1980年代のホームヘルプ制度の変容に関する一考察

渋谷光美

はじめに

 ホームヘルプ制度は,社会福祉の一環として,生活問題に対する社会的支援として創設され,実践されてきた.しかし,たとえば介護保険においては,細切れ的な訪問時間内での生活行為の代替という極めて狭められた介護内容となっている.今日の動向は,日本のホームヘルプサービスの歴史的変遷を踏まえれば,1980年代以降の福祉制度転換期から顕在化し始めていたといえる.1970年代後半から,本来家族内で行われてきた生活行為を代替するというサービスとしての量的拡大と,供給システムの効率性が強調されてきた.高木は,1980年代のホームヘルプサービス政策の推移を,「臨調答申を受けた政策の具体化開始・公的サービスの有料化・ヘルパーの供給手段転換期」として把握している(高木 2006: 5).そこで指摘されているように,臨調行革路線のもとで,社会保障・社会福祉政策が見直され,1985年の医療法の改正などによる老人の社会的入院の解消に向けた在宅での受け皿づくりが,政策背景にあったといえる.1986年には,長期入院患者家庭復帰・在宅ケア推進事業が診療報酬に組み込まれ,医療的ニーズの高い老人も,在宅へと「復帰」させられていったからである.介護を必要とする対象者は,家族介護を前提とすることが主張されながらも,同居家族がある中流階級層にもホームへルプサービスの受け手が拡大していくことを意味していた.供給手段の転用を可能にするために,ホームヘルパーの非正規雇用化を推進し,主婦層を担い手として位置付けた.サービスの受け手と担い手,供給組織の拡大が臨調行革路線の一環として推進された側面が指摘されてきた.
 1970年代のホームヘルパーの常勤化は,正規職員化闘争等によって勝ち取られてきた(渋谷 2011).身分保障,待遇改善とともに,ホームヘルプ労働が,常勤が担うべき──困難性を伴い研修・検討の場を必要とする──労働として政策主体にも確認されていた.その到達点が,臨調行革路線の政策である公務員ホームヘルパーの増員抑制や非正規雇用化推進によって切り崩されていった.
しかし,臨調行革路線といった政策的側面による切り崩しという把握だけでは不十分ではないかというのが,筆者の問題意識である.サービスの担い手に関していえば,主婦層を対象としたパートタイマー制の導入による量産化という行政の施策化が,現実の人材確保を可能にしたといえるのか.そうではなく,1980年代当時,担い手側の変容があった点の把握が重要ではないだろうか.パートタイマー制雇用を自ら希望する,つまり選択肢としては,生活できるだけの賃金保障や身分保障があるかどうかよりも,自由裁量の効く時間的制約の範囲であることや,社会参加や社会貢献の場が確保できること等を重視する主婦層へと変容した点を把握することが問われるのではないか.その意味で,担い手側の変容がホームヘルプ労働の価格破壊をもたらし,1970年代の到達点が切り崩される条件が揃ってしまっていた側面に着目すべきではないかと考えた.
 本章では,1980年代のホームヘルプ制度の政策的動向を概観し,事業拡大期における担い手の変容を中心に,1970年代後半から1980年代の東京都での実態調査等をもとに考察する.

1 1980年代のホームヘルプ施策

 1983年度末の段階でホームヘルパー事業を実施している市町村数は3,231で,全市町村の98.6%に達していた(総務庁長官官房老人対策室 1984: 103).1982年に老人保健法が成立し,翌年には老人医療無料政策は廃止された.70歳以上の診療制限が厳しくなっただけではなく,退院後の老人に対する在宅での受け皿づくりとして,ホームヘルパーの量的拡大が必須となった.ホームヘルパー実施要綱にも,「医療機関との連携」が新たに加えられていた.
 ホームヘルパーの3分の2は市町村に雇用されており,1973年に82.4%であった常勤比率は,1978年4月には90.9%にまで達していた.ホームヘルパーの量的拡大が必須となったが,1970年代のような自治体直営式での事業規模拡大と公務員などの正規雇用による増員では経済的負担が過多になる.そのことを理由に,公務員定数の抑制施策が推進された.国際ホームヘルパー協会に加盟していた諸外国のホームヘルパーの雇用形態も参照され,ホームヘルパーの非常勤化が世界の趨勢であることが強調されていた.供給組織としては,社会福祉協議会の他,第三セクターや住民参加型等の事業主体への委託を,行政が後押しする形で促進させた.1981年に武蔵野市福祉公社が事業を開始し,1984年には財団法人横浜市ホームヘルプ協会が設立された.「ホームヘルパー 電話一本すぐ訪問 厚生省来年度から手続き簡素化 介護水準も上げます」と宣伝されていた(『朝日新聞』1986.9.1 東京). 
 供給組織を多様化,多元化することと並行して,派遣費用の有料化も導入された.受益者負担は,派遣対象者が無料で援助を受けることに対するスティグマを除去すること等を理由に正当化された.派遣対象が中流階級層へも拡大していたことから受益者負担は可能であり,制度の財政的破綻回避のためには必須であるとされた.ホームヘルパーに対しては,「買う福祉」の状況下で働くための意識変革として,政策化を推進するための研修が実施されていた.非正規雇用化を正当化したのは財政的視点だけではなく,従来家庭内で行われてきた生活行為であるとする,ホームヘルプ労働の単純労働規定の視点があった.
他方では,ホームヘルパーの量産化に伴う労働の質の担保・向上を図ることが議論され,研修等の規定と実施の拘束力が強化された.1987年には,ホームヘルパー講習会推進事業として,360時間研修が位置付けられ,同年には社会福祉士及び介護福祉士法が成立していた.介護福祉士を取得するホームヘルパーが増産した.また,ホームヘルパーとして5年以上の勤務などを要件とする主任ホームヘルパー(チーフ・ヘルパー)制も導入された.派遣希望時の評価や,現在受けているサービス内容の適切さの把握とその対応,保健医療などの関連分野との連絡調整や,ボランティア団体との連携が主な業務とされていた.

