第一部 差別論のためのノート

差別論のためのノート

堀田義太郎

1 差別論の妥当性とは何か

 「○○は差別である」という指摘または告発は,その行為(者)に対する道徳的な非難を含意している.しかし,「差別」とは何か,そして,差別の何が・なぜ悪いのか,については必ずしも共通理解があるとは言えない.それは差別の是正を困難にする.これに対して,共通理解がそもそも存在しないのが「差別」の特徴だという説明は答えにはならないだろう.少なくとも告発する側は,差別を認識し,その不当性を一般に共有させて解消ないし是正することを目指しているからである.
 この問いに答えるとはどういうことか.それは,我々が「差別」と呼ぶ諸事例を,我々が「差別」と呼ばないような事例から区別するための何らかの基準を提出することになる.では,さらに,その差別論の成否を評価する基準は何か.つまり,「差別とは何か,その何が悪いのか」という問いに対する解答について,その妥当性を評価する基準は何か.それは,「責任」に関する議論と同様,範例と反例によるテストを通して評価されるだろう.このテストは二面からなる.

(1)どう見ても「差別」だと思われるような事例を,その理論は分析・説明できるかどうか.
(2)どう見ても「差別」だと思われないような事例をも,その理論が「差別」として検出してしまわないかどうか.

 これらは別言すれば,(1)は理論が偽陰性(false negative)を生じさせないかどうか,(2)は偽陽性(false positive)を生じさせないかどうかに関するテストであるとも言える1)
 ここで,「どう見ても……思われる(思われない)」という判断は,私たちの日常的な直観に依拠している.これに対しては,すぐに次のような疑問が出されるだろう.つまり,理論的説明の妥当性を日常的直観によって評価するとすれば,理論的説明よりも日常的な直観の方が上位にあるということになり,直観同士の対立を理論が解決することはできない,ということになってしまうのではないか? たしかに,理論を評価するための基準として,すべての直観を等しく尊重するとすれば,この疑問には「その通り」と答えざるをえないだろう.
 ただ,直観に依拠せざるをえないからといって,必ずしも,すべての直観が重要性の観点から見て等価だという主張になるわけではない.第一に,私たちは,より信頼性の高い直観とそうではない直観を区別できるし,また実際に区別しているからである.第二に,この,より信頼性の高い諸直観を中心部に据えて,論理的に整合性の高い説明枠組みをつくることができ,それによって,より疑わしい直観を退けることができるからである.そして,この説明モデルを,疑わしい直観を含むような,または論理的に整合性の低い説明枠組みと比較することができる.第三に,したがって,諸直観の解釈として「ベター」な(豊かで力強く整合性の高い)理論について有意味に語ることができ,そしてその理論によって,疑わしい直観やそれに基づく説明を斥けたり,訂正を求めたりすることができるからである.
 これは,「反照的均衡」(ロールズ)あるいは「解釈」(ウォルツァー)と呼ぶこともできる(もちろん両者には微妙な違いはあり,ウォルツァーはロールズの反照的均衡を批判しているが,ここでは共通性の方が重要である).
 ロールズの「反照的均衡」については,塩野谷祐一の(「意味の全体論」に重ねた)説明が分かりやすい(塩野谷 1984).すなわちそれは,日常的な価値判断から出発し,それらを全体として整合的になるような説明体系──道徳理論──を見出しつつ,同時にこの理論の観点から,出発点となった個々の価値判断の内容を評価し修正する,という考え方である.いま,ここに仮に──思考実験などによって──,従来の説明体系(理論)とは矛盾するように見え,しかも一見自明と思われるような,日常的で非反省的な判断や評価,道徳的な主張が見出されるとする.この場合,この非反省的な判断や主張を斥けるべきか,従来の理論の側を修正すべきかどうかが検討される.理論もまた,別の自明のテーゼ(群)を整合的に(そして暫定的に)体系化したものにすぎないからである.次の二つの道がある.一方で,もし,既存の理論の体系性を維持するために,理論体系と矛盾する価値判断を斥けた方が「我々の道徳的判断」の理解として,より整合的かつ豊かで魅力のあるものになるとすれば,当の体系と矛盾するような価値判断は退けられる.しかし他方,この新たな価値判断を尊重して,従来の理論の中核にある諸テーゼ(の一部)を却下するか,または諸テーゼの組み合わせ方を変えるか(さらにはその両方を行うか)によってより整合的かつ体系的で魅力ある理解が総体としてつくられるとすれば,従来のテーゼ(の一部)を斥けた方がよい,ということになる.もちろん,説明体系としての理論全体の整合性や魅力を判断するためのより高次の基準は存在しないため,この作業はつねに暫定性を免れない.
 マイケル・ウォルツァーの「解釈」もまた同じである.

「私たちは自分たちの直観から自ら構築するモデルを参照しながら,当の直観を修正しなくてはならない.あるいは,信頼度のより高い直観から構築されるモデルを参照して,暗中模索状態にある直観を修正しなくてはならない.どちらの場合においても,直接的にとらえられた道徳と抽象化された道徳とのあいだを,直観的な理解と反省的な理解とのあいだを行きつ戻りつする」(Walzer 1987=1996: 21-22)

