エッセイ2「此処から 呼びかける瞳──シンポジウム開催までの経過とこれから」

岡本晃明 西田美紀 酒井美和
              
 2011年9月、東日本大震災を経験した福島の在宅難病患者・人工呼吸器利用者を招いたシンポジウム「震災と停電をどう生き延びたか」を京都で開催した。東日本大震災から半年。夏の電力不足から、計画停電実施の恐れが繰り返し報道された時期が過ぎたなかで開かれたシンポジウムであったが、外出が困難な人工呼吸器利用者、医療・福祉関係者、保健所・行政関係者など、予想を上回る約230人が会場を埋めた。
 3.11以降、被災地のみならず日本中に震災と停電に関わる様々な情報が駆け巡り、何が正しい情報なのか混乱をきたした。特に、生存に必要不可欠となる医療的機器を利用している在宅の重度障害者、人工呼吸器利用者は、その時々で変化する情報に踊らされ、いつ、どのように震災と停電に関わる対策を講じれば良いのか判断が困難であった。自分の住宅は計画停電の対象になるのか、いつ、どれくらいの時間、停電になるのか、停電の間をどのようにしのげばいいのかなど、分からないまま不安な日々を過ごした。困ったときに頼りになるはずの防災マニュアルには、「緊急時には○○○へ電話をする」と定番化されていたが、電話がつながらない緊急時にはどのように対応すれば良いのか、書かれてはいなかった。
 このような状況下では、震災と停電対策のために何をすべきなのか分からず、被災地以外の多くの人も不安と心配を抱え、答えを求めていた。それは京都でも同様であり、今後、起こるかもしれない震災と停電に対して、どのような対策が今できるのか、多くの人が情報の提供と共有を求めていた。
 そのような流れのなか、人工呼吸器利用者であるALS患者の増田英明さんが京都で声を上げた。増田さんは、ALS(筋萎縮性側索硬化症) という、筋力が徐々に衰える神経難病の患者である。ALSは、進行により呼吸も困難となるため、生存のためには人工呼吸器装着が必要となる。増田さんは人工呼吸器利用者として、震災と停電に関する困難に直面することで、以前から感じていた情報共有の必要性をより一層考えるようになった。そして、情報共有のためには広範囲なコミュニティではなく、もっとローカルで、顔の見える関係づくりが京都でも必要だという思いも強く意識するようになる。発声機能を失った増田さんが自分の思いを発信し、実現に向けて動くなかで、シンポジウム「震災と停電をどう生き延びたか」の実現へとつながっていった。
 シンポジウムが、人工呼吸器を使って在宅生活を送る当事者の声から始まったことは、京都のみならず、震災後の日本の状況においても重要なことである。壇上に人工呼吸器を使う人たちが並んだ。シンポジウムの様子は、テレビや新聞でも大きく報道され、透明文字盤を介して瞳で思いを表現する姿が取り上げられた。
 本稿では、まず、在宅難病患者・人工呼吸器利用者の既存コミュニティの一つであり、シンポジウム実行委員長である増田さんも活動するALS患者団体について概略を述べる。そして、増田さんが震災と停電に関する困難に直面することで、より身近なコミュニティが必要だという思いを強め、京都での「ローカルな場」の構築へと向かっていった至った経緯を辿る。そのなかで、増田さんが自身の思いの実現に向けて、どのように他者とのつながりを広げていったのかも見ていく。また、当初の問題意識、開催過程で実施した在宅で医療的ケアを受けながら暮らす方々へのインタビューなども取り入れていきながら、増田さんの思いが広がっていき、シンポジウム実施までへと至った道を振り返っていきたい。

 1.シンポジウム開催以前
 1)既存コミュニティである患者団体
 増田さんはALSという治療方法が確立されていない神経難病患者であり、ALS患者は全国に8500人ほどいると考えられている 。そして、ALS患者の当事者組織として日本ALS協会(1986年設立)がある。日本ALS協会は約6200人が会員となっており、本部(東京)以外に1ブロック(近畿ブロック)、および39支部が設立されている(2011年2月現在) 。会員には患者、家族(遺族)、医療・福祉専門職者などが含まれる。日本ALS協会は会報やインターネットを介して特定疾患の制度 から介護保険といった療養に関する情報提供や最新の治療研究の紹介に努め、総会や交流会で患者同士のきずなも深めている。相談や研究・実態調査の一方、国に対してもたん吸引など医療的ケア問題 で要望活動や、生命倫理に関する法的動向に対しても、会として積極的に発言を続けている 。特定疾患に指定されている病の患者団体の中でも、活発な社会活動と発言力のある団体だといえる。

 2)京都での患者団体、支援団体の状況
 京都府に日本ALS協会の支部はなく、代わりに京都府を含めた複数の他府県から成り立つ近畿ブロック(事務局・大阪市)がある。増田さんは、この日本ALS協会近畿ブロックの幹事を務めており、近畿圏を中心に活動を行ってきた。近畿ブロックでは、会報発行や電話相談、患者訪問によるコミュニケーション機器支援、患者・家族・専門職による交流会などに取り組んでいるが、2府5県、人口1000万人を越す近畿圏はあまりに広い。だからこそ、増田さんは更に身近な存在となる京都での「ローカルな場」の構築が必要ではないかと感じるようになる。
 ALS協会以外では、京都市内には京都難病連がある。公的な難病相談窓口として、国立病院機構宇多野病院内に「京都府難病相談・支援センター」が2005年に設置された。しかし、センターは当事者団体ではないため、他府県で見られるような患者同士のサロン的な役割や機能を果たすことが難しい状況にある 。