2 臨調行革路線を可能にした日本の性別役割分担

 1980年代のホームヘルプ制度における転換は,国家施策を如実に体現したものであった.1985年2月12日,臨時行政改革推進審議会民間活力推進方策研究会は「民間活力発揮推進のための行政改革の在り方」を報告した.国家財政は危機的状況に陥っているとして,公的部門が提供するのは基礎的なサービスに限定し,事務事業の民間委託,社会福祉法人等の活用,公設民営方式の導入の推進という民間活力を活用した供給システムの多様化,多元化が打ち出されていった.自助努力,受益者負担とサービス提供の時間的効率性に重点を置く,事業の多元化とパートタイマー制の導入であった.杉本は,1980年代後半を「新・日本型福祉社会」として,「自助・連帯を重視し,公的部門をできるだけインフォーマル部門へ移行させる方針が明らかであり⋯⋯『多様な選択』として対応させてはいるものの⋯⋯シルバービジネスやボランティア活動の強調は,安価な労働力としての女性の参入をますます必要とする」(杉本 2004: 45)こと,1987年当時,厚生省もヒューマンパワー政策の焦点を主婦の雇用としていた点を指摘していた.
 1980年前半には,有配偶女子の有業率が既婚女性の半数を超え,フルタイム,パートタイムなど働き方は様々だが,働く女性が専業主婦を上回った(杉本 2004: 49-50).国際的には,1975年「国際婦人年」からの「国際婦人の10年」の中間期にあたる.日本では,1985年に「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律」が成立した.この法律の成立は,男女平等に寄与したが,あくまでも男女の性別役割分担という枠組みの中で,能力に応じて均等な機会を付与することに他ならなかった.母性保護の観点は希薄になり,男性並みに働く層,男並みに働きたくても働けない──シングルマザーあるいは性別役割分担として育児や介護と両立しながら収入を得なければならない──層,また稼ぎ手の夫がいる限りは食べていけるが家計補助的に,社会貢献のために働きたい層など,女性労働に関して,階層化と多様化がもたらされた.日本型終身雇用の男性働き手世帯に対する年金・税制の専業主婦優遇政策は,性別役割分担としての育児や介護を担える非正規・パートタイマー労働を選択する女性労働者を輩出することに拍車をかけた.
 ホームヘルプ制度においては,男性並みに働く女性ではなく,非正規・パートタイマーの労働を選択する主婦層が位置付けられると同時に,現実的に人材確保がなされていった.その層には,高学歴・有資格者が含まれていたにもかかわらず,労働価格には全く加味されることなく雇用されていた.個人の学歴・資格による賃金の上乗せが考慮されることよりも,性別役割分担として家庭内での役割の遂行との支障が少なく済むという意味で,細切れ的な時間制約であることの方が,主婦層にとっては重要な選択肢にならざるを得なかったといえる.臨調行革路線の政策化が非正規雇用を増大させただけではなく,パートタイマーとしてならサービスの担い手に成り得る女性労働者と高学歴女性をも包含した層の創出が,低賃金のパートタイマーや有償ボランティア,無償での社会貢献として担い得る人材の確保を可能にした.その人材供給源の創出は,労働の価格破壊をもたらす条件としても作用していた.1978年に90.9%というホームヘルパーの常勤比率は,1970年代に正規職員化闘争を契機に勝ち取られた身分保障と待遇改善の到達点でもあった.ところが,非正規雇用としての労働を選択せざるを得ない担い手層の拡大は,時間単位の労働力に対する低対価を自明的なものとし,価格破壊による切り崩しをもたらしたといえる.そのことは労働対価に留まらず,常勤職員が担うべき労働の内実を有しているという到達点をも切り崩した.細切れ的な労働者で担い得る労働の内実へと,変容させていくことになったのである.
 東京都における1970年代後半から1980年代のホームヘルパー事業の実態調査から,労働の担い手および内実の変容に関する実情の一端を確認していきたい.

