Ⅲ 論文「ケアと倫理」精神病院不祥事件が語る入院医療の背景と実態——大和川病院事件を通して考える

仲 アサヨ
(立命館大学大学院先端総合学術研究科博士課程)

 はじめに

 日本の精神科入院医療は民間精神病院に依存してきた歴史的経緯がある。「治療と保護」の名のもとに精神病院に隔離収容する施策によって、1960年代から1990年代にかけて民間精神病院の病床数は増大し続けた。そして、これらの精神病院の大半は人里離れた郊外に建てられていることが多く、一般社会から断絶した状況が当たり前であった。すなわち、隔離収容された中での入院生活は決して良好とはいえず「医療不在」が存在した。
 この閉鎖的で医療不在といわれる精神病院の実情は、1984年3月14日に発覚した「宇都宮病院事件」(注1)によって、内外から多くの批判を浴びた(注2)。にもかかわらず、その後も不祥事件が続発した。たとえば、近畿圏内だけでも大きな事件として報道されたものに、大阪の大和川病院・栗岡病院事件(注3)、京都の十全会双丘病院事件(注4)、箕面ヶ丘病院事件(注5)(大阪)などがある。
 宇都宮病院をはじめこれらの精神病院は、改善策を講じることで、事件以降も引き続き病院経営が行なわれた。けれども、その間、これらの精神病院に入院した患者が受けた人権侵害や無法な入院治療の実害は取り返しがつかない。
 そこで本稿では、入院中心の、その意味では実態が見えにくい精神医療の中で、過去、何が起こったのか、精神障害者はどの様に扱われたのか、あるいは事件が起こる度に法が改正されどのような処遇内容に変遷したのかなどについて歴史的事実を確認しながら、精神病院不祥事件における入院医療の実態とその背景について検討するものである。
 具体的な対象として取り上げるのは、入院医療において露呈した幾多の精神病院不祥事件の中でも、はじめて廃院処分を下された大和川病院事件である。大和川病院事件は、1969年の事件発生から1997年廃院に至るまで約30年の歳月を要した。その間、劣悪な入院医療環境の中で、入院患者は多くの犠牲を払わされた経緯がある。つまりこの事件は、“なぜ、劣悪で不正な入院医療が長年温存されたのか”という問題を考えるうえでも、格好の対象なのである。
 事件発生の根本原因には、「精神科医自身の姿勢」(戸塚・広田 1984: 278-280)や「国による精神科医療に対する差別と医療従事者の認識の低さ」、事件発生後の「行政の対応の遅さ」、(里見 2003: 869; 精神神経学会 1981: 459-466; 渡辺 2006: 19-30)および「消極的な情報開示」(山本 2001: 50-52)などが先行研究によって指摘されている。
 本論はこれらの文献で解明されたことを再構築するとともに、先行研究において明らかにされた諸事実間になお残存する隙間を埋めるために新聞記事を仔細に提示し(注6)、大和川病院事件の総体を詳らかにする。
 おりしも、2008年11月6日、千葉県八千代市で精神病院入院中の男性患者が看護師に右腕を骨折させられたとして県の立ち入り調査が入り、同じく12月4日には大阪府貝塚市の精神病院において不当な身体拘束を受けた入院中の患者が死亡したとの事件が報道された(注7)。精神病院における不祥事件は、決して過去の問題ではなく、現在もなおどこかで存在しているのではないかということが懸念される。かくして、かつて、といってもそう遠い昔ではない時期の精神障害者に対する入院医療の実情をあらためて再認識することで、今後の精神障害者処遇に対するさらなる意識改革に繋げたいという強い実践的な意図にも、本稿の意義は見出されよう。
 なお、本稿の構成は次のとおりである。第1節では「精神病院における不祥事発生前後の歴史的背景および法の変遷」を確認し、第2節では「大和川病院事件について」詳細に提示する。第3節では「大和川病院における入院医療の実態と問題点」の検討を行ない、第4節では「劣悪な医療体制温存の背景」を分析する。第5節では、以上の事実関係の確認を踏まえて大和川病院の実態から見えてくる精神医療の問題点を「考察」する。
 
 1 精神病院における不祥事発生前後の歴史的背景および法の変遷

 1950年、「医療・保護・予防を含めた総合的な精神衛生行政の前進」(注8)を目的に「精神衛生法」が制定された。この法律により、これまでの私宅監置制度がようやく廃止され、都道府県に精神病院の設置が義務付けられた。しかし、公立病院の建設は進まず、1960年、国は、民間の精神病院増設に対する国庫補助を実施、民間精神病院が大幅に増加した。たとえば、1965年に17万床であった精神病床は1970年には20万床、1980年には30万床、1985年には33万床へと急増している。
 また、1964年、「ライシャワー米大使刺傷事件」(注9)の発生を契機として再び精神障害者に対する取り締まりが強化され病院収容が進んだ。そのため、措置入院を中心とした隔離収容に対して一部の医療関係者や精神障害者家族会等の批判的意見もあったが、1965年精神衛生法の一部改正が行われた(注10)。しかし、申請・通報制度の拡大強化と緊急措置入院制度の新設など社会防衛的な面が維持強化され、生活指導や開放的処遇が病院で実施されることは少なかった。さらに、1960年前後から導入された抗精神薬は精神医療に大きな効果があったが、他方で薬漬けといわれる問題を併発していた。
 1967年には、WHOの依頼で、D・Hクラークによる精神医療の実態調査が行なわれ、1968年日本政府にいわゆる「クラーク勧告」(注11)が提出された。にもかかわらず入院環境は依然として改善されなかった。しかし、この頃より、患者の人権を重要視する立場からさまざまな活動が起こりはじめ、1970年代からは当事者を中心とする活動も全国的に広がっていった。そのような中で、民間精神病院の内実が世間にも知られるようになった(注12)。
 とりわけ、1970年には、朝日新聞大熊記者が“偽アルコール患者”として精神病院に入院し、その体験を記した『ルポ精神病棟』(注13)の衝撃的な記述により、入院医療の恐るべき実態が暴露された。
 他方、心ある医師による「精神病院開放化」が各地で点として存在したが(注14)、全体的な精神病院の仕組みは依然として本質的に変わることはなかった。そして、1979年には大和川病院事件が、1984年には驚愕の宇都宮病院事件が露呈したのである。
 宇都宮病院事件を契機に、またもや日本の精神医療は世界から問題視され、1985年、ICJ(国際法律家委員会)とICHP(国際保健専門職委員会)の合同調査が行なわれた(注15)。結果、国連小委員会や国際人権連盟から、入院中心の日本の精神医療に対する非難勧告が出された(注16)。しかし、日本政府は「虐待事件のケースは極めて例外的なもの」とする見解を示し(注17)、現行の精神衛生法が人権に関する国際諸条約に違反していないと主張しながらも、人権擁護をさらに推進するという観点から、精神衛生法の改正に着手することを約束したのである(注18)。そして1986年、公衆衛生審議会に諮問委員会が作られ、精神衛生法改正に関する審議を経て、1987年精神衛生法は改正され「精神保健法」となる。精神保健法では、入院患者の人権擁護の強化と社会復帰施設の制度化などが盛り込まれた。
 ところが1990年、開放医療に向けて努力していた守山荘病院で、措置入院している患者が許可により外出した際、元国会議員を襲うという事件が発生した。この事件後、当時の厚生省は精神障害者の隔離開放についてのチェック体制を強化する通達を発した(日本社会臨床学会 2008: 107)。そのため、地域医療など開放医療に向かって努力していた精神病院は再び閉鎖処遇へと逆戻りした。
 一方で、心身障害者対策基本法を改正した「障害者基本法」が1993年に制定され、はじめて精神障害者も明確に福祉の対象として位置付けられ、1994年7月には「地域保健法」が成立し、地域精神保健の必要性が拡充されることになった。
 しかし、1993年、3度目の大和川病院事件の発生および越川記念病院事件(違法入院・入院患者の不審死)・湊川病院事件(暴行傷害)が公表された。こうした状況を踏まえ1995年5月、精神保健法は「精神保健福祉および精神障害者福祉に関する法律」(注19)(精神保健福祉法)へと改正された。ところが 1996年長野県の栗田病院において大和川病院と同様の劣悪な入院医療の実態が露呈し(注20)、精神科入院医療の実態が問題となった。
 このような中で、1997年10月、精神障害者の社会復帰支援の相談援助などさまざまな支援を行なう国家資格者としての「精神保健福祉士法」が制定され、精神障害者に対する福祉的ケアが重要視される体制も整いつつあった。
 にもかかわらず、精神病院における不祥事はあとを絶たず、1998年には国立療養所犀潟病院事件、2000年朝倉病院事件(注21)、2001年箕面ヶ丘病院などが表面化している。
 さらに、2001年6月8日発生した「池田小学校児童刺殺事件」(注22)は、社会に大きな衝撃をもたらし、触法精神障害者の処遇のあり方が政治問題となった。この池田小学校事件が契機となって、2003年「心神喪失者等医療観察法」が成立し、2005年から触法精神障害者に対する処遇として、新たな専門治療施設への強制収容が実施されることになった。
 以上、事件が起こるたびに法が改正され、処遇内容が変遷した経緯について述べた。以下では、大和川病院事件に焦点を当て、その詳細を詳らかにする。

