全体討議コメント2

天田 城介(立命館大学大学院 先端総合学術研究科 准教授)

 天田です。本来であれば、ヤング先生にきちんとこの場でお礼を申し上げなければなりませんが、かなり時間が押しているということでご容赦いただき、後ほどきちんとお礼をお伝えさせていただければと思っております。
 今の、池田さんの議論で「トラウマの文化」についてはおおむね尽くされている部分もありますので、私は与えられた時間的制約の中で、以下の3点に限ってこの場で何がいかに議論されたのかについて簡単にお話ししたいと思います。それは、ヤング先生の講演をお聞きするにあたり、我々がどのような参照軸においてヤング先生の諸研究について事前に考えてきたのかを要約的に説明させていただくことでもあります。
 その手前で、まずは私の立場を明示しておきたいと思います。私は池田さんと違って人類学者ではなく、社会学の立場から話をさせていただきます。とりわけ構築主義(constructionism)を批判的に読み解きながら、その上で、ヤング先生が『PTSD の医療人類学』のお仕事や今回の9.11(Septembereleven)以降の社会における仮想PTSD によって引き起こってきた事態の考察は何を、いかにとらえてきたのか、それはどのような範囲において説明しうるのかということについてお話しさせていただくことになると思います。
 第一に、ヤング先生は、池田さんが言われたようにPTSD をめぐって一体何が起こってしまっているのか、あるいはそれが〈記憶〉の想起などを通じて、いかなるポリティックスの中で何がいかに表象されてしまっているのかということについてとらえられていたのだと思います。そして、そこで問わんとしているのは何かを考えると、ある種、今回の院生の報告や指定質問の全体に通底する問題意識だったと思うのですが、私たちが生きている世界の中での現実の複数性、あるいは〈記憶〉の生成性とでも呼ぶべきもの、すなわち〈記憶〉が複数のありようにおいて常に作り直されていくという問題意識があったのだと思います。あるいは、私たちの感受している世界が幾重にも重層的かつ複数的であることを指摘していただきました。第一指定質問者である小宅さんは、上記のような視点からPTSD という「装置」が組み込まれている「この社会」の中に生きているがゆえに―生きざるを得ないがゆえに―、レイプ被害にあった女性たちは複数の〈記憶〉と〈感情〉などを生きているのだが、まさにPTSD という「社会的装置」を通じてそのような複数性が見えなくなってしまうことについて言及しました。その一方で、私たちはそうしたPTSD という「装置」を日常的に使用することを通じて裁判の場などで争わざるを得ないこと、あるいは被害女性を支援していかざるを得ないようないわば「出口なし」に近い状況にあるということを指摘しました。宮坂先生の言葉を借りれば、「倫理的ジレンマ」の中で私たちはどのようにしてこの「出口なし」の状況を問い直し、実践することが可能なのか。こうした私たちが生きる「この社会」においては既に諸々の「装置」が現に組み込まれているがゆえに、それらについては批判的に言及しながらも―あるいは「気持ち悪さ」を感じつつも―、私たちはそれらを使用して生きざるを得ないという問題についていかに考えるかがあるかと思います。
 加えて、第一研究報告者であった植村さんの発表にあったように、本人にとって「訳の分からない」ような〈技術〉を前にして「ベネフィット(あるいは利得)」と「リスク(あるいは損失)」だけを勘案して本人の自己決定というだけで話は終るか。やはり終らないだろう。現実にリスク/ベネフィットという本人の利得と損失(プラスマイナス)という観点だけで当事者の現実をとらえてしまうと、その人の右往左往しつつ生きている世界を何かしら捨象/消失してしまうことになるのではないか。そうした指摘であったと思います。私たちはこうした問題をいかに考えるかが大きな課題となっているのだと思います。