3 東京都のホームヘルプ事業に関する実態調査から

 3.1 対象者の拡大とホームヘルパーの変容 
 経済的制限の緩和施策により,ホームヘルパーの派遣世帯のうち被保護世帯の占める割合は1965年に83.7%だったのが,1970年に51.2%,1971年には47.1%と半数以下になり,その後も減少していった.1977年の東京都の調査では,被保護世帯は特別区では23.0%,26都市では34.7%という結果であった(東京都神経科学総合研究所社会学研究室 1977: 26).被保護世帯以外の低所得者層の利用が高まっていたと考えられる.1982年の家庭奉仕員派遣事業の改正では,低所得者制限は撤廃され,派遣費用は無料から原則自己負担となった.そしてサービスの申請者は,本人または保護者から,生活中心者となった.このことにより,家族介護には限界があり,家政婦を雇用できるほど経済的余裕はないが,費用負担をしてホームヘルプサービスは利用したいという中間階級層の生活中心者からの利用申請による対象拡大がもたらされた.従来の週2回以上,半日単位は,1時間単位,必要時間数,上限週6日,18時間以内と改正された.
 費用負担があってもサービスを利用したいという派遣対象の拡大は,心身状況による生活上の支障に留まらない,多様で複雑な生活実態層としての拡大をも意味していた.低収入,住宅状況が劣悪,近隣家族から孤立,自閉的で生活内容が悪化している人が多くいた.日常生活動作の点では問題がないのに,食事内容が悪化,不潔,室内が不用品で一杯,民生委員からの要請で訪問してもドアを開けない,癌末期なのに入院を拒む高齢者や病院から自宅療養を強要される高齢者など,事態は深刻であると指摘されていた.さらに医療政策の改正により,本来入院治療を必要とする在宅療養患者もかなり多く含まれていた.ある座談会では,診療報酬体系の中で特例許可老人病院入院時医学管理料が3か月経ったら53.8%に減ることや,入院している老人は3か月経てばだいたい病状が落ち着くから退院していただくと,老人病院の院長が入院時点で明確に提示していた事例等が報告されていた.入院していて3か月経った人間と,入院直後の人間とで何故差別があるのかと議論になっていた(総合社会福祉研究所 1989: 22).
 東京都での1977年のホームヘルプ事業の実態調査結果(東京都神経科学総合研究所社会学研究室 1977)は,東京都特別区の身体障害者ヘルパー68人(特別区身障ヘルパーの約1/4)と,26市のホームヘルパー148人(26市のヘルパーの95%)に対する質問紙面面接調査として実施され,調査対象のヘルパーは,すべて区市町の職員,または市に登録されたヘルパーであった.派遣対象者について,26市では,70歳代以上が49.4%に対して,区部は6.3%であった.区部は,障害者(児)が調査対象となっていたため高齢者は少なかった.全体の2割強は知能障害を有し,視力障害,聴力障害,言語障害などとともに,感覚機能や意思伝達機能に障害があり,コミュニケーションにはかなりの困難があると考えられる者や,精神的障害を有する者など,障害の範囲や内容も多岐にわたっていることが指摘されていた(東京都神経科学総合研究所社会学研究室 1977: 32-33).
 調査報告書の事例によると,ひとり暮らしの70歳代の女性宅にヘルパーが訪問した際,出血がひどいため,救急車を呼んで病院に搬送したが,他人を大声で罵倒するため,すぐに退院させられた.精神科医も精神病との診断はしなかったため,入院できる精神病院を見つけるまで,このように重症になった老人をヘルパーが訪問し続けていたケースがあったという.また,心障児と留守番をしていたヘルパーがごみを捨てに戸外に出たときに,中から施錠され閉め出されてしまった事例や,心障児と一緒に歌ったり,絵を描いたりといった活動するためには,療育に関する知識が必要となることも強調されていた.
 この調査の目的には,本来看護婦(現看護師)がすべき看護業務がかなり含まれているのではないかという視点があった.結果としては,救急処置,褥瘡の手当,精神障害者への看護などをホームヘルパーが担っている実態が把握されたとしていた.有資格者としては,看護婦,教員,保母,その他が約20%含まれていた.年齢は,40歳代が最も多く,次いで30歳代,50歳代であった.学歴として,高卒と短大卒が75%を占め,大卒の人もいた.また,既婚者が91%,家族構成は,4人家族が38%で最も多かった.扶養家族では,“なし”が59%,“あり”は35%であった.調査報告としては,「ヘルプ事業の開設当初,ヘルパーを未亡人の仕事,あるいは,労働行政上,未亡人の労働市場の拡大対策と位置づけたところもあった.しかし,以上の結果をみると,ヘルパーの多くは,主婦で,結婚後育児から解放された人が再就職している.⋯⋯行政内でのヘルパーの格付けと関連し,未亡人で扶養家族の多い場合,ヘルパーの賃金では,生計が困難であり,現在は未亡人中心の仕事とはなっていない」ことを指摘していた(東京都神経科学総合研究所社会学研究室 1977: 20).資格,学歴には関係なく,ホームヘルパーの行政上の格付は,中学卒待遇の福祉作業職であった.
 ホームヘルパーの勤続年数は,3年以上が約70%であった.健康状態については,良好というのは46%で,はっきり悪いと回答した人は29%あった.仕事で健康上心配があると回答したのは63%で,具体的には,腰痛,感染,疲労,交通事故などであった.腰痛は,在宅での介護という点から「ホームヘルパーは数少ない人数で仕事をやっているのが現状ですから,腰痛症を起こしている方が随分おられます.寝たきりの介護は,大変な重労働です.しかも畳の上やから,ギックリ腰を起こしやすいといった状況があります」(総合社会福祉研究所 1989: 23)と指摘されていた実情と関連していると考えられる.
 1977年の調査でも,老人や母子家庭の一時的な疾病や障害に対しては,介護人制度,または家事援助者制度で担われていると報告があった.後者は,民営家政婦紹介所への委託であった.次節では,東京都におけるホームヘルプ事業の供給組織の多様化,多元化の動向と担い手の実情を見ていくことにしたい.