 2 大和川病院事件について
 
 2-1 大和川病院とは
 大和川病院は、大阪府柏原市高井田の大和川沿いにあり、JR関西本線高井田駅より歩いて10分の距離に所在した。大和川病院の前身は、旧安田病院(神経科・精神科)で、安田基隆が1963年3月に設立し、1969年12月に大和川病院と改称する(注23)。東住吉区にある大阪円成病院(1956年設立、内科337床うち老人213床)と共に医療法人北錦会の経営である。1982年には、個人経営の安田病院(内科250床のうち老人130床)を設立。いずれも、実質的オーナーである安田基隆(注24)が三病院の経営に君臨し、患者は近畿一円から収容されていた(里見 1999: 79; 渡辺 2006: 19)。
 しかし、大和川病院は、知事の権限で患者を入院させる措置入院ができる指定病院ではない。したがって、入院は本人希望による任意入院や保護者の同意があれば入院できる医療保護入院に限られる。ところが実際は、警察署に保護された患者を医師の診察なしで強制的に病院の車に乗せ搬送したり、搬送中も医師の診察なしで拘束を行なったり、病院到着後は保護室に隔離するなどの違法な搬送・入院処置が日常茶飯事に行なわれていた(読売新聞朝刊 1997.6.23)。
 また、入院後の生活に関しても、不適切な医療環境が露呈している。すなわち患者に対する通信や面会の制限、職員による患者への暴行、のみならず調理係として低賃金で患者を使役に使うことによって人件費を浮かせたり、看護職員の水増しによる診療報酬の不正請求をするなどの法令違反も摘発されている(産経新聞朝刊 1997.7.21)(注25)。
 さらに、大和川病院に対する訴訟事件として、1993年の事件に対する家族からの損害賠償請求訴訟がある。この事件では、事件後患者が搬入された八尾病院院長が病状に不審を感じ警察通報したことで事件が明るみにでたのであるが、森院長の発言は事実無根であり名誉毀損にあたるとして、大和川病院側が森八尾病院院長に対し損害賠償訴訟を起こした。これに対し、森院長は不当訴訟であるとして反訴訟を提起し、結果、大和川病院側が敗訴している。また、看護婦の労働条件や看護婦免許証の返還等の訴訟などが問題となっている (大槻 2006: 45-51)。
 一方で、安田個人は高額納税者(1995年住吉税務署管内で2位)の常連で、北錦会の申告所得も常に近畿の医療法人の上位にランクされる存在であった。1966年から6年間住吉区医師会長をつとめ、大阪府医師会の理事でもあり、一時期診療報酬明細書を審査する大阪府社会保険報酬支払い基金の審査委員や納税協会副会長などを歴任し地元の名士として有名であった。また、がん撲滅を目的に資財30億円を投じて「安田記念財団」を設立している(注26)(読売新聞1997。7.29)。財団のパンフレットには、「正当な利益は得よ、ただし社会に還元せよ」と立派な信条が記されている(日本経済新聞朝刊 1997.7.29)。「この財団の理事には、大学医学部教授、府会議員12人が名をつらね、顧問には衆議院議員4人の名があり、評議員24人には東大、慶応大、神戸大などの医学部教授と共に日精協会長河崎茂氏の名もあった」(『精神医療』編集委員会 1998: 78)。

 2-2 大和川病院事件の概略
 1969年8月19日の毎日新聞夕刊報道によると、最初の事件の経緯は以下の通りである。

このリンチ事件は3月22日午前6時頃起こったもので、同病院に統合失調症で入院中の患者(32歳)が本館屋上から逃げようとしてロープを手繰っているところを夜勤職員に見つかった。Aさんは、別館1階ロビーに連れ込まれ、3人の看護人に殴る蹴るの暴行を受けた。3人は“こらえてくれ”と土下座して謝罪する患者に“逃げたいのなら走れ、なんぼでも走らせてやる”とロビーを数十分ぐるぐる走らせ、これを見つけた看護婦〔2002年3月から看護師に改称された〕の忠告も聞かず制裁を続行した。このためAさんは昏倒して同9時頃容態が急変、手当てを加えたが死んだ。死亡診断書は舳松院長が書き「死亡時刻10時20分、死因急性心不全症」として処理した。この後病院側はAさんの衣服を新しいゆかたに取り替え、遺族を立ち合わせずに納棺、フタだけを家族にクギ付けさせた。しかし遺族がのぞき窓から見たとき、左手に切り傷や打撲傷があったので不審を抱き、職員や患者の間でもリンチ事件が噂になり柏原署に投書や訴えが相次ぎ事件が明るみに出た。(毎日新聞夕刊 1969.8.19; 〔 〕による補足は引用者)

 さらに、同報道には、「府への届出病床は420床であるにもかかわらず550人が入院、あふれた患者は畳部屋にぎっしり押し込まれ、看護人は約80人いるが半数が無資格者」という劣悪な入院環境が記されている。そして、「精神病院の乱脈ぶりとこれに対する監督官庁の指導監督のありかたが問題」との見解も記されている。また、安田会長(当時49歳)は談話の中で、「患者を捕まえようとしてケガをさせたのは事実であるが直接の死因は院長の診断通り急性心不全で、殴ったりリンチを加えたため死んだのではない。今度の事件は退職した元職員が私に恨みを持って警察に投稿したものだ」(毎日新聞夕刊1969.8.19)という説明で事件性を否定している。
 事件後は医療法人北錦会大和川病院と改称し、院長も交代したが、患者不在の経営は改善されず存続した。なお、事件を起こした3人の看護人は傷害致死罪で逮捕され、大阪地裁で懲役3年の実刑判決をうけている。
 第二の事件については1980年1月16日の毎日新聞夕刊で報道された。報道によると事件は1979 年8月1日に発生した。その内容は以下の通りである。

