Ⅰ 公開研究企画「ケアと生存の哲学」

2009年12月5日(土)
立命館大学衣笠キャンパス創思館401・402教室

■企画説明
 
堀田義太郎

 この企画は立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点院生プロジェクト「ケア研究会」の活動の一環として催されました。本企画の主旨については、安部さんが事前に掲載してくださった「生存学」のホームページ(http://www.arsvi.com/a/20091205.htm)をご覧いただければと思うのですが、ここでもまずそれを確認したいと思います。

「生存学」は、いまだ固定し安定した「学」ではない。正確には、それにとどまること、そこに安住することをよしとしない。それは胎動しつつあるが、なおアモルファスな「何か」をそのうちにはらんでいる。もしかしたらそれは「生存学」を内側から食い破る「何か」であるかもしれない。いや、そのような「何か」でなければならない。「生存学」——この私たちの「生」──が、さらなる生成変化を遂げることを欲望するのであれば。
本企画では、その「何か」の探求の試みとして、ケア——介助・保育——とその諸条件——ニーズ・愛・労働——の「いま」と「これから」を架橋する「あるべき」道筋をめぐり、縦横無尽に語り尽くす。
銘記すべきは、穏当であることはつねに/すでに「遅れ」であるということだ。だから私たちは「飛躍」を恐れない。複雑に組みあがったこの「世界」にあって真に実質ある一歩を踏みださんとんするなら、数歩先をすでに歩んでおかねばらならないからだ。「敵」の裏をかかんとするなら、未来をいま/ここで予見できていなければならないからだ。何より、私たちの生の可能性をパフォーマティヴに押し広げるために。
 企画主旨にもありますように、このたび小泉さんをお招きしたのは最近、2009年にはいってから本日扱う主に二つの論文で「ケア」と呼ばれる事象、とくに介助・保育にかんして、あるいはその周辺というかそれにかかわる論点、つまりニーズ・愛・労働といった論点に直接ふれておられて、その内容が非常に興味深いということがあります。そこでこれらの論考を手がかりに思想的には三様でもあるこの三人で議論をして、あたらしい「何か」を見出せないかと考えたのが、誠に簡単ながら本企画の成立経緯です。
 そこで進め方としては、いわゆる鼎談のようなかたちで、論文の順番としては最初に安部さんから『思想』所収の論文「余剰と余白の生政治」について小泉さんに質問や論点提起をしてもらって、その後で岩波の哲学講座『性/愛の哲学』のなかの論考「性・生殖・次世代育成力」について、僕が同様に質問や論点提起させていただくという流れでいきたいと思います。と、大枠はこんな感じですが、別に発言の順番が決まっているわけではもちろんないので、ざっくばらんに忌憚なく進めていければと思います。

■生(命)への信をあらためる

堀田:では、安部さんから、さっそくよろしくお願いします。

安部:はい。安部です、よろしくお願いいたします。
 今回の企画にあたって小泉先生の著作を読み返してあらためて思ったことは、人間の/生命の力にたいする信仰心がかくも篤い思想家はちょっと見当らないんじゃないかってことです。とくに現代にあっては。いや、これってドゥルーズの系統なのかな。僕はドゥルーズをまともに読んだことないのでよくわかりませんが。
 わけても小泉先生は、貧者・病人・障害者の生の力/ポテンシャルを信仰している。健常者は、そしておそらく当事者じしんもその力をなめてるんじゃないのか、と怒っている。すべての著作がそうした怒りの力線に貫かれている。そしてそれがまさに小泉を「生存学」にあって燦然と輝く妖輝にしている(笑)。つまり「生存学」をおそらく一般にそう表象されているだろう、単なる社民でもコミュニズムでもない、ものとしている。今日僕らが探求してみたい「何か」の手がかりは、ひとつにここにあるのではないか、と思っています。そして自戒をこめていえば、その点こそが僕のこれまでの書きものには欠けていた点でもあると思っています。僕は、拙文を読んでくださった方から「誰に向けて書いているんですか?」とたずねられることがままあるのですが、僕は〈あなた〉という言い方/レトリックを多用するように——ちなみに〈わたし〉や〈あなた〉という表現/表記を用いるのはその反転可能性を強調したいがためなのですが——、可能的な読者のみなさんに向けて等しく書いているつもりではいます。その意味では、特定の誰かを想定していないし、わけへだてているつもりもない。というのも僕は(社会ではなく)個人の内部にこそ「他者性」、つまりcontingencyやpluralityをみいだしているからです。しかしその〈あなた〉のなかに、貧者・病人・障害者は正しくも含まれていただろうか。その人たちを〈あなた〉が助けるべき対象の位置に止め置いてきたのではなかったか。要するに、そうした人々の「他者性」や生の力への信仰が欠落していたのではないか。たしかにそう認めざるをえない、と感じたわけです。
 このことは偏に、「倫理(の主要な問題系)は(そのつどの)自他の非対称的な関係性」から生起する、という僕の見立てに起因するものだと思うですが、そのうえで僕には「弱っているとき助けて」って他人に求めて何がわるいのかという想いがやはり抜きがたくある。たとえば立岩(真也)先生が『良い死』(筑摩書房、2008年)で、「人が「弱さ」の存在証明をさせられることこそ不正だ」みたいなことをいっています。それはそうだとは思うんだけど、それこそ他人の自発的な善意をあてこんではいないかとも思うんです。つまり人は多くのばあい、よろこんで、そしてしなければならないときケアするけど、同じくらい多くのばあい、できることならケアしたくない、そしてじっさいにもしない。ましてやよく知らない他人にかんしては。僕にいわせれば、人には「ケア」の契機はそれこそポテンシャルとしてはあるんだけど、ふだんは眠っているわけですね。眠らされているというか。だからこの〈わたし〉は弱っているときには、〈あなた〉に呼びかけねばならない。我が身にふりかかっている困窮や困難や不正を知らしめなければならない。他人の慈悲や共感に訴えねばならない。そうして他人のなかに眠ってはいるがたしかに存在する「顔」(エマニュエル・レヴィナス)への応答性をたたき起こさねばならない。おそらく「人権」なるものも歴史的にはそうした共感に起因する応答性を理性的に対象化/とらえか返すといったプロセスを経て形成されてきたものであるはずだし。つまりそもそも僕らは多くのばあい、それが「正しい」から倫理的にふるまうわけではない。そうしたい/そうできる「何か」が私たちにはあるから、倫理的にふるまうのだ。だから問題は、いかにしてその「何か」を我々の内から掘り起こすかである。僕はそういうラインで倫理なるものを考えていきたいと思っている。
 むろんこうした僕のスタンスにたいしては、それは「事実」の話で「規範」の話ではない、という批判があるでしょう。むろんあくまで「正しい」ことをすべきだということはできるし、すべきだと思う局面もありますが、それがナンボのもんやねんという気分がやはり僕にはある。それこそ「正しきことは真なることだ」という「哲学」の自閉的で倒錯的な伝統ではないか。だから僕じしんは「正義」という言葉に拠らずに何とか同じことがいえないか、と思っている。その意味では、規範論をやっているつもりもない。連帯論ならやっているつもりはありますが。そして小泉先生からすれば、小泉先生が読むレヴィナスからすれば、もちろんこうした品位よりも実をとらんとするローティ的なやり口は卑小でワイセツなものでしかない、となるのでしょうが。
 いずれにせよ以上の点は後でも話題となるでしょう。そこでまずは、『思想』論文を手がかりに僕からいくつか先生に質問させていただくことからはじめさせてください。ちなみにその前に一言いいそえておけば、この論文は『生存学』第一号(生活書院、2009年)で、小泉先生が天田(城介)先生に問いかけ、その後しばらく——いまも?——天田先生がわりとオブセッシブにその応答にとりつかれていたように僕には思われる問い、すなわち「どうして介護は社会化されてきたのか?」(同p246)という問いにたいする小泉先生じしんによるレスとしても読むことができます。

■「社会的なるもの」再考

安部:そこでまず基本的な、けれどもこの論文の読解には不可欠な用語の確認からです。つまり「社会的なもの」について。原文の注16には、こう説明があります。「「社会(的)」なる形容句が付されるものの総称。例えば、社会国家、社会保障、社会民主主義、社会人などの総称」と。なのですが、僕は通読していてイメージできるようで、正直最後までうまくできない部分もあった。これは、市野川さんが『社会』(岩波書店、2006年)でいうところの「社会的」なるもの、つまり僕なりに約言するなら「人々の平等な生の保障」という価値理念と重なりつつも、しかしそれだけでは足りないといっているようにも思ったのですが。

小泉:安部君が述べた思想というか心意気というか病気というか(笑)、それについてはあとで議論するとして。『生存学』第一号の対談ではちょっとだけジャブを出したわけですが、実はあのときにはもう書いていたんです、この論文。

安部:おそらく「病気」がいちばん言い得て妙だと思いますが(笑)。そうだったんですか。なるほど、じゃあ僕がいったのとシークェンスは逆なわけですね。

小泉:ええ。『思想』の刊行が遅れてね。岩波講座の論文のほうも、その前くらいに書いていたんじゃないかな。私、ジャブ放つときはちゃんと準備してるんです、とプチ自慢しておいて(笑)。それで、お前ら何も答えられないじゃないかと思ってるわけね(笑)。
 まず、介護の社会化ということについて。ここ10年以上、みながこぞって肯定的に語ってきているんですが、じゃあその社会化っていうのは何なのかということについては誰も何も考えてないわけですよ。これはあきれるね。唖然とする。研究者は、全く放り投げている。それもあって、「いったい何をやってるんだ、社会科学関係者は」と、なんどか吹き上げて挑発してきたわけです。
 社会的なものが人々の平等な生の保障という価値理念に重なるというお話ですが、何それって感じですね。そんな念を込めるのは勝手ですが、そんなことじゃ、過去も現在も分析できないでしょ。社会化についてなら、ざっと振り返っても、19世紀半ばくらいから考え直さなければならないし、20世紀前半の社会化といえば、主として石炭とか電気とか水力とか、つまりエネルギー部門にかかわっていた。社会事業や社会保障にしても、よく知られた変遷がある。そして、社会化と国有化の関係、国家社会主義、社会民主主義の評価をめぐってホットな議論があった。その議論は、現在にもつながっている。あと、civicやbourgeoisやcivil society、社会的連帯、生政治の概念史ひとつとったって、脳天気に特定の価値理念に還元するわけにはいかないのではありませんか?
 私としては、通例の社会化論の筋とは多少違うことを考えています。20世紀後半の医療の社会化は、20世紀前半からの社会化の筋とは決定的に違うと思っているんです。産業技術の中でも医療技術がきわめて特殊であるという言い方をしてもいいし、医療が社会福祉や公事に繰り込まれるのが異例であるという言い方をしてもいいのですが、そこはともかく、第二次世界大戦前の「上から」と「下から」の医療の社会化が、とりわけべヴァレッジ報告に象徴されるようなかたちで医療の国家化と絡んで戦後に進行した。そこを見ずして、現在の社会化論は成り立たないと思っています。その上で、医療の社会化はいま崩壊しつつあって、それに代わるものとして介護の社会化が出てきた、といった大まかな図式で私は見ている。
 社会化について考えるなら、私ならそんな補助線を引くわけですが、それで言いたいのは、じゃあみなさんは何か補助線を引いているんですかってことです。口移しや書き移しのゲームをしているとしか見えない。社会的なものについてだって、サッチャーが「社会的なるものなんてない」と、もう圧倒的な強度に満ちた捨て台詞をはいたわけですが、これにたいしても誰かまともな答えを返したでしょうか。
 ご指摘のあった注16の含意はですね、社会的なるものとはthe socialのことであって、それはソーシャル/ソシアルなんたらっていうものの総称なんだよということを確認しておきましょうよ、というだけのことです。単なる啓蒙のための注です。それで、研究者のあなたたちは、社会的なるものについて、どんな射程で、どんな限定をかけて使っているんですかということを問うているわけです。私自身も「社会」とか「社会的」という言葉を無批判に使っている場合はあるので人のことは言えませんが、ともかくこうは言えますね。介護の社会化と言っておきさえすれば、合意や正統性を調達できると思っている空気、これが気味わるいってことです。社会化は無条件に論証抜きによいことだと思われている。家事の社会化についても同じ。でも、そうなのでしょうか。本当に、そうなのでしょうか。そんな問いを立てないにしても、まずは社会化ということをどう認識しているのかを問いたい。少なくとも私は、口移しや書き移し以外のものを見たことがありません。もちろん、こんなことを言うからには、私自身は、社会的なるものについて違和感をもってますよ。何かよくない、何所かうまくない、という感じをもってる。

安部:それは国家っていうのが何かよくない感じがするっていうのとはまた違うんですよね?

