研究報告2「NICU において親と子がどのように関係性を築いていくのか ―18 トリソミー児の親の語りから」

櫻井 浩子(立命館大学大学院 先端総合学術研究科 院生)

 先端総合学術研究科の櫻井です。私からは、「新生児集中治療室において、親と子がどのように関係性を築いていくのか―18 トリソミー児の親の語りから」ということで報告させていただきます。日本では1980 年代から新生児集中治療室(以下、NICU)を備えた、周産期医療施設が設立されるようになり、先天性疾患や出産時事故などにより高度な治療が必要な子どもたちはNICU に搬送されています。現在日本には、約360 施設があります。NICU はとても異質な空間です。24 時間こうこうと光で照らされ、幾つもの保育器が整然と並んでいます。保育器の中の子どもたちは何本ものチューブを付けていたり、人工呼吸器をしていたり、また保育器のそばには心電図の機械が無機質に鳴り続けていたりします。その光景は、NICU で働く医師や看護師にとっては日常であり、治療の場であり、仕事の場です。しかし、親にとっては、明らかにそこは非日常な空間と感じます。
 子どもが健康であった場合、出産から育児へ親と子の関係は継続性を持って築かれます。しかし、子どもに先天性疾患などの障害があった場合、親は産婦人科病棟に、子どもは新生児科に入院するため、親と子の関係はいったん引き裂かれることになります。そして親が不在のまま、NICU で育児が開始されます。最近では早い段階で親子の接触が可能になってきたものの、親は子どもに何が起こっているのか理解できないまま、起こっている事実を受け入れなければならない環境に置かれます。
 今回はNICU という医療システムに組み込まれながら、18 トリソミーの子どもと親がどのように関係性を築いていくのかについて報告いたします。まず、18 トリソミーという病気と医療の現状について説明します。18 トリソミーは染色体異常症の一つで、3,000 〜 8,000 人に1人の割合で誕生し、約94%の子どもは出生前に死亡します。教科書的には、1歳までの生存率は10%と書かれていますが、近年ではアメリカや日本でも10 代、20 代まで生存した例もあります。
 私は、1997 年3月に長女を出産しましたが、娘は18 トリソミーのため、生後75 日目に死亡。2001 年に患者会「18 トリソミーの会」を設立し、以後代表を務めています。日本の新生児医療では、18 トリソミーの子どもについて生命予後の厳しさに関する報告がされていますが、治療や健康管理をどのようにすれば良いのかなど、親や医療現場に本当に必要な情報はほとんどありません。
 今回の報告は、18 トリソミーの会でおこなった実態調査の結果をベースに、お話しいたします。この調査は、全国規模で行われたわが国初の18 トリソミー児の調査であり、世界的にはアメリカSOFT の会とユタ大学小児科のグループが1992 年に行った13 トリソミーおよび18 トリソミーの健康面の調査に次ぐもので、医療、生活、福祉、心理面にわたる包括的な調査としては世界初です。以下、調査の結果と考察について述べたいと思います。
 出産と同時に子どもに障害があることがわかった場合、親はどのような感情を持つのでしょうか。子どもの危険や思い描いていた子どもとのギャップに対する戸惑い、子どもが受けている治療の重大さや、すぐ亡くなってしまうかもしれないという不安と悲しみ。さまざまな気持ちを感じています。このような心理状態にありながら、子どものかわいさや、やっと会えた喜びを感じている親もいます。
 ここで一つの詩を紹介します。Edna Massimilla の「天国の特別な子ども」です(152 – 153 頁参照)。この詩に出会ったとき、子どもの告知を受け、絶望のどん底にいる多くの親は共感を覚えます。その心理は、現実を受け止める苦悩の中で、子どもを異次元にいったん置き、天から授けられた子どもとしてあらためて受容するのかもしれません。それは、障害児を生んだ親から子どもに選ばれた親という主体性の転換でもあります。さらに言い換えれば、「障害児の親」という社会からのラベリングや、自責の念からの脱却なのかもしれません。
