シンポジウム後半 「震災と福島 在宅を支える絆」・質疑応答

震災と福島 在宅を支える絆  

佐川:私の在宅はパーソナルアシスタント制度(1)を利用しています。私は、福島県いわき市出身、昭和29年生まれです。ALS発症は42歳の時で、人工呼吸器装着は平成15年度からです。今は、放射能の高い福島市のユニバーサルデザインの新築アパートに住んでおりますが、放射能汚染が無かったら平和な生活です。以前にいわき市で、在宅生活を経験がありましたがとてもよい思い出になりました。
 3月11日、東日本大震災に見舞われた福島県では、地震、津波、原発事故、それに続き、会津地区での大雨による水害もありました。福島第一原発での事故。それは、悲惨というしかなく数々の困難をもたらしています。企業・果樹園・農業・漁業・家畜・温泉地帯など、被害を受けた産業・人々は数知れず……。全滅に近いでしょう。再起はあるのでしょうか? 震災後のALS患者さんの心にもっと触れてみたいと思いますが、孤立しているALS患者さんがほとんどなので話を聞けません。その想いはどんなものでしょう? 私は、放射能とALSは同じようなものと考えていましたが、今はアシスタント達と生活をエンジョイしょうと心を燃やしています。
 他県も日本ALS協会も、東日本震災を重く受けとめ避難やバッテリー確保について研修会などを開いています。人工呼吸器や吸引器の電源確保、ヘルパー・介護者、経管栄養などについては、安田理事から詳しいお話は聞けるかと思いますが、私の経験を少しお話しします。
 3大事故が福島県を襲い、余儀なく住み慣れた我が家から避難した住民も多くおられます。私の住む福島市のアパートでは、停電30秒、断水三日間とインターネット回線が二日間止まりましたが、被害とは思わないのは私の良いとこかもしれません。万が一の避難について、私なりに図を準備しておいたり、連絡先を明確にしてプリントしたりしていました。バッテリーなどの知識はありました。在宅の人工呼吸器装着者には必要な知識だと思われます。私は、常時バッテリーを3個用意しており、震災時、10秒でバッテリーを人工呼吸器に接続の早さでした。何より、災害時の準備は、万全に備えると周りに迷惑をおかけ致しません。しかし、準備をしていた人は少なかったようです。準備と知識、管理は大事です。人工呼吸器のフィリップ・レスピロニクス(2)は「在宅人工呼吸器装着者に吸引器、アンビュウ、バッテリーを揃えるのが必須」と勧めているようです。各地の事務所でも同じ対応をしているようです。放射能については、私の事業所の担当者で、「放射能から子どもを守る福島ネットワーク」代表の中手聖一氏より詳しく話を聞けると思います。
 アシスタントと私は、寄り添い仲良くがモットーですが、私はやや厳しいです。アシスタントの中には涙を流す人がいるほどですが、辞める人はいません。福島市での在宅生活を始めた当初は、ALSを知っているアシスタントはいませんでした。1からの教えでしたが、震災直後からアシスタントたちが、ビックリするほど自然体で協力し合いました。自分の家が一部崩壊したにもかかわらず介助を続けたことは、見事と絶賛したいです。印象深いのは、いわき病院から、新潟犀潟病院に避難したALSの友が、着の身着のまま避難したと聞き、私自らアシスタントと犀潟病院へ行き、冒険らしきことに挑戦したのが記憶にあります。震災後、品物は売っておらず大変苦労して集めました。無事届けられ友は、心から喜んでくれ、私達は涙しました。
 支部の成り立ちについてお話します。福島県支部でALS協会支部が立ち上がったのは10年前、東北では最後の立ち上げでした。
 独立行政法人国立病院機構いわき病院の、当時の院長先生に「ALSの患者会を福島県に立ち上げてはどうか? 今なら支援できる」と声を掛けられ、私は「分かりました」と答えたものの、患者会がどういう組織かもわかりませんでした。そこで、日本ALS協会を教えていただき電話をかけたところ、「山形県支部から支援をもらってください」とのアドバイスをいただきました。私にとって、すべて未知の道中でした。半年間は何も動かず、4度程オーバーテーブルに頭を乗せて一人で泣くこと一時間。孤独との向きあいでした。やると言ったからにはやらなければ……。心は極限に達しました。
 その後事態は一変。市議会議員の奥様と知り合いになり、現状を話したところ、次の日には新聞記事になり、事務局長の申し出がありました。