小泉:違いますね。決定的に違う。国家や行政や統治に対する価値評価をきちんと言わなければならないんでしょうが、単なる感覚で言わせていただくなら、社会的なるものがいちばん嫌いですね。これはそれを語る奴が嫌いだっていうのと重なっているかもしれないけれど(笑)。国家や国家的なるものの方がまだしも信が置ける気がする。なんか変な言い方ですけど。

■ネグリから何を受けとるべきか

安部:はい。ありがとうございます。では続けて、各論もあると思うのですが、それは脇に置いといてというか、抜刀隊よろしく、いきなり本丸に切りこませてください。つまりこの論文を書いた先生のねらいについて確認させてください。
 あらかじめお断りしておけば、僕はネグリ解釈について先生と争うつもりはありません。その用意も能力もないからです。またそれは棚上げしたとしても、そもそも僕はネグリにあまりみるべきところがあるとは思っていません。『〈帝国〉』などにおける現代社会/世界の分析はイケてるとは思うけど、それにもとづいて提出されるオルタナティブにはあまり魅力を感じない。というのもマルチチュードなどもわかるようで、僕はイマイチよくわからない。個人的な関心では、何より問われるべきは「マルチチュードはいかに倫理と結びつくか」という点にあると思うからなのですが、ほかの人は知りませんが僕にはマルチチュードは自体的な存在として倫理的だとは思えない。こうした難癖はむろん「倫理」をどうとらえるかということと、自分の議論にはあまり使えないという身勝手な了見の狭さからきているのですが。あとスピノザをちゃんと読んでとなってくると話は変わるかもしれませんが。
 ただこの点は、今日は中倉(智徳:先端研院生)がくるかなと思ったんで反論くるかなと思ったんですが、というのも先端研にはわりとネグリシンパがいる気が僕はするんで??。

小泉:いや、そうでもないよ。

安部:そうなんですか。

小泉:うん。実はそうなんだ。ネグリ派じゃない。

安部:そうですか。そっか。酒井(隆史)さんとかが好きなだけで別にネグリというわけじゃないのか。

小泉:うん。だって酒井さんはネグリ派じゃないし。

安部:そうですけど。あの(社会)運動系の連中は違うんですかね。

小泉:違う。そこがさみしいんだよ、ある意味。

安部:まぁまぁ(笑)。さてそのうえで本題に戻りますが、小泉先生はしかしこの論文で、ネグリの社会分析もイケてないといっている。だからそこから導かれる主張もイケてない、とみている。その論理を僕なりにまとめると、こうです。少し長いですが。
 ネグリは現代にあって社会的労働を何とか価値づけようと呻吟している。そうすることで資本によって実質的に包摂された現代先進社会にそれを内側から食い破る敵対性を見出し、そのポテンシャルを育てたいと願っている。そしてネグリはその希望を、福祉国家が福祉社会の名のもとに制度化しつつある「島々」——医療・福祉・教育・環境の領野——にみいだす。
 だが小泉先生によれば、この見立てと希望は幾重にも甘い。第一に、ネグリ的には、たとえば医療における医療者と患者、のみならず患者会・周辺労働者による社会的協働は「社会的なもの」なる価値を生産しているのだから、それにたいして総資本と福祉国家は年金概念を転用するなどしてカネを払えということになる。この主張のラインじたいはたしかにわるくはない。けれどもそれはリベラリズムや社会主義との「敵対性」を刻印するものでもなんでもない。今日ではそれは資本でさえ承認するような改良主義的課題と位置づけられているからである。つまりこの意味での敵対性はいまやすでに飼いならされている。そんなものに賭けるべき可能性はない。第二に、たとえば介助(介護)において、介助労働者はたしかに「社会的なるもの」を生産するが、それは被介助者には何の関係もない余剰にすぎない。つまりその価値の余剰の産出を盾に資本に改良主義的な要求をつきつけることはできるが、その闘争は被介助者にとっては無縁で疎遠なものにすぎない。というのも介助は、その社会化の名のもとでの福祉国家による全域的な経済的編成は、当の被介助者じしんの所得、今後被介助者となる者の所得に寄生するものだからである。そして第三に、もっとも重要な点として、社会生活なるものは何も労働だけに拠るものではない。ネグリは賃労働の拒否に生政治への抵抗線と可能性を認めるが、それだけは全くもって不十分である。生政治は労働以外の社会生活の全般にわたって、私たちの生を統制しているからだ。つまり病人役割や被介助者役割を強制し、ノルム化しているからだ。つまりそうした支配からの「絶対的な自由」を展望しえていない。生政治の「余白」に潜在するポテンシャル=力をとらえそこなっているわけである。それこそが真に「敵対性」の名に値するものであるにもかかわらず。だから甘い。
 おおむね、このような論理になっていると思うのですが、いかがでしょうか。

小泉:「それでいいです」といったら終わっちゃうんだよね(笑)。

安部:そこはまぁご自由に(笑)。

小泉:いや本当にきちんとまとめてくれて、ありがとうございます。そうですね、どういうふうに応答すればいいかな。何か応答すれば返ってくるんだよね(笑)。
 まず、ネグリとマルチチュードの評価については何度か別の雑誌で述べたことがあるのでそれはいいってことにしておきます。
 そうですね,ネグリが社会的労働をなんとか価値づけようとしているところですが、これは現在の介護の社会化論者、ケアの社会化論者に共通したやり方です。そこはまず確認しておきたい。つまり、ケアは苦痛に満ちているけれども、実はこういう価値を生産していると語り出す。その価値としていろんなものがあげられるわけです。愛や優しさやコミュニケーションや人間関係を生産しているというわけです。では、なぜそんなことをやりたがっているのか。どうして、そんなにまでしてケアや介護を価値づけて水ぶくれさせたいのか。現状では、介護(ケア)にはそういう価値がある、だから資金や権益をちょうだいっていう話にしたいからです。道徳や倫理の語りでもって政治経済的な分け前を得るためです。誰だってわかってやっているわけですが、愛や優しさのために語っているのじゃない。商人の正直さと同じで、それぞれの自己保身のために語っている。仕分けに抵抗する研究者と同じです(笑)。
 問題は次のステップです。そのことでもって、つまりケアや介護の「社会的」価値を国家に向かって言い立てることを通して、今度は、国家の力を借りて、その価値が価格・貨幣・資本に転化・転形するという構図になっているわけです。ところが、ネグリは、マルクス主義者を名乗るにもかかわらず、国家による転形問題のこの解決方式に全く気づいていない。むしろ、その枠内で、世の人々と同じように社会的価値の生産を言祝いでいるのです。だから、ネグリの社会的労働論はとりたてて革命的でもなんでもない。ネグリもネグリ派も誤認しているとしか言いようがない。まあ、これは小さな範囲での話ですが、ネグリですら、現在のモラル・コンセンサスに絡めとられていると指摘したかったわけです。それくらい、社会化のコンセンサスは強力ですね。
 ただ、少なくともネグリは、世の凡庸な社会科学者よりは、マルクス経済学の系譜を背景にして多少は分析をやってるんです。だから、ここら辺りを最低ラインとして、もっとやろうよって、呼びかけてるんです、この論文は。

安部:その、価値論っていうのは政治経済的カテゴリーっていうのが必ずケアも含めて包摂されるんで、総体としてみないとみたことにならないぞっていうことですね。

小泉:そうそう。まさにそのとおりです。近年、冒頭の安部君みたいな言説が氾濫していますね。自他の非対称性、応答性、善意や慈悲、倫理と正義、ケアと正義などについてね。介護にしても、80年代からの家族会のことや個人の苦労話が繰り返し想起されてきましたね。運動や実践のレベルではそれはそれでいいんですが、私は、倫理学にしても正義論にしても、近年の言説は異様に狭いものになっているのが耐えがたいんです。さすがに、最近は、法哲学や政治哲学でも伝統に立ち返って視界を広げる動きが出ていますが、まだまだ不十分です。この機会に、私の勝手な見込みを言わせてもらいますが、晩年のフーコーは、現在の倫理や政治の狭さにウンザリして、要するに、セネカやプルタルコスやモンテーニュのように書きたかったのでしょう。だから、晩年のフーコーをいじっても仕方ないんで、倫理や正義を語りたいなら、勉強し直してやり直しましょうよ、と言っておきたいですね。ただ、今日はそこには触れないで、凡庸な現在性にかかわるように応答します。
 言いたいのは、近年の道徳的言説や心理的言説の氾濫を、政治経済の総体において分析をしましょうよ、ということです。「弱者を支援しなければ」という言説が、政治経済の中で占めている位置や果たしている機能を考えましょうよ、ということです。社会学や社会科学の看板を掲げるなら、その程度のことはちゃんとやって下さいよ、ということです。「生存学」にしても、まだまだですね。というか、世の状況を見るにつけ、「生存学」関係者がやらないで誰がやるの、とさえ思いますね。
 その上でネグリに戻ると、彼は福祉国家・福祉社会の現在にも敵対性があると言いたいわけです。それは彼の単なる習慣のなせる業かもしれないけども、この強烈なコンセンサスが成立している現状に敵対性を感知しようとする姿勢は物珍しいだけに貴重であるとは言えるでしょう。そして、これも単なる第二の天性のせいかもしれませんが、私自身もやっぱり敵対性があると思っています。ただですね、敵対性などと濃い話をする手前のところで、そもそも、ケアの社会化や家事の社会化の流れに対して違和感をいだいている人がいったいどれほどいるのかという疑問を持つんですね。少なくとも私は、研究者では出会ったことはありません。

安部:それは結局、社会、両方あるかもしれないですけど、つまりケアへの違和感と社会への違和感と、その両面??。

小泉:そうなんでしょうね。

堀田:家族が担う場合にはいいってことですか?

小泉:その突っ込みは、社会化か家族内部化かという二者択一を前提として、社会化はいいけど家族内部化は駄目という前提に立ってますよね。この突っ込みは現状では強い立場からの突っ込みになってますね。だからこそ、社会化に異を唱えることは、政治的に正しくないことであると、すっと見なされてしまう。社会化の定義や分類や諸水準の区別もないままにね。
 まず指摘したいのは、現在の社会化論は、女性にだけ焦点をあてることによって、ファミリーブラインドになってます。家族の位置づけをネグってね??。

堀田:ネグっているというか、自覚的に家族を使っているんじゃないですか。

小泉:そう、社会化論そのものがそこを予定している。とすると、社会化を無条件に肯定している人々は、実際には何をやっていることになるのかということになるでしょ。そこを問うている。とりあえず、確認しておいていいと思うのは、社会化は個人化では全くないということです。また、私は、女性向けの政策などとは全く思っていません。あえてジェンダー化して言えば、主婦向けの、家族の構成員たる限りでの女性向けの政策でしかない。

■「屈辱」へのまなざし

小泉:絶対に家族論はやり直しが必要なのですが、それはパスして、違和感にもどるけど、要するに、自分が年取ったら、デイサービス受けたいかっていうことなんですよ。屈辱だよ。

安部:あぁ、わかります。

小泉:そこの感性なんだ。ケアは、対象者を被害者化・弱者化している。介護ケアは、老人全員をひとしなみに要介護者候補者に還元している。これは、どこか間違えていないのか、ってことです。

堀田:ちょっといいですか。いまの話、さっきの医療から介護への話もね、やっぱりどうしても高齢者に限定されていて。いわゆる自立生活障害者みたいな話は??。

小泉:そこは、この論文の課題ではないんです。ちょっと誤解を招くかもしれない言い方をしますが、老人にしても若者にしても、必ずや少数にとどまる「弱者」については、昔から孤絶・鰥寡孤独というかたちで必ず救済の対象になってきたんです。制度の違いはあるけど、どうしたわけか必ず歴史貫通的にそうなってきた。人間は自らそう思っている以上に道徳的なんですね。
 そこで考えておくべきは、福祉制度の改良や改革があるたびに、それで少数者が何を獲得できるのかということもあるけど、少数者のことが前景化されることによって隠蔽されていることがあるってことです。医療で言えば、何度となく、稀少な癌、たまたま治療法を見つけやすかった異例で稀少な癌を、とっかえひっかえ前景化することがなされてきましたが、そこを通して何が隠蔽されて進行してきたのかってことです。とくに、昨今の介護やケアや年金の議論は、明らかに多数派を相手にしていますから、そこに考察の重点を移すべきなんです。ただね、ここでいろんなねじれが生じていて、たとえば、そこそこ動ける人も障害者扱いしたり、老人の不安につけ込んで老人をうつ病者扱いしたりして多数派のコンセンサスを調達しようとしている。私はそんなことに憤っているわけ。精確に言い直すと、そのねじれをいやらしく利用するやり方に憤っているわけです。そして、哀しいことに、また精確に言い直すと、泣き笑いしたくなりますが、そんな主体/服従化が多数者においても完成しているんだね。
 ここまで事態が進んじゃったからには、いまとなっては、ケアの内実を具体的・批判的に考えざるをえませんね。内在的批判ってやつです。論文でも少し書いたけど、介護ケアの一番の稼ぎというか、準市場化なるものの実態は、レンタルとリフォームですよ。あとの大半は、食事準備。たかだか服薬管理。それに向精神薬処方でしょ。いわゆる肉体労働の大半は、伝統的な下男・下女の仕事です。だから、私は伝統的な制度の復活で十分だ、それ以上公的に用意してやる必要はないって思ってる。介護ケアの内実なんてそんなもんです。愛やコミュニケーションがどうたらってことではサラサラない。リハビリにしても、リハビリの往復ための本人の準備と運動を除けば、ほとんど実効性はないでしょ。これが欺瞞的で屈辱的な状態だっていう感覚をもっている研究者がほとんどいないんだわ。

堀田:それはやりたい人がやっているので。無理に受けさせられることはないですし。ケアについてお金が払われているのも、自立生活の人は一応自分で??。

小泉:「残余的」な対策としてずっと行なわれてきたし、退出も自立も行なわれてきた。ところが、介護保険は退出ができませんね。しかも、社会化を進めたがる若者家族と多数派の強大な圧力がある。本人にも、退出の恐怖が植え込まれている。この圧力を甘く見ているんじゃないのかな。

堀田:その圧力には功罪がありますよね。いま少数だと仰ったけど、心理的に恐れか何か知らないが圧力を感じている人の側につくか、実際に物理的に抑圧されている側につくかの問題ではないでしょうか。後者が仮に少数であれ、問題は瀰漫な屈辱感なるものを自分で背負いこんでいる人の数ではなくて、実際にニーズが制約されている少数者の強度だと思うのですが。だから僕は、ケアを本当に必要とする人は屈辱であれ何であれケアを受ける義務があると思うし、逆に必要ないのにそう思い込まされている人はどうでもいいと思うんですが。

小泉:というか、ケアの拒否がトラブルになっているでしょ? 一般に福祉的介入に対する拒否は昔からあったことだけど、現在また、病院や地域や家庭で専門家たちの方で問題化してますね。しかも、クレーマーたちの暴力性や猥褻性や不潔性を前面に出すというやり方で進めている。残念なことに、いつだってそうですが、専門家の側こそが、包摂と排除の政治、参加と退出の政治を行使しているんです。ところで、介護の社会化を推し進めてきた人々は、自由な退出の可能性を保証することなんか、これっぽちも考えてなかったでしょ。啓蒙専制でしかない。

堀田:いや。そうでしょうかね。もちろん、それこそデイケアとかデイサービスとか、人を集めてとりあえず座らせとくだけ、というようなところもあって、それに違和感がある人は沢山いる。その違和感ももちろん理解できます。違和感がある人が沢山いるのももちろん知っています。だからそれは当然議論するべきですし、それは分かっているつもりですが、その場合、結論としては選択肢を増やす方向が望ましいということになるんじゃないでしょうか。本当に必要のない人は拒否できるのでなければ、選択肢はないわけですし。

安部:そのあたりの話っていうのももちろんあって僕もわかるんですけど、問題はもっと根深いというか??。

小泉:自分なりに大事なことを補足するとね、違和感なく幸せにケアを受けること自体に、私は違和感があるんです。諸君はよく批判的に言うじゃない、それは奴隷の幸福、適応的選好だって。その点は別としてもね、堀田君は簡単に拒否したらいいって言うけど、「普通」のフォーディズム家族の退職者を念頭に置いてみてよ??。

