第二部 犯罪という侵害の苦しみからの解放 ──ハワード・ゼアの修復的司法論に依拠して──

犯罪という侵害の苦しみからの解放
 ──ハワード・ゼアの修復的司法論に依拠して──

大谷通高

1 はじめに

 本論は人災1)の被害者を,そのなかでも犯罪被害者2)の救済を論じる3).それを論じるにあたり,救済の対象たる犯罪被害者の苦しみを措定しなければならない.当たり前だが,その被害者の苦しみを措定するには,どういう被害者の苦しみを救済の対象としているのかを,まずは具体的な形で明示しておかねばならない.
 そこで本論では,犯罪被害者の苦しみについて修復的司法4)が立つ視座に準拠する.いくつかある従来の犯罪被害者の救済を論じてきた枠組み(たとえば精神医学のトラウマやPTSD,被害者学の二次被害概念など)のなかで殊に修復的司法のそれに準拠する理由は,修復的司法は犯罪被害者の当事者としての体験,つまり「被害者」の「侵害」という体験に準拠して,その苦しみやニーズを捉えようとするからだ.
 修復的司法とは,従来の刑事司法では看過されてきた被害者の回復を図ることを主軸にした紛争処理の考え方・実践であり,近年において注目されるようになったものである.そしてそれは,被害者の被った害(経済的損害,心的負担,人的関係の侵害)の回復だけでなく,コミュニティの秩序・安全を回復させ,犯罪統制の観点から加害者を更生させて社会に再統合し,そしてコミュニティ内の人々の結束を再生することを狙いとする.修復的司法の特徴は,犯罪を,法違反・法益侵害という側面からのみ捉えるのではなく,人々やその関係にたいする侵害・害悪として捉える点にある(Zehr 1995=2003: 184).修復的司法が捉える被害者の苦しみは加害という「侵害」そのものであり,それは加害−被害という侵害に準拠した関係の苦しみとしてもあり,その回復を図る実践・考え方としてある.
 これにたいし,従来の被害者支援において主軸としてある精神医学の視点とはいかなるものか.心的外傷やPTSDからの回復を論じたジュディス・ハーマンは,被害者の心的な苦しみ(それに伴う身体的反応を含む)を,以下のように心因性の反応として把握する.
 
外傷的反応が起こるのは行動が無益な時である.抵抗も逃走も可能でない時には,人間の自己防衛システムは圧倒され,解体に向かう.危険に対する通常の反応を構成するものはいずれも,その有用性を失いながら,現実の危険が去った後でも長時間持続する.それも正常とは違った,激しすぎる状態が続くのである.外傷的事件は通常の生理学的な覚醒度や感情や認知や記憶に深く長く続く変化を起こさせる.さらに,外傷的事件は正常な場合にはよく統合されている防衛機能をばらばらに働くようにしてしまう.外傷をこうむった人は,強烈な感情を自覚しているのに事件の記憶が明確でないとか,逆に細部に至るまで克明に記憶しているのに感情が動かないとか,いつも緊張し警戒し焦慮しているが,どうしてなのかわからないとかである.外傷症状はその発生源との関係が切れてしまう傾向がある.症状は独り歩きをしはじめる.(Herman 1992=[1999]2008: 48)

 精神医学の「心的外傷」において,被害者の体験は個人の心的メカニズムの問題として記述されることになる.加害者に害を与えられたことによって生じた被害者の身体反応や感情,意味世界の変容は,個人の「生理学的な覚醒度や感情や認知や記憶」の問題として記述される.それは加害(者)との関係を切り離して,さらにいえば加害(者)を必要とせずに,人災・天災の区別なく被害(災)者の心的な苦しみを把握することができるし,被害者の救済や回復において,加害(者)を必要とせずに被害者の回復を図ることのできる救済の実践として精神医学があることを意味している.しかし,それは修復的司法のように加害−被害という侵害関係から被害者の苦しみを把握することはできない.なぜなら加害者への激しい怒りや,被害を受けたことの悲しみや絶望,喪失の感覚,意味世界の崩壊といった被害者の経験は,個人の身体的・心的反応として記述されてしまうからだ.「被害者」としてではなく,人間の生理的な心的反応として,記述されるにとどまる.
 また被害者学から生み出された二次被害概念は,事件の被害後に被害者が被るもろもろの負担(警察での取り調べ・裁判へのかかわりといった法的手続きにかかる経済的・心的負担や,周囲の人たちからの無理解による心的負担など)が生じることを時系列的に捉える枠組みであるが,これもその負担の内実にたいする被害者の主観的な意味や体験には照準せず,被害後に被害者に起こる負担状況を把握するための枠組みである.これは被害後に犯罪被害者に降りかかる数々の負担やその外的な発生要因を把握するうえで,そして,その負担の発生を予防したり緩和したりする策を講じる点において非常に重要な枠組みである.しかし二次被害概念において,そもそも犯罪被害者が被害者であることは自明であるために,もともとの事件の侵害としてある一次被害についての被害者の主観的な侵害の体験を捉える枠組みではない.つまり被害者の苦しみを「犯罪被害者」の定式化された負担として記述されるにとどまる.
 これにたいして,修復的司法は,なによりも被害者の「被害者」となったことそのことの侵害に照準して苦しみを捉えようとする.これは,上記二つの枠組みとは異なり,被害者の苦しみを,その起点である加害から切り離さずにとらえながら,その回復を論じるものとなっている.それは被害者の苦しみが「被害者であること」,つまり加害−被害という人間関係を前提とした人災固有の苦しみを明らかにし,その人災の苦しみに特化した救済論を検討する試みとしてある.修復的司法の父祖とされ,修復的司法の基本的枠組みを提示したとされるハワード・ゼアは,被害者のニーズのなかに,被害者は被害を受けたことについての根本的な問いを問うものであり,それへの答えを被害者自身が見出すことが回復において重要であると主張している5)(Zehr 1995=2003: 32).
 本論では被害者の苦しみを「被害者であること」として捉えようとした修復的司法論の視座に準拠して,その苦しみにたいする被害者の救済を考えていく.それにあたりゼアの修復的司法論,その著書であるChanging Lenses(=邦題『修復的司法とは何か』)に依拠して論を進める.数ある修復的司法論のなかで,ゼアのそれを取り上げる理由は,それが修復的司法の基本的枠組みとしてあるからということもあるが,なによりも被害者としての苦しみをなるべく被害者の体験にもとづくかたちで読み解き,その救済を理想的なかたちで究明しようとしたものとして,ゼアの修復的司法論があるためだ.しかしながら,本論は修復的司法を主題として包括的に論じるものではない.本論では,あくまでも人災の被害者の苦しみの一端を明らかにし,その救済を検討するという範囲で修復的司法を論じるにすぎない.ゆえに多種ある修復的司法の実践や理論を検討するものではないことをここで断っておく.
 本論の構成は以下のようになる.まずは修復的司法論を概観し,ゼアの被害の捉え方について論じたうえで(2節),ゼアの修復的司法で論じられている被害者の苦しみを被害者のエッセイから確認していく(3節).そしてその苦しみにたいするゼアの修復的司法論における被害者の救済観を確認し(4節),その救済観の構造について論じる(5節).そして最後に,犯罪被害者遺族の修復的司法への違和感からその限界を提示して本論を終える(おわりに).