 「差別」についても同じく,より信頼度の高い直観とそれに基づく実践から説明モデルを構築し,それによって当の直観を修正し,あるいは,より曖昧な状態にある直観を修正する,という形になる.もちろん,差別論では具体的事例とそれに対する判断が問題になるので,ウォルツァーやロールズが問題にする理論とはレベルが異なるが,基本的な議論の構図は同じであり,差別論の方がよりストレートにこの方法論を採用しやすい(とはいえ,「自由」「平等」「幸福」「正義」などの理論化も基本的にこの方向性になるだろう).
 もちろんこれは,一種の「循環」(解釈学的循環)を免れない.循環とは次のようなことである.一方で,「差別とは何か」という問いに答えるために,つまり「差別」の意味を明らかにするために,私たちの「差別実践」つまり「何が差別か」に関する判断を参照するのだが,他方で,「何が差別実践なのか」を特定するためには,「差別」の意味が既に了解されている必要があるからである.また,ここには,「私たち」や「人々」の範囲をめぐって──「人々」とは多数派のことを指すのかどうかといった──,「差別」を考える上で重要な問題がある.しかし,とくに社会的実践に結び付くような規範的概念の意味を分析する際には,こうした循環も,「人々(私たち)」の想定も,避けられないだろう.
 要するに,「差別とは何か」という問いには,「人々(私たち)は何を差別だと考えるか」という形で,人々の実践に対する「解釈」を通してしか答えられない,ということである.ただ,それは,「差別」の用法を集めてその「最大公約数」的な意味を取り出すことではないし,現実の人々の「すべての反応を要約」することでもない.解釈は単なる「記述」ではないからである(Walzer 1987=1996: 36-7).
 「解釈」には対立がありうるが,ウォルツァーも言うように「解釈の不一致」を終わらせるような「決定的な方法」はない.しかし,解釈の終結点に至らないとしても,併存する複数の解釈のあいだの絶えざる闘争があるだけだ,という話にはならない.たしかに,経験に依拠しないような絶対的に正しい真理が存在するわけではないという意味では,すべての解釈は相対的だと言えるかもしれない.だが,複数の解釈のあいだの相対的な優劣の比較はできるだろう.完全な「終結点」には至らないとしても,その時点での「最善の説明」「最善の解釈」については語り得ない,ということにはならない.もちろん,この「最善」とは,その時点での最善であり,つまり現時点で相対的に「ベター」であるという意味である.
 より良い解釈や説明とは,解釈される対象の全体を,従来よりも力強く,説得力を持つ形で,説明し直す解釈である.それは,「私たちの実践」に依拠せざるを得ない以上,どこかで「保守的」な性質をもたざるをえないと言えるかもしれない.だが,その可能性あるいは危険性を認識しつつ,私たちは,自らを乗せた船を,まともな部品を残して部分的に補修しつつ進むしかないだろう.
 ところで,従来の議論でこのような問題意識が存在しなかったわけではない.以下で見ていくように,とくに社会学の差別論を網羅的に検討した内藤準(2003)は,最終的に「客観的」な定義を与えようとすること自体が不適切であり,実質的な規範的な価値判断に基づく議論が必要だと指摘している.内藤の先行研究に関する検討と批判は,大部分が同意できるものである.以下では,内藤の議論を概観し,その上で,内藤の議論もまた──彼自身は「差別とは何か」に関する理論を積極的に提示してはいないが──,「差別とは何か」に関する直観に依拠していることを確認する(第一節・第二節).そして,あらためて反照的均衡ないし解釈という観点から,差別の理論的説明と解明に残される課題を明らかにする(第三節).

2 差別論の課題──内藤準の議論2)

 内藤の議論を取り上げる理由は,第一に,差別に関する社会学の主流の議論を幅広く対象としてその内容を的確に分析しており,またその問題点の指摘にも一定の妥当性があるからである.第二に,内藤の議論は,明示的には「差別とは何か」という問いに取り組むものではないが,暗黙の裡にこの問いに対する答えを前提として展開されており,差別論が「偽陰性」と「偽陽性」に基づいて展開されるということが見やすいからである.
 内藤の議論は以下のように進められている.まず,社会学は様々な社会現象を扱うが,社会現象には「規範的な意味」を伴う現象が多い.社会学は,こうした現象を扱う際に一種のジレンマに陥る.規範的な意味を伴うような現象を,「理論的に概念化」しようとするさいに,一方で「規範的判断を要する要素」を含めて概念化すると「客観的」に対象を捉えることができなくなり,他方,規範的判断を含めないとその現象を適切に概念化したことにはならない,というジレンマである.
 内藤によれば,とくに,「差別」をめぐる議論にはこのジレンマが典型的に現われている.従来の差別論では「差別の不当性を直接問題にするような要素を排しつつ,不当な差別をいかに概念化するか」という問題設定が採用されてきたからである(内藤 2003: 35).
 この問いに答えを与えようとする従来の諸議論は,大きく三つの方向性に分類される.三つの方向性とは,第一に,「観察者の主観的判断自体を概念化したり,告発の有無を同定基準として概念化する方法」(37),第二に,「排除行為と正当化言説の形式的構造として概念化する方法」,そして第三に「社会的カテゴリー」という言葉をもちいて概念化する方法である.しかし,内藤の結論は,どのアプローチをとったとしても「結局のところ,分析者自身が実質的に規範的な価値判断を提示しなければならないという地点まで,引き戻される」(内藤 2003: 37)というものである.
 以下,それぞれの議論に対する内藤の検討内容を確認していこう.その際,「偽陰性」と「偽陽性」という語を使うことにする.「偽陰性」の指摘とは,ある理論が,私たちが「差別だ」と一般に考えるはずのものを包摂できていない,という指摘である.それは言い換えれば,理論のカバーする範囲が本来「差別論」が把握するべき現実よりも小さい,という指摘である.「偽陽性」とは,逆に,各論者の理論が,私たちが「差別だ」と一般に考えないはずのものをも包摂してしまうという指摘を指す.
 これによって,第一に,内藤が従来の諸理論を批判する際の着眼点を的確に示すことができる.見ていくように,内藤の批判の主眼は,彼自身が,一般に差別だと思われているはずだと考える現象の範囲からみて,従来の基準がカバーする範囲が小さ過ぎるか大き過ぎる,あるいはズレている,という点にあるからである.第二に,偽陰性・偽陽性という語によって,内藤の議論も他の諸議論と同じく,我々が一般に「差別だ」と見なすはずの現象に関する,彼自身の解釈を前提にしているということを,明示できる.
 まず,海野道郎(1978)の議論については次のように指摘されている.海野の差別の定式化では,ある判断者が「差別である」と判断することが重視されている.だが,ある行為に関するある人の「差別である」という判断が,必ずしも他の人々に共有されているとは言えない.その行為を本当に客観的に「差別」と呼ぶためには,単にある人が「差別である」と判断すればよい,というわけにはいかないだろう.坂本佳鶴恵(1986)については次のように指摘される.坂本は「告発されたものが差別だ」と述べている.だが,告発されたものすべてが差別だと我々は考えないだろうし,逆に告発がなくても差別であると言えるはずものが存在すると考えられる.坂本は,「差別を不当なものと想定」しつつ,「告発された事象」とする(内藤 2003: 39).これは「二通りの問題をもたらす」.