安部:そこがポイントなんだと思う。

小泉:たとえば、リハビリ通うのを拒否するって、死にたいする恐怖になるんだよ。それに、子ども夫婦や孫たちの愛を失うっていう恐怖になるんだよ。子ども世代は、ともかく祖父母に「喜んで」通ってほしいわけ。喜んで幸せになってほしいわけ。そうしてくれないと、自分は「安心」できないから。これが多数派のモラル・コンセンサスでしょ。そしてね、社会化論者は、老人がいだく死の恐怖や弧絶の恐怖を増加させてる。「ケアの社会化がなぜ必要かというと、家族は担えなくなっているし、介助なしでは生きていけなくなるし、そして老人は必ずそうなる」と。こんなことを許しておくというのが私には理解できない。

■専門家権力批判はどこにいったのか

小泉:社会化批判の別の観点を出してみたいのですが、ソーシャルワークの専門家権力批判論です。ソーシャルワークという英語は便利な言葉で、社会事業でもあるし社会労働でもあるし社会的労働でもある。ソーシャルワーカーといえば福祉医療の各種専門家の総称になるだけでなく、準専門家も含む。ひじょうに幅広い概念になっている。その幅に見合った日本語がなくて困るんだけど、ともかく、ソーシャルワークは無条件によいことであるというのが20世紀を通して先進国ではナショナルでポリティカルでモラルなコンセンサスになってきた。これに対して、20世紀後半には、ソーシャルワークの専門家権力にたいする批判がとびかったけど、あれは一体全体どこに行ってしまったのか、どこでどう消えてしまったのか、と思うわけです。
 これは、私的な心情として言ってしまうけど、医師や看護師を含め、ソーシャルワーカーって若造なんだよね。こちらはそれなりに経験を積んで年取ってきたのに、若造に生存の質とか人の道なんか説かれたくない、まして死に方など教育されたくない。そもそも、若造は、ケアにまつわるそれこそ倫理に関しては、経験的には無知に決まってるし、無知で構わないんだから、そもそも諸君の出る幕じゃないぜ、と思う。それは私だけじゃなくて、いろんな人が別の仕方で体験していることですよね。それに、老人の支援には、若者の強力な腕っぷしを要するというその発想が変ですよ。
 ただね、そんな違和感を共有しなくたってだよ、専門家制度に対する違和や批判は、青い芝からだけじゃなくて沢山あったし、介護の社会化を奉じている社会科学者の多くは若い頃はそのあたりに乗っかっていたんだよ。どうなってしまったの、と思うわけ。別に転向してもいいんだけど、転向したなら転向したと書いておいてくれと思うわけ。要するに、歴史的にも個人史的にもケアの社会化の議論はあまりに杜撰。

堀田:お話を伺っているとあれですね。あ、いま「青い芝だけじゃない」って言ったけど、僕は「青い芝」だけで十分以上だと思っています。批判としては内容は大きく変わらないんで。ただ、やはりいまの話だって、小泉さんが評価するかどうかわからないけど、すくなくとも「次善」としてやはり自立生活障害者モデル的なところが、ある種、「次善の策」的なかたちとしてとしてですが??。

小泉:いや、十分とは全く思っていない。病気のことが抜けているし。もちろん老化については、それなりに新しい問題ですし。そもそも汎用性十分とされたら怒ったんじゃないの。

堀田:専門家にたいする批判はものすごく強いわけだから、インディペンデント・リビングの人たちって当然ながら。「人に口出しするな」とか、家に入れること自体についても。あと、「病気」については、先ほど不要な「死に対する恐怖」に煽りたてられていることが問題だと言われていたことと矛盾するのではないでしょうか。だって、「病気」だったら、不要な恐怖に煽られているのではなく、真のニーズなので。

小泉:でも、いまの自立生活って、専門家権力批判が駆動しているわけではないでしょ。

堀田:いや、でも現場ではつねにケアマネとかは「出てくるな」と言われていますけどね。「医療者は口出すな」とか。つねにそれは、障害者はずっと言っているわけで。いまは一部になってきているかもしれないですが。

小泉:そこはわかるけど、制度の運用の面が強いのと、自立における自由の色合いが減ってきたんじゃないのかな。いずれにしても、堀田君の話が成り立つのは、ごく一部についてなんじゃないの。

堀田:ただ、でも、それが対抗モデルとして設定されているんだとすれば、僕は全然納得できる。というか、僕自身もそういうところで考えてきたつもりだし。それについてはね。

小泉:それは、いわば少数エリートの運動においてのことであってさ、私は凡庸な多数派のことを問題にしているわけ。

堀田:高齢者の運動っていうのに以前、どこでかは忘れましたが言及されていたと思うんですが、それはけっこう重要だと思うんですよ。当事者たち、本人たちの選択肢として?…。

小泉:ここは天田城介さんの将来の仕事に待つべきところですけど、高齢者運動って、歴史的にも年金生活者運動なんだわ。患者運動も若干あるけど、さほど現在に活かせるものはない。ともかく、現状では、そういうことをやっている人いないじゃない。
堀田:いない。ただね、やっぱり障害者運動を研究している人たちは高齢者運動っていうのを当然延長線上では考えてはいるとは思うし、そのあたりの話については、自立支援法が介護保険に組み込まれることに対する強固な反対も、当然介護保険がどういうものなのか知っているからこそ、だったわけですよ。で、障害者運動をやってきた人は自分たちが高齢者になっても運動し続けるし、健常者アイデンティティをもつ高齢者に対しては「残念だね、かわいそうだね」という言い方で揶揄しながら、逆に運動したほうがいいよって暗に言ってはいると思うんですよ。その声がデカいか小さいかはわかりませんが。学者でそういうことをはっきりと言っている人は少ないかもしれないです。ただ、それぐらいのことはずっと、その自立支援法が介護保険に??。

小泉:率直に言って、その揶揄が運動の微かな退廃に見えて私には不愉快でしたけどね。障害者運動の側から事態がそう見えるのは構わないんですよ。まあ多数派は揶揄されたって仕方ないでしょ。でも、私が言いたいのは、多数派を「代表」する研究者たちが、つまり結婚し子どもを持ち家を持ち年金を保証された健常者の研究者が、介護保険を正当化するときに、こぞって自立運動の成果を恥ずかしげもなく簒奪してきたってことです。自立の意味ひとつとったって、全く違っているのに、です。

堀田:たしかに、言いたいことは分かる気がするのですが、少なくとも僕は自立の意味については自覚しているつもりです。

■「当事者主権」論について

安部:これは別に当事者に敵対性を要請するとか敵対性を発揮しろという意味ではないんですけれども、多くの人たちがまず敵対性のポテンシャルのもとになっている屈辱みたいなものへの感度が低いのではないかというところについては、それはやはりあるだろうと思います。少なくとも僕は、たしかにそこまで射程に入れてケアの話を今まで考えていなかったんで、今日ちょっと気づかされました。そのうえで本題ですが、そうした当事者の屈辱や(先生のいうところの)僕ら的な言説こそがまさに高齢者を被害者/弱者化しているというお話から、先生がケアする側じゃなくてケアされる側に立つとおっしゃるときの含意というのも見えてきたと思うんですが、じゃあそうなってくると当事者はいかなる敵対性をどこまで発揮すればいいのか、という疑問がわきます。もっと前提的なところでいえば、それは規範的な要請なのか、あるいはそもそも当事者に要求すべきものなのか。つまりちょっと乱暴につなげますけど、いわゆる障害者運動の当事者主権論みたいなものと先生の主張がどのような関係になってくるのかというのが気になるのですが。

小泉:私には、そもそも「当事者」という言い換えで何を獲得したことになるのかサッパリわからないんですよ。それから「当事者主権」という言葉で駆動された制度化が何を実現しているかということについてもサッパリわからない。キャッチコピーの付け替え以上の何があったのですか。そもそも、私は、新語を出したがる人、新語を口にして気持良さげになる人を信用していないのです。そこはむしろみなさんの評価を聞きたいくらいなんだけど。
 その上で、なんていうんですかね、安部君の話にもチラチラうかがえたんだけど、当事者主権、当事者の立場、ケアされる側に立つっていうことが、ただちにその声を聞いてそれをいかに実現するかっていう問題に接続するわけだ。スッと接続させようとしちゃうんだけど、そういうことなのかっていうことなの。

安部:おっしゃりたいことはわかります。

小泉:そこは堀田君とのやり取りでも私にはまだ応答できないことなんだけど、拒否や自立ということ、あるいは自由ということ、あるいは欲求や要求を越える欲望の次元、そういったことが、これはいつものことだけど、お行儀よく「当事者」というベールに回収されるわけです。ここが問題で、今日もやはり、きちんと言えないところなんですが、とりあえず、わかる人にだけはわかるってことであると居直ってパスさせて下さい。それで、私も含む凡人にわかりやすく進めると、その接続の仕方が現行の制度の中でどういう水路に流れ込むのかってことになるわけだよね。それは先ほどからの話で、それほどうれしい話になっているだろうか、ってことです。それから、凡人用に、自由の深度を浅くして言いますが、ケアの法制化や制度化については、基本的に自由にしろと、介入する必要は全然ない、と思うわけです。ほとんどの人間は、はっきり言えばケアするような相手じゃない。当事者主権って言ってやる必要もない。放置すればいい。野放しでいい。凡人用の言い方をすればね、市場に任せばいい。

安部:それは現実的なラインとしてはそうだろうってお話なんですか? 市場に委ねればいいっていうのは。

小泉:現実としてもそうだし??。

安部:最適解ということですか?

小泉:いや最適解でもなんでもなくて、たんに放っておけばいいって程度のことですよ。最適解を求めるようなテクノクラート的な問題じゃないってことだよ。そもそも、最適解を出せるように設定できる問題なんてないんだけどね。そこは堀田君もいいんでしょ。

堀田:ケアの必要がないならそうですね。

小泉:必要・ニード概念の検討は措くけど、必要があるって物言いが、すでに自動的に全体的なテクノクラート的で立法者的な観点に立つことになるんであってね。それに、いまの争点は、社会化・制度化・国家化すべきかすべきでないか、それに対応するニードの仕分けでしょ。ともかく、研究者の健忘症は激しくてね、過去の制度や市場のいろいろなシステムのことなんか吹っ飛んでますね。ところが、現実には、こっそりと過去の制度を使いまわしてもいる。ニードがあるから社会化しました、なんて話になるわけがない。少なくとも、社会学や社会科学に携わるものなら、そんな道徳主義的説明はとれるはずがないでしょ。で、論文では、フォーディズム的反動と書いてみたわけです。ついでに言うと、制度設計の原理からして、女性の家事や介護からの解放なんて、初めから問題になんてなってないでしょ。

堀田:あと、これは当然自明の話なんですけども、最初の話にやっぱりつながっていて、医療の「放棄」という言い方ができるどうかはなかなか難しいと思うんですが。

小泉:まあ「撤退」なわけだね。

堀田:はい。ただ高齢者のケアが登場した文脈のなかには、たしかに老人医療無料化からいわゆる社会的入院があって、それにたいして医療では金がかかりすぎるから、という流れがやはりあった。

小泉:社会的入院については堀田君たちが追ってるけど、私の言いたいのは簡単で、社会的入院させているときには、治療可能だって嘘ついてたわけ。嘘つかざるを得ない。ところが、どこかで医療はその治療可能だという嘘を放棄したんだよ。とくに癌と脳卒中系についてね。しかも、さんざん患者をいじり回した後にね。

堀田:しかも社会的入院のなかには薬漬けにして寝かせきりにさせたという話もあって、そこからケアが重要だという話に?…

小泉:医療制度や医療産業にとって、ともかく邪魔になったわけだ。看護や介護しても、医学的にも「無益」であることにされたわけ。そこはそういう認識は持ってるでしょう? それにしたって、基本的に家族や保険持っている人のことなんです。放ってもよかったわけ。医療の側がですよ、もう癌や脳卒中はいくら治療的介入しても治せません、嘘をついてきて申し訳ありません、あとは養生です、養生は民衆の知恵として連綿として存在しています、医療が多少はお手伝いできますから赤ひげ先生に戻ります、戦前の医療社会化と自由診療の理念に立ち返ります、中国の裸足の医者に学び直します、と率直に認めれば済んだんですよ。にもかかわらず、どうして、介護ケアが上昇してきたのか。簡単な話であって、子育てする若夫婦の核家族を守るためでしょ。そこに奇怪な形で乗っかっているのが、おじいちゃん、おばあちゃんが大好きで育った君らぐらいの若い世代なんだよ。それでケアは大事だ、おじいちゃん、おばあちゃんを大事にしなきゃ、なんてことを言ってね。それで新たに社会保険と称して金を巻き上げて、それで何を守っているのかというと、現存する核家族と、君らの世代で婚姻資産と家族資産を持てそうな選良たちを守ろうとしているわけでしょ。世代論が前景化してきたのも、所詮はこういう話でしかないでしょ。どうして、その程度のものに諸手をあげて賛成できるのかってことですよ。
 ただね、その上で、結局のところ、この私はそんな形で保護されている階級の一員なのでスッキリと言いにくくなることはある。だから、さっきから多数派に対して多少は同情的になってるのね。その家族たちがさ、私の言葉で言えば「中産市民階級」、普通の言葉で言えば「市民」たちが、なんか知らんけど不安に駆り立てられているようなんだよ、どうやら。そのことを言っていたわけ、さっきからね。だから、「市民」については、少なくともそこから脱落している老人については、さっき話したことみたいなことは思っているわけです。
 安部君の質問について言えば、「当事者主権」なんていうのっぺりとした概念でものを考えるということがすでにアウトだな。普遍的かつ一般的な装いを装っている点ですでに駄目でしょう。この問題は、学界的には「普遍主義対選別主義」という論点ですけど、気づくべきは、普遍主義は一度として普遍的であったことなどないってことと、選別主義にしてもきっちり選別主義であったことなど一度としてないってことです。
 ソーシャル・ワークの権力性にもどると、なんで、ネグリも含めてヨーロッパ知識人はこんな甘いのかと思うね。アメリカのインテリの方がまだ批判的なポジションをとっているよ。まあ制度の違いもあるし、それで説明されちゃってるけど、どうなんでしょうかね。ともかく、この辺りではアメリカの方に見るべき研究はあります。ここで小泉がどう言ったなんてどうでもいいから、もっと世界に目を向けて勉強して下さい。少なくとも研究者は、そこはやってくれないと。それが責務であると思いますね。

■養育の社会化について

安部:社会化の話になったので一点お聞きしたいのは、ケアのなかでも養育の社会化についてなのですが。もちろん小泉先生の場合は社会化じたいがダメなんでダメなんでしょうけど、高齢者の場合はすんなりいってるじゃないですか。介護保険というかたちで全面化していって、それこそ小泉先生のいう屈辱を日々量産しているわけですが、子どもの場合ですよね。この間たとえば周囲でも「こうのとりのゆりかご」話とかいろいろありまして(編者注:櫻井浩子・堀田義太郎編『出生をめぐる倫理──「生存」への選択』、生存学センター報告10参照のこと)、僕もそれがきっかけで興味をもったというのもあるんですが、ともあれ養育の社会化論はさほど進展していないというか、そもそもその気配すらないと思うわけです。で、この点にかんしての先生の見立てをおうかがいしたいわけです。というと曖昧で申し訳ないんですが、僕じしんこの前の福祉社会学会の報告にさいして堀田さんとも意見交換しながらこの論点は面白いなと思っていて、これから展開してみたいと思っているんですけれども。というか堀田さんは養育の社会化の制度的全面展開推奨の立場でしたっけ、いや容認派だっけ?

