第三部 日本のホームヘルパー制度の変遷を通じた障害者施策の一考察 ──創設期の長野県と東京都を中心に

渋谷光美
(羽衣国際大学)

1 はじめに

 日本の自立支援法改正の渦中では、福祉サービスの申請・供給のあり方等に関して行政主導ではなく当事者主体の必要性が叫ばれ、関係事業者などを含めた議論がなされている。日本の障害者施策の一環であるホームヘルプ制度1)の変遷に関して、制度・政策的側面だけではなく、ホームヘルパーの活動実態も含め検討することが、今日の施策化への示唆としても重要ではないかと考える。
 日本のホームヘルパー制度は、1956年の長野県の家庭養護婦派遣事業、1958年の大阪市の家庭奉仕員制度など、自治体単独事業の社会福祉サービスとして創設された。長野県では障害者も派遣対象とされていたが、1962年にホームヘルパー派遣事業が国庫補助事業化する際には、障害者施策としてよりも、老人施策としてのホームヘルパー制度が優先された。1976年には、老人・身体障害者・心身障害児を対象としたホームヘルパー派遣事業の統合が施策化され、その後ホームヘルパーの派遣対象は拡大していく。
 本報告では、日本の障害者に対するホームヘルパー制度創設と東京都でのホームヘルパー事業の実態概観し、ホームヘルパー制度施策化の展開ついて考察した。研究方法としては、ホームヘルパー制度に関連した資料を分析し、また東京都世田谷区でインタビュー調査をおこなった。インタビューは、2010年11月22日、2011年6月10〜12日、2011年8月11〜12日、2011年11月22〜23日に、2名のホームヘルパーと元ケースワーカーの方に、個人情報保護に関する説明の上合意を得て、それぞれ個別的に複数回実施した。

2 日本のホームヘルパー制度の変遷

 1955年以降の高度経済成長により、都市勤労者の収入は増加し生活様式の変化がもたらされた。他方では中小企業の企業倒産が急増し、その煽りを受けた労働者層の貧困による生活問題は深刻化した。1950年代の長野県では、他府県よりも県民所得が少ないことなどから不安定雇用層の防貧対策が模索され、日雇労働者世帯などへの援助策として家庭養護婦派遣事業の効果が期待されていた。実際に1956年に家庭養護婦派遣事業が長野県下で始まった。これが日本におけるホームヘルパー制度の始まりである。この家庭養護婦派遣事業は、1954年に長野県厚生課長が視察した英国の社会福祉状況、社会福祉協議会職員や民生委員による戸別訪問の調査などを踏まえ、上田市の家庭養護婦派遣ボランティア事業をモデルに、長野県の事業として制度化したものであった。家庭養護婦派遣事業では、家庭養護婦の賃金は極めて低く設定されていたが、養護婦が1日派遣されたときの賃金と日雇労働者の日給とは、ほぼ同額であった。家庭養護婦の派遣効果は、単に家事援助の代替として日雇労働者が欠勤せずに済んだというだけではなかった。「安心して労働に服し得る環境を与え、たとえ保護費総支出額より養護婦賃金が上廻ったとしても、生活意欲を抱かせることを優先する賢明さを知った」(竹内1974: 58)と元上田市社協事務局長竹内氏は述べている。上田市では、表1のように、1958年から身体障害者の家庭にも家庭養護婦が派遣されていた。
 長野県の家庭養護婦派遣制度は、対象者を限定せず、自己負担の世帯も含めて派遣対象とするなど先駆的な事業を展開していた。1958年には、大阪市において臨時家政婦派遣制度が発足し、1960年に名古屋市では、伊勢湾台風の被災家庭への派遣など、生活破綻に対する有効な社会福祉サービスとして事業を創設した。
 1961年にホームヘルパー派遣事業の国庫補助事業化が却下された後、1962年の予算化に向けた再申請に関して、当時の関係担当官で交わされたいきさつが、1973年に開催された老人福祉法制定10周年記念座談会で話題となった。その内容は次のようなものである。1960年代当時の養老施設入所者の事務費と生活費が7,000円ぐらいであり、夫婦の生活費は15,000円ほどであるとされた。それは一般家庭での生活費に比べると安くはない額であり、施設保護ばかりではなく、施設以外のサービスを検討する必要性があると議論された。その一部を具体化したのが、ホームヘルパー制度であった。他方で、ホームヘルパーは老人だけではなく身体障害者にこそ必要であるから、両方での予算化をすべきであるとの強い主張が厚生省内で出されていた。ところが当時の予算の現状から、老人と身体障害者の両面からでは共倒れする恐れが多分にあった。身体障害者の予算化は老人の予算化後に申請することが内諾され、老人に対する事業として申請された結果、ホームヘルパー派遣事業予算は1962年度の国庫補助事業予算枠に入った(厚生省社会局老人福祉課 1974: 8)。このホームヘルパー派遣事業は、1963年の老人福祉法の制定により、法的根拠をもった社会福祉サービスとなった。
 1966年には、新潟県の肢体不自由児の保護者やボランティアによって、新潟県肢体不自由協会が創設された。その事業内容は、学習指導、留守番、家事手伝い、その他(散歩・遊び)であった。また兵庫県肢体不自由児協会は、重症心身障害児の場合は適当な施設や学校も少なく、家庭で療育を行っているケースが多いと認識していた。そのためボランティアの協力を得て、ホームヘルパーを在宅の重症児の家庭に派遣して各種のサービスを行い、児童の療育の援助と家庭環境づくりに寄与することを目的として、1967年に事業を開始した。
 1967年8月に厚生省は社会局長通知として「身体障害者福祉法による身体障害者家庭奉仕員派遣事業について」を通達した。その後国は、1969年にねたきり老人家庭奉仕員事業、1970年には心身障害児家庭奉仕員派遣事業を創設した。
 東京都では、1967年のホームヘルパー数に対する身体障害者ホームヘルパーの割合が非常に高くなっていた。これは東京都の身体障害者ホームヘルパー事業が、国に先がけて、障害児をかかえた家庭へと派遣対象を拡大していたことによるものであった(東京都神経科学総合研究所社会学研究室 1977: 7)。1976年には、こうした対象者別のホームヘルパー制度の予算化は海外にも例がなく、制度の効率化を図るためとして、老人・身体障害者・心身障害児のホームヘルパー派遣事業は統合の施策が取られた。表2は、1976年までの東京都を含む全国と、東京都とのホームヘルパー数の変遷である。

