Ⅳ 論文「ケアの倫理」ケアの倫理と道徳の相対主義——感情移入の経験は道徳判断を正当化するか

有馬 斉
(東京大学大学院医学系研究科特任助教)

 序

 私たちの感情的な経験はあきらかに道徳とかかわりがある。しかしそれは具体的にどのようなかかわりだろうか(注1)。
 人の行為や性格が、それを見たり想像したりする私たちの中に強い感情を引きおこすことがある。たとえば大勢の人がひとりの人をいじめているのを見て憤りを覚えたり、知り合いの配偶者が他の人と性的な交渉をもったと聞いて嫌悪感を催したりする。憤りや嫌悪感だけではない。人の行為や性格を見聞きして、私たちは恐怖、悲しみ、嫉妬、誇り、共感など、他にも実にさまざまな感情を経験する。
 こうした感情経験は一見して、道徳と何らかの仕方でかかわっていることがあきらかである。他人の行為や性格にたいして憤るとは一般に、当の行為や性格を道徳的に非難するときの心理的態度である。また嫌悪感を催すということも、道徳上問題があると思われる人や行為を避けようとするときの態度だといってよいだろう。そこで「人の怒りを買うようなことはしないほうがよい」だとか、「ぞっとするからそういうことはしないでほしい」など、他人の行為を道徳的に非難する人が感情にうったえた表現をもちいることは少なくない。
 さてしかし、感情にうったえて他人の行為や性格を道徳的に非難することは、適当なことだろうか。人の行為や性格また社会制度が、私たちの中に怒り、嫌悪感、恐怖、悲しみ、嫉妬、共感、誇りなど、何らかの感情を引きおこすことは、それ自体、当の行為や性格や制度を私たちが道徳的に非難(あるいは称賛)することを正当化するだろうか。
 この問いに答えることの意義は大きいはずである。一般にも、具体的な問題に即して道徳を論じる人が、議論や理屈にではなく感情にうったえることは少なくない。また近年は学界においても、ヒト胚の研究利用やヒトクローンの作製を批判したリオン・カス(Leon Kass)のように、応用倫理の緊迫した諸問題にたいする特定の答えを感情にうったえて正当化しようとする論者が、影響力をもってきているからである(注2)。
 そこで本稿では感情経験と道徳判断の正当化とのあいだにあるかかわりを考察する。しかしすでに述べたように、人の行為や性格を見聞きして私たちが経験しうる感情の種類は多い。感情と道徳とのかかわりを一般にあきらかにしようとすれば、さまざまな種類の感情を別個に考察する必要が出てくるだろう。したがって、ここで上記の問いを一般的あるいは包括的に考察することはもとより不可能である。
 そこで以下では、感情経験のうちでも、とくに他者の痛みにたいする感情移入を取り上げる。感情移入(empathy)は、他の種類の感情とくらべても、道徳とのかかわりが指摘されることの特別に多い感情である(注3)。他人の痛みに感情移入した自らの経験にうったえて、だれかの行為を道徳的に非難することは正当化できるか。検討するのはこの問いである。次節にみるように、ネル・ノディングスらによって提唱されたケアの倫理(ethics of care)は、この問いに肯定的に答える道徳理論のひとつとして理解しうる。そこで本稿ではケア倫理の妥当性を吟味することをとおして、道徳判断の正当化と感情移入とのかかわりを検証してみたい。