 3)京都のALS患者を取り巻く状況
 京都は薬害スモン、腎臓病患者会、近くは薬害エイズでも、全国をリードする患者会運動が草の根で立ち上がってきた風土がある。また京都市は重度障害者が入院中、慣れたヘルパーの派遣を公費負担するコミュニケーション支援事業に取り組むなど、福祉施策で進んだ面もある。だが、こうした制度も歴史も、いまは在宅患者に十分共有されていない。特にALS患者は、介護保険、医療保険、障害者福祉制度、特定疾患の制度など複数の利用できる制度があるため、誰がどのようなサービスを利用できるのか、非常に分かりにくい現状にある。更に、市町村のサービス給付時間格差や入院時コミュニケーション支援といった独自事業などもあり、情報を知らないがために利用できていないものも数多い。それぞれの制度が年々変わる中で、患者は情報の海に溺れ、なぜ自身の地域ではダメなのかよくわからないまま、制度の利用を諦めてしまう。それゆえ、市町村の独自事業も埋没してしまう。自治体格差が広がる中で、そして福祉や医療資源の極端な偏りの中で、ALSなど医療を必要とする重度障害者にとって、ローカルなレベルで情報を共有することの重要性は増している。

 4)京都に暮らすALS患者
 京都には177人のALS患者が特定疾患医療を受給している 。だが、府や市町村の行政サービスや対応の違い、地域の状況を反映した京都で生じる個々の課題をALS当事者が語りあえる場はなかった。特に人工呼吸器を装着したALS患者は、車イス移乗にも複数の介助者がいないと難しく、語り合える場に外出することそのものが困難であった。
 京都のALS患者家族が滋賀県支部の集会に参加して相談をするような例もあった。京都市ではALS患者甲谷匡賛さんが在宅独居に挑み、京都市南区の日本障害者自立生活センター(JCIL)のメンバーとともに制度運用上の問題点について交渉した。手足の痙攣、たん吸引を受けながら、市の職員に向き合った。2008年2月、京都市は甲谷さんへのヘルパー派遣を月約400時間から 、月861時間に変更した。ヘルパーが24時間態勢で支援し、さらに1日あたり3時間は二人の介護態勢となった。複数介護を含む一日24時間以上の公的介護保障は全国でもわずかで、日本ALS協会によると、在宅ALS患者へのヘルパー支給時間数としては当時日本一だった。甲谷さんが1日24時間の公的介護保障を獲得することで、京都のALS患者や同様の時間数を必要としている人たちも、同じように獲得できる可能性が開けた。甲谷さんが願う「あとにつづくみち」がひとつできた。
 だがこうした制度の運用は、障害者施策と介護保険制度との併給に伴うケアプラン作成など、複数制度にまたがって複数の事業所や専門職者から提供されるため、関係者の統一的理解が難しく実際は難しい。在宅生活を大きく左右する制度利用が、居住する区や保健所、または出会ったケアマネジャーの解釈や情報量によって統一されず、ある人は利用できると教えてくれたものが、ある人からは利用できないと異なる助言がされる場合もある。それにより、当事者も何が正しいのか判断することができず、本来であるならば利用できる制度にさえ、なかなかたどり着けない情報格差が生じてくる。だからこそ、増田さんが構築を訴える、より身近な「ローカルな場」を京都でつくることが重要となってくる。

 2.呼びかける当事者
 増田英明さんは1943年10月26日生まれで、京都市左京区で暮らす。旅行業などに携わってきたが、60歳ごろALSを発症。病気の進行が早く、2年後の2006年に人工呼吸器を装着した。在宅移行後は左京区の難病デイケアに通所し、動けない身体でも車イスに自由に動けるようになった。和歌山に西国三十三カ所詣でにいくなど行動的で、通所する人工呼吸器ユーザーにアンビューバッグの使い方を指導したり、発声を失っても透明文字盤やインターネットを駆使して社会に発信する希望を持ち、ALS協会近畿ブロック幹事を務めたり、社会参加意欲を強く持ち続けてきた。
 そうした増田さんの日常と活動は、震災を機に広がろうとしていた。震災直後、被災地のALS仲間からのSOSを受けガソリン缶を探したが、離れた関西であっても在庫がなかった。震災という危機を身近に感じると同時に、何もできなかったことへの苛立ちも抱えた。震災から約2週間後、増田さんは、同系列の難病デイケアに勤務し、京都のALS患者の在宅生活を支援している看護師西田美紀さんに連絡した。「(通所を)辞めたら体力が落ちないか心配ですが、何か人の役に立つようなことができればいいのですが、模索中です」。数年間通所してきた難病デイケアを「卒業」することで社会との接点を失う不安と、在宅でどのように地域活動を広げていくことができるのかが見えず、途方に暮れている時でもあった。
 東日本大震災があった2011年、増田さんは68歳。メールはわずかに動く指先をセンサーで感知し、パソコンの重度障害者用の意思伝達ソフト「伝の心 」を駆使して入力する。カーソルが動き、一文字ひと文字を決定していく。一文を作成するにも長い時間がかかる。
 春、増田さんからメールがあった。