堀田:推奨と言ったほうがいいかもしれない(笑)。

安部:そっか、推奨派でしたね(笑)。じゃあその論拠も含めて、ではお二人にあらためておうかがいしたい。たとえばさっきの先生の主張を逆手に取ると、子どもは屈辱を感じませんよね。だとしたら社会化ぜんぜんオーライじゃないと、めちゃめちゃシンプルですけど、たとえばそういう言い方ができますが、いかがでしょうか?

小泉:私的なことから話しますが、私自身は、育児の社会化制度の代表例と見なされている保育園、これの恩恵はずいぶん受けてきました。子育てのときも待機児童問題は当然あったけど、当時は夫婦二人とも院生だったので、奨学金は借金だと説明しながら収入ゼロで申請できて、圧倒的にミーンズテストで勝利したわけね(笑)。楽々に保育園に一位当選していますから(笑)。そのおかげで助かった。また、私自身も保育園に通ってました。大体、私の世代が保育園児の走りですね。当時、私の親は育児放棄だって周りから非難されましたね。当時、母親が、幼い私にちゃんとそう語って、どうして保育園に通わせるのかを説明してました。そんな個人史があるので、保育園はとても肯定的なものだと私には刷り込みが入ってまして、三歳のときからね(笑)。乳児院に入ったこともあるから、ゼロ歳児からですが。保育士にリスペクトもありますし。だからちょっと難しいんですが??。

堀田:たぶん後半の話にもかかわると思うんですけど、僕はすごく素朴です。女は妊娠出産の負担を負ったらその後の育児の義務は軽減ないし免責される、と。そういう想定がまずあって。でも、男のほうには義務がたぶんあるので、男には何らかのかたちで、お金であれ実際の行動であれ、子どもの養育に必要な何かを提供する義務はあると思いますが、女のほうにはないと思っていますね。

小泉:それが家族の構成原理のバージョンの一つになると?…。

堀田:ええ。ただ、それが行為をじっさいに提供するという話になるかというと??。行為を実際に提供するだけの義務があるのかどうかについては、僕はそこはなかなかちょっと分からない。まあ、ないんじゃないかと。

小泉:社会の側にね。
堀田:ええ。いや、ただ義務の範囲の問題は難しいと思います。

小泉:堀田君の設定って、教育の社会化・国家化の議論の組み立てと同じですが、それでは見えなくなることもあると思いますよ。育児の社会化の問題って、端的に言えばね、子どもを持つ意図のない人や子どもを現に持たない人が、なんで税金を払う必要があるのかって話でしょ。私は、全くないと思いますね。義務教育についてはもちろん、出産の保健医療化についても各種の育児手当についても疑念がありますね。少なくとも、子どもの社会化にまつわる制度化には、過剰なところがあると思う。私の第一子は杉並区で誕生したんですが、当時は出産祝い金ってことで十万円貰えた。貰えるものは何でも貰うのをポリシーにはしてますけど、それにしても過剰だな、というか、一時金貰ったところで、と思いましたね。この辺は原理的に考えるべきでしょうが、何が原理的なのかを言い当てることの方が難しいので、むしろ時代診断として考えてみますけど、どうしてこれほど多くの人が子どもの議論に走っているんでしょうかね。気味がわるいですよ。
 生命倫理での議論は、実は間接的だったんですよ。中絶、出生前診断、ロングフル・ライフなどの問題化は、周辺での話でしかなかった。世代論の上昇、世代間倫理にしたって、間接的な感じは否めませんよね。育児や教育について考えるなんてのは、基本的には統治者や行政官やその筋の専門家、あるいは保守反動の筋だけだった。ところがですね、いつのまにやら風景が変わった。教育学研究者が論壇で地歩を得始めてきたし、フェミニストまでもが、家族や育児について議論し出した。しかも、肯定的にね。私には、何よりも、この変化が不思議なんです。ちょっと、私には信じ難い光景なんです。一応、アンダークラスの立場に立って、家族肯定論を展開するのはアリとは思うけど、そんな議論にもなってない。
 ただね、私はあんまり批判的構えを取れる資格はないんです。保育などを利用して、うまくやってきたから。逆に言うと、単身者たちが何を言うのかってことにこそ興味がある。

安部:そうですね。いや、でもそこがやはりさっきの「世代」とか「世代間倫理」とかが上昇してきているというのはイデオロギーなのか何なのかわからないですけれども、とにかくやっぱり老人と子どもの非対称性っていうか、僕は人格にたいする態度っていう言い方をしたんですけど、それは絶対あって。つまりシングルの、生涯「おひとりさま」でいこうかなと考えている人でも、「子どもたちの未来を」とかいわれると、他人の子でも「そんなん私は子どもおらへんから関係ない」ってなんか言えない。言いにくいというか、あると思うんですよ、そういう圧力みたいなの。それがわりと強いものとしてあるんじゃないかと。

小泉:他人の赤ん坊はかわいいっていう刷りこみも含めてね(笑)。

安部:たとえば僕なんかもそうですけど、まあ兄貴の子どもとか、友だちの子どももやっぱりふつうに可愛いんですよね。で、いまいわゆるアラサーとかアラフォーと呼ばれている単身者たち、管見ではとくに女性ですが、何かやたら甥っ子とか姪っ子を可愛がっているわけですよ。

小泉:驚くべきことにそうだよね。君らに教えて欲しいんですが、米国映画的でファミリー的な価値に対する信仰が強まってますよね。何なんでしょうかね。私の知る若者たちはとってもファミリーを大切にする。もちろん、そこには、多少のシニカルやイロニーは入ってるよ。こんな何も信じられない世の中だからこそ、あえて、みたいなポストモダンが入ってるけど(笑)。インフル注射は何が何でも打たせるし、授業参観を公然たる口実として使うし、少年スポーツのためなら睡眠を削るし休日も返上するし、私などにとっては、驚くべき変化です。ついでに指摘すると、親の介護から手を抜く最大の理由というか口実は、育児と子育てなんです。

安部:たしかに。

小泉:こんな情景を前にすると、私なんか何を言うべきかわからなくなる。私なんかには、いかに公私二元論批判がなされようが、結婚や育児や看取り等々は結局は私事だという感じがあって、少なくとも、飲み会を含む多少なりとも公的な場でそれについて話すとか、研究ネタにするとかってこと自体が、よくわからんのです。何となく、それは恥ずかしいことだって思いがある。でも、完璧に消えましたよね、そういう恥じらいは。

■生命倫理の/と家族

堀田:ただね、その「可愛い」というのと、もう一つの言い方があって。自明の話ですが、こういう言い方ですよね。つまり親に自己決定の自己責任をとらせるという部分があるにしても、でも子どもは「個体」として生まれてきているから、生命倫理的な言い方になるかもしれないけれど、人権をもつ主体であると。人権をもつ主体である限りそれにたいしては少なくとも国家成員として全ての人間に義務が少しはあるよ、と。そういう言い方はありますよね。「ケアは基本財である」とか。

小泉:そんな語り方が通念になってますけど、簡略すぎますよね。すこしだけ噛み砕けば、人権主体、政治主体、市民権主体と言いかえて、基本財の分配や再分配につなげて、そうして、社会全体、国家全体での公事にすべきである、だから云々と続くわけですね。その流れが自明視されてしまっている。この通念は単純なだけに、実際は突っ込みどころ満載だと思いますね。少しだけ触れると、一つは、出発点を除いてファミリーブラインドな議論になってますね。ところが、ファミリーは、議論の最後まで陰で厳然として存続しているわけです。分配と再分配の被害者ではなく、最大の受益者なんです。そこを隠蔽するファミリーブラインドな議論になってる。もう一つは、全員に義務があると言うには、任意の特定の子どもの誕生と育児が共通善や共通利益になると言わなければいけませんね。私は、そこは大所高所からは言えるとは思ってるけど、社会全体の利益や国益になると言えるかというと、怪しいと思う。伝統的な論法についてこそ、批判の余地がある。生命倫理の分野でも、米国の判例などで子どもの存在を法益や国益・州益state interestに仕立て上げてますが、理論的にも現実的にも怪しいと思う。

堀田:そこはね、はたしてその「善し悪し」はどうなのかと言うとなかなかやっぱり難しいところがあって。僕はそれは必ずしも悪いことだとは思わない。あと、家族が受益者になっていると言えること自体が、ジェンダーブラインドではないですか。家族負担解消論が想定しているのは、こんなことをここで言うまでもないでしょうが、基本的に単身の女性とシングルマザーですよ。

小泉:堀田君の言葉だけを引き取ると、特段に善いことでもないでしょ。もっとクールに言っておきますね。現代社会は、中絶で膨大な子ども候補者を殺している。交通事故や国際格差でもって大量の子どもを死なせることを構造的に予期して組み込んでいる。そんな中で、先進国市民が、育児って大事だよね、ってうなずき合うのなんて、なんら褒めた話じゃないでしょ。ここは古くからの左翼の物言いでいいますが、そんな子どもたちを救う子どもたちを育てるための育児なら善で正でしょうね。それ以外は、善悪を下に越えた生物的・文化的営みでしかありません。
 今日はあくまで私などの凡人用の話で行きますが、人口論につなげておくとね、これはよく指摘されますが、人口を増やすか減らすかについての政策がどんどんブレてる、歴史的にも。いとも簡単に変化している。今後もどうなるかわからない。その意味でも、騒ぐ話ではないよね。だから、「子どもが法益だ」っていう議論が、どれほど政治経済的・国家的にリアリティがあるかは疑問。

堀田:あ、そうか。もしかすると小泉さんの話と僕の話は逆かもしれないですね。もちろんそれは表裏一体なのかもしれないけれども、むしろ、国家がその利益を守るべき対象という位置づけですよね。

小泉:一応、上からと下からとで一致していると解せばいいでしょう。それで、上から進めるとね、本当に人口は国富かっていう古典的な論点になる。そして、国家が人口政策に関与すべきかどうかという論点になる。そして、国家が、出産や育児を支援すべきかという論点になる。ここもそうなんだけど、優生運動の批判的研究の射程が全く考えられてこなかったんですね。こう言ってもいいかな。優生運動批判の立脚点の一つは、明らかに古典的自由主義なのに、誰もそこを考えてないってことです。

堀田:その方向性と違う方向性も同時に働いているということですよ。それはやはり、重度障害新生児の問題なんかを見ればわかるけど、アメリカなんかでも、何の「国富」にもならないとしても、たとえば「親のネグレクトだ」と言って国が、というか州が介入していって治療させるわけですよ。あれは曲がりなりにも理念上、国がその個人を守るっていう発想があるわけじゃないですか。その個人の利益を守るべき国の義務があって、という。それが「国富」にとって仮にマイナスでも。だから、いまの小泉さんの話は両面あって。

小泉:それはあまりに非政治的な見方でしょ。ネグレクトの問題化は、刑事行政起源で、刑事行政と児童福祉や精神医療が混在して主導した典型的なフーコー的事例の現代版です。もちろん、一時的にであれ救われる人はいる。介入を喜んで求める人もいる。そうでなきゃ、制度が実効性を持つはずもないし、どんな制度でも多少の救いや快楽は生みますよ。
 ともかく、国家の介入って一時金と一緒で、保護にしても一時的。もちろん、犯罪防止の介入の一時性なら私だって認めますよ。けれど、国家は、すぐに委ねてしまう、市民社会や家族的なものにね。だから、子どもの最善の利益の保護に関して、国家は本当はちっとも真面目じゃない。道徳の政治化にしても、真面目にやる動機が実際にはない。家族と市民社会に委ねているからっていうより、まあそもそも無力なわけです。だから、生命倫理にしても、そこを重く捉えすぎなんだよ。

堀田:まぁ、生命倫理学については、たしかに一部にそういう部分もあるのかもしれないですね。

小泉:法学コンプレックスでもあるのかと疑うけど、米国判決文の過剰視でしょ。

堀田:アメリカの場合はやっぱり、たとえば親権剥奪のやり方なんかは日本と全然違うから、そのあたりの介入の強烈さなんかは。それこそ完全に分離するわけですよね。

小泉:介入は短期間だよ。

堀田:短期間だけど、いったん切ったら子どもの居場所も親の居場所もわからなくするし。

小泉:そこは、米国のファミリー価値が抵抗の論拠になってくるところで、そのまま移入はできないんだけど、それこそ専門家権力の問題でしょ。ちょっと違う力学だと思う。

堀田:そうですね。それこそ同性愛者だとかドラッグ中毒者にたいする「懲罰」的な力学が。

小泉:うん。ぜんぜん違う社会的で文化的な力学が入っている。

安部:そうですね。ではこの流れで、じゃあ第二部に。

■「性・生殖・次世代育成力」から

堀田:では、後半は岩波講座の「性/生殖/次世代育成力」をめぐって議論していきたいと思います。
 あらためまして、小泉さんの書き方について、この論文では道徳的な良し悪しとは違う意味での「罪責性」や「原罪性」といった言葉が使われていますが、ただ同時に、小泉さんのお話しには、先ほども何度も繰り返し出てきたと思いますが、「こう考えるべき」、あるいは「こう言うべき」という意味での「べき」がよく出てきます。これが指令語なのか規範的な主張なのか、その関係がまず気になります。「べき」というと私は素朴に、倫理的/道徳的な善悪というのが背景にあるのだろうなと、そしてその善悪は素朴な快苦なのかどうかはわかりませんが、少なくとも何らかの被害とか不利益というのがどちらか一方にあって他方が不正に利益を享受していると、そう読んでしまうんですね。そうすると、この論文で扱われている問題についてもやはり女性がその生殖・性行為をライフコースに絡めとられていって、それが何かよくないこと、不利益を女性に与え、男性に利益があり、それが規範的によくない、さらには「不当」とさえ呼べるから問題にされているのだろうなと、素朴に読めるのですが、しかし小泉さんは何か違う観点をお持ちのようにも思えます。その点についてまずお話しいただければと思うのですがいかがでしょうか。