薬を取りに来る時間になっても自室の布団の中で寝ていた統合失調症の入院患者(当時49歳)に対して“布団の中で煙草を吸っていただろう、寝タバコは規則違反だ、起きろ”と3名の看護助手(20歳・18歳・17歳)が当該患者をたたき起こして交代で腹部や胸を蹴るなどの暴行を加えた。“堪忍してくれ”と謝罪しても暴行を中止せず、患者が倒れるとその上からさらに蹴りつけるなどの暴行を2時間にわたって行った。翌2日も同じような暴行が繰り返され、3日朝から容態が急変し4日午前1時頃死亡したというものである。院長(是成太一51歳)は持病の肝機能障害が悪化したと判断、「死因、急性心不全」とする診断書を書き警察には届けず病死扱いで処理した。危篤の知らせで病院に駆けつけた姉は、病院側から“急に容態が悪化した、安らかに眠られました”と告げられたため、病院側の診断に不審を抱かず、4日朝遺体を引き取り5日火葬後埋葬したという。しかし、隣の病室に入院していたアルコール中毒患者6人がその日の暴行を目撃しており、そのうちの一人が退院後、患者が撲殺された事実を警察に告発したことで取調べが開始された。警察の調査の結果は、暴行による内臓破裂が原因で死亡したとの見解が出されている。(毎日新聞夕刊 1980.1.16)

 また、1980年2月20日の毎日新聞報道によれば、「警察に通報した元入院患者は、入院中にも、病院側の眼を怖れて先に退院していく患者の下着に手紙を縫いこみ院外にもち出してもらうという非常手段を使って、入院中の暴行事実を手紙に書き、知り合いの保健所職員に届けたが、『大和川病院には知事の措置入院の患者を引き受けてもらわなければならないとの理由で握りつぶされた』という。さらに、同報道は、『三人の看護人は看護士の資格はなく、蹴っ飛ばしたのはショック療法だという供述をしている。また入院患者の証言でも日常接触している看護人はちょっとした規則違反でも暴力的な制裁を加え、“お前ら医者がええと言ってもわしらがOKしなければ退院できへんぞ”と日常恫喝していた事実も判明した』」と報じている。なお、告発を無視した監督官庁である大阪府の職務怠慢を指摘し、行政側の責任にも言及している(毎日新聞朝刊 1980.2.20)。
 また、同年3月14日の毎日新聞には、遺族・病院職員の証言として、てんかんで入院していた患者(27歳)の不審死が次のように報じられている。

1月26日暴行を受け意識不明になった当該患者が2日後には一時意識回復したが起き上がることはできず、危篤の知らせで駆けつけた父親に見取られながら31日午前4時47分死亡した。病院側はてんかんの発作で意識不明になったと説明し、当直医師(是成太一院長)は「くも膜下出血」の死亡診断書を発行した。しかし、父親は看病中、後頭部にこぶし大のコブ状のものが二つあり右目の上に内出血の跡を見つけ暴行されたのではと思い看護人らに問いただしたが納得の行く説明は得られず、院長は、毎日新聞記者の取材に対しても「目のふちの傷には気づいたが死因とは関係ないと思った。後頭部の異常には気づかなかった。死亡時、特に問題はないと思い警察には届けなかった」といい暴行を否定している。しかし、看護師は「打撲による出血ではないかと思った。目の上に何かで打ったような傷があり、患者は息を引き取るまでウーウーと苦しそうに呻き声を上げていた」、また看護人の男性二人も「後頭部が柔らかくなっていた」事実を認めた。これについて、大阪府衛生部は「暴行などの有無とは別に、医師法で死因に少しでも疑問がある場合は、24時間以内に警察に届けることになっており、問題が残ると指摘している」(毎日新聞朝刊1980.3.14)。

 第三の事件が報道されたのは、1993年2月22日である。朝日新聞夕刊によると、

統合失調症(当時精神分裂症)で大和川病院(川井謙一院長)に2月2日入院した患者(57歳)が15日の夜、意識不明の重体に陥り、八尾市内の病院に救急車で搬送された。搬送時大和川病院は、「3日ほど前から熱が出て肺炎の疑い」と説明したとされるが、救急隊員及び搬送先の病院長は、皮下出血や骨折、異常な脱水症状などがあることに不審を抱いた。診察した八尾病院長は、「患者は肺炎のほかに上半身打撲による肺挫傷・肋骨4本骨折・頭蓋骨亀裂骨折・高張性脱水(水分が失われ血液が濃縮される)から腎機能も低下、まったく動けず呼吸不全になっていた。暴行により生じたと推定される症状および重度の脱水(砂漠を何日もさまよっていたような脱水症状がみられた)で意識がもうろうとしたまま水を与えられず放っておかれたとしか考えられない」と判断し警察に通報、警察が傷害致死事件として捜査を開始したことから事件が明るみに出た。警察の調査で、3日(入院の翌日)病棟内で別の入院患者から暴行を受けていた事実が判明する。しかし、大和川病院の川井院長は「3日、他患とのトラブルはあった。ただ15日病院を出たときには骨折や肺挫傷はなかった。病院を出てから起きたのではないか。入院している間毎日点滴をしており、脱水症状など起きるはずはない」(朝日新聞夕刊 1993.2.22)。

 なお、患者は、21日午後9時半頃、搬送先の病院でDIC(播種性血管内凝固)により死亡したが、遺族は「入院前は健康そのものであり、病院内で暴行を受けたうえ、治療もせずに放置されたことが死因」として、大阪地裁に訴えを起こした(朝日新聞朝刊1993.5.13)。それに対して、大和川病院事務長は、「訴えられた理由がわからない。患者が病院を出るとき骨折や肺挫傷などのケガはなく病死としか考えられない」とコメントしている。これに関しては、結果的に、1998年3月26日の判決で、大和川病院側の提訴は著しく正当性を欠くものと裁判所が判断、敗訴が確定している。
 その他にも、抗精神薬多剤投与により高度の便秘状態の患者に何の処置もせず放置、そのため腸閉塞(イレウス)を併発し、入院後5日目に死亡した事件などがある(朝日新聞夕刊 1993.5.22)。
 そして、患者虐待事件以外にも、看護職員の水増しによる不正診療報酬請求や医師・看護職員数の虚偽報告・暖房設備やナースコールの不備、不当な隔離拘束・退院制限・精神保健指定医の不在、生活保護受給者に自治体が支給する日用品代の搾取(注27)や賃金の未払い・不当な罰金天引き・退職した看護婦の免許証を返還しないなどの法令違反が公表されている(朝日新聞朝刊 1997.5.20)。
 このように、大和川病院事件による、精神障害者の人権侵害や不正な医療行為は世間の注目を集め、「精神保健福祉法」の改正につながったといわれている。次節では、大和川病院における入院および入院後の処遇について述べる。

