老いの憂い,捻じれる力線

北村健太郎

175 われわれは自分自身のことを実にわずかしか知らないので,多くの人は,健康なのに,近く死にはしないかと考えている.また,多くの人は,死が近いのに,健康だと思っている.間近にせまっている熱や,まさにできかかっている腫物に気がつかないで.(Pascal [1660] 1897=1973: 177)1)

1 老いの憂い──本稿の目的

 老いや老人2)を論じるには,自らのささやかな人生を賭ける姿勢で臨まなければならない.確かに私も歳をとってきたし,歳をとることが老いの助走とも考えられる3).しかし,さらに未知の世界が広がっているのだから,未知を論ずるとは大それた試みである.本章は,それを逆手に取って,老いや老人に関して日頃から思うことを素朴に問う企てである.したがって,既に論じられたことも含まれている.
 現代日本では老いや老人を語る文脈は憂いを帯びがちに見受けられる4).アンチエージングの流行は老いや老人の持つ奥行きを捨象して平板な表象に還元する.老人介護では呆けや身体の衰えが周囲にもたらす困難が嘆かれる.しかし,裏返すと老人が生きている証拠でもある.呆けや身体の衰えに対する基本的視点を困難な問題と位置づけるか,生命の躍動と位置づけるかによって,まったく異なった世界が広がる.老いや老人をめぐる人々の困難を無視して,老いや老人を単純に美化するつもりはない.老いや老人を真正面に見ることもせず,何となく憂いを帯びたイメージの流布が老いや老人への恐怖を煽っているのではないか.ジョルジュ・ミノワは「老いという言葉を聞けば,たいていの人は身震いする」(Minois 1987=1996: 3)とまで言う.老いは人生であるにもかかわらず,現代社会では死と強力に結びつけられる.そもそも,若くても死は訪れるのであり,決して老人だけの問題はない.
 私は10代の頃,同年代の友人を亡くした.そのとき,死とは80年後のような遠くにあるのではないと実感した.それ以来,私はいつ死ぬのかと思いながら,自分が生きていることを確かめながら生きている.いつのまにか,その友人の2倍の歳月を生きてしまった.我ながら運の強い生き残りだと思う.私たちは生きているのではなく,一瞬一瞬を生き残っている.ときどき,今日私が突然死んだらと考えたりもする.もちろん,多くの人々と同じように,病気になりたくないと願い,苦痛や不快から逃れたいと思っている.老いは人生のありようであるが,死は人生の終焉という決定的な峻別がある.あくまでも,老境は人生であって死ではない.
 生きていることが当たり前と思っている人もいるかもしれないが,私は決してそう考えない.不測の事態が起きなければ生きている見込みはあるが,あくまでも見込みであって確証はない.藤村正之は「戦後60年を通じていえば,日本は〈豊かな社会〉を達成し,戦争のない平和な社会を築いてきた.病気による苦悩は誰しも逃れることはできないものの,医療技術の進展は人々の健康を増進し,平均寿命を延ばしてきた.その結果,病気による〈死〉は相対的に中高年にとっての問題となり,高齢化社会の進行は,〈死〉を老いとともにやってくるものと思わせるようになった.現代日本に生きる多くの人々にとって,戦死はありえないものであり,幼少時の病死も数少ないものになったとき,〈死〉は老いの遠い先に存在する,距離あるものになっていった」(藤村2008: 284-285)と指摘する.平和な社会,高齢社会の達成は,多くの人々に死が老いとともにやってくると思わせ,老いと死のイメージがより強固に結びつくようになったと思われる.
 本章では,前述したように老いは人生であるという視点から,多くの人々が人生最期に迎える老いを考察する.第2節では,一部の先行研究を含む戦後日本における老いの表象を概観する.第3節では,戦前から戦後を通じた家族の変容と老人の位置を確認する.第4節と第5節では,老いを考えるうえで重要となる身体と時間の論点5)を検討する.第6節で,現代日本の老いや老人の文脈の一端を指摘し,第7節で,現代日本の憂いを帯びがちな老いや老人の文脈について考察する.
 以上の検討にあたって,ミノワの手法を援用して,能力の及ぶ限り,現代日本の老いに関わる様々な文献に当たる.素材として社会に影響を与えたと思われる小説やエッセイ,映画を取り上げる6).これらを基礎に,家族,身体,時間の切り口から老いや老人のありように接近し,現代日本の憂いを帯びがちな老いや老人の文脈の考察を行なう.