 1 ケア(気づかい)と感情移入

 他人の行為や性格を道徳的に非難するとき、私たちはしばしば感情にうったえる。ケア倫理は、私たちのそういった態度を支持する道徳理論のひとつである。
 道徳理論としてのケア倫理を初めて定式化したのはネル・ノディングス(Nel Noddings)である(注4)。ノディングスによれば、人の行為が道徳的に正しいといえるのは、当の行為が他人にたいする行為者の気づかい(care)の表れである場合にかぎられる。ここでとくに他人を気づかうとはどういうことか。ノディングスは次のように説明している。他人を気づかうことは、他人と「共に感じること(feeling with)」を伴う(注5)。他人が現実に置かれた境遇を自らにとっての可能性として理解し、その悲しみや苦しみを共に感じることである。ノディングスはこのことを指して、他人に「専心没頭(engrossment)」することであると表現しているが、一般的な表現を用いればこれは「感情移入(empathy)」の経験であるといってよいだろう(注6)。
 したがって、ケア倫理のいう道徳的に正しい行為とは、他人の悲しみや苦しみにたいして行為者が感情移入していることの表れであるような行為である。反対に、道徳的に不正な行為とは、他人の悲しみや苦しみにたいする感情的理解が行為者に欠如していることの表れであるような行為である。ケア倫理による善悪の定義をさしあたりこのように理解しておいて差し支えないだろう(注7)。
 さて以上のように定式化されたケア倫理にしたがえば、一見するかぎり、他人の行為や性格を感情にうったえて道徳的に非難することは、ときに正当化されうる。以下にまずこのことをあきらかにしておこう。
 たとえば子どもが、子猫の尾や耳をひっぱって遊んでいる。子猫の苦しみに感情移入したE氏が、「そんなことは(道徳的に)してはならない」と子どもを注意する(注8)。このようにしてE氏が子どもの行為を道徳的に咎めることの、正当化の可能性を考えてみよう。仮に第三者の前で子どもにたいする自分の言明を説明したり正当化したりする必要が出てきたとして、E氏にはただ、「猫の苦しみが私には感じられるから、子どもの行為は道徳的に許されない」と述べることしかできない。この場合のE氏は、自ら下した道徳判断を、理由や議論によるのではなく、ただ自分の感情移入の経験にうったえて正当化しようとしている。これは妥当なことだといえるだろうか。
 道徳的善悪についてケア倫理が提出する定義を正しいとすれば、これは妥当なことだと考えることができるはずである。もういちどケア倫理の定義をくりかえせば、行為が道徳的非難に値するのは、他者の苦しみに感情移入する力が行為者に欠如していることが当の行為に表わされている場合である。しかし、尾や耳をひっぱられる猫の苦しみが分かる(感じとれる)人なら、猫をそんなふうに弄ぶことはしないはずである。上記の子どもの行為は、この意味で、他者の苦しみに感情移入する力が本人に欠けていることを表している。したがって、ケア倫理にしたがえば、子どもの行為は道徳的非難に値する。そこで結局のところ、E氏が道徳的に非難した行為はもとより道徳的非難に値する行為だったといえる。別言すれば、E氏が子どもを咎めたことは正しいことだったのである。
 もちろんE氏は自らの道徳判断を擁護して、ただ「猫の苦しみが私には感じられるから、子どもの行為は道徳的に許されない」と述べただけである。これでは子どもの行為を批判した自らの道徳判断が正しいと考えるだけの理由をE氏自身は十分に説明できていないと思われるかもしれない。たとえば、ある道徳判断が正しいことの理由を説明したといえるためには、まず道徳的善悪を一般的に定義したうえで、定義上、判断の対象となった個別の行為が道徳的悪(あるいは善)とみなしうることを言い立てる必要があるといわれるかもしれない。そうであれば、E氏の述べたことは十分に説明の体を成しているとはいえないかもしれない(この場合、十分な説明ができるためには、ケア倫理による道徳的価値にかんする定義をE氏が知っていることが必要となる)。
 しかし、仮に説明として十分といえなくても、E氏の述べたことは、自分の道徳判断を正当化したり弁護したりする仕方として、ある程度の妥当性は有するはずである。第一に、子どもの行為が道徳的非難に値するということと、自分がある感情移入の経験をしたこととのあいだに因果的なかかわりがあることをE氏は言い当てている。また、当の因果関係の内容についても、E氏の理解は大まかにではあっても正しい方向でとらえている。そこで、ケア倫理が正しいとすれば、道徳判断を正当化する際にE氏のような仕方で感情にうったえることは妥当なことだとみなすことができるはずである。
 さて以上は、道徳理論としてのケア倫理が正しいと仮定した場合にみちびかれる結論である。しかしでは、実際のところ、ケア倫理は正しいといえるだろうか。以下、ケア倫理の妥当性を検討する。

