特別公開企画 立命館大学グローバルCOE プログラム「生存学」創成拠点 「アフリカ/世界に向かう―稲場雅紀さんから」

日 時:2007 年7 月29 日(日)16:00 〜
会 場:立命館大学衣笠キャンパス創思館303・304 教室
話し手:稲場 雅紀(アフリカ日本協議会)
聞き手:立岩 真也・他

◆稲場雅紀:その歴史
  ◇アフリカ日本協議会 2002 -
  ◇アカー 1991 -
  ◇横浜エイズ会議、アフリカ日本協議会 1994 -
  ◇難民申請裁判 2000 -
  ◇寿町・大学 1988 - 
◆アフリカと日本:歴史と現在
  ◇歴史:中世~ 明治
  ◇東武野田線におけるグローバリゼーション
  ◇在日アフリカ人とHIV / AIDS
  ◇どんな事情でどんな商売を
 ◆「先進国」(南)アフリカ
  ◇ GNI の巨大さと人間開発指数の低さ
  ◇低開発への開発
  ◇成長と分配
  ◇「経済成長を通じた貧困削減」という空文句
  ◇人的資源の流出
  ◇方策について
 ◆社会運動の戦略・戦術
  ◇二つの流れ
  ◇ハイリゲンダムG8 サミット
  ◇両方が要る
  ◇市民社会セクターと国家セクターの相互乗り入れ
  ◇何をもう一つのものとするか
  ◇アフリカの条件・可能性
  ◇諸国にとってのアフリカ
  ◇腹くくればさほどでないこと
 ◆質疑応答
  ◇ターゲット/モビライズ…
  ◇傷/ウィリングネス
 ◆質疑応答2:アフリカにおけるゲイおよびゲイ・アクティビズムの状況
  ◇ナイジェリア/ガーナ/ウガンダ…
  ◇南アフリカの当事者運動
  ◇イスラム圏のゲイ
  ◇想像のゲイ共同体
  ◇南アフリカの当事者運動についての補足

稲場 雅紀 氏の紹介
1969 年生まれ。1995 年東京大学文学部東洋史学科卒業。現在アフリカ日本協議会事務局員を務める。
特別公開企画
立命館大学グローバルCOE プログラム 「生存学」創成拠点
アフリカ/世界に向かう
─稲場雅紀さんから
日時 2007 年7 月29 日(日)16:00~
会場 立命館大学衣笠キャンパス創思館303・304 教室
(立岩)どこから始めてもらってもいいんだけれども、僕、稲場さんと2 年くらい前? からかな。
(稲場)そうですね。
(立岩)知ってはいたんだけれど、やっぱりよくは知らず、最初はAJF の稲場さんっていう感じで。
(稲場)ええそうですね。
(立岩)メインは今日もそのアフリカの話、エイズの話になると思うんだけども、ただ、2、3 回、飲んだりした時に、その前に話してもらったことも含めて、あーこれでこれでこうなってああなって、ああそういうことなんだ、みたいなっていうのがあって、僕は新鮮だった部分があるんですよ。で、自分自身を語るのがそんなに好きでないにしても、さほど嫌いではないんだとすれば、AJF に至るっていうか、そのあたりから始めてもらってもいいのかな、と思いますが、いかがなものでしょう。
(稲場)はいはい、いいですよ。すみません、こんなにたくさんの方がいらっしゃるとは全然、つゆ思わずですね、3 人くらいでインタビューするものと、それでプラス1 人か2 人の方がいらっしゃるのかなあ、というイメージだったんですけどこんなにたくさんの方がいらっしゃって、しかもいろんな研究をされてる方が多いということで、非常に、こちらもまったく準備をしてなくて。
(立岩)今日はそれでいいんです、はい。
(稲場)で、適当なことを話すと思いますんで逆に、なんていうんでしょう、皆さんもそのつもりで、というかですね、別に準備してきた話をするんではないので、アラがあったりとかあるいは突き詰めがないところっていうのが非常に多いと思うので、そういう意味では、それを前提に聞いていたければ、あるいはいろいろ意見をもらえればっていうふうに思います。ということでよろしくお願いします。

◆稲場雅紀:その歴史

◇アフリカ日本協議会 2002 ─
 で、私がこれまで何をしてきたかっていう話ですけども。今アフリカ日本協議会に勤め始めてから、2002 年4 月に職員になって、もう早いものでもう5 年以上経っているということで。かなり時間が経っているわけなんです。
 で、この5 年間っていうのはアフリカというところ、そしてHIV /AIDS、保健分野というようなものを軸にしながら、各種の活動をしてきたわけなんです。アフリカに関しては、長いことたとえば1 年とか2 年とか長いこと行ったことは残念ながらなくてですね、いちばん長くてもせいぜい1 ヶ月とかそのくらいの時間で、ただ回数はそれなりに行っているという感じで。だいたい今まで行ったのが9 カ国なんですが、54 カ国もありますんで、6 分の1 しか行っていないというのがあります。しかも、英語圏中心で、仏語圏の国っていうのはつい最近まで仏語圏であったルワンダに1 回行っただけということですかね。そういう感じでアフリカというところと保健、もうひとつはHIV / AIDS にかかわる、市民活動であるとか、あるいはグローバルなポリシーのこととか、そういうこと中心に一つは活動してると。
 そして、あともう一つはこれAJF の財源にもかかわることなんですけども。アフリカにかかわる日本のNGO がだいたい合計で小さいものから大きいものまで含めて120 団体くらいあるわけなんです。で、アフリカでプロジェクトを持ってる団体は40 団体くらいあるわけなんですけども、そういうNGO のコーディネーションとか能力向上、キャパシティビルディング、とくに保健分野に関してHIV / AIDS やマラリアとかですね、そういったことに関して、あと、ポリシーとかアドボカシーの面で、日本の40 団体くらいある、国際保健協力のNGO のネットワーキング、そういったことをしてきています。日本のNGO、日本のいわゆる国際協力NGO 業界が、どういう課題に直面しているかとか、あるいは日本のそのアドボカシー、特に国際協力面でのアドボカシーっていうのが、どういう問題があるのかと、いうようなことに関してはかなり、それなりに考えさせられるというかですね、そういう状況にありました。
 あとHIV / AIDS にかかわるグローバルなアドボカシーの面で、G8 や、アフリカのポリシーの、アフリカのHIV / AIDS 問題あるいは、アジア、旧ソ連圏とか、あるいは中東といったようなところでのHIV / AIDS の問題とポリシーの、グローバルなHIV ポリシーに関して、いろいろな仕事をしてきました。それががこの間の仕事、あと、在日のアフリカ人とHIV /AIDS 保健ということもしてきまして。
 在日アフリカ人の人たちは日本に2 万か3 万人くらいいて、みなさんいろんな社会的・文化的・政治的な文脈の中で生活しています。非常に興味深い人たちです、そういう意味では。ほかのたとえばタイ人とかラテンアメリカ人の人たちも多くいるんですけど、在日アフリカ人というのはそもそも遠いと、遠いところから来ている、と、いうこととかでね、あと、そのたとえば日本でどういうかたちで定着していくのかっていうところの、ポリティクスとか、まあそういうところを見ていっても非常に興味深いっていうのが、あるわけで、社会学をやっている方には非常に興味深い点だと思いますけど、まあこういったところの仕事をしてきた、というのがあります。
 これが私がこの2002 年からやっている仕事の概要という感じかな、というふうに思いますのでこの概要にかかわる部分について、どんどん聞いていただけるといいのかな、というふうに思っています。

◇アカー 1991 ─
 で、アフリカ日本協議会になんで来たのか、ということなんですが、私自身は援助関係者とか、あるいはいわゆる国際協力っていうようなことに関して、関心を常に持っていたというわけではないんです。わたしがその前に、「動くゲイとレズビアンの会(アカー)」というですね、大学、学問の世界という点では、河口和也さんなどが在籍している団体なんです。アカーという団体でアドボカシー・ディレクターっていう仕事をしていました。私はゲイなんですけれども、このアドボカシー・ディレクターっていう仕事は基本的に異性愛社会向け、ヘテロセクシャルな社会向けにメッセージを発出したり、あるいは政策を提言したり、そういういわゆるどちらかというと対外的な、コミュニティに対する仕事ではなくて異性愛社会に向けて、さっき〔はじまりの立岩による紹介で〕特攻隊長みたいなっておっしゃってましたけど(笑)、異性愛社会に向けてあの、こうタマを投げる仕事ですね。そういう仕事をかなり中心的にやってきました。
 91 年に私はアカーに参加したわけですね。まだその頃は大学生だったんですが、91 年にアカーに参加をして、参加したところ、社会運動経験とか学生運動経験があるということで突然「府中青年の家の裁判」★の、裁判闘争本部会というのに投げ込まれてですね、非常に苦労をさせられたんですが、いちおうその、同性愛者の権利というものを、異性愛社会に向けて主張するということを、何年間か、つまりその91 年から2002 年くらいまで、その間やってきたわけなんですね。

★この裁判については藤谷祐太「府中青年の家事件」(http://www.arsvi.com/d/g021990.htm)。
 で、その府中青年の家裁判を91 年から97 年までの7 年間やってきて、これは勝訴に終わって、これは勝ててよかったわけですけども、その後は人権ということでいうと、一つは東京都の人権政策にかかわる指針というのがあったり、あるいはまだいまだに可決をされていない人権擁護法案というのがあってですね、この人権擁護法案に関しては、私としてはですね、21 世紀になるまでにいわゆる同性愛者、性的指向に関する差別の禁止というのを盛り込んだ法律を作るというのが私のビジョンだったわけですが、法案に盛り込まれたのはいいんですが、いつまでも可決されない。未だに可決されていないという。しかも可決されない理由が二転三転なんです。最初はこんな人権擁護法案では生ぬるい、っていうことで可決されなかったんです、民主党が反対して。ところが、だんだん自民党のすごい極右派の人たちの力が強くなってきて、こんな法案を可決したら国籍条法がないので朝鮮総連の人たちが皆人権擁護委員になるので、日本人が拉致被害者救済の運動や北朝鮮を糾弾する運動ができなくなる、などという、わけのわからない理屈でですね、可決されなくなってしまったと。で、そっちが出てきたらもう今後は可決されないんじゃないかな、っていうことで、私が99 年から2001 年、やった努力はどうなるんだっていう、「私の時間を返してくれ」みたいな話なんですけど(笑)、いちおう、人権の分野ではそういうことをやってきました。

◇横浜エイズ会議、アフリカ日本協議会 1994 ─
 あと、HIV / AIDS の文脈で94 年に横浜エイズ会議というのがありまして、で、この横浜エイズ会議以降HIV / AIDS のことをしっかりやらなきゃいけないという状況になったわけです。あともう一つはやはりそのアカーの中でもそのHIV 感染者の会員が何人かおりまして、そしてどういうふうにHIV / AIDS の問題を考えていくのか、という、これはもう90 年代入ってすぐにその課題が出てきたわけですし、また、そのアカーの創立80 年代の中盤以降の、エイズ予防法の問題とかですね、そういった流れの中ではHIV / AIDS の問題と人権の問題とかですね、HIV / AIDS とゲイ・レズビアン解放の問題っていうのは切っても切れない関係にあるんだということでエイズの問題っていうのは常に、あったわけですけども、94 年の横浜エイズ会議以降なんですが、特にそのアジア、東南アジアや南アジア地域におけるゲイ・レズビアンの運動っていうのがHIV / AIDS の問題に取り組むということを基軸としてですね、かなりこう拡大してゆく、という方向性が出てきたわけなんです。
 この東南アジアや南アジアの運動とどうやって日本のゲイ・レズビアンの運動が連携するのかという観点で、特にアジア太平洋のエイズ会議というのが2 年に1 回、95 年から、2 年に1 回東南アジア各地で開かれていったわけなんですが、この会議を軸にしてどうやって東南アジアや南アジアのHIV/ AIDS とかかわるゲイ・レズビアンの運動を強化してゆくかという観点で、国際的な活動っていうものに参加してゆく、という契機があったわけです。
 あと、もう一つは東南アジア、南アジアのこの運動に取り組む中でですね、もう一つは欧米におけるラディカルなエイズ・アクティビズムというものが存在していて、この欧米におけるラディカリズムとアジア・太平洋のゲイ・レズビアンの運動っていうのがやっぱりいろんな意味で結びついてる、と。そういう中でグローバルなエイズという問題について考える機会というのがとくに増えていったわけです。
 で、ちょうどいろいろアカーの組織的な問題等もあってですね、私自身は21 世紀に入ってなんとかもうちょっと別のことをしたいというふうに思っていく中で、そこにもともと私が知り合いであった斉藤龍一郎さんという方がいらっしゃってですね、ご紹介もあったかと思うんですけども、私はその大学時代にアカーに入る前は、学生運動、いわゆる無党派の左派の学生運動ですね、ノンセクトラディカルの学生運動とそれとかかわるいろいろな社会運動に学生としてコミットしていた経緯があってですね、で斉藤さんはある脳性まひの障害者の人がいて、脳性まひの障害者の人がいてこの人の介護の交替がちょうど斉藤さんが夜入って、私が昼に入るという感じで、斉藤さんについては知ってはいたんですね。で、ただ、アフリカのことをやってる人だっていうことは知らなくてですね。私は、この人はものすごく古株のノンセクト・ラディカルの、きわめて過激な活動家に違いないとか思って、ま、怖がっていたんですが(笑)、実際にはそうでないことが後でわかりましてですね。
 それで彼が、今アフリカのことをやっていると、アフリカ文学からアフリカに触れたっていう人なんですけども。彼がですね、今、特に林さん、ご紹介があった林達雄★さんがエイズ治療薬とアドボカシー、あるいはエイズ治療薬の価格の問題で、しっかりグローバルエイズにコミットしたい、ということを言っている、ということで、この分野に詳しい人が必要だということだったわけですね。

★ アフリカ日本協議会代表。医師。このCOE 企画で立命館大学特別招聘教授。→林達雄 http://www.arsvi.com/w/ht09.htm
 私自身はそういう引きがあったのでこれ幸いとそちらのほうにですね移ったわけなんですが、それがだいたい2001 年くらいのことなんですね。
 ですので、そのグローバルエイズの問題というところで、こう接点があってそこでしっかりですねやっていかなきゃいけない、っていうところでアフリカ日本協議会へ移ったということになります。

◇難民申請裁判 2000 ─
 ただひとつ問題としてあったのは、ちょうど2000 年にですね、イラン人のゲイの人で、難民申請をするというケースがひとつありましてですね、その人が、難民申請を99 年にしようと思ったんですが、ところが彼がUNHCR(The Offi ce of the UN High Commissioner for Refugees= 国連難民高等弁務官事務所)に行ったらですね、難民申請というのは最初は法務省にするものであると言われてUNHCR ではあんまりサポートしてくれなかったんですね。で、法務省に行くのはいいけど収容されたり強制送還は困るなあということで、弁護士さん、別の弁護士さんに相談をしたら、難民申請なんていうものは1 年に1 人しか承認されないんで、実際、当時はそうだったのですが、あなたは止めた方がいい、と言われて難民申請を結局しなかった。
 そしたら翌年2000 年の4 月に彼は出入国管理法違反で捕まってしまって、そしてその後あたふたと難民申請をし、なおかつ裁判をしないとイランに強制送還されてしまうということで、その支援グループを立ち上げて裁判をしなきゃいけないっていう事情があったわけなんです。
 それがちょうどアカーとAJF のちょうど間に挟まっているんです。2000年にそういった問題があるので、アカーとは別のところに、彼の支援グループをセクシュアルマイノリティ中心で作って、あと彼の関係していた外国人の労働運動をやっている人たち、この辺を合わせてですね、作ってこの在留権の裁判をするということが、これが5 年間もかかった。
 ということで2000 年から2005 年までの間この事件をやらなきゃいけなかったということがありました。
 彼は、結局一審二審とも負けたんですが、最終的にUNHCR がですね、スウェーデンに交渉しっかりしてですね、スウェーデン政府が彼に永住権を発行するということで、スウェーデンに移住することができた。
 最終的にはハッピーエンドで終わったわけなんですけども、この5 年間、ひとつはAJF をやりながらこちらの裁判闘争もしないといけない、というような状況で、こういった難民問題に関するかかわり、あともうひとつは日本の在留資格とか入管難民法の問題ということに関しても取り組んだ経緯があります。そういうようなかたちでアカーというのが91 年から2002 年くらいまでの間、ゲイの問題、日本のゲイ解放運動ということをやってきたと。今はですね、自分はゲイでしっかりやらなきゃいけないとは思っているんですが、その点に関しては現状でAJF がちょっと多忙すぎるのであまりやっていないんですね。その問題に関してきちんと取り組んでいないという、ある意味、ちょっと今、参院選に候補が出ていたりとかいろんな動きがあるわけなんですけども、そちらのほうには充分にはコミットできていないわけです。
 ただ、いちおうアフリカに行ったときはゲイの団体に会うようにはしていてですね、たとえばナイジェリア、ガーナ、南アフリカ、ケニア、それ以外どこだろう、そういったところのゲイの団体とはそれなりの、あとウガンダですね、それなりの密接な連携というかですね、それなりの人脈とか、あと彼らのぶつかっている問題っていうのはどういうことなのかということに関する情報収集はいちおうしています。
 いちおうそれが、アカーからアフリカ日本協議会へという流れということですね。