2 老いの表象──先行研究の言及

 確かに老人は死に近づいている一面はあるが,人生をまっとうする過程でもあるのだから,ある意味では喜ばしいと言えなくはない.思い巡らすと,やはり『楢山節考』の影響力は思いのほかあるのかもしれない.1956年,深沢七郎が姥捨て伝承をもとに発表したのが『楢山節考』である.翌1957年に中央公論社から公刊され,ベストセラーとなった.翌1958年6月,木下恵介監督によって映画化された7).
 1972年,有吉佐和子の『恍惚の人』が発刊された.『楢山節考』と『恍惚の人』のあいだに,地道な「寝たきり老人調査」や家庭奉仕員の現場実践の積み重ねが行なわれていた(渋谷 2011: 30-89).『恍惚の人』の発刊は,多くの人々に老人に対する施策の必要性を認識させる一助となったことは間違いない.多くの人々は,呆けていく茂造の姿を見て,哀れな最期になりたくないと受け止めたと思われる.茂造は昭子の視点だけで描写されているために「茂造の側から見える世界,彼の内面世界への想像力」(天野 1999: 91)が欠けている.地方自治体の老人医療費無料化の取り組みが拡大していき,1973年,老人医療費無料化が実現する.しかし,「悪徳病院批判」などを契機として,1983年に老人保健法が制定されて医療費は定額一部負担となる.同年4月,映画『楢山節考』が今村昌平監督によってリメイクされた8).
 1986年から1988年に,耕治人は「天井から降る哀しい音」「どんなご縁で」「そうかもしれない」を発表した.これらは本多秋五に「命終三部作」と名付けられた作品である(耕 1991)9).当初,耕は妻の呆けてゆく姿に衝撃を受ける.しかし,これまで自らを支えてくれた妻を放ってしまうことはできない.妻は徐々に家事ができなくなり,自らの行動が分からなくなる.やがて,耕も入院し,妻は特別養護老人ホームに入所する.命終三部作は,老いていく本人の視点からこれまでの妻と築いてきた時間を踏まえて細やかに老夫婦の生活を描写している.同じ呆けを扱った作品でも,『恍惚の人』と命終三部作の決定的な差異は,命終三部作が人生最期のありように限りなく接近した点である.
 1987年,多田富雄と今村仁司の編集による『老いの様式──その現代的省察』が刊行された.研究書としては広い読者層を意識している.はしがきに問題提起の書物とあり,なかなか重厚で現在にも通用する問題提起も含まれている.同書も含めて,1980年代から人文社会科学分野の老いへの関心が高まったと思われる.同年,大熊一夫が『週刊朝日』に連載記事を開始し,翌1988年に加筆した『ルポ老人病棟』が発刊された.「親捨て」の実態が暴かれ,大きな反響を呼んだ(大熊 1988).
 1992年,湯本香樹実が『夏の庭 The Friends』を発表し,1994年4月に映画化された10).ゴミ屋敷に住む老人の物語である.ゴミ屋敷にひとり暮らしをする背景には,老人のこれまでの人生が影響している.また,「ひとり暮らしの老人が,ある日突然死んでしまったら」(湯本 1992=1994: 19)という孤独死も基底音を成している.マスメディアが無縁社会と声高に言う前に,地域で老人に接している人々はもちろん,作家の感性はゴミ屋敷や孤独死を正確に捉えていたのである.
 1994年,松下竜一は父の介護をまとめた『ありふれた老い──ある老人介護の家族風景』を出版する.松下家の“老人問題”は,父の健吾が小便バケツをぶちまけたことから始まった.老人ホーム入所や入院を試みるが,健吾は一貫して自宅に帰りたがった.最終的に入院したが,一時は危篤に陥っても奇跡的に蘇生した.医師は「おじいちゃん,がんばるからなあ」(松下 1994: 242)と感嘆した.最期は健吾の容態が急変して息を引き取った.
 1999年1月,新藤兼人監督の『生きたい』11)が封切られた.姥捨て伝承と当時の老人医療や老人ホームを二重写しにした作品である.モノクロ映像で姥捨て伝承が差し挟まれながら,カラー映像で現代の物語が進行する.現代版『楢山節考』を企図していることは明白である12).安吉は「病院にいたくない.家に帰りたい」「親を老人ホームに捨てようという気だな.現代の姥捨てだな」と叫ぶ.君塚医師は「もう病院は老人でいっぱいなんですよ」といい,老人ホームを勧める.やや大袈裟とはいえ,介護保険制度の施行直前のありさまが表現されている.同年,天野正子は『老いの近代』において「生活者」の視点から多角的に老いを問うた.「昭和」という元号,アイヌや沖縄などの周縁,女性や職人などの生活実践から老いを論じた.「昭和」の老いを論じるうえで,様々な人々の戦争体験を掘り起こしたのは特筆に値する.
 2000年,不安を抱えながらも,介護保険法が施行された.2002年,篠田節子が発表した小説集『静かな黄昏の国』は,10年後に改めて評価される(篠田 [2002]2012).同年,韓国と日本の志ある人たちが『識見交流』という雑誌を創刊した.第1号の特集は「『老い』の新たな視点」で,日韓双方からいろんな立場の人々が執筆した.1987年の『老いの様式』以来の多角的な問題提起の書と位置づけられる.老いの思想を論じているのはもちろん,日韓ともに介護保険制度の施行に言及している点などが時代の変化を感じさせる13).
 2005年,桐野夏生が『魂萌え!』を刊行する.翌2006年にNHKでテレビドラマ化,2007年1月には阪本順治監督によって映画化された14).敏子は夫の死後に愛人の存在を知って混乱してしまうが,身の回りの問題を片付けることを通じて自らの生活を見直す物語である.2008年9月,滝田洋二郎監督による映画『おくりびと』15)が封切られた.納棺師を題材とした作品16)であるが,おそらく多くの観客は「自分はどのような葬式を出してもらいたいか」と考えただろう.同年,藤村は『〈生〉の社会学』を刊行する.藤村は〈生〉の社会学を現代的な研究視点として位置づける(藤村 2008: 263).
 2010年,黒井千次は『老いのかたち』というエッセイ集を発表する.日常生活の些細な出来事から老いを洞察している.2011年,木谷恭介は『死にたい老人』という断食記録を出版した.木谷は公的にも私的にも生きる拠りどころを失ったとして断食死を目指す.いわば自らの現代版『楢山節考』実践記録である.しかし,生命力とは侮れないもので,なかなか断食死に至ることができない.2011年3月には,東北地方太平洋沖地震を引き金に福島原子力発電所の放射能漏れ事故が発生する.老いと原発事故が重なる『静かな黄昏の国』が今後の老人の予言書のごとく立ち現れる.
 以上,小説やエッセイ,映画を中心とする戦後日本の老いの表象および若干の先行研究を概観した.これらはすべてではないし,偏りがあることは否めない.それでも,『楢山節考』に代表される死の影が濃い力線と,呆けても身体を他人に委ねて生きようとする力線の綱引きを見てとれる.