 「私は難しい事は解りませんが、京都で災害が起きたときに、在宅の重症患者の顔がすぐ思い浮かびあの人は大丈夫だろうかと思いやれるような環境を、つねひごろから構築する必要があると思い、茶話会をしたいと考えています。
  私はALSを発症して7年、呼吸器を着けて5年になります。その間ALS近畿ブロックで活動してきましたが身近な京都市内での横のつながりが全くありません。個人情報の取扱いの観点からも上手く行きませんでした」

 増田さんの在宅生活は当時、介護保険の訪問ヘルパーが月に32時間訪れるほかは家族介護に頼っていた。外出を希望していても、その度に割高な介護タクシーを利用しなくてはならず、思うようにならない。障害者自立支援法の重度訪問介護制度を活用して長時間のヘルパー派遣を希望し、自薦ヘルパーを育てることで外出や自分らしい暮らしを構築したい。また、京都でも自薦ヘルパーを使って暮らすモデルを実現し、他のALS患者のためになりたいと願っていた。増田さんにとって「茶話会」は、患者同士が悩みを語り合い、顔が見える関係を広げる場として構想された。

 3.呼びかけから、つながりへ
 増田さんの「茶話会」への思い、あるいは日本ALS協会の京都支部が必要ではないだろうか、つくれないだろうかという思いが、周囲の人から人へとつながっていく。西田さんらがALS患者の在宅独居支援に関わる中で出会った、JCILを始めとする多様な運動体へとつながった。介護事業所、大学、学生、医療職らにも続いていく。この一連のつながりと経験から、問題意識を共有することができた。そこで6月ごろから、京都で関心がありそうな人への呼びかけを始めた。震災を契機にさまざまな人が増田さんと知り合う中で、ALS患者の「茶話会」から、増田さんの考える「当事者」の対象は広がり始めた。

 「私は当初、ALS患者で横のつながりを持ちたいと思っていました
 それは私がALSでALSのことしかわからないからです。
 しかし、災害時の停電弱者は必ずしもALS患者だけでなく、
 呼吸器装着者だという気がしてきました。
 呼吸器装着者のつながりを持ちたいと変わってきました」

 多くの難病患者会が、病気の種別によって縦割りになっている。同じ病だからわかり合える良さもあるのだが、もっと現状に対して問題意識を共有できる土台があるはずだ。立命館大学在学時に自ら支援の輪を作り、介護事業所まで立ち上げていた京都市在住の筋ジストロフィ患者で人工呼吸器を使用している佐藤謙さんに増田さんの思いを紹介したところ、一緒に動いてくれることを即決してくれた。
 「NPO『ゆに』を自分で立ち上げたのも、大学に行ったのも、人とのつながり、出会いが原点です。活動をしないと外の世界と接点がなく孤立してしまう。同じ筋ジスでも、話ができる人はいるけれど、当事者会としてのつながりは薄れている」と、佐藤さんは語った。佐藤さんの人工呼吸器は内蔵バッテリーの持続時間が1時間。外部バッテリーを2台持つが、計6時間半しか持たない。外出時は車のシガーソケットからインバーターを介して電力を人工呼吸器に供給している。外出を積み重ねていることから、バッテリーに対する意識も高かった。

 「バッテリーは使わなくても減っていく消耗品。しょっちゅう充電しているし、持続時間もだんだん短くなっていく。人工呼吸器も新しい製品では内蔵バッテリーの持続時間が長くなっていますが、じゃあ新しい製品に替えよう、とはいかない難しさがある。6月に新しい人工呼吸器を試す機会があったけれど、空気を押し出すタイミングが微妙に違うとしんどいし、しゃべりづらい。新しい機械に慣れるということは簡単じゃない」。その佐藤さんでも、停電時に介護ベッドが動かせなくなったり、エアマットの空気が抜けたりすることは気づいていなかった。「そういえばそうですね。やっぱり情報の共有は大事です」

 佐藤さんの言葉は、重度障害者の在宅生活と医療機器について重要な指摘だった。健常者目線で考える機器の性能向上より、「慣れた機器」のもたらす安心の方がはるかに大きい。レーサータイプの新品自転車より、乗り慣れた自転車の方が無意識にすいすい道路を行くように。東京都が東日本大震災と計画停電後、人工呼吸器ユーザー785人を対象に実施した調査でも、「内蔵バッテリーなし」との人が273人、34%と多かった。
 またこのころから夏の電力危機を控えて、新聞報道でも停電時に医療機器を使う障害者らが直面する危機についての記事がいくつかあった。
 京都府が6月に医療機器業者から聞き取ったところ、呼吸器や在宅酸素療法などを使う患者は、府内で約3500人いる。うち、在宅の人工呼吸器ユーザーは約150人。しかし府健康対策課がリストとして把握している在宅人工呼吸器装着者は6月時点で約30人に過ぎない。把握でいているのは年に一度保健所で登録更新があるALSなど56の特定疾患(指定難病)に限られ、特定疾患でない筋ジスや在宅酸素療法の人、痰の吸引器を使う人の実態は医療制度上、把握が難しいとの報道があった(京都新聞6月6日付朝刊)。 エアマットを使う高齢者も含めれば、停電によって影響を受ける人たちは多様で、かなり多いことが推測された。
 福島のALS患者の家族に状況を問い合わせたころ、以下のようなメールが届いた。

