論文「歴史」の受容論としての国民的歴史学運動と生活記録運動──ヘイドン・ホワイトの「歴史」概念の検討から

西嶋一泰

はじめに

 「歴史とは何か」、この幾度となく繰り返し続けている問いを考える際には注意深くならねばならない。まして、それについて議論する場合はなおさらである。歴史、とただ漠然にいえば、史料や歴史書だけでなく、歴史小説や歴史映画、あるいは歴史を題材にしたマンガやゲームもその対象となってしまうかもしれない。だが、歴史という言葉を明確に定義し、その対象をはっきりさせ、過去をめぐる言説のなかにそれを位置づけ、議論を展開している論者も多いだろう。そんなときは、その人物が何を歴史としているかどうかを確認していき、自らの歴史についての考えとの距離を測っていく必要がある。
 本稿では、「歴史」の物語性を指摘し、歴史学への痛烈な批判を展開し続けている、ヘイドン・ホワイトの「歴史」概念を検討してみたい。ホワイトによれば、過去の事実を扱っている文学やドキュメンタリーや映画などがあるが、それは「歴史」のうちには含まれない(1)。「歴史」とは、19 世紀以降、大学に歴史学という学問が確立して以降に、組織的職業的に過去の事実に取り組んでいる歴史家たちによって決められるものであるという。ホワイトは「歴史」という概念を、歴史小説や歴史映画といったものも指す広義の歴史ではなく、歴史学の学知を対象とした狭義の「歴史」として用いていたのである。だからといって、ホワイトは、「歴史」のみが過去の事実に対して有効なアプローチが可能であるとは言っておらず、むしろ漫画や映画がより豊かに過去の事実を表象しうる可能性を論じている(2)。
 ホワイトが「歴史」というときに、19 世紀以降の歴史学を指すのには以下のような問題意識が常に存在するからであろう。

この学界は、それ自身の解説によれば、歴史学がいわゆる客観的学問に変じたとき、歴史学が科学として──なるほど特殊な種類ではあろうがそれでも科学には違いない──成熟したしるしとされたものの中に、ほかならぬ歴史的叙述の物語性が含まれていたという事実を、いまだに説明せずにすませているのである。
(ホワイト 1987: 48)

 客観的な科学を自称する歴史学に対し、その中に物語性という要素を見出し、その問題を歴史学に突きつけ続けているのがホワイトなのである。
 だがしかし、この19 世紀以降の歴史学による「歴史」は、一貫して自らの「科学的」方法を固持し続けていたのだろうか。このような科学主義的な歴史学の立場と方法論を問い直す契機は、たとえば日本で1950 年代に起こった国民的歴史学運動に見出すことができる。しかもそれは当時の歴史学の知の中心にあった歴史学研究会において展開されたものであった。ホワイトは個人の生活を記録することは「歴史」ではないとしたが、歴史学のほうがそれを「歴史」として扱おうとしたところに、この運動の興味深い点がある。
 この運動は、ホワイトが提起する中動態による叙述の可能性(3)といったスマートなものではなく、非常に卑近で政治的で粗だらけの運動である。だが、それにもかかわらず、この運動が現代において再考察されるべきであるのは、歴史家がいかに「歴史」を描くという問題に取り組んだだけではなく、一般の人々がいかに「歴史」を受容するかを問題にしたからだ。この「歴史」の受容論を考えることこそが、私が行いたい「歴史とは何か」についてのアプローチなのである。
 あるいは、ホワイトが、7 世紀のゴール地方での出来事を記録した『サン・ガル年表』を「現代の歴史形式が体現していると思われている完成した歴史的叙述の未発達な形態というわけではない。それは、現代の歴史的叙述とは別個の可能性なのである」(ホワイト 1987: 23)といったように、私もまた国民的歴史学運動と生活記録運動を「現代の歴史的叙述とは別個の可能性」として論じたいのである。
 国民的歴史学運動は、歴史学が人々の中に入っていきともに「歴史」に取り組んでいこうとしたある意味で理論先行のいわゆる「上からの運動」であり、生活記録運動は民衆の作文運動として広がり「歴史」もその問題に加えてゆくいわゆる「下からの運動」であった。この2 つの運動は、基本的には文脈を異にするのだが、1950 年代という第二次世界大戦後まもない混乱のなかで、人びとがまさに現在の自分のアイデンティティに関わる問題として、歴史を必要としていた時代を共有している。では実際に、この1950 年代の日本で起った2 つの運動を考察しながら、その歴史的意義について考えていきたい。