3 老いの追放──家族の変容

 労働体制や医療体制を念頭に,戦前および戦後の日本社会の家族の変容を考える.1938年,内務省社会局が改組されて厚生省となり,国民健康保険法が成立した.数々の労働者の生産性の向上を企図した医療保険や年金保険が整備されていき,「戦時総力戦体制」は戦後の制度的基盤となる.
 雑賀恵子は,戦前の都市と農村の食卓に着目する.「内務省の調査によると農村人の90%が病気(栄養不足)であるとの数字をあげて,雑穀飯か七分搗き米,煮干しの入った味噌汁,ニシン・イワシのような海魚,換金用の養鶏養鯉を自家用に食すること」が勧奨されている.「母の身体がどこの国よりも悪い結果,子どもが弱いことを,工場の設備や原料が悪いと良い品物が作れないことにたとえ,戦争時は若年層が出て行くために生産率が低くなるので,健康を増進し,同時に医療費・食費の節減」を呼びかける「戦時総力戦体制」が食卓から形成される.「母性が強調され,いわゆる良妻賢母型専業主婦の『手作り』の家庭料理が推奨されていく都市部中産階級に対し,農村部では,もとより食事というものがほとんど『手作り』なのであって,村落あげての生活改善運動が女性に任され,そのための栄養を考慮した共同炊事が提唱」され,「各地の生活改善運動の事例紹介でも,妊産婦や哺乳児童,離乳児童の栄養改善を目されて,自家用の栄養野菜,豆,七分搗き米,野菜の皮,魚頭や腸を,工夫して食べる」ことが行なわれた(雑賀 2010: 155-157).
 吉川洋は,戦後の都市化と平均寿命について「とかく『進んだ都会』『遅れた農村』というイメージを持ちがちである.しかしこと疾病率,死亡率に関するかぎり,近代化の過程では都市におけるそれが農村をはるかに上回っていた.人口密度の高い都市は農村に比べずっと『危険』な場所だった」(吉川1997=2012: 190-191)と述べる.人口の密集する都市は,農村に比べて長い間病気の感染率や死亡率が高い場所だったが,高度経済成長が始まると都市の死亡率が農村の死亡率を下回っていく.「人口の密集に伴う感染率の上昇などの不利な条件を,高い所得が可能にする良い栄養水準や住宅,あるいは優れた医療サービスなど都市のもつメリットが凌駕する」ようになり,「農村から都市へという『民族大移動』は,いまや死亡率を下げる要因となった」(吉川1997=2012: 193)のである.高度経済成長の直前に人々の農村から都市への流出と並行して,大都市とその周辺を中心に新しい世帯が誕生した.「二人に一人の日本人が住んでいた農村では,伝統的に三世代が同居していた.しかし都会に移った若者の大半は,はじめ『単身世帯』,やがて結婚して子供を生んでからも夫婦と(独身の)子供からなる『核家族』を構える.こうして三世代同居していた伝統的な家族を離れて若者が都会に出ると,『単身世帯』と『核家族世帯』を中心に世帯数が増大」(吉川1997=2012: 199-120)した.戦後日本の高度経済成長は,平均寿命の延びをもたらした17).
 1980年代の「日本型福祉社会」政策によって「男性稼ぎ主」型がさらに強化された(大沢 2007).1986年4月に男女雇用機会均等法が,同年7月に労働者派遣事業法が施行され,現在に連なる女性労働の基盤が構築された18).このとき,ウルリッヒ・ベックは社会が「個人化」へと向かっていることを指摘した(Beck 1986=1998).柏木博は,核家族化の急速な進行について「家族が同居しつつもバラバラになって行くのは,一人ひとりが経済効率のよい存在になって行くことだ.近代社会が,プライベーティズム(個人主義)とインディペンデンティズム(自立主義)といういかにもヒューマンな思考を含んでいたことと,家族がバラバラになって行くこととはけっして無縁ではない」(柏木 1987: 204-205)と述べる.こうした社会背景に,障害者の自立生活運動は呼応したのかもしれない.注意すべきは障害者たちが求めた「自立」は単なる経済的自立ではなく,社会とのつながりを求める運動である(北村 2012).
 1990年代以降になっても,日本の生活保障システムは諸外国にまして強固な「男性稼ぎ主」型である.社会政策では,国家ではなく家族,とりわけ女性が福祉の担い手として強調され,従来から大企業の労使にとって有利だった仕組みも維持強化された.反面,女性が家事や育児,夫の世話や老親の介護などを引き受け,労働ではパート就労程度で家計を補助する程度に止める場合には,税制や年金制度上の特別扱いが行なわれた(大沢 2007: 67).女性は市場の有償労働から「引退」しても,老人介護の多くを担ってきた.女性は自らが老いながらも上の世代や夫の介護を引き受けざるをえない.女性は家庭で生き続けることが当てこまれてきた(江原 1987: 265-267)19).
 しかし,1990年代以降,男性の終身雇用体制が崩壊し,女性が老人介護を引き受ける環境も変化した.今村仁司は,強力な資本経済の論理が老いを社会から廃棄させると指摘する.「家族の個々の成員の悪意とかによるのではなく,たとえ善意の努力をしてみたところで,家族の市民社会化の圧力は抗しがたく貫く.家族の社会化,家族内人間関係を市民社会的人間関係に組み換えることこそが,老いを追放する」(今西 1987: 221)と述べる.1997年,介護保険法が制定され,2000年4月から介護保険法が施行された.2005年,介護保険法が改正され,2008年には後期高齢者医療制度,前期高齢者医療制度が創設された.これら一連の「社会化」とは核家族へ縮減した家族が老人を手放すことである.これによって,特に女性が無償労働からの解放の道筋が提示された.しかし,老人が社会制度に組み込まれたことは,介護や看護の必要な「周辺的身体」(竹田 2009)として市場に投げ出され,老いが管理される対象となった.
 市村弘正が言うように「私たちは『生身の人間』として生きているのではない.⋯⋯法的政治的な『保護』と社会的『武器』としての『差別』とによって,そのような人間の存在を剥奪した世界こそが,私たちに生きるべく与えられている世界なのだからである.⋯⋯私たちを幾重にも包囲する書類の束が,社会的な等級を規定し,保護を配分するのである.種々様々の書類こそが社会における人間のあり方そのものとなる.すなわち,書類としての人間」(市村 1994=2004: 112-113)である.老人もまた書類が包囲する社会に「生きることを強いられながら,しかも書類上の要件を拒まれている存在」である.「一件書類としてまとめられ形を与えられていく世界は,日常性を過酷なものに変質させる.そのことについても「書類的人間は鈍感」であって,「生身の人間を許容しない世界」に「私たちが生きるとき,その制度が生みだしつづける苦痛」を老人は一身に背負うことになる(市村 1994=2004: 113-114).

