第三部 社会事業史のアンチテーゼとなる歴史と障害学

桐原尚之
(立命館大学大学院先端総合学術研究科)

1 前提

1.1 障害学の背景──社会モデル理論形成の困難
 障害学の学としての存立を握っているのは、障害の社会モデル(以下、社会モデル)だといっても過言でないだろう。だが、ここにきて社会モデルの理論形成は困難を迎えている。まず、それを前提として、障害学が提示した概念である社会モデルの理論形成にかかわる言説について英国障害学を中心に確認しておく。
 社会モデルは、1970年頃、一部の障害者団体の間で自明の概念とされてきた。それは、日本の全国障害者解放運動連絡会議が「どんなに重い『障害者』であっても、そのことによって差別されたり、その存在を否定されたりすることが決してない」(楠 1982: 83)ようにと立ち上がったことや障害者権利条約アドホック委員会に参画した国際障害同盟の加盟組織のリーダーたちによる「障害は社会にある」との発言からも明らかである。英国の場合、隔離に反対する身体障害者連盟(Union of the Physically Impaired Against Segregation, UPIAS)が、障害をディスアビリティとインペアメントに分けて定義し、ディスアビリティを社会的障壁による機会の制限、インペアメントを個人の機能的制限としていた。英国障害学の論者マイケル・オリバーは、UPIASの定義から着想を得てディスアビリティとインペアメントの内、ディスアビリティこそが障害者を抑圧しているとし、社会のあり方を批判した(Oliver 1983)。そして、ディスアビリティに着目するものを社会モデルとし、インペアメントに着目するものを「医学モデル」あるいは「個人の悲劇モデル」とした(Oliver 1983)。1990年、オリバーは『障害の政治──イギリス障害学の原点』を刊行し、障害が社会的に生成され抑圧が生じるメカニズムについて、イデオロギー的側面と制度的側面に分けて説明をした。そして、今日的な障害者排除の生成要因を資本主義時代の労働などの近代化から探り出した(Oliver 1990=2006)。
 オリバーの社会モデルに対し、ジェニー・モリス、リズ・クロウ、サリー・フレンチといった女性障害者らは、法や制度だけではなく、インペアメントのある身体と個人的苦闘(Crow 1996: 209, 222-3)や日常生活における人間観の障壁(French 1993: 17-18)といったディアビリティを取り上げて建設的に批判し、社会モデルを補完した。このことで社会モデルが経済決定論である必要がないことを確認し、同時にインペアメントの社会モデルの道を開いた。
 インペアメントの社会モデル理論形成は、従来医学モデルとして批判してきた領域からイシューを取捨選択する作業を含んでおり、医学モデルの言説との有意な差をつけつつ実感の伴う理論であることが求められた。ひとつは、フーコー以降のポスト構造主義/社会構築主義の身体論に「身体化」概念を用いた現象学的エスノメソドロジーを導入したヒューズとパターソンの理論がある(Hughes and Paterson 1997)。ヒューズとパターソンの理論は、杉野昭博によって、私たちが個人の身体の問題と見なしていることの多くは、「実は身体化された社会的抑圧に過ぎないとして、インペアメントの個人的経験を社会的抑圧と結びつけて分析したもの」(杉野 2007: 142)と解説されている。このほか、マーク・プリーストリーによる唯物論的社会モデルと医学モデル、観念論的社会モデルと医学モデルの4次元モデルによる分析(Priestley 1998)や、トム・シェイクスピアによる多元主義的な社会モデル理論がたてられていった(Shakespeare and Watson 1997)。
 このことは、1990年代後半から米国の障害学が英国障害学を視野に入れた理論を徐々に展開していったこととも関係している。というのは、米国障害学の祖であるアーヴィング・ゾラは、自身の経験に機軸を置き、医療化を推進しているのが米国社会の健康至上主義であると考え、障害と健常を連続的なものとして説明した(Zola 1989: 401)。それは、ディスアビリティとインペアメントという二分図式を採用することなく、社会モデルに立脚しつつ広範囲を捉えたものといえる。このような医療化を主題とした米国社会モデルは、時期も重なっていたことから英国障害学の理論との接合点が多かった。
 2006年、シェイクスピアは、治療や予防といった医学的な取り組みを考察できないこと、インペアメントに付随した残余的な不利益が残ることなどを理由に挙げ、社会モデルは死んだとして、従来の英国障害学との決別を果たした(Shakespeare 2006: 40-50)。
 このことは、日本の障害学にとって大きな出来事であり、英国障害学、米国障害学の文献の訳書がようやく出版された時期とも重なる。それは、日本の障害者解放運動の言説に加え、輸入された障害学の理論と接合した理論が考えられたことを意味している。代表的な研究として2007年の星加良司による『障害とは何か』がある。星加(2007)は、障害を社会現象と位置付け、相互行為から生じるものとし、その観点からディスアビリティとインペアメントを一貫して捉えようとした。
 日本の障害学では、星加以降の社会モデルの理論形成が自明の課題となり、星加を踏まえた研究は枚挙に暇がない。だが、星加は、インペアメントが社会的価値との関係で否定的な価値付与をなされると定義したが、現に障害者が治療によってインペアメントを「治す」ことへの評価を示していない。結局のところ医学モデルの障害の定義を批判し得ても、治療を全否定することもできないため、治すことをめぐる評価は課題として残されている。治すことを扱わない社会モデル理論は、結果的に医学モデルとの有意な差を認め難く、治すことに切り込むことは、既存の社会モデルの枠内では限界がある。