3 ホームヘルパー派遣事業の統合の経緯
  ──東京都世田谷区を事例に

 東京都世田谷区では、ホームヘルパー派遣事業の統合化は1985年に実現し、福祉事務所に設置された在宅福祉係の所属になった。それまで世田谷区のホームヘルパーは、同じ福祉事務所に所属しながら老人と障害者(児)という対象別に業務が分割されていた。世田谷区で統合化方針が提起された当初は、人数の多い老人ホームヘルパーの側に統合への反対と不安の意見が多かったという。組合の話し合いでは、派遣対象者へのサービスを低下させず、資質向上に努力することが再確認されていた。ホームヘルパーによる自主的な交流の中で、外出時の車椅子操作や、電車の乗降方法等の技術の交換もなされ、相互の業務のあり方への理解が深められた。1985年の統合を機に在宅福祉係も設置され、関係機関の連携も密になり、対象者に迅速な対応が可能となり、地域住民にも業務内容が分かりやすくなっていた。ホームヘルパーの業務が統一されたことで要望なども集約・共有でき、組合の組織強化につながるなどプラスの影響があった。Aさんは1970年代後半に東京都の身体障害者ホームヘルパーとして採用され、採用当初から長年世田谷区のホームヘルパーとして従事されている方であり、統合の時のことを次のように語った。

障害ヘルパーの配属は世田谷区になっていても、採用、予算の出所が東京都の民生局であったのに対して、老人ヘルパーは世田谷区独自の採用で、採用の基準、身分が違うこともあり、協力関係が難しく壁がありました。一本化しかないじゃないかということになったけれど、老人ヘルパーは老人しか知らなくて、その仕事に誇りを持っているし、障害者担当の大変な状況が伝わり、不安があることもあって、一本化には反対の意見が多くて(中略)福祉事務所間で、老人担当と障害者担当の人事交流がなされたことによって、障害ヘルパーの仕事への理解が増えていき、5年位かかってやっと反対意見が狭まってきたのです。(中略)人事交流で一本化になることで要求もひとつになり、団結力はとても強くなりましたね。