 2 他人を気づかう義務

 道徳理論としてのケア倫理が抱える弱点のひとつは、道徳的義務の規範性を説明することが難しいということにある。道徳的に正しい行為は、人々が常にそれをしたいと思うようなものとはふつう考えられていない。むしろ、したいかどうかにかかわらずしなくてはならない義務として理解されているはずである。カントの用語を借りれば、道徳的義務の要請は定言命法的(categorical)である(注9)。カントは定言命法を仮言命法から区別した。仮言命法的(hypothetical)な要請とは、「家でステーキが食べたければ肉を買ってこなければならない」といったタイプの要請である。ここでは、人が何かしなければならないとされるのは、この人のうちに偶然そなわっている何らかの欲求を満たすためにそうすることが不可欠であるからにすぎない。本人が当の欲求をそなえていなければ、もはやそれをしなければならないとはいえなくなってしまう。道徳的義務の要請はこうしたタイプの要請から区別される。行為者が何を欲求しているかにかかわらず、道徳的義務は果たされなければならない。
 道徳的義務には、少なくとも一見するかぎり、いま述べたような意味における規範性がそなわっている。道徳の理論は、善悪を定義するにあたって、道徳的義務がこうした特徴を有するということを否定するようであってはならない。これは道徳理論を研究者が構築する際に満たすべき条件のひとつと考えてよいだろう(注10)。しかし、ケア倫理にはこの条件を満たすことが難しい(注11)。
 ケア倫理によれば、道徳的に正しい行為とは、行為者の他人にたいする気づかい(care)の表れであるような行為である。他人への気づかいから、相手の苦しみや悲しみを取り除こうとする行為は道徳的に正しいというのである。さてしかし、人は多くの場合こうした気づかいを自然と行っている。たとえば親が子を気づかったり、友人同士が気づかい合ったりする。これは自然なことであり、こうした場面では、相手が苦しんでいたり悲しんでいたりするのが分かれば助けてやりたいと思う。こうした欲求がおこるのがふつうである。そこで、このような親子や友人のあいだの気づかいにもとづく行為が道徳的に正しい行為なのだとすれば、道徳的義務はそれを果たすことを私たちが自然と欲求するようなものでしかないということになってしまう。
 もちろん、気づかいの情は、いつでもだれにたいしても常に自然と沸きおこるわけではない。たとえば相性のよくない人や赤の他人にたいしては、自然な気づかいの情が沸いてはこないかもしれない。また、自分が疲れていたり、他人を気づかう行為が自分の利益と衝突するときも、相手を気づかいたいという情は抑えられがちである。さて問題は、他人にたいする気づかいの情が自然とおこらない場合、それにもかかわらず私たちは他人を気づかうべきだと考えることができるかどうかである。ケア倫理によれば、道徳的な義務は、気づかいの表れであるような行為を実践することにある。したがって、行為者が他人を気づかいたいと欲求していないときに、それにもかかわらず他人を気づかうべきであることが示せなければ、道徳的義務の要請が定言命法的であることを肯定できなくなってしまう。ケア倫理にとっての問題は、この「気づかいたいという欲求がおきないときにそれでも他人を気づかうべきである」と考える理由を見つけるのが容易ではない、という点にある。
 次節(第3節)では、まずこの問題にたいするノディングス自身による解答を概観し、それが不十分であることをあきらかにする。さてしかし、ノディングスが提示したケア倫理の枠組は、のちにさまざまな研究者によって修正を加えられてきた。本稿の第4節以下では、マイケル・スロートによる修正案を検討する。スロートによって修正されたケア倫理が、ノディングスの失敗をどのように克服しようとしたかをあきらかにするとともに、さらにその問題点を指摘する。