 そうして準備会が立ち上がり、当時は山形県支部故人叶内支部長がご健在でしたから甘えて、川越事務局長に厚いご支援をいただきました。20名程の支援者と悪戦苦闘しましたが、私は、支部を立ち上げれば適任者が支部長に選出されると思い込み、ひたすら立ち上げに没頭しました。一年後、日本ALS協会福島県支部・立ち上げ総会が開催の運びとなり……。
 各方面からの参加者、故人・今回の震災の犠牲者であります岩手県の石橋支部長を始め、福島県神経内科医師団、福島県県会議員、各市市議会議員など、支部役員を含め、約120名の参加となりました。ことの重大さに怖じ気づいた私です。その後、私は恐怖から抜け出せずにサイパン、シンガポール、北海道に気持ちを切り替えるために旅をしました。今はようやく、慣れてきたようです。
 最後になりますが、原発事故が、福島県をゴーストタウンに変えてしまいました。福島県民は、生活の糧を奪われ路頭に迷い苦慮しております。私はALS患者ですが出来ることがあるかもしれない。模索の日々であります。こんな佐川チームですが、皆さんのアドバイスをお待ち申し上げております。
 今日は、このような機会をいただきありがとうございました。

長谷川:いわき市からきました長谷川詩織と言います。女性のような名前で皆さんあれって思っているかもしれないですけど、父親が変わり者でして、こんな名前をつけている。大変なんです。病院とか。いわき市にあります、いわき自立生活センター(IL)に勤務し、ケアマネージャー、居宅支援事業所の管理者兼ケアマネージャーをやっております。うちの法人全全体の特徴として、他の介護事業所があんまり熱心に関わっていない神経難病の方、いわゆる自立支援が難しいとされるALSの人や筋ジストロフィ、進行性難病であり、人工呼吸器を付けた人たち、医療的ケアが必要になるであろう病気の方を主に支援しております。資料に利用者さん80名とありますが、80名という難病の方がいるというわけではなくて、いろんな方がいて合計がだいたい80人くらいの方が利用者さんでいらっしゃいます。
 いわき市は、福島を大きく「浜通り」「中通り」「会津」の3つに分けて一番太平洋側の「浜通り」にあるんですけども、福島第1原発があるのも、「浜通り」です。それから、原発から40kmほど南に下るとちょうど、うちのいわき自立生活支援センターの事務所があるような位置付けになっております。いわき市の被害は震源地が割と近く、かつ海に面しているという関係から、宮城県や岩手県ほどではないんですが津波の被害で多くの方が亡くなり、家を失い、いろいろな被害がありました。うちの利用者さんの中でも一人、デュシャンヌ型筋ジストロフィ(3)の方が一人、津波で流されて亡くなっております。私はその方は10年くらいの付き合いで、事業所を設けた頃からの知り合いだったものですから、非常にショックを受けました。
 京都の方で福島はここって分かる方少ないと思いお持ちしたのですが、遠くの一番左の位置にあります。太平洋側から浜通り、中通り、会津地方という風に分かれ、とてもとても寒いのが会津地方、一方「浜通り」はほとんど雪が降らない非常に住みやすい地形になっております。第1原発は「浜通り」、いわき市の三つ四つ上辺りに大場町、富岡町というのがありますが、ここに福島第1原発がまたがっているような感じです。少し南にいくと福島第2原発があり、うちの職場がだいたい直線距離で42kmくらいと言われています。
 震災被害の話に戻りますが、私は3月11日午後2時46分、いわき市役所の方に行ってました。ちょうど用を終えて出てきたところで、今まで感じたことがないぐらいの揺れ、あんなに地面って揺れるんだなと思いました。立っていられない、遊園地のアトラクションとか、なんかいろいろ似たようなもの体験することできると思いますが、まさか普段自分たちが歩いている地面で、こんな経験をするとは思いませんでした。電柱や看板が落ちてくると思ったほどで、いわき市の発表は「震度6弱」となっていますが、局地的に震度7程度出たのでは、という話も聞いています。「これはまずい」と思い、独居の利用者さん、高齢の方、視覚障害者のご夫婦、介護者がいない方の家を安否確認に回ろうと思いました。当然、事務所にも電話しようと思ったんです。けれど、電話がもう完全にその時点でつながりませんでした。携帯電話もつながらない。後から聞くと、公衆電話が比較的つながりやすかったなんて話もあったんですが、その時は知る由もなかったので、もうこれは自分の勘だけで各自動くしかないな、と。その時いた場所から何カ所か、主に一人暮らしの方の家を回って、かなりの時間を利用者の方、渋滞も発生していましたし、なかなか身動きも取れないという状況でして、一通り訪問終わるともう真夜中になっていて、午後9時半から10時くらいまでかかりました。事務所に戻ると、先ほど話した筋ジストロフィの方がどうやら津波に攫われて行方不明らしいという、その話を……。