2 修復的司法の概説とその被害概念について

 2.1 実践について
 修復的司法の実践は,現代の刑事司法システムとは異なった犯罪対応の実践として1970年代に始まった.修復的司法は,まずその多岐にわたる実践が先行してなされ,そこから概念や理論が論じられてきた(Zehr 1995=2003: 3).多岐にわたる実践に即して,数多くの修復的司法の定義や理論が設けられたために,修復的司法論において統一した定義や理論がないといわれている(高橋 2009a: 316).
 その実践がなされうる背景には,従来の刑事司法制度への批判がある.従来の刑事司法制度が法律にもとづいて適正な罰を加害者に与える制度であり,公正に刑事事件を処理することで紛争を解決する制度である.しかし,その刑事司法制度において事件当事者である犯罪被害者は,犯罪を立証する証拠としての位置にしかなく,当事者にも関わらず刑事裁判における法的地位(参加や配慮)が保障されていないこと,そのことが被害者の回復を妨げ,さらには被害者の置かれている状況を悪化させていることが,1970年代に問題視された.また,加害者処遇の文脈においても,従来の報復的な厳罰や教育的・治療的処遇への行き詰まりが指摘されはじめた.
 こうした刑事司法の問題点を乗り越えるために,世界各地で新しい紛争解決=犯罪対応の実践がなされ始め,それが修復的司法と呼ばれるものとなる.そのなかでも著名な実践は3つある(高橋 2003: 78).一つは,ゼアも関与していた「被害者と加害者の和解プログラム」(Victim Offender Reconciliation Program=略してVORP),二つめは,「家族集団会議(協議会)」(Family Group Conference=略してFGC),三つめはサークルである.
 VORPの始まりは,1974年のカナダのオンタリオ州キッチナーで二人のプロテスタント・メノー派教徒6)によってなされた実践である7).この実践は器物損壊で逮捕された二人の加害者について,加害者と被害者の和解というアプローチをとる許可を判事に求め,その結果,直接の弁償を行うことで双方が合意したものである.この実践は,基本的に加害者と被害者の間にメディエーター又はファシリテーターと呼ばれる調整役が入り,被害者と加害者の直接対話を行うものとなっている.研修を受けた調停役は解決法や事件に対する認識を一つの方向に定めるのではなく,加害者・被害者双方が自らの身の上を話し,胸の内を表現して,互いに疑問を投げかけ,加害の影響や意味について話し合うように仕向けるものとなっている.そして最終的に,加害者が回復のためになすべきことについて合意に達するよう促すようにする.
 次に,ニュージーランドでのマオリ族の紛争解決手段をもとにしたFGCがある.この実践は,被害者と加害者だけでなくコミュニティ(家族,被害者の支援者・代理人,警察,ソーシャルワーカーなど)の役割をも重視し,その積極的な参加をうながすプログラムである.そのため,上記のVORPよりもプログラムの参加者(コミュニティ)の範囲が広い.加害者・被害者両者の家族や友人,隣人が組織の調整者の司会のもと,一堂に会して問題の解決を図るものとなっている.加害者の行為が被害者に与えた影響だけでなく,他の者に与えた影響(被害者の家族や友人などが受けた影響)も評価されるものとなっており,このことから話し合われる内容がVORPよりも広範囲なものになる傾向がある.さらに参加者は加害者の処遇や必要と思われる弁償についても話し合う.
 カナダやアメリカの先住民族の紛争解決の伝統的手段からアイデアを受けて,コミュニティが提案した量刑を裁判所が採用することから始まったサークルがある.これはコミュニティの範囲が広く,先住民のコミュニティ活性化が強く意図されているプログラムである.コミュニティの範囲は上記二つのプログラムでは直接的(被害当事者)・間接的(親族・友人・知人)な当事者を主たる対象としているが,このプログラムではコミュニティの構成員全員に開かれている.サークルの基本的な形態は,有罪答弁を行った,あるいは有罪判決が下された加害者の同意を得て,被害者,加害者,コミュニティの指導者,コミュニティの他の構成員,裁判所職員があつまり,問題の影響について討議し,解決策を模索するものとなっている.この会議にはコミュニティのだれもが参加して意見を述べることができ,それによって被害者,加害者,コミュニティの癒しを図る(藤本編 2004: 347-8).
 これらの実践は,現在において世界各地で実践されており,警察段階,検察段階,裁判段階,矯正段階とそれぞれの段階に応じてプログラムとして実践されている(これは国や地域によってことなる8)).上記の各段階でプログラムを実践する際,プログラムを実践する組織と司法関連機関との間には緊密な実務関係が構築されている場合がある.刑事司法制度に組み込まれている場合は,加害者の処遇の1つとして修復的司法プログラムがある.警察や検察,裁判所が加害者にプログラムをうけるかどうか任意をとり,プログラムを実践する組織に依頼する.もしくは被害者の依頼によってプログラムがなされる場合もあるが,基本的には加害者・被害者両方に参加の任意がとられるものとなっている.加害者に参加の任意が取られる前提には,加害者の犯行が加害者当人や,司法関連機関に認められていることがある.加害者が事件を否認している場合,プログラムは実践されない.対象とする犯罪事件は,少年事件,窃盗などの軽犯罪がほとんどであるが,国や地域によっては成人事件も扱い殺人,強盗といった重犯罪も扱う.組織のスタッフはボランティアに依存する部分が多く,現在の世界的潮流においては,刑事裁判所内に拠点を構えるのが一般的となっている.
 これら各種実践において理念的に共有されている基本的な考え方として,○1基本的に犯罪を人への侵害を捉える点,○2犯罪行為への対応として,加害者に自らが引き起こした害悪を気づかせて,その害悪への回復する責任を理解させ,再犯しないことを確かなものとする点,○3加害者から被害者への回復の形式や賠償額および犯罪防止のための方策について,加害者,被害者,コミュニティの成員が一堂に会し,非公式で合意に基づく手続きによって直接的な対話を行いながら決定される点,○4上記の過程を経て加害者・被害者間の関係が改善され,加害者はコミュニティに再統合される実践であるという4点がある9)(Johnstone 2002=2006: ⅸ).

 2.2 理論モデルの概説
 主として論じられる修復的司法の理論モデルは,純粋モデルと最大化モデルの二つがあり,これが定義として用いられる.純粋モデルとはトニー・マーシャルが提示したモデルであり,そのモデルにおいて修復的司法とは「当該犯罪に関係するすべての当事者が一堂に会し,犯罪の影響とその将来への関わりをいかに取り扱うかを集団的に解決するプロセスである」とするものである(高橋 2003: 76).他方で最大化モデルは,ヴァルグレイブらによって提示されたモデルであり,修復的司法とは「犯罪によって生じた害を修復することによって司法(正義)の実現を志向する一切の活動である」とするものである(高橋 2003: 76).
 純粋モデルは犯罪の直接的な関係者,つまり被害者,加害者,コミュニティ(市民)が自発的かつ積極的に参集し,直接的な対話を行い相互に協力して,各々のニーズを満たしつつ,加害者や被害者のコミュニティへの再統合を図るものとなっている.これにたいし最大化モデルは,害の修復をなによりの要件としており,修復の意図と成果によって修復的司法を位置づける.ゆえに,最大化モデルは,純粋モデルを包含するモデルといえるが,その決定的な差異は,最大化モデルでは修復のプロセスにおいて被害者,加害者,コミュニティの参加や,それら当事者の自発的で積極的な関与,直接対話がなくとも,修復を目的としてその結果へと至るものであれば修復的司法とする点にある(高橋 2003: 77).ゆえに,修復の一環であれば国家による強制(たとえば懲罰的賠償)も認められ,最大化モデルにおいては,国家が第4のアクターとして含められる.これにたいし,純粋モデルでは,当事者の自発的で自律的な修復への関与しか認めておらず制裁などの強制を排しているために,国家はアクターとして含まれないとされている(柴田 2005: 11).
 こうしたモデル論にたいして,ゼアは修復的司法を具体的に定義づけすることは避けている.ゼアは修復的司法を一つの視点,もしくは考え方=パラダイムとして扱っており,ゼアは,そうした論争の対象とならないように定義づけをしている.ゼアの修復的司法の定義は具体的な実践や理論を枠づけるものではなく,あくまでも実務上の定義として提示されるにとどまるものとなっている.

原則とガイドラインの必要は認めるが,固定した定義を確立しようとする横柄さを心配する.こうしたことを考慮に入れたうえで,修復的正義の実務上の定義として以下を提言したい.
「修復的正義とは,犯された罪悪を可能な限り正し,癒すために,その罪悪による損害,ニーズ,果たすべき責任をすべての関係者がともに認識し,語る協力的な手続である」.(Zehr 2002=2008: 49-50)