小泉:実は、ご指摘のあたりは迷っているんですよね。以前は、指令語、「アジ」ね、それがないと論文はおもしろくない、ハッキリ立場を出すべきと思っていて、根拠なんてなくていい、気合だけでいいと、そういう立場でいたんですが、最近は成熟しまして、どちらかというと――今日何度もいいますが――やはり分析しなくちゃいけないという意味で、研究者の責務として言っているつもりです。というのも、それこそ生存学の研究会で院生とともに現在性の典型たる介護保険制度について考えざるをえなくなったことも契機の一つなんですが、どうやら院生諸君も善きものと見ている、これを揺さぶるのに悪いと言ってみせるだけでは聞き流されて終わる、だから分析や認識において間違っていると言うことにしてきたということもあります。要するに、現在性に対する距離のとり方ですね。距離がとれんと論文は書けんぞ、と説教しながら別の実演をし始めてるところです。私からすれば、現在は奇怪なことが起きているとしか思えなくて、その興味関心で分析したいという方向があって、それを距離のとり方の一例として打ち出してみたいと思っているわけです。本当は、それが一番難しいんですがね。ですから、「べき」と言うのは、研究者に対してですね。もっと勉強して考えましょうよ、ということです。
 ところで、お二人の語法で気になるのは、規範の用法ですね。規範概念は最近の流行語であって、そこには結構なバイアスがかかっていると思いますよ。また、お二人の価値語や価値概念の範囲にも、事実・規範の二分法といった問題設定にもバイアスがかかっているので応答し難いのですが、と一旦は逃げを打ちまして、告白しますが、ご質問の辺りは実は大して考えてないんです。とりあえず、最初のところは、道徳的な意味では価値中立な立場で書き出しているつもりです。

堀田:使われている文献はフェミニズム、とくにレズビアン・フェミニズムの人たちの議論ですが、これらの人たちの議論は明らかに価値的なものを含んだかたちで男女の非対称性、つまり不平等だとか暴力とか、それがよくない、と主張していると思います。女性に、とくにレズビアンの女性に、被害というか不利益が明らかにあって、それによって不当に得をしているのが男性であると。で、たしかに男性も「異性愛男性中心主義」、あるいは「家父長制」と言ってよいかもしれませんが、そういった強制力の下にあって、それに駆動されているにせよ、男女のあいだには明らかに利益/不利益というものがあって、と。ここで引用されているものは、そういう主張をしている議論にみえるし、引用されている論者自身はやはりそういうつもりでやっているのはたしかだろうと。

小泉:もちろん、それはその通りです。大方のテクストの字面はね。

堀田:それで、そうすると、その話と小泉さんが途中からアンスコムを引いてきて出している異性愛の「原罪性/罪責性」ですね、これは『生殖の哲学』でも「原罪」という言葉が出てきたと思うのですが、そのつながりというのがやはり僕はひっかかるというか、スライドしているのではないか、と。
 というのも罪責性という語は小泉さんの議論では、非対称の問題は後景に退けられて、中立的な中性的な表現として出されているようにみえるので、その関係がどうなっているのかなというのが僕は気になるわけです。この点についての僕の観点は単純で、女性の不利益というのは貨幣獲得機会における不平等とか、それによって、個人的な/私的な関係において女性が貨幣獲得機会を多くもつ側の男性に依存せざるをえない、そうしないとなかなか生活がむずかしい、そうしたかたちでの女性一般の不利益というのがある、と。そうした観点から見てまさに妊娠・出産・次世代育成役割が女性に課されている、という伝統的なフェミニズムの議論があるので、この話を前提にしてみると、小泉さんの「異性愛の罪責性」という言い方、これがどういう話なのかな、というのが気になってしまうというのが、ひとつあります。

小泉:あえて言いますが、それでは、ちょっと読みが不親切にすぎるというか、ポイントを逸していると思います。それにですね、性と生の話をするときには、相互の水準を確認し合わないと進まないところがあるので、一般的な話から入りますが、そもそも性にかんする語り方がひどく貧困化しているんです。その一例がいまの堀田君の語り方、切り口だったりするわけですよ。
 堀田君が定式化するような問題はね、依然として解決されていない。私もそう思っている。むしろ、解決されつつあるような物言いに違和感をもっている。それはそうなんだけど、ということです。こう言ってみます。それは異性愛者内部の問題にすぎないし、しかもその一部の問題にすぎないってことです。単なるポリティカル・コレクトネスに回収され続けてきたお話です。
 とにかく書きたかったことは、この論文のポイントは、レズビアン・フェミニズムの観点を想起するということです。レズビアン・フェミニズムは、研究界にはほとんど導入されてこなかったのですが、その観点から異性愛を見直したらどうなるのか、何を教えられるのかということです。これにしても、どれくらいの共通了解があるか、はっきり言って、どの程度の文化度や民度があるかで、話が通ずるかどうか分かれてしまうんですが、あえて迂回して朴訥に話させてもらいます。
 私が立ててきた問いはごくごく素朴であって、どうして多くはヘテロ・セクシュアリティになるのか、どうして性と生殖と育児がスムーズにつながるのかということです。余談で言っておきますが、以前、なぜ子どもをつくるのかという副題の書評を書いたところ、ある小説家が全く的外れにも、子どもの作り方も知らないのかとコメントして揶揄したつもりになっていたことがありますが、ことほど左様に、この問いは真面目に受け取られないんですね。そして、ともかく、なぜか知らないけど人類は延々とそうやってきたわけですが、これを不可思議な謎として言い立ててきたわけです。言っておきますが、性について論ずる人の大半は、こんな素朴な問いを立ててはいません。そこで、次に、この素朴な問いを考えるために何を手繰り寄せてきたらいいのかということです。これも素朴に聞こえるでしょうが、私の発想はこうでした。たぶん間違いなく、自分が生まれてきたというのは関係あるだろう。それから、自分が死ぬだろうということも関係あるだろう。それから、母という女から生まれたということも関係あるかもしれない、と挙げてみたわけです。ポイントは、性化や性別化の議論に還元しないということです。言いかえると、セクシュアリティ論やジェンダー論だけでは駄目だってことです。つまり、問いは生老病死にかかわるんだから、生物的なものと社会的なものが接するところでの諸条件をまず定式化しなきゃいけないことになる。ここでも既存の理論は役立ちません。要するにヘテロを問題化するその視点は、このようなものであって、堀田君のような視点とは大いにずれているんです。たしかに、この論脈でも堀田君の視点のように、政治的・経済的・文化的なことを手繰り寄せるのが通例ですね。マッキノンの言い方をとるなら、ポルノグラフィの装置とか各種の文化表象とかいろんなことが言えるわけです。膨大なお喋りの堆積がある。でもね、そこから何を歴史貫通的に決定的なものとして手繰り寄せたらいいのかが難しい。はっきり言って、誰も成功していない。
 そうは言っても、歴史を振り返れば、素朴な問いを解こうとした人はいます。私の理解の範囲では、各種の神話や聖書があるし、それにフロイトがいます。どうしてフロイトがオイディプス・コンプレックスなんてことを言い出したかというと、イリガライやバトラーなどを除いて、多くの人はそう読んではいませんが、なぜ大半がヘテロになって子どもを産むのかという問いが出発点になっている。その問いによって駆動されている。ところが、このフロイト精神分析の遺産にしても、通俗化や断片化を経てしまって、使い物にならない。
 準備体操はここまでにして論文にもどると、レズビアン・フェミニズムの側からだと考えやすいんです。ヘテロセクシュアリズムの外だからこそ、取り上げるに値する。論文で取り上げたのは、リッチとマッキノンとウィッティグですが、たしかにテクストの字面を読む限りでは、引用した全部がそうじゃあないけど、概ね堀田君が言う通りの筋なんです。レズビアニズムが感知している抑圧がね、ヘテロの男がヘテロの女にかけている抑圧や非対称性と同じである、あるいはその派生形であるという語り方をしてはいる。でもね、彼女たちがそれだけでものを書いているはずがない。彼女たちは、女を選んだんですから。そこの読み手の感度ですよ。彼女たちのテクストにしても、丁寧に読み直さなきゃいけない。たとえば、マッキノンのいう「コード」はどう見ても異性愛のコードです。異性愛のコードにたいする違和感を彼女は表明している。ヘテロの男とヘテロの女のペアに対しての違和感ですよ、それは。生理的嫌悪感と言ったっていい。こう言えば、彼女たちは否定すると思うよ。でも、彼女たちは、「自然な」身体的で肉体的な嫌悪から出発していると思う。リッチにはいい加減なところあるんだけど、たぶんそう。ウィッティグは明らかにそう。これは確信がある。ウィッティグって人は、これは有名な話だけど、あるシンポジウムで「あんたレズビアニズムを称揚しているけど、やはり女でしょ」って突っ込まれて、「いや、私はヴァギナをもってない」と突っ返した人なんだよ。もちろん、それは売り言葉に買い言葉なんで、ウィテッグにしてもいろんなこと言いますけど、そういう根性入った人だから、異性愛なんていうのは全く異質のワールド、トータルとしてレズビアンに対して抑圧的なワールド、ヘテロな男女が構成するワールドにすぎない、と彼女は思っているわけ。
 だから、堀田君の質問がポイントを外してると思うのは、異性愛が男女共犯で何かいかがわしいことをやっているという観点がありうるということに思い至れていないってことなんです。その点ではいろいろ言いたいことがあるんだけど、とりあえず二つくらい言っておきますね。「我々」は育ってくる過程のどこかでヘテロ化している。そのときには、男と女がいやらしいことしてるからいいよね、と思うようになっているんだよ。ところが、その過程で、男と女があんなことしていやらしい汚らわしいと思う人がいるんだわ。その差異なんだ。レズビアニズムにはその差異の直感があるわけ。そのことを罪責性とか原罪って呼ぶのはちょっと重いんだけど、そこを言い当てている感じがするわけです。猥褻性と呼んでもいんだけど、そうすると、ちょっと錯綜するので避けた。もう一つは、歴史的にヘテロの側は倒錯者や同性愛者について「自然に反する」罪だと言ってきたわけですが、では、どうしてそんな言い方が流通してきたのかということです。これについて、ちゃんと考えられたことはないと思うんですよ。そして、この論文の研究論文としての限りでのキモはね、マッキノンが異性愛を自然に反する罪だと見なしていると解しているところです。そして、ヘテロに内在する自然に反する罪は、ヘテロである「我々」には自然で自明な何ごとかなんだわ。このように論文では問題を立てているわけです。だから、堀田君の問題意識につながらないのも当然ですね。そこを見えなくさせてきたものの一つが、通常のフェミニズムだったんですから。
 自然に反する罪ということで、せっかくこういう機会だから解説的に言わせてもらうけど、私からすれば、「介護の社会化」とか「家事の社会化」はね、結局のところは、社会のケア化・介護化・ファミリー化でしかないのよ。そう見ると、昨今の動向の中に位置づく。たとえば、大学は明らかにファミリー化してるね。最近も驚いてるんだけど、学部教育は「まなび」って言い出してる。それって、教育学者の言説、教育委員会や校長先生の言い草だよね。しかも、幼稚園や小・中学校の。大学そのものが、完全に学生を子ども扱いしているわけです。成人もいるのに、ですよ。大学での性ということでは、セクシャルハラスメント対策。教職員の言動の具体例を証拠として出すのは控えるけど、運用の実態は別として、少なくとも大学人の性的な想像においては、大学教員と大学生とが恋愛関係に入ることじたいが禁止されていると受け止めているんだよね。法の文字はそうなってはない。でも、法の精神は確実にそう受け止められてる。私が言いたいのは、その善し悪しというより、そこで起こっていることの分析や認識ですが、いまや大学を構成する人々の関係は、性的に自律した人格同士のそれとは見なされていない。では、何なのか。ファミリー、ファミリー内部の近親なんだよ。大学は子どもを社会化する責務を持っている。社会化ということは、ノーマルな性的人格、ノーマルな年齢でノーマルに結婚する人格に仕上げるってことも含んでいる。だからこそ、教員と大学生の恋愛はいわば近親相姦のように見られている。それこそが、嫌悪感を呼び起こす、自然に反する罪なんです。この例示への賛否は別にしてもですね、実際もっと際どい例もあげられるけど、ともかく、自然に反する罪というカテゴリーは古臭いわけではなくて、現在でも連綿として生きていると見ることができる。そして、自然に反する罪って、その用法からして、道徳的な悪というよりは、原罪的な罪責性なんです。ヘテロにそのような罪責性があるとしたら、そしてレズビアニズムだけが見据えてきた罪責性があるからには、「我々」はどう考えるべきか。それがこの論文の問いです。この辺の問題は、およそリベラル・ラディカル・フェミニストには見えていない。多少なりにも感知しているのは、あえて言えばフェミニストバッシングしている連中。それから、精神分析系。より正確に言えば、ジジェク派だけ。
 この論文は、罪責性と強制性をイコールで結ぶという力業をやっていて、それは政治的/経済的差別とは区別すべき論点だということを言ってるわけですが、それにしたって、用語の一つ一つについてこの程度の導入が必要になっているわけですね。しかも、性の一部をかすめただけで、生殖にも育児にもとどいていない。日暮れて道遠しです。

堀田:論点があるとすると、僕の話はたぶん小泉さん予想どおりの話になると思うんですが、「いかがわしいことをしている」、それが嫌悪感になるのかもしれない、おそらくそうだろう。そして、僕はどうしても規範論的良し悪しを考えてしまうので、道徳的な良し悪しですね、その嫌悪感にはそこまで取り上げるだけの重みがあるのかどうかを考えてしまうんですが。