 くたくたになって事務所に帰った時に不意打ちのような話を聞かされて、その日はちょっともう、なんというか何も考えたくないなというような状況でした。地震が起きたのが午後2時45分くらいだったので、ちょうどうちの法人、うちの事業所の隣に併設されている通所介護、正確には指定生活介護事業所ですが、ここから帰れずに残っている利用者さんが何人かいました。ちょうど自宅に帰ろうかなと準備をした時に地震が発生したものですから、帰るに帰れなくなった。あとはエレベーターが壊れてしまい、家に帰っても部屋に入れない、上っていけないから、事業所に残っている利用者さんもいました。今夜はここに泊まろうと、簡易ベッドを出し準備をした。しかし、ヘルパーにも連絡が取れず、私がヘルパーの代わりをやるから、ということで利用者さんと一緒に泊まりました。
 いわき市の震災後の状況です。

[写真1]海沿いでは車だったり、がれきだったりが津波で流されて。これはもう地震から数日後経っているので、これでも片付いた方と思っていただきたいです。
 次のを見ていただくと、こちらはいわゆる海岸から海を写したような状況ですね。
[写真2]この辺は片付いていない。海から本当に数十メートルのところかな。これは太平洋を背にして建物を撮ったような状態で何がなんだか分からないかもしれませんが、建物が壊れ、流されている状況です。
[写真3]こちらもその近くで撮りました。この辺りは防波堤ごと波で、完全に壊れてしまっている。特別津波の威力が凄かったたんだなという風な写真です。

 いわき市で一番きつかったのは、まず断水だったと思います。あともう一点、ガソリンがなくなった。流通がストップし、ガソリンスタンドにガソリンがこない。これは多分福島市も郡山市も同じような状況だったと思うのですけど、10リッター計というものがありまして、給油は1台当たり10リットルまで、もしくは1000円分までに制限される状況でした。しかも開いているガソリンスタンドもほとんどなく、100台くらいの順番待ちの行列で並んでいる。郡山市では8時間も並んだという方もいたみたいです。それぐらいしないとガソリンがこない。この状況ではガソリンが当然減っていくので、日に日に車を動かせなくなるんです。震災から一週間後は、ほとんど車は走っていない。あとは、ガソリンと灯油なんですけど、食品がコンビニやスーパーに全然入ってこなくて。ほとんどの商店は閉店状態でした。水を確保するにも一苦労だったという状況でした。誰に聞いた話かは忘れたのですけど、うちの事業所では地震が3月11日、水が復旧したのが4月6日ごろだと思います。1カ月弱も水が出ない。その間は水を汲んで、配給車、水を貰って生活していたような状況でした。これが水ではなくて、電気だったらどうだったのか、というのが今回のテーマに通じることだと思うんですけども、断水ではなく停電が長期化した場合、果たして我々は生き残れたのかどうか。それを改めてこの地震が気付かせてくれたのかな、というふうに思います。水は水汲みくらいなので多少なくとも対応はできたと思うのですが、長時間の停電、仮に3日、4日、5日、それくらいの期間停電した場合、どれほどの被害があったかを考えなきゃいけないということで、自立生活支援センターとして、「バッテリー供給事業」というものを実施することになりました。とりあえず、いわき市からの報告を終わらせていただきます。

●東北・関東大震災の被災地から 原発被害の現場から

福島・いわき自立生活センター・ケアマネジャー 長谷川詩織

 3月11日(地震当日) 今までに経験したことのない揺れだった。私はそのとき外勤中で、周囲を見渡すと電信柱や信号機、家屋も何かの冗談かと思うほど揺さぶられていた。事業所に電話をするもつながらない。「今のうちにガソリンを入れたほうがよい」と直感し、スタンドへと車を走らせた。のちのちの状況を考えると、この判断は良かったのかもしれない。その後、独居の利用者や視覚障がいがある利用者宅を順次訪問した。タンスが倒れ、部屋中の食器・花瓶が割れ、身動きできない状態の利用者もいた。自力で動ける程度まで片づけを手伝う。その女性利用者からの「困っているのは私だけじゃないんでしょうから、あとはこちらでがんばるから、次の人に行ってあげて」という言葉が胸に残った。