4 老いる身体──避けられぬ変化

 老いる身体に焦点を合わせてみよう.市村は,かつての家族の時間は「身体の成長と衰弱とともにあるものであった.痛風で苦しむ足やひび割れて痛む手とともにあるものであった」(市村 1994=2004: 168)と述べる.黒井は「老いることは,病むことと密接に結びついているらしい.長年生きて来たのだから,身体の各部位に疲労がたまり,故障が生ずるのは自然なのだろう」が,「老いてからの病気はいささか性格を異にするようである.たとえ同一の病気であったとしても,若い時期に病めば異常な事態であり不自然であるのに対し,老人の場合は高齢故に止むを得ぬことであり,年齢の自然の内に含まれそうな気がするからだ.老いが進むにしたがって生ずる身体の故障は,やがて快癒する筈の一時的異常とは呼べない面がある」と指摘する(黒井 2010: 99-100).
 幸田文は,老いて再会した友人の芯の強さを「年をとる」というエッセイに書いている.10年を隔てた再会にあたって,幸田は老いの変化に若干の心づかいが必要だと自らに言い聞かせた.「髪は白くなって」おり,「ひとまわり小柄になって」見えた.「厚い髪だったし,大柄のようにみえても骨細だったので,そう変るだろうと推察して」いたが,「声も昔通り,目の艶も昔通り,聴力が少し落ちたよしですが⋯⋯会話や物音には,ちっともさし障りのない様子」(幸田 1974=1996: 105)であった.友人は身体の変化を語る.

このごろは何の雑用をしても,手のろで,下手くそでねえ.手も使い古しになると,電力消耗は多くて,能率は下がるんですよ.それより残念なのは,あの昔の手早さ,器用さをいったい,いつ失くしたんだか,そこなんです./昔と今ではたいへんな差ですよ.その大きな差を,いつとも覚えず,ずるずるとなくして来ちまったとはくやしい.承知しながらだんだんに失くしたのなら,まだしも救われるけど,気がついたらもう,イイ手がイヤな手になっていたじゃありませんか./呆けるというのは,これなんだなと思い知りましたし,その時から,これはもう一歩も二歩もさがったところで,ものを考えるようにしないと駄目だと思いましたね.今の言葉でいうと,限界を感じた,というんでしょうか.(幸田 1974=1996: 105-106)

 幸田は話を聞きながら「限界でぴたっと仕切るのは,理窟や言葉では易しいが,実際には感情や習慣や方法など,なかなかうまくはいかないもの」なのに「しっかりしたもんだなあ」と感嘆した.「ひとの意見を先に容れ,自分の意見は後から加える,というのが切替えの根本」らしかった.本人にとって残念さがあるにしても「きりりと絞りあげた意志」があり,仕切った「さわやかな感じ」があった(幸田 1974=1996: 106).
 老いを受け止めるのはなかなか難しい.個々によっても時代によっても問題の性質は変わるだろう.吉本隆明の知人の医師は,高齢化社会とは単に老人が増えたことを意味するのではないと述べる.「80歳になっても肉体的には20代,30代のように若々しい人と,20代,30代の人で,肉体的には内臓も含めて,70,80の老人みたいな人もいるという,バラつきが多くなった」のが特徴だと指摘する.吉本は「バラつきが多い」という知人の説に納得して,確かに早く逝ってしまう人もいるし,まだ平気で普通通りやっている人もいる.どちらかと言えば,社会的に活動している人が身体によく気をつけているのではと思い,元気な親戚の実業家に「なぜいつまでも元気なのか」と訊ねた.実業家は「健康に気をつけているような者は残る.それだけのことで別に不思議はない」と明言した.吉本は老いについて考えるときに「身体の状態を抜きには語れない」という根本的な事実に突き当たった(吉本 2001=2011: 12-15).
 老いによる痛む身体を抱えることがある.黒井は80代後半の老人の例を挙げる.老人が脚の痛みに耐えかねて医院を訪れた.医者が「老化のためなので治しようがない,老いたのだから仕方がない」と見放したことに対して,老人が苦笑しつつも強い不満の言葉を洩らした.黒井は,痛みは老いが進んでいく自然の一部として認めざるを得ないかもしれないとはいえ,苦しむ本人は痛みから脱け出したいのだから痛みそのものに自然も不自然もないだろうと述べる(黒井 2010: 100-101).
 他方,老いには社会的役割の変質という意味もある.江原由美子は「社会学的な意味での老いの意味は,まぎれもなく『引退』にある.社会は安定の中にも,その構成員の交替を繰り返している.⋯⋯社会的組織の論理からすれば,社会組織の維持のためにはこの構成員の交替は不可欠である./老いだけでなく,病いや死もまた同様に,社会的組織からの離脱,引退を結果する.しかし,老いにくらべて,病いや死は,常に何事か『個人的な』色彩を帯びている.それは老いにくらべて程度の差はあれ,病いや死が個人にとって予測不可能な,非日常的な運命としておおいかぶさってくるゆえであろう.老いは無論,死に向かっている.しかしその死は,日常的で緩慢である」と「引退」の視点から老いと病いを注意深く論じる(江原 1987: 262-263).
 さらに,「引退」は社会組織からの離脱だけではない.私秘的な社会交流における関係性の変容としても現れる.木谷は性生活の喪失が離婚の契機になったことを綴っている.