 3 大和川病院における入院医療の実態と問題点

 大和川病院の入院経路について、「1993年当時、大和川病院の病床数は524名であったが、それに対し常時500人前後の患者が入院していた。しかし、その患者の大部分が警察・福祉ルートの入院患者であり」(里見1999: 79)、ここから大和川病院における入院には行政が大きく関係していたことが見て取れる。大阪府が1997年3月以降入院した患者87人に聞き取りした結果でも、大阪・京都・兵庫・奈良・和歌山の警察署経由による入院患者がほぼ半数の41人で、そのほとんどが診察なしで連行されている。またその内20人は、搬送時から拘束具で縛られたという。しかも、このうち10人は書類上本人の同意による「任意入院」だったにもかかわらず暴力的で強制的な入院が行なわれている(読売新聞朝刊 1997.6.23)。また、大和川病院には常勤の指定医がいないため、とりあえず患者を任意入院させ、その後、閉鎖病棟や保護室に入れるなどの不法な入院を行なっていたことも判明している(里見1999: 77-80)。さらに、薬を飲まなかったり、吐き出したりする患者は保護室に入れられるなど、懲罰的な保護室使用が常態化していたことも明らかになった(精神神経学会 1981: 463)。
 大熊一夫は、病院での日常生活について、以下のように記している。
  
この病院の患者の生活は、30分きざみのこまかな規則でしばられていた(中略)。病院の会長が軍医出身ということで、院内生活は全てが軍隊式だった、朝夕の点呼は、全院終わるまで正座して待たなければならない。個人の名は呼ばれず、囚人のように番号が使われる。重症患者の失禁の世話は軽症患者がみる。日記はだめ。外からの手紙は検閲。面会は看護人が立会い。新聞は厳禁。 「くすり漬け」もひどかった。(中略)殴る蹴るは日常茶飯事(中略)、看護人たちは「お前は不定期刑だ。俺らの上申で、どないでもなるんや」といって、患者たちを震えあがらせた。(大熊 1981: 99-101)。

 精神神経学会の聞き取り調査でも、患者が面接室に入って来た時「○○番です」と答え、患者が日常番号で呼ばれていたたことに衝撃を受けたとある(精神神経学会 1981: 463)。
 医療実態については、主治医の診察の記録が数ヶ月に一度というものや、記録はあっても内容が極めて乏しく入院時現症の記録がない。さらに、他科診察など全くなく、心臓が悪いといわれているけれど10年間一度も診てもらわず、聴診器も当ててもらったことがないという杜撰さで、看護記録も数ヶ月にわたって何の記載もないカルテや、記載はあっても一行〜数行で内容に乏しいものがほとんどであったと報告されている(精神神経学会1981: 459-466)。また、看護職員は、20歳前後の男子無資格者と65歳以上89歳までの高齢の看護婦、常勤医師も他病院を定年退職した人など、常にスタッフ不足であり、精神保健福祉士や作業療法士などは皆無であった(山本 2001: 49; 精神神経学会 1981: 460)。
 大和川病院を調査した精神神経学会は、「全病棟が閉鎖病棟であり、拘禁度が非常に強く、いわば刑務所的な管理体制が敷かれていた」と報告している。(精神神経学会 1981: 466)。
 こうした旧態依然とした入院環境の中で医療とはいえない医療が行なわれていた。

 4 劣悪な医療体制温存の背景

 では、このような劣悪な入院医療に対して、行政は如何に対応したのであろうか。大和川病院事件に対する行政の対応について以下述べる。

 4-1 行政の対応
 まず、定期監査であるが、これまで大阪府衛生部は府下の全病院対象に年一回の定期監査を実施している。しかし監査は、形式的なもので問題があったとしても書類上の改善勧告で済ませることが慣例のように行なわれていた。
 たとえば、1969年12月に実施された大和川病院に対する監査では、ベッド数420に対し入院患者は400人で一応規定内であった。しかし、実際は一階から三階までに患者を詰め込んで四階の病室は使われていなかったこと、医療法上必要な医師数15人に対して非常勤医師7人を含めても12人の医師しか存在せず、看護人は79人のうち半数近い37人が無資格者であった。また、社会復帰の訓練など一切なく、保護室の乱用など、収容しっぱなしの状態が確認され、精神病院として多くの問題があると指摘しながら改善勧告だけで済ませていた(毎日新聞朝刊 1980.1.16)。「言い方は悪いが医療監視はあって無きに等しい」(月岡 2004: 237)ものであったといえる。
 第二の事件後における大阪府の監査では、「医療内容(同一処方や過剰処方・不法入院)や病院管理(全病棟カギをかけた閉鎖管理)、人員数(383のベッドが満床なのに常勤医師が院長を含めて2人・看護人69人のうち49人が無資格者)など全てに問題が多い」として、6人の鑑定医を派遣して入院患者を直接診察する異例の措置を行なっている。その結果、事件が起きた病棟の入院患者29人のうち6人は「入院不要」と判定され知事名で退院命令を発し、残りの数人も「現時点では入院の必要があるかどうかは疑問」として他病院に移して経過観察することになった。また、「他の病棟でも入院不要の患者がいる」とみて入院不要の患者は退院させるように指示している。このことに関して、京大助教授(当時)の高木隆郎は「鑑定された患者の20%が入院不要なのに入院させられているということは、病院に人権感覚がなく患者を人間として扱わず、金儲けの対象としか見ていないことを物語っている。大阪府は29人にとどまらず全患者を鑑定すべきではないか」(朝日新聞朝刊1980.4.10)というコメントを出している。 
 そして第三の事件発覚後の1993年4月9日、大阪府は「精神保健法」による病院指導を実施し、ついに7月2日立ち入り調査に踏み込んだ。
 以下、大阪精神医療人権センター資料(1997)から、1993年7月に行われた大阪府の立ち入り検査報告のうち顕著なものを以下、提示する。この調査は1993年6月中の入院患者数29名のうち28名分についてカルテチェックを実施した内容である。
 ①新規入院患者28名中、13名が時間外入院で、医療保護入院10名は同一医師が診察、任意入院16名のうち1名は医師不在で入院している。②入院時の書面告知があったのは5名のみ。③入院時保護室使用が23名もいる。④入院経路としては、警察が16名で半数以上を占め、入院経路不明が5名もある。⑤その他として、入院告知書面の不備や保護室の不適切使用、電話の使用制限、信書および面会や外出の制限、入浴時間が短い、混雑する、汚いなどの意見があった。食事に関しては、夕食が15時30分で異常に早いことや厨房手伝いが常態化していることが判明した。
 この調査結果を 8月12日厚生省に報告し、対策として、指定医の診察によらない医療保護入院及び医師の診察によらない入院の禁止、入院時および退院等に関して定める事項を書面で知らせること、任意入院の場合書面による告知の上本人の同意書を取ること、隔離や身体拘束に関して法の定める行動の制限を遵守すること、電話・信書・面会に関する不適切な制限を解除すること、任意入院に関してはできる限り開放処遇に努めること等の指導を行なった旨、報告している。
 これに対して厚生省は9月20日さらに「文書による改善計画を提出させること、期限を定めて計画の進捗状態を調査の上報告せよ、精神医療審査会は当該病院の入院者に対する審査については特に厳重にせよ」という具体的な指示を出している。これに基づいて大阪府は 9月29日大和川病院に改善計画の提出を命令し、12月2日病院側は改善計画書を府に提出した。そしてこれらの経過は12月13日厚生省に報告された(大阪精神医療人権センター 1997: 19-20)。
 1994年2月16日、大阪府は大和川病院に対して再調査を実施した。その結果、改善が不十分と告知し「今後、改善が見られない場合は法に基づく改善命令、指導状況の公表も考慮する」と迫った。それを受けて10月5日病院側は改善報告書を提出したが、その内容は大阪府の調査方法を批判するものであった(注28)。そこで大阪府は報告書の再提出を要請するも病院側が拒否したため、改めて調査指導を実施することになったという経緯がある(産経新聞朝刊 1997.3.23)。