 東京都世田谷区では、統合案が合意し実施されるまでに5年を要したが、これは国の方針が提示されてから9年後の統合であった。統合方針には、世田谷区内の障害者ホームヘルパーが賛成したこともあり、ホームヘルパー同士の自主的な交流活動がなされていた。それにもかかわらず、政策実施に時間を要したことは、良し悪しは別として、業務を担うホームヘルパーの意向が重視され、合意形成が不可欠であった職場実態を示していた。世田谷区では、ホームヘルパーが組合活動を通じて声を上げ、業務の見直しも含めて、当局へ提案するなどの活動がなされていた。

4 1980年代以降のホームヘルパー制度

 1981年、中央社会審議会は「当面の在宅老人福祉対策のあり方について」との意見具申を行った。その内容は、(1)社会福祉法人、福祉活動団体等、管内の民間福祉資源の活用、(2)パートタイム制やフレックスタイム制導入、(3)介護人派遣事業は老人家庭奉仕員派遣事業に統合、(4)スーパーバイザー(指導監督者)制度の創設などである。1982年、この意見具申を受け、「老人家庭奉仕員派遣事業運営要綱」を改定して「老人家庭奉仕員派遣事業運営の改正及び実施手続き等留意事項について」が厚生省から通知された(1982年9月8日社老第99号)。その内容は、(1)所得税課税世帯に対しても有料で派遣、(2)常勤又は非常勤に変更、(3)派遣回数の下限「週2回以上」を削除、(4)1時間単位を原則とし、必要な時間数とする、(5)「医療機関との連携」を追加、(6)採用時研修(70時間)の導入などであった。運営要綱の改正に対して、当事者の立場からの批判の声も上がっていた。

従来の週2回以上、半日単位が、1時間単位、必要時間数、上限週6日、18時間以内と改正されたが、障害者の生活を時間単位で区切ることはできないし、24時間介助の必要な障害者はどうなるのか。(中略)低所得者制限は撤廃されたが、派遣費用は無料から原則自己負担となった。サービスの申請者は、本人または保護者から生活中心者とされた。本人の存在と意思を無視することになるのではないか(鈴木 1984: 31)。

 また、東京都では、1980年代に知的障害児を抱え、電気を使用せず、ろうそくだけで生活していた母子家庭をケースワーカーやホームヘルパーが支えていた。Aさんは、この母子家庭への援助について、次のように述べていた。派遣対象である知的障害児への支援はもちろん、その家族の生活様式に配慮をしながら、徐々に生活上の支障を改善できるように援助していた様子がうかがえる。

ケースワーカーと訪問したが、サービス開始当初は、母親が警戒して玄関には入れませんでした。アパートの廊下から安否確認だけをおこなうこともありました。子どものことになると守ろうとする気持ちからか表情が豹変する母親に、戸外から少しずつ声をかけ続け、家の中に入れるようになりました。ろうそくを使用している部屋は、足の踏み場もないほど物が散乱していました。不用品は処分する分量がわかるようにまとめることで、捨てることへの了解が得られ、少しずつ表に出すように工夫して部屋のスペースを確保していきました。(中略)この事例以外にも、ホームヘルパーから見れば、散乱したごみとしか捉えられなかった不用品を、いかに捉えるかという問題をテーマに、大学教員とともに研究会を開催し検討を重ね、現場での援助方法が改善されるのを実感するようになりました。

 事例検討会を重ねた東京都世田谷区ではホームヘルプサービスの供給事業が多元化し、民間事業所のホームヘルパーが新規に、またモデル事業で認知症の老人や精神障害者等の対象者へのサービスを開始する際には、「つなぎ訪問」と呼ばれる実践がなされていた。つなぎ訪問とは、訪問初回からしばらくの間は、世田谷区の直営事業所のホームヘルパーによる援助を行い、対象者の状態などが民間事業所のホームヘルパーにつなぐことが可能だと判断された後に引き継ぐ取組みであった。
 1980年代には、国の方針に従い東京都もホームヘルパーのパートタイマー制度の導入等を推進し、正規雇用のホームヘルパーの採用は抑制していた。しかし世田谷区では、直営事業所のホームヘルパーも増員されていた。Bさんは1980年代から世田谷区のケースワーカーとして従事されていた方であるが、その点に関して次のように語った。

1980年代以降、自治体の組合としては、住民側からの要求の立場に立ったホームヘルパー事業の派遣時間拡大や精神障害者等への対象者拡大が必要だとして要求しました。行政当局としても、事業拡大しモデル事業を新規に実施したい意向がありました。新規事業の対応には、区直営事業所のホームヘルパーの援助力量の蓄積を認めたため、ホームヘルパーの増員も勝ち取れていたのです。