「第一に,不当ではないものを差別としてしまう.先の人類学者の例を考えてみよう.彼の行為は不当な差別とは呼べないだろう.だがその行為は,一部の人びとによって差別として告発された.坂本の議論の前提と定義に忠実であるならば,告発された人類学者の行為は,差別として同定されてしまう.//第二の問題は逆に,告発の試みが告発となり得るとは限らないということだ」(内藤 2003: 39)

 ここで言及されている「人類学者の例」とは次のような事例である.

「ある文化人類学者が,あるインディアンの家庭で共に暮らすことになった.ところが彼は,自分の家族をインディアンの指定居留地から離れた白人部落に住まわせた.子どもたちが頼んでも,そこに来ることもインディアンの子ども達と遊ぶことも許さなかった.これを見たインディアンを含む一部の人たちは,人類学者が人種的偏見を示している(不当に差別している)と不平をいった.//ここまでの記述では,確かに,この人類学者は偏見から差別したように見える.しかし実は,このときインディアンの部落には結核が流行しており,彼が共同生活している家庭では,4人の子どもがすでに結核で死亡していた.彼はこの事を知っていたために,ただ自分の子どもを結核の危険から遠ざけようとしていたのである.//つまり人類学者の行為は,彼からしてみれば偏見からの差別ではなく,実際には十分に正当だと納得のいく理由を有していた.読者もこれを差別とは認めないだろう」(内藤 2003: 34 傍点強調は引用者による)

 この内藤の指摘は,坂本の議論が偽陰性と偽陽性を両方含んでいるという指摘である.ただ,傍点を付したように,「偽陽性」の指摘は,この人類学者の例に関する実質的な価値判断・解釈に基づいているということを,ここで確認しておこう.
 海野と坂本がいずれも観察者の主観的価値判断の概念化,告発の有無といった基準に依拠する議論として整理されるのに対して,江原由美子(1985)は別のアプローチとしてまとめられている.
 内藤は江原の議論を,「排除行為と正当化の言説の組み合わせによる概念化」(内藤 2003: 40)としてまとめたうえで,次のように指摘する.この江原の議論では「大人と子供」のカテゴリー化と他の「差別」とを区別できず,前者も含んでしまうことになる.江原の枠組みでは,「我々が不当だとは考えない区別や不平等扱いにもしばしば見出せる」.もしそれを含んでしまうとすれば「不当な差別」を扱う枠組みとはいえなくなってしまう(内藤 2003: 41).つまり江原の議論は「偽陽性」をもつという指摘である.
 山田富秋(2000)と佐藤裕(1990)は,第三の「社会的カテゴリー」という要素を用いる議論とされている.まず,山田の議論について内藤は次のように指摘する.山田は,一方で,差別を発生させ維持するのは「自明の常識を維持する実践」にあるとしている.しかし,「自明視された非対称的カテゴリー関係」は「不当な差別以外にも見られる」(内藤 2003: 42).つまり「自明の常識」という枠組みは「偽陽性」を生じさせるという指摘である.他方で,山田は,「社会的カテゴリー」という要素を重視し,それによって「自明視された非対称的カテゴリー関係」に限定をかけようとしている.だが,内藤によれば,「社会的カテゴリー」を差別の必要条件にするとすれば,逆に偽陰性をもつ理論になる.

「例えば,一市民Uさんが,ただUさんであるというだけの理由で,市の行政サービスを拒否されたとしよう.これは不当性の明白な差別だろう.だが,社会的カテゴリーがかかわるものこそ差別だと考えるならば,これを差別といえなくなってしまう」(内藤 2003: 43)