 「私はたまたま、ALSの支部の役員にいわきCILの理事長さんがいたこと、そのつながりで田村市のCILの理事長さんと知り合えたこと、たまたま、これは本当に偶然なのですが、郡山のCILの理事長さんとメル友になれたこと、などなどが重なって。それで、昨年10月あたりから地元CIL協議会が始めた『入院時コミュニケーション支援事業』の勉強会に参加させていただくようになって、そういうつながりがあったから、震災支援でもこんなに協力していただけるという、ありがたい状況になっています。
 災害時にはこういう「つながり」がすごく大事だなあって実感しています。
患者会だけでできることは限られるので、普段から「つながり」をつくっておくことが大事。患者さんどうしのつながり、行政や医療とのつながり、ほかの団体とのつながり。
 そういうつながりの輪が、1つではなくて、いろんな輪がつながっていくことで、支援体制は盤石なものになっていくような気がします」

 4.初会合
 2011年7月20日、増田さんと佐藤さんという人工呼吸器ユーザー2人のほか、JCILの小泉浩子さん、生存学研究センターの立岩真也さん、介助労働を考える「かりん燈」の渡邉琢さん、ALS患者の居住支援の経験がある京都工芸繊維大の阪田弘一さん、関心を持つ大学院生ら十数人が立命館大生存学研究センターで顔合わせの会合を持った。
 この場で話し合われたのは、ローカルな茶話会や横のつながりを持つには、まず京都在住の人工呼吸器ユーザーや親しい人、関心のある人たちが知り合い、出会うために何が必要か、ということだった。
 ただつながるための「茶話会」だと呼びかけても具体的に提供できるものや何を語り合うのかが不明確で、外出や介助調整などの多くの労力を割いて在宅患者が参加するとは思えず、これまで出会えてなかった人と知り合うことが望めない。これに対して「停電弱者」というくくりは、医療機器を使いながら、そして多くの場合、痰吸引など「医療的ケア」を使いこなしながら在宅で暮らす人たちにとって、夏の計画停電の恐れや節電が関西電力管内でも叫ばれる中で、共通の関心テーマであると思われた。
 被災地や計画停電が実施された関東圏では、停電を乗り切るために、患者団体や障害団体間での連携が、大きな役割を果たしていた。被災地や計画停電が実施された関東圏から患者家族を京都に呼んで学びつつ、併せて京都でローカルなつながりを作るきっかけとしていく方向性が決まった。シンポへの参加を呼びかけつつ、京都の患者が抱える課題を掘り起こし、そして震災後に「つながる」意味を考え直すことになった。
 初会合では緊急シンポジウムとして、仮題に「東日本大震災と停電弱者 福島の難病患者/人工呼吸器ユーザーの経験に学ぶ」などを掲げて、シンポジウム準備会を立ち上げることを決めた。電力不足の問題が社会で大きく取り上げられているにも関わらず、医療機器依存度の高い在宅の人たちへの行政の対策は遅れ、その実態すら把握されていないこと、また平時に何が大切なのかを見つめることとし、福島市在住で、人工呼吸器を使い24時間他人介助で独居生活を送っておられるALS患者佐川優子さん、ALS協会福島支部の安田智美さんらを京都に招くことを確認した。可能であれば真夏に開催したかったが、準備は遅れた。
 9月開催や会場が決まると、シンポジウム開催を告知するために増田さんと佐藤さんは8月25日、京都市上京区の京都府庁で記者会見を開いた。震災後、重度障害の人工呼吸器ユーザー自らが会見するのは、あまり例のいない取り組みだと思われた。
 増田さんは会見で、透明文字盤を介して訴えた。

 「私達、在宅で生活する呼吸器装着者は電力に頼って生きています。
呼吸器のみならず吸引器や電動ベッド、エアマットなども電気を使用します。
この度の大震災では私達がふだん何とかしてくれると頼りにしている行政や病院自体が被災し、大変な事態になっているのをテレビや新聞で見聞きしました。
 これは人ごとではありません。停電は即、命に関わります。
私達自らも非常時に備えた考えや行動を起こす必要があります。新聞報道によると、京都府には3000人以上の在宅で医療機器を使って暮らす人がいます。いまの在宅生活には、ヘルパー不足や医療面、福祉制度などで大きな困難と不安に日々向き合っています。行き場をなくし、孤立している人たちがいます。平時から安心できる暮らしを築かないとなりません。
 私はその第一歩として、京都での停電弱者の横のつながりを築いていきたいと思いました。京都では今まで人工呼吸器装着者どうしの顔の見える集まりはありませんでした。外出が困難な患者も多く容易なことではありませんが少しずつでも進めていきたいと思います。そのためにも今回、震災や停電の体験者をお呼びして学ばせていただきたいと思っています」。