 このようにゼアは,修復的司法への固定した定義を拒否している.それは直接対話を要件とするかどうか,国家の制裁を修復の一環としてみなすのかどうかをはっきりと明言しないかたちで,なるだけ多くの実践が組み入れられるような大きな外枠を提示することにとどめられている.これは理論よりも実践が先行し,多種ある実践が生み出されてきたこれまでの修復的司法の動態を踏まえての定義と看取できるが,ゼアは国家や制裁について,定義上ではっきりと明言しないものの,間接的なかたちで,応報=刑事司法と修復的司法との関係からこれを論じている.
 ゼアにおいて,修復的司法と刑事司法との関係は併存したものとして捉えている.ゼアはコンラッド・ブランクの応報と修復の関係からの刑事司法と修復的司法の異同への考察を踏まえて,刑事司法と修復的司法を一つの連続体としてみなしている.応報的観点における刑事司法の理論も修復的司法の理論も,ともに「悪事によってバランスが崩れたという基本的な道徳的直観を認めて」おり,「被害者は何かを受けるに値し,加害者は何かを負う」ものとして捉えている(Zehr 1995=2003: 4).「両理論とも,行為と対応との間には比例的な関係がなければならないと主張するもの」であるが,両者が異なるのはバランスの回復とその比例的な関係を図る方法である,とする(Zehr 1995=2003: 4).
 応報理論に基づく刑事司法は加害者の罪と罰を確証し,苦痛を与えることを加害への対応とすることで崩れたバランスを回復しようとするものである(Zehr 1995=2003: 4).これにたいし,修復的司法は犯罪によって与えられた害を定め回復することでバランスを回復しようとするものである.それは「被害者の損害とニーズを認めること」を確証し,「それと同時に加害者が責任を引き受け,悪を健全化し,行為を引き起こした原因に向き合うように促す努力を積極的に行われなければならない」と考えるもので,被害者と加害者の双方を肯定するものとなっている(Zehr 1995=2003: 5).
 ゼアはこの二つの司法を一つの連続体としてとらえており,刑事司法手続きの長所(罪の確証や修復への強制をなさしめるなど)に依拠しながらも,できる限り修復的な方向に導くことでなければならないとしている(Zehr 1995=2003: 5).純粋モデルにおける修復的司法は,国家の関与,つまり刑事司法をアクターとして認めないために,犯罪の事実を認定する機能を持たないし,提示された修復の実践を受け入れない加害者に関してなんの強制力を働かせることはできない(柴田 2005: 17).その意味において,刑事司法の機能(修復的司法では担えないもの)を独自のそれとして認めているゼアの修復的司法論は,純粋モデルに依拠しているとも考えることができる.
 以上,修復的司法論におけるゼアの立ち位置を簡単にではあるが確認した.では次に,こうした修復的司法を論じるゼアにおいて犯罪被害者の被っている害とはいかなるものなのか,これを次項で検討していく.
 2.3 ゼアの被害の考え方について
なぜ犯罪はそれほど破壊的で,回復しにくいものなのか.その理由は,犯罪が本質的に自己の侵害であり,人間個人,信念,そして私的空間への冒涜を意味するものだからである.犯罪は私たちの生命に拠って立つ本質的な二つの前提を覆すものだから,破壊的なのである.つまり,世界は秩序正しく意義ある場所であるという信念と,個人の自律という信念,この二つの前提は人間の完全性(wholeness)にとって必要不可欠なものである.(Zehr 1995=2003: 29-30)

 上記の引用において犯罪は,「本質的に自己の侵害」である.この他の個所においてもゼアは犯罪(被害)を「人間が基本的に必要とする価値観を台なしに」するものであり,「被害者になることは心に深い傷を負う体験である」としている(Zehr 1995=2003: 34).それは,「基本的なものの侵害」であり,「つまり意義のある世界において,自律的な個人を侵害されることである」とし,さらに「自分と他人との信頼関係の侵害でもある」としている(Zehr 1995=2003: 34-5).
 そしてゼアにおいて犯罪被害とは,加害からの支配でもある.犯罪は「自律心を破壊し,誰かが自分たちの生命財産や空間を支配するということである」(Zehr 1995=2003: 30).ゆえにゼアは,困難であり時間を要すると知りつつも「被害者は,加害行為と加害者にこれ以上支配されない段階へと進まなければならない」として,被害者の加害からの支配の脱却をその救済として論じる(Zehr 1995=2003: 31).
 このように被害を加害からの支配とする見方は,ゼアに限ったことではなく,他の修復的司法論者でも見受けられる.たとえば再統合的恥付け論を修復的司法の実践理論の枠組みとして提示したジョン・ブレイスウェイトは,「他者の恣意的な意向に対する従属」10)を支配として捉えており,そうした支配の1つとして被害者と加害者の関係を捉えている.ブレイスウェイトは,加害者に支配されている状況から被害者を自由にさせるために,加害者に恥付けをすることで被害者への支配の量を減らすことを自身の修復的司法論として展開している(Braithwaite 1998=2008: ⅲ).これは加害者側の支配の力に照準して被害者の救済の実践を考えているという点においてゼアと真逆の地点から加害/被害の支配−被支配の関係について論じているといえる.
 ゼアにおいては,(「犯罪」という法的逸脱行為に限定されているものの)被害の体験は被害の内実にかかわらない.「世間の大半が重大だと考える殺人やレイプのような暴力的犯罪だけでなく,社会が軽微であると扱いがちな犯罪行為,すなわち配偶者の虐待,侵入窃盗,器物損壊,あるいは自動車窃盗についてもあてはまる」ものである(Zehr 1995=2003: 35).被害の種類でもなく被害者の程度にも依拠しないかたちで,つまり,被害の種類や程度の差異を相対的にとらえる基本的な体験として,被害を捉えている.
 それは殺人においては,どういった人が殺されたか,どういった殺され方をしたのか,といった被害の内実の種類や程度に基づく体験にではなく,大切な人が殺されたという侵害そのことに,傷害においては,どのくらい深い傷害を受けたか,どのように傷を与えられたのか,といった傷害の程度や内実に基づくものではなく,傷を負わされたという侵害そのものに,窃盗においては,どれくらい大切な物が盗られたのか,盗られたことによってどれくらいの損失が出たとかといった損害の内実や程度に基づいた体験ではなく,物を盗られたという侵害そのことに,被害の基本を置いたものである.それは侵害されたということが,すべての犯罪被害に共通する体験で,この侵害の体験は,個人において千差万別である被害の内実の種類や程度(に対する被害者個々人の意味づけ)の差異を相対化する体験として考えることができる.
 次節では,上記,修復的司法で論じられている被害者の苦しみを被害者のエッセイから確認していく.

3 被害の苦しみ

 3.1 犯罪被害者の断絶体験
 では,こうした加害という侵害の体験とはいかなるものなのか,これを被害者のエッセイから,とくに事件以前と事件以後が断絶したことを語る被害者の言明に照準して確認していく.断絶に照準する理由は,事件以前と以後の対比から加害による支配的影響が明確に表れているためだ.娘を2人殺された母親の言明からみていく.

私たち家族は素晴らしい,恥じることのない家族だと自信を持って言いたいです.
こんな家族になぜ,このような悲劇が起こったのでしょうか.何の関係もない一人の人の手によって,明日香と千妃路は命を奪われてしまったのです.私たち家族に明るい笑いが来ることはないでしょう.私の命がある限り,一生忘れることもなく,毎日頭から離れることはありません.もうすぐ,一年がこようとしています.公判も続いていることを思うと,毎日が辛くてどうしようもありません.結婚をして私たち夫婦は二十九年になりますが,私自身の精神状態が不安定になり,何をしてもミスが多くなり,コーヒーカップを割ったり,お茶碗を割ったりいろいろと失敗ばかりが増えています.これ以上,何を書いていいのか自分自身でも分かりません.(藤井 2011: 38-9)

 上記の文は,娘二人を殺された母親が,公判での「意見陳述」として書いたものである.そこには加害によって日常と非日常が荒々しく断絶した体験が書かれている.それは,被害に遭う以前の幸せな日常が,加害者の手によって,「明るい笑いが来ることはない」犯罪被害者遺族としての非日常へと荒々しく断絶した体験である.
 引用では,あまりの理不尽な生活への転倒を,母親は問いかけ,訴えている.「毎日が辛くてどうしようも」ない,「結婚して私たちは二十九年にな」るのに精神状態は不安定になり,日常的にすることは「失敗ばかりが増えて」しまっている.時間を重ねて積み上げてきた生活,そこでの日常の感覚が,事件を契機に途端に不安定になっていくこと,こうした以前の日常との断絶が,日常を表す表現となってしまって,「何を書いていいのか自分自身でも分か」らなくなっていること,それはゼアの言う「基本的なものの侵害」が,「人間が基本的に必要とする価値観を台なしに」する犯罪の痕跡が,日々の日常の生活のなかに抜きがたく埋め込まれてしまっていることを示している.
 こうした断絶の体験は,犯罪被害者に共通するものとしてある.たとえば,被害当事者である性被害にあった被害者の手記からもうかがい知ることができる11).

事件前と,事件後.
被害当事者の人生を分けてしまった日,出来事.
普通に暮らす人々にとって普通の速度で流れる数ヶ月.でも被害当事者にとっては違う.人生の分岐点となってしまったその日から,時間が止まってしまう.
たった4ヶ月の間でも,周りの人は笑ったり泣いたり,怒ったりしながら,日々違う経験を積んでいるのに,汚れてしまった自分だけはそこにとどまったままでいる.″こんなことではいけない″と思っていてもどうにもならず,自分だけが取り残されて生きているような感覚に陥ってしまう.(小林 2010: 191)

 上記の引用は,性犯罪にあった女性の言明である.そこには事件以前と以後との人生の断絶が「普通に暮らす人々」や「周りの人」の時間感覚の違いから言明されている.