1.第二次世界大戦前後の日本の歴史学

 まず、国民的歴史学運動の前提となる、第二次世界大戦前後の日本の歴史学の状況をみていきたい。
 戦前の日本の歴史学には三つの流れが存在する。大学のなかの実証主義歴史学、在野のマルクス主義歴史学、政治と結びついた天皇制ナショナリズムの歴史学である(4)。1930 年前後には、この三つの流れがある程度均等に存在し、互いに雑誌などを通じて議論がなされていた。
 例えば、マルクス主義歴史学と天皇制ナショナリズムの歴史学は、ベネデット・クローチェを共通の関心としており、レオポルド・フォン・ランケの影響をうけた実証主義(5)に対する批判はともに行っている(成田 2001: 76-77)。マルクス主義歴史学も天皇制ナショナリズムの歴史学も、歴史の本質主義は退けており、現在の人びとの認識によって「歴史」は構成されていくものだというスタンスであった。
 だが、当然のことながらマルクス主義の歴史学と、天皇制ナショナリズムの歴史学は、双方の歴史観が相容れるものではなく、このような3 つの流れが拮抗する状態で議論が行われていた。しかし、1930 年代半ばからマルクス主義の歴史学は活動の政治的制約をうけて表舞台から退き、かわりに天皇制ナショナリズムの歴史学が、時の政治体制と結託するかたちで歴史学界、歴史教育学界の覇権を握ることとなる。
 一方で、この天皇制ナショナリズムの歴史学が目指したものは、戦時下の日本で様々に論じられたテーマでもある、「近代の超克」でもあった。西洋の科学主義、物質主義に対抗するものとして、日本の精神主義や神話が注目され、それによって「歴史」も再構成されていく。この天皇制ナショナリズム歴史学の覇権は敗戦まで続いた。
 敗戦後は天皇制ナショナリズムの歴史学はパージされ、一気に学界から退いた。その代わりに在野で細々と活動してきたマルクス主義の歴史学が覇権を握っていった。それが1950 年代における日本の歴史学の状況である。