ぼくと妻は17年3ヶ月,年齢が離れている./だが,性生活を嫌がるようになったのは,妻のほうであった.潤滑液の分泌がすくなくなり,苦痛になったのだ./70代後半になっていたぼくは,性生活がなくなっても,それほど不満ではなかったが,ぼくたち夫婦のように価値観がちがい,趣味嗜好がちがう男女の場合,セックスがなくなると,ふたりをつなぐものがなくなってしまうのだ.⋯⋯セックスには相性というのがあり,相性がいいと,言葉などいらない.すべてが通じ合っているように感じる.⋯⋯それができなくなったのは去年のはじめ(82歳2ヶ月)であった./生身の女性と肌を寄り添わせているのに,勃起しなくなった./生まれてはじめての出来事であった./いつかくると予期していたことだからショックはなかったが,ぼくの人生は終わったという淋しさを持った.⋯⋯最後の支えがなくなってしまった./これは,悲しいことであった.(木谷 2011: 79-80)20)

 木谷の「勃起しなくなった」という身体の変化が妻との性生活に終止符となり,家族関係というきわめて私秘的な社会交流からの「引退」となっている.
 女性の老いは,身体的に閉経という生理的メルクマールを伴って男性よりもはっきりと自覚される.多くの女性は生殖から解放された時間を男性よりも数倍長く生きる.それは20年から30年に及ぶ.もし,老人とは生殖能力を失ったにもかかわらず生きている人々であると仮定するならば,女性の老いの期間は,平均寿命の長さにも影響されて,男性よりも数倍か十数倍長い(江原 1987: 266).
 老いによって引き起される様々な病いや身体の変化とどう向き合うかは,老いる本人にとっては深刻な問題である.それが自然な成り行きであればあるほど,いっそう深刻かもしれない.

5 老いる時間──受苦と他者性

 老いていく時間とは,どのような時間なのだろう.天野によれば「人が老いをくぐり抜けていくことのむずかしさは,自らの欲望に忠実に生きることのむずかしさにある」と言う.「いつまでも生命力に満ちた『老いない』老人像が理想とされる一方,生命力の源泉としての性愛や性活動については『枯れる』ことが望ましいとされる」(天野 1999: 99-100).老いの様相は個性的であって,一人ひとりの老人の人生が凝縮された時間である.「何よりまず寿命がちがう.夫婦揃って長生きの人もいれば,片方が早く亡くなって,それからずっと独り暮らしの老人もいる.中年を過ぎ,初老になって,これから先まだ長い人生のことを考えて,離婚や別居をする人も少なくない.痴呆が急速に進む老人もいれば,いわゆるまだらぼけが何年間も続く人もいる.80歳でも若々しい人もいるし,65歳ですっかり年寄りじみた人もいる.身体的機能の低下も人それぞれ,みんなちがう」(吉岡2002: 123)のである.にもかかわらず,私たちは80歳も65歳もお年寄りとか老人と呼んでしまう.吉岡忍が指摘するように,同じ15歳違いでも30歳と15歳を同じには 扱わないのに,私たちは老人の世代の相違には鈍感すぎるかもしれない(吉岡2002: 123).
 黒井は,現代は「歳を取れなくなった時代」だと言う.「歳を取る,とは老齢に近づくことであり,壮年期を越えた下り坂の一年,一年を辿り続けること」である.人が歳を取らなくなったとは年相応のイメージの変化を指している.これまでの「60歳にはそれなりの風采があり,70歳には前には見られなかった風貌が備わり,80歳には更に風格」が加わるという年齢のイメージが曖昧となり,年齢の輪郭が崩れてきた.「還暦を迎えるのは当り前の話であり,古稀に達するのも少しも珍しくはなかった.今の60歳にはかつての60歳の重みはなく,現在の70歳は昔の70歳の威厳」は見られなくなった.良く言えば元気な老人が多くなり,悪く言えば昔の老熟した年寄りを見かけなくなった.黒井は「以前の年齢が備えていた老熟の風格といったものには,幾ら歳を重ねても我々はもう追いつけない.というより,そんなものはとうに失われてしまっている.ここ半世紀ほどの我々の生き方が,なし崩しに昔の老人像を蝕み,崩壊に導いていた」かもしれないとし,「年齢にまつわる古いイメージが失われ,より長くなった寿命に関る新しいイメージが生み出される前の端境期に我々は立たされている」と結論づける(黒井 2010: 86-89).
 冒頭でも指摘したように,現代社会の老いは死と強く結びつけられている.柏木は「わたしたちが皺や白髪などを嫌うのは,それらが老化した皮膚であり,そこにやがて腐り行く屍体の臭いをかすかにではあれ嗅ぎとってしまうからなのではないか」と指摘し,だからこそ「死に至る過程である“老い”をも,家でむかえることなく,病院へとつながる老人ホームでむかえることも少なくない状況になって来ている.してみれば,屍体の風化どころか,老いの過程すら,わたしたちは目の前から遠ざけ始めている」と述べる(柏木 1987: 200-201).死を忌避することは自然なことである.むしろ,注意すべきは生々しい死だけでなく,生々しい生命さえも忌避する傾向ではないか21).柏木に即して述べれば,法の管理のもとに生活している私たちは生々しさに過敏になっている.吉岡は,現代では大家族主義の時代のように老いることは叶わず,「戦後急速に広がった核家族化がその基盤を崩す一方で,老人医療や延命治療の普及がこの社会全体の死生観,老いの把握の仕方に混乱をもたらした」(吉岡2002: 122)と指摘する.混乱する老いのなかで,『楢山節考』に代表される死の影が濃い力線と,呆けても身体を他人に委ねて生きようとする力線の綱引きが行なわれているのではないだろうか.
 混乱する老いの力線のひとつに「ピンピンコロリ」がある.武藤香織は「『ピンピン生きて』と『コロリと死ぬ』の間には,すっぽり何もない.現実的には,この隙間に療養生活や介護の支援を受ける生活が待っているはずなのに」(武藤 2008: 116)という疑問から「ピンピンコロリ」の起源の体操を探り当てる.体操としてのPPK運動は,個人的な生活習慣であるから一斉放送から流れる音楽や指示にあわせて1日を始めてもよいし,無視して布団に包まっていてもよかった.しかし,「自立度の高い高齢者」向けの介護予防あるいは健康推進活動としてのPPK運動は,病気や障害で身体を他者に委ねて生きている人々の生活に不安をもたらすだろう.「誰であってもいつ病気になるのかはわからず,そして長く病気とともに生きていく可能性があり,なかなか簡単には死ねない」(武藤 2008: 124-125)のである.「ピンピンコロリ」は,捻じれた老いの力線を描きながら今日に至っている.
 吉本は「死の直前に苦しみなんてない」し,「死ぬっていうのは自分のものだと思うのも間違いだ」と断言する.

