)からである.
 だがそうすると畢竟,制度の核心とはなんなのか.ドゥルーズによれば,それはいうなれば脱−本能であり,傾向性による支配からの脱却であり,知性による行動の統御である11).そうして制度は「われわれの身体に,意図せぬ構造においてさえ,一連の規範を強制し,我々の知性に,ある種の知識や,予見可能性や,計画可能性といったものを与える.」(Deleuze 1953=2010: 80)

 3.2 《構想》への示唆
 以上がドゥルーズの制度論の概略である.しかるにその含意は,この小論だけからでは汲みつくすことはできない.だから我々はさらにドゥルーズのD・ヒューム論(Deleuze 1953=2000)を参照し,検討する必要がある.だが私にはまだその用意はなく,考察に十全を期すためにもそれは今後の課題とする.ここではドゥルーズの制度論を《構想》とのかかわりからいかに読みとくべきかにかんして,いくつかの示唆をえておくにとどめる.
 第一に,ドゥルーズにおいて制度は──本能と並んで──傾向性(欲求)を充足するための方法=手段にほかならない.その意味では,制度は生存を支える──より正確には,生存の主要な一側面を支える──ための方法=手段である.そしてそのように制度が生存を支えるものの別名で(も)あるとすれば,そもそも「生存を支える制度」などというものはたんなる冗語法にすぎないということにもなろう.さらには,生存を支える機能を有するなら,制度のあいだのあらゆる区別だてや差別化は一切不要であるということにもなろう.
 第二に,制度はたんに生存を支えるだけではない.それは我々の傾向性を生成し,変化させつつ,その生存を支える.そうして,いうなれば奇形化された傾向性にもとづく,本能から外れているという意味では過剰ともいえる生存を支える.このことはそして,制度をもてばもつほど我々の傾向性も多様となるということ,それにおうじて生の技法も多様となるということを意味している.だから,ドゥルーズが行為を制約し禁止する「法」との対比において制度を「行為の肯定的な規範」(Deleuze 1953=2010: 76)と呼ぶのもまさにこの意味においてであると,我々は読む必要がある.さらには彼が引く「制度が多ければ多いほど,人は自由になる」(Deleuze 1953=2010: 150)というサン=ジュストのことばも,おなじラインで読み抜かねばならない.
 だがそのうえで第三に,ドゥルーズにおいて制度は善き生の構想とは関係がないということも我々は読みとっておかねばならない.すなわち制度は各人における多様な善き生の構想に尽くすのではない.それはただ各人の傾向性を,その意味では生存をただ充たすだけである.けれどもドゥルーズによれば,まさにその生存こそが,それを駆動する傾向性においても制度によって支えられるそのしかたにおいても多様であり,豊かなのである.

4 結語にかえて

 以上,我々はふたつの《構想》についてみてきた.いや正しくは,ドゥルーズの制度論は《構想》を志向したものではないし,その意味では《構想》と呼ぶべきではないし,したがって両者をおなじ土俵に並べ比較することも適切ではない.だがそのうえでやはりドゥルーズの制度をめぐる思想は──それは同時に生存をめぐる思想でもあるのだが──「生存は公的な制度によってこそ(十全に)支えられる」とする齋藤の《認識》とは決定的な一線を画す.そして人々の多様な生とその生の技法にあくまで定位すべきである生存学の《構想》の試みにとって,「生存は多様な制度によってこそ(十全に)支えられる」とするドゥルーズの《認識》はきわめて重要な示唆をあたえてくれると私は思う.今後は,だから,ドゥルーズの思想にあらためて沈潜しつつ,私じしんの《構想》をさらに深めていくつもりだ.

付記:本稿は,立命館大学生存学研究センター若手研究者強化型「規範×秩序研究会」の活動成果およびユニベール財団「『健やかでこころ豊かな社会をめざして』を基本テーマとした研究助成金」による研究成果の一部である.