小泉:それって俺は関心ないぜ、の言いかえでしかないですね。一応、きちんと応ずるなら、その重み、道徳的レレヴァンスをめぐる争いだってあるでしょ、ということになりますでしょうか。あるいは、世の中は道徳主義だけでは動いていないよ、ということになりましょうか。あるいは、こう応ずればいいかな。たとえば、猥褻への嫌悪感について道徳的に悪いかどうかに還元したいという堀田君の真理と正義の欲望とは何なのか、そんな多数派の欲望は何を引き起こしているのかというニーチェ的な応答をすればよいでしょうか。あるいは、あなたはポルノ批判をどう掻い潜ってきたのか、どう忘れ去ったのかと問うてもいいかな。

堀田:と言うと、そのいかがわしいことをしているのではないかというところに対する嫌悪感というのは、それは、小泉さんとしては「人はなぜヘテロセクシュアルになるのか」という問いに関わっている、と。そしてこの問いは、「ヘテロセクシュアルになる」過程で生理的な嫌悪感を抱く人に対する強制力を解消すべきだ、という話ではないということですね。そうではなくてむしろ、認識の問題ということでしょうか。

小泉:うん、認識の問題ですよ。ここはもっと根性入れて言うべきところだけど、認識の問題です。欲望の認識の問題。そして生き方の問題です。狭い意味での道徳や規範の問題ではなく、倫理、エートスの問題です。大学内の恋愛禁止命令を裏から考えるね。この禁止命令の正当化は、もちろん不利益や被害の言説、非対称性をめぐる権力・パワー・ゲーム言説に依拠してますね。法の文字面はそうなっている。では、本当のところ、どうして禁止の掟を立てたがっているのかと問うた途端に、そこを駆動している精神とか欲動について考えないと解けないことになる。いまの大学人の生き方やエートスを問題として対象化しないと見えてこない。こう言ってもいいかな。一般に禁止命令がそうだけど、いろんな計算の仕方によるにしても、およそ合理的な損得勘定とは思えない事態が進行する。世の中はそれほど合理的・理性的に仕切られているわけではない。あるいは、本当に禁止しきろうという合理的信仰者がいるわけではない。いい加減です。まさしく、善悪では割り切れない事態が進行する。だから、まずは認識の問題になる。
 堀田君の質問のポイントはもう一つあると思うんですが、単純にいえば、レズビアンは当初は地球に舞い降りた天使や悪魔や宇宙人みたいなポジションにいるんです。だから、孤絶しているし孤独です。肉体的に情を交わすべき相手が、この世に、この地球上にいないように見える。そのとき、外見上はこの異人は人間に似ているものだから、そっちに巻き込まれる強制性を経験する。しかも、それは地球に舞い降りる前に自分に課せられていたかもしれない使命に反すること、自然本性に反する罪責性なんです。でも、それは、本来自分の仲間である異人を探し出して出会うなら、片がつく問題です。でも、地球人が無暗に邪魔している。だから、道徳的には、妨げているモノを排除しましょうとなる。実は、同じ人間が同じ人間の相手を探すということではあるんだから。堀田君に合わせれば、その程度のオチにはなると思う。だからといって、公共的なことに仕立て上げるべきかっていうと私は疑問なわけ。それは、逆から考えるといい。ヘテロの人間が少数だったらと考えてもいいし、ヘテロに罪責性を見る観点を学んでもいい。簡単に言えば、ヘテロの権益を下げて、低きに合わせろ、が私の立場です。

堀田:この論文ではないですが、別のところで、「性愛」という言い方は生殖と不可分にされているけれどもむしろ「肉欲」と呼ばれるべきであって切り離すべきだ、という議論をされていたと思うんですが、その話とも関わるのでしょうか。

小泉:そのときにはっきり書いていたわけじゃないけど、「性愛」って、同性愛があってそれに対する異性愛があって、その後で、両者から抽出された用語であると見なしていい。つまり、あたかも両者に共通する中性的で中立的な性的な愛があるかのような言い方になっていて、そこがひっかかっていたんです。あと、「性」と言うだけなら男女二つしかなく、性的なものを細分したってそのことは動かないんですから、その点でもひっかかっていました。あと、多形倒錯を認めるなら、いまさら愛と性愛を区別したって仕方ないじゃん、というのもありましたね。ともかく、「性愛」って便利なようで不便な用語なんです。そのときに、肉欲や肉体を持ち出したのは、たぶん子どものことが気になっていたんです。生殖との接続の仕方が。ところが、この辺は、フロイトやレヴィナスもそうなんだけど、おおむねこういう議論になる。二人が愛し合っているとする。愛しているとき、どうして他ならぬその人を愛しているのか、その特異な他者性、非対称的でもある愛の関係は何なのかと問うと、「他ならぬその」については、「これだ」って言えないという議論がありますね。恋愛の不可能性をめぐる議論とか、恋人の他者性をめぐる議論とか。それは一体化しようとしても、愛の理想は文字通り一体化することだとしてね、抱きしめても抱きしめても届かない所有できない何かである。そして、その何かが子どもとして結実する、招来される、恋人の他者性が子どもなる新規の他者性として始まる、そういう議論構成になっている。愛と生殖をつなぐ議論は、ほとんどがこのタイプです。それって、「それを求め求めて、「あーっ!」って射精したら、できちゃった」っていう話なんだよ、つまるところ。まさしく他愛もない議論です。そのときに、男も女もいつか死ぬってことを、通俗的にはよく知られた話ですが、もう一つ入れておくのがお約束になってきた。このときに、旧来の家族や共同体や世代の伝統的な議論と同じに見られたくないもんだから、少し気の利いた人は、母親から生まれたということ、起源での愛は女に向かっていたということを付加する。それにしたってどうよ、という感じなんですが、まあ私自身も、上の線で引っ張れるんではないかと考えていたのね。肉体性の次元を入れたら、死が位置づくだろうし、肉体の片割れとしての子どもも位置づくかもしれないとね。それに、他者のかけがえのない内密なるものって、肉体という概念でないと押さえられないと思ってもいた。身体では駄目なんです。身体ってやっぱり皮膚ですからね。
 でも、正直わからん。本当に誰かに教えてほしい。ただ、論文の小さな論点を補足すると、以上はヘテロの話に見えますし、実際そうなんですが、レズビアニズムにもゲイにも浸透している。それもあって、あの論文を書いたんです。
安部:いわゆる先生のいう単独者、宇宙人でもいいですけど、その人たちもそういう力学にからめとられちゃうんだけど、それはでもイデオロギー的なレベルの話ではなくて、という話ですよね。

小泉:うん。

安部:そうなると別に子どもじゃなくてもいいんですよね? そこはどうなんですか?

小泉:愛の結晶ってやつが? 

安部:はい。つまり、ちょっと適当なこといいますけど、まず誰かに届きたい、つながりたいという契機がある。けれども、それは不可能であって。でもそのつながりを媒介するというか、疑似つながりを代補するために挿入される対象というのが愛というものの構造にはあってですね。つまり疑似的なものでしかないんだけど、そのわかりやすい形象として子どもというのがあるのではないか。その候補としていろんな対象にさまざまに理由がつけれるなかで、もっともわかりやすいものとしてです。それで、じつはいまいったような愛の構造というのは普遍的な形式としてあるのではないか、そんなふうに思ったりもします。

小泉:たぶん、それでいいんでしょうね。昇華の問題系として、そう落ち着けば、それでいいような気がします。誰がそこに落ち着かせるのかって問題はあるけど。
 ただ、ヘテロが主流だから当たり前だけど、安部君の語りこそがヘテロの語り口になっているんじゃないのかな。一見、中性的な語りになっているからこそ。ただね、すこしキツい言い方ですし、私に言う資格はないんですが、同性愛者はそういう語り方に絡めとられていると思うんですね。それでいいんだろうか、と尋ねてみたいわけです。ともかく、アレントが浮上してきたのは、この文脈です。アレントは、子どものことなんてちょろっとしか書いてない。にもかかわらず、ヘテロの研究者たちがそこにとりつかれてきた。アレントを使ってまで、代補は作品や名声ではなく、あくまで子どもにしたい。ヘテロはおのれの傷を癒すのに一生懸命なんでしょうかね。よくわかりません。
 当面、私としては別の道を探っていて、古来からの倫理道徳の大きな問題を学び直したい。自足した人生とは何かとか、幸福な人生とは何かという問題なんですが、それは単独者の問題です。古代の徳論は、必要な変更を加えれば、基本的に単身者の議論として使えると私は思ってます。それはフーコーの賭金だったはずです。

安部:ちょっと話のラインがずれるかもですが、関係あると思うのでお訊きしますけど。だとするとですよ、先生は生のリレーみたいなことをよくおっしゃるじゃないですか。その話もそういう、さっきいったような充足した生とは何かという問いと??。

小泉:私自身は、生命のリレーは何がリレーされているのかさっぱりわからないと書いていたはずです。ともかく、生のリレーは、厳格かつ厳密に生物的に詰めるなら別ですが、すべて幻想でしょ。

安部:はい。だとすれればね、生のリレー論みたいなのもやはりヘテロの枠内での?…。

小泉:ええ。ヘテロ由来ですよね。じゃあ、ヘテロ以外の人が構造的に似た幻想を抱いている場合は、ってことですね。少なくとも、私は、ヘテロ以外の人には、別の幻想を開発するなり、今の幻想を打破することなりしか思想的には期待しませんね。いま気づきましたが、たぶん私は安部君と違って、ヘテロとそれ以外の異質性を過重視しているんですね。
 この点で付け加えておくと、クイアをめぐるさまざまな運動がありますね。これは運動一般に通じることだけど、運動や闘争への物質的支援はいいとして、私はどうしてヘテロがすっと思想的にも支援できてしまう気になれるのかが不思議なんです。なんというか、双方の側で、何かズルズルの感じが嫌なんですね。もうちょっと対立や異質性は厳しいもんでしょ、と思うんです。ことに性や肉体に関することって。これは差別論にも通じることだけど、レイシズムにしても同性愛差別にしても、根はもっと深いし、差別はもっと厳しいものだと思うんですよ。それはね、暴力性とか被害者性をめぐる道徳心理主義や承認論のお話とは少し違うんです。それなら、むしろ簡単。寛容で公正で優しい顔をした、もっともっと根深い差別があると思う。ただね、それこそ当事者がそれでいいって言うならいいんです。私の方からとやかく言う筋合いではない。ここも、教えてほしいところですね。

堀田:そこはやっぱり僕は形而下の人間なんで(笑)。何ですか? その「厳しさ」っていうのは。

小泉:ずっと形而下の話しかしてませんよ。たとえば、抱き合う相手がみつからないってこと。

堀田:それがそれほどとるに足る問題なのか、という話は繰り返さないほうがよいかもしれませんが、「セクシャル・マイノリティ」というのは文字通り??。

小泉:孤独ということだよ。肉体のレベル、肉欲のレベルで。私などは、老人の孤独ってことで、初めて多少は身に染みて了解できた感じになっていますが。

堀田:ア・セクシュアルというか、そういう人とはまた違うんですか?

小泉:ア・セクシュアルな人にも関心はあるけど、本当に「ア」なのか、どう「ア」なのかわかりませんが。要するに、手をつなぐとか裸になって抱き合うとかいうレベルのことです。

堀田:それは本質的な何らかの欲動みたいなものですか?
小泉:あるでしょう。

堀田:それはヘテロの場合はマジョリティだから容易に相手をみつけることができるということですか?

小泉:服装で簡単に見分けがつくから。

堀田:レズビアンにこだわってこの論文は書かれているんですが、ゲイにかんしてはどうですか?

小泉:あくまで個体発生論や発達論に拘泥するなら、また、起源の性化や性別化が異性化として始まるとするなら、これは大多数が認める前提ですが、二つの同性愛は無益な二分化になるか、あるいは、最速でも異性愛と同時のものになるか、たかだか異性愛の派生態として位置づくかです。常にそこは曖昧にされてますね。大人の話をしている分にはそれでいいんですが、それ以上のことを射程に入れるとなると、そうも行きません。かといって、そこで判断がつかないのです。とはいっても、この論文の背景では、方法的に、男が関わるものと女だけが関わるものが決定的に違うという仮定を立てています。だから、このこと自体は、いつかきちんと書けるなら書いて、然るべき仕方で批判に曝すべきだと思ってます。
 昔、私は、レズビアンであれゲイであれ、分離主義者に打たれたんです。分離主義が一番かっこいいと思ったんですね。ある意味で、それはヘテロにとって気楽なことなんだけどね。

堀田:そうですね。ヘテロにとっては分離主義はありがたい立場だとされています。

小泉:そう、何か言うとすぐに自己批判に転じざるをえなくなる。その意味で、性は、通俗的なことを含めて、もっともっと豊かで厳しいテーマなんだよね。そこがすっかり駄目にされてきた。
 ヘテロって、基本的には、家族を作るものとされているわけですね。その家族の罪責性/原罪性と問題を立ててみるとね、家族内の非対称性と性別役割分業に関して分配的正義やら合理的最適解やらを見つけたところで、それはそれで結構なことですが、それでも未解決に残されるものがあるとして、そこをマークすることに関わっているわけです。私からすると、女性解放運動はそのことにかかわっていた限りで大切なものである考えてますし、最近でも、親密圏にこそ内在する暴力性とか、介護殺人とか、家族性とされる病理とか、まさにその残余に関わっているんじゃないでしょうか。
 ところが、多数派は、奇妙に中性的であったり、脳天気に虹の世界を言祝いでみたりで、リベラルで多文化主義的になってしまって、へテロの重みとか謎とか、家族のリアリティとかを全部蒸発させている。その無色透明性でもって、暗い汚れたものがすっかり見えなくなってしまっている。見えなくなっているというより、そんなものはないんだというのなら、それはそれで結構なんですけどね。まあ、この辺りは、私がやる仕事じゃねえだろ、って気分はあるんだけど、少なくともそういうものを学界や思想界でとんと見なくなったのは寂しいし、なんか不健全な気がしますね。