重体になってくるころには,酸素マスクをどうしたとか,管をたくさんくっつけられて,見ているとときどき顔をしかめて苦しそうにしている.自分もそうなるんだったら,死ぬっていうのが分かった時点で,安楽死のほうがいいんだとか言うでしょう.それも,安楽死になりそうになった人がそう言っているならいいのですが,そうじゃない人々が,普段そう言うじゃないですか.だけど,それは大嘘で⋯⋯苦しいも何もわからないんです.⋯⋯できるだけ長く生かすというのが医者の考えだし,長く生きてもらいたいというのが普通の近親の願いだというだけあって⋯⋯ご当人が苦しいかどうかぜんぜんわかりません./だいたい,死の直前に苦しみなんてないと死にかけた僕が実感上,そう思います.そのときには半分意識がないっていうか,痛くもないし,苦しくもない.⋯⋯/だから,「苦しいだけなら,無理に延命治療などする必要などない」などという理屈は尊厳死協会に入る理屈にはならないっていうのが僕の考えです.(吉本 2001=2011: 193-194)

 と,自らの体験をもとに述べる.阿部年晴は「老年は死の影のもとにあり,また,病気などに見舞われがちな受苦の時期であるばかりではない.それは,自分の肉体が意のままにならないというような形で身体性とでも呼ぶべきものが,若年の頃とはまったく別の仕方で露呈する時期でもあり,また,意識的な自我の統合力の衰えにともなって内なる他者性が露呈する時」(阿部 1987: 249)と述べる.市村は,他者への依存を恥と思う感情が,逆に専門制度を侵入させ,新たな依存が形成されると述べる.「弱さの感覚は,個人的な抑圧や処理(自助)に委ねられるだけでなく,組織による吸収(保険),や制度的な置換(福祉)によって変形加工」される.私たちは「相互依存を認めることが恥ではなく解放であるような社会」を目指すべきではないか(市村 1994=004: 178-180).平均寿命が延びている現在,私たちは他者へ自らの身体を委ねる想像力を持っておいたほうがよいかもしれない.