 3.2 供給組織の多様化・多元化と,ホームヘルパーの変容
 東京都での政策,供給組織の多様化とホームヘルパーに関して,1980年代の行政資料,実態調査報告書をもとに見ていきたい.
 まずは,東京都でのホームヘルプ施策化の変遷を概観する.1962年,東京都が東京都社会福祉協議会へ委託して,ホームヘルプ制度(家庭奉仕員制度)が創設された.1964年に委託していた事業を東京都の直営事業として実施した.翌年に区に事業を移管し,特別区以外の市町村でも事業が開始された.1966年には身体障害者ホームヘルプ事業が,翌年の国策化に先駆けて実施された.1968年ホームヘルパーの正規職員化闘争により,都内の特別区と4市町村で常勤化が勝ち取られた.
 その後1971年に老人介護人派遣事業が,1973年には老人家事援助者雇用費助成事業が開始された.1981年に所得制限が撤廃され,派遣費用の自己負担制が導入された.その翌年には,老人家庭奉仕員派遣事業・老人家事援助事業・老人介護人派遣事業が統合された.1985年3月時点では,東京都のホームヘルパー数は,3,786人であった.そのうち,常勤の家庭奉仕員は,542人,残り3,244人が家事援助者であった(東京都立労働研究所 1987: 19).
 東京都の政策として,『高齢化社会にむけての東京都の老人福祉施策とそのあり方について』という1982年の答申では,ホームヘルプサービスは家事援助サービスという位置付けにされていた.ここにいう家事の中には,通常の家庭で家族が要介護老人に対して,日常的に行っている程度の介護を含むものとするという注意書きはあったが,ホームヘルプサービスを本来家族内で行われていた家事援助という生活行為の代替機能に限定して捉えていた.老人家庭奉仕員派遣事業・老人家事援助事業・老人介護人派遣事業も同一的な扱いになっていた.事業の拡大は,現行の制度の延長では到底なしえないとして,欧州に倣いパートタイム制の導入が必要であるとしていた.安上がり福祉とならないよう経済的な処遇,事故補償などの諸点について万全の対策をとることや,市民参加の意義,また可能な限りホームヘルパーの研修,訓練に努力するとともに,スーパーバイザー制を導入することが提言されていた.
 1984年,東京都社会福祉審議会の『東京都におけるこれからの社会福祉の総合的な展開について』でも同じ方向性が示されていた.在宅福祉サービスでは,非常勤従事者とした方がシステム全体として効率がよいと考えられていた.パートタイマーと同じように低賃金で雇用できる安価な労働力として容易に扱ってはならない,勤務時間が常勤のものと比べて短くかつ不規則であるという以外は,常勤の職員と同じように扱わなければならないという留意点を挙げていた.その職名も業務の内容にふさわしいもので,一般家庭の主婦などの社会参加の1つの手段として,あるいは生き甲斐を得るための活動として,主体的・自発的に誇りをもって従事できるようなものでなければならないとの考え方を提示していた.
 東京都立労働研究所中高年労働部部門では,1985年に都内で活動していたホームヘルプサービス供給組織に対するヒアリング調査を行っていた.行政とのかかわり等を中心として,行政責任型,民間活動型,民間企業型と分類し,表1のように把握した.
表1 1980年代,東京都の民間ホームヘルプサービス供給組織分類
行政とのかかわり方 組織名 補助金
行政責任型 行政の委託を受け運営
(区の委託を受け社協が運営) ふれあいサービスセンター(世田谷区) 事務費・人件費は区の委託金
行政の全面的補助を受け運営(区の作った任意団体) 武蔵野市福祉公社 人件費相当分は市の補助金
台東区おとしより公社 職員給与は直接市が負担,
事務費は補助金
民間活動型 行政から一部援助を受け運営 東京ファミリーサービス(渋谷区) 90万円/年の補助金
行政から援助を受けずに運営 友愛の灯協会(杉並区)
くらしのお手伝い協会
(練馬区) 補助金は無し
民間企業型 民間企業が運営 (株)ヘルシーライフサービス 補助金は無し