 道路の混雑で移動にかなりの時間を要した。時間が足りず、いったん事業所に戻ると、帰宅できない通所の利用者が残っていた。携帯電話はおろか、固定電話も通じないので、ヘルパーに連絡もとれない。利用者を簡易ベッドに寝かせ、ヘルパーの代替要員・電話がつながった場合に備えての電話番として事業所に泊まることにした。頻繁に余震が続いていた。 
 3月12日 事業所は、電気こそ点くが水が出ない。交代で水を確保しに外出すると、やはりガソリンスタンドに長蛇の列ができていた。ガソリンの無駄遣いを控えるよう職員に呼びかけた。
 利用者宅への電話連絡などは、すべて公衆電話まで歩き、行なった。午後からは安否確認の訪問を行う。半壊状態の家もあった。津波に見舞われた地域は通行ができない。情報がなく被害の詳細はわからなかったが、浸水程度では済まなかっただろう。
 事業所に戻り、テレビを点けると、福島第一原発事故のニュースを伝えていた。
3月13日 電話がつながらない状態が改善されず、利用者の安否確認や各事業所との連絡調整に苦慮したが、遠方の利用者ともようやく連絡がとれ、ひとまず安心した。事業所に残った通所の利用者の顔には、慣れない集団生活による疲労の色が見てとれた。
 外出すると、放射能の危機感が高まってきたからか、マスクや帽子、雨具などを身につけている人が多くみられた。
3月14日 テレビでは、相変わらずよくないニュースが流れている。多くの職員が、自主避難や家族を避難させるために県外へと退避していた。残ってくれた職員の頑張りはありがたかったが、利用者・職員とも憔悴してきた。食料やガソリン不足と同様に断水による水不足が深刻で、誰もが「風呂に入りたい」と漏らすようになっていた。
3月15日 原発の状況はいっこうに好転しない。外出の際は考えられるかぎりの防備を行なった。マスク、帽子、ゴム手袋、首元にはタオルを巻いた。衛生材料が尽きかけた利用者も多く、医薬品確保のために出かけるも、営業中の薬局がほとんどなく、再開の目処もたっていない。たまに開いていても在庫が少なく、必要物品を購入できない。この時期はどこの医療機関・薬局も満足な機能をしていなかった。スタッフの避難による人員不足・流通の停止による医薬品の不足により通常営業はできなくなっており、総合病院も通常の受診は引き受けられないでいた(急患のみ)。それ以外にも水不足が原因で人工透析や検査に弊害が出ていた。しかしこの日は、ヘルパー派遣に不可欠なガソリンの支援を受けられた。西日本の自立生活センターが携行缶を用い、いわき市に届けてくれたのだ。おかげで、少量ずつではあるが、各ヘルパーに給油できた。ALS 協会福島支部からの要請を受け、郡山市のALS患者に関わる事業所にもガソリンを届けた。これだけでガソリン200Lは尽きてしまった。数日後に東京から再びガソリン支援があるというのが、頼みの綱だった。
 3月16日 「放射性物質が付着しているおそれがあるため、外出後は体や服を洗うように」とテレビでアナウンスされている。でも、私たちにはその水もない。水汲みの作業に追われた。この時点で水道が復旧している地区はごくわずか。大半は、給水所や知人から水を分けてもらって生活している。
 放射能を心配し、なるべく外気に触れないよう気を配った。外気を取り入れるエアコンではなく、ストーブで暖をとった。職員は床に新聞紙を敷いて、その上の布団で寝ていたから、明け方は非常に寒く、布団の中でもダウンジャケットを着て眠った。それでも底冷えして、寒さで目を覚ますことが何度もあった。
 3月17日 理事長から、東京へ一時避難しようという提案があった。利用者・職員に加え、それぞれの家族からも希望者を募り、車数台に分乗して、残り少ないガソリンで東京の宿泊施設(新宿区・戸山サンライズ)に生活の場を移すという案だった。宿泊先の手配などは東京の自立生活センターに協力を要請した。
 東京行きを決めるタイムリミットは、18日の午後8時。それまでに原発に好転の見込みがなければ、19日の正午に出発する計画だった。全職員で協力して、地元に残っている利用者に連絡をとった。
 3月18日 二度目の支援のガソリンを届けて郡山から戻ると、東京への避難を希望する名簿ができていた。いよいよ避難が現実的になってきた。
 避難希望者は約30人。そのうち十数人は何らかのケアが必要な方で、ヘルパーの割り振りや部屋割りなど、出発までにやらなくてはならない。常時車イスでリフトカーが必要な方も5名。法人の車両をフル活用し、歩ける方は通常の自家用車に乗り合わせるなど、合計7台での大移動となる。一方、地元に残ることを選択する利用者も少なくなかった。医療依存度の高い方は、緊急入院先からすでに県外へと転院した方もあった。