 次に、NICU における不幸のルーチン化についてお話しします。チャンブリスは、外の世界では特別で、悲壮で深刻に考えられることでも、病院の中では日常のほとんどでありきたりになっていることを不幸のルーチン化と言っています。医療者のルーチンは、非日常な空間に身を置く親にとって異質な価値観と感じることがあります。そして、ルーチンは医療者が全く気が付かぬまま無意識に親や子どもの心を深く傷つけています。幾つかの例を挙げながら、医療者の不幸のルーチン化について説明したいと思います。会員からの回答の詳細は配布資料に掲載してありますので(142 – 146 頁参照)、そちらを参考としてください。
 まずは、「誕生の言葉」です。今まで医療者は、障害のある子どもの親に対して「おめでとう」と言ってきませんでした。新しい命が誕生したことへの「おめでとう」であり、子どもに障害があるとかないとかは、別のことではないでしょうか。会員の多くは子どもの誕生を祝ってもらえなかったと述べ、「おめでとう」と言ってほしかったと思っていました。そこには子どもの誕生をかけがえのない存在として受け入れてもらいたいという思いが込められています。
 2 点目は、「生きられない子どもとして扱われること」です。生きることに向き合っている子どもを前にして、生存できる可能性がないことや残された期間ばかりを強調されることがあります。18 トリソミーの場合、多くの親は「子どもの治療を制限する」という説明を受けています。その中には出産前に治療方針が決定されているなど、決して子どもの状態に応じた治療が選択されているとは思えない例もあります。
 3点目は、「子どもへの虐待」です。子どもが大切にされていないと親が感じることは、医療者への不信感にもつながります。子どもが研究材料のように扱われていると感じられるような発言を、医療者から浴びせられることもあります。医療者のかかわりは、子どもの存在を尊重していれば親子を支えますが、そうでない場合には深い傷を与えることにもなるのです。ここで私の経験を、ひとつ付け加えておきます。ある日、NICU に面会に行くと、事前説明もなく、娘が手足をひもで縛られ、抑制されていました。看護師は人工呼吸器を誤って手で抜いてしまうから安全のためと言いました。しかし、私にとってその光景は、今でも忘れることができない悲しい出来事です。
 4点目は、「障害を隠されること」です。奇形が重度の子どもは隠そうとされます。NICU の狭い空間の中でついたてをされたり、奥の隅に保育器を置かれたり、人目に付かないように配慮をされることがあります。医療者は親切のつもりなのかもしれませんが、親にしてみれば子どもは人目に出せない隠す存在であると感じるのです。親の視点は、子どもの奇形や障害のみに向くのではなく、別の次元にあるのかもしれません。私は隠すという行為には、障害は不幸であるという医療者の価値観が現れているように感じます。
 次に医療システムの中で親と子がどのように関係性を築いていくのかお話ししたいと思います。NICU の中で、親は子どもとの触れ合いを医療システムにより観察されます。出産後引き裂かれた時間の中断を、医療者は親子関係の確立にとってリスクであるととらえています。面会の回数、母乳の持参の有無、積極的な子どもへのに話しかけなど、親子関係の築きの基準は、医療システムの中で作られています。中でも母乳を持ってくるという行為は親らしさを象徴し、母乳を持ってこない親は、「駄目な親」として判断されることもあります。
 NICU では、親は強い親を演じがちです。医療者からの、「親なのだから頑張らなきゃ、あなたがこの子の親でしょ」の励ましの声も苦痛に感じることもあります。このような言葉には、医療者の「良い親」の価値観が含まれているように思います。親は「頑張っている良い親」でなければならないと、悲しみや怒り不安など負の気持ちにふたをします。ありのままの親の気持ちを聞いてくれる人の存在や、悲しみや怒りの感情を表出できる場も必要です。衝撃を受けている親は、自分たちが「特別な状態に置かれている」と孤独を感じやすいため、気持ちを受け入れてもらうことにより、一人ではないという安心感を得るのです。
 子どもとの初対面のときは、現実を受け入れることができなかった親も、月日の流れとともに親子の関係を築いていきます。「生まれてこなければ良かったのに」と思う反面、短い命なら大切にしようとも思っています。親と子の関係の触れ合いは、ゆっくりと関係性を築いていくのです。