2.国民的歴史学運動

 1950 年代の日本は、第二次世界大戦に敗戦してまだ間もなく、大きな社会体制や教育の転換によって、人々はアイデンティティの危機に晒されていた時代だともいえるだろう。このめまぐるしい社会の変化は何だったのか、自分はどのような立場にいるのか、将来の展望はどのようなものか、そのような不安を持った人びとの関心は歴史へと向けられる。このような時代の要請に答えるべく、当時の日本の歴史学において主流派となっていたマルクス主義の歴史家たちが起こした、アカデミズムの垣根を越えて工場や農村の人びとと歴史を描いていこうとしたのが国民的歴史学運動だったのである。
 1950 年代のマルクス主義を中心とした歴史学は、後年の科学主義、実証主義からすれば驚くべきことだが、非政治的な実証主義を批判し、「正しい」政治的な歴史を描き、人々の中に入って実践することが提唱されていた(小熊[2002: 314])。
 この運動では、多くの歴史学者や学生が農村に入っていった。彼らは、文献史学が取り扱わなかった村の人々に聞き書きを行いながら歴史を描き、現地の人びとともに古代の史跡を発掘し、また歴史学の成果を反映した紙芝居を農村に担いでいき上演を行った(小熊 2002: 334, 341)。若い歴史学者たちが積極的に農村や工場に入っていくが、彼らがとった歴史叙述のスタイルは、そこで暮らす人びとと少しでも生活をともにすることで、自らもその農村や工場の一員として歴史を描くというものであった(成田 2006: 131)。つまり歴史家が対象と一体化して、歴史家自身も含む「私たちの歴史」として歴史を描く、記述対象とのスタンスやコミットメントを問題にする挑戦的な試みといえるだろう。だが、結論からいえばこの運動は数年で瓦解する(小熊 2002: 346-347)。その原因は、歴史学者と一般の人びとの間の意識の違いであったり、日本共産党の政治的な内部抗争であったり、一部の学生のセクト化であったりしたわけだが、この運動後、日本のアカデミズムの歴史学は、政治性を排し、科学主義、実証主義へと移行していく。失敗とされてしまったこの国民的歴史学運動だが、職業的歴史家たちが自らその殻をやぶろうと試みたという点で評価できるだろう。
 また、この国民的歴史学運動のリーダー的存在であった石母田正は、当時を振り返り、歴史を描く動機についても述べており興味深い。「サークルにゆく時間を「研究」にあてれば、能率があがり、業績をあげやすいことはたしかである。それにもかかわらずサークルにゆくのは、それが、まず第一に楽しい仕事だからである。サークルの集まり自体が楽しいだけでなく(中略)共同の責任を負うことから生まれる新しい人間関係の形成は、私たちに集団を創ることのよろこびをあたえる。それは過去の啓蒙家の知らない創造の側面である」(石母田 1960=2001: 368)。 石母田は一方的な啓蒙活動を激しく嫌っていた。彼が目指したのは、工場や農村の中にはいっていき、人びとのコミュニケーションのなかで双方が刺激を受けながら歴史を創造していくことである。それこそが、生産的でありかつ、楽しい行為なのだという。石母田は政治的な統制により戦中に自分が思うように歴史が研究できなかったこともあって、この歴史を描く楽しさを強調する。このように、現在を志向する歴史家たちは、民衆の中で歴史を描いたことで、このような感覚を見出していく。
 そして、この歴史を描く楽しさ、喜びによって展開していくのが、生活記録運動であった。

3.生活記録運動

 1950 年代、国民的歴史学運動が民衆の中へと入っていく歴史学の運動だったのに対して、当時盛んだった労働者たちでつくる文化サークルの活動の一つとして盛り上がった自分の身近な生活を記録していこうという運動が、生活記録運動である。