 3 気づかいと規範性:ノディングスの解答

 自然と気づかいたくはならない他人のことを、それでも敢えて気づかうべきであると考えることはできるか。できるとして、それはどのようにしてか。ノディングスにはひとつ解答の用意がある。本節ではこれを検討しよう。ノディングスによれば、自然と気づかってやりたくなるというのではないタイプの他人のことをそれでも気づかうべきなのは、私たちがだれしも「倫理的な自己(ethical self)」を理想として思い描き、理想を実現したいと欲求するからであるという(注12)。
 ノディングスのいう「倫理的自己」とは、私たちが思い描く最善の自己像のことである。私たちには、これまでに他人から気づかわれ、他人を気づかってきた経験や記憶がある。最善の自己像は、こうした過去の経験や記憶にもとづいて形成される。ノディングスによれば、私たちには、他人と気づかい合う人間関係を築くことにたいする本来的(innate)な欲求があり(注13)、そうした人間関係を不可避的(inevitably)に善いものとみなす傾向がある(注14)。そこで、他人と気づかい合う人間関係の中にいる自己の姿が理想として思い描かれるようになるというのである。「倫理的自己」とはこの理想的な自己イメージを指す。さてでは、目の前の他人のことを気づかいたいという欲求が自然に沸かないとき、それでもこの人を気づかうべきであるとして、これはなぜか。ノディングスの解答はこうである。すなわちそれは、他人のことを気づかうことを止めてしまえば、倫理的自己を達成することもできなくなってしまうからに他ならない。
 しかしこの解答には問題がある。以下、この問題をあきらかにしよう。一見するかぎり、ノディングスの解答は道徳的価値にかんする相対主義をみちびく。ノディングスは、私たちには、他人と互いを気づかい合う人間関係を築くことにたいする本来的な欲求があるという。ここではこうした欲求を(本来的という表現が適当かどうかはあきらかでないにしても)ほとんどの人がもっていることは認めてよいだろう。しかし、理想として思い描かれる人間関係の具体的なイメージは、思い描く人によってさまざまに異なるはずである。とくに、ここで関係を築くことが欲求されている「他人」の範囲は、大小さまざまに異なりうる。少なくとも、国籍も人種も文化的背景もさまざまにちがう世界中すべての人と互いに気づかい合うことを私たちだれもが本来的に欲求しているとか、そうした関係を私たちのだれもが不可避的に善いものとみなしているといった主張は、非現実的である(注15)。ところが、理想的な関係を結ぶべき他人の範囲や顔ぶれがちがえば、関係が要求する気づかいの性質もまたちがってこざるをえないはずである。
 たとえば、これまでまったく縁がなくこれからも親しい関係を築く可能性は見込めない他人が目の前で苦しんでいるとしよう。この人を助けることは私にとって不可能ではないが、そのためには大きな負担が避けられない。そこで気づかいの情が自然には沸いてこないとしよう。この場合、それでもあえて相手を気づかい、助けの手を差し伸べることは、理想的な人間関係の実現のために不可欠だといえるだろうか。答えは、人それぞれに思い描く理想的な人間関係の内容によって変わってくるはずである。ノディングスのケア倫理によれば、これが不可欠である場合だけ、この他人を気づかうことは道徳的に善いことである。不可欠でなければ善いことだとはいえない。道徳的価値はこの意味で、各人の思い描く「倫理的自己」のイメージに相対的である。
 さてしかし、このような相対主義は、道徳的義務が有する規範性と相容れない。なぜか。ノディングスのケア倫理によれば、私にとってあなたを気づかうことが義務であるといえるのは、私が理想とする人間関係の実現にとってあなたを気づかうことが不可欠な場合である。さてしかし、私にとって、自分の理想とする人間関係を実現することは、当然ながら欲求の対象である。したがって、私が合理的な人間でありさえあれば、あなたを気づかうことも(理想を実現するための手段として)私は欲求しているはずである。このことが意味するのは次のことである。すなわち、行為者にとって他人への気づかいが義務として現れるのは、広い意味で行為者がその人を気づかいたいと欲求している場合にかぎられてしまう。反対に、行為者が(このような広い意味で)他人を気づかいたいと欲求していない場合、それにもかかわらず行為者に「他人を気づかうべきだ」と要求することは、ノディングスの定式化するケア倫理の枠組の中では正当化できない。
 ここで最初の問いに戻ろう。本稿の最初に提起したのは、「自らの感情移入の経験にうったえて道徳判断を正当化することはできるか」であった。本稿第1節では、一見するかぎり、この問いにたいしてケア倫理からは肯定的な解答が得られることを述べた。しかし本節で述べたことは、ケア倫理から得られる解答の妥当性を疑わしくするものである。
 子猫の尾や耳をひっぱる子どもを咎めてE氏は、「そんなことをしたら猫がかわいそうだからやめなさい」という。E氏はこのとき、子猫の苦しみに感情移入した自分自身の経験にうったえて、自らの道徳判断を正当化しようとしている。一見するかぎり、ケア倫理が正しければ、この正当化の試みは妥当とみなすことができる。子猫の苦しみに感情移入することは、子猫を気づかうことであり、子猫をいじめることが気づかいの欠如の表れであるならば、いじめは道徳的に悪い行為だとみなしうるからである。したがって、E氏は、道徳的に悪い行為が悪いことを指摘したにすぎない。E氏の指摘は妥当である。さてしかし、以上の推論はあくまでE氏の視点で物事をとらえた結果である。咎められた子どもの立場から考えたとき、「子猫をいじめてはならない」という道徳判断は、やはり正しいものだといえるだろうか。子どもには子猫にたいする自然な気づかいの情がない。それにもかかわらず子どもは子猫を気づかうべきだと考えることは妥当だろうか。本節で述べたことが正しければ、この問いにたいする答えは、子どもが理想とする他者関係の実現にとって子猫を気づかうことが不可欠であるかどうかに依存する。子どもの理想にとって子猫への気づかいが不可欠でない場合、「子猫をいじめてはならない」という道徳判断は正当化できず、そのような義務は子どもにとって規範性を有しない。
 ケア倫理にはこの相対主義を克服することができるか。次節ではマイケル・スロートによる克服の試みを検討する。