 内藤によれば,このUさんの事例は「不当性の明白な差別」だが,「社会的カテゴリー」を用いる議論はこれを検出できない.
 また,佐藤(1990)は,差別とその他の単なる不平等を分ける同定基準を「排除によるカテゴリー化の有無」(佐藤1990: 43)としている.だが内藤によれば,この基準も不適切である.佐藤の議論では,「排除によるカテゴリー化の有無が,差別と単なる不平等を分けるという想定」から,「学歴や年齢による不平等は差別ではない」とされている(内藤 2003: 43-44).しかし内藤によれば,「佐藤自身の枠組みで,年齢差別や学歴差別が分析できる」.具体的な事例として挙げられるのは,「50歳未満」という採用条件を課す企業と,結婚時の学歴による評価である.内藤によれば,たとえば「50歳未満」という採用条件を課す企業は,本来職務遂行能力で評価すべきところを,年齢で人を評価しており,それは「『見下し』に該当する」(内藤 2003: 44).
 このように指摘したうえで内藤は,佐藤がこれらを「差別」とみなさなかった理由について,「彼が『社会の全ての人々』(佐藤[1990:81])の中でつねに決まったカテゴリーになされるものこそ差別だ」と想定しているからである,と指摘する.内藤によれば,しかしこの想定は不要である.第一に,「ある『社会』でつねに決まった人々を指示する二分法的カテゴリーが見いだせるか否かは,その『社会』の範囲をいかに設定するかに,完全に依存している」(内藤 2003: 44)からである.たとえば,「外国人差別など差別問題の被差別者であっても,国際社会などの『広い社会』を設定すれば,つねに決まって排除されるカテゴリーとは言えなくなる」(内藤 2003: 44).第二に,「社会」という要素を除くと,「そもそも排除行為がカテゴリーを構成するとされるのだから,ミクロな場面の一時点では,排除される人々はカテゴリー的に一定だとしかいえない」(内藤 2003: 44)からである.
 このように指摘したうえで,内藤は「社会的カテゴリー化の有無によって,現象を不当な差別か否か同定することはできない」(内藤 2003: 44)と結論付けている.

3 内藤の議論の評価

 すでに述べたように,第一に,従来の差別論が不当な差別を他の区別から切り分けるための「客観的」な基準を提出することに失敗しており,またそれは失敗せざるを得ない,という内藤の結論は妥当である.また,第二に,従来の議論に対する批判も,とくに「社会的カテゴリー」という要素について,それが「客観的」な基準にはならないという指摘は妥当である.
 「社会的カテゴリー」と「規範的価値判断」の関係に関する内藤の議論は,次のようにまとめることができる.すなわち,従来の(社会学的な)差別論は「社会的カテゴリー関係」という要素によって「規範的価値判断を必要としないよう概念化」ができると考えているが,それは不可能である,と.もし,従来の差別論が「社会的カテゴリー」という要素によって「規範的価値判断」を免れることができると考えているとすれば,それはたしかに不適切だろう.しかし,それは「社会的カテゴリー」を規範的な価値判断を入れて用いることを否定するわけではない.
 また,従来の差別論は偽陰性や偽陽性を免れえないという内藤の主張は,それ自体が「一般に○○は差別である/ない」といった価値判断に依拠している.内藤はその根拠を明示していない.内藤の議論が,差別行為に対するある種の「価値判断」を前提にしているという点について,繰り返しを厭わず確認していこう.
 まず,坂本の議論に対する内藤の批判点は以下のようなものだった.坂本は「告発されたものが差別だ」と述べているが,告発されたものすべてが差別だと「我々」は考えないだろうし,逆に告発がなくても差別であると言えるはずものが存在すると「我々」は考えるのではないか.ここでは「偽陽性」についての指摘が重要である.告発が差別の同定の必要十分条件だという坂本の議論の偽陽性を,内藤は「人類学者」の例を用いて指摘していた.
 この批判の効力は,先に傍点を振った部分,「読者もこれを差別とは認めないだろう」という表現に依存する.ここには,内藤自身の「我々」の価値判断に対する「解釈」が示されている.すなわち,人類学者の事例を「不当な差別ではない」と多くの人々(我々)は判断するはずであり,またそれは妥当なはずだ,という解釈である.逆に,その事例は「不当な差別だ」という判断が妥当だとする立場に対してはこの批判は効かない.
 江原の議論に対する指摘も偽陽性である.江原の枠組みは,子供と大人の間の選挙権等の不平等も差別としてしまう(内藤 2003: 41).この指摘が批判になりうるのは,子供と大人の不平等は「差別」ではないと判断しており,またその判断は妥当だ,という前提が「我々」に受け入れられている限りにおいてである.逆に,「子どもと大人」の間の選挙権等の不平等処遇は「差別だ」と解釈する立場からすれば,この批判は効力を失う.
 山田の議論に対する批判についても同じことが言える.内藤はまず,「自明視された非対称的カテゴリー関係」は「不当な差別以外にも見られる」(内藤 2003: 42)と指摘していた.ここで,「不当な差別以外」の事例,たとえば子供と大人の不平等処遇等は「不当な差別」ではない,という前提が導入されている.それ自体が一つの解釈である.他方で,山田の「社会的カテゴリー」という要素について内藤は次のように批判していた.

「例えば,一市民Uさんが,ただUさんであるというだけの理由で,市の行政サービスを拒否されたとしよう.これは不当性の明白な差別だろう.だが,社会的カテゴリーがかかわるものこそ差別だと考えるならば,これを差別といえなくなってしまう」(内藤 2003: 43)