出所;東京都立労働研究所(1987: 22)に筆者が加筆

 上記の他に,小金井市のボランティアセンターと日本臨床看護家政協会に対するヒアリングと,従事者へのアンケート調査を実施していた.624票の有効回答と,その他に,新宿婦人高等職業技術専門校福祉ヘルパー科の235票の有効回答による分析だが,行政のホームヘルパーは含まれていない.ここでは行政責任型の3組織を中心に,派遣対象とサービスの担い手に着目し把握しておきたい(東京都立労働研究所 1987: 23-28).
 ふれあいサービスセンターは,1983年から世田谷区が世田谷区社会福祉協議会に委託して開始された.派遣対象は,世田谷区在住の60歳以上の老人及びその家族で,家庭奉仕員制度,家事援助者派遣制度等の既存のサービスの対象外だが,家政婦等を雇うほどの経済的余裕がない中間所得層であった.初回訪問は,コーディネーターと協力員が一緒に行いサービスを開始する.コーディネーターは,連絡・調整・事務を行い,3人の常勤社協職員が担当していた.サービスを実施するのは協力員である.年2回程度広報の募集に応募し,登録した協力員の希望にあう派遣対象があると,センターが連絡をするシステムであった.調査結果によると,40代の後半の女性が多く,子どもに手がかからなくなった主婦がほとんどであった.登録動機は,「老人福祉に役立ちたい」が41.5%,次いで「収入を得たい」が22.3%であったが,賃金ではなく謝礼として利用者から受け取る額は,サービスした時間に応じて1時間で600円と一律に設定されていた.利用者とは雇用関係はなく,協力関係という考え方に依っていた.1985年からは,時間貯蓄制度が始まった.現金で受け取らずに,協力した時間を貯蓄して自分が60歳以降になれば無料でサービスが利用できるというもので,高齢者の協力員の登録が多かった.現実には高所得者層からの依頼も多く,協力員のボランティア精神に依存しながら,どこまでニーズに応えるかという課題にも直面していた.
 次に武蔵野市福祉公社は,経営責任は市が負うという制度で,1980年12月に設立された.発足当社に脚光を浴びた福祉資金貸し付け制度──希望者の資産を担保に有料サービスの利用契約を公社と結ぶ──の利用者は全体の2割程度であり,現金支払いの利用が大半であったという.派遣対象者は,65歳以上の老人,身体障害者及びその家族であった.基本サービス料として,毎月1万円を一律に支払う.基本・個別・福祉資金サービスがあり,サービスの種類毎に時間単価が設定されていた.サービスの担い手である協力員は市の広報等で公募され,登録制であった.月平均活動時間は,1人当たり40時間強,1人当たり平均支払活動費は3万円程度となっていた.協力員の特性としてはボランティア的な意識で,高卒以上という高学歴の主婦層がほとんどであった.
 台東区おとしより公社は,区内在住の65歳以上の人を対象としていた.利用会員は,1時間500円のサービス券を購入しておき,受けたサービス期間分の券を協力会員に渡すシステムであった.協力会員は,サービス券を受け取るか,1点の点数として積み立て,65歳以降に本人または区内在住の配偶者・両親にも介護サービスが無料で受けられる点数貯蓄制度にするかを選択できた.しかし,週1〜2回,1回2時間程度,1人1世帯相当という原則があった.協力員は,40歳代から60歳代の主婦層であった.
 民間活動型サービス供給組織の東京ファミリーサービス(渋谷区)は,1982年から労働省の婦人労働能力活用推進事業の一環として,大都市で婦人団体組織がある地域に発足した全国に20か所あるクラブの1つであった.サービス内容は,主婦が自分でできる範囲で助け合い,家政婦,ベビーシッター,シルバー人材センター等の仕事を侵害しないというのが原則であった.調査時は会員300人で,2〜3人子どもがいて援助が必要な30歳代の人が大半を占め,子どもの受験で忙しくなる40歳代はほとんどいなかった.50歳代,60歳代の積極的に援助をしてくれる層は,全会員の2割に満たない程度であった.専業主婦層で,ボランティア意識の人がほとんどであった.
 1977年に発足した友愛の灯協会は,1972年に発足した杉並・老後を良くする会を母体としており,1982年から友愛ヘルプ事業が開始された.サービス内容は,病人の介護・看護にはタッチせず,疲れている家族の手伝い,家事,掃除等を中心に福祉的な仕事であるように配慮していた.一応子育てが落ち着いた40歳代〜50歳代の人,子どものない人が多かった.
 くらしのお手伝い協会は1981年,定年退職後に社会に貢献できる組織を作りたいという発起人39人で結成された.有償の奉仕として,○1他に頼む手立てのない人のニーズを満たすために派遣,○2素人にできること,○3奉仕という名に値することという三つの柱を原則としていた.男性も3%含まれていたが,ほとんどが40歳代〜60歳代の専業主婦であった.
 シルバービジネスについては,社会保障制度審議会が1985年の「老人福祉のあり方について」で,公的部門にサービスに比べ,老人のニーズにより適したサービスが安価に提供される可能性が大きいこと,その果たす役割の重要性が強調されていた.しかし(株)ヘルシーライフサービスでは,ホームヘルプサービス,入浴サービス等を組み合わせて在宅ケアを使うと月に20万〜25万円はかかる計算になるので,おのずと利用者は高所得層に限られていた.ホームヘルパーとの雇用関係を文書契約し,生命保険にも加入していた.月2回の研修を行っていた.ホームヘルパーは,50歳前後で子どもに手がかからなくなった主婦が大半であった.新聞広告の募集に採用人数よりかなり多くの人が応募し,採用条件を満たした人を採用できていた.人材供給の心配はない状態であったという.採用条件は,親や老人の世話をしたことがある人,あるいは好きな人,さらに家庭的に恵まれた人となっていた.報酬は一律の時給と交通費.週35時間以上の人には,賞与が支給され有給もあった.週3回の人で月10万円位,多い人は週5回で20万円位になっていた.
 以上のような供給組織の実情が把握されていた.報告書は,在宅有償サービス供給組織の活動がまだ新しく未整備な点が多いことや,サービスの供給上の問題点として,公的サービス利用者との階層差,サービス内容と範囲,利用者の経済的負担の限界等を指摘していた.公的福祉の後退とともに,福祉労働の価格引き下げ等につながる点に関する批判も高まっていたという.営利追求のために高額な利用料になりがちな民間企業サービスの適正価格を保つため,また高齢者が安心してサービス利用ができるためにも,行政責任型の供給組織によるサービス拡大の重要性が強調されていた.
 担い手の実態調査結果では,中高年女性の比率が高かったが,ボランティアでは44歳以下の若い人が多かったという.供給組織実態調査と並行して実施された地域婦人の就業と社会参加活動の実態調査は,ホームヘルプサービスの需要に必要な人的資源の確保という観点から,潜在的担い手を探っていた.上記の機関が存在している地域に在住の35 歳〜65歳の一般女性への郵送アンケート調査で回収された1,618票(有効回答率40.5%)による分析であった.現在パートやアルバイトに従事している層,特に40歳代後半には,ホームヘルプサービス活動の潜在的担い手が多いことが示されていた.また,今後新たに行いたい仕事や社会活動別では,ボランティア活動希望者にホームヘルプ活動に従事してもよいと考えるものが多く,これに正規従業員希望者,パート・アルバイト希望者が続いていた.これまでの最長職別では,看護婦や保母など人の世話をする仕事に従事していたことのある人に,ホームヘルプ活動への従事可能なものが比較的多く存在していたという結果であった.