 労働者や主婦たちの間で数多くのサークルができ、ガリ版刷りの文集が次々とでき、またそれぞれの文集の感想会や反省会も活発に行われていた。この戦後の生活記録運動は1951 年に出版された無着成恭『やまびこ学校』に端を発するものであり、子どもたちの作文を通じた教育運動としての展開と、大人たち・労働者たちのサークル運動としての二つの方向での展開がある。ここでは、後者を扱う。労働者たちの生活記録運動は、戦争を経て揺らぐ自らの立ち位置やアイデンティティを回復するという目的もあった。戦前の皇国史観に基づいた歴史教育を受けてきた人々が、GHQ によって墨塗りにされた戦後の教科書を目にしたとき、「歴史」と自らの人生との距離をもう一度測りなおす作業が必要だったのである(無着 2009: 28-29)。労働者たちの生活記録は、とにかく自分の生活、自分の歴史を「描く」ことによって、それを行おうとする試みであった。
 この大人たちの生活記録運動のリーダー的存在となったのが鶴見和子だった。鶴見自身は、父は政治家の鶴見祐輔、弟に哲学者の鶴見俊輔を持ち、自身もアメリカへの留学経験を持つ社会学者であった。だが、鶴見は綴り方教育の実践に触れ、労働者たちの生活記録運動の実践活動に取り組みはじめる。鶴見によるキーワード「自己を含む集団」、「集団のなかの自己改造」は、生活記録サークルに多くの影響を与えた(澤井 2009: 46)。また、鶴見は、生活記録とは、歴史をつくる国民が、国民の歴史を描き、描くことを通して、自分たち自身をつくりかえていく多数軸の現代史をつくる運動であり、それにはさまざまな表現形式があってよく、「日記、手紙、書評、映画評、時評、ききとり書、自伝、伝記、職場や町や村の歴史、ルポルタージュ、学術論文、文芸作品なども、生活記録のなかにとりいれることができる」としている(杉本 2009: 70-71; 鶴見1961=1998: 527)。このような鶴見の生活記録運動は、今までは歴史家のものだった「歴史」を、自分たちの身近な生活を描くことによって、もっと身近な、自分たちの歴史をつくっていこうとする意欲的なものだったといえる。そして、それは単に客観的な歴史を性格に描こうというのではなく、歴史を「描く」という行為によって自らが置かれている立場をみつめなおし「自己改造」をしていこうとするものであり、またそれは自分の身近なグループにおいて行われた。
 生活記録運動は、歴史家の問題関心の枠外にあった歴史を「描く」ということのコミュニケーション的な、あるいはいってみれば心理学的な側面に注目した運動といえるだろう。歴史を「描く」ということのコミュニケーション的側面に注目した生活記録運動は、歴史を語る「場」についてもかなり自覚的である。例えば、生活記録運動では自分の出身や貧しい生活について「ありのまま、飾らずに書く」ことが目指されていたため、気兼ねなく話せる仲間意識をうたや演劇など当時活動していた文化サークルで培ってから、生活記録サークルに入っていくということがなされている(澤井 2009: 46)。
 ある紡績工場の女工たちが中心となったグループでは、労働現場の過酷な状況や、貧しい農村での生活、母の歴史、戦争体験など、一方で過酷で切実な時代に置かれた彼女たちは、歴史家とはまた違う問題意識・叙述をもって歴史を描いていく。その活動の方法は、例えば仲間の間でノートをまわして描くところから始まり、話し合いの中で自分や母の歴史について描いた文集を仲間とのガリ版刷りという共同作業で製本を行っていく。そうして製本された文集は、彼女たちの実家に送られ、また全国各地の生活記録サークルの間で盛んに交換され、感想などのやりとりも活発に行われた(鵜飼 2009: 194-225)。生活記録運動においては、「集団の中で書いていく」ことが重要だったのである。コミュニケーションをとることで書き手が成長し、集団の中で描くことで新たな「つながり」を生んでいく。このような素人同士の、書き手と読み手の領域があいまいな生活記録のネットワークのなかで、まさに同時代の、現在を志向する歴史が描かれる。
 無着や鶴見らによって方向付けがなされた生活記録運動だったが、それは自分の歴史を描くことで、自分を含む集団、環境をかえていくプロセスであり、無着や鶴見らの言説を離れて、労働者や女工たちのアイデンティティと絡みあいながら独自に展開したのだった。