 炎天に京町家の格子も府庁のサルスベリの深紅も静まり、音もない。2011年の夏が終わろうとしていた。電力危機と節電が叫ばれたものの、暦の上で夏は去ろうとし、計画停電が実施されるとの危機感は薄れていく。記者会見に対するメディアの反応は冷ややかだった。

 5.出会いを阻むもの
 「外出の壁」はALSのように急速に進む病、また姿勢のミリ単位の微調整が必要な病にとって、「壁」などと紋切り型の言葉で片付けられないほど重い。
 何度ヘルパーがその体を動かしてみても、シーツのしわ一つであっても、ALS患者の研ぎ澄まされた神経にとって、耐え難い苦痛であることがある。ベッドから車イスの移乗は、前回から時間が経てば経つほど体に馴染まず、姿勢の変化、またその間に変わった自分の体感との衝撃は大きく育っていくものらしい。新しい低反発クッション一つで、座位を取れる時間が飛躍的に伸び、遠方まで散歩に行けるようになった人がいる一方、同じクッションが別の患者には合わないのみならず、車イスを乗りこなす希望を打ち砕く。そしてそれは未来への失望、病が進む将来への悲観に直結してしまう。
 慣れた車イスやおしりに敷くマットは、これまでの身体感覚を支えてくれる体の一部であって、バーゲンで次々と服を試着するような訳にはいかない。健常者である援助者が考えるよりずっと重いものを、時にALS患者はクッション一つに賭けているのだ。オーダーメイドで車イスをあつらえて、何カ月も経ってから商品が届いて体に合わなかったとき、患者はいつもと違う形で、受け入れがたい自らの病の進行を突きつけられてしまう。ALSは「姿勢の病」でもある。丁寧に、体位調整の度に介助者との間で信頼と、病の進行による新たなズレへの気づきと、時には思いを汲みとってもらえない失意が交錯する。佐藤さんが人工呼吸器を例に語ったように、車イスも身体の延長だけに、簡単に別のものとは取り替えられない。
 外出を希望していても、その度に割高な介護タクシーを利用しなくてはならないなら、思うように外出はできない。外出時の介護者が確保できなければ家を出られない。介護保険サービスだけしか利用できていない患者もいる。介護保険のサービスにはそもそも通院時を除き自由な外出を支援するサービス類型がない。重度訪問介護の長時間滞在型のサービスを使えたとしても、人工呼吸器ユーザーの外出には二人介護が必要である。ヘルパー一人でベッドから車イス、車イスからベッド移乗は困難で、車中での揺れが激しい時は、一人が頭や体を支え、もう一人が透明文字盤で患者の意思を読み取り、体位調整や吸引等の医療的ケアを行うことがある。吸引時のムセや長時間車イス乗車の姿勢の崩れは、微調整だけでなく、体を上方に持ち上げたり、二人がかりで体位調整をしたりすることもある。また、外出中の医療器具の不具合や体調悪化には、一人が機械の点検や吸引等の対応をしながら、もう一人が医療メーカーや医師に電話してといった具合に、介助者二人の連携が必要になる。
 実行委員会ではシンポジウムにぜひ参加してほしい人工呼吸器ユーザーや患者がいた。家を訪問し、趣旨を伝えた。だが病状が悪化した人、一時入院した人、うまく趣旨が伝わらなかった人、久しぶりの外出に自信が持てなかった人、介護者の事情など、さまざまな事情で、会場へ来られなかった人がいた。会場には医師や看護師が待機することも伝えたが、医療的ケアが必要な人には、移動中のケアに対する不安も抱えている。また一方で、当事者同士の集いに対して、これまでの集会参加経験から大きな希望を持っていない人もいた。進行性疾患において、その時その時の病状で、「同じもの同士」と共感しあえる状況は違う。人工呼吸器を末装着の人も多いのは現実であり、また今はそのことを考えたくない人がいることも想像された。
 それでも、日本自立生活センターの小泉さんらは参加呼びかけを続けた。障害の当事者同士として。「停電弱者」は、この年法制化された医療的ケアの当事者とも重なる。医療と福祉の間で、グレーゾーンに置かれ、医療制度改革による在院日数短縮で、地域へと押し出されてきた医療度が高く人生の中途で難病患者となった人たちにとって、同じ介護事業所からヘルパー派遣を受けてはいても、障害者と「一緒に」自立生活運動を考え、障害者であると自覚し、仲間同士として話し合う土壌は簡単には生まれない。制度は猫の目のように変わり、数年前の自立生活の経験談が今は通用せず、発症間もない人にとっては昔話になってしまう現実もある。
 だからこそ増田さん、西田さんや小泉さんらは参加呼びかけを続け、アンケートで何が足りないのかを探った。たった1人への在宅独居支援でも、そのヘルパー、訪問看護師ら医療スタッフ、一度関わった学生らを含めると、優に100人を越えるような人との出会いがある。会場に来ることができず、誰とも知り合わず、在宅で孤立している人とこそ、つながりたいと考えた。

 6.シンポジウム開催
 増田さんは冒頭であいさつしてからシンポジウムの間中、前列は車イスで満員の会場で降りるスペースもなく、ずっと壇上にいた。たんの吸引もステージの上だった。壇上で増田さんは、こみ上げてくる感情と、いつもに増してあふれる痰で格闘していた。増田さんは言う。