そして,毎日の生活の中に,行き先のないどうしようもない憎悪が加わった.
普通の顔をして電車に乗っている女性たちにたいしてさえ羨ましさを感じた.嫉妬にも似た感情.
「あの人は何も知らないのかなぁ」
「何笑ってんの……? 何がそんなに幸せなの?」
可笑しいくらい,自分の視線が変わっている.見る人みんなが幸せそうに見える.逆に,
「あんた,襲われたくせに私たちと同じ電車に乗らないでよ」
「かわいそうに.私たちはあなたみたいに汚れてないんだから一緒にしないで」
すべての女性がそんなことを考えているんじゃないかと思うこともあった.異臭を放っている動物のように見られている気がした.被害妄想もいいところなのはいまになれば分かるが,当時の私は外に出て人が集まるようなところにいるとどことなく肩身の狭い思いがした.自分がそこにいることを,いけないことだと感じていた.(小林 2008: 53-4)

 上記引用は先ほどと同じ性被害にあった女性の言明である.毎日の生活の中に憎悪が加わる,普通の人たち(引用においては女性)に対する憎悪・嫉妬にも似た感情を向け,自分を「異臭を放っている動物」のように汚らしい存在と感じ「肩身の狭い思い」をしてしまう,そんな加害による「自分と他人との信頼関係の侵害」が毎日のように生起する世界のなかに被害女性がいたことが,上記の引用から伺える.
 事件以前と事件以後では,犯罪被害者は別の世界を生きることになる.そしてそれは加害からの侵害が埋め込まれた世界である.

 そのころの私は,加害者たちだけでなく,目に入るすべてのものに腹を立てていたのです.いつも通る道,いつもの場所にある店,いつものところにいる人たち,そして,枯れた草木に新しい芽が出ているのを見つけたときにもです.(少年犯罪被害当事者の会 2002: 55)

 息子を少年に殺された母親は,事件以前の「いつも通る道,いつもの場所にある店,いつものところにいる人」が事件後も「いつもの」ように変わらずにあること,事件後も「枯れた草木に新しい芽が出ている」ように事件以前と変わらずに時が移り変わること,そのことに母親は憤る.正確には,母親は「いつもの」を通して,息子が殺されたことに憤っている.この母親にとって息子のいた日常こそが「いつもの」日常であり,息子が殺された日常は「いつもの」日常ではない.それなのに「いつもの」ことが,息子を殺された後も「いつもの」ように過ぎ去っていってしまう.そのように感じることは遺族にとって「いつもの」日常ではない非日常の体験としてある.日常の体験としての「いつもの」が,息子の不在によって,どうしようもなく非日常になってしまうこと,この体験が犯罪被害者遺族の断絶体験としてある.
 遺族にとって事件後の日常とは,親しい人の不在の痕跡に溢れた日常である.ゆえに親しい人の不在の日常は,遺族にとって加害者の暴力の痕=被害に溢れた非日常であり,その痕は日常を非日常へと荒々しく断絶する契機としてある.
 そして性犯罪被害者も断絶体験を生きる.先に引用した同じ女性の言明を取り上げる.
    
私にとっては,レイプされたという事実は,過去のことでも乗り越えたことでもない.
「私」という人間を構成する一部になってしまったのだ.それに伴う感情も,身体反応も.
誤解を招きそうなので伝えておきたいのが,これは寂しいことでも辛いことでもない.だから消す必要も,忘れる必要もない.乗り越える必要もない,ということ.事件にあうということが人の身体の構成には必要のないものであることも確かだと感じている.ないことのほうが望ましいと思う.少なくとも,喜ぶべきことではないから.(小林 2008: 8)

 性被害を受けたことが自分の「一部になってしまった」,それだけでなく被害に伴う感情や身体反応(吐いてしまったり,足が竦んでしまったり)も「自分の一部になってしまった」.それは「必要のないものであることも確か」なもので,なぜなら「少なくとも,喜ぶべきことではないから」だ.にもかかわらず「寂しいことでも辛いことでもな」く,「消す必要も,忘れる必要もない」し「乗り越える必要のないもの」である.なぜなら,それは「「私」という人間を構成する一部となってしまっ」ているからだ12).

その夜から,私は生まれ変わったと思って過ごし,放たれた矢のように,何かに向かって飛び出した.

翌朝から仕事にも行った.警察にも行った.ズル休みもしたことがない.
痴漢にあうと吐いてしまう.電車に乗っている人が,羨ましい.帰り道は怖くて足が竦んでしまう.気がつくと,涙が流れている.
家族や恋人には,私を護れなかった責任を押しつけた.
そんな自分と,うまくつき合っていくしかなかった.(小林 2008: 5-6)

 以前と変わらぬ生活をした,それでも事件以前には抱くことのなかった思いや,起きなかった身体の反応が起きてしまう.仕事を休まず,警察にも行くことで,事件以前の生活を取り戻そうとしても,何かの拍子に事件を引きずった感情や体の反応が生じてしまい,どうしても以前の生活とのズレが生じる.そのズレが再び加害による侵害を被害者に強く意識させる.このように事件を契機に生じる思いや身体の反応は,加害者の暴力の痕=被害を纏ったものであり,これも日常を非日常へと荒々しく断絶する契機としてある.
 では,犯罪被害者はなぜこのような断絶体験を生きざるをえないのか.次は,この問いを加害−被害という関係の形式的な構造から考える.

 3.2 加害への囚われとしての被害の不自由さ
 被害は加害を内包した事象であり,加害/被害は表裏の関係にあって,それは非対称で不可逆な関係である.被害の事実が加害の事実を裏付けるように,被害は害を被ること,すなわち害を与えられたこと=加害を現出させる.加害−被害関係が非対称で不可逆であるというのは行為者と受け手との行為性質の違い,つまり加害者は害を与えた行為者として,被害者はその受け手としてあることを指す.この行為に付随する非対称性は加害−被害関係に限定されるものではないが,ここでその非対称性・不可逆性を取り上げる理由は,被害の苦しみがこの非対称性によって生じているからだ.
 被害は加害を起点として加害に後続する事象であり,その意味で被害は加害と結びつくことが加害−被害という関係の形式上の必然となっている.加害/被害は,つねにすでに被害/加害の事実を裏付けし,加害−被害関係を立ち上がらせる.そのため加害/被害の事実は,加害−被害の関係に加害者/被害者両者を配置する引力を有す.
 なぜ加害・被害を望んでいない私が,被害者であらねばならないのか,このことは被害が加害に後続してあり(加害が被害よりも先んじてあり),加害が加害−被害関係の生起の起点としてあるからで,それが加害−被害関係の形式的構造としてあるがゆえに,加害−被害事象が被害者の意思の及ぶ/及ばないの範疇を超えている.このように加害−被害はつねに加害が先行する非対称的で不可逆な関係であり,被害は非対称的・不可逆的関係の構造的な不自由さを抱えている.
 先ほどの母親において,その不自由さとは,息子とともにいたはずの「いつもの」日常のそこかしこに,望んでもいない息子の不在とその痕跡が,望んでもいないのに散らばっていること,その痕跡によって何度も息子の不在と対峙させられること,さらには,そんな日常を日常として過ごさざるをえないこと,これらのことはすべて加害に起因しており,それは母親の意思の及ぶ/及ばないの範疇を超えた出来事としてある.
 また先の性犯罪の被害者においても,その不自由さは,何よりも事件後の自らの身体の反応が,周囲の人への不信感が,加害の痕跡として立ち現れ,それを自分の一部として受け入れざるを得ないことである.それらもすべて加害に起因しており,それは被害女性の意思の及ぶ/及ばないの範疇を超えた出来事としてある.
 この不自由さが,被害者の断絶体験の根本にあり,そのすべてが加害に起因している.この加害に囚われた状況は,加害が被害者をその影響下に置くという意味において,加害の支配的影響といえ,加害−被害という関係は支配−被支配,抑圧−被抑圧的関係といえる.この被害の囚われの不自由さによって,遺族においては息子の不在を単なる不在ではなく被害・加害たらしめ,性犯罪被害者の女性においてはその身体反応や感情,人への不信を被害・加害たらしめる.
 その日々の生活や身体反応が,加害に起因したものとして,被害として意味付けされてしまう.そうした加害/被害を基点にしてものごとを意味付けしてしまう,加害がものごとを被害に/被害がものごとを加害に流動し循環して意味づけする無間地獄のような意味世界に,なによりも加害(者)によって閉じ込められてしまうことが,加害の根幹的で支配的な影響として,すなわち侵害の体験としてあり,人災特有の苦しみとしてある.
 ゼアは,こうした侵害の体験は,(修復的司法の実践的には)被害者のニーズを満たすことによって回復されることを指摘している.そのニーズとは,○1まずは加害者からの弁償というニーズであり,これはその損害に見合わない弁償額であっても,弁償したことそれ自体の象徴的価値によって被害者の回復が進むことがある.○2また被害者が抱える根本的な問い,「なぜ被害者であらねばならないのか」という問いを加害者当人から答えを求めることできることが被害者のニーズとしてあり,これにより被害者の回復が進む.○3また被害者は自らの感情の正当性を他者に認めてもらう機会が必要であり,これにより被害者の回復が進む.○4そしてもう一つは,被害者は加害の侵害によって自律した人間であることの自信を喪失しているので,その自信を回復することである.○5最後のニーズとしては,安心感を取り戻すことである.二度と加害による侵害が起こらないことが保障されることで,被害者の回復が進む(Zehr 1995=2003: 31-3).
 ゼアは実践上において被害者のニーズを満たすことで加害による無間地獄のような意味世界からの脱却の可能性を論じている.では,そうしたゼアの被害者の回復の道筋を支える救済観とはいかなるものか.次節では,ゼアの宗教的用語を用いて修復的司法の理想を論じた箇所を中心に,とくに「解放」という用語に照準して,その根幹となる救済観を読み解いていく.ここで「解放」という用語に照準したのは,それが被害者の救済の用語として使用されており,加害からの支配を脱する/解体するものとして用いられているためだ.ゆえに次節では「解放」という用語に注目してゼアのテクストを読みといていく.