おわりに

 ホワイトは先に挙げたの『サン・ガル年表』の考察において、その物語性の薄さを考える際にヘーゲルを引きつつ以下のように述べている。

 彼の主張では、「法の意識を持つ国家になってはじめて明瞭な行為が現われ、それとともに、それらの行為に関する明瞭な意識が生じ、この明瞭な意識によってその行為を記録することも可能になり、またその必要も生じる」のである。要するに、現実の出来事を物語化する場合には、自らの行為を記録する衝動を備えた主体が想定されなければないのである。(ホワイト 1987: 32)

 ホワイトは、この『サン・ガル年表』の著者にはまだ「自らの行為を記述する衝動を備えた主体」ではなく、当時の宗教観を背景として年表を制作したのではないか、としている。このような考察をへて「客観性」を主張する歴史学の中にも、「物語性」ひいてはそれに付随して「道徳性」が存在するのではないか、という結論にいたる。ホワイトが常に想定しているのは、自らの「物語性」を否定し、「客観性」を主張する歴史学である。だが、日本の歴史学の場合はどうであろうか。戦前の天皇制ナショナリズムとマルクス主義の歴史学はともに、「物語なくして歴史なし」とまでいうクローチェの影響を色濃く受けており、天皇制ナショナリズムの歴史学が生み出した皇国史観はまさに国家の物語としての「歴史」であった。人びとは、その「歴史」のもとに明瞭な行為を行い、明瞭な意識を持つように訓練される。その際に、のちに生活記録運動へとつながる戦前の作文教育・綴方教育が人々を国民化する教育として機能したことは、注目すべき点である。戦前の国民教育によって、「自らの行為を記録する衝動を備えた主体」が生み出されていたが、敗戦によってそれまでの皇国史観という「歴史」を背景にして、現実の出来事を物語化することができなくなり、多くの人々が混乱し、歴史学や自らの生活史を描くことを求めたのではないだろうか。
 国民的歴史学運動や生活記録運動で一般の人々が描く歴史は、確かにホワイトの言うような歴史学による「歴史」ではないのだろう。だが、それらは人々が、歴史学による「歴史」を、いかに自分の文脈に物語化して受け入れようとしていたかという、「歴史」の受容論として考察されるべきであろう。ホワイトは、『サン・ガル年表』といった歴史史料の著者のその当時の感覚、歴史観、物語化の意識といったものを論じているはずなのだが、現代における同時代的な「歴史」の受容論、一般の人々にとっての「歴史」はどう考えるのだろうか。ホワイトが「物語の性質を問題化すると、文化の性質の考察、そしておそらくは、人間性そのものの考察が避けられなくなる。われわれは生まれつき物語る衝動を持ち、現実に起きた事件様子を述べようとすれば、物語以外の形式はとりえないほどなのだ」(ホワイト 1987: 17)とまで述べる物語論の枠組みを、物語や「歴史」の受容論にまで展開させて考えたいのである。そして、この受容論は、単に歴史学による「歴史」を一般の人々が享受するといった、一方通行のモデルによってではなく、人々の「物語る衝動」に注目し、常に改変されながら語りなおされるものとして想定されなければならない。
 国民的歴史学運動は、当時の歴史学の中心がその最も重要な課題として、誰がなぜどう「歴史」を描くのかという問題に取り組もうとした挑戦的かつ稀有な事例としてみることができるだろう。そこでは「物語る衝動」が明確に意識され、歴史を描くよろこび、集団のなかに入っていくよろこびを石母田は説いたのだった。同様に、生活記録運動で鶴見は「集団のなかで書くこと」を強調し、実践していった。敗戦によって変わってしまった「歴史」を、人々がなんとか自分の中で再物語化していこうとする際に、グループを形成し物語を書き合い、読み合いながら、新たな物語を獲得していったということは注目に値する。また「歴史」を紡ぐ職業歴史家も、生まれながらにして歴史家なのではなく、過去の多くの「歴史」を受容しつつ、歴史家となっていくのではないだろうか。「歴史」の受容論は、この意味でも重要である。そして、国民的歴史学運動と生活記録運動を考察する中で出て来た「集団」というキーワードを物語論の中にどのように位置づけていくかが今後の課題となるだろう。「物語る衝動」といった場合の物語りを「独白」ではなく、「コミュニケーション」としてとらえ、物語の受容と生産を考えていけないだろうか。

■注
(1)2009 年10 月22 日に立命館大学で行われた「アフター・メタヒストリー──ヘイドン・ホワイト教授のポストモダニズム講義」での、拙報告、NISHIJIMA Kazuhiro“ Who Writes History, Why WeWrite History and How We Write History? From the Movement forPeople's History and the Movement of Life-Writing Circles in 1950sJapan”をうけての、ホワイトの議論を参照(本報告書収録)。
(2)ホワイトは、例えばアート・スピーゲルマンの『マウス──ある生き残りの物語』というホロコーストを題材にした漫画について論じている。(ホワイト 1994: 65-66)
(3)ホワイト(1994: 79-81)等を参照。バルトを引用しつつ、能動態でも受動態でもない中動態による記述の可能性を論じている。
(4)成田(2001: 69)。成田は三つの流れを、アカデミズム、マルクス主義、ナショナリズムとしているが、本報告の文脈上わかりやすくするため、アカデミズムを実証主義、ナショナリズムを天皇制ナショナリズムと言い換えた。なお、天皇制ナショナリズムの歴史学とは、平泉澄に代表されるいわゆる皇国史観の歴史学をさす。
(5)1987 年にランケの弟子のルードビヒ・リースが東京帝国大学に招かれ、日本の歴史学に多大な影響を与えた。

■参考文献
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鵜飼正樹 2009「 生活綴方からつながる世界」西川佑子・杉本星子編『共同研究 戦後の生活記録にまなぶ──鶴見和子文庫との対話・未来への通信』日本図書センター
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──── 2009 “Postmodernism and Historiography” Special Public Opening Symposium After Metahistory, Ritsumeikan University