 4-2 制度上の不備
 前述の行政の対応でも指摘したように、精神医療における制度上の不備については、次の二点に大別される。
 第一は、医療監査の不備である。監査は長年、書類上のチェックが大部分で、事前通告が慣例であるため偽装工作が容易であった。大和川病院でも、職員らは以前から「調査のたびに偽装工作をさせられた」と証言し、役所の人は見て見ないふりをしていたと指摘するほど手ぬるいものであった。具体的には、働いていない人の名前を加えた偽の出勤簿や賃金台帳などを準備して、調査当日系列の別病院から看護師を派遣したり、無資格のヘルパーや事務職員に看護師の格好をさせていたことが判明した(読売新聞夕刊 1997.3.10)。
 虚偽報告を見過ごしてきた事については、見逃していたことを認め、「保健所に任せていたので」とか、「あまりきつくすると協力が得にくくなり今後に支障を生じる」からと医療対策課長が釈明(読売新聞夕刊1997.3.19)、診療報酬の不正請求を監査する社会保険管理課も「よほどの情報がない限り、書類のチェックしかできない」と弁明している(読売新聞朝刊 1997.5.20)。また、府の精神保健室が1993年の4月と7月に精神保健福祉法による立ち入り調査を実施した際、不正を掴んでいたにもかかわらず、所管外の部署によるものだったため裏づけ調査は実施されず、その後も見過ごされたという(産経新聞夕刊1997.3.22)。しかし、予告なしの立ち入り調査の必要性についての質問には、「提出書類がそろわず問題解決にならない」(朝日新聞朝刊1997.5.20)という見解を示し、この期に及んでも、予告なしの立ち入り調査の必要性を容認しなかった。
 第二は、移送に関する問題と保護室使用の問題がある。入院時は、医師の診察が必要であり、任意入院の場合は開放処遇が原則である。しかし、「大和川病院は複数の救急車を持ち、警察や保健所からの連絡があれば一晩に何台も出動することがあり、暴力的に入院させられた」という患者が数人いた。たとえば、「(家にいた)私は、ここの人が迎えに来てね、バッバッと殴られたり、蹴ったりして、両手しばられて、足くくられてきました(中略)、入院時の医師の診察もなく、ほとんど全員が入院後三日間は保護室に必ず入れられた」、また「入院するときには警察からきた看護人だけでした。保護室に入る前に医者みたいな人と2〜3分しゃべっただけで、すっといれられた」(精神神経学会 1981: 463)ことが調査により判明している。つまり、「大和川病院には常勤の指定医がいないため、入院に際して、とりあえず患者を任意入院させ、その後閉鎖病棟や保護室に入れる不法入院を行っていた」(里見 1997: 77-80)。
 このような違法行為の背景として、大和川病院は、他の病院が受け入れない患者でも受け入れてくれるという実態があり、行政にとって非常に重宝な病院として存在し、結果的に甘い監視が行なわれたという見方ができる。

 4-3 政官業のもたれあい
 大和川病院と政官業の癒着について、当時の厚生省(小林秀資保健医療局長)や大阪府の幹部(浜之上友三朗環境保健部次長)との関係が取りざたされている。報道によれば、安田記念医学財団はがん研究助成などを通じ厚生官僚との人脈を築き、顧問や理事には代議士や府議らが名前を連ねていた。このことが行政に対する無言の圧力になった可能性もあるという(朝日新聞朝刊1997.7.18; 読売新聞夕刊7.28)。たとえば1992年、財団が厚生省認可に格上げしたとき、安田財団の常任理事ポストに厚生省OBを斡旋・財団東京事務所の事務局長も二人続けて同省OBの天下りを受け入れている。また、1995年9月と1996年3月の厚生省職員の海外出張費用も負担している(読売新聞朝刊1997.4.5)。さらに、1996年12月の定例監査の数日前安田理事長は、小林局長に電話し調査の延期依頼をしている。局長は、医療監視を担当する同省健康政策局指導課や大阪府環境保健部の幹部に「安田理事長が困っている。延期できないか」と打診、延期は無理と聞きその旨電話で伝えたという(朝日新聞朝刊1997.3.24)。安田は常々「厚生省局長と電話で話せる関係」を自慢しており、診療報酬の不正受給の疑惑が浮上してからも「財団には役所と、患者を送り込んでいた警察、それに厚生省が付いている。この三つがついている以上、うちがつぶれることはない」と職員に人脈を誇示していた(注29)(日本経済新聞朝刊 1997.7.29)。
 一方、大阪府の医療行政の幹部であり、安田記念財団の法人設立認可を担当した浜之上次長(収賄容疑で1997年9月18日逮捕)は、診療報酬不正事件摘発時に、「どういう指導をするのか」と再三担当課に問い合わせるなど不自然な介入をしている。病院の指導内容に次長が介在することは異例で、しかも府内の49精神病院でこうし対応は大和川病院だけであったことが後日判明している(毎日新聞夕刊 1997.9.20)。

 4-4 事件の顛末
 1997年3月19日、厚生省・大阪府・大阪市が、大和川病院系列三病院に同時一斉立ち入り調査を開始した(注30)。実施後、患者20人の退院申請があり大阪府精神医療審議会も立ち入り調査を開始、同年8月5日には入院患者全員の転退院にこぎつけた。
 労働基準監督署・警察・検察の捜査の結果では、ここ2年半で少なくとも24億円強の診療報酬の不正受給があり、1997年9月までの診療報酬不正受給は約5億9千万円であることが判明する。安田他3名は、診療報酬不正受給及び詐欺罪等で起訴され、1998年4月、安田に懲役3年の実刑判決が下されている(里見 2003: 868-871)。
 大阪精神医療人権センターによると、大和川病院における入院患者の不審死事件は1992年2月から1997年2月の間だけでも26件が明らかになっており、大阪府がこの実態を把握していなかった背景として、①「病院報告」には在院患者数や入退院数の記載は必要だが死亡数や死因を書く欄はない、②府は精神病院に限り、患者の事故死や自殺などは「事故届」を出すよう指導しているが法的強制力がない。③病院は警察に届けたケースさえ府には報告していないなどの不備を指摘している。
 1997年10月、ようやく、大和川病院は開設許可を取り消され廃院に至った。