◇寿町・大学 1988 ─
 で、その前なんですが、大学に入ってからですね、大学の無党派の左派の運動っていうのを、そういう運動が強い大学でしたので、でなおかつその、そういう運動に対する、何ていうんでしょうね、他党派の暴力的な介入とかっていうのは必ずしもない大学だったので、そういう意味ではやりやすい大学だったわけなんですね。その中で、いろいろな社会運動に参加をするということをしてきた、ということですね。
 ま、いちおうそういう経緯の中でいろいろな問題意識を持っていたというのが最初のとっかかりのところで、そこの中で一番大きな運動として自分が直面したのは、横浜の寿町というですね日雇い労働運動があったわけなんですけども、その横浜のですね、寿日雇い労働者組合という、日雇い労働者の労働組合の医療班というところにかかわって、その医療班の月例の医療相談とかですね、あと年末年始の集中的な医療活動ということをコーディネイトする立場に、彼らも実際人材が充分にいないので、そういうところにかかわるとですね、実際マネージメントをすることになるわけなんですね。
 で、マネージメントをしっかりしたという、その辺をする中で横浜市との交渉とかですね、そういう関係で行政交渉のやり方とかですね、そういったことをじかに学んでいったという経緯はあったかと思います。そういう意味で、その最初に大学のいろいろな運動の中からその寿町の日雇い労働運動と医療運動に直面をしてですね、ここの経験があるので。
 ここっていうのは特に年末年始っていうのは言ってみれば、緊急救援なんですね。基本的に難民キャンプにおける緊急救援とある意味非常によく似た仕事をしなきゃいけないです。つまり、年末年始になるとあちこちの工事現場に散らばっていた人たちが、そこの寮とかが閉鎖になるので全部その寿町とかに集中してくるわけなんです。何千人という人たちがそこに来るわけです。
 彼らは非常に多くの健康問題、アルコール依存をはじめ、様々な慢性疾患、成人病、精神疾患といった様々な問題や結核の問題とか、そういった問題を全部持って寿町に帰ってくるわけですね。ですので、非常にある意味緊急救援的なプロジェクトになってくるわけなんです。まあ、そこの経験をしていたので、自分としては緊急救援の仕事はしたことないんだけども、逆にアフリカ日本協議会に参加してですね、開発の現場、開発あるいは緊急救援の現場に行ってる人たちと話をすることもよくあるんですが、そういう意味ではそこでけっこういろんなことをやっていたことが、ある意味はったりをかませるという意味で非常に役に立っているというふうには言えるかな、というふうに思います。
 そういう意味で、その横浜が原点としてあって、それで動くゲイとレズビアンの会の運動っていうのがあって、そしてHIV / AIDS を、アフリカ日本協議会というところに移っていったという経緯かな、っていうことですね。ま、今はだからそういうことで国際協力のことをやってるわけですけども、いわゆる援助関係者が持っている、いわゆる知の体系とは全く異なった意味でのそのいわゆる実践、あるいはいわゆる知見を組み立てるというそういうことをしてきたので、その意味でのこちらとしてのいろんなものを投げるということはできているのかな、っていうふうには思っている感じです。ちょっと長くなって、すみません。
(立岩)いやいや、もっと長くていいんです。寿町にかかわってたのは何年くらいから何年くらいまでなんですか?
(稲場)寿町にかかわってたのは89 年末くらいから、とくにいわゆる寿日雇労働者組合の医療班のマネージメントにかかわったのは89 年の終わるくらいから95 年、6 年くらいまでですかね。かなり重なっちゃう、クロスオーバーしてるんです。だからそれをマネージメントするのは非常に大変でしたね。年末年始っていうのはとくに動くゲイとレズビアンの会は年末年始合宿というものをやるっていうのがあってですね、そっちに行かなきゃいけないんですね。で、日程調整とかが非常に苦労しましたけど。日程上の問題で。
(立岩)いちおう大学は出たんですよね。
(稲場)大学出ましたよ。はい、出てます。
(立岩)よけいにいて、出たんですか。
(稲場)3 年間よけいにいました。大学入ったのが88 年で、95 年に出てますね。あの阪神大震災があって、オウム真理教事件があった年に出たわけです。だから7 年間大学にいたんですが、あんまり大学にいたというイメージではないですね。ただ、大学、勉強にはなったんですね。というのは東洋史学科という学科に行って、もう卒業はもう無理かなあとは思ってたんですけど、非常に良い先生方が実は多い学科でありましてですね、東南アジアのいわゆる特に近代史とか、あるいはその東南アジアのその歴史学を勉強する中で、特に東南アジアっていうのはそういう文献とかが必ずしも充分残ってなかったり、あるいは、たとえばインド文明とかそういう特定の文明の、こうなんていうの、いろんなある意味辺境地帯であるがゆえにいろんなその文明の交差点になっている地域であって、そういうところにおけるいわゆる歴史学調査というものをどういうふうにする必要があるのか、でさらにその社会における歴史っていうものをどう聞いていく必要があるのかということを、かなり集中的に教えてくれる、まあとてもよい先生がいらっしゃいましてですね、その授業は大変ためになりましたね。そういう意味では大学を出て、良かったなと思ってる(笑)っていう感じなんですけどね。
(立岩)あぁ、そうなんだ。で、『現代思想』に原稿、書かれてるの、あれ2002 年くらい?
(稲場)あれは2002 年ですね、一度だけ書いてますね★。

★稲場 雅紀 20021101 「難民たちの「拒絶の意志」は誰にも止められない─「ニッポンノミライ」を治者の視点から読み解かないために」, 『現代思想』30-13(2002-11)(特集:難民とは誰か)
(立岩)さっきのイランの人の、難民の話のことを書いた?
(稲場)そうですね。
(立岩)ですね。いろんなことにかかわってこられた。なんていうかな、90年代とか、その時期のいろんな文脈っていうのは、またそれなりに話を後でしたいなと思うんですけども。斉藤龍一郎も、それから僕も、それから稲場さんも、同じキャンパスにいたことはいたはずなんですけども、みんな学校に行かなかったせいかどうかわかりませんが、学校で会ったことないですね。あるいは、時期がね、斉藤さんはたしか僕よか五つくらい上。
(稲場)彼72 年か3 年に入って78 年か9 年に出てる。
(立岩)じゃもっと上か、まいいや。
(稲場)わかんないですけど★

★斉藤龍一郎の生年は1955 年、立岩は1960 年、稲場は1969 年。
(立岩)ちょうどこう行き違い、入れ違いみたいにはなっていて。
(稲場)うん、そうですね。
(立岩)その10 年後とか20 年後とかにまあ、なんかたまたまというかこんな感じで今これやってるっていうか、まあそういった人たちではありますよね。ふーん。
 そのへんのことで、ここの院生だと藤谷とかね、そっち(府中青年の家裁判等)の方をむしろ聞きたいって人もいるわけだけれども、今日はどっちかっていうとアフリカ側、雑誌の特集ってこともあるんでね、そっちの方に行こうと思うけれども。

◆アフリカと日本: 歴史と現在
◇歴史:中世~ 明治
(立岩)なんかすごくざっくりした聞き方で、質問にもなってないんだけれども、エイズっていう話からいってもいいですし、それからアフリカの貧困っていうふうにいってもいいし、それは本当にお好きな方からってことでいいですけども…、なんていうんだろう、アフリカっていうとなんか大変、みたいなのがあるわけじゃないですか。それはそれで別に間違いではないと。間違いではないんだけれども、でもそこをどういうふうに正確にっていうか、捉えるのかっていうことが難しいように思うんですね。やっぱりほとんど、僕らのところにアフリカの情報なんて入ってこないわけじゃないですか。ワールドカップでね、ガーナがとかさ、それくらいのことは時々あるけれども。
 日本だと中南米とか、アフリカの話とかほんとにほとんど入ってこない。それは多分、ヨーロッパなんかと比べても違うだろうしアメリカ合衆国と比べても違うんだろう、と思うんですよ。だからそもそも絶対的な情報が欠乏してるっていうこともあり、であるがゆえにと言うか、言ってみれば何も知らないってこともあるわけだけども、ま、それを初歩からっていうのも厄介だけれども、端的に、端的にっていうかまあアフリカの今の、置かれている状況っていう、いろんな思惑でそこにいわゆる先進国が、中国だったり、合衆国だったりそういうところが絡んできているわけですよね。そんな話も後のほうに置いていただくとしてですね、非常にざっくりした質問になってしまうわけだけれども、アフリカ、エイズ、貧困を絡めていった時に、どういうふうにこれは見んとあかんのや、っていうあたり…からだんだん入っていっていただきましょうかね。
(稲場)あのアフリカについて何から話すのか、これ非常に難しくてですね、何ていうんでしょうね、どうしたものかなあっていうのがあるんですけども、そうですね、どこから話せばいいのかなあ。アフリカと日本はほとんど関係がない、と思っている人方も多いと思いますので、アフリカと日本の繋がりみたいなところから話をするほうがいいのか。そういうところから、実験的に始めてみたいと思います。アフリカに最初に行った日本人─当時日本人というナショナルなまとまりははっきりしなかったと思いますが─は、記録に残っている限り、中世、戦国時代にローマに行ったキリスト教の使節団です。たとえば有名な天正遣欧少年使節は、南部アフリカのモザンビーク島などを通ってローマに行っています。五〇〇年くらい前ですが、当時はスエズ運河などまだありません。ぐるっと廻っていく。その方法を見つけたのがベルトロメウ・ディアスやバスコ・ダ= ガマでした。その彼らが開拓したルートを逆に辿って行くわけです。モザンビークに行って、モザンビークから南アフリカを通ってヨーロッパに行く。これが最初なんですね。ですからあの彼らの記録の中にモザンビークの話とかが出ていて、嵐などでそこに1 ヶ月もいた、というようなことも書かれていま。モザンビーク島は世界遺産でですね、ポルトガルが作ったお城とかいうものがまだしっかり残っているんですが、日本人で最初に行ったのはその人たちである、というのがまずあるんですね。
 そこから鎖国時代を経て、その後近代になってアフリカに一番最初に足を踏み入れた人たちについてですが、これは非常に特徴的です。もう亡くなってしまった白石顕二さんという、アフリカの映画をフォーカスして「東京アフリカ映画祭」というのを九〇年代中盤くらいから仕掛けていった人がいるのですが、この白石さんが『ザンジバルの娘子軍(からゆきさん)』(社会思想社現代教養文庫「ベスト・ノンフィクション」、1995 年)という本を書いています★。

★ 初版は1981 年。白石 顕二 1981『ザンジバルの娘子軍』, 冬樹社.
 だいたい江戸時代の後半から明治時代の頭くらいにかけて、遠洋漁業の人たちがケープタウンとかあの辺まで行くというそういう流れがあります。その本によると、その遠洋漁業の人たちをかなり追っかけるかたちでセックスワーカーの人たちが、まずシンガポールに進出をし、そこからタンザニアの沖合いにあるザンジバル島や南アフリカのケープタウンに進出したという経緯があったのだそうです。これらの人々は、50 年、60 年もの間、これらアフリカの港町でセックス・ワークやサービス業を営み、その生き残りの人が昭和40 年代くらいに日本に帰国するということがあって、そのドキュメントをその白石さんが書いたわけなんですね。つまり、日本人のセックスワーカーグループの拠点が明治にはすでにシンガポールにはあって、そこから拡散する形でザンジバルには明治中期くらいにはかなりの数の日本人のセックスワーカーが住んでいるという状況だったらしいんですね。アフリカと関係を持った日本人は、国際協力のNGO や、商社だけではなく、そういった一般の人々が、経済の流れの中でアフリカと接点を持っているわけです。この意味で、「遠い」ことは「関係がない」ことを意味しません。
 また逆の話として、アフリカの、アフリカ出身のモザンビーク人とかですね南アの人たち、南アの黒人が逆に当時のインドネシアやタイを通じてですね、日本に入っていくケースというのがですね、戦国時代、室町後期から戦国時代あたりまであったわけです。ですから織田信長の有名な家来の1 人に黒人の人がいたっていう話がありますが、そういう意味でもやっぱりそのグローバリズムっていうのは基本的にはその15 世紀から進行している話ですので、そういう意味で、世界の流れ、その中でアフリカといわゆる日本の関係というのもそのころからもうすでに存在はしているわけなんですね。

◇東武野田線におけるグローバリゼーション
 で、そういう流れの中で歴史的な流れっていうものはいちおうおさえなきゃいけないというのがひとつあるわけです。それと直接につなげるのはちょっと無理があるかもしれませんけど、現代になってみると、たとえばケニアとかウガンダとか多くのアフリカ諸国の中で一番よく見かける自動車っていうのは日本車の中古車なんですね。ケニア、ウガンダなんかで見ると、日本車の中古車のシェアっていうのは9 割以上に及ぶと。最近は中国のバイクとか入って来ていますけども、バイクなんかにしても日本のバイクでいわゆるそのスーパーカブとかがですね、バイクタクシーとして活躍をしているわけです。で、その日本の自動車を仕入れて売るっていういわゆる輸出業にですね、アフリカの人たちは多くかかわっていて、その関係で日本にも多くのアフリカ人のビジネスマンっていうかですね、いわゆる中古車販売にかかわるアフリカ人の人たちが来て、実際に茨城県とか埼玉県の東部とかの土地の安いところでヤードを作ってですね、そこで車を解体して部品にしてコンテナに入れてっていうそういう作業を彼らはしてるんですね。
 だからたとえばこの前非常に面白かったのは、カメルーンの人たちが千人くらい茨城、埼玉、千葉にいるわけです。この千人の人たちに対してHIV啓発をするニーズがあって向こうの活動家を呼んでですね、いろいろまわったりとかしたんですけども、非常に興味深いのは、そういうヤードを持ってる社長がですね、つまり有限会社を設立してヤードを持ってるカメルーン人の社長っていうのがもう10 人とか20 人の数で存在するわけです。で、彼らは自分たちのことを日本語で「社長」って呼んでるわけですね。それで、こうパーティとかなんかやると、こうなんか社長同士とかだとか「社長」ってこうやって握手してですね、こうやってると。それでさらに面白いのは彼らはミスターの代わりに社長を使うんですね。次はシャチョー・ハリスのスピーチって。で、シャチョー・ハリスがスピーチして、次はシャチョー・リチャードを出して…(笑)
 彼らはミスターの代わりに社長をつかってやってる、と。けっこうそういう意味では日本の中小企業のオヤジとかがどういうふうにビールを注ぎあってるとかですね、そういう文化を社長同士で学びあってですね、いかにもスナックで日本の社長とかがやるような振る舞いをコピーしてやってると。これ非常に面白いなと思って楽しく拝見させていただいたんですが。
 あとはですね、実際本当にグローバリズムっていうのを感じる時っていうのがあるのは、たとえば彼らの車に乗せてもらって東武野田線の野田市の隣の駅のあたりから茨城のほうにこう自分の宿のところにって連れてってもらうわけですけど、巨大なワンボックスカーにカメルーン人が5 人くらい乗っててですね、それで私だけ1 人日本人で、カメルーンとは何の関係もないような田んぼとか畑が広がっていて、なんか雑木林とかがある、まったく純日本的なところをカメルーン人だけが乗ってる車でとばすと。いう感じの大変興味深い風景なわけですよ。
 実際その在日カメルーン人協会のミーティングとかも春日部市の公園とかでやってるわけですけど、30 人くらいのカメルーン人が夕方くらいに三々五々集まってですねそれで英語とかフランス語とかで話をしてるわけですが、なんでそんな、こんな公園なんかにアフリカ人が30 人も、それもカメルーンの人しかいないわけですから、非常に変な話なわけですね。ところがその春日部市っていう文脈ってのはそもそも、特にその埼玉東部とか茨城西南部とかですね、千葉西北部っていう地域とかは国際、いわゆる自治体の国際化っていうのが一番遅れてるところなんですね。行政がそういうことを考える必要がないと思っている。ところが、東武線沿線っていうのが家賃や地価が非常に安いがゆえにですね、多くのカメルーン人が、カメルーン人だけじゃないナイジェリア人もいる、そういう人たちが集中的に住んでいて、彼らは自動車の中古車の部品を、中古車を壊して部品を作って輸出するという仕事にしっかり携わっているわけなんです。

◇在日アフリカ人とHIV / AIDS
 それがなんでAJF のHIV / AIDS の仕事と結びつくか、ってことですが、これはですね、非常に大きな問題としてあったのが、その自動車の中古自動車の部品を扱う人たちの中に、カメルーンと日本を移動しながら部品の買い付けに当たるいわゆるバイヤーの人たちがいるわけです。この人たちがやっぱりそれなりの資本を持っていて日本に買い付けに来て、これだけ買うとかやってですね、輸出して、それで実際カメルーン最大の港町であるドゥアラに陸揚げして、支店を開いて、部品販売をするわけです。こういういわゆる買い付け師の間でHIV の感染が拡大したわけですね。で、彼らはやっぱり個人営業的にやってるので競い合いの世界なわけですよ。つまり自分が病気だとかそういうことになると他人に蹴落とされるので、病気でもかんばってやんなきゃいけないと。そういうような状況の中でですね、どうしてもHIV / AIDS ってことを自覚したくないっていうのがこれ当然あるわけなんですね。
 で、いろんな病気があるにもかかわらず自分が大丈夫だって言ってそれで日本に来て、で日本で死んじゃったりするんですね。そういうケースがたとえば去年2 件あったと。彼らはキリスト教徒ですから遺体を燃やすことはできないので、遺体をそのままで冷蔵して向こうに返さなきゃいけない。これにすごいコストがかかる。200 万円とかかかるわけなんです。で、このコストを皆でカンパをしあって集めて組織的に200 万円集めて、そして遺体を送らなきゃいけないっていう、これが彼らの信仰上の任務なんでやるわけですね。で、イスラム教徒も含めてやるわけですけども、そのコストが非常にかかるということと。
 あともう一つは、やっぱりそういうかたちで仲間が死んでいくっていうのは非常に辛いと。そういう中でこのHIV / AIDS の問題をちゃんと啓発しなきゃいけないっていうところで、向こうのですね、HIV 感染者、HIV 感染して彼はもう20 年ぐらいになるすごい古株のカメルーンの活動家で、アフリカのHIV 感染者の運動、ネットワークを作った人がカメルーン人の活動家でいるわけですけど、彼はそのへん非常にアウェアーでですね、これやんなきゃいけないと思っていたわけですね。それで日本に、彼を呼ぼうっていうことで在日カメルーン人協会とAJF とが連携して、それで彼を招聘するということをしたわけなんですけども。なんとその彼がですね、94 年に横浜エイズ会議に来ていた人なんですね。そういう意味でグローバルなエイズアドボカシーと、こういった関係という非常に共通するというかですね、上手く重なることっていうのもあるんだなというふうに思いましたけれども。
 今話したことは何かと言うと、アフリカと日本はいかに遠いといっても、実際には否応なしにグローバル化の中で密接に結びついている。なんとかビジネスチャンスをものにしたいというカメルーン人や、ナイジェリア人といった人たちが、喰らいつく形で日本に住み着き、会社を設立し、ビジネスの実績を作っている。カメルーンやナイジェリアというのは、実は、日本から見ると、アフリカの中で関係が濃い方の国ではありません。せいぜい、サッカーとか。最近はナイジェリア人の芸能人がテレビで大活躍していますが、基本的には、「日・ナ関係」というのはあまり強くはありません。ところが、向こうのアフリカの人たちの方は、日本車という経済的なメリットをきちんと位置づけて、喰らいつくようにして来ている。