 「熱気溢れるいい会でした。佐川さんチームとは涙の別れになりました。皆様の大変なご苦労とあついご協力のおかげと思っています。 皆様と出会い、このような経験が出来、私は人工呼吸器を着けて本当に良かったと思います。このシンポジウムを第一歩に今後は長く地道に横のつながりを築いていくために行動していきたいです」
 
 会場には、シンポジウムに参加するため、ALS発症からはじめて外出した人もいたという。その人は人工呼吸器の装着を迷っていたが、シンポジウム参加で前向きに未来を感じることができた、との声もあった。
 シンポジウムには約230人が参加した。前列には人工呼吸器を使う人が目立った。後に回収したアンケートによると、医師・看護師ら医療関係者が約60人、当事者・家族が約30人。保健師ら行政関係者、福祉関係者の参加者も多かった。参加者からは次のような感想が寄せられた。

 「呼吸器を着けた多くの患者さんが参加しておられたのを見て、患者さん・ご家族の熱い思いを実感しました。切実な思いを医師としての立場で支えていけたら」
 「当事者の方からの発信は、『やらなきゃ!』という私たち専門職のパワーにもつながります。自分の担当区域だけでなく、他の地域で暮らしている人達の声も聞けるよう足を運ぶ努力をしたい」

 「福島の被災者の声・障害当事者の声と聞かせて頂けけることはなかなかないことです。今後の活動とか、今日のようにまた生の声を聞かせて下さい。関西でも動きが生まれて、このようなシンポジウムが開催できてよかったです。道のりは長いですが、少しずつ行政にも何かしてもらえるように働きかけができればと思いました。まずは、当事者・患者さん中心のシンポジウムがこれからも行われていくとよいなと思います」

 テレビでは何度も繰り返し映像が流れていても、この時期は被災地から当事者が京都を訪れて災害を語る場が乏しかったことから、パネリストの語りは会場を埋めた人々の心に強く響いたことが、アンケートに並ぶ言葉から伺えた。
 
 「今後どのような企画があれば参加したいか」との設問には、次のような回答が寄せられた。

① 連携に関すること(病院と在宅、職種との連携、連携のノウハウ、横のつながりを作れる企画、地域のネットワークの構築につながる企画、当事者とその周りの人達とのネットワークができる企画、緊急時のネットワークに関すること)
②医療的ケア問題
・制度のこと(どんな制度を利用できるのか・障害者支援に関する情報を知れる企画・介護保障について・行政との交渉について・重度訪問介護について)
・技術的なこと(意思伝達のスイッチ作成・医療的ケアのこと)
③当事者の話が聞きたい(障害当事者の声、ALS患者さんの実際の生活、難病当事者・家族の苦しみ・悩みをわかちあえる企画)との指摘があった。

 患者家族からは、「介護の都合で、よその家庭や障害者の方に会うチャンスがなかなか持てません。今日、同じ思いを持つ方々と同席できて心強く感じた」「体験を当事者から聞け、災害時は他人事ではない。何重もの準備をしなくてはいけないと再確認した。病の種類は違っても、電源を必要とする医療器具を使用する者、家族として参考になった。バッテリー・発電機・足踏み式吸引器を支給するよう行政に訴え続けなければ」などの切実な声が多く、普段から電源確保には頭を痛めている現状が浮き上がった。
 専門職や行政側からも、大震災以前の防災マニュアルが役に立ちそうもないことへの不安も目立った。
 人工呼吸器を使って暮らす人や重度障害者の生活課題に関する感想もあった。「日本全国の制度(行政)にバラツキがあることを知りました。知らないことは学び、皆で考えていきたい。考えなくてはいけないと思いました」「一人一人の生存が大切にされることが望まれます。そのために、各々が協力し行政を動かしていく力をつけていくことが課題」「行政に相談に行くが嫌な思いをする」「団体や地域のネットワークの重要性、日々改善していくことの重要性など、根本的なことも再確認させていただきました」。
 シンポジウム当日はNHKなどテレビ局や新聞各社の取材も多かった。
 