 避難の準備で仕事を終えたのは午前2時。出発前日くらい自宅アパートで眠りたいと思い家へ車を走らせると、街は真っ暗で人気もなく、ここは本当にいわき市なのかと思った。今にして思えば、もういわきには帰って来られなくなってもおかしくない状況だった。それでも、あまり悲観的にならなかったのは、余計なことを考えている暇がなかったからかもしれない。できることは出発前にすべてやっておきたかった。
3月19日 ついに東京避難の日。どの車も満席状態のため荷物は最小限にし、正午すぎに出発した。職員の家族・利用者の家族にも持病や高齢のため何らかのサポートが必要な方が多く、車中でも介助業務に追われた。
 新宿の宿泊先は、避難所と呼ぶには立派すぎる建物で、各フロアに浴場もある。嬉しかったのは、清潔なベッドで眠れること、寒さに凍えなくて済むこと、蛇口をひねれば水が出て手を洗えること、洗濯ができるのも嬉しかった。いわきでは、いちはやく情報を得るため昼夜を問わずテレビを点けていたが、東京ではあまり原発関連のニュースは流れていない。そのことが、地元に残してきた人に「申し訳ない」気持ちにさせた。
 東京で物資を調達し、週明けにも福島へ届けるつもりだった。ヘルパーが訪問できなければ、利用者が必要な介助が受けられない。ガソリンの運搬に制約もあるが、この状況ではやむを得ない。独居や介護量の多い利用者へのサービス提供を継続している事業所に少しずつでもガソリンを分けに行こう。
 3月20日 東京各所の自立生活センターの代表者が訪問。今後の支援について会議を行ない、ボランティアを派遣してくれることとなった。利用者のなかにはベッドが変わったことで十分な寝返り(体位変換)ができず、背中が痛くなるなど、環境の違いに苦慮している方もいる。比較的技術を要しない時間帯にボランティアのサポートを受け、そのぶん職員に休憩をとってもらえた。
 3月21日 東京のセンターの支援でガソリンと携行缶を手に入れることができた。
 3月22日 常磐道でいわきに向かい、保健所や事業所に物資(衛生材料、流動食、紙おむつなど)を届ける。その足で郡山に向かい、関係事業所にガソリンを配布する。
 3月23日 郡山の利用者および事業所を訪問し、当面の支援スケジュールを打ち合わせたり、少しずつガソリンを配布したりして、再びいわき経由で東京に戻る。高速道路はさほど混雑していないが、サービスエリアのガソリンスタンドには50台以上の列ができていた。
 3月24日 避難者全員で会議を開く。ライフライン復旧にまだ時間がかかりそうなため、当初は3月29日に予定していた帰還を4月1日に延期することになった。ネックはやはり原発の動向。
 3月25日 東京のセンターの協力で医師や看護師の訪問も受けられるようになった。定期的に訪問看護や投薬が必要な利用者は少なくないため、大変喜ばしいことであった。
 3月26日 着替えなどの買い出しに出かけると、街では震災に関する募金活動がそこここで行なわれている。そのなかに「いわき市」「故郷」と書かれたプラカードを見かけた。地元がいわき市で、今は都内の大学生だという若者たちによるものだった。少額ながら募金を行ない、思い切って話しかけてみた。「僕もいわき市なんだけど」と言うと、ギョッとしたような表情をされた。気持ちはわからなくもないが…驚かれたことに少し驚いた。
 その後、断水や原発問題の好転の見込みが立たず、4月1日のいわき帰還も延期となった。私は介護報酬の給付管理業務のため何度かいわき—東京間を往復していて、少しずついわきや郡山の状況がよくなってくるのを感じてはいたが、大震災の1か月後の4月11・12日に再び大きな余震に見舞われ、やっと全復旧しかけた水道が再び断水してしまった。それでも、意外なことに帰還のさらなる延期を申し出るメンバーはいなかった。誰もが「家に帰りたい」という気持ちが大きくなっているようだった。
 4月17日 多くの関係者に見送られ、ついにいわきへと帰還した。翌日から本格的に事業を再開したが、原発や余震以外にも問題は山積している。道路の隆起や陥没、壊れたままになっている信号機。そのため渋滞が起きやすく、通所の送迎も予定どおりにはいかない。いまだに断水している地区もある。津波で破砕された堤防や海辺の建物の改修の目処は立たず、瓦礫の撤去も同様。海沿いの医療機関の一部は外来のみで、入院病棟の回復は当面先になる見通しだ。いわき市へ避難してきている原発20㎞圏内の避難者の今後も気遣われる。せめて原発がこれ以上は状況悪化せず沈静化し、不安のない生活に戻ってほしいと願うばかりである。                              
(医学書院『訪問看護と介護』2011年7月号に寄稿したものに一部加筆修正)