 5 考察

 以上から、大和川病院における入院患者に対する不祥事件の背景としては、第一に法の不備の問題、第二に医師のモラルをはじめとする精神医療の問題、第三に行政とのかかわりの問題が指摘できる。しかしこれらは、大和川病院に限らず、宇都宮病院をはじめ不祥事を起こした精神病院に共通する問題でもあった。
 第一の法の不備の問題として、精神衛生法における入院についていえば、本人の意思は忖度されない措置入院や同意入院による強制入院が可能であり、保安上の機能が強く働いている(注31)。例えば、措置入院の場合は2名の鑑定医の診断一致が前提としてあるが、利害関係のある入院先病院の医師の鑑定が可であり安易に病院収容を可能としている現実があった(注32)。大和川病院でも強制的入院が日常化していたことは既に述べた。そして、「治療なき拘禁」が当然視される背景には、精神衛生法第38条の「行動制限」の規定が問題となる。その規定によれば、「精神病院の管理者は、入院中の者につき、その医療又は保護に欠くことのできない限度において、その行動について、必要な制限を行なうことができる」とある。しかし、「必要な制限」を実施するには医師の指示がなければばらない。ところが、医師の診察自体がないばかりか、看護人などによって、懲罰的に行動制限が用いられることも可能であることは既に不祥事件において実証されている。ただし、第37条に「都道府県知事は、必要があると認めるときは、(中略)精神病院管理者に対し、退院させることを命ずることができる」というフォロー規定がある(注33)。だが、大和川病院では、面会や電話、信書の自由はなく、退院患者が行政に訴えても握りつぶされた経緯があり、都道府県知事に届く術はない。つまり、第37条はあってないに等しいといえる。
 一方家族に対しては、精神衛生法第22条で、①保護義務者として治療を受けさせ、自傷他害行為の防止を監督する義務、②診断が正しく行われるよう医師に協力する義務、③医療を受けさせるに当たっては、医師の指示に従わなければならない義務によって、過剰な責任が負わされた。したがって、家族は社会的批判から免れるために強制入院にある意味加担していたといえ、そのため入院後は医師の治療に対して文句が言えないという事態が生じていた。
 第二の医師のモラルをはじめとする精神科医療に関する問題については、精神科医療全般に関係するものとして、一般病院に比べて医師数や看護師数の基準が低く規定された精神科特例の存在がある。一般病院は患者16人に対して医師1人看護師は患者3人に1人であるが、精神病院は患者48人に医師1人・看護師は患者6人に対して1人(現在は4人に1人)という基準があった。しかし、精神病院不祥事件で明らかになったように、大和川病院においてはこの最低限の基準さえも守られていなかった。ちなみに、 1993年当時の大和川病院の常勤医師は実質的には2、3名しかおらずそのうちA医師と前院長は産婦人科、現院長は内科医で、いずれも精神保健福祉法上の指定医の資格を有しておらず、看護職員は合計30名程度しかいなかったことが2002年10月31日に開催された第150国会衆院厚生委員会議事録に記されている。また、病院経営面から見ると精神医療の診療報酬が一般医療に比べ、低く抑えられているという現実がある。したがって、人件費や設備費を削減、看護職員を水増しして看護料を稼ぐという手法が横行した(注34)(産経新聞朝刊1997.7.31)。
 また、大和川病院では、「患者を看護人補佐に指名し、配膳・投薬・検温などの看護業務をやらせ、特権的な位置を与えることで他の患者の抑圧に利用した。患者たちは退院したい一心で何でもかって出、病院はその心理を利用して無料や低賃金で労働に借り出し、得た賃金まで搾取した」(大熊1981: 100-104)ことなど患者の使役労働が常態化していた。同様の指摘は、戸塚・広田(1984: 29-35)にも見られる。ここでは、看護人補佐となった彼らもまた患者の逃走などが見つかると罰則を受けるので、他の患者に厳しくあたらざるを得なかったという事実もある(大熊 1981: 102-104)。
 第三の行政とのかかわりについては、既に述べたように、大和川病院事件は1997年新聞紙上で公となる前から内外の告発が続いていたにもかかわらず行政はなかなか動かなかったという経緯がある。その背景として、大和川病院は、宇都宮病院や栗田病院と同じく行き場のない精神障害者を収容してくれる、行政にとって都合のよい病院であったことにほかならない。「一説によれば、政権党の有力な政治家の圧力が大阪府を縛り、政治が病院をガードしていた」(藤沢 1998: 271-272)という指摘もある。また、4-2で示した記者会見の様子からは縦割り行政の弊害が浮き彫りになった。
 以上述べたように、精神衛生法時代の処遇環境が、精神衛生法から精神保健法さらに精神保健福祉法に改正されても、大和川病院においてはなんら改善されることなく、行政も見て見ぬふりを装い、旧態依然とした劣悪な入院環境が持続したのである。

 おわりに

 本稿では“大和川病院における劣悪な医療環境がなぜ長期間温存されたのか”について検討した。その結果、現場の医師及び経営者のモラルの低下や関係官庁との癒着、法律の不備、行政指導の不徹底、医療関係者の人員不足などが要因であることが明らかとなった。
 しかし、その根底には、精神障害者に対する差別や偏見があり、それが入院医療の中で凝縮して現れたともいえる。このことは、「患者は物同然・薬で眠らせよ」(読売新聞朝刊 1997.7.29)という記事にある安田のことばに象徴される。残念ながら、当時の医療者側の自浄作用は緩慢で、身内に甘い体質も浮上した(読売新聞朝刊 1997.8.3; 戸塚・広田 1984: 278-279)。
 大和川病院は結果的に廃院となったが、それについては、劣悪で不正な入院医療を問題視し、医療の改善を求め続けて活動を展開した大阪精神医療センターの役割が大きかった。同時に、社会における人権意識の高まりや精神障害者自身の意識改革も後押しした。したがって次稿では、大和川病院廃院にこぎつけた大阪精神医療センターの活動を中心に、大和川病院崩壊の経緯と精神医療の質の向上に果たした役割について検討する。
 最後に、2006年6月に成立した「精神病院の用語の整理等のための関係法律の一部を改正する法律」によって、「精神病院」は「精神科病院」となったことを付記する。