 第二点目は、私たちの社会において何がしかの力学は常に偏在しているという点です。この点は第二指定質問者であった片山さんの報告にあったように、ヤング先生が『PTSD の医療人類学』の第3 部で書かれたような「イデオロギーの注入」は、あるいはイデオロギーを含めた様々な力学というものは、医療の場面だけでなく、私たちの「この場」に常に偏在しているという点にかかわります。こうした力の偏在は常に、たとえばこの場においても様々な形で立ち現れていますし、教育の現場においても立ち現れるものです。その意味では「無風地帯」はないという当然の話ですが、ただその現れ方がその立場や状況によって様々であることが現実にあるわけです。そのイデオロギーなどの力学がある種「政治的に作られること」がヤング先生の著書・研究の中で記述されているわけですが、その上で問うべき問題があると思うのです。これは非常に重要な点だと思うのですが、片山さんが指摘したように、ゲイ・コミュニティのように、当事者団体においても「カミングアウト・ストーリー」や「ホモフォビック社会批判言説」や「ヘテロセクシュアリズム批判言説」などが支配的な言説に位置することによって、本人たちの諸々の世界とその中での現実が問われなくなってしまうこと。そして、そうした言説がある種「厄介」なのは、その言説を使用することが「解放の戦略」であると同時に本人たちへの「抑圧の言説」にもなってしまうということです。その「厄介さ」についての報告であったと思います。その意味で、第一点目も第二点目もある意味では極めて《倫理的な問い》であったと思うのです。今日の報告をそのように私は受け取っておりましたし、ヤング先生の『PTSDの医療人類学』の第3部の中にも、明示的ではないにせよ、その点が逡巡しつつ書かれていています。その意味で、「その先」ををいかに考えることが可能であるのかが問われているのだと思います。
 第三点目は、第一点目と第二点目ともオーバーラップするような「問い」になります。ヤング先生が本日ご講演されたように、ある人の存在の「部分」、例えば、―当人にとっては痛烈に感受してしまう「リアル」としてある―苦悩や苦しみという一部分がその人の〈全体〉を表象/代補してしまうことがあり、本日は―そのことを別の仕方で言及されて―レヴィ=ストロースを引いて「提喩」と表現されていました。まさにそのような社会的な仕掛けや仕組みについて言及されていたと思うのです。この点は非常にクリティカルに記述されていたと私は理解しています。ただし、その「面白さ」と「厄介さ」をいかに考えるのかがあり、そのことが私たちが今後考えていくことのできる問いであると思うのです。
 その意味では、本日われわれの方から問題提起させていただいたように、レイプ被害者の生きる世界の複数性があり、あるいはゲイ・コミュニティにおけるイデオロギーの注入によって失われてしまう当人の世界があり、そしてその世界を生きざるを得ない中でPTSD や支配的な言説を使用せざるを得ないような現実をいかに考えるのかという点があります。加えて、自分では予測困難な〈技術〉を前にして自らの利得と損失、リスクとベネフィットの総和(足し引き)という観点からだけでは当事者の「自己決定」の困難を十分にとらえることができないのではないかという点について指摘させていただき、更には、18 トリソミーの親たちがNICU という場における「医療的な言説」からの「解放の戦略」が逆にある意味で医療者側とのコンフリクトを出来させてしまうという、きれいには〈収まりきらない問題〉を提起させていただいたのだと思っています。
 したがって、われわれが提示させていただいた3 つの問いは「倫理的な問い」であると同時に、私たちの社会における現実の「厄介さ」への「問い」であると思います。
 最後に蛇足的な話になりますが、今日は、一言で言うと、「医療の言説」をはじめとする様々な言説、あるいは社会科学を含めた諸々の言説においては「収まりきらない現実」を、「収まりの悪い人たち」が指定質問し、研究報告し、それを私がここで全体コメントをしているという構造になっているのだろうなと思っております。その意味ではヤング先生から貴重なご講演、コメントをいただいたということを大変嬉しく思っておりますし、このような「問い」を今後も問うていかなければならないと思っております。ちょうど与えられた時間がきましたので、私のほうからはこれで終わりにさせていただきます。ありがとうございました(拍手)。

(佐藤) 天田先生、どうもありがとうございました。
 それでは、アラン・ヤング先生に研究報告1、2、および全体討議コメント1、2につきまして、リプライいただき、その後でまた会場からの質問と応答とさせていただきたいと思います。