 上でも確認したように,この議論の前提は,《この事例を「差別だ」と我々(読者)は判断するはずだ》という内藤の解釈である.「社会的カテゴリー」に基づく議論はこれを「差別」として分類できない(したがってその理論は偽陰性をもつ),という批判の効力は,この事例は「差別だ」という判断が妥当だという解釈に依存している.だが,そのためには,《この事例は「差別だ」》という判断の根拠が必要になる.「一市民Uさんが,ただUさんであるというだけの理由で,市の行政サービスを拒否された」として,とくにそれは「不当性の明白な差別」などではない,と誰もが考えるならば,この批判も力を失う.
 要するに,上記諸批判の前提は,ある種の事例に対する「これは一般に差別である/ない」という,差別の意味に関する内藤自身の解釈だ,ということである.
 そして,一方で「人類学者の例」や「子供と大人の不平等」を「差別ではない」とし,他方,「市民Uさん」の事例を「差別である」とする根拠は提示されていない.内藤による上記の批判の根拠は,「我々(読者)は一般に,これらを差別である/ないと判断するはずである」という想定である.最終的な論拠が,このような「我々の判断」についての解釈にあるという点で,上記の諸議論に対して内藤の批判のほうが優位にあるわけではない.両者は同水準にある.たとえば,坂本の立場からすれば,「いや,告発がある以上,人類学者の事例も差別だと我々は考えるはずだ」という反論が可能であるし,江原からすれば「子供と大人の不平等」をも差別だと考えるような枠組みもありうる,と言えるだろう.また,山田(や佐藤)からすれば,「市民Uさん」の事例は「不当な差別」ではない,と反論が可能である.
 最も重要なことは,これらのどちらが正しいかを判定する際,「私たち」の実践の解釈を離れた,より上位の超越的な基準があるわけではないという点にある.なぜなら,規範的諸問題について私たちにできるのは,具体的な規範的判断についての「私たちの様々な(非反省的な)解釈」について,どちらの解釈がよりもっともらしく(plausible),包括的で整合性があるという意味で説明力として優れているのか,という相対的な比較にすぎないからである.
 差別理論の優劣の基準は,「差別」についてどちらがベターな説明を与えているかどうか,という点にある.上記の議論も含めて,この観点から従来の議論を再検討する必要がある.
 以上をまとめておこう.○1従来の議論が,もし「社会的カテゴリー」という要素によって実質的な規範的価値判断にコミットせずに,「客観的」に「差別」を同定できる,と考えていたとすれば,それは誤謬であるという内藤の指摘は妥当である.○2だが,差別問題を参照した「一般的」な概念化は失敗するということにはならない.また,内藤の議論はそれ自体,別種の一般的な概念を暗黙の裡に前提にしている.また,○3「社会的カテゴリー」という要素は「差別」の意味を解明する際に「不要」であるとはいえない.第一に,「社会的カテゴリー」は(子供と大人も含まれるので)「過剰」であるという指摘は,〈どの社会的カテゴリーが差別に関連するのか?〉という問いの必要性を示しているにすぎない.第二に,「社会的カテゴリー」は偽陰性をもつという内藤自身の指摘を支えている評価(「U氏の事例」が差別だという評価)は,それ自体,妥当性が問われうる一つの「解釈」である.そして私は,この事例を「差別」に含めるような解釈が,「差別」の意味を明らかにするうえで魅力的な解釈であるとは思えない.U氏のサービス拒否,あるいは社会的カテゴリーに無関係な個人的理由に基づく「いじめ」などは,「不当な区別」ではあるが「差別」ではないとしたほうが,我々の実践についての整合的かつ包括的で魅力ある説明モデルを提供すると,私は考えるからである(その根拠は別稿にて明らかにする).
 いずれにしても,「差別」の意味を明らかにするためには,我々の日常的な実践の構造の解明と分析,読解を通して,より説得力のある説明モデルを提示する,という形になる.そしてその課題にとって,「社会的カテゴリー」をはじめとした諸基準の妥当性は,仮想的な事例も含む具体的例に対する分析の説得力によってテストされるべきである.
 考察は次のような手続きで進むことになるだろう.第一に,「私たち」の多くが明らかに「差別である」と判断するような信頼性の高い事例を提示する.たとえば「人種差別」などである.そのうえで第二に,この判断を支える直観に含まれる諸要素を,他の判断に迷うような曖昧な事例または境界事例との比較検討を通して吟味し,説明モデルを構築する(たとえば苗字の頭文字が「あ〜た」の人に対する不平等処遇等).第三に,それによって構築された一般的な説明モデルの候補の説得力を,具体的な事例に即して,他の候補となりうるような説明モデルと比較し検討する.事例は仮想的なものでもよい.このように提出される説明モデルは暫定的な性格を免れえない.しかし,最初に述べたように,規範的概念の意味の解明にとって,おそらくそれ以外に道はないだろう.
 従来の差別論も,「客観的」な基準の確立を目指した議論としてではなく,規範的な主張を含む議論として見直すことができるだろう.以下,ごく概略的なスケッチになるが考察の方向性をまとめておこう.