6 老いの行方──「老衰」と「加齢」の交錯

 近年,老人を取り巻く言葉の変容が激しい.「寝たきり」が消え,「呆け」が消え,「認知症」という医学用語に置き換わる.そして,前面に押し出されるのが「年齢」である.
 黒井もこれらの状況を敏感に察知して「老衰」という言葉が使われなくなったと指摘する.「いつの頃からか,『老化』のかわりに『加齢』という言葉がつかわれるようになった.『老化』には老い衰えていくイメージが伴うのに対し,『加齢』には年齢の増加のみを数として扱おうとする姿勢が見られる.⋯⋯以前より少なくなりつつある語として『老衰』があげられる.生命の終焉は人体にとって決定的な変化なのだから,そのきっかけとなった事態に何かの病名をつけることは可能であるに違いない.『老衰』が医学用語であるのか否かは知らないが,しかしこの言葉には病名とは異質の響きがある.『老衰』のために命の終末を迎えたと聞かされると,なにか自然な気持ちを覚える.充分に生きた末のことなのだ,と納得させられる./直前まで元気でコロリと他界するのが理想だとよく聞くけれど,これは『老衰』の否定に他なるまい.老いと病は切り離せぬ関係にある以上,この終り方はやはり不自然だ」(黒井 2010: 101)と疑問を呈する.
 浮ヶ谷幸代は「近年,高齢化社会という言葉と同様,『認知症』という医学用語が一般の人たちの間に流布している.それに代わって,『老衰』や『耄碌』という言葉は日常生活でもメディア上でも姿を見せなくなっている.⋯⋯『老い』と『認知症』がセットになり,『年を取りたくない』『呆けたくない』という老いに対する恐怖心や嫌悪感が醸成されると,『老い』がもつ両義性のうちマイナスのイメージだけが強化されていく.『醜い』『汚い』『老いぼれ』『時代遅れ』などのイメージの流布によって,アンチエージング(抗加齢)医療の発想」(浮ヶ谷 2010: 168-169)と結びつくと指摘する.
 「年齢」による社会の編成は「活力ある高齢者像」に対応しているのであろうが,「活力ある高齢者」はいつになったら「引退」できるのだろうか.「年齢」を前面に押し出した社会は,前節で述べたように,逆説的に歳を取れない社会である.様々なアンチエージングの流行が分かりやすい例である.幸田がエッセイを書いた時期ならば,何も引っかかることなく「歳をとる」と言えただろう.もちろん,現在でも日常生活で「歳をとったなあ」と呟ける.しかし,「歳をとる」という意味合いを考えさせられることも事実である.
 黒井は「以前のようには歳を取れなくなっている」背景として「家族の在り方や相続の問題,女権の拡大や医療技術の発達など,様々の要因」の絡まりを指摘する(黒井 2010: 88-89).多くの人々が老いに戸惑っている.その戸惑いを紛らわすかのように「幾つになっても元気で若々しい老人の姿のもてはやされる傾向が見られるが,それだけで老いの確かなイメージが成立するとは思えない.体力の維持や健康は老年に必要なものではあるだろうが,それに支えられた生の内容がどのような形で暮しの中に現れるかが 問われぬ限り,年齢にふさわしい老いの姿を思い描くことはかなわない」(黒井 2010: 89)とアンチエージングの流行を冷ややかに評する.黒井は老人の一人として「人が歳を取れなくなってしまったことは我々の必然ではあるのだが,それを喜んだりそれに困惑するのではなく,その事態を一つの可能性として捉え,そこから新しい年齢イメージの構築へと歩み出せぬものか」(黒井 2010: 89)と新たな老いのイメージを模索しようとする.
 宇野邦一は「『身の置き所がない』というような意味深長な言葉がある.私たちはみんなこの世界に一つの孤立した身体として投げ出される.この身体は世界から孤立し,しかも同時に世界につながれ,世界に侵入されている.この身体は他の物,身体の間にあり,それらとある距離をもち,絶えずこの距離を測っている.しかしこの世界を構成する空間は,知覚しがたい深さからなり,その中で距離は絶えず変化している」(宇野 2005: 79)と論じる.老いる身体は,現在,社会のどこに置かれているのか.この先,どのように社会制度によって扱われるのだろうか.

7 老いをめぐる葛藤──現実のどうしようもなさ

 本章では,あくまでも人生のありようという視点から,多くの人々が人生最期に迎える老いを考察してきた.冒頭の諸点について応えよう.
 まず,戦後日本における老いの表象について概観したが,『楢山節考』に代表される死の影が濃い力線と,呆けても身体を他人に委ねて生きようとする力線があることを確認した.その間に「歳をとっても元気でいたい」という素朴な願いがあって,それを体操としてのPPK運動は汲み取ったと思われる.農村から都市へという「民族大移動」は,大家族から核家族への変容をもたらした.個人主義と自立主義に立脚する核家族は家族が担ってきた機能を縮減させ,ついに老人を家族から追放さざるを得なかった.老人は社会制度の中の「書類としての人間」になった.
 次に,老いる身体と老いる時間について検討した.老いる身体の変化は緩慢な変化である.そのために,老人本人も身体の衰えに気づかないことがある.また,私秘的な領域の性生活においても,個人差はあるにせよ終焉を迎える.後継ぎを強く要請された女性の場合には閉経が生殖からの解放となる.老いる時間は,一人ひとりの老人の人生が凝縮された個性的な時間となる.私たちはつい老人と一括りにしてしまうが,80歳と65歳では世代が違う.多種多様な人生を生きるのだから死生観もまた多彩である.「ピンピンコロリ」のキャッチフレーズのように「元気なうちに死にたい」と思う老人もいれば,「死の直前に苦しみはないから好きにしてくれ」という老人もいる.
 さて,本章の問いは,なぜ老いや老人を語る文脈は憂いを帯びがちなのか.何となく憂いを帯びたイメージの流布が老いや老人への恐怖を煽っていないか,であった.この問いそのものの検討も含めて考えてみよう.
 老いや老人を語る文脈の憂いは,様々なかたちで老いや老人を忌避していることにあるのではないだろうか.強い言葉で使えば老人差別である(辻 2000).しかし,辻正二の論点を含みながらも,本章の問いは老人本人や本人を取り巻く家族,周囲の人々の捻じれる力線に向けられている.表面上は優しい言葉で老人に接するし,「老人は大切にしなければいけない」と言う.けれども,心のどこかで「いなくなったらすっきりするのになあ」と相反することを思うことがある.老人もまた,木谷のように「もう充分生きた」と思うときがあるかもしれない.そうした葛藤がにじみ出ているのではないか.老いの憂いは,言い換えれば,現実のどうしようもなさだろう.ときに,追い詰められた人々が老親の殺害という痛ましい方法で老いの管理から離脱しようとする.追い詰められた人々は「親密さそれ自体を変質」させ,「グロテスクに変貌した『情緒体』が,あらゆる言葉を無用に短絡化して,暴力性を露わに」(市村 1994=2004: 166-167)し,現実のどうしようもなさを壊すことがある.介護保険制度が施行されたとはいえ,こうした可能性を常に孕んでいるからこそ,老いや老人を語る文脈は憂いを帯びるのではないだろうか.
 本章では,老いは人生のありようであるという視点から,多くの人々が人生最期に迎える老いを考察した.老人本人や本人を取り巻く家族,周囲の人々をめぐる憂いは,もはや現実のどうしようもなさと言うべきかもしれない.しかしながら,老境は人生であって死ではない.どんなに厳しい状況でも,生きる方向に思考を向けなければならない.本章の問題関心を大切にしながら,より明快に論じることが今後の課題である.