 4 気づかいと規範性:スロートの解答

 ノディングスによるケア倫理の定式化には理論的に弱いところがある。先年マイケル・スロート(Michael Slote)が発表した著書『ケアと感情移入の倫理(Ethics of Care and Empathy)』の大きな目的のひとつは、こうした弱さを補うことにある。スロートによれば、従来のケア倫理研究は主に教育学者や心理学者によってなされてきた。これらの研究者は、道徳理論を組み立てるにあたって配慮しておくべき伝統的な哲学上の問題に十分な注意を払っていない。そこでスロートの狙いは、ノディングスが提示したケア倫理の基本的な枠組を踏襲しつつ、これを哲学的な批判に耐えるものとして洗練させることにある(注16)。
 すでに見てきたように、ノディングスは、道徳的善悪を感情移入という概念を用いて定義した。すなわち、道徳的に正しい行為とは、行為者が他人に感情移入していること(行為者の他人への気づかい)の表れであるような行為である。スロートはこの定義の基本的な枠組を踏襲しつつ、わずかに修正を加えている。修正を加えるにあたってスロートが参照したのは、感情移入にかんする近年の実証研究の成果である。
 心理学者のマーティン・ホフマン(Martin Hoffman)は、他者に感情移入する力が子どもの中で発達・成熟していく過程をあきらかにし、この過程を段階づけて提示した(注17)。ホフマンの研究は重要である。他者に感情移入する人の力には、より成熟した段階とそうでない段階とがあり、その差は実証的かつ客観的に示しうるということをあきらかにしているからである。スロートが注目したのもこの点である。スロートはノディングスによる道徳的善悪の定義に、ホフマンのいう「成熟した(fully developed)感情移入の力」の概念を導入したのである。そこでスロートによれば、行為が道徳的に不正であるのは、成熟した感情移入の力が行為者のうちに欠如していることを当の行為が表している場合であり、その場合かぎりである(注18)。
 本稿第3節では、ノディングスによるケア倫理の定式化は、道徳的義務が有する規範性をうまく説明できないことを述べた。私たちにはなぜ・どこまで他人を気づかう義務があるのか。ノディングスはこの問いにたいして満足のいく答えを示せなかった。同じ問いにたいして、スロートによって修正されたケア倫理は、より洗練された解答を提示しうる。以下、スロートの議論からみちびきうる解答をあきらかにし、検討することにしよう。
 まず、ノディングスの解答の難点をもういちど整理しておこう。ケア倫理においては、道徳的な善が、他人にたいする気づかいの表れと同一であるとされる。そこで、他人を気づかいたいという欲求が行為者の内に自然と沸いてこない場合、それでもなお行為者が相手を「気づかうべき」であることを示せなければ、道徳的義務のもつ規範性がケア倫理の枠組下では成立しない。道徳理論としてのケア倫理の難しさはここにあった。さてこの問題にたいするノディングス自身の解答は、次のようであった。すなわち、気づかいたくなくても他人を気づかうべきであるのは、行為者本人が理想とする人間関係を実現するために、気づかうことが不可欠だからである。この解答にはふたつ難点があった。第一に、人によって理想とする人間関係のイメージが異なりうるため、関係を実現するために必要とされる気づかいの内容が一定しない。言い換えれば、縁遠い他人にたいしてどれだけ気づかうべきなのか、基準を客観的に示すことができていなかった。
 また第二に、ノディングスの議論にしたがえば、行為者に他人を気づかうよう要請することが有効なのは、本人がその実現を欲求している人間関係を築くという目的のために他人を気づかうことが不可欠な場合だけである。そこで、結局のところ、広い意味で本人が相手を気づかいたいと欲求していないかぎり、それ以上の気づかいを行為者に要請することはできない。こうした問題があった。
 さてスロートは、ケア倫理による道徳的善悪の定義を修正した。修正された定義は一見するかぎり、ノディングスの解答が抱えるふたつの難点とはどちらも縁がないようにみえる。
 第一に、私たちにはどこまで他人を気づかう義務があるのか。スロートによって修正されたケア倫理は、この問いにたいする答えを経験科学の知見の内に求めることができる。スロートはホフマンの実証研究の成果をふまえ、ケア倫理に「成熟した感情移入の力」の概念を導入した。スロートはこの概念にうったえて私たちの義務の範囲を次のように定めることができる。すなわち、感情移入の力を完全に発達させた段階にいる人が他人を気づかうのと同じだけ、私たちにも他人を気づかう義務がある。
 もちろん「完全に発達した段階」という概念は抽象的である。ホフマンもそれがどのような状態であるかを明確にしていない。そこで、現実の道徳問題を前にしてより具体的に私たちにはどのようにふるまう義務があるのかと問われれば、スロートの議論は必ずしも明確な答えを示せないかもしれない。しかしまた、感情移入の力が成熟する過程は客観的に段階づけて示しうるというのであるかぎり、どこかの段階でその力が完全な発達を遂げると考えることや、その段階もまた他の段階から客観的に区別しうるものと想定することは自然である。その意味で、スロートのケア倫理は、私たちの義務の範囲にかんする客観的な基準の存在を示すことに成功している。
 さらにこのことは第二の論点にもかかわる。ノディングスのケア倫理では、道徳的な義務の範囲は、行為者に偶然そなわっている欲求のありようによって制限された。行為者本人が理想とする人間関係を実現するために必要である以上の気づかいは、義務とはいえなかったのである。これにたいしてスロートのケア倫理では、義務の範囲を行為者の欲求のありようとは無関係に定めることができる。自分がどれだけ他人を気づかいたいと欲求しているかにかかわりなく、私たちには、感情移入する力を完全に発達させた段階にいる人がするのと同じだけ他人を気づかう義務がある。スロートのケア倫理はこうして、道徳的義務がもつ規範性を肯定することにも成功している。
 さてカントは、道徳的義務の規範性を合理性と結びつけて理解していた。カントによれば、定言命法の要請にしたがうことは合理的にふるまうことである。したがって、道徳的義務にしたがわない人は、非合理的だとして非難されるに値する。道徳的義務が有する規範性は、規範に沿わない行為にたいする非難を正当化するのである。ではケア倫理はどうか。スロートは、ケア倫理が正しいとすれば、規範に沿わない行為はやはり非難に値するが、その理由が異なるという。すなわち、道徳的義務にしたがわない人が非難に値するのは、非合理的だからではなく、「心ない(heartless)」からだというのである(注19)。