◇どんな事情でどんな商売を
 さらに加えれば、どんどんディテールに入っていくとよくないんですけども、このカメルーン人の人たちが来ているカメルーンの地域っていうのは、カメルーンというのはですね旧英領の地域と旧仏領の地域が合体して出来た国で、旧英領の地域はわずか2 州しかないんですね。カメルーンはギニア湾の最奥に、直角三角形という感じで存在しているのですが、その斜辺の部分にちょっと飛び出ているわずかの地域が英領地域です。このカメルーンという国は基本的に旧仏領の地域出身者が支配しています。もともとは対等な立場で合併してカメルーン連邦共和国としてできたものを、後で旧仏領出身の大統領が、連邦制をやめて、英領の地域を暴力的に併合してしまった。その中で旧仏領の地域の人たちが政府・権力の権限を全部握っている。逆に、英領地域の人たちは権力から疎外されているがビジネスはできる人たちです。この人たちが成功するためには、とにかくビジネスでやっていかなくてはいけない。その中で、日本で会社を作って輸出に携わるというのが中産階級の上位くらいの、ある意味エリート階層の中でひとつの成功のスタイルとしてあるんです。つまり、彼らは自分の国での権力に預かれないという問題を抱えているために、なんとかこの国際的に成功するというステイタスを得たいわけです。
 そして彼らは旧英領なので英語が喋れる。さらに一定の高等教育を受けるためには大学は旧仏領カメルーンにある、首都のヤウンデ大学に行く、そうするとフランス語も喋れるんですね。彼らは英語もフランス語も喋れる人たちなわけです。非常に興味深いところなんですが、実際その春日部市の公園で在日カメルーン人協会がミーティングをしているのを聞くと、だいたい基本的には英語で喋ってるんですけど、中にフランス領の地域から来た人がいて彼らはフランス語で喋るんですね。で、英語とフランス語がちゃんぽんになって、それで誰も困ってないっていう、そういう非常に多言語、しかも彼らはだいたい北西部州という、同じ州の出身の人たちが多いのだけれども、民族語がたくさんあるもんだから、やっぱり英語で喋らないと民族語では通じないってことがあるわけですね。
 それで、出身地から数万キロを隔てた春日部市で、英語とフランス語のバイリンガルの会議を公園に集まってやっているという、非常に興味深い姿があるわけです。そういう意味で、日本とアフリカの関係というのは、グローバリズムのいわば最先端ともいえると思います。インフォーマルセクターのビジネスが国境を越えて、英領カメルーン地域の中産階級が、のし上がるために日本に来る。そういうパワーを彼らはしっかり持っているわけなんですね。
 まあ、そういう意味で非常にこう何ていうんでしょうね、日本とアフリカの関係っていうのはグローバルなものがあると。そういうことを考えると、日本とアフリカの関係において距離とか歴史的な関係の浅さというのは実は障壁としては重要ではなくて、逆に言うと、「のし上がる」必要のない日本人の方があまり考えてないというだけの話だというふうに言えるかもしれません。
(立岩)やあ面白かったけど、今その、2 万人とか3 万人って言いましたっけ。日本在住のアフリカの人って、まあ、そういう1000 人くらい、カメルーンの人…そういう感じの、商売してる…。他はいろいろって感じですか?
(稲場)そうですね、あと、ナイジェリア人も同じような仕事してる人が多いんですけど、あともうひとつはナイジェリア人は、都市の風俗産業に非常に進出をしている、と。これは非常に興味深い話なんですね。たとえば六本木とかで客引きをしているナイジェリア人っていうのはすごくたくさんいる。東京に行かれて六本木に行くとびっくりすると思いますけど、やたらアフリカ人が客引きをしているわけですね。で、その多くはナイジェリアのある一部の地方出身の人たちなんですけども、彼ら、日本人が経営する風俗、いわゆるそのクラブとかですねあるいは実際の風俗産業の経営、なんていうの、その客引き員としている場合と、ナイジェリア人が社長をやっているセックス産業とかあるわけです、セックス産業っていうか、いわゆる何ていうんでしょうね、その…ナイジェリア人が社長をしていて、たとえばナイジェリアマフィアとロシアマフィアの関係の中で人身売買で、ロシア人のセックスワーカーがたくさん来ていて、ナイジェリア人が社長、ウクライナ人やロシア人はいわゆるそのセックスワーカーとして働き、日本人が事務員をしている、そういうバーとかですね、クラブっていうのが六本木にはけっこうあったり、あるいは歌舞伎町にもあるわけですね。
 ナイジェリア人の場合は、そういうかたちでその…何ていうんでしょうね、自動車輸出にかかわる人たちと、もうひとつはそういうかたちで風俗産業の経営とかその客引きにかかわる人たちっていうのが、かなりいるわけなんですね。他の民族でこういう動き方をする人たちはあまりいない。在日のアフリカ人の顕著な特徴は、オーナーシップです。日本の工場などで出稼ぎで働く人たちもいないわけではないですが、どちらかというと、アフリカ人がオーナーシップをもって日本で会社を作る形で存在し、そこに、同郷、同民族のアフリカ人たちが集まってくる、という形です。これは、実際向こうの中でもそれなりに資金のある層が日本に来てるという経緯もあることもあるとは思いますが。
 あとはもちろん工場で働いてる人たちもいますけれども、まあ、そんなに多くはないと。やっぱりその多数派であるところのガーナ人、カメルーン人、ナイジェリア人というような人たちは自動車輸出か、もしくはそういう風俗産業、客引き系、っていうようなところで仕事をしている、かなり自営業系の人たちが多い。ここは非常に他の民族なり、アジア人の日本に来ている人たちとかなり違う、という…。
(立岩)アジアとも違うし中南米っていうのとも違う。
(稲場)ちがいますね。

◆「先進国」(南)アフリカ
◇ GNI の巨大さと人間開発指数の低さ
(立岩)へー、その話またあとで聞きたいと思う。で、ちょっとなんかガラっといっぺん、アフリカはアフリカの話なんだけど、ちょっと戻して違う話に行くとね、この間栗原さん(『現代思想』編集部)と稲場さんと(アフリカ日本協議会の総会の後)後楽園で飲んでて、南アフリカの話になって、南アフリカは世界で一番の先進国だみたいな、そういう話があったじゃないですか。
(稲場)はいはい、そうですね。
(立岩)で、聞いて、そうかなっていうか、そうだなって思ったんだけど、その辺の話を繰り返しつつ、もうちょい先の方にちょっと行けたらなあと思うんだけど、そっち行ってみましょうか。
(稲場)今の在日アフリカ人の話というのは、基本的に、グローバリズムの一端というものを象徴的に表している話です。つまり、日本人の側は、日本とアフリカ、日本とカメルーンなんてほとんど関係がないと思っている。ところが、実は、在日カメルーン人から見れば、日本は非常に深い関係をもって、大きなものとして存在している。アフリカ側の強力な経済的な意思があって、新しいつながりができてきている。そのひとつの例としてその在日アフリカ人の話をしたわけです。南アフリカの話は、これとは別の意味でのグローバリズムの現れとしてお話しできるかもしれません。
 南アフリカ共和国っていうのは、ある意味非常に興味深い国なんですね。というのは南アフリカ共和国の世界におけるGNI、国民総所得、これは国民総生産、GNP と同じですが、これが何位かって見ると27 位なんですね。非常に高いわけです。つまりミドルパワーからもうちょっと上くらい。今のところ一人当たり国民所得で見ると、世界銀行の分類では、まだ高中所得国なんですが、高中所得国の中でも上に位置する国なわけですね。で、もうすぐ高所得国になる。そういう意味でその27 位、調整していないGNI で27位なんですね。これを購買力平価のGDP でみると21 位まで上がるんです。つまり経済的には非常に大きな国である。
 ところが、国連開発計画(UNDP)のいわゆる人間開発指数(HDI)─これはたとえば教育や保健の各種の数値、乳児死亡率とか妊産婦死亡率などを計算して一つの指数にしたものなんですが、これで見るとですね、この国は121 位なんですね。つまり、GDP なりGNI の経済的な巨大な、いわゆる経済的などのくらいのものを生産してるかということでいうと相当高い国になるわけですが、ところが、1 人当たりのいわゆる人間開発指数で見ると、100 位ぐらい落ちてしまう。それでも、アフリカ諸国の中では上のほうに位置することにはなっていますが、それでも非常に低い。これだけ格差がある、つまりその格差があるっていうのは経済的な格差っていうよりも、GNI の巨大さと人間開発指数の低さっていうことがここまで差がある国って言うのは、南アフリカ共和国だけなんですね。
 もちろんブラジルとかですね、あるいはグァテマラのようなGNI と人間開発指数を比較したときに、相当な格差がある国っていうのはいちおうあるんですけど、南アフリカ共和国はその中でもずば抜けて、大きな違いがあると。これが意味しているものっていうのは何なのかっていうことなんです。

◇低開発への開発
 アフリカというのは、最近になって援助の対象として発見した日本はよく間違えることなんですが、アフリカというのはけっして「未開」のところじゃないんですね。未開のところではなくて、開発はされてるんですよ。「低開発」なんですね。つまり、未開発と低開発の違いっていうのはこれよく従属理論なんかでよく出てくるところなんですが、ところが今従属理論勉強してる人は誰もいないのでこれ問題あるんですが、未開発っていうのはまだ開発はされていない、っていう話ですね。ところが低開発っていうのはこれまで長い歴史の中で開発をされていった結果としての低開発である、と。この「低開発」と「未開」っていうのはまるっきり違うものなんだということをまず考える必要がある。このいわゆる低開発の状況というものを一番象徴的に表している国が南アフリカ共和国である、ということなんです。つまり人間開発指数が121 位である。
 これはなぜ生み出されたのかというと、アパルトヘイト時代、狭い意味でのアパルトヘイト時代っていうのは1948 年に国民党が政権をとって、人種差別の法体系というものをしっかりですね、ナチスドイツのまねしてしっかり作ったと。これが基本的に1948 年のアパルトヘイト体制ということで、これが46 年間続くわけなんですが、実際には、人種差別と隔離、搾取の歴史は、その前の時代から延々と続いています。このアパルトヘイトの時代において、白人支配の構造の中で、もっとも近代的な、きわめて大規模なやり方で、資本の論理に基づく労働力の持続的かつ強制的な動員システムが構築されました。つまり、南ア全体が巨大な労働キャンプと化したといって良いと思います。黒人はあそこに住まなければならない、ここには住んではいけない、という黒人居住区を都市の近郊に作り、そして夜になったらそこに全員が帰らなければならないというシステムにする。そして朝が来たら、特定のいろいろな交通機関で、彼らを労働力として都市に送る。鉱山や白人農場に関しても同様のシステムを作る。隔離区を作り、そこに押し込め、好きなときに好きなだけ労働力を動員できるシステムを作る。
 その極めて近代的かつ効率的な労働力の動員ということを可能にしたシステムが、いわゆる「ホームランド」というシステムです。ホームランドとは何かというと、南アフリカ共和国の特定の地域、産業もなく農業もできないような荒れ地を指定して、そこをコサ人なりズールー人なりのホームランドにし、形式上、すべてのコサ人やズールー人はそこの「国民」であり、そこに住まなければならないという原則を作る。これにより、コサであればトランスカイ、ツワナ人であればボプタツワナといったホームランドが作られたわけです。コサの人たちは本来的には全員強制移住してトランスカイに住まなければならない。トランスカイ以外の地域に住んでいる人間は、何らかの特殊な許可を取らなければならない、という形で制度を設計するわけです。隔離区に押し込め、そこから鉱山や白人農場に動員する、という徹底管理の構造をこうやって作っていく。
 そういう形で徹底的な管理をした結果として何が起こったかというと、これは強制移住と移民、出稼ぎというシステムを人為的に構築するわけですから、当然のことながら伝統的なコミュニティというものが破壊されるわけですね。そして一人ひとりがコミュニティに属するのではなく、単なる労働力として分解され、資本の論理の上で新しく再編されていく。黒人居住区やホームランドというのは、そこで何か自分たちのビジネスを始める可能性のない地域でしかあり得ない。彼らの主体性のよってたつところをすべて奪い、受け身の労働力へと「低開発」していくわけです。伝統は解体され、彼らが自分自身のオーナーシップによって自分自身で何かを作っていくというような、近代的な生産様式を主体的に編成していくための余地も与えられない。そういう構造の中で、徹底的な貧困、そしてまたその彼ら自身が自らの知や資源というものを活用・発達させることができないような方向性に、ギュッと押し込めていく。そういう流れの中で彼らは「低開発」へと「開発」されて行くわけです。この低開発が、「未開」と全く違うことは、一目瞭然ですよね。低開発の状況にさまざまな制度を使って押し込めていく。これが基本的にアパルトヘイトの構造です。その結果として、国家が巨大な労働キャンプになる。
 このアパルトヘイトというものが1994 年に一応終わります。ただ、こういうシステムが持続的に形成され延々と機能し続けた後で、「さあ、アパルトヘイトは終わりです」と言って、どうなるというものでもありません。アパルトヘイトが政治的に終わったということは、南アフリカ共和国はこのGNI、すなわち購買力平価によるGDP で世界21 位という巨大な経済規模と、人間開発指数121 位という極めて劣悪な人間環境、これらを二つながらにして作り出したこの経済システムを、どうしていくのか、自ら考えなければならない状況になったということです。

◇成長と分配
 しかし、時すでにグローバリズムの時代、ソ連もなければ社会主義というものも、資本主義に脅威を与えるようなあり方では、存在していない。ポスト・アパルトヘイトにおいて、政権は、基本的に南アフリカのアパルトヘイトを倒すためにずっと努力をしてきた、アフリカ国民会議(ANC)と、ANC をずっとサポートしてきた強力な労働運動組織である南ア労働組合会議(COSATU)、そして、ANC に浸透して政治的にリードしてきた南ア共産党という共産主義党派の三頭政治という形になりました。出自からいえば、彼らは「左翼」であった、しかし、彼らとて今の国際経済の流れの中で南アの優位性を維持していく上で、この経済の21 位というのを疎かにしてよいわけではありません。この21 位というものをもっと大きくしていかなければいけない、ということが発想の前提条件になる。
 それでは一方、121 位の人間開発指数をどうしていくのか。これを何とかするためには分配ということが当然必要になってくるわけですが、どうしても今の世界では、この分配というものが当面、世界21 位の経済を犠牲にするものにならない形で経済政策を遂行しなければならなくなる。また、新しく支配者になった連中も、その方が儲かる。もちろん、マンデラ政権とその後継であるムベキ政権は、そうした中で、社会保障というのも、社会保障制度やあるいは非常に劣悪なスラム街や、スクウォッターズ・キャンプに住んでいる人たちに家を供給するというような社会保障政策もとってはきました。ところが、そもそも、これまで強制労働キャンプと劣悪な収容所だったところに、社会保障政策を急に導入しても、充分に機能はしません。機能させるに足るシステムもありません。逆に、社会保障制度の運用が、間接的にHIV の蔓延を促進するといった逆転現象すら生じていく。そういう中で社会の二分化が、ますます加速化される、という形になってきています。
 南アフリカ共和国というのは、そういう意味で非常に現代の世界のあり方を象徴している国です。ある意味、ここまで引き裂かれた国家というのはありません。しかし、それは歴史的な流れの中で、資本の論理を先鋭化させる中で作られてきたものです。南アというのはアフリカでも非常に特殊な国である一方で、一面、植民地主義に徹底的に浸食されたアフリカそれ自体を端的な形で象徴している国家でもあります。また、資本の論理を「人種」というイデオロギー装置を利用する形で追求し極端に効率的な労働力の動員を実現したという点では、新自由主義経済の独自の現れということもいえる。その結果、極端に引き裂かれた社会。これはある意味グローバリズムの行き着く先であるというふうに言えないことはないんですね。その意味で、南アフリカ共和国というのは、一種、「世界の最先端」である、というイメージを持っています。
(立岩)南アフリカの場合はその、いわゆる総量っていうかGNP っていうか、ひとつやっぱり天然資源。
(稲場)そうですね、金。
(立岩)が、ある。それがかなり寄与してると。そういう意味で言えば元手はあるっていうか、総量はあると。総量はあるんだから単純に考えれば分けちゃいいじゃないかっていう話になるわけだけれども、それはまあ、おっしゃるように上手くいってないと。上手くいってないときのね、そのファクターって、そういう仕掛けをそもそも作ってこなかった、あるいはむしろ積極的に破壊してきたなかでそう簡単にアパルトヘイトやめたからって新しくというか、そういう仕掛けが出来ないっていう、そういうことなの?…か、なんか基本的にそういう了解でいいんですか。
(稲場)南アには、金、ダイアモンドなどの巨大な鉱物資源と高い工業力があります。先ほど中古車の話をしましたけども、南アは中古車の輸入は禁止なんですね。南アの車は全部新車なんです。トヨタにしてもダイムラー・クライスラーにしてもベンツにしても、南アがヨーロッパ向けの高級車を作るひとつの生産拠点になっている国である。さらに白人の資本主義体制が蓄積したところで、たとえば携帯電話とか、集約的に資本を作り運営するというような、資本の運営能力に関して、南アフリカは他のアフリカ諸国に比べれば格段にキャパシティがあるわけです。それは白人が中心なのですが、アパルトヘイトが終わって以降は、能力のある黒人が政治権力との関係もあってかなりの程度入ってきています。アパルトヘイトは、白人が白人であるというだけでヨーロッパ並みの生活をし、なおかつ物価は途上国並みであるという、白人にとっては理想郷みたいなものを作るためにあったわけですが、それが、ある程度シャッフルされてきたといえないわけでもない。しかし、アパルトヘイト時代の中で教育を充分に受けられなかったアフリカ人の層は、なかなかそういうところにのし上がっていけるわけではないので、結局、階
級の線は人種の線と共通する形で引かれてしまってるわけですけれども。
 南アフリカ共和国の場合、「分配は可能か」という問いはなかなか難しい。実は、南アフリカ共和国の国際競争力というのは、精密機器など、洗練された製品を作ることに関しては必ずしも高いわけではありません。それをどう洗練させていくのかというのは非常に大きな勝負どころであるというのがひとつあります。そういう意味で、工業の国際競争力の確保をやらなければならない。そういう競争力をつけなければならないというのが一方にある。また、競争力の弱さが意味するのは、南アフリカ製品が優位性をもって展開できるのは、他のアフリカ地域に限られるということでもあります。つまり、世界全体で見ると、南ア製品は、タイとかマレーシア製品と比べて比較優位性があるわけではないんですね。そうすると、南アは、世界の他地域というよりは、他のアフリカ地域に対してどういうふうに、巨大な資本帝国として進出するのかということが南アフリカの大きな課題になってくる。

◇「経済成長を通じた貧困削減」という空文句
 グローバリズムの中で勝負しなければならないという中で、結局彼らが持っている国富をどう再分配するのかという、その分配と成長というものを両方とも実現するための戦略を彼らは持っていないわけなんですね。本当は、富の偏在を何とかしなければ、南アの持続的・長期的な発展はない。ところが、では成長と分配を同時に進められるか、というと、現在の競争力なり経済成長を維持するためには、分配を進めることができない、という状態に陥る。結果として、南アは数年間に渡って相当の規模の経済成長を遂げているわけですね。この五年、六年の間、五パーセント以上の経済成長をしている。ところが、この五パーセント以上の経済成長をしているということが、たとえば今の貧富格差というものを変えるところに繋がっているかというと、全く繋がっていない。格差はもっと広がっている。
 日本や先進国が今、アフリカ支援において打ち出しているスローガンとして「経済成長を通じた貧困削減」というものがあります。しかし、南アのこの事例は、「経済成長を通じた貧困削減」がいかに不可能か、いかに空文句でしかないかということを示しています。経済成長をしてもそれが一切貧困削減に繋がらない。経済成長は、それを「通じ」れば貧困削減になる、というものではありません。いかに「分配」を経済構造と運営の機能の中に位置づけていくのか、その戦略がなければ、「貧困削減」はできません。経済成長はあくまで経済成長であり、貧困削減というのは、その経済成長というものに対して、明確なビジョンなりポリシーなりというものを、それとの連関関係の中で位置づけていかなければ、無理なのです。南アだけの問題ではありません。途上国の経済を考える上で、「経済成長」の戦略はあっても、これを「分配」し、「貧困の削減」につなげていくための経済戦略が、理論も含めて全く形成されていないということが非常に大きな問題です。その結果、「経済成長を通じた貧困削減」というのは、単なるマントラと化し、このマントラにおいて実践的に追求されていることは、単に経済成長をするということだけであって、それを通じて「貧困削減をする」というのは、単にポリティカル・コレクトネスとして付け足されているにすぎない。「貧困削減」が、国内経済運営の実践に全く降りてきていない。これが南アに象徴的に現れていると思います。しかし、分配がないままでは、南アが結局のところ、持続的な経済成長をできず、早い段階で行き詰まることはほぼ明らかです。そのとき国際社会は、南アの経済政策のまずさを責めるのでしょうが、それは誤っています。そのときには、国際社会は、共犯者として、より大きな責任を負わなければなりません。
(立岩)私は『現代思想』に書かせてもらっている連載★でも、成長いらないみたいに受け取れる話していて、いや実際、成長のために人を強制し他に使える金をそこに回してしまう「政策」はいらないと考えているんですよ。ただそれは、どこについても言える話ではない。それが必要でありまた本来可能である地域は確実にあるだろうと。圧倒的な失業率があるということは労働力はあるということでもあり、そして貧しいということは消費する財が足りないもっとあってもよいということですから、他に必要なものが揃えば、生産は増えるし増えるべきだということになります。