◆註
(1)1984年3月14日、宇都宮病院(栃木県)において、看護職員の集団リンチによって入院患者が死亡した事件が報道(朝日・毎日・読売)された。院長(石川文之進)は「てんかん発作による心臓死」すなわち2例とも病死として処理したが、このことが参議院予算委員会でも問題となる。調査の結果、職員数の不足(県の立ち入り調査時、患者数から割り出される必要医師数の4分の1で看護者数も必要数の約半分であった)、許可病床920床に対し944人の超過入院、無資格者の医療行為、作業療法に名を借りた強制労働、介護看護料の不正請求、入院患者の人権蹂躙の横行(受信には職員が立会い開封し発信は開封のままケースワーカーに渡す)、東大の医師による患者のモルモット化(たとえば、患者は生存中に標本番号が付けられ、死後その脳は、宇都宮病院の看護助手など無資格者の手によって取り出され、東大・自治医大に提供されていた)。そして、1981年から1984年間で、222名の入院患者の大量死亡の事実が明らかになっている。1985年3月27日、石川院長は、禁固1年、罰金30万円の判決を受ける(石川 1990: 52-64; 戸塚・広田 1984: 12-19; 国際法律会委員会 1996: 30-36; 富田 2000: 190; 安井 1986)。
(2)宇都宮病院事件後、日本の精神病院スキャンダルが国連人権小委員会で討議され、「国際法律家委員会」が日本に調査団を派遣、「結論と勧告」を日本政府に提示。日本政府は1985年8月21日、国連「差別防止と少数者保後の小委員会」において精神衛生法の改正を確約した。結果「精神保健法」に改正されたといわれている(国際法律家委員会 1996)。
(3)1968年12月24日、看護人により患者13人が木刀殴る蹴るの暴行を受け1名死亡。ほかにも不法入院・強制作業労働・不法監禁などが露呈した(大熊 1981: 106-108;戸塚・広田1984: 29-35)。
(4)1969年以来、違法な身体拘束・過量な薬剤投与・強制労働・職員の水増し・死亡者数の多さなど劣悪な医療環境であった。「京都市内にある同じ医療系列法人列下の三つの精神病院が“老人病院化”しており、去年9ヶ月間に合わせて895人もの患者が死亡した(朝日新聞朝刊1974.9.2)。
(5)報道によると「大勢が出入りするディルームの一角に、ひもで繋がれたまま寝起きし、用を足すのもポータブル便器。そんな違法拘束を10年近く受け、昨年(2001年)8月の府の抜き打ち監査で発覚」とあり、不法な身体拘束・画一処方・診療報酬の水増し・強制作業労働などが発覚(読売新聞大阪版夕刊2002.3.4)。箕面ヶ丘病院は2001年2月1日、不正受給を理由に保険医療機関の指定を取り消され、同月5日廃院届けを出した(原2003: 95-98)。
(6)本文中に用いる新聞記事は大阪精神医療人権センター(1997)に多くを委ねている。
(7)「しのだの森ホスピタル」千葉県八千代市の精神科病院で、2008年10月29日午前1時ごろ巡回中の20代の看護師が見つけ、当直医に連絡。40代の男性入院患者が右腕を骨折した状態で見つかり(看護師に折られたと話す・同室の患者も、「痛い、ごめんなさい」という悲鳴や骨折音を聞いたと話す)看護師は「やっていない・既に折れていた」と説明。看護師の関与した疑いがあるとして11月6日医療法に基づき県が立ち入り調査したと報道。当時、看護師とヘルパーが交代で巡回していたがヘルパーは気づかなかったという。また、貝塚市の精神病院「貝塚中央病院(田村善史院長)」で、今年1月入院中の男性患者(当時48歳:アルコール依存の症状があり全身の震えが止まらず会話ができない状態とのことで市立境病院から貝塚病院に運ばれた)を「徘徊する」との理由で医師の指示なく腹部を合成繊維性の拘束帯で固定した。21日未明ベッドからずり落ち拘束帯で腹部を圧迫し意識不明となっているのが見つかり、府立泉州救命救急センターに運ばれたが、同年 3月5日夜転院先で腸管壊死による腹膜炎で死亡(京都新聞朝刊 2008.1.6; 12.4)。
(8)精神衛生法第一条:「精神障害者等の医療及び保護を行い、且つ、その発生の予防に努めることによって、国民の精神的健康の保持及び向上を図る」ことが目的。 
(9)1964年 3月24日昼、アメリカ・ライシャワー駐日大使が大使館本館ロビーで、19歳の分裂症の少年に右股を刺され、大使は虎ノ門病院に緊急入院、少年は現場で逮捕される。前後の経緯については、広田(2004: 66-73)参照。この事件後の4月28日、警察庁は厚生省に対し「治安上これを放置することはできない」として、法改正の申し入れを行っている。その申し入れの第二に収容体制の強化が記されている(山下 1985: 25)。 
(10)①保健所による訪問指導体制の強化②精神衛生センターの設置③通院医療費公費負担制度の新設等で入院外医療は前進した。
(11)1967年〜1968年にかけて来日、日本政府に対して、日本の精神医療の閉鎖性・長期入院者の存在など人権侵害を問題視し、精神医療の根本的改革とその方向性を広範且つ具体的に勧告した。その中には人権侵害を監視し、悪徳病院の取り潰し権限までもつ、「高度の力量のある国家監査制度」設置が必要との提案もあった。しかし勧告は無視され、10年後、クラーク博士は再来日したが、なにも変わっていないことを嘆いたとある(戸塚・広田1984: 36; 藤井・田中 2004: 43-45)。 
(12)1960年〜1980年間に新聞報道された主な事件として、石崎病院事件(1961)、中江病院事件(1962)、栗岡病院事件(1968)、安田病院事件(1969)、山田病院事件・ 十全会病院事件・ 碧水荘病院(1970)、 恩方病院事件・ 中村病院事件(1971)、アヤメ病院事件・ 富士山麓病院事件(1972年)、水口病院事件・ 北全病院事件(1973)、甲田病院事件(1974)、秋田病院事件(1975)などがある。1980年代にも、田中病院事件・ 上毛病院事件・ 菊池病院事件・ 聖十字病院事件・ 岐阜大病院事件(1984)、大多喜病院事件・ 吉沢病院事件・ 紘仁病院事件・ 成木台病院事件(1985)、青葉病院事件・ 根岸病院事件(1986)、大洲病院(1987)などがある。(第二東京弁護士会人権擁護委員会 1987: 35; 山下 1985: 21)。
(13)朝日新聞夕刊(7回連載)のタイトル、①檻(おり)まるで人間捨て場所、悪臭と寒気の中へ患者放置、②私刑、『電パチが怖い』、寝小便にもお仕置き、③搾取、働かされる患者・病人の世話・便所掃除、④絶対者、医師でなく牢番、ただ顔色伺う患者、⑤鎖(くさり)、つらい退院への道、口答え一つで取り消し、⑥選挙異聞、連日宛名書き、候補応援に患者動因、⑦置き去り、何でもピンはね、法規通りでは引き合わぬ(大熊1981: 10-12; 朝日新聞夕刊1970.3.5〜12)。
(14)たとえば、三枚橋病院(群馬県で石川信義院長)、榛原病院(静岡県:中江医師)、浦河赤十字病院(北海道:河村敏明医師)などが有名(石川 1990: 94-124)。 
(15)国際法律家委員会レポート(第1〜3回)については、国際法律家委員会(1996)を参照。1985年には、大喜多病院(千葉県大喜多町)の不法入院や、吉沢病院(東京松田市)などの精神病院における無資格診療などが公表されている(朝日新聞朝刊1985.7.24; 25)。 
(16)当時の中曽根首相に対し、長期間の在院・地域医療及びリハビリテーションの欠如・人権侵害及び不適切な治療・精神病床の3分の2が閉鎖病棟であると指摘し、それらについての改善勧告が出された。また日本の精神衛生法は他の国より著しく遅れていると指摘、改革の断行をせまった(関東弁護士会連合会 2002: 61; 戸塚・広田 1985a: 227-229) 
(17)国際人権連盟声明、国際法律家委員会声明、日本政府代表声明、ダエス報告書(国連差別防止少数者保護小委員会1983年7月)については、戸塚・広田(1985a: 35-37; 1985b: 223-265)を参照。 
(18)ところが、1961年2月に、行政管理庁は精神衛生行政監察に基づき、精神病院に対して特別な指導監督強化の勧告を厚生省に出している。その内容は、許可病床数を超えて収容しているものが多く、指定病院として不適格な病院の存在、医師および従業員の不足が見られるといったものであった。また、建物設備は不十分であり、保護室収容および作業療法実施は不適切であり、医療監査も十分に行なわれていないなどといった勧告を行なっている。しかし医療現場に活かされることなく、さらに事件が起こり、1973年10月、行政管理庁は再び厚生省に対し精神衛生に関する勧告を発した(広田1987: 199-205)。