 次に、親の言葉で語ることの意味についてお話しします。18 トリソミーの会には独特の言葉があります。一つは「ぐーの手」です。医療者から見れば、このoverlapping finger は奇形の一つです。配布資料に写真を掲載いたしました(148 頁参照)。18 トリソミーの会で発行した冊子の表紙は、この「ぐーの手」の写真を使っています。あえて奇形を表紙に掲載することは、障害は隠すことではなく、親から見れば「かわいい手」、「愛着のある手」であることを医療者に主張する手段の一つでもあります。
 二つ目は、「我が子受容」です。医療者が見る子どもと、親が見る子どもとは、見方が違います。医療者は、病名によって子どもを個別化するので、障害の部分から子どもを見ます。例えば「18 トリソミーの○○ちゃん」という見方です。しかし親は自分の子どもをそう呼ぶことはありません。親は医療者に、子どもの障害のある一部分だけのケアを求めているのではなく、子どものかわいさを褒めてくれ、愛情を持って大切にしてくれる姿勢を望んでいるのです。それは言い換えれば、親は子どもの障害を受容しつつ、障害という枠を越えて、子どもの存在すべてを受け入れようとし、将来の見えない告知に悲観しながらも、親はゆっくりと成長している子どもに一縷の希望を見つけようとしているのです。
 三つ目は、「天使日」です。18 トリソミーの場合、子どもの誕生とともに死の告知を受けます。短命である、予後不良である。ということは、生と死が常時隣り合わせであることも意味します。親は子どもとの限られた時間を大切に共有しつつも、死という言葉に敏感に反応し、恐怖心を抱いています。子どもを亡くした親は、子どもの亡くなった日を「死亡日」と言わず、「天使日」という言葉を使います。子どもの死を受け入れられない親は、天国からの特別な子どもの肉体を天に返し、魂のつながりで、親と子の関係性を続けていこうとするのでしょう。このような親の言葉の語りは、医療者の不幸なルーチンや無意識のずれへの警鐘にもなります。
 親子関係の築きというのは、医療システムを主体とした価値観で語られることではありません。しかし、親は専門性を必要とする医療現場において、自分の言葉で語られることができない苦痛を感じています。今まで医療者の聞き手であった親が、医療の専門用語に対して親の言葉を使うことにより語り手となり、能動的な立場に変わることができます。親があえて医療システムに身を置きつつ、独自の言葉で語ることはルーチン化している医療者にとって新鮮な言葉として受け入れられるのです。
 最後にまとめをお話します。医療システムの中で作られた医療者の価値観は親子関係の築きの妨げとなり、時には親にとって苦痛にもなります。例えば子どもの面会に来ない、在宅への移行を拒む。このような行動は、医療者が持つ親子像への抵抗、良い親を演じることへの苦痛なのかもしれません。それゆえに、親が作った独自の言葉で語ることは、医療者の不幸のルーチンに埋め込まれた価値観の転換を狙うことができるのではないでしょうか。引き継がれた習慣や価値観は、人として当たり前のことを忘れさせてしまっているのかもしれません。NICU でのルーチン化は、より不幸を招きます。親にとっては人生において一大事であるにもかかわらず、子どもの死さえも日常の一コマとなってしまいます。そしてルーチン化した出来事は、押し付けの価値観や傲慢な態度を作り出してしまうこともあります。親にとっても子どもの障害と向き合うことは、自分自身の心を見つめる作業でもあります。それは苦しく、つらい思いだけかもしれません。しかし、親はそれを越えて、医療システムにあえて身を置きながら中断された時間を埋めるために、親子の物語をつむぎだそうとしているのです。以上で私の報告は終わりです。ご清聴ありがとうございました(拍手)。

(佐藤) 櫻井さん、どうもありがとうございました。それでは、先ほど申し上げたとおり、ヤング先生のコメントは、まとめて最後になりましたので、また今から20 分ほど休憩にさせていただきます。開始時間は4時半になっておりますので、お願いします。

***休憩***

(佐藤) それでは、最後のセッション、第3部にいかせていただきます。第3部は討論です。6時終了ということで、長丁場ですので、しっかりと時間どおりに終えたいと思っております。
 最初に、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授の池田光穂先生から全体的な討議を15 〜 20 分でいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。