4 ゼアの解放の司法としての修復的司法

 4.1 解放(liberation)
 ゼアの主著であるChanging Lenses=邦題『修復的司法とは何か』において宗教的用語を用いて修復的司法の理想が論じられた個所は主として4章と8章であるが,そのなかで「解放」という言葉が用いられる記述は2点ある13).一つは,加害者や加害行為の支配的影響からの解放=赦し(4章)や抑圧からの救済としての解放(8章)と,二つめは法や規則が解放へ至る道を指し示すものとして,つまり解放への道しるべたる司法の理念的スキームを説明している個所(8章)の二つである.いずれもキリスト教の用語・価値観から説明されており,それは修復的司法の具体的実践とは距離をもつ記述としてある.
 まずは加害の支配的影響からの解放=赦しの文脈から確認しよう.

赦しとは,加害行為や加害者が人に及ぼす影響力から解放されることである.もはや,加害行為や加害者に支配させないということを意味する.こうした赦しを経験しなければ,つまり終結がなければ,傷は悪化し,侵害そして加害者が私たちの意識や人生を支配しコントロールし続けることになる.したがって真の赦しとは,力を与えられ,癒されることである.それによって被害者はサヴァイバー(生還者)となりうるのである.(Zehr 1995=2003: 53)

 引用では解放という用語が赦しに関連して用いられており,これは被害者が回復・真の癒しに至るには加害者への赦し=加害からの解放が要件であることが述べられている.
 ここでは加害(者)の支配的影響下に被害者がおり,それから解放されることが赦しとして意味されている.この言明の前提には被害者が加害者や加害行為の影響に支配されているということがあるが,そのことは前節で確認した.ゼアは,加害者が「被害者を対象物,いわば「物」に変え,人生を自らコントロールする力を奪い取」(Zehr 1999=2003: 59)るもので,こうした事態は被害者を貶めるもので,そうした加害者や加害行為からの影響から脱することを解放とし,それが赦しであり,真の癒しに至ると説明している.
 一般的に修復的司法の実践において,加害者にたいする感情は美徳的で建設的なものにするよう推奨されるものとして位置づけられている.たとえばそれは実践において,「○1加害者に対する否定的感情をすてるよう努力しなければならない(それは彼らの行為を大目に見るという意味ではない)」こと,「○2憎むことや復讐を願うことを止めるべきである」こと,「○3(もし加害者が被害回復を申し出れば)かれらを赦すべきである」ことが推奨されるが(Johnstone 2002=2006: 161),このような赦しは,修復的司法の実践を進めていくうえでの重要な要点となっている.なぜなら加害者に否定的な感情を抱き続けることは,修復的な実践を進める上で弊害になるからだ.実践上の赦しとは,実践を進めるうえでの形式的な要件としてのものであり,加害者からの被害回復の申し出を受け入れることが赦しとして意味されている.
 しかしながらゼアの赦しの観念は,そうした実践の要件ではなく,被害者の経験的観点から記述される.加害者への実践的要件として赦しが記述されるのではなく,加害者の影響から解放されることとして赦しがある.
 ゼアは,被害者が加害者を赦すことについて実践的には困難,もしくは不可能なものとして記述している.「赦すこと,赦されることは容易ではなく,口先だけで提案できるものではない」(Zehr 1995=2003: 53).被害者が赦す気になれないのに,加害者を赦そうとすること,被害者にとって重荷になるような不自然な赦しは,本当の赦しではないとしている.「また,赦す気になれない人々が,そのことにより,罪悪感というさらなる重圧に苦しむようなことがあってはならない」(Zehr 1995=2003: 53).
 また赦しとは,第三者の要求や勧め,強制によって生まれるものではない.あくまでも被害者が自然になすものとして位置づけられている.「本当の赦しとは,他人の要望や強制によって生まれるものではなく,自分のペースで生み出されなければならないものである.赦しは神の贈り物である.重荷となるべきものではない」(Zehr 1995=2003: 53).
 赦しは「神の贈り物」である.つまり人の意図を超えたものとして,赦しを位置づけている.それは自然に到来するものであり,被害者や加害者の努力や,周りの第三者の支援によって必ず得られるものではない.
 しかしながら,ゼアは,赦しが生まれやすくなる環境はあるとしている.それは加害者が自らの加害行為の責任を認識し,後悔や懺悔を表すことによって,赦しは生まれやすくなるものとして述べている.「状況によっては,赦しが生まれやすくなる.加害者の側が責任や後悔,懺悔を表すと,力強い後押しとなる」(Zehr 1995=2003: 54).この意味において,修復的司法とは,赦しが生まれやすくする環境を構築・提供する実践といえる.
 以上のことを踏まえて,ここで指摘できることは,ゼアが解放=赦しを修復的司法の実践の目的としていないということだ.なぜなら,ゼアにとって解放=赦しとは人の要求や強制によって得られるべきものではない.つまり解放=赦しとは人の意図を超えたものであり,それは目的として据えてはならないもの・据えることのできないものとしてあるからだ.ゆえに修復的司法という実践において,赦しや解放に関しては,あくまでそれが生まれやすくなる環境を構築・提供するためのものとしてある.修復的司法は,被害者が加害(者)から解放され,加害者を赦すことを第一にした実践ではない14).
 以上が赦しの文脈における解放の記述である.次に抑圧からの救済としての解放の記述について見てみる.まずゼアは,聖書のエジプト脱出の物語を引いてこれを説明している.

旧約聖書で中心となる救済行為は,解放の行為であり,エジプト脱出である.これは神の愛によって成し遂げられた行為であり,人が努力して獲得したものであったり,人に受ける価値があったためではない.(Zehr 1995=2003: 136)

 聖書における救済行為は,解放の行為である.ここでの解放の行為とは「エジプトの奴隷からの脱出」であるが(Zehr 1995=2003: 136),救済行為=解放の行為は,先にみた赦しと同じく「人が努力して獲得したものであったり,人に受ける価値があったためではないもの」であり,人為を超越したものであり神の恩寵である.
 そして解放の中身とは,「物質的,社会的,および感情的に抑圧された民を解放することによって健全化しようとする」(Zehr 1995=2003: 141)ものである.抑圧された状況からの解放によって,事態を健全化するものとなっている.
 ここでの物質的な解放とは,貧窮にあえいだ状態からの解放を意味しているだけではなく,衣食住といった生活に必要なものの充足のみを意味しているわけではない.それは,物に支配された状態からの解放を,つまり金銭や富への執着といった物への囚われからの解放も意味している.社会的な解放とは支配構造や差別構造といった抑圧を生む社会構造からの解放でもあるが,支配や差別といった価値そのものに囚われた状態からの解放でもある.そして,感情的な解放とは,悲しみや怒りといった感情の状態から抜け出すことだけでなく,そうした感情に囚われないことでもある.
 被害者において物質的とは,被害者当人の実生活だけでなく,生そのものの感覚にかかわる物質を指す.それは,被害者の身体や精神の回復において実生活上で必要不可欠なものを保障する物質的なものにとどまらず,被害者においては,大切な人が殺されたことへの感覚,傷害を受けたことへの感覚,大切な人が生きた・健康な自分であった痕跡(時空間)への感覚など,被害者の物質(人との関係ではなく人そのもの〔身体や性格〕を含む)に対する見る,嗅ぐ,触れる,聞く,味わう,認識するといった被害者当人に帰属する身体的・精神的感覚の対象となる物質全般のことを指す.その物質的な解放とは,遺族においては,殺された大切な人を想起させる物そのものが,加害の痕跡として想起させるものではなくなるよう感覚することも意味される.被害当事者においても,身体の傷や毀損・喪失した物といった侵害を想起させる物質的なものの全てが,侵害だけを想起させるものではなくなること,さらには侵害そのものが感覚されなくなることである.
 犯罪の被害者において社会的とは,他者との関係にかかわることである.被害者が,侵害の体験を基底として他者への関係にかんして内在的に意味づけしてしまうこと,社会や他者といった外的環境が付与する被害の意味や役割といった,加害−被害によって他の人たちとの関係が規定されてしまうことからの解放である.被害者の被害者になったことで変哲した(と被害者が感じる)関係への感覚,たとえば被害者であることでもたらされる他者とかかわることに関する弊害(偏見の対象となったこと,侵害の体験によって人にたいして不信を抱くことなどの人との関係にたいする負的な感覚や認識など)の感覚を,被害者が加害・被害によってもたらされたと感じなくなることである.
 外在的なものに関しては,他者の振る舞いに依拠するために,被害者がわの振る舞いだけで規定するには限界がある.これは,すべての人が被害者その人にたいし尊厳をもって配慮する事態,それは被害者であることを知っていても知らなくても,被害者であることとは切り離してその人個人に配慮することも含まれ,被害者と関わる人たちが,被害者という属性に偏重せずに,自身と固有の関係として被害者個人に関わり配慮する事態のことである.
 これらのことが被害者の社会的解放としてある.それは,総じて被害者と被害者にかかわる者が,被害や加害という地点からのみ,被害者と他者との関係を押し図ったり構築しようとしない事態のことである.
 被害者の感情的なものについては,感情に対する心的な反応に振り回されないこと,つまり心へのコントロールの回復を意味することであるが,それだけではない.自身に沸いてくる被害・加害にたいする感情そのものを被害者の立場でもってのみ認識しなくなることを意味する.すなわち自身の感情や心的反応の意味を,被害/加害に結びつけないかたちで意味づけすることである.
 これら3つの解放とは,被害者の生存を支える物質的環境や人間関係,心的状態の充足だけでなく,被害者の物質・社会・感情にたいする加害−被害に根づいた主観的意味づけからの解放を意味している.では,こうした被害からの解放は,いかにしてなされるのか,つぎに解放をなさしめる理念的スキームへのゼアの記述を見てみる.