4 差別論の課題

 4.1 差別と関連概念の異同
 まず「差別」とそれに関連して用いられる概念や考え方を吟味する必要がある.
 第一に,「不平等な不利益処遇」のすべてが「差別」ではない.個々人を集団として扱い,「異なる処遇(differential treatment)」をすることがすべて「差別」になるわけではない.たとえば,男女別のトイレは性別に基づく異なる処遇だが「差別」であるとは言われない.また,一方に不利益を与えるような「不平等な処遇」も,そのすべてが悪いこと(つまり差別)だとは言えない.家族を他人より優遇すること,入学試験での合否,競技や試験で人を順位づけることは,すべて不平等な処遇であるが差別とは呼ばれない.また,視力ゼロの人がトラック運転手になれないことや,私がプロサッカー選手になれないことも差別ではない.つまりすべての「異なる処遇」や,すべての不平等な不利益処遇(disadvantageous treatment)が差別であるわけではなく,ある特定の不利益処遇が差別だということになる.
 第二に,差別と「権利侵害」は異なる.「不利益処遇」だけでは「差別」ではないとして,では,それが相手の権利を侵害している場合に,それが「差別」と呼ばれるのだろうか.これは自然な考え方かもしれない.もちろん,権利や人権をどのように理解するかは難問だが,まず,権利侵害のすべてが差別であるとは言えない.内藤(2003)の「U氏」の事例は,権利侵害であると言える.だが差別であるとは言えないだろう.「市の行政サービス」のように,誰もが保障されるべき権利が侵害されることは,その理由のなかに,性別や人種,出自や障害等が含まれていなくても,不当(wrong)であり,さらには不正(unjust)であると言える.しかし,権利侵害のすべてが差別であるとは言えない.たしかに,出自や性別を理由として選挙権が与えられないような場合,それは権利侵害であると同時に,差別であると言える.しかしそのことと,「UさんがUさんであるというだけの理由」で,選挙権等を与えられないことは異なるだろう.後者は権利侵害であるとしても差別ではない.この点,佐藤(2005: 21-2)が指摘するように,完全に「個人的な理由」で権利侵害等があったとしても,それは「差別」とは呼ばれないため,「何らかの共通性を持った人々」を前提にする必要がある.また,副次的な話ではあるが,「差別=権利侵害」とすると,「差別されない権利」は──「権利侵害されない権利」として──同語反復になってしまう.
 では,差別のすべてが権利侵害だと言えるだろうか.もし,次の事例を「差別」だと考えるとすれば,そう言うことも難しいだろう.佐藤は,健聴者しかいない教室で,注意を聞かない生徒に,教師が「おまえは〈つんぼ〉か」と言うというケースを挙げている.佐藤が指摘するように,この発言は差別だと言えるだろう(佐藤 2005: 78-9)3).だが,ここには具体的に権利を侵害された人も,不利益を被る人も実在しない.
 第三に,「不利益処遇」プラス「関連性(レリヴァンス)」論は「差別」の適切な説明分析だろうか.たとえば,本来その場で評価されるべき要素にとって「関連性のない(irrelevant)」特徴に基づいていることを「差別」と結びつける議論は多い(江原 1988).この考え方は,出自や性別を理由に採用されないといった事例をうまく説明するように見える.この考え方にはいくつかの下位類型がある.たとえば,差別が悪いのは,○1個々人を彼らの能力・資格(merits)に基づいて扱うことに失敗しているからであるという議論,○2「規範的に外在的な特徴」に基づいて自由を制約するからだという議論(Moreau 2010),○3誤ったステレオタイプや「恣意的で不合理な考え」に基づく処遇に問題がある(Alexander 1992)という議論などである.
 だが,これらに基づく処遇のすべてが差別であるとは言えないし,これらの問題がなくても差別と言える例はある.まず,関連性のない特徴,「規範的に外在的な特徴」に対するステレオタイプに基づく不利益処遇のすべてが差別であるとは言えないだろう.「規範的に外在的」とは何かという問題はひとまず措いたとしても,たとえば,「緑色の目」や「名前の頭文字が〈あ〉で始まること」を理由に採用されないことと,性や人種を理由に採用されない場合について,私たちは異なる評価をするはずである.いずれも,ほぼすべての領域で,そこで求められる作業を行う能力には関連しない要素(あるいはおそらくは「規範的に外在的な特徴」)に基づく不平等な不利益処遇であると言える.したがって「不当な区別」だとは言える.だが,私たちは,そのなかでも性や人種に基づく処遇を,「より悪い」と評価するだろう.次に,作業を行う能力に一定の関連性があり,ステレオタイプではなくて正確な情報に基づく,「合理的な理由」のある扱いのなかにも,差別だと言える例はある.レストランの店主が,客層の趣味を考慮して黒人を雇わないことや,女性に対する統計的差別などの,いわゆる「間接的差別」あるいは「構造的差別」がそうである4).
 第四に,不利益処遇の背景に,その人々を見下したり排除する態度があることが,差別特有の問題だという議論がある.たとえば,偏見(prejudice)に満ちた態度や,被差別者に対する(間違った思い込みに基づく)悪意に問題があるという議論,または,「劣った人」として貶価し(degrade),見下し(demean),尊厳を傷つけ(disrespect),排除することに差別の悪は由来する,という議論である.
 これらの議論は,これまで見た三つの議論に共通する点,つまり「不利益」に依拠する議論とは水準が異なる.大雑把なまとめになるが,これらは,差別がよくない・悪いのは,そこに「その人々は不利益を受けて当然だ」という差別者側の意識的または無自覚的な態度が表現されているからだ,という議論だからである.これらは,「不利益」に基づく説明との対比で「リスペクト」による説明と呼べる.この「リスペクト」に関する論点は重要だと思われる.ただ,これらの議論にも一定の限定が必要になるだろう.まず,第一に,偏見論は妥当ではない.先にステレオタイプについて述べたように,偏見ではなく,正確な情報に基づいていたとしても差別は生じうるからである.たとえば,統計的差別を悪い差別だと考えるならば,差別は偏見には限定されない(偏見を正すことは重要だが,差別解消はそれには限定されない).第二に,相手を侮辱したり見下したり貶めたりするような態度や振る舞いも,そのすべてが差別になるわけではない.たとえば,部下が上司を(個人的にあるいは集団で)侮辱することなどは,発言内容によっては貶め・侮辱・劣位化になるが,それは差別ではないだろう(Hellman 2008).また,他者を低価値者と見なして,そのように発言することなども,きわめて個別的な場面で個別的な理由で行われる場合には差別とは呼ばれないだろう.
 この点に関して,佐藤裕(2005)は差別を,それが結果として被差別者にもたらす不利益からではなく,「ある基準を用いて劣位化し,排除する」ような行為として定義している.この佐藤の議論には重要な示唆が含まれているが,しかし,この定義に当てはまるすべての行為が差別であるとは言えないだろう.佐藤の議論については独立した詳細な検討が必要だが、先に見たように佐藤は,「完全に個人的」理由による権利侵害は差別ではないと的確に指摘しつつも、「社会的カテゴリー」を彼自身の「差別」の定義から消去してしまっている。この佐藤の定義からは,「いじめ」はほぼすべて差別になる(佐藤 2005: 115).もちろん,「いじめ」はすべて悪い(wrong).そしてたしかに「いじめ」に差別が含まれることはありうる.だが,当人の過去の行為など「完全に個人的な理由」で「いじめ」が起こりうることを考えれば,すべての「いじめ」の差別であるとは言えないだろう.