★立岩 真也 2005 ─「家族・性・市場」,『現代思想』
 ただ南アフリカは総量としてはあるんだというお話で、それだけ見れば、あるものを分けろよという話になるはずだと。ただ、一つは国際競争の問題があって、競争できる部門の競争力を維持するために云々、ということになる。この話には、結局出したくない輩が出さない言い訳として使われる部分と、そうとばかりも言えない部分とあって、そこがどうなのか、そして後者、グローバリゼーションのもとでやむをえずというところがあったとしてそれにどう対処するかという問題があるということだと思います。
 で、とくに全体として足りないところで、何が足りないか。暮らせるための、あるいは市場でなんとか生き残っていけるだけの、技術を含む生産財がかなり重要だろうと。日本の場合だとたとえば六〇年代に高度成長があったわけですけれども、そこで生産されたものがそこそこに、少なくとも一時期、行き渡った。その前に、ある種の所有形態の変更、土地改革、農地改革があったわけじゃないですか。そういうものが組み込まれないと、結局偏りが残るというか、是正されないというか、そういう形で成長が還元されないということは、これは一般的に言えることなんでしょうけど、一つにはそこがそのまんまいっちゃってるということなんでしょうかね。
(稲場)そうだと思います。戦後日本の大きな特徴として、大規模公共事業を地方でやるというのがありますね。4 回にわたって繰り広げられた全国総合開発計画が日本の高度経済成長の富を地方に移転することにおいて非常に大きな効果をもたらしました。たとえば東京とか愛知だけが発展するという形ではなくて、少なくともナショナルミニマムはどんな地方に行っても維持できるという形を一応作り出した。しかし、こういう大規模公共投資みたいなものは、今の途上国の経済政策では困難です。
 国際通貨基金(IMF)や世界銀行の指導が入るから、というのが一つの理由です。社会保障にしても、日本の場合、国民皆保険や生活保護といった社会保障制度を国家が担保したわけですが、アフリカなどでは、財政運営をコントロールしているIMF や世銀が、各国政府の社会保障や公共投資への支出を極端に切りつめるように指導してきた経緯がある。
 また、南アフリカ共和国は高中所得国で世界銀行やIMF が財政を仕切っているわけではありませんが、グローバル時代に資本を呼び込むためには短期的な経済指標をよくする必要があり、所得再分配のメカニズムである公共投資や社会保障に巨額の資金をつぎ込むことは困難です。結局、経済政策の中で追求されるのは経済成長で、その分配を適切にして経済的な不平等をなくしていくことは追求されない。「貧困削減」にしても、結局、基礎教育や基礎保健どまりという不十分さは拭えない。結局、経済政策において「貧困削減」はポリティカル・コレクトネスのためだけの、枕詞と化していて、分配を担保するような仕組みをきちんと国家の経済運営なり経済政策の中に位置づけろという理論なり政策的実践というものが追求されていないことが非常に大きな問題だと思います。
(立岩)そうですね。私は、公共事業ってものが効く場面と、そうでない場面、状況があるとは思っていて、すくなくともいまの日本だったら、私は、個人を宛先にする直接的な分配の方がよかろうとは思ってます。ただ、それは、生産財、労働、そして消費財を購入するためのお金というふうに局面を分けたとして、前二者を無視してよいということではない。むしろ、それらは大切なことだと思う。ただ、お金はひとまずいろいろに使えますから、生産財を確保するためにも使えるということもある。けれどもその方法は他にもある。HIV /エイズの薬にしても、薬を買う金を渡すのでよいといえばよいのだけれども、高い値段の外国のものを使うより、特許権の問題をどうにかして、安く国内で供給できるような生産体制が作れた方がよい。
 だから、何を仕組むかっていうと、ひとつはさっき僕が言ったのは、いわゆる普通の生産財、土地とかね。やっぱり土地というのが万人のものではなくて一人のものである、もう、そこの格差というのはどんなに成長が起こったってデフォルトで決まっちゃってるわけだから、これはもう残るか拡大するかどっちかなんですよね。そういう意味で言えば農地改革というのはそこそこに効果をもつと。そういう土地を含めた生産財の分配というか、所有形態みたいなものに多分手つけないとどんなに成長が起こってもダメだろうな、という話はひとつはありますよね。

◇人的資源の流出
(立岩)ただもう一つ、実際になされる方の話というのは、人的資源の開発みたいな話ですよね。
 そうすれば、まあみんなそこそこの生産能力を持てるようになるわけだから、それに技術開発が伴えば、やがて、フラットにはならないにしても、格差が小さくなっていくと、そういうストーリーがあったわけですよね。一般には人間、生産財と言ったって、農民とかでなければ、結局多くは自分の身体しか持っていない。それはそうだと。
 そうするとそこで出てきた昔風の話というのは、その人的資源ですよね。そういったものを、教育を与えることによって開発してもらう。するとみんな同じくらいできるようになるわけだから、それで技術が伴えば、生産も増え、結局同じだけの、ある意味生産財ですよね。人間が一人ひとり持っている自分の能力という名の生産財において、そう違いは出てこないわけだから、ハッピーになるよ、とそういうお話が今でもあります。だけどもいっこうにそんな現実は到来してこない。でも一方にそういうその人的資源の開発みたいなところに話を落としていくストーリーというのはアフリカに限らずある。あるのだけれども、直感的に、それってなんかどうなの、それがどこまで効くのか? という感じがするのだけれども、それは稲場さん的にはどんな感じですか。
(稲場)私は経済の話は得意ではないのですが、いわゆる人的資源の開発ということを言ったとき、特に植民地支配を受けた途上国で一番重要な問題は言語の問題です。アフリカの国々の多くは、そもそも初等教育からして英語やフランス語で行なわざるを得ない。特にアフリカの場合、民族語が多言語あり、ひとつの民族語でなんとかできる国というのはタンザニアくらいです。タンザニアは、独立以来、スワヒリ語を自分たちの国民語として作ってきたので、スワヒリ語で全部何とかなる。しかし、タンザニア以外のアフリカ諸国は、英語かフランス語、もしくはポルトガル領であればポルトガル語といういわゆる旧植民地の言葉を使うしかない。初等教育の段階からそうです。
 人材の問題を考えるとき、これは非常に大変なことです。どういうことが起こるかというと、高等教育を受けました、お医者さんの免許を取りました、法律家の免許を取りました、という人は、自分の国で医師や法律家をやらなくてもいいわけです。ナイジェリア連邦共和国の医師、あるいは法律家は、イギリスに行ってもアメリカに行ってもカナダに行っても、自分の国で貰うよりもいい給料をもらって生活をすることができる。つまり、世界的に通用する人間になってしまうわけですね。その結果として、たとえばガンビアで高等教育を受けた人の六五パーセントは外国に住んでいるということになります。人材流出をしてしまうというわけです。
 アジアとの違いが典型的に出てくるのはそこです。つまり、たとえば、インドネシアでは、高等教育を受けた人もインドネシア語がベースで、英語やフランス語は必ずしも得意ではない。つまり彼らは、インドネシアで何とかやっていかなくてはならない。その結果、彼らはインドネシア国家を発展させることに貢献する事になるわけです。タイなどはもっとそうですね。このように、アジアの場合はそういう意味で人材流出を食い止めることができるし、食い止めるに足る経済力も出てきた。経済力に関してはたとえばインドや中国がそうですね。
 アフリカの場合はそういうものがない。つまり、高等教育を受けた人たちが自分の国で歩止まりにならない。言語の問題があり、よその先進国に行ったほうが給料が高いという問題があり、さらに加えれば、その高等教育で受けた知識を自分の国に還元しようと考えるかというと、必ずしも、そうならない。アフリカ各国の国境線は、極めて人為的に引かれたものにすぎないからです。結果として、たとえば自分のコミュニティに尽くすとか、自分の家族のために送金をするということはあっても、ナイジェリアという国家のために、何らかの形で自分の知識を使うということ、これが形成しにくいというのがアフリカの非常に大きな限界です。人的・知的資本というものを作ったときに、それが少なくとも国家にとどまって、その国を発展させるためにその能力が使われるのかというと、アフリカの場合はこれが使われない。これが植民地支配の負の遺産であるということだろうなと思います。
(立岩)面白いですよね。私は、よほどまともに教育やらないと普通の意味での機会の平等だって達成されないし、達成されたって人の間の差はなくならないに決まってるし、そして機会の平等が実現したって、他の条件がそろわなければ格差の縮小なんて起こらないってことを考えたり言ってきたんだけれども★、稲場さんが今おっしゃったのはまた別のポイントですね。

★ 立岩 真也 2004 『自由の平等─簡単で別な姿の世界』, 岩波書店, 第5章「機会の平等のリベラリズムの限界」

 つまり国家が金を集めてきて人的資源の開発を行うと。しかしそこで開発されてしまった能力というのは、なまじ、というか英語なりフランス語なりができてしまう人間を作ってしまうから、それは世界的に流通する価値があると。そうするとそれは高く買われるところに流出していくと。その結果、国家という単位で集められたお金というのはむしろ外国で使われるというか、そういう仕掛けになっちゃってる。
(稲場)つまり人材の流れが途上国から先進国に向かってしまう。知的な能力のある人は途上国から先進国に向かい、先進国は、この人たちを大喜びで迎え入れる。
(立岩)そしてたいてい場合安めで使える。
(稲場)ええ。つまり補助的な人員として使えるわけですから。ところが、先進国は、一般の未熟練労働者に対しては極めて厳しく門戸を閉ざす。
 先日、G8 サミットに関わる市民社会運動に参加するためにドイツに行ったのですが、ドイツの移民支援運動は強いメッセージを出していました。「地中海は今やアフリカ人の墓場になっている」と。つまり、ヨーロッパに渡る途中で船が転覆して、みな死んでしまう。あるいは、まずサハラ砂漠を横断しようという人たちの中で、たとえばリビアやモロッコに着く前に、砂漠で死んでしまう人がたくさんいる。あるいはそのソマリアからアラビア半島に渡る船に人々が大量に乗っていて、これが沈没してしまうというケースが数多ある、というのが現状です。
 つまり、先進国が、一般の人たちは絶対に受け入れない、そして知的能力のある人たちについては大喜びで受け入れるという状況の中で、結局のところ途上国の人的資源は、途上国の金で育てたものであっても、どんどん北に流出する。金も援助で来る金よりも、債務で返す金のほうが多い。あるいは向こう側に還流する金のほうが多いというような状況の中で、今においても、資源の移動というのは結局南から北への移動が圧倒的に多い。そこを考えなければならない。それは連綿として培われてきた南から北への不等価交換の流れというものが、いまだに逆転するというところまで至っていないということなのです。
(立岩)向こうの金で育ててもらったものをこっちは安く買える。その限りにおいてその人たちは役に立つと。それ以外のそんなに元手のかからない労働力はもうこっちにたくさんあるから、いらないと。専門職というか、そこそこ育成にお金がかかるのを安くやってもらって、安めに買って、その部分は還元して、そうでないところはいらないと。こういうことは実際日本でも起こってはいる。ただ日本の場合は、これまでの受け入れが少ないから、いわゆる単純労働の部分がまだ足りないということはあるでしょう。今フィリピンのケアワーカーをどうするかとか、そういう話もそれに関係あるんだろうと思います★。そしてフィリピンの場合は、育てて輸出して、稼いでもらってその金を国に送ってもらおうというふうになるから、むしろ国家として積極的に推進しようとしているわけだけれども、そうではなくて、費用使うだけて戻ってこない場合があるということですよね。

★永田 貴聖 2007 ─「 ケア/国境」 http://www.arsvi.com/d/c0405.htm

◇方策について
 そういうときに、それではどうにもならないと。その場合、考えられる対応がいくつかあるじゃないですか。実際には、徴収の単位は国家で、もう限られている。国家の内側で集めて内側に出すことになる。実質的によその国からもらってこれない。でも人が出るときは、自由に出られてしまう。だから一つは、実際にそういうことをやってる国もあるわけだけれども、人間の流出を人為的に、というか強制的に止めてしまう。あるいは制約してしまう。それって普通の考えでいうと、人の移動の自由を阻害するみたいな言い方で、人権侵害とまで言うかどうかわからないけども、よくないと、そういう話ですよね。ただ、今言った話で言えば、それにもある種の合理性があるというか、もっともであるという考え方も成り立ちうるわけですね。人的な流出を防ぐという意味での鎖国をしてしまえというやり方もあるだろう。ただ実際には難しい。そして移動の制約がよいことかといえば、よくはない。
 もう一つは、そして実現可能性の少ないところで言えば、そうやって製品を、向こうで使っちゃう製品を出してしまう、製品じゃなくて生産財を向こうにあげてしまっているわけですよね。だけどそのためのお金は国内で調達してる。それはおかしいのだと。だから、税なら税を持ってくる単位みたいなものを拡げることにする。そういう案もある。
 たぶん正論は後者なんでしょうが、それはなかなか難しいからとりあえずのやり方として国境を半ば閉ざすような。でもそんなことは無理なわけで、みんなが逃げてしまう。逃げることも簡単だから、結果的には流出の流れは止まらないというのが現状なんですよね。
(稲場)こうした流れを変えようという方向性の中に、一つの大きな動きとして、「ミレニアム開発目標」というものを達成していこうという動きがあります。2015 年までに世界の貧困というものをなくしていく、人間がある程度の生活レベルをもって生存し得るような環境を、どの国においてもなんとか実現していこうという実践は行われています。もちろん、それに使われている金は、世界の多くの巨大な資金流動の中では非常に小さな一部にすぎないわけですが。たとえばヨーロッパの最近の国際援助改革の流れには、必須保健医療サービスにかかわる必要な医師の数をしっかり確保するために、保健予算のための資金を各国の保健省なり財務省なりに注入して、なんとか保健医療ワーカーの雇用条件を改善し、人材流出を止めようというものがあります。そこで雇用維持できるだけの資金をそれぞれの国の政府に確保させようという動き自体は存在しています。ただ、そこに充分な金は来ていません。
 たとえば保健医療人材の比較で言うと、キューバとザンビアを比較すると、人口はほぼ同じ1000 万人強なんですけども、キューバは医師も看護師もそれぞれ6 万人ずついます。その結果、キューバは例外的に、途上国でお金がないにもかかわらず、保健指標は先進国並みを実現しています。ところがザンビアは医師が3000 人しかいなくて、看護師はキューバの半分の3 万人しかいない。その結果としてザンビアの医療状況は、HIV / AIDS の問題もあるからですが、非常に厳しい状況になっています。ザンビアがキューバと同様の平均寿命や乳児死亡率を達成するために、キューバに伍する形の医師を確保しようとしても、今は3000 人、キューバの20 分の1 しかいない。では、たとえば先進国がザンビアの保健医療人材流出を止め、なんとか人間的な最低限度の保健医療の状況を創り出そうとするときに、それだけの金を先進国がきっちり担保できるのかと言ったら、そうではない。そこを、市民社会が変えていく必要があるわけです。実際、ミレニアム開発目標を達成するために、ザンビアにはどのくらいの医者がいるのか、そこに対して先進国が2015 年までにそれを達成するために必要な資金をきちんと拠出できるのか、ということに関しては、市民社会は、それをやるべきだということで、強い政治的な力を行使しようとしているわけです。そこで、たとえばミレニアム開発目標の実現に全力を尽くすといっている英国のような先進国がそこまでの政治的意思を持っているかどうかが、問われているわけです。人材流出なり資本流出なりという南から北への金の流れを逆転させるということが必要です。その政治的意思を先進国がどこまで持っているのかということが、どれだけ短い期間に、途上国の保健水準を上げることができるかということにおいて、問われていることだと思います。

◆社会運動の戦略・戦術
◇二つの流れ
(立岩)そのいわゆる先進国、国家との関係の仕方、その辺の話がね、やっぱり大切でっていうか。たとえばそのエイズの絡みでいうと、アフリカ日本協議会の活動っていったものは、結局、要するに金出させなきゃどうにもなんないじゃないかっていうところがあって、私はまったくそのとおりだと思ってるんですけどね。そうするとその金っていうのはどこにあるのか。ようするに税金なら税金とってきて国にあると。それを、っていう話にある意味ならざるをえないわけですよね。
 そうすると、アフリカ日本協議会にしてもさ、あるいはエイズをめぐる各国のNGO の活動にしても、結局は政府に働きかけ、政府を動かし、やれる範囲で協調しつつみたいなことになる。実際AJF にしても、外務省の仕事をある意味請け負うみたいなかたちで、ちょっとしたお金を貰いつつぼちぼちとやっているというのが、実際のところだと思うんですよ。そういう意味でいえば、その手の活動を実際にやり、そしてなんらかのアウトプットを出そうとしている組織というか活動にしてみれば、政府というのは、なんていうんだろうな、敵であるのだけれど敵にしきれないというか、味方というのではないにしても、ある種の交渉相手ですよね。金を引き出す相手みたいなものですね。そういうかたちで対峙するのも、それもひとつの対峙の仕方だと思いますが、あると。
 それに対してというか、と同時に、このあいだね、ドイツ行って来られて、私あの話は妙に面白かったんですが(笑)、そのやっぱり違うノリの方々っていうのもたくさんいらして、まあ気分的にはそっちのほうがね、なんかよろしかろうというのも確かにある。そういうあたりがね、難しくもあり面白くもあるところでさ。で、たとえばそのG8 にしてなんにしても、それにどういう対し方、対峙の仕方をしていくのか、していかざるを得ないのかっていうことなのかもしれないけれども、このあいだのドイツのデモの話あたりからね、どっちが先でもいいんだけれども、ちょっとそっちのほうをね。それと同時に、いってみればアフリカっていうものが、日本はちょっとなんていうの鈍いところがあるにしても、たとえばそのヨーロッパにしても、アメリカにしても、あるいは中国にしても、ある意味なんていうかなあ、アフリカって目の付け所っていうかそういう対象になっているわけですね、すでにね。そういったあたりも含めて、いずれもでかい話なんだけども、ちょっと見立てを。
(稲場)そうですね、この辺の話はなかなか経済の話とかも絡んでくるので、私は経済の話は強くないので、どこまで話ができるかっていうことはちょっと微妙なんですけども。
 そうですね、二つの戦略、二つの戦略っていうか市民社会運動の中には二つの潮流があると。一つには、これは非常に重なり合ってるんですけども、特にドイツにおいて非常に顕著だったのは「もう一つの世界は可能である」という、今の世界秩序というものをある意味その根底から変えることを究極的な目的にする部分がある。これはわれわれも、私もそうではあるんですけども、そのもうひとつの世界は可能だという流れの中で、たとえばG8 というものに関してどういう向かい合い方をするのかっていう、非常に興味深い話なわけなんですね。
 でちょっと日本の社会運動なんかの話も含めてやる必要があると思うんですが、2005 年のG8 サミット、グレンイーグルズ・サミット、イギリスのグレンイーグルズでやったサミットっていうのは、このもうひとつの世界は可能だっていうのはある程度共通語にはなってもですね、どちらかというと、いわゆるその貧困をなくすという意味でのその個別イシューに関して、どれだけの成果を挙げるのかっていう短期的な成果ですね。つまり、いつか世界を全部変えてやるんだというような非常に長期的な成果ではなくて、たとえば2015 年にミレニアム開発目標でいくつか挙がっているところの目標を、しっかり達成させるための資金を確保するためにどれだけのことをするのかという、非常に、個別イシュー、貧困を取り巻く個別イシューに対してどういう成果、成果ベースのアドボカシーというものが中心になって、それで大衆的な運動っていうのがイギリスを中心に起こったと。
 で、このグレンイーグルズに代表されるような、そういう何ていうんでしょうね、個別イシューにフォーカスをし、短期的な成果を目標にする、そういうかたちでの市民社会運動っていうのが一方ではあって。これはどっちかっていうと、イギリスを中心にしながらアメリカにおいて、アメリカのHIV / AIDS に関わる運動っていうのは非常にそういう意味で今はそういうフォーカスが非常に強いわけなんですね。英米を中心としたこういった個別イシュー系の運動っていうものが一方である。
 それに対して、こういう区分っていうのが実際にいいのかどうかわからないんですけど、私自身がドイツで見た限りでは、とくに大陸ヨーロッパにおける、フランスにしてもそうだと思いますが、フランス、ドイツ、イタリアの3 カ国においては、どちらかというとそういったG8 に対してエビデンスベイスド(証拠に基づいた)な成果、しかも短期的な成果を追求するかたちでプレッシャーをかける運動ではなくて、そもそもG8 それ自体が世界を搾取し抑圧する構造のひとつでこれは絶対に許すことができないというですね、G8 自体を否定する、それに対して徹底的にこう妨害をしてですね、権力を震えあがらせると。そういうことを目標にした運動というのが逆にドイツ、あるいはイタリアを中心に、そういう運動の方が強いわけなんです。