 5 相対主義

 しかしスロートのケア倫理からみちびかれる以上の議論には、問題がないだろうか。スロートのケア倫理は、感情にうったえて道徳判断を正当化する私たちの態度が妥当であることを立証するといえるだろうか。最後に、スロートのケア倫理の問題点を指摘しておこう。
 第一に、実証研究の成果と、道徳的な価値にかんする規範的な主張とのかかわりについてひとこと述べておこう。ホフマンによって実証研究の成果として提示された「成熟した段階」を、スロートは道徳的に価値の優れた状態として理解している。しかしここは注意が必要である。ホフマンの研究が示しているのはあくまでも、生物学的また社会的プロセスとしての人の成長過程には「成熟した段階」と呼ばれる状態があり、これは事実として他の段階から客観的に区別することができるということにすぎない。「成熟した段階」に(他の段階よりも)道徳的に高い価値があるという主張はあくまでスロートのものであり、これはそれ自体、規範的な主張である。ホフマンの実証研究はこの規範的主張の妥当性を立証するものではない。
 もちろん、だからといって直ちにスロートの議論が誤りであるとはいえない。もとよりスロートは道徳的な議論をしているのであり、スロートの主張は、その妥当性が科学的に実証されることを期待するべき類の主張ではない。問題はあくまでも、「成熟した段階」には高い価値があるという主張が、道徳的にいって正しいかどうかである。
 さて、「成熟」の概念にはもともと規範的な響きがある。これは否定できない。私たちは一般に、人の幼いふるまいを咎め、大人らしくふるまうことを推奨する。気づかいにかんしても同様である。他人の悲しみにまったく関心を示さない人と、いつも努めて相手の立場にたって物事を感じようとする人とでは、後者のほうが道徳的に優れていると考えても誤りとはいえないだろう。成熟を道徳的善と同一視するスロートの主張は、この意味で、私たちの道徳的直観にうったえる。
 スロートの議論の問題はその先にある。実は問題の一部は本稿でもすでに述べてきたことの繰り返しである。すなわち、スロートのケア倫理もまた、相対主義を回避できていないのである。以下にこのことをあきらかにする。
 スロートは、人の感情移入する力が「完全な発達(fully developed)」を遂げるという。しかし、私の力が完全に発達した状態が、他の人の力が完全に発達した状態と、常に同じであるという保証はどこにもない。むしろ、ふつうに考えればまったく同じである可能性はほとんどないといってよいだろう。類推のためにここではまず「跳躍力」について考えてみよう。私の跳躍力はおそらく陸上部の仲間と切磋琢磨していた高校三年生のころ完全な発達を遂げた。しかしこれは跳躍種目のオリンピック選手の最盛期の跳躍力とくらべてまったく及ばない。同様のことが人の感情移入する力についてもいえるはずである。私の力は、仮に完全な発達を遂げることがあるとして、かならずしも他の人の力と同程度の発達をみせるとはかぎらない。
 この点についてはスロートにも自覚があるようである。このことはスロートが「完全な発達」という言葉につけてもちいる冠詞の揺れに端的に表れている。たとえば著書中、「他人に感情移入し、共感的な関心を示すという人間的能力の完全な発達(full development of the human capacity for empathy and empathic concern for others)」という表現ではじまる文章がある(注20)。文頭には、定冠詞のTheとカッコで括った不定冠詞のaとが併記されている。スロートにも、「完全に発達した状態」が人によって異なる可能性を否定することはできないのである。
 完全な発達を遂げた状態が道徳的善であるとする一方、完全に発達した状態は人によってさまざまであるという。このようにして、スロートのケア倫理は、道徳的価値にかんする相対主義をみちびく(注21)。