 4.2 差別の要素──社会的カテゴリーあるいは社会的顕著集団
 以上から,差別は,○1不利益処遇,○2権利侵害,○3無関係な特徴に基づく不利益処遇,○4ディスリスペクトなどと部分的には重なるが,そのどれとも完全に一致することはない,ということになる.
 ○1に「差別」と呼ばれないものがあるのは言うまでもないだろう(○1が差別だとすると入学試験,スポーツ競技,コンクールなどもすべて差別になる).それに対して,○2○3○4はたしかにほとんどの場合「よくない」と言えるだろう.しかし,私たちは,不利益処遇や権利侵害,劣位化等が性や人種,出自に基づく場合と,「名前の頭文字」やごく個別的な理由に基づく場合とを,区別しているのではないか.つまり,同じ不利益処遇などがあったとして,「名前の頭文字」を理由にしていた場合と,人種が理由になっていた場合では,もちろんどちらも「悪い」のだが,人種に基づくほうが「より悪い」と考えるのではないか.また,重要なポストに女性の割合を設けるクォータ制などが悪い差別になるとは思わないだろう.それは,私たちが,「過去に誤処遇され,あるいは現在低い地位にいる集団を規定するような属性に基づいて区別線引きがなされることを,道徳的に,他の特徴に基づく線引きと異なるもの」(Hellman 2008:21)と評価しているからだろう.
 私たちは,ある種のカテゴリーに属す人々に対する処遇がとくに「差別」として問題になると考えているからである.この点について,性や人種,出自に基づく処遇と,「名前の頭文字」や「緑色の目」に基づく処遇を区別するための基準が提案されている.それは,「社会的に突出した集団(social salient groups)」(Lippert-Rasmussen 2006b),または「歴史的誤処遇または現に社会的不利を受ける集団(history of mistreatment or current social disadvantage)」(Hellman 2008)という概念である.この二つは微妙な違いはあるが,要点は,ある社会的・文化的な状況のなかで,歴史的にまたは現在,その集団に属していることが,多くの場面で不利益を正当化する理由にされてしまっているような集団を意味する.「突出している」または「顕著な(salient)」とは,社会的な不利益の大きさと多さで突出しているという意味である(以下では,単に短く済むという理由で「社会的顕著集団」とする).
 このことは逆に──これはヘルマン等の用語ではないが──「社会的有利集団」を考えれば,より分かりやすいだろう.社会的有利集団の成員が,個別の場面でその属性を理由に不利益処遇を受けること──典型的には「積極的差別是正措置」──は悪い差別ではない.社会的有利集団の典型は男性である.「社会的顕著集団」という枠組みがなければ,たとえば「女性専用車両」や劇場などの「レディス・デー」も,「男性差別」だということになりかねない.社会的顕著集団という枠組みは,個々の場面を超えた広範な社会的相互行為を考慮するための枠組みだが,こうした枠組みがなければ,積極的差別是正措置はすべて「差別」だとされてしまうだろう.
 以上から,差別とは,多くの領域で不利益を被る集団に属していることを理由にした,不利益処遇または劣位化処遇である,とひとまず言えるはずである.その集団性の基盤は身体的特徴には限定されない(宗教等も含む).社会的顕著集団を見分けるための基準は,多くの領域で不利益を受けているかどうか,になる.これは程度問題なので曖昧な部分を含むが,それは具体的な実践と議論に開かれた部分として積極的に評価できるだろう.

5 二つの説明(不利益論とリスペクト論)

 差別とは何か,という問いに対して,ひとまず「多くの領域で不利益を被る集団に属しているという理由に基づく,不利益処遇または劣位化処遇」と言えるとして,もちろんさらに検討すべき点がある.「理由に基づく」という点は分かりやすいだろう.

ある「社会的顕著集団」に属す人が不利益処遇を受けた.しかし,不利益処遇を行った人は,その人がどんな集団に属すかを知らない状況で,完全に別の基準でその人を他の人よりも不利に扱った.

 という事例を考えよう.この場合,その人がある集団の成員であるという事実を「理由」にしていないので,この不利益処遇は差別であるとは言えないだろう.これは,不利益は生じているが,「理由」が異なるケースである.
 だが,「不利益処遇または劣位化処遇」については議論があるだろう.たとえば,社会的顕著集団の人々にとって実際には不利益が生じていないが,当の「理由に基づく処遇」が存在するような場合はどうか.

何の「社会的顕著集団」にも属しておらず,むしろ「社会的有利集団」に属す人が,ある場面で「社会的顕著集団」に属していると誤解され,それに基づいて不利益処遇を受けた(しかしこの不利益自体は当人にとってとくに取るに足らないものだった).