1.2 限界点から見える視角の複数性
 社会モデルの理論形成は、既存の理論の枠内では限界がある。だが、社会モデルに限界があるからといって、社会モデル自体がとるに足らないものとして扱われるべきではない。むしろ、限界点を明らかにした上で、そこから論じられることがある。
 立岩真也と天田城介は、「重い人たちも含まれる脳性まひの人たちから始まった日本の障害者運動と、一九七〇年代頭から中盤にマイナーな集団であったけれども、脊損の人たちを中心とする、ある程度ものの言える人たちが大学等で発言していくという英国のそれとでは、「社会モデル」の作り方というか、主張の中身や仕方が異なってくる」(立岩・天田 2011: 19-20)と述べている。確かに既存の社会モデル理論には、共通する特徴として論者の経験的な知を踏まえて展開されてきたといえる。たとえば、オリバーは、脊髄損傷者であり、英国の階級社会にあってマルキストとして労働者との連帯を模索していたことがある。モリスら女性障害者は、尊厳死や人工避妊中絶などの問題を自身の問題として抱えていたし、ゾラは、高度な契約社会である米国において16歳でポリオとなり、医療との関係が自身にとって至上命題であったこともうなずける。日本の脳性まひ者の運動は、象徴天皇制の親和と排外の下にあって優生思想を意識せずにはいられなかっただろう。
 すなわち社会モデル理論は、複数の分析視角によるところを一枚岩的に論じようとして、理論形成を困難にしてきた側面があり、そこに社会モデル理論形成のひとつの限界点が確認できる。この限界点から導きだされる課題は、複数の視角からそれぞれ論述することであり、筆者は、「精神病」者運動の視角を論述すべく、「精神病」者運動の体系的な歴史叙述をしようと考えている。

2 問題意識と目的

 杉野は、日本の障害学について以下のように述べている。

日本の障害学は、1970年代の障害者解放運動が残した遺産に立脚しながら(中略)後の世代の人々によって、しかも30年余り経過した後に、英米から「輸入」されるようなかたちで成立している。(中略)したがって、日本における障害者運動の歴史的研究は、障害学と障害者運動との「時間的ずれ」を埋めるために不可欠な作業だし、(中略)歴史的研究は、日本の障害学においては特別な意義をもっている。(杉野 2007: 220)

 長瀬修は「新たな〈障害〉の視点の確立は、例えば歴史の分野でこれまで隠されてきた障害者の存在を明らかにする」(長瀬 1999: 12)とし、30年余り語られなかった歴史を世に出すこと自体に障害学の役割があることを示している。
 しかし、その間に日本の社会福祉(学)は、社会事業史なる分野を立てて、社会福祉の従事者にとって都合のいい障害者の歴史を記述してきた。ほかにも、あらゆる障害者の歴史は、記述する歴史家の立場によっていかようにでも描かれ、現代史における障害者の歴史は医学モデルによるものがほとんどであった。そのことを片方で知りつつ、障害学の枠内で障害者運動単独の歴史叙述を繰り返すだけでは、未だ、真の歴史学の枠外で障害者の歴史を論じているに過ぎない。
 そのため、長瀬は「従来の歴史に障害者も付け加えるだけではなく、従来の歴史が非障害者の視点から見た歴史であったことをあらわにする」(長瀬 1999: 12)取り組みを提起している。ところが、日本の障害学が歴史を取り扱う場合、従来の歴史への付け加えに止まり、非障害者の視点による歴史であったことをあらわにする取り組みにまで至っていない。
 「障害学国際セミナー2012」では、従来の歴史が非障害者の視点から見た歴史であったことをあらわにする取り組みとなり得る障害学の歴史叙述の方法を示すために、試行的に「Y問題」の歴史と、「1987年の精神衛生法改正の評価」に関する歴史を社会事業史のカウンターヒストリーとして叙述をした。なお、それぞれの歴史の詳細は、別稿に譲る。

