まえがき

安部彰
(立命館大学衣笠総合研究機構ポストドクラル・フェロー)
堀田義太郎
(日本学術振興会特別研究員PD・立命館大学大学院先端総合学術研究科総合学術研究科)

 いったい「まえがき」なるものの本来的なありかた──あるいはその非本来的なありかた──とは、いかなるものであるのか。このように「存在」への問いを発することで、編者はもちろんM・ハイデガーを気取りたいのではない。そしてその本来的/非本来的なありかたをそれなりに知らないわけでもない。それらの少なからぬ来歴と現在については、おそらく人並みには知っている。とはいえそうした「あった」や「ある」をいくら積みあげてみたところで、未来は導かれない。すくなくとも嘱望される「未来」は──歴史を回顧しても、「未来」はつねに革命あるいはメタモルフォーゼによってもたらされるものではなかったか。以下ではだから、せめて過去とも現在とも距離をとることで、「未来」を志向した気になってみたい。それは現実には単に無手勝流に記すという頽落した形態をとるしかないのだが、かかる「未来」への意思は本冊子全体を貫く理念でもある。

 これは編者の個人的な経験や見解なのかもしれないが、予告編の冗長な映画は、たいてい本編もつまらないものが少なくない。本編が長大でその面白さを伝えるには、たとえ凝縮したとしてもそれなりの分量がやはり必要だから、だろうか。そういう部分もたしかにあるかもしれないが、むしろつまらないからこそ冗長なのだとみるべきだろう。ここではだから、本冊子成立の成立経緯について、ごく簡素に記す。それをもって本編への助走──「予告」ではない──にかえたいと思う。

 立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点(以下「生存学」)院生プロジェクト「ケア研究会」(研究代表者:山口真紀)の研究成果の一環として編まれた本冊子は四部からなっている。
 前半のⅠとⅡには、同名の公開研究企画の記録をそれぞれ適宜編集(加筆/修正)のうえ収録した。なお当初はすべての発言を掲載する予定であったが、冊子にまとめるにあたって紙幅の制約・対論の流れの保持といった消息から、編者として誠に慙愧に堪えない、何よりたいへん失礼なことにも、発言の一部をカットさせていただくこととなった。積極的に発言してくださったのみならず、重要な質問や論点をお寄せくださった方々に記してお詫びいたします。
 Ⅰ「ケアと生存の哲学」は、2009年12月5日、14時から18時にかけて立命館大学創思館401・402教室で催された。参加者総数は6名。異才の哲学者である小泉義之氏をお招きし、編者が加わって小泉氏の近業を手がかりにケアと生存を結節する主要な論点をめぐって制約なく語りつくす──そのような企図のもと催行された本企画であったが、ふたを開ければ鼎談というより小泉氏の独演会的な様相を呈することとあいなった。とはいえ小泉氏の思想の淵源に潜行するのが編者の目的であったから、企画は成功したといえるだろう。すなわち小泉氏の著作において決して不鮮明であるわけではないが、ともすれば真意を図りかねるところもある氏の思想の中核を剔抉することができたのではないかと編者は考えている。
 Ⅱ「介助(者)の現在」は、2009年11月21日、15時から18時にかけて立命館大学創思館401・402教室でおこなわれた。参加者総数は15名。企画までの経緯と趣旨の詳細は本文に譲るが、ここでは介助(ケア)という営み、その営みにおいて構築される関係性/場に固有の「リアリティ」とその問題点をひとまずは遺漏なく描き出すことができたと思う。対論をつうじて図らずも手に入れることができたその見取り図が、ありうべき論点の深みへの投錨を喚起する触媒となれば幸いである。
 本冊子の後半部には、「ケアと倫理」、あるいは「ケアの倫理」を主題とした諸論考を収録した。
 まずⅢ「ケアと倫理」には、最広義の「ケア」と倫理にかかわる論考を幅ひろく収めた。なおここに収録したものはすべて投稿論文である。今号において編者は、生存学センター報告では初の試みとなる論文の公募と査読システムを導入した。こうした編者としては面倒でもある試みを敢行したのはほかでもない。偏に大学院生の研究公表機会の提供、何より論文の質の担保と向上を企図してのことである。のみならず「生存学」が高度な「研究」拠点であるのみならず、高度な「教育」の拠点でもあることをひろく世に示威するためである。
 論文の公募は、立命館大学大学院先端総合学術研究科およびケア研究会のメーリングリストをつうじておこなった。その経緯の詳細を記すと、投稿エントリーは9本、うち6本の投稿があった。その後、編者による第一次審査の過程で1本の辞退があった。そこで残る5本を各主題の専門家による第二次審査に付し、うち4本が編者による最終審査を経て掲載される運びとなった。
 各論考の質と意義は、読者に各自で現認していただければと思う。なお当初は査読プロセスの公正を期し、審査コメントの公開とそれにたいする投稿者のディフェンスの公開も考えていたが、紙幅の都合で断念せざるをえなかった。編者の無念ととともに、ここに付記しておきたい。
 つづくⅣ「ケアの倫理」には、依頼論文を収録した。寄稿をお願いした有馬斉氏は現在、東京大学大学院医学系研究科特任助教。哲学・倫理学・生命倫理を専門とする新進の若手研究者である。編者(安部)とは前年『ケアと感情労働──異なる学知の交流から考える』(生存学センター報告8)をともに編んだ間柄でもあり、今回寄せていただいた論考は同号に掲載された「感情労働としての看護と、ケア倫理の実践としての看護」の続編にあたり、とりわけ第四節以降の議論のさらなる展開を試みたものである。ご関心の向きは、ぜひともそちらもあわせてお読みいただければと思う。
 以上が駆け足ではあるが本冊子の成立経緯である。本冊子のみどころについては「あとがき」に譲る。読者においてはだから「あとがき」を導きの糸として本論に進まれるもよし、本論を読まれてからそれをさらに/別様に味わうために「あとがき」に進まれるもよし──というのもここでもその本来的/非本来的なありかたなどないのだから。
 かくしてこのあたりで擱筆したいのだが、やはり「まえがき」に置かれるべき文章というものがある。多くのばあい、「まえがき」も「あとがき」も同時に、あるいは「まえがき」はより遅れて書かれる。してみれば謝辞は、文字どおり最後の言葉として「まえがき」において告げられるのがふさわしい。