 3.3 活動上の困難
 東京都立労働研究所中高年労働部部門による1985年の調査で,「活動上の不満や困難を感じる」という回答は,正規従業員が最も高い比率を示していた.内容は,精神的・身体的に疲れる,仕事に対する世間の評価が低いなどであった.逆に,「とくに不満や困難はない」という回答は,正規従業員は3割であったのに対し,家政婦、会員、パートでは5割前後,さらに協力員・奉仕員やボランティアでは6割を超えていた.不満や困難を感じない範囲で活動していることを意味しているとも考えられる。
 行政責任型として位置づけられたふれあいサービス事業所が,1989年にアンケート調査を行った結果が『ふれあい公社の今後めざすべき方向 報告書』にまとめていた.その中で,公社はもともと行政の福祉サービスを補完するために発足したが,実態としてはその一翼を担う状況になりつつあると指摘していた.1995年度実績では,世田谷区全体のホームヘルプサービスの中で公社の派遣時間の占める割合は約20%であったと報告していた.その調査結果によると,協力会員が勉強になった点は,お年寄りの多様な生活史やさまざまな家庭環境,家庭内の人間関係の難しさを知ることが出来た点であった.他方で,協力会員が援助の実施において困難を感じたサービスは,入浴の世話,排泄の世話,リハビリの世話,車椅子の介助,目が離せないお年寄りとの留守番であった.
 報告書は,協力会員が援助に困難さを感じた点に関して,次の2点を指摘していた.1つは,研修が必要な援助実践がある点であった.協力会員としての参加呼びかけには,家庭の主婦なら普通にできる仕事であり,自分の家庭での家事の延長と考えて下さいと説明し,介護などの特別な経験は求めていないとしていた.しかし,これまでの老人介護講座や体験交流の研修に加え,老人の心理面に関する実践的なテーマの研修が必要であることが明らかになったからだという.もう1つは,特別な配慮が必要なケースがあるとの点であった.利用会員の中には,介護ニーズの増加した老人や痴呆症(現認知症)老人が増加していた.それに加えて特別な配慮が必要なケースとして,退院直後などで医療的サービスが必要,障害等によりコミュニケーションが困難,日中独居も含め家族形態が複雑,長時間の対応が必要,介護者の体力的限界により移動などの介護が難しいというケースが増加していると認識していた.
 現行では,上述のようなケースに協力会員が区別なく対応している実態があるが,今後住民参加型で対応していくのかどうかが問われる点も指摘していた.「同居世帯では健康状態がよくない人が比較的多い.サービスについては,話し相手や目の離せないお年寄りの留守番といった心理的側面の強いサービスが要求されているようである⋯⋯今後,排泄の世話のような介護的ニーズが増える可能性がある」(世田谷ふれあい公社在宅サービス開発研究会サービス改善検討委員会 1989: 12)という見解であった.