◇ハイリゲンダムG8 サミット
 今回、ハイリゲンダムG8 サミットに向けた最初のデモっていうのが6 月2 日にあったんですが、この6 月2 日のデモっていうのがですね、参加者の構成を見ると非常に明確になるかと思うんですね。つまり一部の暴徒が、って言い方がやっぱあるんですけど。
(立岩)日本のメディアはそういう言い方しましたよね。ごく一部がちょっとはしゃいだっていうか騒いだって、そういう言い方しましたよね。
(稲場)そうなんですね。ところがそうでは実際のところなくて、たとえば貧困の問題、あるいは開発の問題に関してエビデンスベイスドなかたちでの成果を求めよう、っていうような人たちっていうのは、「オックフファム」、「アクション・エイド」、あるいは日本から来た「GCAP」、「貧困をなくすための地球規模の行動提起」(Global Call to Action against Poverty:GCAP)っていう、途上国の貧困をなくそうっていう運動なんですけど、この運動の流れの人たちっていうのは非常に少なかったですね。非常に多い隊列というのが何かというと、ブラックブロック★なわけです。アナーキストな、アナーキストの隊列が一番多いわけです。

★ 「ブラック・ブロック(英語:Black bloc)とは、何かの抗議行動、デモンストレーション、あるいは他の階級闘争、反資本主義、反グローバリゼーションに関連する催しがある際に集合するアフィニティ・グループである。黒い服装をするのは、ひとつの大きな集合に見せることで連帯感を強め、明白な革命的存在を創り、権力に身元を特定される事を避けるためである。大手のニュースメディアの間では特に、ブラック・ブロックが何かの国際組織であるという認識がある。しかし、それは抗議行動者の集団が使う戦術以上のものではない。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF 
 彼らは「資本主義を歴史的遺物に」、メイク・キャピタリズム・ヒストリーというですね、巨大な横断幕を掲げてそして巨大なトレーラーを隊列の中にどーんと置いて、そしてものすごい人数、たぶん1 万5000 人くらいいたと思いますけど、そういう直接行動派のアナーキストの方が人数が多いわけなんです。彼らはデモの最中はおとなしくしてるんですよ、もちろん。ただ歩くだけのデモの隊列、他の参加者に迷惑かけると困るから。彼らも困ると。デモの最中は別に何もしないわけですけども、デモが終わったあとに市街戦をするということになるわけなんですね。
 そしてそのブラックブロックだけではなくて基本的にG8 それ自体が問題だという人たちが非常に多かったんですね。そういう直接行動をしない人たちの中にもそういう人たちが非常に多かった。実際トービン税とかを主張している「ATTAC」っていう、ヨーロッパでは非常に強力なグループ、大きなネットワークがあるわけなんですけども、このアタック、アタック関連の人たちが非常に多かった。つまりドイツのG8 に関わる市民社会運動というのはG8 から具体的なリザルトを引っ張ってくるというよりはG8 それ自体の問題点を明らかにし、そしてこれが世界を仕切っている状況を告発しようという、そういうベクトルが非常に強かったわけですね。
 つまりそういう意味で2005 年のグレンイーグルズ・サミットに対するマスモビライゼーションと2007 年のドイツにおけるマスモビライゼーションっていうのは非常に対極的なものであったということが言えるだろうと思います。さらにドイツの場合は国内の環境問題に関する運動だとか、農業、いわゆる遺伝子組み換え作物に反対する運動とかそういういわゆる消費者運動、環境運動の強力さっていうのがあって、そこがモビライゼーションの中心をなしていたので、いわゆる貧困とかアフリカとかそういった課題に関する取り組みというのは、個別の取り組みというのは非常に少なかったと、残念ながら。もちろんなかったわけじゃないんですよ、あったんですけども非常に少なかったと。
 そういう意味で今のグローバリズムなりG8 をめぐる非常に対極的なかたちが、たとえばイギリスでやったサミットと大陸ヨーロッパでやったサミットでは、ぶつかっていると。とりあえずドイツにおいてもそれは協力しながらやってるし、足を引っ張らないように、両方が両方の足を引っ張らないように最低限の調整をしてやってるわけですけど、ある意味非常に対極的な運動であったと。その結果2005 年に中心的な役割を果たしたイギリスの開発強力NGO の連中は、ドイツの運動というのは大変非効率な運動であったというふうに意味評価をしている、というところがあるわけなんですね。
 で、日本というのを考えたときにこの非常に難しいのはどちらも厳しい状況にあると。

◇両方が要る
(立岩)どちらもない、と。
(稲場)どちらもないということなんですね。どちらも必ずしも十分な力を持っているわけではなく、なおかつどちらも洗練されてはいない、その部分でどういうふうに来年のG8 組んでいくのかG8 に対する市民社会運動を組んでいくのかっていうのが非常に大きな問題なわけですけども…。とりあえず市民社会運動っていうのはそういう状況にあると。
 一方でたとえば2015 年までにMDG ミレニアム開発目標において、乳児死亡率というものをどういうふうにしていくのか、あるいは妊産婦の健康というものをどう改善していくのか、ヘルスサービスをどう確保していくのか、あるいはHIV / AIDS、結核、マラリヤっていったものに関して、今すでに実際にそれなりの計画のあるところをどういうふうにG8 の政治的な意思を引っ張り出していくのかと、いうことで考えたときに、これはただ、基本的には両方なきゃいけないわけですね。つまり改革運動だけあっても、これはアメリカの80 年代のHIV / AIDS に関する戦略っていうものが非常に上手く表していると思うんですけども、ロビィをし、アドボカシーだけがあっても別に権力はなんにも怖くないわけですよ。
 で、そこだけしかないと要求のつりあいが出来ないっていう問題がもう一つある。つまり、同じ50 をとるためにどうするかっていったときに、50 要求しても50 取れないんですね。50 要求すると10 くらいしかとれないわけですよ。そこで直接行動をする団体が200 くらいを要求すると。で、200 くらい要求している連中がいると50 要求することはさして過激ではない、そういう構造になるわけですね。その中でたとえばロビィやアドボカシーをしていく人間が50 をしっかりとる、っていうそういういわゆるチームプレーが必要になってくると。これは両方なきゃいけないんですね。
 つまり50 だけを言う人がいても結局その要求は5、10 くらいしか通らない。そのときにいかに直接行動を主張し、そもそも権力に対して、お前らの正当性はないんだというような勢力が、いかに高い要求を突きつけ、なおかつその要求についてわれわれには正当性と力があるんだということを見せつけることができるかという意味で、直接行動をする、そもそもの正当性をとる、そしてその上で正当性がないのに偉そうにしている以上はこのくらいはやってくれなきゃ困ると、いうようなかたちでの落としどころを迫る、その中でロビィをする勢力、アドボカシーをする勢力がしっかりと出せるだけの部分をさらってくる。
 そういうかたちにしなければ権力はそもそもやる気はないわけですから、そういう意味でその直接行動、あるいはそれなりの怖い意味でのプレッシャーをかけるグループ、震撼させる、揺るがすと、いうことをやるグループと、実際にものごとを取ってくるグループっていうのが連動してしっかりその国家権力を、ある意味操るというかですね、そういうようなところが非常に重要なんじゃないかな、と。

◇市民社会セクターと国家セクターの相互乗り入れ
 逆に言うと国家の側も今やたとえばイギリスのような政府の場合は市民社会運動を使うということを非常に熱心に考えてるわけなんですね。たとえばグレンイーグルズのサミットの場合、非常に驚いたのは毎月イギリスの高官がくるわけですよ。そして毎月日本のNGO に会いたい、市民社会に会いたいと言って、そして、実際そういうミーティング、小さい規模のミーティングを主催して、そしてあなたちのやりたいことはなんですかということを、政策を聞いてくる。で、そういうかたちでつまり逆に言うと彼らはグレンイーグルズ・サミットにおいて日本からそれなりのMDG にむけたものを引き出したい、そのときに市民社会運動を使いたいっていうのがあるわけです。
 そういうことで考えたときにイギリス政府っていうのは非常に巧妙に市民社会運動を活用してくる。逆にその国家の側が自分の意思を、自分の国際的な方針における意思を貫徹させるために他の国の市民社会運動を活用するっていうですね、そういうベクトルを今使ってくる、そういう意味で今たとえばイギリスはいわゆる国家政策、世界戦略というものが複数のセクター─つまりいわゆる国家セクターがあり、民間営利セクターがあり、民間非営利セクターがあり、そしてまた知的セクターがあると、このセクター─というものを動員することによって、様々なかたちで動員することによって初めて自分の世界戦略が実現するんだという頭を彼らは持ってるんですね。そういう意味でイギリスっていうのは非常に巧妙に市民社会運動への接近や働きかけというものをやってくる政権であると、いう部分があるわけです。
 あるいはフランスも、より洗練されてはいないけれども、たとえば自分のところが国際航空税というのを導入して、つまりフランスから出国する飛行機便のうち1 人1 ユーロをいわゆる税としてとるわけですね。ビジネスクラスだと10 ユーロ取ると。これをかれらは国際医薬品購入ファシリティという組織、ユニットエイド(UNITAID)という組織を作って、このユニットエイドにプールするわけです。このユニットエイドは何をするかというと、第2 世代の抗レトロウィルス薬ですね、つまり比較的最近開発された、より副作用が少ない、またよりその効果が高くて第1 世代のものを服用したあげく耐性が出来てしまった人たちに対して、提供する第2 世代の抗レトロウィルス薬、あるいは子どものエイズ治療薬ですね、あるいはその耐性がたくさんある結核に対する特殊な結核治療薬や、耐性マラリヤに効く特効薬ですね。こういったものを大量購入して、大量購入することによって低価格を実現するという、そのいわゆるユニットエイドという枠組みをつくったわけなんですね。このユニットエイドを作るうえで世界の市民社会を効果的に動員したわけです。シラク政権は。
 そういう意味でですね、今はヨーロッパ諸国の政府というのは、市民社会セクターというのを非常に高いレベルで位置づけて、そして、共同でやっていくというね、あるいはその自分の戦略を上手く洗練されたものにする。たとえばユニットエイドに関してもフランス政府だけが考えたら、そういうようなものにはならないわけですね。それを市民社会のいろいろな、たとえば「国境なき医師団」はこういうロビーしたと、で世界のエイズセクターはこういうロビーをした、とそういうロビーを上手く取り入れていく中で、より洗練された設計の国際機関をつくっていくようなかたちにも利用する。
 そういう意味で、いわゆる市民社会セクターと国家セクターの相互乗り入れというのが、特にヨーロッパの国においては非常に連携されたかたちで出来てきている、というのが一方であるわけですね。それで取っているものもかなりある意味でかなりあると。そういう点で言うと日本という国はそこまでは行ってないどころか、全然行ってないわけですけども…。市民社会セクターと国家セクターの相互乗り入れというのは、現実的で成果を短期的にもたらしうる政策の実現という意味では、特に最近はかなりのレベルでそれができてきているっていうのが、ここ最近21 世紀以降の流れとしてはあるのかな、というふうには思いますね。
(立岩)今の話は大切なことだと思うんです。まず一つ、二つの両方が必要だということ。
 基本的にそのロビィングやって何ぼくれって言って取ってくるって言うタイプのね、まあ、モノ取り型の運動と、それから、まあ外にいてなんか時々壊しちゃったりしながら、騒いでるっていうタイプの運動っていうのが一番基本的なところでは対立しないって言うか、対立しないように仕向けることは、少なくとも基本的なレベルでは可能なはずだ。可能でありまた必要である…
(稲場)そのとおりだと思いますね。必要である、そうしないとダメだと思うんですね。
(立岩)それはそのとおりだと思うんですよ。現実にはそこの中でいろんな争いとか摩擦っていうのは当然あるわけなんですけども、しかし、両方あって、両方ないとものごと上手く行かないっていうのはそのとおりで。で、そういったときに確かにその英米型のっていうかなあ、NPO とかNGO っていうのは、そのマネージメント、組織のマネージメントも含めてあるいはロビィングの技術も含めてかなりその、高等な、ものをもっていると。
(稲場)そうですね。
(立岩)で、そいつらそれが得意だということがあって、それはそれで必要であると。そしてどっちかっていうとAJF っていうのは、今の位置取りで言えば、HIV に関わらざるをえないでやっているという位置取りでいえば、そっち系のNPO、NGO の道を歩まざるをえない。それはそれがもっとも効果的であるという意味でね。そうなんだろうと。しかしまあ違うタイプの、ちょっとこうはしゃいだ感じっていうんですかね、も、あると。
 で、両方必要である。だが両方ないってことも事実で、そういったときに当座AJF にしたって、両方を一つ組織がっていうのはそもそも不可能なことだから、さし当たって今の位置取りで言えば、地道なというか、ある種のロビィング系の組織として、ふるまわざるをえない、だけど、それだけではう「アナザー」っていうか、「可能だ」っていうかなりでかい
話をする話っていうのが、実質的にはっていうか、僕はその地域農業を守ることが悪いことだとはけっして思わないんだけれども、しかしその時と場合によってはですね、自らも、ある種の既得権益ですよね、その先進国の。ま、農業は農業として僕は守られるべきだと基本的に思うけれども、しかしある種の地域主義みたいなものも結びついて、結局それがその非常に素朴な意味でのアンチ・グローバリズム、単純な地域主義みたいなものに、なってしまうっていう。
 これは非常にラディカルで、場合によっては過激であるような運動っていうものが、ある意味、地域に閉じるっていうんですかね、そういった傾向っていうものをまた持ってしまうっていうことは、そのそういった二つのタイプの運動が連帯していくというかな、にあたっても考えなければ、考えに入れなければいけないファクターのひとつであろうと思うんですよ。これが二つ目ですね。
 でね、三つめ、最後おっしゃった、今や大国というかな、国家にしても市民社会レベルの様々なものを使ったり、連結しながらやっていかないとっていう話だと。それ、少なくとも今例に挙げたフランスであったりイギリスであったり、にしてみればそのとおりだと思うんですよね。そうしたときにその、たとえば、そういった類の大国ですよね。今、アフリカっていう国、国たちっていうか地域ですね、というものがどういうふうに映っているのかっていうと、どうなんでしょうね。

◇何をもう一つのものとするか
(稲場)幾つかの点があると思うんですけど。どこからいきますかね。まずいわゆる直接行動的な市民社会運動と、ロビィング的な市民社会運動の連携っていうことを考えたときに、ロビィ運動型の運動が気をつけなければいけならず、なおかつ見えていないっていうことは、両方が協力したときにどっちが国家から評価され、どっちが国家から弾圧されるかっていうことなんですね。それを考えたときにロビィング型の運動の方が一方的に被害は少なく、直接行動型の運動っていうのは徹底的に弾圧される。つまり協調した時に、きわめて著しい利益の不均衡が起こると。この部分をですね、どうするかという問題は非常に大きな問題なんですよ。
 つまりロビィング系のNGO っていうのはそういう意味では、ある意味主流に、あるいは国家戦略の政策的な意味での位置取りを高くもっていくことが、できてしまうと。一方で直接行動型っていうのは、常に牢屋入りとかですねひどい目に会うと。そういう時に、実際にどういう意味でのいわゆる利益の均衡を確保するのか。もう一つは、いわゆる直接行動型の運動が社会的に担っている役割をきちんと評価されるのかっていう、そこの部分が本当はちゃんと考えなきゃいけない。そうでないと直接行動型の方が一方的にですね、ひどい目にあって終わりということになりかねませんので、そういう意味ですごく考えなければいけない部分だな、というふうには思っているわけなんですね。
 あともう一つは、ロビィング型の運動の問題っていうのは、ある意味、本来到達すべき地点、あるいは本来目指さなければならない世界、ロングタームに目指さなければならない世界っていうもの、世界像っていうものを見失いがちであるということなわけです。つまり、ミレニアム開発目標が2015年までに達成されればそれでいいという話になるのかどうか、つまりミレニアム開発目標っていうのはつまり2015 年までにある一番のところっていうのは、1 日1 ドル以下の人間、あるいは極度の飢餓状態にある人たちを半減すると。この半減というのは、一方で半減して残った人たちはもっと貧乏になるかもしれないわけですね。そういう意味でミレニアム開発目標がすべてを解決するわけでは全くないわけです。
 さらに2015 年になったときに、一番見受けられるかもしれない可能性っていうのは、フランスなりイギリスなりヨーロッパ、アメリカの国々が、彼らの主観としてはここまでたくさんのお金を動員して貧困開発を一生懸命やってやったのに、2015 年になってまだ達成できてないのは自己責任だ、ということにすぐ転化してしまう。それは十分あるわけですね。つまり2015 年以降貧困があってもそれは途上国の責任だと。われわれ植民地主義の責任は全部清算されたのであると、言い出しかねないわけですね。で、そこはそれ全然間違いなわけですよ、実際に。そういうようなかたちでそのいわゆるロビィング中心の団体が当面の政策課題を達成するということに関しては出来るかもしれないけれど、ロングタームな、どういう世界を目指すのかっていうその理念のところに関して、彼らがきちんとその直接行動型の団体と対話をしながら世界のありうべき姿の像っていうものをしっかり作っていかないと、結局のところ権力に吸収されるだけであると。ここのリスクというのは、すごく考えなきゃいけないところなわけなんですね。だからそういう意味で、市民社会が両方のその勢力が無ければならない、そして非常に広いベクトルで、広いフォーカスでものごとを見ていくという姿勢をつけなければならない。そこは相互批判がなければならないと思うんですね。
 そして日本の直接行動型の市民社会運動がやっぱり身につけなければならない部分ていうのが、ある意味そこなわけです。つまりどういう世界をめざすのかという理念の部分に関してもっときちんとした論理、あるいは設計というものが打ち出されてこなければ、それは難しいわけですよ。そういう点で、ありうべき世界像というようなものを考えるということをより意識的にやっていく必要がある、これはどっちもですけどね。どっちもやっていく必要があって、そこの対話がなければ、あるいはそのいわゆる「もうひとつの世界は可能だ」というスローガンが、それだけで終わるとすると、それは非常にまずいだろうと。どういうアナザー・ワールドなのかということを、もう少しいろんな意味で考えなきゃいけない。それがやっぱり社会主義、共産主義というものが、ああいうかたちで、冷戦が壊れて、冷戦が終わって退場したあとで、目指すべき国家理念、世界理念というようなものが、結局のところ、今のところたとえばその大国が打ち出すMDG、ミレニアム開発目標であるとか、あるいは…ある意味茫洋とした、あるいはパターナリスティックなね、そういうような世界像しか打ち出されていないという現状がある中で、市民社会が、もうひとつの世界は可能だということで、何を目指そうとするのか。
 たとえば、今中南米では幾つかの実践が、いろいろ非常に大きな問題があるだろうけど、ベネズエラでたとえばチャベス政権が打ち出そうとしているものが、たとえばアナザー・ワールドのひとつになりうるのか、それともなりえないとすれば、どういうふうにすればなりうるように変わるのか、そういうような世界像というか、市民社会が出していかないと。
 今、世界の中で打ち出されている世界像というのは、権力者が打ち出しているものなんですね。つまり、チャベスにしたって権力者は権力者なわけですよ。その意味で市民社会はどういう、そのありうるべき世界像というものを打ち出すのかっていう、その市民社会としてのアナザー・ワールドというものをもう少し具体的なイメージを持つものとして作っていかないと、結局ロビィ団体はMDG を達成するということになり、直接行動団体は「アナザー・ワールド・イズ・ポッシブル」と言っていればいいということになって、その結果としてのその市民社会運動の思想的な弾圧が起こると、いうことが非常にある意味懸念されるべきことなんじゃないかな、というふうに思っているわけなんですよ。
(立岩)そういう意味じゃどうなんですか、仏・独・伊のブラックブロックの連中っていうか、にしても、そこらへんはまあ、どうなんですか。
(稲場)ある意味、微妙なところなんだと思う。あとはそこをたとえば、それなりにね、打ち出している人たちもそれなりにいることはいるわけなんですけども、またそのブラックブロックなりアナーキストグループの人たちっていうのは、逆にいわゆる大陸ヨーロッパが持っている様々な伝統とか、つまり暴力的な市民社会運動というものを一定程度容認しうるような、まあそういうある意味寛容な伝統とか、あともうひとつはたとえばスクォッティングとかキャンプっていうようなものに代表されるような彼ら自身のコミュニティの、そういった基盤とかね、そういったものに裏打ちされている運動であると、いうことなので、それはある意味当然、それはそういう限界持っていててもしょうがないと思うんです、彼ら自身、自体が。ただ、でもその中で生み出されるものもあるわけだからそれを言語化してもらって普及していくっていうことは、やっぱり目的意識的にやってもらえるといいな、っていうふうには思っています。それはもちろん当然やりたい人は当然いると思ってるんですけどね。