  宇都宮事件後、内外の圧力に屈して精神衛生法を改正したように見えるが、政府は、医療費の削減や精神医療改革運動の中で、精神障害者を管理監視する体制を精神医療の現状に合わせて強化しようとする意図があり、改正の機会を狙っていたという(長野・一の門 1990: 92-107)。 
(19)その概要は、①精神障害者の自立や社会参加の推進が規定されたこと、②精神障害者福祉手帳の創設、③社会復帰施設として、生活訓練施設・授産施設・福祉ホーム・福祉工場の4施設類型の規定が法律上明記され、④通院リハビリテーション事業も法定化された。
(20)栗田病院事件の全容は、精神神経学会(1999: 1132-1176)に詳しい。
(21)犀潟病院事件(不適切な身体拘束で患者死亡)。そのため1999年精神福祉法一部改正(行政監督機能の強化・行動制限時指定医の許可が必要など)。朝倉病院事件(不適切な拘束・薬剤の大量投与・老人患者の不審死・診療報酬の水増しなど)が発覚。(毎日新聞朝刊 2001.5.29;小林 2004; 87-93)。 
(22)2001年6月8日午前10時15分頃、大阪教育大学付属小学校に37歳の男性が乱入し教諭3人を含む29人が刺傷。児童6人が死亡。翌9日、さらに2人の児童が死亡(朝日新聞朝刊2001.6.8・9)。しかし、後日、犯人は精神病院に通院履歴があったが精神障害者ではないとされ(責任能力あり)、また本人も希望していたため、異例の早さで死刑が執行された。 
(23)大和川病院事件に関する資料などについてはhttp://www.arsvi.com/d/m-s.htm(Last update: 2009.12.29)に掲載。 
(24)安田の人となりを知るものとして、出生(1920年)は台湾で大阪大付属医専を卒業後軍医として中国戦線に従軍し復員後大阪市内で診療所を開設。1971以降府議選に出馬するも落選、医師会長の座をも追われる。75年と79年に府議選出馬するも落選。同年、衆院選に大阪一区から立候補(無所属)、「医療は医師のためにあるのじゃない。今の国の医療行政には問題が多い。国民のための医療を実現したい」と公約するも落選。公職選挙法違反(買収)で執行猶予付きの有罪判決を受けている。(朝日新聞朝刊 1997.4.14; 読売新聞朝刊 1997.7.18; 読売新聞・日本経済新聞朝刊 1997.7.29)。 
(25)閉鎖病棟に公衆電話は1台あるが、普段は詰め所内に隠し自由に使用できない状態にしてあり、またテレホンカードも患者に持たせていなかったなど。大阪府によると、病院が施設内の作業で入院患者を働かせることは1965年代後半から1970年前半にかけて社会復帰のための「作業療法」の名目で広まった。しかし、人権費の切りつめなど病院側の利益を目的にした行為が横行した(産経新聞朝刊 1997.7.21; 7.22)。
(26)1988年府の認可財団として設立され、1992年には厚生省認可となり、がん研究者への助成金や医学生看護学生への奨学金貸与などを行なう。年1回受賞パーティを開催。役員には、国会・地方議員や有力医師を迎えている。名誉欲が強く、政界断念した理由に、「政治家を使う側になるんや」と公言。「朝礼では、厚生省からもらった感謝状を得意げに見せ、地付き合いのある政治家の名前を出し、自慢話ばかり」と職員は言う。財団が病院の隠れみのになり、府の医療監視などへの無言の圧力になったとの指摘もある(読売新聞朝刊 1997.7.29)。 
(27)「医療扶助」による医療費や「生活扶助」による入院には「日用品費」が公費から支給される。受給患者には社会的弱者が多いことから「懇切丁寧な医療」が義務付けられている。 
(28)「一部の患者の言い分のみで判断するのはいかがか」「職員の言葉も信じたいとし、カルテの不記載は記入漏れ」「薬物中毒やアルコール中毒患者の入院が多く、特殊な位置にある病院」とし、「一部の患者の言い分だけを聞き、病院の弁明を聞こうとしない方法は改善していただきたい」(産経新聞朝刊 1997.3.23)と面接調査の際、職員を立ち合わせるよう求める(当時の院長は春日正博)。
(29) 昨年12月府の立ち入り調査前に、厚生省局長や国会議員府議などが担当部局に調査日程の繰り延べを働きかけている。府内の病院関係者は、財団人脈が行政を黙らせたという(読売新聞夕刊 1997.7.28)。  
(30)医療監査は毎年1回施行されていたが、安田系3病院の監査を別々に行なっていたため、看護基準に満たない人員数を操作していた。1996年の監査時安田は、「3病院一斉にという厚生省の指導課の話に、大阪府の医療対策課は一緒にやることはないと蹴ってくれたが府の社会保険管理課がダメやと言って聞かない。それで厚生省の保険医局長の小林秀資に電話すると『何とか監視に入る日を変更できるように話をしてみる』などと返答した」ということが人権センターのインタビューの中に記載されている(http://www.hh.iij4u.or.jp~iwakami/yasuda1.htm 2009.12.30)。 
(31)精神衛生法第29条の措置入院では、「自傷他害のおそれのある者について2名の精神衛生鑑定医の判断が一致した場合、都道府県知事の権限で強制的に入院できる」、第33条の同意入院では「本人の同意がなくても保護義務者の同意があれば入院可」と規定されている。
(32)1973年に福岡県で、収容先の精神病院の鑑定医は診察を行なわないようにと指導したところ措置入院患者は例年の5分の1以上に減少したという。措置入院における鑑定業務の形骸化や馴れ合いの具体的な例については、山下(1985: 87-88)を参照。 
(33)精神衛生法第37条には、「知事の審査」条項が規定され、①「都道府県知事は、必要があると認めるときは第33条(同意入院)・第34条(仮入院)の規定のより入院した者について2人以上の精神衛生鑑定医に診察させ各精神衛生鑑定医の診察の結果が入院を継続する必要があることに一致しない場合には、当該精神病院の管理者に対し、その者を退院させることを命ずることができる」②違反した者は3年以下の懲役・5万円以下の罰金に処する。措置入院についてもほぼ同様の規定が29条の5第2項にある(藤沢1984: 356)。
 なお、以下に、入院の形態について付記する。精神衛生法では、措置入院・同意入院・仮入院(指定医の診断の結果、精神障害者の疑いがあって、その診断に相当の時間を要すると認められる場合、保護義務者の同意があれば本人の同意がなくても、一週間、仮に精神病院に入院させることができる)がある。1965年ライシャワー事件後の改正では「緊急措置入院制度」(第29条2項:急速を要し、正規の手続きを省略して、指定医一人の診察で48時間入院させることができる)が新設された。1987年、精神保健法と改正:「任意入院」(本人の同意で入院)と「応急入院(第33条の4)」(急速を要し自傷他害のおそれはないが、混迷・恐慌・興奮状態、意識障害があり、直ちに入院させる必要がある場合)、保護者や扶養義務者の同意を得られない場合(単身者や身元不明など)、本人の同意がなくても72時間に限り、応急指定病院に入院させられる)が追加された。同意入院は、医療保護入院と改称。現在は措置入院(第29条都道府県知事による措置入院・第29条の2項による緊急措置入院がある)と医療保護入院(第33条)、応急入院(第33条の4)、仮入院(第34条)が規定されている(高柳功・ 山角駿編 2007: 7-29)。
(34)1994年10月の大阪府への届出には、「患者4人に看護婦1人、患者10人に看護補助1人」という新たな看護基準(この場合、患者1人に1日3170円支払われる)を適用しているが実際には必要な看護職員数は存在せず水増して、その差額患者(精神その他3種の病院;7対1未満の場合、1320円の看護料)1人当たり1850円を不正受給した(読売新聞朝刊 1997.7.18)。

◆文献
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関東弁護士委員会 2002『精神障害のある人の人権』明石書店
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精神神経学会 1981「大阪・大和川病院調査報告書」『精神経誌』83(7): 459-466 
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戸塚悦朗・広田伊蘇夫編 1984『精神医療と人権 1 日本収容所列島』亜紀書房 
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