 3.4 困難事例に対する地域での連携
 対象者の拡大によって,援助に困難性を伴う事例に対して,地域での連携を模索する動向も出始めていた.

大阪府下の社協で,これは寝屋川市と枚方市ですが,介護人家族の会を作ってまして,民生委員・ボランティア・保健婦・ホームヘルパー・医者等が集まりまして,連絡やいろんなことをやってますね.また堺市では,保険所と耳原鳳病院を中心に,町内会の人やボランティアが集まって,在宅医療・看護をやるシステムを作っています(総合社会福祉研究所 1989: 24).

 その堺市のケースの一例を挙げ,安上がりではできない在宅ケアについて訴えられていた.

重度な一人を支えるために,家族をはじめ,訪問医師・看護婦(現看護師)・ケースワーカー・保健婦(現保健師)・医療ヘルパー・ホームヘルパー・ボランティア16人がかかわったケースがありました.これでも体制が不安定なため,最後は入浴が思うようにできず,介護面でもいきづまり,入院したくても長期受け入れの病院がありませんでした.会議を重ね,思案中に急変して死亡しました(木村 1989: 34).

 名古屋市ホームヘルパーへのインタビュー1)でも,民生委員などの会合にも参加し,地域での実態把握と派遣が必要と判断される世帯の掘り起こしや,派遣世帯の生活維持のための地域会合のコーディネーター役を積極的に担っていったことが語られていた.

保健所との連携が多かったですね.寝たきり施策の対象ではなかった18歳で発病し,寝たきりになった娘さん.弟はこれから高校に入る,お母さんが稼ぎ手で.その子の清拭,洗髪・入浴補助に入っていた.家計が苦しくなってくる,父親が亡くなっているからね.保健婦さんも入っていて,この家庭どうしようと相談して,お母さんが働きに行ったときに,半身麻痺で寝たきりだから,お母さんのいないときに留守番と食事介助を.ヘルパーでは週3回 ボランティアビュロー事務所のまず2人をって(まず2人に入ってもらおうと決めた.: 筆者注).保健所の係長,主査とも話し合い,ボランティア,ヘルパー3回,保健婦が入る日以外に入ってもらうとか,私たちは調整役なのです.一番関わっているヘルパーが,その家族状況が分かるから.お医者さん,民生委員,連携のときには,ヘルパーが中心になっているのですよ.上司が入っても,私たちが中心的にやっていましたね(Aさん).

 政策的には,1988年のホームヘルパー派遣事業運営要綱の改正により,サービス内容が「家事介護に関すること」「相談,助言に関すること」の2項目から,「身体の介護に関すること」「家事に関すること」「相談,助言に関すること」の3項目に区分された.しかし国庫補助の交付基準は「身体介護中心業務」と「家事援助中心業務」とされ,「身体介護中心業務」よりも「家事援助中心業務」の単価が引き下げられた.家事援助とともに相談・助言への軽視が顕在化していた.この動向は,1989年高齢者保健福祉推進10ヵ年戦略(以下,10ヵ年戦略)でより一層促進された.
 10ヵ年戦略の施策では,各自治体の人材確保目標の数値化が実態を伴わない数合わせになっている点も批判されていた2)(名古屋市市職員労働組合現評ヘルパー部会 1992: 7).1991年に,中村秀一厚生省老人福祉計画課長(当時)が参議院地方行政委員会において,1992年度予算では3割を常勤,7割を非常勤と積算したことを公表していた3).里見は,「(1989年から)わずかこの3年間に限っても常勤比率が年々低下していることが確認できよう」と批判していた(里見1993: 52).全国の都道府県,市町村における10ヶ年計画の策定が1994年3月にはほぼ終了した.ホームヘルパー数については,2000年には全国で122,371人が目標となっていたが,増えているのは,主に登録ヘルパー,パートタイムヘルパーであった(『朝日新聞』1994.4.5).