168 気を紛らすこと./人間は,死と不幸と無知を癒すことができなかったので,幸福になるために,それらのことについて考えないことにした.(Pascal [1660] 1897=1973: 113)

[注]
1)ブランシュヴィック版の配列.ページ数は1991年刊行の15版.断章番号を付しているので,原典に当たりたい方は参考にされたい.
2)本章では,広く老いを論じるため,引用を除いて老人という語を用いる.
3)本章では,基本的に「歳をとる」と表記し,幸田(1974=1996)のみ「年をとる」と表記する.
4)例えば,ミノワは地中海地域を中心とする古代オリエントからルネサンス期の老いを考察して「全体的な印象として,老いに対する態度は悲観的で敵意に満ちたものだったといえる.すべての社会で,老人を擁護するさまざまな主張が見られはしたが,いつの時代も,そしてどこにおいても,老いより若さが好まれていたのは明らかである」(Minois 1987=1996: 399)と結論づける.老いに「憂い」以上の厳しさがあることは想像に難くないが,本章では幅を持たせるために「憂い」と表現する.
5)身体と時間への着目は,基本的な研究姿勢である(北村 2010b).それに加え,天野(1999)他を参考にした.
6)ミノワが指摘するように,小説やエッセイ,映画は「上層階級の見方,しかも芸術であるがためのゆがめられた見方」(Minois 1987=1996: 8)であろう.本章では,その点を承知したうえで考察を進める.
7)1958年6月1日公開.深沢七郎原作,木下恵介監督,配役は,おりん/田中絹代,辰平/高橋貞二,玉やん/望月優子,けさ吉/市川団子,又やん/宮口精二,又やんの伜/伊藤雄之助,飛脚/東野英治郎,照やん/三津田健,向上役/吉田兵次,ほか.
8)1983年4月29日公開.深沢七郎原作,今村昌平監督,脚本.配役は,辰平/緒形拳,おりん/坂本スミ子,利助/左とん平,玉やん/あき竹城,勝造/小沢昭一,仁作/常田富士男,けさ吉/倉崎青児,塩屋/三木のり平,銭屋の又やん/辰巳柳太郎,ほか.
9)耕(1991)には,1986年初出「天井から降る哀しい音」『群像』1986年7月号,1987年初出「どんなご縁で」『新潮』1987年11月号,1988年初出「そうかもしれない」『群像』1988年2月号の命終三部作が収録されている.
10)1994年4月9日公開.湯本香樹実原作,相米慎二監督,田中陽造脚本,配役は,傳法喜八/三國連太郎,木山/坂田直樹,河辺/王泰貴,山下/牧野憲一,近藤静香/戸田菜穂,谷口コーチ/寺田農,長友/柄本明,勝弘/矢崎滋,古香弥生/淡島千景,ほか.
11)1999年1月15日公開.新藤兼人監督の原作.配役は,山本安吉/三國連太郎,山本徳子/大竹しのぶ,オコマ/吉田日出子,クマ/塩野谷正幸,ウシ/羽村英,オキチ/中里博美,烏丸長者/津川雅彦,君塚長太郎/柄本明,ママさん/大谷直子,ほか.
12)姥捨てが実際にあったか否か,老人は社会のお荷物か否か,言い争う場面がある.
13) その後,天田([2003] 2010),細田(2006),前田(2006),井口(2007)など,老いや中高年に関わる研究が次々と刊行される.
14)2007年1月27日公開.桐野夏生原作,阪本順治監督,脚本.配役は,関口敏子/風吹ジュン,伊藤昭子/三田佳子,関口隆之/寺尾聰,関口美保/常盤貴子,宮里しげ子/加藤治子,野田支配人/豊川悦司,映写技師の先生/麿赤兒,ほか.
15)2008年9月13日公開.さそうあきら原作,滝田洋二郎監督,小山薫堂脚本.配役は,小林大悟/本木雅弘,小林美香/広末涼子,上村百合子/余貴美子,小林淑希/峰岸徹,山下ツヤ子/吉行和子,平田正吉/笹野高史,佐々木生栄/山崎努,ほか.
16)青木([1993]2006)に着想を得ているが,青木の原作とは異なる.
17)赤坂([1991]1995)が横浜浮浪者襲撃事件やニュータウンの排除を論じている.
18)男女雇用機会均等法は勤労婦人福祉法の大幅改正として成立した.勤労婦人福祉法は高度経済成長期の人手不足が深刻な時期に作られた法律である.男女雇用機会均等法は,男女の性役割分業を改革していく意識は弱い.男女雇用機会均等法と労働者派遣事業法の同時期の成立は,女性労働者を階層分化させる方向へ導いた(北村 2010a).
19)子どもの独立や結婚,それに伴う別居は女性にとって大きな役割喪失の機会になることがある.しかし,孫の誕生とともに祖母役割を得て,女性は引き続き家庭で有用かつ生きがいのある役割を得ることがある(江原 1987: 267).
20)太字は原文のとおり.
21)薬剤を身体に取り入れる行為の侵襲性,食べることの侵犯性を講義すると驚く学生が多い.生々しい老いや死どころか,生々しい生命さえも意識されていない.普段の生活では忘れていてもよいだろうが,思い出すのも時間がかかるように思われる.

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[URL]
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