 これは,当の集団の成員に対して直接的な不利益がなくても,社会的顕著集団に属しているという理由に基づいて不利益処遇が生じているケースである.ここで二つの立場に分かれるだろう.
 第一に,差別の悪は被差別者が被る不利益に還元されるという立場からすれば,現実に結果として社会的顕著集団に不利益が生じていない以上,この事例は差別ではない,ということになる.他方,第二に,差別という行為に伴う性質──ある集団に属しているという「理由づけ」──に求められるという立場からすれば,この事例の行為は,その結果とは独立して,行為理由に照らして差別である,ということになる.第一の立場は「不利益論」と呼ばれ,第二の立場は「リスペクト論」と呼ばれる.
 もし第二のリスペクト論の立場を取るならば,「差別の悪」は,単にそれが結果としてもたらす不利益だけには還元されないということになる.先に○4として挙げた偏見論や価値の貶め,劣位化や排除などは,この点を問題にしていると言える.これらの議論が示唆しているのは,差別の悪は,多くの不利益を被ることにプラスして,ある人々の不利益を「当然視する」または,その人々は「不利益に値するという想定」にある,という見方だろう.ある人々を,不利益を受けて当然と見なすことは,その人々を「私たち」と同等の存在として尊重(リスペクト)しないことである.たとえば,Hellman(2008)は差別の悪を,こうした見下す(demean)ような態度が表現されている点に求めている.
 差別の悪について「リスペクト論」と「不利益論」のどちらが妥当な見方かについては,いまだに議論が続いている.不利益論からすれば,仮に差別行為の原因となるような価値観や考え方がなくならないとしても,現実に不利益が生じなければよい,ということになる.たとえば,一見「差別的」に見えるような考え方に基づく行為があったとしても,現実に不利益が生じない限り,とくに問題にはならない.
 他方,リスペクト論からは,不利益がたとえ現実に生じていなくても,または差別表現のように不利益の内容とそれを被る個人の特定が難しい場合にも,ある人々を貶めたり劣位化したりする行為は悪い差別である,ということになる.この立場からすれば,差別の悪をなくすことは,不利益を解消することだけではなく,貶めたり排除したりするような行為や価値観・考え方そのものをなくすことになる.

 以上はごく概略的なスケッチに過ぎないが,これらの議論について英語圏では多くの蓄積がある.いずれにしても,差別の理論的な説明分析のためには規範的な価値判断にコミットせざるを得ず,またその課題は,具体的な事例の検討を通して,「私たち」の実践とその背後にある規範的諸判断についてのより整合的で魅力のある「解釈」を紡ぎだすことにあるだろう.

付記:本研究は,平成25年度科学研究費補助金基盤研究(C)「文化・政治運動における『アイデンティティの政治』の再文脈化」(代表:堀江有里・課題番号25511018)および「『健やかでこころ豊かな社会をめざして』を基本テーマとした研究助成金」(ユニベール財団)の資金援助を受けた研究成果の一部である.

[注]
1)「偽陰性」という語はKnight(2013).だが,Knightはこれを理論評価の基準として打ち出して論じているわけではない.
2)内藤(2003).
3)佐藤(2005)は,「『被差別者』に向かう行為が具体的にはまったく存在しない場合」(78)に,「被差別者」を「言葉,あるいはイメージとしてのみ参照」したような発言でも差別と呼ばれる行為がありうると指摘している.たとえば,「おまえは〈つんぼ〉か」「おまえは〈めくら〉か」といった発言は,そこに実際に〈 〉のカテゴリーに当てはまる人が存在しなくても,差別発言だと思われる.そして,もしその人が「本当に『不在』であるなら,その場で傷つけられる人はいない」.しかしそうだとしても,これらの発言は非難されるだろう(79).この指摘は私も適切だと考える.他方,カール・ナイト(Knight 2012)は,不利益論のなかでも「絶対的不利益論」について,「精神的に極めて強靭な被差別者」が差別行為から何ら不利益を被らないようなケース,あるいはむしろ逆境を自らを鼓舞するステップボードとして,プラス要素に変換するようなケースでは,その差別行為を「悪い」と言えなくなってしまう,と指摘している(ナイト自身は不利益論の改変によりこの問題に対応できるとしている).
4) 差別を,直接的/間接的,認知的/非認知的,個人的/組織的/構造的(制度的)など複数の軸によって類型化して分析することも重要な課題だが,ここでは省略する.

[文献]
Alexander, Larry 1992“What Makes Wrongful Discrimination Wrong?” University of Pennsylvania Law Review 149(1992): 141-219.
江原由美子, 1985,「差別の論理とその批判」『女性解放という思想』勁草書房.
────, 1988,「性別カテゴリーと平等要求」『フェミニズムと権力作用』勁草書房.
Hellman, Deborah 2008 When Is Discrimination Wrong? Cambridge, Mass.: Harvard University Press.
Knight, Carl 2013 “The Injustice of Discrimination,” South African journal of philosophy, 32 (1): 47-57.
Lippert-Rasmussen, Kasper 2006(a)“The Badness of Discrimination,” Ethical Theory and Moral Practice 9.
────2006(b)“Private Discrimination: A Prioritarian, Desert-Accomodating Acount,” San Diego Law Review 43.: 817-856.
Moreau, Sophia 2010 “What Is Discrimination?,”Philosophy & Public Affairs 38, no. 2: 143-179.
内藤準, 2003,「差別研究の構図──社会現象の規範的概念化に関する一つの考察」『ソシオロゴス』27.
坂本佳鶴恵, 1986, 「社会現象としての差別──理論化のための一考察」『ソシオロゴス』10.
佐藤裕, 1990,「三者関係としての差別」『解放社会学研究』4.
────, 2005,『差別論──偏見理論批判』明石書店.
塩野谷祐一, 1984,『価値理念の構造──効用対権利』東洋経済新報社.
海野道郎, 1978, 「差別の概念と測定」『関西学院大学社会学部紀要』36.
Walzer, Michael, 1987, Interpretation and Social Criticism, Cambridge, Mass.: Harvard University Press(=大川正彦・川本隆史訳『解釈としての社会批判──暮らしに根ざした批判の流儀』風行社, 1996).
山田豊秋, 2000, 『日常性批判──シュッツ・ガーフィンケル・フーコー』せりか書房.