 このことは何を意味するのか。もういちど先の問いに戻って考えよう。私たちにはどれだけ他人を気づかう義務があるのか。スロートのケア倫理が示した解答にしたがえば、私たちには、感情移入する力を成熟させた段階の人が動機づけられるのと同じ程度に他人を気づかう義務がある。しかし本節であきらかにしたとおり、成熟しても他人を気づかう度合いは人によってさまざまに異なりうる。だとすれば、成熟した人のうち、どの人を基準にすればよいのか。当然このような問いが出てくる。
 スロートのケア倫理はこの問いに適当な答えを出すことができない。第一に、成熟してさえいればだれを基準にしてもかまわない、という答えはあきらかに不十分である。このことは、少し極端な例を考えてみればただちに了解されるはずである。たとえば、生まれてからこれまでまったく道徳教育を受ける機会がなかったために、他人に感情移入する力が極端に乏しい人(注22)。たとえこれから訓練を受けてもこの人の感情移入する力が大きく伸びることは見込めない。こうした人を基準に道徳的善悪を定義することはあきらかに不適当である。そもそも、力がこれほど極端に低い人まで含めてだれを基準にしてもかまわないとしてしまえば、基準の幅が広くなりすぎる。これでは「どれだけ他人を気づかう義務があるのか」という初めの問いに答えたことにはならない。
 そこで第二に、成熟した人々のうち、特定の個人や集団をかぎり、これを基準として指定するとすればどうか。しかし、そうした指定は専断的あるいは場当たり的であることを免れえないように思われる。スロート自身は別の文脈で、ひとつ具体的な基準を示唆している。スロートがここで考察しているのは、自己犠牲の行為の妥当性である。たとえば、自分の生活を省みず外国の貧しい人々に財産の大半を寄付するといった行為の妥当性である。私たちにこのような自己犠牲を払う道徳的義務はあるだろうか。この問いにたいするスロートの答えは次のとおりである。すなわち、こうした自己犠牲が道徳的に優れた行為であることは疑いえない。しかし、寄付をせずにいることが「標準的な人間の成熟した感情移入の力(fully developed normal human empathy)」の欠如を示すものとはいえず、したがって道徳的に問題があるとはみなせない(注23)(注:「標準的」に傍点)(強調筆者)。このように述べるスロートはここで道徳的善の基準を「標準的(normal)」な人間に置いているとみなしてよいだろう。ここで「標準的」ということは、スロートによれば統計的概念として理解されるべきだという(注24)。さてしかし、こうした基準設定の仕方は、専断的かつ場当たり的だといわざるをえない。なぜ統計の上で標準的な人間が道徳の基準であるべきなのか。たとえば、よく「大衆の倫理観の低さ」が嘆かれる。こうした嘆きが正しいとすれば、本当の基準は統計的標準値よりも少し高い位置になければならないのではないか。また、基準をこのように設定してしまうと、基準が時代や場所によって変化するように思われるが、それはかまわないのか。スロート自身、こうした問いには答えていないのである。

 結論

 そんなゾッとするようなことはするな。かわいそうだから止めておけ。みんなの怒りを買うようなまねはよせ。ふだんから私たちはさまざまな感情にうったえて自らの道徳判断を正当化する。しかし、こうした態度は妥当とみなすことができるだろうか。
 本稿では、さまざまなタイプの感情経験のうち、とくに感情移入に注目した。私たちはときに、他人の痛みに感情移入した自らの経験にうったえて、だれかの行為を道徳的に非難したり、非難したことを正当化しようとする。しかし私たちのこうした態度は妥当といえるだろうか。この問いに答えることを試みたのである。
 ネル・ノディングスが提唱したケアの倫理は、今述べたような私たちの態度を支持する道徳理論のひとつとして理解しうる。そこで本稿ではケア倫理の妥当性を検証することをとおして、上記の問いを検討した。結果、ケア倫理はいくつかの点で妥当とはいえないことがあきらかになった。とくに、ケア倫理による道徳的善悪の定義は、くわしく検討すると、道徳的価値にかんする相対主義をみちびくことが分かった。マイケル・スロートによるケア倫理の修正案も、相対主義を完全には克服しきれていない。感情移入の経験にうったえて道徳的非難を正当化する私たちの態度の妥当性は、少なくともケア倫理によっては立証されない。