◇アフリカの条件・可能性
(立岩)でね、さっき、最初に僕がその南アフリカで、って言ったのでそうなったんですけど、南アフリカの場合まがりなりにもっていうか、まずたまたま、天然資源が大量にあり、それでそれも背景にしつつ、第二次産業が、アフリカの全体のレベルでいえば高いものをもっている、そういう意味で言えばあとはもう、なんかしてその成果を分ける仕掛けさえつくっときゃ、本来はいいはずだと。今度の『現代思想』で牧野さん、アジ研(アジア経済研究所)の牧野(久美子)さんが南アのベーシック・インカムの話をされると聞いています★。どういう話になるかわかりませんけれども、まあ理屈としてはそういう話は成り立ちえますよね。ところが、アフリカ全体で、そんなに資源にしてもなんにしても、それから過去の蓄積というか、その低開発の結果ということであるんだろうけども、もっともうハンディついちゃってるっていうか、そういう地域っていうのは広大にあるわけじゃないですか。そういったことを考えた場合にね…そういった地域に対してね、まあ、やりようっていったらなんか、ざっくりした話ですけども…。

★ 牧野久美子 2007 「「南」のベーシック・インカム論の可能性」『, 現代思想』35-11(2007-9)(特集:社会の貧困/貧困の社会)
(稲場)そうですね、難しいと思うんですけど、まず南アフリカ共和国に関しては歴史的な負の遺産が非常に大きいので、分配構造っていうものを作ったとしても、それがちゃんと機能するとはかぎらない、と。そこをたとえば今の犯罪の多発、つまり圧倒的な多くの凶悪犯罪の多発であるとか、あるいは人々の精神的な荒廃ですよね。こういったものが非常に大きく存在しているので、負の遺産と言ったときに、いわゆる何も無いアフリカと、南アフリカ共和国のような、非常に強力なネガティブな負の遺産がある国と、これ比較した時にどっちが大変っていうのは、非常に難しい問題だろうな、というふうに思うんですね。たとえば社会保障制度っていうのはいちおう南アフリカにはあるんですね。あの、いろいろ幾つかの制度が。ところがこれらがあの恐ろしい貧困の中でさらに暴力と、そしてめちゃくちゃにされてしまっって完全に崩壊したコミュニティ、そういう中で、社会保障がまともに機能しないと、いう状況がやっぱりあるわけですよ。
 たとえば圧倒的に複雑な家庭環境、かれらやっぱ貧困層のおかれる家庭環境っていうのは、いろんな意味で恐ろしく複雑なものがあるわけで、そこに対して社会保障を一つ一つ落としていくうえで、やっぱり客観的にみて、ちゃんと社会保障制度を運用できるソーシャルワーカー、これ絶対必要なんですね。ところがソーシャルワーカーといえば1 人2000 件みてるとかそんな話ですから、しかも能力ない人がね、そういうような南アフリカ共和国の社会保障制度っていうものをどういうふうに再考して新しいシステムを南アフリカにおける社会保障というものを作っていくか、ってことを考えたときにやっぱりものすごい工程が必要だろうな、と。そういう意味では南アフリカ共和国で非常に大変だと思うんですね。
 他のアフリカ諸国ってことを言ったときにですね、これはまたいろんな国でいろんなことがある、南アフリカに劣らぬ様々な歴史的な負の遺産を抱えている国がやっぱりあるし、すべての国が分断国家、すべての国が多民族国家であると。さらに、そもそも他の国の人の言葉で何もかもしなきゃいけないと、そういう圧倒的な負の、マイナスからのスタートを強制されているアフリカの国々がどういうかたちでやっていくのかって言ったときに、やっぱりひとつ考えなきゃいけないのは…もちろん今の問題解決をするということ、たとえばHIV / AIDS の問題、いろいろ貧困の問題、病気の問題、教育の問題、そういったものを解決するっていうことが必要なのと同時に、アフリカっていうものをいかに統合していくのか。
 アフリカは、非常に興味深いと思うんですが、8 億5000 万人しかいないんですね、北アフリカ合わせても。あんな巨大なアフリカ大陸に。ところが54カ国もあると。これはサハラアラブ民主共和国っていう、いわゆる西サハラを入れて54 カ国なんですが、54 カ国もある、8 億5000 万人しかいないのに54 カ国もある。つまり1 つの国が、平均すると東北地方くらいの規模しか持っていないんですね。こういう国がですね、しかも植民地主義で分断をされ、なおかつ自分の国にいくつもの民族がいて、ところが隣の国に同じ民族がいたりする。そういうような状況の中でひとつひとつの国が自立した経済規模をもつ国家として成立するわけがないわけですよ。で、そうした時にいかに過去の植民地主義による分断を克服して経済的な統合というのを、たとえば地域レベルでなしていくのかっていうのが非常に重要になるわけです。
 南部における、今、もうすでに経済共同体っていうのがいちおう出来てるわけですね。つまり「南部アフリカ開発共同体(SADC)」っていうのが出来ていて、西アフリカは「ECOWAS」っていう「西アフリカ経済共同体」っていうのが出来てると。これがそのいかにその過去の植民地主義の分断された部分を統合して、一つの地域単位として成長していくことができるのか、この視点が、つまり分割統治で54 カ国もあるわけですから、それをどういうふうにひとつの経済単位として、過去の分断を克服してユニットをなしていくのか、そしてアフリカ全体が、かつてアフリカ全体が独立したときに掲げて、なおかつそれが理想主義的だったために、成立しなかったパンアフリカニズムというものをですね、どういうかたちで現在に、それもいわゆるその欧米のアフリカ共同管理という観点を乗り越えるかたちでリバイバルさせるのか、そこがやっぱりアフリカの今の市民社会とアフリカの国家権力に問われてるところだろうな、というふうに思うわけなんですよ。
 だからその点はやっぱり非常に重要なポイントだろうなと思っていますし、今、たとえばAU がですね「アフリカ連合」がある。もちろんアフリカ連合っていうのはいろんな側面がありますけれども、アフリカ連合の中で、やっぱりそのアフリカの統一であるとかあるいはその経済的な分断をどう乗り越えていくかというビジョンっていうものを、ある程度AU の中で、そういうプランがですね、自ら形成するものとして出てきているということは、これは過大評価ではなく評価すべきことだと。

◇諸国にとってのアフリカ
 そして、この部分をいかに、たとえば日本がかつての植民地主義に、欧米の植民地主義、アフリカに対する植民地主義とはある意味縁もゆかりも無い日本がですね、そこをどういうふうにサポートできるか、っていうのがひとつあるだろう。だからそういう意味でその非欧米諸国がアフリカにコミットする場合にいかに分断、いわゆるヨーロッパによる分断というものを克服し、あのユニティを回復することができるのか、その非欧米諸国のアフリカ支援は持つべきだろうと、思うわけです。だから逆にいうと中国やインドという非欧米が、アフリカにしっかり経済的にコミットする場合にそこのいわゆる連帯というものは非常に重要になってくるわけなんですね。
 今のところ中国やインドのアフリカ進出っていうのは、そういうビジョンを全く持ってないわけですけど、経済的な利権というベクトルを持っていて、そしてたとえば中国なんかかつてのそのいわゆる社会主義の友好と連帯での支援っていうのは、あるいは平和5 原則とかそういうところでの支援っていうのはいわゆる建前上のものにしかなってないわけだけれど、逆に言うとそこの理念を、実態として復活させることっていうのは、ある意味重要なんじゃないかなというふうに思っています。
 そこができることによってアフリカというのが、そのいわゆるアジアが今、これだけ浮上してきて、そして欧米中心の世界システムというのが大きく変わる中でアフリカがそこで、今までの欧米中心の経済システムの中で一番末端に位置づけられていたものが、どう浮揚できるのかっていうのは、非欧米の大国がどれだけそういう観点からいかにその植民地主義で分断されたアフリカの歴史を終わらせるために取り組めるのかと、いうところに鍵があるのかな、と。で、それをリードしていくアフリカの指導者と市民社会の知恵というのが非常に重要だろうなというふうに思っているところなんですね。その知恵というのは、今ある意味出てきてはいるだろうというふうに思っているところなんです。
(立岩)基本的にそうだし、そうでしかありえないというふうに思うんだけれども、そのさっきの、その手前の、まだ聞いてない話としてね、インドなり中国っていうアジアの大国にしても、あるいはその手前でその旧来の、欧米の大国にとってのアフリカっていう話なんですね。
 一つ単純に考えられるのは、マーケットとして、原料の産地であり、製品を売る場所としてもそういうマーケットとしてのアフリカってことだけれども、まあそれはそれとして、今でもあるし、ある部分成長していくだろう、っていうこともあるのかもしれないし、もっとっていうこともあるのかもしれない。
 ただそういう経済的な部分と、それから一方で、たとえば立命館に来た人だとバリバールなんかが書いてるけど★、もう放っちゃっといた方がある意味、コストかかんない、そういうマーケットとしての利益は利益としてほっといてもある程度とれるだろうし、それ以上、たとえばエイズなんかも、まじめに関わって、莫大なお金を使うことになって、そういう意味でのメリットって少なくて、そういう意味で捨てとくか、とっとくかみたいなね、そういうあたりにあるとすればね、その辺の位置取りの、現状としての位置取りとしてはどの辺にあるのか。

★「真に連続した不幸の連鎖といったものを、形作る、自然的かつ文化的な絶滅的過程への一般化した非介入[…]チェチェン、コソボ、パレスチナ、イラク、チベットは、ルワンダ、アフガニスタン、アルジェリア、コロンビア、ブラジルと肩を並べ、また、アフリカのエイズ問題、洪水によって荒廃したインドの地方とも肩を並べている。すなわち、また実際には考察されていない絶滅的な生─政治あるいは生─経済の現実」(Balibar, Etienne「暴力とグローバリゼーション─市民性の政治のために」、2002 年10 月16 日、21 世紀・知の潮流を創る、パート2 於:立命館大学→松葉祥一・亀井大輔訳『現代思想』30-15(2002-12):16-27
 でも、ほっときたいけど、完全にほっといてそれでどうなのかって言えば、ある程度人道的な批難っていうのも当然受けるだろうし、それからテロリズムにしてもなんにしても軍事的な意味も含めた不安要因というものになると。そういうことも、様々関わっている可能性あると思うんですけど、とりあえず現状どうなのか、そこが今後どういうかたちで変わりうるのか、あるいは変えるべきなのか、それを…。
(稲場)そうですね、そこは難しい問題ですけど。まず、アフリカ支援っていうものがこれまでどういうかたちでなされてきたのかっていうことを振り返ったときに、80 年代後半の構造調整政策というものがひとつあって、つまりソ連とのですね、単純に言ってそのソ連に取られないために莫大な援助をしてきた時期っていうのが、冷戦期にあるわけですね。つまり、どんな独裁者であろうが、どんな連中であろうがソ連に取られないためにとにかく援助をするという時期っていうのがあったわけですね。それがソ連が崩壊する中で、アフリカに援助をする必要がなくなるという中で援助っていうものが途切れていくという90 年代があったと。
 この90 年代にアフリカはどうなったのかっていう、つまり今まで独裁者を支援して膨大なお金をこうとにかく注いでいたところが、何も来なくなったと。その結果どうなったかっていうと、なおかつ構造調整政策でなけなしの公共事業に出してきた、教育や保健に出していたお金が全部借金を返す方向に流れていくと。そういう中でアフリカにお金がなくなる中で、どうなっていったかっていうと、きわめて悲惨な状況が起こってきたと。つまりアフリカ諸国の多くが内戦に陥り、なおかつHIV / AIDS に至っては、毎年レポートが出ていて、それで何百万人という人たちが次々と感染をし、そして感染率が20%になり、南部アフリカでは。そして平均寿命が30 代に落ちると。そういう破局的な状況が生じていった。
 これをどうみるかっていったときに、結局世界経済なり世界貿易に占めるアフリカの割合っていうのはわずか3%だろうというのが一方である中で、ところがたとえばフランスっていう国を考えたときに、フランスっていうのはアフリカ植民地がなければ、旧植民地が無ければただのヨーロッパの二等国に過ぎない、非常に端的に言ってしまえばですね。つまり本国部分だけしかなくなるわけですからね。彼らが帝国であるという、フランス帝国というものの、いわゆるアイデンティティ上の根拠というものがどこにあるかっていうと、これは当然のことながらフランスは帝国である、フランスが世界帝国てあるっていう根拠はアフリカ植民地にあるわけですね。アフリカ植民地が自分の権益を守り、自分を支えるということが無くなったら、フランスはあそこしかないわけですから。
(立岩)フランス語を喋る人はフランス人しかいないと。
(稲場)フランス人しかいないと。つまり、貿易上は3%しかないにしても、フランス帝国というものの根拠というのはアフリカ植民地にあり、フランス帝国っていうものはアフリカ植民地がなければフランス帝国たり得ない、つまり逆に言うとフランスはアフリカに依存しているわけですよ。このいわゆるアイデンティティ上の依存っていうものがやっぱりある。イギリスについてだってそれは同じですね。ジンバブウェとイギリスは今すごい大変なことになっていますけれども、なんでかっていうとジンバブウェにイギリスはものすごい利権があるからですね。たとえば白人の土地を全部取ろうとしたムガベ大統領を、独裁者だといって延々と責め立てて、ムガベとフセインは同じだっていうところまでいったですね、そういったイギリスのやり口の、その中にはやっぱりその自分の島だっていう意識がすごく強い。
 つまりそのいずれにせよアフリカというのはヨーロッパにおいては自分の存在意義というものを位置づけるためにアフリカに依存している部分って言うのは、すごくあるわけなんですよ。そこっていうのは経済では測れない。なおかつそれっていうのは逆の意味でも正当なこと、正当なことって言うか、逆の意味でもですね…その位置づけを持っている。つまり今のヨーロッパ先進国がヨーロッパ先進国になった歴史的な経緯って言うのは、いわゆる三角貿易なりなんなり、その重商主義による、数百年にわたるアフリカと新大陸とヨーロッパを結ぶ連鎖的な不等価交換を延々と続けたことによって彼らは先進国になってるわけですから、そこでの歴史的な依存関係というものが存在しているわけなんですね。
 そういったことを考えたときに、今における経済的な量っていうのがたいしたことなかったにしても、彼らは結局アフリカというものと、関わりなくはいられないっていう状況にあるわけです。つまり自分の国のすぐ南にこんな巨大なところがあるわけですからね、そりゃ関係ないとは言えないわけですよ。そういうような状況の中で、特に20 世紀の末っていう90 年代末から、援助が増大していくわけですね。