 4.2 聖書ジャスティス(biblical justice)
 ゼアが,解放をなす理念的スキームとして提示しているのが,聖書における正義=聖書ジャスティスである15).これも赦しのときと同じくキリスト教の用語によって説明されている.ゼアは聖書で描かれている原理原則やその意図を,応報的正義や配分的正義の違いから描き出し,現在の刑事司法が扱う問題状況にこれを応用しようとしている.その聖書の中核的な原理原則の1つが聖書ジャスティスである.まずは聖書ジャスティスを理解するにあたり,その根幹にあるシャロームと契約の概念から説明する.
 まず,シャロームとは,旧約聖書にでてくるヘブライ語で「さまざまな次元で物事のあるべき「まったくの完全」という状態」を示す言葉である(新約聖書のギリシャ語版では「eirene」という言葉がこれに相当する).ゼアのシャローム概念は,神学者ペリー・ヨーダーの考え方に依拠しており,シャロームとは3つの基本的側面を持ったものとしている(Zehr 1995=2003: 133-4).一つは,物質的,精神的,肉体的環境に関する完全であり,次に関係に関する完全(個人間や個人体集団間の関係=社会的関係)であり,これは敵なしに平和に生きることを意味している.最後は,道徳的・倫理的な完全で,これは潔白(罪や誤りのないこと)な状態,正直さと道徳的な高潔さを備えた状態であるということである.この3つを備えた状態として「シャローム」がある.
 ゼアにおいてそれは修復的司法の実践の理念的目的である「事態の健全化」=a condition “all rightness”の源流として位置づけられている.このシャロームは「周辺的なテーマではなく,多数のテーマのひとつでもない.周りを多くの重要な信念が取り囲んでいる基本的な「所信の核」であり」,「それゆえ,救い,贖罪,赦し,およびジャスティスはシャロームに根ざす」ものとしてある(Zehr 1995=2003: 133).
 このシャロームの主要な「モデル」,もしくは「基本」として契約=covenantがある.シャロームにおける契約とは,「神と人との契約,つまり神の完全な救済行為に基づく契約を前提としている」もので,ゼアはそれを「聖書の信仰」としている(Zehr 1995=2003: 135-6).神は絶対的な赦しや解放を人に与える存在であり,その赦しや解放に至るまでの道筋として契約がある.神との契約に基づいてシャロームに至ることで,新たな社会の基盤が作り出される16).
 このように,社会(人と人との関係)をより良いものへと変容させる回転軸(所信の核)としてシャロームがあり,その回転の動力の道筋として契約がある.人々は,シャロームを目指そうと,神との契約を履行しようとし,それが達成されたならば,神から救済=解放が与えられる17).これにより既存の社会の限界が押し開かれ,より良い社会へと変容し新たな社会基盤が構築される18).
 「シャローム」は,被害者が被害者でなくなる事態である.被害者の実存的な苦しみとしてある被害/加害に閉塞した意味世界が解体し,被害者自らが被害・加害を被害・加害として意味づけない赦しや友愛を基底とした意味世界が到来した事態である.そして加害者も加害者でなくなる事態である.被害者からも社会からも,そして(被害者からの赦しによって)加害者自らにおいても加害者として位置づけられず,被害者−加害者という関係が解体されて,友愛の関係が到来している事態である.そして社会においては被害者が被害者として,加害者が加害者として関わりあう社会システムや価値構造が解体し,友愛を育み慈しみあうための社会システムや価値構造が再編された事態である.それは,加害−被害という否定性の世界から,赦しや友愛といった肯定性の世界へと転回した「あるべき」「完全な」事態としてある.それが被害への救済であり,被害からの解放である.
 シャロームへと至れるのか,そもそもシャロームそのものが存在するのか,それは問題とならない.なぜならシャロームやそれへと至る道筋である契約は神から約束されたものであり,それは信仰の対象であるからだ.ゆえにゼアはこう述べる.「たとえ神の民がこの契約に伴う責任を果たさないようなことがしばしばあったとしても,神ははじめの約束に忠実であり続けたと,預言者はかたくなに主張した」と(Zehr 1995=2003: 136).
 そして,このシャロームと契約の「変容する力」としての力動の構造を前提とした正義が,聖書ジャスティスである.聖書のジャスティスとは,従来の配分的正義(資源配分)や応報的正義(刑事司法)のように公正さや適正さに依った正義ではなく19),より全体的な視点(=事態の健全化)に立った正義である(Zehr 1995=2003: 139).
 たとえば配分は福祉,応報は刑罰の中で報い(相応しいかどうか,適切かどうか)に準拠して財や負担(苦痛)の配分を考えるが,聖書ジャスティスは報いではなく,シャローム=事態の健全化に準拠している.よりよい社会基盤を創出・改善するためには,(弱者への)依怙贔屓も認めることになるし,公正な報いを拒絶することもある(もちろん事態の健全化のために公正な報いを行うこともある). 
 このようにゼアは,従来の(制度的な問題対応で準拠される)正義を,適正な報いと事態の健全化の関連から考察している.そこでゼアは,報いを適正に果すことが必ずしも事態の健全化とはならないことを指摘している.報いを過剰にしないように罰や資源を適正な手続きに則って与えることは,国家の刑罰権の恣意性や国民の自由に介入する権力を抑制し,ひいては国民の自由を広く保障することにもなる.それは秩序の維持や福祉の向上に寄与するものであるし,既存の秩序の状態に戻す,もしくは既存の社会内での個人の生活の保障・向上を図るという点において,事態を健全化させるものでもある.
 しかし,その手続きの適正さに準拠した公正さは,身分や階級,血筋,所得,生育歴に関係なく(場合によって生育歴を加味されたとしても),皆に平等に罰や資源を与える/与えないことにもなる.それは,弱者をより弱体化させることにもなりうるし,弱者を弱者として,弱者を抑圧する抑圧者を抑圧者として置き続けることにもなりうる.あくまで法に定められた範囲で,現状の規則にのっとって問題を処理することは,既存の秩序や社会構造の維持に寄与することにもなり,問題を生み出す構造そのものを残すことにもなる.それは果たして本当に,事態を健全化させているのだろうか,とゼアは問う.
 これにたいし,聖書ジャスティスは,抑圧からの解放とよりよい社会基盤を創出・改善を目指すものである.ゆえに適正な報いや公平さにとらわれず秩序の維持にも準拠しない.聖書ジャスティスは被害者の被った損害の回復を図り,抑圧者が存在し続ける既存の秩序や社会構造を変革すること,弱者のみならず支配者をも物質的,社会的,そして感情的に解放をなさしめ,すべてを解決する試みとしてある20).聖書ジャスティスは「悪事を正し安寧をもたらす解決法を見いだそうとする試み」である(Zehr 1999=2003: 144).
 では,そうした聖書ジャスティスは,シャロームや契約とどう関係しているのか.社会(人と人との関係)をより良いものへと変容させる回転軸としてシャロームがあり,その回転の動力の道筋として契約があることは先に述べた.聖書ジャスティスは「シャロームのために価値判断をする尺度として役立っている」ものであり,すなわち,それはシャロームへと至る契約の道筋を支える尺度としてある(Zehr 1995=2003: 138).
 そうした正義に基づく司法とは「解放の行為」であり,その解放は被抑圧者からのニーズ(損害や尊厳の回復への要求など)があるために始まるものとされている(Zehr 1995=2003: 141).ゆえに契約や法の条文は禁止や命令ではない.それは「一連の未来の指示として読み取るべきであり,十戒も勧めとか約束事の類い」として,「契約とシャロームの中で生きていくための手本を意図している」ものである(Zehr 1995=2003: 144).律法は「あくまでも約束であり,勧めであり,そのように生きるべしという一例なのである」(Zehr 1995=2003: 144).すなわち,法を守ること(法を遵守したり手続きの適正さを保とうとすること)を目的とするものではなく,あくまでも生きていく手段として法がある.
 以上が,ゼアの救済の観念である.