堀田:「社会化」とかそういう話、さっきの家族あるいは育児・家事の社会化の話で、おおむね方向性としては、それに反対する人はあまりいないわけですよね。

小泉:いない。

堀田:で、もちろんそれが必要であることは小泉さんも認めている。一部認めている。

小泉:一部ね。

堀田:で、そこがまだ実現されていないから、それを言う必要性もある、と。しかしそれだけで終わっているということが、やはり違う、と。

小泉:もう実現されてるでしょ。これ以上の何が必要なんですか。それに、これ以上を求めるにしても、堀田君にだって帰趨は見えているわけでしょ。問うべきことはね、一体全体、何を願望して何を期待しているんですかということですよ。この10年ばかり、人々は何を夢見たんでしょうか。何を夢見てるんでしょうか。介護の社会化にかけられた願いって何なのでしょうか。繰り返すけど、それが無色透明な言説で語られることでもって、しかも少数者の闘争や苦闘を簒奪することをもって、実際には中産市民階級の家族を擁護するだけになっている。およそ全社会的なものでも共通的なものでも公共的なものでもなくなっている。そんなことは先刻承知で、お喋りしてる。何なんですか、これは。気味わるくありませんか。ここでの話題に限っても、現在の社会化制度で家族に内在する暴力性や孤独や弧絶を解消できるはずもない。

堀田:家族に内在する暴力性や孤独を解消することが、小泉さんの議論の根底にあると理解してよいのだとすれば、僕はその問題意識は共有します。ただ、そのときにどの利益を守る立場からそれを言うか、ということではおそらく大きく違う。小泉さんのファミリーブラインドの指摘は面白いけれど、僕はむしろそれは、ジェンダーブラインドなのではないかという疑念を抱くな。たとえばさきほど素朴に言ったんですが、単純に、物理的な妊娠出産の負担という男女間の懸隔の評価についても??。

小泉:それにしたってナイーブ過ぎるでしょ。

堀田:ナイーブというか端的な事実ですけどね。物理的な負担を想定しているのは誰もが明らかで、そうでなければ妊娠出産中絶をめぐる問題はそもそも存在しません。

小泉:妊娠の痛みや重みを、どのぐらい見積もるか、堀田君ごのみの合理的解決でおさまる話でしょ。

堀田:もちろん当人にとっての「痛み」や「重み」の解釈の揺れはあるでしょう。ただ問題は、それを第三者が計算できる対象にできるか否か、というところなんですよ。

小泉:それから私が言うのもなんだけど、妊娠のよろこびとかもある。

堀田:それはそうです。でもそれはやはり線が引けると僕は思いますね。

小泉:いや、その線の両側が非対称性をなすという見解が変なんです。それこそ生物学的本質決定論ってやつじゃないですか。

堀田:はいもちろんです。僕はこの点では当然、生物学的本質論者ですよ。というか、それ以外の立場がありうるのかがむしろ疑問です。苦痛とか負担が一定の水準を越えた場合には、心理的な「ゲーム」とか遊びとは別のレベルでみんな問題化しているだろう、たとえば「病苦」とか。小泉さんもそれは前提にしているんではないでしょうか? というか、誰もがそうではないかと思うんですが。

小泉:堀田君の言う程度の断絶のことなら、基本的には、合理的なゲームの解探索である、ということにされてきたんじゃないですか。多少でも今日の議論に引きつけてリベラルを補足してやると、そのペアがどういうかたちで補い合っているかといえば、いろんな議論ができちゃう。たとえば、男は労働するから寿命が短いわけ。男は生存期間を取引材料にしてる。家父長制はそういうゲームなわけ。その意味も含めて、労働と妊娠がともに死を運命づけられた人間のlaborとして、「原罪」として語られてきたわけですね。でも、それは要するにヘテロ内のお話じゃない。ヘテロで家産のある者の内部のお話でしかない。介護保険制度にしても家族の階層化、階級化の固定だと思いますよ。家族間内部の資源争奪ゲームでしょ。私には、多数派内部のレントの取り合いにしか見えない。そもそも、専業主婦の比率が一番高かったのは70年代ですが、それは歴史的に見ても異常だったのであって、現在はその異常性を脱して歴史的に通常の状態に戻りつつあると見ていいと思うんです。とすると、性や生殖や育児を考えるにしても、ヘテロで物持ちの層を典型に考えても仕方なくなる。

安部:ここまでのお話をまとめるつもりはないんですが、ひとつ訊いておきたいと思うことで、『思想』論文だと「生政治の余白のポテンシャル」、岩波論文だと「単独者」、あと『生殖の哲学』では「モンスター」というか、そういうラインってあるじゃないですか、先生の書き物を横断している線分として。その話はもちろん各論として社会/経済/法といった磁場の分析をふまえて当然なされねばならない問題として個々あるんだけど、ただいまいったようなラインに示されている小泉先生の倫理的な世界観というか、ちょっと何と呼べばいいのかわからないのですが、絶対的な自由の倫理といってもいいかもしれません、ともあれそれはまず「よき」ものと考えられていると僕は思うんですが、小泉先生にとってそれらはどういう位置づけなんですか? つまりそれは倫理やその系統のものなのか、それとは異なるものなのか、それを前からお訊きしたかったんですけれど。

小泉:私は、出発点として、研究者そのものを信用していないし、研究者の世界観や倫理観を信じていないんです。私の育った地域では戦後一貫して闘争や運動があって、私も物心ついた時にはその渦中にいましたし、私なりの経験もありますが、そのときから、学者や研究者は信用が置けない、ステッカー1枚貼らずに勝手言いやがって、というのがあるんですね。だから、自分が研究者になるにしても、絶対にやるまいと心に決めたことがいくつかあるんです。その一つは、倫理にせよ政治にせよ、何か生き方や闘い方は必ず「民衆」に学ぶことにする、そういう構えのものしか書かないということでした。私自身はいい加減ですから、いい加減な仕事にしかなってませんが、『生殖の哲学』の場合は、これはわかると思いますが、現に生きている障害者、現に障害者を育てている人々に学ぶという姿勢で書きました。そんな人々が現に、そして常に必ず不思議なことにいるんですから、研究者たちによる優生批判だの差別批判だのはクソであるとも言っているわけです。
 ただですね、研究者としては、心に決めたことを、学界の人々にも通じるように書いてみせる責務はあると言えばあるわけです。正直言って、残念ながら哲学以外の分野には十分に手が届いてはいないし、勉強不足で力不足です。私の観点からするなら駄目なものは駄目とわかるにしても、ポジティヴには何も進めていない。たとえば、スピノザに「自然権は自然の力である」という有名なテーゼがあります。権利は力である、力が権利であるというのです。もちろん、この例解にしても解釈上の争いがありますが、ライオンは獲物を襲って肉を食う力がある、だからライオンには獲物を襲う権利がある、っていうことです。だから、弱い奴にはその権利はない。自転車に乗る力のない者には自転車に乗る権利はないし、家族を変える力のない者にはその権利はないのです。これはひどく乱暴なテーゼに見える。だから、研究者は敬して遠ざけるんですが、私は何か弱者の力の肯定を感じるんです。エンパワーメントやらケイパビリティやらよりも、はるかに品位が高いと思う。そんなことを一生懸命考えて書きたいと思っているんですが、駄目ですね。これは少し触れたことはありますが、自由について言えば、全部野放しにした方がうまくいくという直感があるんです。そして、学者が自由論を必ず野放しや我儘の否認から始めざるをえないと思っているその思想こそが、「民衆」の敵に当たると思っているんですが、ここも何も手つかずのままです。

安部:自然状態のほうが「よい」ってことですね。

小泉:ええ。それが発想のスタート地点ですね。一応注記しますが、それは国家死滅とか国家嫌いとかいった左翼主義に由来するわけではないんです。まあ、民衆ロマン主義とでも呼ばれるでしょうが、私にはそのリアリティの経験や感触があって、そこが出発点です。ただ、どうしても私たちは、全部野放しにしたら危険や侵害が起こるということですぐに道徳家になってしまう。あれこれの防備や警備や配慮がいる、と物事を考えてしまうわけです。

安部:スピノザとホッブズでは前提が違いますからね。

小泉:全然違う。それはごく基本的な研究常識でもあります。

安部:つまりホッブズの場合は自然状態でもだいたいみんな似通っているという前提だから、ああいう話になるわけですよね。

小泉:そうですが、これは論文に書いたことはあるんですが、ホッブスにも力の差異はある。後のロックになると、それを隠蔽・抑圧しますが。ホッブズのポイントはね、どんな弱い奴だって強い奴が眠っているときには殺せる、だから人間は平等であるとする点です。ならば、どんな重度障害者だってやれるんですよ(笑)。平等なんです。力においても権利においても。だから、社会契約なり国家創出なりを通して、この力=権利の平等が圧殺されていると見る方がいいのです。ホッブズはそこをわかった上で、やってる。凡庸な研究者とは出来が違うんですよ。ところで、それだけでは立ち行かぬ、まあ機構や制度を立ち行かせるには足りませんから、人によっては怯えてしまうわけで、その怯えが道徳主義を産んで、これが抑圧するわけです。でも、スピノザにしても、他にも古代からのさまざまな思想家を引き合いに出せますが、道徳主義や国家権力以外の方式を考える伝統があって、それにも十分にリアリティがある。ともかく、私も含め、勉強しないといけない。いま安部君に整理されて改めて気づいたのは、だから、僕は権利言説を全く信用していないです。役にも立たないと思っている。
安部:僕もナイーブな権利言説にたいしてはそう思っています。

小泉:単なる依存症やヒステリー症を生むだけです。すこし穏当に言えば、せめてイェリネックに学ぼう、ということでしょうかね。先の質問に返ると、モンスターそのものは単純な話です。違った奴のほうが面白いじゃんっていうのがあって(笑)、これは本当に感性の問題だと思う。スカシて言えば、美学-政治学ですね。もう一つ、力ということで考えてきたのは、生命の力についてです。これは本当にうまく言いたいのに一向に書けないんだけど、たとえば、医療では、要するに自然治癒力ってものについてです。自然治癒力がないと治らない。その辺りを、きちんと言いたい。直感的な言い回しとしてはね、治療されたから治るというよりは、治療されたにもかかわらず治るという局面を捉えたい。おそらく、それが大部分だって気がしているわけです。精神病でもそう。薬を飲んだにもかかわらず治っちゃう、そう捉えたいんです。逆に言うと、薬はそこで逆説的に寄与している可能性はある。有益な毒性としてね。そこを言いたいんだな。

堀田:それは自然科学的な仕事っていうことになりますか?

小泉:いや、自然科学にそういう用語はない。哀しいことに、自然治癒力のことにしても科学的に分析する概念も実験もない。プラシーボ論議も全く駄目。ずっと探してきたけど、見つからない。たぶん、ないんです。なんとかして、自然科学と日常語法の中間のカテゴリーを開発しなくちゃならない。
 IPS細胞でも、もちろん私も希望を感じてはいますよ。単なる遺伝子工学と違って、発生生物学の系譜に位置していることも好ましいし。常にそうであるように、そこそこいい加減に、失敗と成功を入り混ぜながらプラグマティックにやって行くことになるでしょうが、本当の成否のポイントは、IPS細胞みたいなものを移植しても癌の発生を抑えて、あるいは癌を発生させる力を逆手に取って生きる力というのをつかみ出さなければいけないということです。先端医療にしても、そんな力をあてにしてやっている。そうやらざるをえない。道徳でもそうで、飢えた人でも消化吸収する力が残っていないと道徳的行為そのものが成立しないでしょ。だから、そういうのを肯定したい。そういうのを肯定する哲学・倫理が書けたら本望です(笑)。
 まともな専門家ならこのポイントは分かっていることだと思うんです。分かっていればこそ、まともなんです。でも、昨今はひどく減った気がする。たとえば、かつて闘った精神科の医者たちで物を書いてきた人の多くは、全く堕落しているよ。本当にかつて闘ったことがあるのかね、ただ居合わせたってだけでしょ、と疑いたくなりますね。エンパワメントとかケイパビリティ・アプローチとか生きる力とか研究者の口癖になってますが、あれこそ相手を完璧に無力化してる。無力化して介入の口実にする。私なんかは、それだけでもう不快になりますが、世の中はそうではないみたいですね。そんな専門化言説に比べれば、「貧者の力」を称揚するネグリこそを支持しますね。

堀田:僕はやっぱり「単なる生」と言ってもいいんですけれども、その力というのがイマイチわからないんですよ(笑)。掴めない。僕はやっぱり小泉さん的には?…。

小泉:「単なる生」でもどうして生きられるのかについて驚けっていうくらいの話ですよ。認識の問題として。そしてね、自然科学者なら調べるはずですよ、まあ殺しもするけど。「なんじゃ、この奇妙な生命体は」って話になる。だから「生かしておけ」と言いたいんだろって受け止められるかもしれないけど、その手前で、あの状態に驚くってことなんだわ。重度障害児でも数ヶ月生きられることについて驚けっていうことなんだよ。もちろん、自然科学的に見ても、少々の金を出したっていいだろ、とは言いたい。
 その上でね、単なる生と価値論ないし道徳論とは、たぶん結びつかないし、結びつけない方がいいです。無理して道徳的価値があるなどという必要はない。尊厳概念がすでにそうなっているということもあるけど、いまの戦場は、倫理的なものを越えたところになっているからです。スローガンだけ投げておきますが、キルケゴールのいう倫理の目的論的停止の領域です。

■「信」をめぐって

安部:いまの話もそうなんですが、今回たとえば『レヴィナス』を読み返して思ったことなんですが、そしてこの間の尊厳死・安楽死話っていうか、この前東大の「死生学」と「生存学」の共催企画もありましたけど、そのあたりの文脈ははしょっていいますが、つまりその生の力みたいなものを立岩先生もどうも信じているふしがある。わりとというか、かなりそうなのかなという気がするんです。他方、「死生学」の清水哲郎さんなんかは良識的で常識的なんですが、それは裏返すと、いま先生が言ったような生の力みたいなものへの信仰というか信が足りないというような言い方もできるのかなと。堀田さん、ぼくが言っていることわかるでしょう?