◇腹くくればさほどでないこと
 他の金に比べればたいしたことないんですね、援助の金っていうのは、多くは見えますけど。イラク戦争の戦費とかですね、そういったものに比較してそんなでかくはないわけですよ。たとえばHIV / AIDS に、HIV /AIDS を…たとえば2010 年までに予防ケア、治療の包括的なユニバーサルアクセスというものを実現するために必要な経費をUN エイズが見積もっていて、それは2008 年において221 億ドルであるといってるわけですから、221 億ドルつまり2 兆4000 億円、2 兆6000 億円っていう金っていうのは、日本の歯科治療費総額と一緒なんですね。
(立岩)歯科。歯ね。
(稲場)歯です。つまり、日本の歯科治療費総額と同じものを世界全体でエイズ治療費として撒けば、1 年間にですけどね、それで包括的なエイズ・ユニバーサルアクセスが実現するっていうふうに言ってるわけなんです。これは結核やマラリアに関していえば、数年前の見込みでは6000 億円でなんとかなると。今は膨大に増えてますけど。6000 億円っていうのはNHK の年間予算と一緒なわけですよ。つまり先進国でそういうようなかたちでの経済単位、一つの巨大な組織の経済単位くらい、予算くらいのものをそこに投入すれば、なんとかなる。ところがこの金が出ない、っていう話なんですね。つまりそれっていうのは世界のいわゆる予算組みの配分を、ある程度発想を転換して変えることで容易に動員できる金であるということはいえるわけなんです。そのレベルにまで達してるわけでもないんだけど、ただ援助の金っていうのはある程度増えてきている。
 これはやっぱりアフリカの人道危機というものがあって、それに対してどういうふうに世界が向かい合うかっていったときに、いわゆる最低限に足りないけれども、ある程度動員しなければいけないっていう部分の中で出てきたことであると。そしてミレニアム開発目標が2000 年に設定されて、2015年までのこの世界人権宣言での社会権っていうものをなんとか実現していくっていう方向性っていうのがいちおうある。ただそれに対する資金っていうのは全然追いついていないという現状であるということなんですけども。
 つまりアフリカに対する認識っていうのは、アフリカがヨーロッパに対してもっている認識、もう非常に複雑な、やっぱ長い植民地主義の歴史、あるいは奴隷貿易といった関係性の中で築かれた長い、いろんな認識があるので非常に難しい。端的にこうだとはいえないわけですけど。逆もまたそうであって、たとえばアフリカを放置すればいいということに関しては、日本のような立場だとね、そういう関係が無いからそういうことを言えるわけだけれど、ヨーロッパにとってはそういうものではないことを、ある意味共依存の関係にあるというふうに言ってもいいくらいのものだろうと思うわけなんです。そしてその共依存の関係は、共依存だからこそ病的な関係であるということなわけですね。
 その病的な関係をどういうふうに健全化していくかっていったときに、結局アフリカとヨーロッパだけでやっていても、これ絶対、共依存である以上、共依存の人たちがこう両方やってもなかなかこううまくいかないわけで、だから第三国というものがちゃんと登場していかなくてはいけないと。そしてその第三国っていうのは金っていう問題ではなくて、どういうふうにこの共依存関係を解くかっていう部分を考えていかないといけない、そういう介入の仕方をしなければならない、そこのファシリテイトするのはどこなのかっていったときに、中国、インド、今それできるか微妙ですけど、いわゆるヨーロッパでないアメリカではないところが、それをしなければいけないんじゃないかというふうには、思っていて。そういうそのアフリカを取り巻く世界像というものをやっぱり、ひとつはアフリカ側がきっちりこうリードしていくっていうことが必要だし、それは今、徐々に出来てきているだろうと、思うんですけども、そこの部分をもうちょっと考えた方がいいかなと。
 あと日本はそういう文脈をしっかりとらえる必要があるだろうなと。ところが日本のこの間の援助論理っていうのは、ODA が減って行く中で、非常に内向きのものになっていると。つまりODA を増やすためにどういうふうな仕掛けをするかっていうのはいろんな人が考えているわけですけども、その中に結局出てきているのはODA は国益のためであると。別にそれでいいんだけどただ、ODA はわが国はODA を国益のためにやるのであります、というのをどこか国際会議の場所で大きな声で言えるかっていうとそれは言えないわけで、いくらそんなこと言っててもしょうがないわけですね。だから国益でいくかどうかっていうそこら辺はとりあえずおいといて、まあ国益のためのものであるにしても、じゃあそれでは説明できないわけだから別の言い方をちゃんと考えなきゃいけない、これはひとつあるわけです。
 あともうひとつは日本が、これまた非常に逆説的な、市民社会側の意見としてはなかなか正当ではない意見になるとは思うんですけれども、日本という国がですね、つまり世界第二の規模を持ってる日本という国が、アフリカとは関係が無いからということで、自らのアフリカに対する戦略を持ちえないとするならば、そもそもそれは日本が世界に対する、つまり世界帝国っていうのは世界に対する影響力を世界のどの部分に対する影響力も持たなきゃいけないのが世界帝国なわけですから、そのアフリカっていう地域は遠いから、あるは関係がないから関係持たなくていい、あるいは援助しなくていいというのであればそれは日本はそういうレベルの国家として今後生きていくっていうことになるわけですね。つまり、自分のところと特に関係が無い国に関しては何の戦略も持たない国家として生きていくと。これっていうのはいいのかっていうのは国家の側はちゃんと考えなければいけないわけですよ。ここに関して充分な思考がないっていう、非常にある意味日本の国家権力っていうものの、いわゆる戦略性の無さ、あるいは弱さというものをある意味認識せざるを得ないところかな、っていうふうには思ってるわけですね。
(立岩)たしかにね、国家統治のサイドに対する物言いとしてはそういう言い方はありだと思うんですね。面白かったです、僕はほんとうに。
 一つは、特にヨーロッパというのはアフリカ、共依存という言葉使われたけど、しがらみがあると。しがらみがある以上、なにがしかのことはしなきゃいけなくて、やってると。しかし、それは共依存であるがゆえにというか、いろんな歪み、うまくいかないところを必ずもたらすと。もたらしていると。
 もう一つのポイントは、まあたしかに金はかかると。そりゃ、腹くくんなきゃいけないと。だけれども、むちゃくちゃかかるっていう話じゃない。
(稲場)うん、そうですよ。
(立岩)そうですよね。そういう意味でいえば実現可能性がもともとない話じゃなくて、あるっていうとことから発すればいいと。
 それプラス、別の利害からヨーロッパは動いてると。だけれどもしかじかだと。そういった場合に、日本が、金が無いわけではない日本が別のスタイルで、っていうか別のスタンスでこれに関わることは出来るだろうし、ま、そのときのあり方っていうのはアフリカのひとつひとつの国を単位にしたものというよりは、あるいはアフリカのある種のユニティ、みたいなものを、とか、に関わるものであるだろうっていう。ある意味明確なビジョンというかな、方向っていうのは私も同意できるという。で、僕はすごい面白かったですよ。で、こんな時間たっちゃいました。
(稲場)すいません(笑)
(立岩)すいませんっていうのはこっちの方で。僕はよく授業とかで2 コマ続きで3 時間ぶっ通しで休みなしで喋ったりするので、私は慣れているんですが(笑)、稲場さんどうも大変でございました。
(稲場)皆さんどうもお疲れ様でした。
(立岩)っていうわけで今本当に7 時でございます。めしも食わなきゃいけないし、やったらもっとやっていけると思いますけど、だいたいあと30 分くらいでね、質疑とかにしましょうね。

◆質疑応答
◇ターゲット/モビライズ…
(稲場)あと、あのテーマにあった話でしたでしょうか。
(栗原)うん、それは大丈夫ですよ(笑)。
(立岩)栗原さん、補足してっていうか…。あれば。
(栗原)なんかこう、僕としては単純にこんだけひどいよ、って話だけじゃなくて、どこをどうとっていくかみたいな話が聞けるだろうな、って思っていたので、具体的にはその、たとえば僕らの特集に勝手に絡めてもらえれば、「社会」ですけど、だいたい、社会的なものをどうやって取るかみたいな…、その動態としての運動というか方向としての運動というか、そういう話を厳しいところもあり、かつどっかの何か…複雑なんだけどちょっと楽しみながら、というか…。そういうことで面白い話聞けて非常に嬉しかったんですけれども…。
 最初の方で具体的な話がでましたよね、その日本における茨城に来ているナイジェリアの人とかカメルーンの人とか。そういうこう個別な事象がありつつも、かつ、その何かちょっといかにもCOE っぽい話かもしれないんですけど、エイズとかそういう話の中から、国際的な医療保険システムとか抜本的な医療システムみたいなのの、どうやって構築するのかみたいなところが、あってしかるべきかなと思うんですね。それってちょっと大きな話だし、抽象的な話なので具体的にどうっていうの、たとえばそのナイジェリアの人たちの話聞いちゃうと、それのバランスで、ちょっとどう目指していいのかとか、どういうことイメージすればいいのを、がちょっと知りたいかな、というかたちなんですけど。
(稲場)はい、わかりました。つまり、たとえばいくつかの目標があり、あるいはHIV / AIDS に関する普遍的なアクセスっていうものを達成するために何が必要かと。その話っていうのは、今すごく考えられている話なんですね。そこの部分っていうのは非常にある意味最先端っていうか、今のいわゆる保健に関する援助を、あるいは保健っていうものを国際保健っていうものをどういうふうにしていくのかっていう、ある意味世界の援助潮流っていうかそういうものの最先端にあたる部分である。ここに関してはいろんな各国が競ってですね、たとえば先進国が競って、国連機関が競って、国際機関が競ってこう作っていく、という部分なわけです。
 これはまた話すときりがないわけなんですけども、今ひとつ、そこは論文が一つ書けてしまうくらいの話なんですが、まあ三つあるとして、まず一つは政策的なターゲット、グローバルな政策的ターゲットを作るっていう話です。たとえばHIV / AIDS でいえば2002 年から3 年に打ち出された「3 バイ5」

★。その当時は今すぐHIV 治療を必要とする人は600 万人いると。ところが2002 年の段階では20 万人しかアクセスできてなかったんですね。そのうちの10 万人が、途上国で唯一、必要な人にエイズ治療薬を供給してきたブラジルの人たちだったと。つまり膨大な途上国の中で、600 万人、590 万人がですね、治療薬を必要としている中で10 万人しかアクセスできていないと。その中でターゲット設定というものをしっかりする必要が、これ当然でてくるわけですね。このターゲット設定をするっていうのが市民社会とUNエイズ、あとWHO がターゲット設定の役割を果たす。つまり2002 年から3 年においてターゲットとして設定されたのは2005 年末までに600 万人のうち300 万人の治療を実現するんだというターゲットだったわけです。

★ 世界保健機関(WHO)による、2005 年末までに途上国のエイズ患者300万人に治療薬を配るという計画
 このターゲットを達成するために、アメリカでいえば「アメリカ国際開発庁(USAID)」であるとか、いくつかの二国間援助機関、そしてさらに一番推進力になったのは2002 年に設立された世界エイズ対策、結核・マラリア対策基金、このグローバルファンドですね。このグローバルファンドが多国間の機関として資金を集め、もう一つは世界銀行が、多国間エイズプログラムというものをやって保健システムとか、そういったことを含めて、ある程度お金を出すと。さらにアメリカ合衆国が、これいろいろ政策上の問題はあるんだけれども、世界において治療を格段に増やす大きな推進力となったのがブッシュ大統領の、「米国大統領エイズ救済緊急計画(PEPFAR)」なわけですね。
 この3 つというものがそれぞれ相乗効果をもってですね、2005 年末までに300 万人はいかなかった、結局百数十万、そして2006 年の半ばくらいに160 万人という数字が出ていますけども、そのターゲットの設定のために、そういうかたちでの国際機関が動いたということがあります。
 まずターゲット設定というのが一つ。そしてターゲットに対して資金をどれだけモビライズするかという仕組みの中で一つは「世界エイズ・結核・マラリア対策基金」というものが設立されて、そしていくつかの資金拠出機関がどういうかたちで連携してそれを実践するのかっていったときに、いくつかの戦略というものがでてきたと。ところがこれ2005 年末までに達成できなかったがゆえに、どういうかたちになっているかというと、2010 年の末までにユニバーサルアクセスを達成するんだと。つまり治療が必要な人は治療を受けられるようにする、そういう体制を作るという目標が、国連とG8で承認されて、それに向けてですね、UN エイズは、モニタリングプロセスを、来年と2011 年にモニタリングプロセスを発動すると。そしてグローバルファンドは資金をしっかり担保すると。目標がいちおうこういうかたちであり、資金があると。さらにそれぞれの目標達成のための資金を担保していく、そしてそれをどう使っていくかっていうことに関していろいろな国家が、国家セクター、市民社会セクターがこう動いていくと、そういう枠組み作りっていうのが特にHIV / AIDS、感染症に関して非常に発達したのがこの10 年間、2000 年の沖縄サミット以降の、沖縄サミット以降、その部分っていうのは非常に発達した部分なんですね。つまりこうやってこうやってこうやるんだということがものすごく理論化され、なおかつ実践ベースにおいても応用されていったと。
 それはたとえばエイズワクチンの開発であるとか様々な予防手段の開発に関してもそういう動きが出て、実際にそこでなされているし一定の資金も投入されてると。一方でその社会保障というか保険部分ですね。保険の部分に関してはこれはまだまだ全然動いてないんですけども、いずれにせよそういうような枠組みの理論化と実践というものがこの8 年の間に非常に大きく発達して来ているということがひとつは言えます。
 あと、これと同様のかたちで基礎教育の充実に関してもひとつの枠組みというのが出来てるんですね。つまりそういうかたちで世界の保健水準と教育水準を包括的にに向上させていこうと、そういう枠組みというのは、今相当進んできてはいると。ただ進んできている一方で、資金が充分には投入されていないっていう大きな問題が残っているというふうにいえるのかな、そこら辺は、まあもっと詳しく話せば話せるんですけども、まあ、それくらいかな。
(栗原)はい、ありがとうございます。

◇傷/ウィリングネス
(立岩)で、まあだいたい今7 時10 分なんで、まあいくらなんでもというか、僕は長いのはけっこう体質的に大丈夫なんですけど(笑)、それはただたんに私の体質のなせることであるにすぎないので、いくらなんでもってことで、半には終わりたいと思います。だからあと20 分ぐらい。あとはもうめし食いに行ってそこで個別にというか、みんなでというか話せばいいんじゃないかなと思います。っていうことなんでだいたいそろそろ店じまいモードに入っていこうと思うんですが、まあ、その飲み屋でわあわあっていう手前のところで一つ二つ、質問っていうんですかね、あれば、皆さんいかがですか。
(N)本当いろいろ々と詳しいお話を伺って大変勉強になりました。ありがとうございました。今日のテーマに貧困っていう言葉があったんですが、心の貧困っていうことに関してのお話はなかったような。ですから、すべてあらゆる立場から人間たちの心の部分の貧困にはどういうふうな手が打てるかっていうふうなことが、今日のお話の中にはなかったような気がしまして、でやはり心の貧困にどういういったいどんなような栄養であるとか、何かが注げるのかっていうことに私は非常にお話伺いながら、とても気になりまして。
 で、たとえばひとつ考えたときに、日本で来年サミットがあるときに日本の市民運動が何ができるかっていう話にちょっと引きつけますと、昨日街中に行きましたら、増税反対、増税反対っていう演説があって、ま、たしかに今の自民党政権で消費税増税なんかしたらどうかっていう話はあるんですが、先ほどからのお話で、日本の歯科医療費1 年分っていう時に、すごく具体的な数字をお出しくださったときに各、日本人が全員1 年間我慢っていうわけにはいかないですよね。そしたらその具体的な数字をもとに、日本の市民団体が私たちが何年間か、その分増税したら出来るんですよみたいなそういうずごいポジティブで熱い心で、自分が出来る、是非したいって一人一人の市民が思えるような方向付けみたいな、そういう痛みを引き受けましょうみたいなことを、やっぱりすごく人材もあり、情報もある市民運動がなさることが出来たら、すごく世の中変わると私思うんです。だから何かそういうふうなこと来年日本にサミットが来るのであれば、つながるのであれば、っていうふうなことを考えさせていただきました。
(稲場)ありがとうございます。ちょっと二つくらい言うことがあるのかなと思うんですけど。ひとつは途上国における心の問題っていうのは非常に厳しいものがあり、
(N)先進国だけの心の問題じゃなくて。
(稲場)そうですね、もちろん先進国もそうなんですけど、たとえば南アフリカ共和国っていうのは先ほど申し上げたとおりなんですけど、非常に過酷な歴史を持っていて、なおかつその過酷な歴史に対する代償というものが、きちんとされていないんですね。つまり南アフリカ共和国の代表的ないわゆるその和解プロセスとしてあったのが、いわゆる「真実と和解委員会」という非常に有名な、ネルソン・マンデラとデズモンド・ツツ司教という二人の偉人というかですね、二人のいわゆる哲人ですね、この二人を看板として行われたこの真実と和解委員会というのがあって、それがいわゆる和解のモデルということになったわけなんですけど、このいわゆるこの和解プロセスにおいて実際に多くの人々が納得できたかどうかって言ったときにこれ非常に難しいことがあるわけです。つまりそんなに簡単に忘れることもできない、アパルトヘイトによる虐殺というものを忘れることはできない。
 あるいは、アパルトヘイトに対して戦った側の暴力も裁かれたわけですけれども、これまたですね、BC 級戦犯的な意味での問題点があったわけなんです。つまりそのたとえば、アパルトヘイトに対して戦おうとしたいろいろな若者たちがどういうことになったかというと、アフリカの社会主義の国々の支配者グループの勝手な都合でですね、アンゴラで戦わされたり、引き回されて、いろんなところで戦わされるということになった、しかもそこでやったことを問われたりとかするなかで、結局その、自分たちの戦ったことはあれは何だったのかとかと、いうことになってしまった部分があるわけですね。
 つまり真実と和解委員会っていうのは、とくに南アフリカにおいては、ネルソン・マンデラとそしてデズモンド・ツツという、非常に偉大な二人がいた結果として形の上ではなんとか収まったけども、実際にそれによる代償、和解効果というものが個別のレベルで本当にどの程度あったかっていうと非常に厳しい。さらにそれが途上国における和解モデルというふうな形になってしまっている。つまり、ネルソン・マンデラもツツもいない国で和解、真実と和解委員会をやっても厳しいわけですよね。だけどもそれは和解モデルになってる。非常に大きな問題なわけですね。つまりその、きわめて長期的なしかも残酷な残虐行為と人種差別というものが起こり、そしてそれが非常に多くの人々にとってネガティブな意味で精神的にダメージを与えていて、それをどういうふうに和解プロセスにもっていくのか、和解プロセス、あともうひとつは様々な精神的な手法をもっての癒しというものをどう追求するのかっていうのはすごく難しいことなんですね。
 たとえばルワンダなんかの大虐殺というものがあって、それに対して今いろいろなかたちで、今の政権が和解プロセスをやってはいるわけですけど、あれはあれでまた非常に、詳しく言うとまた大変なんですけど、そういう意味で途上国におけるさまざまなその歴史的な経緯、それによる精神的なダメージそれをどう乗り越えていくかっていうそこって言うのは本当に手当てがされていないところですね。感染症に関しては今言ったようなことがあるわけですけども、途上国の精神医療をどう向上させるかってイニシアティブはWHO がちょっと考えているけれどもほとんどお金あてがわれてないですね。そこもやっぱり非常に大きな問題だと思います。これからの健康問題だろうなっていうふうに思います。
 それで、も一つはそのいわゆる増税というような問題なんですけれども、一方でそのやっぱり欧米における市民社会運動と「貧困を歴史的遺物に」というとかそういう社会運動っていうのが、そういうそのウィリングネス、世界のウィリングネスというものを動員しているということも非常に大きな要素であって、これは事実であって、それと同様のことを日本でどれくらい展開できるのかっていうことはなかなか難しいですね。気候変動っていうのは、自然がもっとも大きな啓発メディアになってくれてるので、つまり台風がくればみんな台風大変、気候変動大変、ってみんないやおうなしに思うというのがある。ところが感染症の場合は、HIV / AIDS なんかの場合、そうならないと。しかも気候変動は自分の問題だけどアフリカのエイズは他人の問題だという中でどういう形でそこにウィリングネスっていうものを動員していくのかっていうのはすごく難しいことだなあと思うんですけど。
 日本がイノベイティブな海外支援メカニズムをつくるってことが出来るのかどうか、なかなか難しい問題で、気候変動に関しては何らかの形で出来るだろうと思うし、やった方がいいと思うんですけど、やった方がいいっていうか、ある程度できる政治的な圧力があると思うんですけど、同様にそういうものを感染症であるいは途上国の保健支援で作れるかどうかっていうのは市民社会にとって非常に大きなチャレンジだと思います。それなるべく出来るようにはしたいと思いますんですけど。そこをまだアイデアが充分ないですね。まあなるべくちょっと検討してっていうか、頑張っていきたいなとは思ってますけど。はい、すみません。
(立岩)たしかに、しゃあしゃあと、っていうか正直にというか、税金余計に払おうぜ、みたいなものの言い方っていうのはある意味ストレートでいいかも知れないと、僕も思うんですね。明日の『京都新聞』にちっちゃくコラムが載るのもそういう話ではあって★。私もある意味で増税論者なんで、まあ、僕の場合はその必ずしもみんな均等で増やせっていう話じゃないんで、累進性もっときちんとつけるみたいな話なんでね、またストレートな増税論者ではないんだけど、ま、そういう話も関係はあるかな、と思います。さて、あと10 分ですが。