5 考察

 本論では,まず,ゼアの修復的司法論における被害者の苦しみの捉え方を参照して,加害−被害という関係を支配−被支配,抑圧−被抑圧的関係ととらえ,その関係の負的な影響を侵害の体験として論じた.それはゼアが論じた被害者の基底的な苦しみの経験である(2節,3節).
 そして,その苦しみから脱却するための救済観を,ゼアが聖書の世界観に依って論じた修復的司法の原理原則から読み解いた.そこでの救済観とは支配的,抑圧的状態からの解放であり,それは物質的,社会的,感情的な解放を意味していた.そうした救済観は,被害者個人に限ったものではなく,より全体的な視点に立った事態の健全化が達成された事態を基底としており,それは,加害−被害という否定性の世界から,赦しや友愛といった肯定性の世界へと転回した「あるべき」「完全な」事態としてあった(4節).
 そうした救済観において,被害者の解放とは,被害者個人で達成されないものとしてある.それは,被害者の置かれている状況やその個人の意味世界や認識の変容だけでなく,被害者を取り巻く社会構造の変革にまで及んでいる.すなわちこのことは,被害者の侵害の苦しみからの解放には,全体的な改編が必要であることを示唆するものである.被害者の視点に立って修復的司法の実践の問題点を考察した宿谷は,なぜ被害者の害の回復においてコミュニティや加害者の害を修復する必要があるのかについて論じ,その必然性を検討している.そこでは,被害者の害を修復するためには,コミュニティが被害者の支援に専念できる状況が必要であり,それにはコミュニティの害の回復が必要となる.また,加害者においても,被害者への真摯な謝罪や損害の賠償といった自らの加害行為にたいする責任を積極的に担うような主体になるには,加害者が抱える問題に取り組む必要があり,このために加害者が被っている害の修復が必要になる(宿谷 2007: 252-6).
 このように修復的司法の実践において被害者の回復には,コミュニティと加害者の害の回復が必要であるように,理論的位相は違えどゼアが唱える救済観も,被害からの解放のためには被害者を取り巻く事態の改善が必要となる.加害者から害を被ったこと,そのことの被害者個人が抱える苦しみの回復に,全体的な事態の改編が必要となるのは,その苦しみが加害/被害による閉塞し循環する否定的な意味世界に囲うものであるからで,そうした閉塞した事態を突破するには,加害/被害という否定的な意味世界が肯定性の世界へと変転することでもってしかできない.ゼアが,そうした世界の変転を救済論として展開し修復的司法の理想として唱えたのは,そうした被害者の侵害の苦しみに応えようとした現れでもある.

6 おわりに

 加害者の処遇や更生,加害者への赦しが被害者の回復と結び合わされることに抵抗感や嫌悪感,拒絶感を示す被害者は多い.厳罰化を求める被害者においては加害者の更生と被害者の回復を対立的に捉え,加害者の処遇を図ること自体が自身のニーズや心情を害するものと感じている.修復的司法の実践に実際に参加した少年犯罪の被害者遺族の母親は,修復的司法の実践者に対し以下のように語ったことを述べている.

加害少年が立ち直るかどうかは,私の考え方の中にはない.逆に立ち直る前にうちの子のことを考えてほしいし,そういうことを考えるべきだ.このことについて対応するというのは違うんじゃないか,と言いました.(藤井編 2006: 116)

 さらに加害者に自ら進んで会いに行くことへの違和感も感じている.

被害者遺族である自分から進んで加害者に会いにいくのはおかしいし,本当なら加害者から会いに来るのが普通じゃないかと思うんです.でも加害者は事件後ずっと謝罪になんか来なかった.〔中略〕
いや正確に言えば……加害者には謝りに来てもらいたくはないんですよ.彼らには会いたくもない.けれど,何を言っても来ないという了見はなんだろうと思って,それが不思議だし,怒りがおさまりませんでした.腹がたって仕方ありませんでした.(藤井編 2006: 110-1)

 修復的司法の実践プログラムにおいて被害者が参加する利点としては,事件のことを加害者から聞くことができたり,加害者に被害感情をぶつけることができるといったことがあるが,上記の被害者の言明においては,そもそも被害者が修復的司法の実践に参加するということへの違和感が述べられている.
 それはまさしく「被害者」であることからの言明である.そもそもこの遺族が修復的司法の実践に参加する状況にあるのは,ほかならぬ加害に起因していることがある.だから,「被害者遺族である自分から進んで加害者に会いにいくのはおかしいし」,そして「本当なら加害者から会いに来るのが普通」であり,それには加害者の謝罪を伴うのが当然なのである.
 このことは修復的司法のひとつの限界を浮かびあがらせる.それは修復的司法が,被害者のニーズだけを掛け金として実践されえないということ,換言すればそれは被害者に特化した実践ではないということである.
 今後の課題として,こうした加害者への強い抵抗感や違和感を示した犯罪被害者の思いを手放さずに,被害者の被害者であることに特化した救済論を検討していきたい.

付記:本稿は立命館大学・立命館グローバル・イノベーション研究機構(R-GIRO)「『法と心理学』研究拠点の創成」による研究成果の一部でもある.