4 考察

 本章では,1980年代のホームヘルプ事業拡大期に関して,第1に,サービスの担い手が,自由裁量のある時間的制約の範囲であることや,社会参加・社会貢献の場が確保できること等を重視する主婦層へと変容したこと,第2に,ホームヘルプ労働の価格破壊をもたらし,1970年代の到達点が切り崩される条件が揃ってしまっていた側面を検討したいと考えた.
 ジェンダー研究において,1980年代に女性労働者の階層化が一層促進された点が指摘されていた.その根底には,日本型終身雇用制のもとで働く男性,その男性を稼ぎ手とし,家庭を支える女性──家庭内における家事・育児・介護等の担当者──という性別役割分担システムが横たわっていることが指摘されていた.
 東京都の供給組織の実態調査では,担い手の主婦層も,性別役割分担を担える範囲で家計補助をせざるを得ない層や,家計補助の収入というよりは社会貢献の場,将来の介護サービスのための時間的積立を選択する層などに階層化している実態が把握できた.ホームヘルパー制度の創設期には,シングルマザーなど就労を必要とする女性が適任とされた.その労働は,厳しく骨の折れる労働であるという認識が政策主体にもあったにもかかわらず,扶養家族がいれば生活保護世帯以下の収入である点に対し,身分保障,待遇改善が勝ち取られてきた.ところが,1980年代には労働の価格破壊がさらに深刻化した.その要因の1つが,主婦層側の選択により,パートタイマー雇用での人材確保が可能となっていた点にあった.そしてその層には,高学歴者や有資格者がかなり含まれていたことが把握できた.その実情が他方では,非正規雇用者はもちろん,公務員など常勤雇用者の労働対価としても,学歴や資格や勤続年数がほとんど考慮されない実態が改善されなくても,人材は確保される実態を創出していた点に「寄与した」のではないかと考えられるからである.常勤雇用者におけるシングルマザーの割合が減った理由としても,扶養家族を養うだけの労働対価になり得ていなかったという労働の価格破壊が指摘されるほどであった.
 繰り返しになるが,本章では,担い手の変容が日本の性別分業を根底とした社会システムのもとでもたらされ,労働の価格破壊にも影響を及ぼしていた点,そのことが1970年代のホームヘルプ労働としての到達点を切り崩すことにもなった点に関して,東京都の実態を踏まえて確認したに過ぎない.その検討も限られた地域での,また極めて限定された調査による点など,分析の課題は山積している.
 さらにホームヘルパー制度の拡大期における変容は,サービスの受け手,担い手とともに,サービス内容,労働の位置付けという意味を包含したホームヘルパー仕事の内実にも及んでいたといえる.たとえば,受け手の拡大に伴う困難性に対しては,とりわけ行政責任も問われることから,社会福祉サービスとしての援助を地域でコーディネートし,また量産化したパートタイム労働のホームヘルパーを統括する役割を有したホームヘルパーの育成も急務とされていた.その意味で,1980年代の日本の性別役割分担による担い手の変容がホームヘルプ労働を二極分化するという,今日への動向をも創出していたのではないかと考えられる.その点に関する実態を踏まえた検討も不可欠であり,今後の課題としたい.

おわりに

 ホームヘルプの変遷に関する研究において,1980年代の把握,評価はいまだ不十分である.1970年代の社会福祉サービスとしての介護労働の到達点が切り崩され,1990年代以降に介護保険施策化に向けた動向が顕在化する過渡期にあって,今日にもつながる様々な変容が生じ始めていた重要な時期である.本稿を踏まえ,政策推進の結果としてのみならず,日本社会の構造的な背景と,ホームヘルプ制度をめぐる実態把握,せめぎ合いを含めた分析をもとにさらなる検討を加え,研究報告の機会を得ていきたいと考える.

[注]
1)インタビューは,2010年4月10日に筆者が元名古屋市ホームヘルパー4名に対して,倫理的配慮に関する説明と合意の上で実施した.
2)愛知県民生部がまとめた社会福祉統計の家庭奉仕員数には,民生委員の人数や地域のボランティア団体の人数も含めてカウントされていた.行政の担当者は,「介護はできないが,老人に声かけなどいわゆる安否確認はやってもらえる」という見解であった.
3)参議院地方行政委員会議事録第3号,1992年4月7日.

[文献]
木村敏子,1989,「安上がりではできない在宅ケア──ホームヘルパーの実践から」『福祉のひろば』総合社会福祉研究所,32-34.
名古屋市市職員労働組合現評ホームヘルパー部会,1992,『ホームヘルパー白書 高齢者の幸せを願って──名古屋市の高齢者の現状と私たちの願い』.
里見賢治,1993,「『10ヵ年戦略』と『老人保健福祉計画』──その問題点と実効性確保の課題」,『社会問題研究』43(1),33-82.
世田谷ふれあい公社在宅サービス開発研究会サービス改善検討委員会,1989,『住民参加型在宅サービス提供組織のサービス利用者より担い手に関する調査──世田谷ふれあい公社利用会員および協力会員アンケート調査を中心に』.
渋谷光美,2011,「在宅介護福祉労働はいかに担われてきたのか──1950年代後半〜1980年代の家庭奉仕員による労働実践を中心に」,天田城介他『老いを治める──老いをめぐる政策と歴史』生活書院,30-89.
総合社会福祉研究所,1989,「特集座談会 高齢者の立場に立った地域医療・地域福祉をめざして」『福祉のひろば』総合社会福祉研究所,12-28.
総務庁長官官房老人対策室,1984,『高齢者問題の現状と施策』大蔵省印刷局.
杉本貴代栄,2004,『福祉社会のジェンダー構造』勁草書房.
高木和美,2006,「ホームヘルプサービス政策の推移──看護・介護労働の差別的利用構造の展開(特集 ホームヘルプサービス政策の推移)賃社編集室,『賃金と社会保障』労働旬報社,4-18.
東京都立労働研究所,1987,『中高年女性の労働と生活に関する調査──ホームヘルプ活動の供給組織と活動の担い手』.
東京都神経科学総合研究所社会学研究室,1977,『ホームヘルプ事業に関する調査報告書』,野崎孔販社.