 立命館大学先端総合学術研究科の小泉義之先生には、最大級の謝辞を捧げます。最初に企画へのご参加を打診させていただいたときから企画前日まで、先生には多大なるご協力を賜りました。のみならず投稿論文の審査もお引き受けいただき、横溢的なコメントをお寄せいただきました。かくしてこれを書いている現在、すくなくとも編者(安部)の、対小泉先生における貸借表は真っ赤である。いつか何らかのかたちで、このご厚意に報いたいと思います。どうもありがとうございました。
 立命館大学産業社会学部の福間良明先生と崎山治男先生、立命館大学大学院先端総合学術研究科の天田城介先生と立岩真也先生には、ご多忙をぬって投稿論文の審査をお引き受けいただいた。それぞれの論文にたいして的確であるのはいうまでもなく、重厚かつ啓発的なコメントを賜り、編者も(が)勉強になりました。どうもありがとうございました
 またご多忙のなか不躾なお願いにもかかわらず企画への参加を快諾してくださった前田拓也さん(神戸学院大学)、渡邉琢さん(かりん燈──万人の所得保障を目指す介助者の会)、高橋慎一さん(「生存学」リサーチアシスタント)、そして企画にお集まりいただいたみなさん、発言してくださったみなさんにも等しく感謝いたします。
 そしてこの冊子ができあがるにあたってはこのたびも「生存学」プロジェクトマネージャーの片岡稔さん、「生存学」事務局の佐山佳世子さん、荒堀弓子さん、伊藤桃后さん、生活書院の高橋淳さんにたいへんお世話になりました。また企画会場の手配については立命館大学独立研究科事務室の石澤マミさんにたいへんお世話になりました。どうもありがとうございました。

2010年1月 新しい年へ希望とともに本書を企投する
編者