[注]
1)本論での人災とは,人の行為を起源として害が生じている事態であり,そして加害者−被害者という人的関係によって害が規定されている災厄のこととする.本論において何をもって加害とし被害とするかの基準は,加害者の意図の有無に関係なく,被害者の主観的な認識に依るものとする.
2)本論での犯罪の被害者とは,刑事法で定められた逸脱行為=「犯罪」の被害者のことを指し,本論では遺族も含めるものとする.
3)数ある人災の中で犯罪の被害者を取り上げるのは,加害−被害という関係そのものが法によって問題状況として明確に措定されていることがある.そして加害−被害を措定された救済の具体的実践に関する先行研究が豊富にあること,この2点が理由としてある.
4)修復的司法には「犯罪」に限らず,いくつもの問題状況を対象としたものもある.たとえば,テロ活動や地域紛争の解決を目的とした修復的司法論がそれである.本論では「犯罪被害者の救済」を主たるテーマにしているということもあるが,「犯罪」を対象とした修復的司法論が明確に加害−被害という人間関係に照準して論を展開しており,これに限定して論じる.
5)もちろん,そうした根本的な問いが被害者の回復にとって重要であることについては修復的司法論だけが主張していることではない.これまで被害者の支援論を展開してきた精神医学,心理学,刑事政策学においても共通して主張されてきたことである.本論において重要なのは,その問いやその重要性を修復的司法が,被害者の個人的な心的反応や心情のそれとしてではなく,関係の侵害という観点から導き出していることにあり,「被害者」としての根本的な問いとして位置づけている点が修復的司法の特徴としてある.
6)メノー派とは,16世紀オランダの再洗礼派の流れをくむキリスト教のプロテスタントの一派である.名称は指導者であるメノー・サイモンズにちなんでおり,教会の自治,兵役拒否を特徴としている(Zehr 1995=2003: 177).ここでの二人とは,一人は保護観察官のマーク・ヤンツィ,もう一人はメノナイト中央委員会(MCC)のボランティア・サービス・ワーカーの統括責任者だったデイブ・ワースである.
7)74年の実践の詳細についてはゼア(1995=2003: 161-3)を参照.
8)ちなみに日本では,2001年にVOMが発足しているが,司法制度の一環として確立されてはいない.日本での実践は,あくまでも事件関係者からの要望によりなされるもので,司法制度や警察からの委託から行われるような制度は確立しておらず,刑事司法の関連機関と密接な連携関係にない.ただ,警察主導の修復的カンファレンス(少年対話会)が2007年頃から警察庁のモデル事業・パイロット事業としてなされている.これはきわめて軽微な少年犯罪を対象としたもので,家裁送致前に実施するものとしてあった(高橋 2009b).
9)共有される考え方としては以上の4点があるが,実践においてこれら4点が必ず踏まえられているわけではない.たとえば○3の項目の対話については,加害者,被害者,コミュニティが一堂に会すことなく当事者同士がそろわずとも実践がなされている場合がある.実践においては具体現実性を優先されるために,これら4点は,あくまで修復的司法の理念的価値としてのものであり,修復的司法の必要・達成の要件ではない.
10)この他者のなかには犯罪の加害者だけでなく,警察およびその他の国家機関といったものも含まれており,このことからもわかるように,支配の対象となっているのは,被害者だけでなく一般の市民も含まれている(Braithwaite 1998=2008: ⅲ).ここでの支配は,具体的な犯罪といった加害行為に限定されておらず,とある関係における経済的・政治的・社会的・身体的といった面で特権的な位置にあれる者の恣意的な意向を意味している.それはたとえば,親と子,夫と妻,上司と部下,先生と生徒,経営者と従業員,債権者と債務者といった関係における特権的な位置にあれる者の恣意的な意向を意味している(Braithwaite 1998=2008: 207).
11)ここで被害者についての報告者の考えを言い添えておく.引用した被害者の言明は遺族のものであり,今引用した被害者の言明は性犯罪の被害者のものである.報告者は遺族と性犯罪被害者とを「被害者」として一つの対象として扱っているが,このことは遺族と性犯罪被害者が同じであることを主張しているのではない.
 遺族と性犯罪被害者とでは,まず,被害の内実(殺人と性的暴行)が異なるし,なによりも遺族は被害当事者ではなくあくまで被害関係者でしかない(だからといって遺族が被害当事者よりも苦しみが軽いということではけっしてない).これらの違いは被害者の苦しみや支援を考察するうえけっして無視できるものではない.なぜならそれらの違いによって被害者の苦しみやニーズは異なるし,被害者に必要とされる支援や対策も異なってくるからだ.その違いを看過することは,多種多様な被害者の在り様や苦しみを取りこぼすことになり,結果,適切な支援を構想することはできなくなる.
  本論で遺族と性犯罪被害者を同じ「被害者」として一括りに扱うのは,それは本論が扱う断絶体験が,遺族・性犯罪被害者に共通する体験としてあるからだが,それでも,なぜその共通する体験に照準して考察をすすめるのかといった問いが残る.このことについて述べておく.
  本論が被害の差異に先んじて断絶体験に照準して被害者の苦しみを論じる理由,そのことに見出した意義は,この断絶体験が,いかなる被害者においても普遍的で共通に到来する被害者としての体験としてあり,それは被害の差異より先んじてある前提であり,被害の差異を,相対的な「差異」として機能させる人災の被害者の「苦しみの支柱/土俵」としてあると考えるからだ.だから私は被害の差異よりも先んじて,断絶体験に照準して被害者の苦しみを論じる.これにより従来看過されてきた被害者とその支援に内在する問題を論じることができる.
12)「″事実を受け止める″こと.
  これが被害者にも周りの人達にも,何よりも必要なことなのではないか.
  事実とは…….
  被害者にとっては,
  「被害にあい,自分の身体や気持ちが傷ついていること.そしてそれは他人の手によるものであり,けっして自分の非をさがす必要はないということ.」(小林 2008: 182-3)
  「事件の日のことを思い出さない日々は,確かに楽である.でも,忘れることへの違和感や罪悪感は今もなくなることはない.
  『なかったことにして,得をするのは誰?』
  私は何も嬉しくない.もともと,自分では作り出すはずのない感情や痛みを,要らないものを受け取ったのだから.得をするのは,絶対に加害者だ.」(小林 2008: 185)
13)断っておくと,ゼアは加害−被害からの「解放」を主題にして修復的司法を論じてはいない.あくまでも被害者の置かれている状況やそこから被害者が救済されることについて,自身のキリスト教的価値観から言及している箇所において「解放」という言葉が使われている.ゆえにゼアの著書において解放について考察はされていないし,解放を修復的司法の中核理念として明確に位置付けているわけではない.
14)ゼアは,修復的正義の〜ではないこととして,「修復的正義の主な役割は,許しと和解ではない」としている.被害者と加害者の和解と許しを奨励し,強制するものではない.また「和解と許しは修復的正義の主たる原則でも焦点でもない」,「しかし,許しも和解も被害者が決めることである.被害者が加害者を許す,または和解を求めるかどうかにたいしていかなるプレッシャーもかかってはならない」としており,赦しを修復的司法の原則や焦点としないことに言及しているが,修復的司法の実践によって赦しという帰結が訪れることについては否定していない(Zehr 2002=2008: 10-7)
  このことは修復的司法が赦しを要件とせずに,実践を展開することができることを意味している.すなわち,修復的司法は被害者が赦しに至らずとも,加害者にネガティブな感情を抱きながらも実践を進めることができるものとして,そして赦しを要件とした修復以外の被害者のニーズに応える可能性を修復的司法が有している可能性を示すものでもある.そうした実践を修復的司法と呼べるかは別にして,これは被害者の加害(者)に関するニーズに応える修復的司法の1つの可能性として捉えることができるように思われる.
15)ゼアは,応報的司法(ゼアにおいては刑事司法)とは異なる司法モデルとして,コミュニティ司法と,もうひとつの重要なモデルとして聖書ジャスティスを位置付けている.ゼアはこれをコミュニティ司法と同じく,修復的司法の1つの源流として論じている.ゼアはキリスト教の用語を用いながら,従来の応報的司法=刑事司法との対比からこの個所を説明している.
16)「旧約聖書における契約は,主として救済と解放の行為に基づいている.この契約は,新しい社会のための基盤を創り出した.」(Zehr 1995=2003: 136)
17)「折にふれ,人々は神との契約を更新し,関係が正しいものとなれば,結果としてシャロームの条件は整えられた.したがって,契約によって,シャロームのための基本もモデルも,与えられたことになる.
しかし,契約は相互的な責任を伴う.法や正義という概念は,人々が,こうした責任を考慮に入れることで,シャロームを理解し,それに向かって努力する手段となる.」(Zehr 1995=2003: 136)
18)ゼアは,それに伴い,神と人との契約も従来のものとは異なるものに更新されるとして,独自の聖書解釈から旧約聖書から新約聖書への移行について説明している.ゼアにおいて,旧約聖書から新約聖書への移行は,キリストの生と死と復活によって象徴される新しい解放の営みであり,シャロームを達成した事態をしるした新たな契約の形としている.新約聖書においてもシャロームと契約の概念は継承され,契約の形が更新されたものとしてゼアは旧約聖書から新約聖書への移行を解釈している.

  「神の作用には,時代のほか,理解や考え方に限界がある.人の理解は常に不完全なものだが,キリストが言うように(マルコ伝10章5節),このことを寛容に見てくれている.しかし,神はその限界を押し開き,私たちの理解や識見を広げようと試み,その結果,人の理解は聖書の話や歴史を通して発展し続けたのである.キリストは,この過程の一部として,古い契約の理解を築き直し,しばしば変化もさせたのである.シャロームと契約の概念は,変容させる力であり,法とジャスティスの概念を築き上げたが,それら自身もまた,変貌を遂げていったのである.」(Zehr 1995=2003: 138)

19)「応報的司法と配分的正義の領域は,別々の運用規則で管理されているが,双方とも,ジャスティスが賞罰の公平な分配に関わるべきであり,また,人々は相応なものを受けるという考え方に関わっている.このように,応報的司法および配分的正義は,公正な応報という相互主義に基づいている.」「たとえば,配分的正義では,人々はあるレベルで当然得られるものを受け取らなければならないと想定される.同ように,応報的司法の中心的な関心事は,人々が相応な刑罰を受けることを確実にすることである.」「聖書はこうした「しっぺ返し的な」ジャスティスの余地をいくらか認めているが,その重点は別のところにある.しっぺ返し的ジャスティスは,シャロームのジャスティスによって抑制されなければならず,また,シャロームのジャスティスは,神の救済のように,功徳ではなくニーズと関係があるのである.」(Zehr 1995=2003: 139-40)
20)「聖書のジャスティスは,事態の健全化を追求し,またしばしば格差のある人々を解放することを意味している.このように聖書のジャスティスは,抑圧され貧しい人々へのえこひいきをはっきりと示している.貧者の味方に立って,彼らの窮乏や不利な立場を認めているのは明らかだ.聖書のジャスティスは目を見開いて,困窮するものに両手を差しのべているのである.」(Zehr 1995=2003: 141)

[文献]
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