3 歴史の叙述

3.1 Y問題の歴史
 「Y問題」とは、当時19歳の浪人生Yの両親から相談をうけた大師保健所精神衛生相談員の今井功が「親の本人の捉え方に問題あり」「本人の性格、最近の行動、思考内容から分裂病のはじまりのように思われる」と記録を付け、それに基づき本人不在のまま無診断入院が行われた事件について、1973年4月6日、第9回PSW全国大会(於:横浜)の席上で、Y本人から同じ被害者を出さぬようPSWの実践を厳しく見つめ直してほしいと告発したことに始まる一連の問題のことである。
 谷中輝夫は、告発からの「約10年間は人権を守るべき精神科ソーシャル・ワーカーの倫理性と専門性について、協会と会員自らが厳しく問い直し、議論を重ねる歳月となった」(谷中 2007: 200)と述べている。松岡克尚は、「日本精神医学ソーシャル・ワーカー協会が、1988(昭和63)年に最初の日本精神医学ソーシャル・ワーカー協会の倫理綱領を制定している。それは、1973(昭和48)年の「Y問題」によってPSWの基本的姿勢が問われたことを契機に、自らの専門性を反省的に見直すなかで倫理綱領制定の必要性が認識され、多くの会員の議論を経て実現を見たものである」(松岡 2009: 217)とまとめている。すなわち、一般的に「Y問題」は、「Y問題」を契機にPSWの実践を反省的に見直し、会員の議論を経て倫理綱領の制定に至ったという歴史として叙述されてきた。
 一方、Y裁判闘争を支援していた「多摩川保養院を告発し地域精神医療を考える会」(代表、阿部信真、以下考える会)による1976年7月発行のリーフレット『これがY事件だ!』には、「スローガン」のひとつに「地域精神医療管理体制を批判・解体せよ!」(多摩川保養院を告発し地域精神医療を考える会 1976: 1)とあり、地域における精神保健の相談援助をおこなうPSWの存在自体を認めていなかったことがわかる。Yや考える会の主張がPSWの存在自体を認めていないということは、Y事件が提起した問題が、本来PSWの職業倫理の糧とはなり得ないことを意味する。
 また、PSW協会はYや考える会が指摘した課題に対して何も答えておらず、PSW協会員の多くが「Y問題」に対して批判的であった。PSW協会は、最後までY事件に向き合おうとしておらず、そのことは、係争中を理由に取り組もうとしなかった事実やYとの約束違反の事実、Yに事実上見捨てられた事実などから明らかである。それが、1976年のPSW協会存続の危機に直面したことで、PSW協会存続を第一に据えた人事がなされ、「Y問題」と身分法・国家資格をPSWの職業倫理という主題によって結び付けることでコンフリクトを回避し、本来、なり得るはずもないY事件を糧にしたPSWの職業倫理の歴史ができあがった。
 だが、それは身分法に軸をおいた進歩主義の歴史の叙述に過ぎないものであり、そこには本当の意味での反省は皆無である。

3.2 1987年の精神衛生法改正の評価
 1984年3月14日、宇都宮病院における患者リンチ事件が新聞報道された。国連人権小委員会において国際法上の問題があるとして非難され、日本政府は、国連差別防止・少数者保護小委員会において精神障害者の人権保護を改善することを明言した。1987年、精神衛生法は精神保健法へと改正され、宇都宮病院事件における精神障害者への人権侵害を踏まえて改正内容は人権に配慮するものになった(伊藤 2010: 5)とされている。
 しかし、1987年の精神衛生法改正は、宇都宮病院事件以前からの省庁内の「予算的要請」と「治安的要請」によるもので、宇都宮病院事件は、むしろ「予算的要請」と「治安的要請」に答えるための改正の口実に過ぎなかった。もともと、保安処分の新設を、刑法改正で実現するか、治療処分執行法案のように厚生省と法務省との共官で別の法律を作って実現するか、精神衛生法の改正で実現するかは、1982年ごろから政府内でも議論されていた。1974年の改正刑法草案は、1975年以降の刑法改正について意見を聴く会が開催不全になるほどの運動があったため、一度は上程を断念せざるを得なかった。ところが、新宿西口バス放火事件を契機に再び保安処分新設の可能性が出てきたため、日弁連と法務省で刑法改正意見交換会を開催する。その中で、刑法改正や治療処分執行法案による保安処分の新設が断念せざるを得なくなった1984年、宇都宮病院事件の報道が、皮肉にも精神衛生法改正による保安処分新設を現実的なものにしていった。精神衛生の一部改正に関する法律(案)は、関係団体からの要請を取り入れつつ最大公約数的な法案に仕上がったわけだが、その過程からは、人権の主権者である「精神病」者は参画を要請したにも関わらず、拒絶され、交渉すら打ち切られるような事態であった。
 また、改正精神保健法は、契約入院であった自由入院を廃止し、積極的に拒否していない場合は精神障害者本人の同意があったと見做す任意入院を新設し、強制入院を補完するようなものであった。こうした流れを受けて、処遇困難者専門病棟の新設など触法精神障害者対策の論議は止まることなく続けられ、ついに2003年に心神喪失者等医療観察法の成立というかたちで結実した。
 すなわち、1987年の精神衛生法改正は、1974年以前からある一連の保安処分策動として理解される必要があり、人権に配慮した改正とは言えない。

4 まとめ

 歴史叙述は、何を視角とするのかによって叙述された歴史は同じ史料を基礎としても全く異なる叙述となり得る。
 この報告では、障害学の視角から、「Y問題」の歴史と1987年精神衛生法改正の評価に関する歴史を叙述した。それは、社会事業史に内在する医学モデルに依拠した歴史叙述と異なるものであり、ひいては、従来の障害者の歴史叙述が修正されるべきものであることも示せた。

[文献]
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