★立岩真也 2007/08/03 「削減?・分権?」,『京都新聞』2007-8-3 夕刊:2現代のことば(掲載は遅れて8 月3 日になった)

◆質疑応答2:アフリカにおけるゲイおよびゲイ・アクティビズムの状況
(K)あと1 点ですが、まず最初に今日のお話、すごいエキサイティングで面白かったですし、やっぱり僕、稲場さんのアクティビストだなあという感じが(笑)ひしひしと伝わる、僕はすごく感動しました。で、それはいいんですけど、僕はお聞きしたい点はアフリカにおけるゲイおよびゲイ・アクティビズムの状況について、概観だけでけっこうですので、教えていただければと思います。というのはニュースで伝わってくることというのは、ナイジェリア悲惨だよとかそういう話しか来ないんです。その中でどのような運動が展開されていてあるいはどのような運動上の困難があるのかというあたりを聞かせていただければと思うんですけど。
(立岩)そうですね、それ忘れてたっていうか、案内のホームページの下の方には書いてあったんだけど。稲場さん書かれた話もね、『現代思想』に書いていた話もその前も、アフリカっていうのもあるけれど、イスラムにおけるゲイの位置っていうのがあって、それはイスラムにおけるFGM の問題であったり、それにたとえばフェミニズムがどう対するかみたいな、本当に厄介な問題でもあるんですよね、これを答えろっていうのもたいへんなことですけど、まあ概観っていうのと、僕まだちょっと、じゃあそれどうするべ、って話と、両方ともでかい話ですがまあちょっと残り時間で(笑)やれるところをって感じですね。
(稲場)そうですね、まずアフリカのゲイの状況なんですけど、ひとつやっぱり一番大きな問題になってるのはやっぱり、これ伝統的なものなのかそれとも近代的に構築されたものなのか、両方だと思うんですけど、やっぱりその男性優位主義、マチスモですよね。いわゆるそのジャマイカなんかでもよくあるところのつまり男性は女性とセックスするものであって、男性、とくにその男性と男性がセックスする場合でも特にその受身側になるほうですねそちらに対する暴力とか差別とかっていうものが非常に強いわけですね。そのマチスモの問題と非常に大きな問題として暴力の問題としてあるところです。で、あともうひとつはその、それは日本の80 年代とかもそうだったと思うんですが、ゲイとしてのライフスタイルというものが誰も追求してない場合、自分どう生きていいのかわかんないっていう、そこはかなり大きな問題としてあるわけですね。
 つまりゲイ、たとえば身近にゲイカップルで生活している人とかあるいはゲイのアイデンティティをもってそれを大事にして生活している人とかっていう人たちが身近にいれば自分もそうしてみようっていう話になるわけですけど、ロールモデルがいないと結局そういう、自分は誰で、どういうふうに生きることが適切なのかっていう、複数のオプションとかモデルっていうものが提示されない。その結果として伝統的な生活スタイルに従わざるをえなくなってしまうということは非常に大きな問題だろうと思います。つまり宗教的なファクターを除くとその2 つの問題が非常に大きいのかなと。つまり伝統的なマチスモと、そしてどう生きればいいのかっていう道がオプションが示されないっていうこの2 つの問題ですね。

◇ナイジェリア/ガーナ/ウガンダ…
 ただ、現状でたとえばナイジェリアは非常に悲惨な状況であるということが新聞報道でいくつかあったかもしれないんですけども、一方でそのナイジェリアっていうのはゲイ解放運動がそれなりに存在している国でもあるわけですよ。つまり、ナイジェリアの一番古い、古いっていうかナイジェリアで一番最初にゲイの運動起こした人がヨルバ人でいるんですけど、彼が「アライアンス・ライツ・ナイジェリア」っていう団体を作ったんですね。5 人のゲイと一緒に作って、それがけっこう西アフリカの中ではゲイの運動としては一番早くできたグループなんですが、この5 人がどうなったかというと2 人はエイズで死に、1 人は親に迫害されて南アフリカに亡命して、1 人は団体を別にラゴス、一番でかい町で作ってその創設者はイバダンっていうナイジェリアで2 番目に大きな町で同じ団体をずっとやっていると。つまり、5 人のうち2 人は死んで1 人は亡命、少なくともこの3 人はもう運動から脱落してるわけですね。物理的に2 人は脱落しているわけ。でこの2 人はHIV / AIDS なりなんなりを中心にしながらゲイの団体をしっかり作っているわけなんです。
 私が非常にナイジェリアに行ってびっくりしたというか、ナイジェリアのエイズ会議に行ってびっくりしたことは、ナイジェリアのエイズ会議でゲイ・レズビアンのパーティがあってですね、そのパーティに行ったときにナイジェリア人のゲイとトランスジェンダーの人たちがたくさんいたんですね。若者。この若者達がみんなしっかりしたゲイライツの考えというものを持っていて、そしてゲイとしての人権ということに関して1 人1 人がしっかりとしたことを言える、そういう状況であったと。
 ナイジェリア自体はその旧ソドミー法がですね、イギリス領の時代にビクトリア朝時代に導入されているので、同性間性交渉は非合法なんだけど、そのゲイバーっていうのはゲイバー自体を作るとまずいんですけど、ゲイ中心で運営されている、別にヘテロセクシャルも来られるんだけど、ゲイ中心で運営されているバーというのがいちおうあるんですね、ちょっと私は行く時間がなかったんで行かなかったんですけど、ラゴスにもあればいくつかの大きな町にも存在してると。
 でまたそのHIV / AIDS に関する啓発運動っていうのはイバダンとラゴスっていう二つの大きな町ではいちおう展開はされていて、なおかつ彼らはナイジェリアのエイズ活動家のコミュニティの中ではそれなりの発言力を持ってるんですよ。そういう意味でかなり私自身は、ナイジェリアっていうのは、たしかに非常に厳しい状況である一方で、一定その石油成金とかお金持ちがいる国でもあるので、それでいわゆる中産階級以上の部分の中でゲイソサエティっていうのは一定あって、そしてそこがある程度ゲイコミュニティを、運動としてモビライズしている部分はしっかりある国だっていう感じを持ったんですね。
 ちょうどそのパーティにガーナのゲイのグループの人が来ていて、私はそのあとガーナに行ってその人の事務所に行ったんですけどナイジェリアの場合、自分の団体の事務所を看板つきで掲げるっていうのは非常に難しい状況にあるんです。ナイジェリアっていうのはガーナに比べると格段に暴力的な国でなにが起こっても不思議ではないので、ある意味なんか、ここ襲おうぜ、って言って襲っちゃうみたいなことはいくらでもあるので、公然とっていうのはなかなか難しいんだけど、ガーナの場合は実際にもうオフィスを構えていて、何人か活動家がいてエイズキャンペーンにしてもなんにしてもそれなりにできているということだったんですね。そういう点で非常に興味深かったなと思います。
 アフリカのゲイ運動に関してやっぱりその一定の梃入れが特に国際機関からあるんですよ。というのはたとえばナイジェリアで、アライアンス・ライツ・ナイジェリアのその年間総会をやる資金を出したのは、これは、アメリカ国際開発庁、USAID が資金をだして、それでそういうのやると。つまり、それはゲイコミュニティにおけるHIV / AIDS のことをやるっていう動きがあるからですね。ガーナなんかにおいてもUN 機関が一定そういうグループを作るうえでのそれなりの働きをしているということがあります。ですからそういう意味で国際的な、国際機関の支援っていうのが一方でそれなりにあるんですね。そういうところが特にナイジェリアやガーナの運動を見てる場合には国際的な支援てものがあることがあって、一定のその運動を継続させる、あるいは市民権を持たせる上でも重要なのかなっていうのがあります。
 逆に、ウガンダに行った時にウガンダのゲイの団体の人たちから言われたのは、ウガンダっていうのは国際機関のトップもウガンダ人がやっているので、ウガンダ人の国際機関トップはゲイ・レズビアンの運動に全然理解がなくて、そういう国際的な支援というものを全然得られないと。そういう意味で非常に大変であるということを言ってた。ただ一方でウガンダっていう国もある程度90 年代から経済成長して都市部にはゲイコミュニティはそれなりにあるんです。そのゲイコミュニティがある程度、運動団体を組織化してそしてかなりその、民族主義的な色彩の濃い今のムセヴェニ政権に対してゲイの権利っていうの主張したときにすごい暴力で弾圧をされて無期懲役とかになったりした人もいたわけですけども、逆にそこを国際的に発信したことによってムセヴェニ政権もそんなにひどいことは出来なくなったという状況が、ウガンダの今の状況ですね。

◇南アフリカの当事者運動
 こういうアフリカのそのゲイ・レズビアンの運動に対して非常に精神的な支えになったのが南アフリカのHIV / AIDS に関する当事者運動なんですね。その南アフリカのトリートメント・アクション・キャンペーン(TAC)っていうその、HIV 陽性者の運動を一番進めていった団体のトップであるザッキー・アハマット氏が、ゲイ、マレー系の南ア人なんだけどゲイの活動家で、彼のリーダーシップっていうのは、HIV 陽性者の中ですごい尊敬されてるわけですね。彼がゲイであったっていうことは、ゲイっていう存在をアフリカのHIV / AIDS 運動の中で非常に高い存在に位置づけ直したというのがあります。だからそういう点で南アフリカ共和国のトリートメントアクションキャンペーンの運動っていうのはHIV / AIDS だけではなくて、ゲイ解放運動にとっても非常に大きな象徴的な運動としても存在しているということが言えるわけですね。
 そういう意味でもっていうか、けっこう今はアフリカのゲイの運動はそれなりに進展しつつあって、いくつかの国のネットワークが南アフリカに集まって会議をしたりとかそういうモビリゼーションがだんだん出来てきているという状況かなと思います。90 年代にもそういう動きが若干あったんだけどけっこう白人主導だった部分があって、それを今は乗り越えてそれなりの土壌が出来てきているともいえる、ということで、その点はまあ、一方ですごい進歩だっていうふうに言うこともできるのかなあ、というふうには思っています。

◇イスラム圏のゲイ
 イスラム圏のゲイの話っていうのは非常に難しいところでですね、これは前なんかの集会でプレゼンをしたことがあったような気がするんですけど、あれなんだったっけなあ、いわゆる女性性器切除に対する運動とそれを批判する側の言説の問題とかっていうことにちょっといくつかプレゼンをしたことがあったような気がするんですけど、いずれにせよイスラム世界において同性間性行為っていうのはかなり頻繁にみられるものではあるんです。それが機会同性愛である以上はそれなりの寛容さって言うか見逃されるっていう部分がある中、同性間性行為っていうこと自体はイスラム圏には非常に多くみられる、それはイランにおいてもある意味そうなわけですね。ところがこれが同性愛である、そして同性愛者の権利を求める政治運動であると言ったときに、どういうことが起こるかといったときに、そこで権力が牙をむいてくるわけですよ。
 で、ここの違いというものを日本の裁判所は見ることが出来なかったがゆえに、S さんは両方とも裁判で負けることになってしまったわけなんです。つまりその同性間性行為は一般的に存在しているわけですよと、しかも同性間性行為をした人が全員つかまって死刑になってるわけじゃないだろうと。そういうロジックの中でそのことと同性愛者としての人権を訴える政治運動をすることとが混同されてしまう、そしてなおかつ日本の東京裁判所は東京地裁も東京高裁も、あと東京地裁の判決でですけど、自分が同性愛者であるということを主張するのは性表現であると、性表現に対してどんな規制を加えようと国家権力がそれぞれの法律において行うことであるから、それは各国の自由に任されるべきであって、たとえば自分が同性愛者であるということを言う言わないということに対する規制をするしないっていうのは、これは別に何の弾圧でもなんでもないんだ、っていうすさまじい理屈ですね。そして彼は、彼の主張は政治的意見ではないっていう判断でそして、敗北してしまったと。こちらはそれに関して、そもそもそういうような考えがあることは見込んだ上でいろいろなことは言ってたんですけど、結果としてそういうようなかたちになってしまったわけですね。

◇想像のゲイ共同体
 イスラム社会というところにおいて、そこの中で非常に微妙な問題っているのはたとえば女性性器切除の問題で、たとえば岡真理さんが言っているロジックというものに関しては私は徹底的に批判的なんですが、つまりたとえば、ここはその本を読んでない人がおおいからあんまりそこ話してもしょうがないですよね。
(立岩)よろしかったら、あっさり…、あっさりした話じゃないですけど。
(稲場)あっさりした話じゃないですね…、岡真理さんの指摘っていうのは必ずしも、ある意味間違ってないともいえるわけです。女性性器切除に反対する運動っていうのは、女性としての連帯なり女性としての「階級」というものをそこで出してしまうわけだけれども、そもそも途上国の女性と先進国の女性の間には大きな開きがあるわけで、そこの部分に関して同じ女性だからということで、そういうレズビアン連続体(注:アドリエンヌ・リッチが提唱した概念)じゃないけれどもそういう連続体としてのね、…そういうことを主張できるのかと、本当はそこが分断されてるんじゃないかということを言う。
 そう言うわけだけれども、じゃあ、たとえばその理屈をイスラム圏における同性愛者弾圧っていうことにひっくり返していったときに、途上国のゲイと、先進国のゲイと同じゲイであるから連帯できるというふうにいえるのかって言ったときに、われわれは言えるというところから始めないといけないわけですよ。つまり、いえるというところから始めなければ運動はできないわけですし、実際そこの途上国でわれわれはゲイであるということをいってる人がいる以上その間の連続体も想像、いわゆる想像の共同体としてもそこを広げていかなければ運動としては成立しないし、またそれを望んでいる途上国の人たちが、途上国のゲイなりいるわけですね。そこにわれわれは、もちろんそこのその分断線はあるわけだけれども、逆にそこを想像上の共同体としてそこを仮定するところから話を始めて、断絶を、断絶はそこからしか乗り越えられないわけだから。
 この部分をですね、もっといわゆる分断状況から話をはじめなければ素直な話じゃないっていうね、そういう指摘っていうのは逆に言うと、ある意味分断を固定化することにしかならないし、そういう点で言うと、彼女のその主張っていうのがある意味運動破壊の部分をすごくもっているとしか言いようがないわけですね。
 つまり、ゲイの問題、ゲイに対する弾圧っていうこととパラレルに考えたときにある意味そこを非常に見えやすくなるわけですけどね。つまり女性性器切除の問題の場合はある意味その見えにくい部分もあるのかもしれないんだけれども、それをゲイの問題に照らし合わせていくと、その理屈だとゲイ、イスラム圏におけるゲイに対する弾圧に関してもわれわれは反対できないということになりますよね、と。いうことになってしまうので、その部分では私自身はいわゆるそこの分断線というのを強調するとするならば、じゃあ逆に想像上の共同体としての担保というものをどこにじゃあ置くのか。
 あともう一つは、われわれがこちら側としてどう応答するのかって言ったときに、中身は考えなきゃいけないけれども、一方でそこで、言語表現の意味で、ある意味粗雑な言説なり配慮にたらない言説が出てきたときに、それに目くじら立てて噛み付くっていうことがどれだけ生産的なことであるのかっていったときに、やっぱり非常に非対称的な言説構築にしかなってないんじゃないかっていう感じが非常に受けるわけなんですね。だからその点で私自身は岡真理さんの指摘に対してしては非常にまあ、懐疑的というかですね、こちらとしては批判的に考えているわけです。
(K)戦略上のものであるにしても実質的なものであるにしても、トランスナショナルなゲイムーブメントはゲイネイションっていうのものを、いわば想定し…。
(稲場)そうそうそう、そのとおり。
(K)そのなかにいわば様々な社会保障なり、あのあるいは再分配なりのあり方を考えていかないと運動として成り立たないと、で、その意味で言うならば先ほども話でましたけども医療保障っていうところ、国内でさえ、たとえば他の国からやってきたいわばオーバーステイのゲイに対してさえ、医療保険が提供できておらず、それに対してあんまりゲイ全体として関心もたれてない現象っていうのは、ゲイネイションっていう視点からしたときに、より強く問題化されるべきだろうなあっていうふうに思います。ありがとうございます。
(稲場)そうですね。つまりやっぱり結局のところ、想像上のコミュニティなりアイデンティティとして、こちらがその連続体っていうのを考えていかないと、やっぱりそこからしか話始まらない。つまり運動作る場合、そこからしか話始まらないということをやっぱり位置づける必要があるのかなと、そういう中でたとえばS さんの問題とかいろんなことについて取り組んでいくわけだけれど、そういう意味では逆にコミュニティの部分で、そこに乗り出そうっていう力っていうのが今のところ働かないっていうのも日本の現状でもあるのかなあと、それはある意味しょうがないといえばしょうがない部分ではあるんですけど。まあ努力していくしかないのかもしれないですね。今その努力ができないのが残念なんですけど。まあ、そんな感じ。

◇南アフリカの当事者運動についての補足
(立岩)さっきの南アフリカの人、ザッキー・アハマット、あの方は今は、っていうか。
(稲場)元気にしてます。南アのエイズ政策がちょうどその南アの非常にどうしようもない保健大臣がおそらくはエイズとおもわれる症状で入院をして、引退というかですね、実質上保健大臣としての役割が果たせなくなったので今の副大統領と、保健副大臣とがそのエイズ政策を新しく担うことになったわけですよ。彼らがTAC の路線を路線として採用することになったんですね。その結果今のTAC の副議長であるそのマーク・ヘイウッドっていう、マーク・ヘイウッドがあの南アのその南ア国家エイズ委員会の副議長をやると、いうかたちでかなりそのTAC のHIV / AIDS ムーブメントは南アの中心的な、路線に今なりつつあると、そういう意味で非常に大きな勝利を。
(立岩)大臣さんはいつ、引退っていうか退かれたんですか。
(稲場)彼はね、去年の夏くらいかな。
(立岩)するともうだいたい1 年くらい。
(稲場)そうですね、大きく変わりましたね。
(立岩)ザッキー・アハマットのファイルはわれわれのホームページにもありますのであとでご覧ください★。

★ Achmat, Zackie[ザッキー・アハマット] http://www.arsvi.com/w/az01.htm
(稲場)彼は非常に偉大なゲイ活動家でもあり、HIV 陽性者の活動家でもある。
(立岩)さっきの岡さんも近所にいる人なので、京都在住の人なのでそのへんのリクエストが皆様に高まれば、また、またちょっと別のネタになりますけど、マルチカルチュラルななんとかとなんとかみたいな話で、議論というかな、することはできるかと思いますけど、まあそれはみなさんのリクエスト次第ですから、あったら考えてみましょう。というところで3時間40分たっちゃいましたよ。
(稲場)すいません。
(立岩)いやすいませんてことじゃなくて(笑)、非常にありがたかったんです。どうもありがとうございました。まあ、そんな感じでこれを基本的には全部起こして、適宜編集したバージョンが『現代思想』の9 月号に載るんじゃないかと思っていますので、皆さん楽しみにしていてください★。

★『現代思想』2007 年9 月号 特集:社会の貧困/貧困の社会