◆註と文献
(1)本稿は、2009年度科学研究費補助金(若手研究(スタートアップ)、課題番号21820006、研究課題名「道徳判断の正当化において感情が果たす役割に関する研究」)による成果のひとつである。
(2)Leon Kass, “'Making Babies' Revisited,” in G.E. Pence ed., Classic Works in Medical Ethics, McGraw Hill, 1998; “Wisdom of Repugnance,” in G. McGee ed., The Human Cloning Debate, Berkeley Hills, 1998. Kassは、ヒト胚研究やヒトクローン作製が、それについて想像する人に嫌悪感(repugnance)を催させることを根拠として、これらの研究にたいする道徳的非難の正当化を試みた。Kassの議論を検討した試みとしては、拙著Hitoshi Arima, “Disgust and Moral Censure,” Journal of Philosophy and Ethics in Health Care and Medicine, 日本医学哲学倫理学会, 2009, no.4(in press)を参照されたい。
(3)ヒューム(David Hume, A Treatise of Human Nature, D. Norton and M. Norton eds., Oxford University Press, 2000. Book III)やアダム・スミス(Adam Smith, The Theory of Moral Sentiments, Liberty Fund, 1982)らいわゆるmoral sentimentalismに属する哲学者も、empathyとほぼ同義の概念であるsympathyを重視した。本稿の後半部で検討するMichael Slote(Ethics of Care and Empathy, Routledge, 2007)によれば、ケア倫理もまたmoral sentimentalismの流れを組む道徳理論であるという。しかし本稿ではヒュームやスミスの議論を直接は扱わない。いずれ別に検討したい。
(4)Nel Noddings, Caring: A Feminine Approach to Ethics and Moral Education, Second Edition, University of California Press, 1984.
(5)Ibid. p.30.
(6)Ibid.
(7)ノディングスによる道徳的善悪の定義にかんする本文の解釈はSlote, Op. cit. pp.10-12を参考とした。
(8)本文の例はNoddings, Op. cit. p.90. から取ったものである。
(9)カント『人倫の形而上学の基礎付け』第2章(『カント:世界の名著32』中央公論社、1972年)
(10)Christine Korsgaard, The Sources of Normativity, Cambridge University Press, 1996. Lecture 1.
(11)このことは、とくにケア倫理に限らず、道徳を感情に基礎づけるすべての道徳理論に当てはまるものと考えられていることが多い。Cf. Jesse Prinz, The Emotional Construction of Morals, Oxford Uni-versity Press, 2007. p.128.
(12)Noddings, Op. cit. pp.49-51&79-95.
(13)Ibid. p.83.
(14)Ibid. p.49.
(15)また、もともとそうした抽象的な博愛精神は、ケア倫理の中核にある主張と折り合いがよくない。ノディングスを含め、ケア倫理を支持する研究者の多くは、身近な親しい人にたいする義務と、縁遠い他人にたいする義務とがあるとすれば、前者のほうが後者よりも強いことを認める(Noddings, Op. cit. p.86; この点でより明確な主張はSlote, Op. cit. Chapter 2)。ケア倫理が身近で親しい人にたいする「依怙贔屓」を正当化することに注目して、この点から道徳理論としてのケア倫理を批判的に検討した文献に、安部彰「ケア倫理批判・序説」『生存学Vol.1』生活書院 2009 279-292頁。
(16)Slote, Op. cit. pp.3-4.
(17)Martin Hoffman, Empathy and Moral Development: Implications for Caring and Justice, Cambridge University Press, 2000. Part I&II.
(18)Slote, Op. cit. p.31
(19)Ibid. p.106.
(20)Ibid. p.116.
(21)こうしたタイプの相対主義は、一見して、「道徳判断は正しいことがありうる」という考え方(いわゆる意味論的な道徳実在論)そのものとさえ矛盾するように見える。しかし、実際のところ、この点について研究者の意見は一致していない。矛盾するとする見方はたとえばLaura Schroeter and Francois Schroeter, “Is Gibbard a Realist?,” Journal of Ethics and Social Philosophy, Vol.1, no.2 (2005) 1-18. 矛盾しないとする見方はPrinz, Op. cit. pp.164-7.
(22)Prinz, Op. cit. が思考実験にもちいたマリーの例を参照せよ(p.38)
(23)Slote, Op. cit. p.34.
(24)Ibid.