 また、1990年代前半から世田谷区のホームヘルパーとして従事されてきたCさんは、1990年代の世田谷区の動向について、次のように述べた。

1990年代は、民間委託化の推進、まさにその真只中でしたね。役所のヘルパーは要らないとされたけれど、対象者の拡大とともに、民間の採算に合わない援助困難ケースや、精神障害の方への援助は難しいからできないと、結局役所のヘルパーの担当ケースは増えていったのです。

 BさんとCさんの話にあったように、東京都でのホームヘルパー制度変遷の実情としては、行政当局が新規事業やモデル事業の展開を推進しようしていたことや、労働組合との折衝による影響が大きかったことがわかる。1980年代以降の国のホームヘルパー制度方針では、事業主体は多様化し派遣対象も拡大する中で、時間制による効率的なサービス提供のあり方が優先されていた。しかし、派遣対象の側に即したホームヘルパー体制への努力がなされていたことも把握できた。

5 おわりに

 日本のホームヘルパー制度創設に関して、長野県と東京都を中心に概観した。まず、この制度の創設が、先行的な自治体における社会調査の実施や欧州施策を参照し、老人問題の社会問題化、日雇労働者問題への施策化として位置付けられたことを確認しておくべきである。障害者へのホームヘルプサービス制度創設が遅れる状況下において、当事者や家族団体などによる先進的な取組みもなされていた。1980年代以降のホームヘルパー事業拡大期は、ホームヘルプサービスの供給組織の多元化、民間への委託が推進され、ホームヘルプサービスの量的拡大や時間制による効率性等が重視されていった。しかし、東京都の実情を鑑みれば、国の施策化の動向だけでは把握できない事態も存在した。1976年に国の方針とされた対象者別ホームヘルパーの統合化は、世田谷区では1985年にようやく実施されていた。また援助の困難性に関して、東京都ではホームヘルパーが研究会などを組織し、業務の一環として援助の質を高める実践がなされていた。従来の区直営事業所のホームヘルパーの援助を、民間事業所のホームヘルパー派遣の展開に活かす取組みも実践されていた。このような動向は、1980年代以降の一部の自治体の動向でしかない。が同時に、日本のホームヘルパー制度の展開は各自治体の実情によって異なる実態があったこと、その実態を把握することが、ホームヘルパー制度変遷の把握にとって重要な検討課題となることを示唆していた。
 今後、1980年代以降のホームヘルパー制度の根幹に関わる政策変遷の分析をするため、当事者の声を施策化に反映させる議論や取組みの動向・実態について検討することが課題である。

[謝辞]今回、韓国での障害学国際セミナーのポスター発表、ならびに本報告を執筆させて頂くにあたり、翻訳・通訳をお引き受け下さいました立命館大学大学院の留学生の皆様方をはじめ、関係者の方々に多大なご支援を賜りましたことに、心から感謝の意を表します。

[注]
1)1950年代後半から自治体の単独事業として展開されている段階では、各自治体によって、その担い手の名称も違っていた(長野県では家庭養護婦、大阪市では臨時家政婦を翌年改名し家庭奉仕員等)が、1963年の老人福祉法第12条には老人家庭奉仕員の世話として統一された。1990年の老人福祉関係8法改正で、老人福祉法第12条は削除された。この改正によって、家庭奉仕員という名称の代りにホームヘルパーという名称を用いるように指導がなされた。しかしそれ以前から、俗称としてホームヘルパー(またはヘルパー)が使用されていた。本稿ではホームヘルパーを使用したが、資料等に家庭奉仕員等の呼び名が使用されている場合は、その呼び名のまま記載している。

[文献]
厚生省社会局老人福祉課,1974,『老人福祉研究 7──老人福祉10年の歩み』財団法人老人福祉研究会.
鈴木利子,1984,「障害者の生きる権利と公的介護保障」『福祉労働』17: 26-33.
竹内吉正,1974,「ホームヘルプ制度の沿革と現状──長野県の場合を中心に」財団法人鉄道弘済会編『住民福祉の復権とコミュニティ』東京大学出版会,54-75.
東京都神経科学総合研究所社会学研究室,1977,『ホームヘルプ事業に関する調査報告書』,野崎孔版社.