[注]
1)正確には「生存をめぐる制度・政策」であるが,政策は制度の外延であるから本稿ではこのように表記する.また生存学のその他研究課題には,それぞれ「生存の現代史」,「生存のエスノグラフィー」,「生存をめぐる科学・技術」がある.
2)2004年の論考では「社会的連帯」とされていた表記は2011年の論考では「連帯」へと特段の説明もなく変更されているが,その概念規定に異同はないとみてよい.
3)以下,表記の煩雑を避けるため,ひとまとめにして「動機づけ」と略記する.
4)「自律は,一般に,他者の恣意的な意思に服しないことを意味するが,そのことは私的生活のみならず,公共的生活についても当てはまる.公共的な自律は,自らが関与しえないところで義務や責務を一方的に規定され,押しつけられないことを求める.どのような責務/責任の分担が正当なものであるかについての公共の議論から排除されない,ということが公共的な自律〔政治的平等〕を可能とする.」(齋藤 2011: 116-117,補足は引用者)
5)「まず,この連帯のもとで,人々は,生存をはかるために特定の他者の意思に依存するのを避けることができる.そうした依存は依存する者の自由を脅かすが,制度化された連帯は,人々が潜在的な支配から免れるのを可能にする.第二に,人々は,制度による支援を権利(社会権)として要求することができる.この権利は,いま「条件付き」のものに変質しつつある面もあるが,制度の支援を受ける者に対して何らかの見返りを要求するものではない.第三に,人々は,制度による支援を受けることによって,対等な市民であるという地位を失うことはない.生活保護の実態に見られるように,福祉国家は,スティグマ化による自己尊重の毀損という問題を依然としてかかえているが,制度を通じた支援は政治的発言権を人々から奪うものではない.」(齋藤 2011: 105-106)
6)上述の「優位性」の再確認と強調の所以も,こうした文脈のもとで諒解すべきだろう.
7)具体的な論者としてその名があげられているのはD・ミラーである.
8)そのような制度として具体的にあげられているのは,現行の生活保護制度とワークフェア政策である.
9)そしてすでに指摘したとおり齋藤(2011)において「安定性」への言及がないのは,齋藤においてそれはあらためて確認するまでもない自明なことがらと考えられているからではないかと推察される.
10)「同じ性的欲求が,ありうべきさまざまな結婚形態を説明することは決してあるまいし,……「食欲をそそる欲求」がアペリティフを説明しないのも,そこには食欲をひきおこす他の数々の仕方があるからだ.残虐さは,いささかも戦争を説明するわけではないが,それでも,戦争の内に最良の手段を見いだしはする.」(Deleuze 1953=2010: 77)
11)「人間は本能を持たず,諸制度をつくりあげる.人間は種から脱皮しつつある動物なのである.」(Deleuze 1953=2010: 81)

[文献]
安部彰,2011,『連帯の挨拶──ローティと希望の思想』生活書院.
Deleuze, Gilles, 1953, Instincts et institutions, Hachette.(=2010,加賀野井秀一訳『哲学の教科書──ドゥルーズ初期』河出文庫.)
────,1953 [1973],Empirisme et subjectivit : Essaisur la nature humaineselon Hume, PUF.(=2000,木田元・財津理訳『経験論と主体性──ヒュームにおける人間的自然においての試論』河出書房新社.)
齋藤純一,2004a,「社会的連帯の変容と課題」齋藤純一編『福祉国家/社会的連帯の理由う』ミネルヴァ書房,1-10.
────,2004b,「社会的連帯の理由をめぐって──自由を支えるセキュリティ」齋藤純一編『福祉国家/社会的連帯の理由』ミネルヴァ書房,271-307.
────,2011,「制度化された連帯とその動機づけ」齋藤純一編『支える──連帯と再分配の政治学』風行社,102-132.
Wittgenstein, Ludwig, VermischteBemerkungen, SuhrkampVerlag, Frankfurt am Main.(=1981,丘澤静也訳『反哲学的断章』青土社.)