 7.これから。平時に向けて 
 増田さんの車イスと、福島県から来たALS患者佐川優子さんの車イスが近づく。シンポジウム終了後、同じ場で開かれた交流会。透明文字盤を介しての会話は、自己紹介とお礼から。二人とも一文字ずつ、健常者のように多くの情報が交わされ、話が弾む、という訳にはいかない。だがその場で、ALSの2人は、言葉より多くのものを交わし合っているように思えた。車イスでやってきた多くの来場者は、帰りの介護タクシーの都合や、介助の都合で引き上げ、後まで残った人は多くはなかった。病のこれからを心配する発症間もないALS患者の不安、迷いに、呼吸器を装着したALSの妻を介護する男性が、うなずきながら耳を傾けている。「分かるわあ。僕もそうやったもん」。その男性も3年前は戸惑い、分かりにくい障害サービスに振り回されて疲れ果てていたのに、その言葉には強い励ましと、慌てない落ち着きがあった。
 ALS患者同士が出会うとき、病の進行に伴う難しさがあるにも関わらず、時にはそこに居るだけで、彼らの鋭くなった感受性には響き合うものがあるように思える。告知間もない患者にとって、進行性の病でずっと病が進んだ患者と出会うことは勇気がいる。分かってくる人との出会いに、話し続ける家族もいる。必ずいつもではないけれど、豊かな交信がありうる。インターネットはALSなどコミュニケーションと移動に困難を抱える人たちにとって社会へ大きく窓を開いたが、顔が見えることの豊かさは、また違う情報を届けている。一度出会えば、かすかに動く指先で入力する「がんばりましょう」の重さが変わる。
 交流会では停電対策のことより、介護サービスがどれだけ使えているか、家族やこれからの話が目立ったのが印象的だった。震災など災害がなくても、今ここで一日一日を紡ぐことが難しく、不安を抱えて生きる人たち。まずはきょう明日の安全と安心を確立しないで、震災を乗り越えることはできない。タイトルは「震災をどう生き延びるか」としたが、今日あすをどう生き延びるか。顔が見える出会いとつながりを求めている人は、ここ京都にもいる。それが今後の課題として再確認された。
 シンポジウム翌日朝から、佐川さんと一緒に増田さんは、金閣寺や三十三間堂を回った。萩など秋の花咲く参道の砂利道は、人工呼吸器を積んだ車イスでは重くて深いわだちを刻んだ。首ががくがくしてちょっと辛そうだったが、二人は楽しく秋空に輝く金閣を見た。浄土から散乱する光の粒子を仏像にしたような、三十三間堂の佛たちを一緒に見た。佐川さんの吸引器の電池にトラブルが発生し、ヘルパー2人は足踏み式の吸引器を使ったが、落ち着いた対応だった。
 シンポジウムでも三島さんから指摘があったように、日頃から外出を積み重ねていることで、いざという時の冷静な対処をチーム全体で学べる。車の運転をしてくれたJCILの方が被災地にボランティアへ行った折に佐川さん宅を訪問したり、シンポジウムに参加した当事者の支援や、増田さんの介助にも入ったりと、顔の見える交流も深まっている。参加できなかった当事者との交流や支援へと、シンポジウムを通してつながった輪はその後も少しずつ、つながりを広げている。医療機器メーカーの技術者が、シンポジウム後に「まず自分ができることを」と、バッテリーの利用実態調査を始めた。他府県からの参加者から重度訪問介護の給付が開始されることになったとの感謝の声もメールで届いた。
 震災直後、増田さんはこれからを模索する中で、シンポジウムと平行して地域の活動に向けて自身の在宅生活も再構築していった。障害者自立支援法の重度訪問介護制度を活用し、介護経験のない人を自らの個別ケアに習熟してもらうパーソナル・アシスタント(自薦ヘルパー)として育てながら生活している。24時間在宅独居をしている佐川さんの経験に学び、重度訪問介護を使った介護体制の構築を目指し、地域での最重度障害者ALSの自立生活への意識も高まっている。また、当事者と歩む専門職やヘルパーとのつながりに向けて、医療・福祉系の学校やヘルパー養成講座の講師としても活躍しはじめた。
 実行委員会では会場の声や、また当初から増田さんが夢見ている「茶話会」や横のつながりを構築するため、参加者とアンケートに回答してくれたものの当日参加できなかった人たちに向けて、「ミニ通信」を作成し、11月に郵送した。
 すぐに月に1回といった定例会を持つことはハードルが高い。だが震災で問い直された「ローカルな場」のつながりを考える種は蒔かれたと、実行委員会では振り返っている。
 ミニ通信の結びは最後に、こう結ばれている。

◆今後の活動◆
 シンポジウム開催にご協力・ご参加いただき、ありがとうございました。
 「震災と停電をどう生き延びたか」実行委員会としては、今回のシンポジウム開催を一回だけ行なって終わらせるのではなく、これをきっかけとして、今後の活動につなげていきたいと思っています。
 シンポジウムに来たくても来られなかった方、また孤立してシンポジウムの情報も行き届かなかった方々とも、今後ともつながりをつくっていけたら、と思っています。
 今回のシンポジウムの実行委員会としては、この実行委員会をいったん解散し、今後新しい会をつくって活動していく方向です。
 どのような会か、どのような方々が対象か、どのようなことを行なっていくのか、まだ議論の最中です。
 呼びかけ人の増田英明、佐藤謙、及び今回シンポジウムの支援メンバーを中心として、今後のことを考えていきたいです。