堀田:うん。「信じている」という言い方になるのか、「前提にしている」という言い方になるのか、「当てにしている」という言い方になるのか、そこらへんはニュアンスによって変わってくると思いますが。

安部:そうですね。

堀田:僕は前提にしていますよ。それは、生きているヤツを相手にしているわけだから、全ての議論が。だからそういう意味で言うと、おそらくほとんどの議論が前提にしているんでしょうけれど、そこをいま安部さんが言ったような「信じている」と強く言うのかどうかですよね。それは、医者ももちろん「当てにしている」わけですけれどね。自然治癒力を。そのあたりのスタンスの取り方で決定的に違いが出てくるのだろうとは思うんですが、僕はそういう意味で言うと、当てにしているし前提にはしているけれど、「信じている」というところまではいかないかもしれない。そもそもそういう対象じゃないような気が(笑)。

小泉:前提は存在論的な前提くらいのことでしょうが、当てにしているとなると、知識と区別されて対比される限りでの信(belief)ですね。それで、信じる、信仰する(faith)ですが、たとえば、「ご利益が返る」と信ずることだと思ってるんじゃないかな? そういうことじゃないんだ。
堀田:驚きも特にないんだな。生きているからそれはまあ何と言うか、しょうがないと言うと変ですが。

小泉:その言い方は、多少の嘘があるし、何よりも世間的効果を狙ってますよね。でもね、生きているからそれはそれであるがままに、って語り出すときに、そこに介入して生かさないでおこうとする動きに対抗しようとはしている。そのとき、そのときこそかな、仕様がないってことをどうしてかと言わざるをえませんね。ところが、たぶん堀田君にしても、良心的な生命倫理学者にしても、どう価値について理屈や理由を立てたところで、自分でもすぐに反論が浮かんでしまう。そこで、堀田君の最近の書き物にもシニカルな影が差し始めていると思うんですね。いまの話にしたって、末期の患者あるいは脳死状態の人間をどう扱うかっていう決定に結びつけようとする下心があるじゃない。

堀田:むしろ僕はそっちの方向性なら分かるような気がします。

小泉:そうだよね。でも、その方向も十全な説得性がないのは、始める前からわかっているわけだ。にもかかわらず、生命倫理学者や医療関係者は、どうして議論をする振りをしたがるのか。その欲望が気になる。議論の範囲はもう見えているのに。すでに、あるいは、すでに常に、討議的合理性の問題じゃなくなっているんですよ。そもそも、堀田君にしたって、いくつかの問題に関しては、最初から結論は決まっているんだから。そして誰に向けて書いてるんだかわからん議論を組み立てているわけだから、どう考えたって、何らかの欲望や情念に駆動されているとしか見えないわけです。とすると、ヒュームから遡って、スピノザやホッブズの倫理になるわけですが、まあそうは動かんでしょうから、信仰の方で補足してみますね。
 まず確認しておくと、告白しておくと、何と比較しているかは措いて、私は、生きている方がいいと思っている。この「思い」は、理性や知性ではなく、一番近いのは信仰です。そして、生命の力には価値があると思っている。価値にたいする信だね。
堀田:それは「尊厳」という言い方とはまた違うんですか?

小泉:尊厳っていう言葉は、バトルがあって使いづらいよね。

堀田:それはそうなんですが。やっぱり生命倫理学ではそういうことを言いやすいというのもあるんでしょうけど、「生命にはそれじたい尊厳があって」というような??。

小泉:細かな議論になるけど、生命の価値、生命の尊厳というとき、尊厳価値は生命を少し超越している。ここがキモです。信仰は、その少しの超越性に関わっているんですね。生命倫理学に合わせて言うと、尊厳そのものは、生命よりも死よりも高い価値なんです。だから、生命にも尊厳あるものと尊厳なきものがあるし、死にも尊厳あるものと尊厳なきものがあることになる。下品な詮議にはなるけど、世に行なわれている「尊厳」死にも、尊厳ある死と尊厳ない死を見分けるってことになるんですね。そして、生命倫理学者はわかってないけど、この尊厳の有無の差異は、通例の生命倫理学や道徳の基準では決め難いものになるはずです。はっきり言いますが、人工呼吸器を抜くにしても、カッコよくて美しい抜き方とそうでない抜き方の違いがある。そんな違いがあるのを認められるかどうかが、尊厳価値の本来の争点になるはずです。「自立」についても「自己決定」についても実は同じことなんです。諸価値の階層性があって、あるいはむしろ、「自立」の方が諸価値の階層性を作り出す。だからこそ、同じ価値水準・道徳水準にある者たちについて、自立しているかどうかを見分けられることになる。そんな超越性のことに気づくべきです。ベタとメタの区分と言っておけば通じるでしょうか。生命倫理では、例の諸原理をめぐる凡庸な議論で曇らされているところです。
 そして、私は、そこに戦場を移していいと考えている。世の研究者はそうはしないし、できないでしょうが、ところが「市民」はそこに移ってしまっている。それが、最近の学界の混濁や弱化の原因だと思いますね。

堀田:僕は最近考えているのは、さっきの安部君の話につながるかどうかわからないんですけど、「単なる生」ということで言えば、やっぱり脳死もそうですし完全に意識がなくなったという状態、それが証明できるかどうかはまた別にして、そういう状態でも死んでいるよりはまだマシだ、と多くの人が思っているんだろう、ということです。それをしかし、ポジティブに言うかどうかは別かな、と。

小泉:「多くの人」がそう思っているのかな。そこはともかく、マシと思うときには、ある範囲の倫理や道徳や政治経済価値は超越したもののためにそう言っていると見るべきだということです。単なる生が本当にあるかどうかは別として、それは価値の零度として理論上は想定もされてますから、その零度ないし定数より高い価値のために、と見た方がいい。
 哲学史研究者として言っておくと、脳死状態に意識があるかどうかという議論は大切だけど馬鹿げてもいます。哲学の強力な伝統の一つからすると、あるに決まっている。生きているんですから。だから、立てるべき問いは、脳死者に意識がどうあるかということであるよりは、脳死者に即して意識概念をいかに鍛え直すかということです。

堀田:ということは生きている以上は意識があるという命題を証明することになるわけですよね。それでほとんどの議論が??。

小泉:それは挙証責任をどちらに負わせているかという権力関係でしかないでしょ。現在の権力関係の下で、小松美彦氏などはそれに抗しながら証明をやらんとしている。他にも、若干オカルト気味の「証明」だって出されてますね。しかし、それだけではうまくないと私は思ってる。逆に、脳死状態に意識があることを公理にして始めるべきです。

堀田:ただ、その公理が説得力もってないわけですよね、ほとんどね。

小泉:ええ。権力関係があるからね。それにしても、理論的にも科学的にもおかしな話であってね、脳神経系を舐めているとしか思えんわけですよ。最低限、非常に偏った意識観でありイデオロギーでしかない、その程度の自覚は持て、とは言えるでしょう。

堀田:ただ、それで多分、「いい」って言う人が多いんですよ。その、脳死状態にはないとされる「意識」の概念でOKだと。

小泉:そして、一部集団の多数決で生き死にが決められる光景は何も変わらない。ともかく、生命倫理や医療倫理に向かって物を言う気はほとんどないんですが、私の個人的な倫理は、単純に、喧嘩では判官びいき、弱い側に立つ、です。これは喧嘩のルールでしょ(笑)。人の道だと思っているから、弱い側に立つのは。いま脳死状態でも生かしたいというのは少数派に決まっているから、支援するに決まってる。当たり前だよ、人の道だよ。これが「倫理」(笑)。ALSは支援するに決まってる。生きたいって言ってるし、生きる術もあるんだから、支援しないなんてことがあるわけがない。これは理屈以前のこと。飢えた人がいたら助ける、飢えた人に与える余裕があれば助ける、これは理屈じゃない。水であれ食物であれ、そして空気であれ、与えるのは当たり前。これは、たとえばユダヤ教の教えでもあって、レヴィナスもヨナスもウォルツァーも引いているよね。とにかく議論の余地はない。議論するのが間違っている。

堀田:議論の余地のないことを僕ももちろん前提にしていて。

小泉:だよね。

堀田:はい。明示的に依拠して書いています。
小泉:ただ、堀田君はアジが弱いから。

堀田:難しい問題があるんですよ(笑)。

安部:僕も、「距離」の話(「身近な/疎遠な」といった他者との関係性の差異にもとづく倫理的責務の問題)にこだわっているときも、わりとそこは前提にはしています。

小泉:だよね。そのときに、安部君はつかんでいると思うけど、ウォルツァーが書いているように、それだけでは、全員が砂漠や海上の上で暮らしているようなときの倫理になるわけね。家もなければ社会もない、共同体もない場所を想定した倫理に。けれど、現実には、我々はそんな具合に生きてはいない。だからということで、ウォルツァーなどは距離の長短について長い議論を始めるんだけど、その過程で最初の論議なき義務がどこ行ったのかが曖昧になってしまう。変形するのか止揚されるのかわからんけど、当初のクリアさはかき消える。これは安部君の冒頭の問題意識につながることですね? 

安部:おっしゃるとおりです。

小泉:でも、私は、現実の中でも砂漠や海上で出会うような仕方で出会う人はいると思うんです。単なる生とか、死んだも同然の生とか、死んだ方がましな生とかは、そこをマークするための言葉であるとしか思えません。ここはいろんな語り方をできるところで、それこそ通例の倫理を越えるところですが、飢えたる者は、大抵の場合、もちろん想像的表象にしかすぎないけど、やはり人間の大義というか、そんな高きものにかかわっているはずです。その高きもののためにこそ、少数の人々は生きているとしか見えないんです。表象文化や政治文化のレベルのことだと言っておけばおさまりがいいんでしょうが、それじゃあ、簡単すぎる。
 他方で、安部君のおかげもあって、最近になってようやく家族の問題も重要だなと思うようになってきたんですが、その文脈では、ある意味、単なる剥き出しの生という語り方はどこかよくない。どこか不健全だよ。だって、剥き出しの生を生かすために、生かすためだけに生かすってことで、いわゆる延命至上主義だけで、それだけで家族がやっているはずがないからね。世の常識、世の通例の道徳や倫理、凡庸な生命倫理を超越する高きもののためにやってるんですよ。そこを考えたって、人々は、脳死状態に砂漠で出会っているわけじゃない。

安部:それにかんして最近思ったことがあったんですが、この前、関西倫理学会にいってきたんですよ。シンポジウムがグローバル・エシックスというテーマで。ロールズをやっている同志社の藤森さんという方と、シンガー訳してる樫則章さん、それから松葉祥一さんが報告者で、樫さんがシンガーの話をしたんですが、そのとき思ったのは、要は距離の話にしても僕の場合、たとえば誰か困っている人がいる、だから寄付しなさいと。で、いわれた相手も困っている人がいたら助けたい、寄付したいと。そしてそれが自分が骨身削るだけですむんやったらいくらでもする。でも自分が骨身を削る、見知らぬ他人に寄付することによって自分の家族(身近な人たち)が飢えちゃう、というそういう言い方が一番強いと思うんですよ、その手の要請から逃げるときに。僕が距離の話で引っかかっているのって、そういう言い回しだなとあらためて思ったんです。つまり個人として、さっきいったように困っている人は助ける、助けたい、助けるべきだ、助けれるでもいいんですが、そういうのはあるんだけど、つねにそのときに邪魔がはいっちゃうというか、家族とかね、そういうのが差し挟まっちゃって。何より問題は、それが差し挟まれることによって、求める側は後退するわけですよね、「ああ、そうか」というか「だったら仕方ないね」と思っちゃう、思わされちゃう。で、僕は結論からいえば、あまりそういうふうにみえていないかもですが、じつは少なくとも人の生死にかかわる局面においては距離なんてそんなものないやろ派なんです。でもそこをいうためにはちゃんと距離について考えなきゃならない。つまり距離というのがいったい何なのかが僕はじつはよくわからないんです、よくわからないからこそ気になっているんです。そしてそれは僕の個人的な理由だけでなく、倫理について思考するうえで外すことのできない論点だと思ってます。
小泉:ずっと私は、その想定にはリアリティを感じられないんです。何となく、不良設定問題に感じてしまう。ずっと説明できないできたんですが、とにかく、相手を支援されるしかない者として設定していることが気になる。それはさっきも話した点ですね。安部君の設定のその困っている人は、どこから来たわけ? 

安部:僕の設定は、補足したいんですけど、直接当事者がねだってる場面じゃないんですよ。当事者、たとえばアフリカの子どものための募金活動を僕がやっているというような設定なんですよ。

小泉:なるほどね。私は募金はしません。しないって決めてる。今日の流れで言うと、アフリカの人が砂漠の中での孤立した個としてだけ表象されている、そのことが許しがたいな。だって、かれらには家もあれば友人もいる。我々が何も知らないだけだよ、そのことを。

安部:『生存学』第一号の論文(「ケア倫理批判・序説」)のときに、先生からそういう示唆をいただきましたね。

小泉:アフリカの人々自身の力が現にあるはずなんですよ。あれほどの状況、どれほどの状況かわからんけど、その状況で、生き延びている人々がいる。だったら、その力を肯定して擁護することから始めるべきじゃない。それは家族かもしれないし軍閥かもしれないけど。私はその肝心な点について何も知らないので、そういう面で教えてくれるものはないかなって探してきました。ところが、何もないよ。本当に、見事なぐらい何もない。現地報告と称するものだって、あまりにひどい。植民地主義ですよ。というか、植民地主義者の方がわかっていただろと与太を飛ばしたくなる。最低だね。
 でも、こんな状況も、来年、ワールドカップで変わるでしょう(笑)。南アフリカでワールドカップやって、沢山の有能な報道陣が入っていけば、自称研究者の多くは吹き飛ばされるでしょう。
安部:ご指摘は僕も気になっているところで、今後の思索の課題とさせていただきたく思います。では時間も残り少なくなってきましたので最後に、よろしければ「生存学」といいますか、先端研の人たちに今日の話をふまえてメッセージ的なものがあればよろしくお願いいたします。

小泉:これは普段から言っていることですが、私は論文を書くときには、絶対に――最近はちょっと緩んでいますが――顔を見知っている人からの引用をしないようにしているんです。これは基本的責務になりますが、ある説や見解があったらそのネタ本やネタ論文に遡らなくてはいけない。そうなると当然、過去の邦語文献や外国文献に辿り着くことになる。自動的に、見知らぬ人を引くことになります。ところが、知り合いのものを挨拶みたいにして引用する人が多い。これは生存学周辺に限ったことではないですが、そんな最近の作風は、ちょっと私なんかには信じ難いものがあります。身近な人から刺激を受けて教えられるとかはあるとは思うけど、研究論文はそんな狭い範囲で書くわけじゃないんですから。そして、「生存学」でいえば、世界に向けて発信しているわけですから。世界には、もっと優秀な人がいます。もっともっと面白い人がいますよ。そこをわかって欲しい。読書についても同じで、見ていると、悲しいぐらいに内輪ですね。ここだけに限らないけど、世の研究者全般がそうなっているけど、そんなことでは、先端も総合もヘッタくれもありません。
 あと、もっともっと面白いものにしなきゃ。関西的に言えば、受けを狙う書き方をしないとね。

安部:捩っていえば、「院生よ、グローカルたれ(世界を舞台に関西人たれ)」というエールを頂戴しました。本日は誠に長時間にわたり、どうもありがとうございました。