[注]
 筋萎縮性側索硬化症(ALS)は主に中高年で発症する進行性の神経難病である。治療法が見つかっておらず、個人差があるものの随意筋を支配する運動神経の変性により、四肢機能や呼吸機能が低下し、口から食べる力や声を出して話すことも失っていく。症状の進行により呼吸も困難になるため、生存するためには人工呼吸器装着が必要となる。進行後も感覚意識は正常に保たれ、鋭く繊細になっていく。重い介護負担を伴うが、日本では医療制度の改革で長期在院は難しくなりつつあり、各種制度・政策を使いながらも、在宅生活には多くの場合、家族介護が必要となる。そのため、家族の介護力の有無が人工呼吸器装着/非装着という「生存の選択」に影響を与えるとも考えられる。単身者の場合なら、家族介護が見込めないため、人工呼吸器装着には一層の困難が伴う。
 ALS患者数は特定疾患医療受給者証の交付件数からおおよそ知ることができる。2010年衛生行政報告例(厚生労働省)によると特定疾患医療受給者証(ALS)の交付件数は8406人となっている。しかしながら、ALS患者のなかには様々な理由により、特定疾患医療受給者証を申請しない患者もいることを留意しておく必要がある。
 日本ALS協会HP(http://www.alsjapan.org/)
 特定疾患は原因不明、治療方法が確立されていない疾患として厚生労働省から56疾患が指定されている(2012年2月現在)。特定疾患者は都道府県に申請し、特定疾患医療受給者証が交付されることで、医療費助成が受けられる。
 人工呼吸器を装着したALS患者が在宅で生活する場合、たんの吸引は必要不可欠となる。多くの場合、家族が担っているが、24時間定期的に必要となるたんの吸引は、医療行為とされグレーゾーンに置かれてきたが、2011年から医療職以外の介護職も、研修など一定条件下で吸引を担えるよう法改正された。
 ALSを巡る生命倫理に関わる問題として尊厳死が挙げられ、日本尊厳死協会は尊厳死が議論となる疾患の一つとしてALSを示している。日本ALS協会・理事の川口有美子は、「一見、患者の自己決定を基本としているが、周囲が患者(の死)を誘導する可能性もあり、危険な内容だ」と意見している(2007年4月15日 読売新聞 東京朝刊)。
 隣接する滋賀県の場合、もともと県がNPO法人滋賀難病連に県立難病相談・支援センターの運営を委託しており、相談の一方で交流会、当事者運動へとつなぐことができた。ここから日本ALS協会滋賀県支部という地域課題やローカルな輪の構築が目指された。その他、滋賀県支部が誕生した背景には、地方分権化の影響もある。分権化が進むことで、医療資源の地域格差や、自治体ごとの障害福祉サービス提供時間の格差が浮き彫りになってきた。それはALS患者にとって、在宅生活の困難さや人工呼吸器装着率の明確な都道府県格差となって現れ、しわ寄せを受けることになる。そのため、地域課題を取りまとめる機能を担った支部の設立が求められた。
  2010年度衛生行政報告例(厚生労働省)
 2011年6月、東京都福祉保健局保健政策部「人工呼吸器使用者の停電への備えに関する調査」

▽「停電弱者」存在知って 難病患者、障害者らシンポ 中京
 人工呼吸器を使い在宅で暮らす難病患者や重度障害者らによるシンポジウム「震災と停電をどう生き延びたか」が18日、京都市中京区のハートピア京都で行われた。生命維持に電力が欠かせない「停電弱者」が、ポータブル電源などの確保や普段のつながりを強めるなど災害時の停電に備える必要性を訴えた。
 京都市在住の筋萎縮性側索硬化症(ALS)や筋ジストロフィの患者らが「平時から輪を築くきっかけに」と、被災地などの当事者を招き約200人が参加した。千葉県の支援者が、東日本大震災後に実施された計画停電時に、バッテリーを持たなかったり、使用の経験がなかった人が多くいたことや東京電力の対応が不十分で苦労した事例が紹介された。ALS患者三島みゆきさんは「有事の際に何が必要かを把握するため一度家から出て旅行をしてほしい。電力会社は停電弱者の存在を認識して」と訴えた。
 在宅で父親の介護をする日本ALS協会福島支部の安田智美さんは、県内では、会員が患者全体の約2割だとし「支援物資を患者に届けたかったが、会員以外の情報を行政は教えてくれなかった。個人情報保護が緊急時に患者の命を守るのか。一方、多くの障害者団体が協力してくれ、つながりの重要性を実感した」と述べた。(2011月9月19日付京都新聞朝刊)

▽停電時 電源どう確保 中京 在宅難病患者シンポ(2011月9月19日付朝日新聞朝刊)

▽「停電弱者」(今日のノート)
 ライフラインという言葉は阪神大震災以来、よく使われるようになった。電気や水道、ガス、電話など生活に欠かせないサービスの供給網のことだ。
 なかでも電気が文字通り、生命線になっている人たちがいる。人工呼吸器や酸素吸入器を使って在宅で暮らしている重い病気の人たちだ。
 「停電は即、命にかかわります」
 全身の筋肉が動かなくなるALS(筋萎縮性側索硬化症)の増田英明さん(68)(京都市左京区)は、そう強調する。
 東日本大震災に伴う停電では、手動で空気を送る蘇生バッグを家族が押し続ける、車の電源につなぐといった方法でしのいだ人たちもいたが、山形県では4月の余震後の停電で63歳の女性が死亡した。病院へ緊急搬送された人も多かった。
 人工呼吸器の内蔵バッテリーがもつのは1時間程度。予備バッテリーは数万円、燃料を使う発電機は10万〜20万円もする。みんなが自前で用意しておくのは難しい。
 厚生労働省は、発電機などを医療施設や保健所に備えて患者に貸し出す事業を始めたが、東京電力と東北電力のエリア以外は自治体と施設の費用負担が必要で、進んでいない。東京都は独自に、予備バッテリーや蘇生バッグを全額公費で無償貸与する事業を開始した。
 「停電弱者」への支援は、急いで進めないといけない。行政だけでなく電力会社や機器メーカーも協力してほしい。/編集委員 原昌平(2011年9月21日付読売新聞朝刊 気流面)