第2部 報告・レポート アフリカの「病・医療・障害」 同じ世界を生きぬこうとする人々とつながる――アフリカに関わる取り組みと生存学のクロスオーバーから

第2部
報告・レポート

アフリカの「病・医療・障害」

同じ世界を生きぬこうとする人々とつながる――アフリカに関わる取り組みと生存学のクロスオーバーから

斉藤龍一郎

 2013年5月、生存学研究センターはセミナー「目の前のアフリカ」を開始した。「障老病異と共に生きる世界を考える」という生存学の射程がアフリカに及ぶにあたっては、小川さやか准教授とアフリカ日本協議会(AJF)事務局長である斉藤が生存学研究センター運営委員に就任したことを機とした当時の西成彦センター長の発意があった。さかのぼれば、2002年8月、AJFと生存学研究センター設立の発端を作った立岩真也教授が、アフリカでのエイズ治療実現につながる取り組みで歩を合わせたことから始まった歩みが、一つの山を越えたと言っていいだろう。
 この章では、2002年に始まるアフリカに関わる取り組みと生存学につながる問題意識とのクロスオーバーを振り返り、このクロスオーバーから見えてきたものを紹介し、今後の可能性について考えたい。

アフリカの人びとの声・行動につながる取り組みを

 AJFは、1993年10月に開かれたアフリカシンポジウム「アフリカは今 地域自立に立ちあがる人々」の実行委員会に参加した人たちの一部が、シンポジウムのために来日し発言してくれたアフリカのNGOメンバー、研究者たちとつながりを深めていくことを目的に、翌年3月に設立したNGOである。
 設立のきっかけとなったシンポジウムが、日本政府と国連主催で開催された東京アフリカ開発国際会議(TICAD、現在は「アフリカ開発会議」と称されている)に向けてアフリカの市民社会の声をつたえることを目的としていたことから、AJFも1998年以降5年ごとに開催されてきたTICAD(2013年に第5回が開催された)に関わる取り組みにさまざまな形で参加してきた。
 他方、設立目的としたアフリカ市民社会との情報共有・交流・意見交換を踏まえた日本のアフリカ政策、NGOへの提言に関しては、1994年に南アフリカ共和国の民主化をテーマとした国際シンポジウムを開催したのを皮切りに、協同組合と女性の活動、アフリカにおける砂漠化の問題、食と環境などをテーマとした国際シンポジウムの開催、日本各地での交流ワークショップといった取り組みを続けてきた。
 設立時30名余りであった会員も、シンポジウム・ワークショップの開催に関わった人びとが会員として継続して取り組みに参加していくという形で増えていき、現在260名を超えている。特定の現場における事業を実施するという性格のNGOではないことから、「何をやっているのかよくわからない」と評されることもあるが、アフリカに関わる活動・研究に携わってきた人びとが、アフリカの人びとが直面している問題は当事者の視点からどのように見えるのか考えるべきか、を問いかける姿勢に共感して会員として活動を支えていると言える。
 2001年に食料安全保障研究会、感染症研究会を立ち上げ、情報共有のためのML運営、セミナー開催、資料集の発行、より対象を鮮明にしたアドボカシー活動を行うようになってから、アフリカに関わっていた会員だけでなく、アフリカで顕在化している問題を通して世界のあり方を考えるという会員も増えてきた。特に、アフリカのHIV陽性者運動の声・行動、それが世界にもたらしたインパクトを伝えるようになって以降、国境なき医師団(MSF)、オックスファム、Health GAP といった国際NGO、南ア・治療行動キャンペーン(Treatment Action Campaign;TAC)、ケニア・エイズと共に生きる女性たちのネットワーク(Kenyan Network of Women with AIDS;KENWA)といったアフリカのNGOと一緒に取り組みを進める機会が増え、こうした取り組みを通してAJFの会員になる人も増えた。また、アフリカ各地で保健・医療、教育、農村開発に関わる取り組みなどを進めてきたNGOからAJFへの期待感、信頼が高まり、AJFが国際保健、TICAD、ミレニアム開発目標(MDGs)達成に関わるNGOネットワークの事務局を務めることにつながってきた。

世界エイズ・結核・マラリア対策基金設立を契機に

 2002年1月1日、前年7月のジェノバG8サミットに際して、当時のコフィ・アナン国連事務総長が設立を提起し、参加各国首脳による賛同を得た世界エイズ・結核・マラリア対策基金が、半年の準備期間を経て発足した。
 1990年代後半、HIVに感染した人びと(HIV陽性者)の数が世界一となった南アフリカ共和国を始め、HIV感染拡大によってアフリカ諸国とりわけ南部アフリカの国々が大きな影響を受けていることが国際的な問題として捉えられるようになった。当時のコフィ・アナン国連事務総長はガーナ出身ということもあって、アフリカが直面する食料危機、初等教育就学率の低さ、環境破壊と並んでHIV感染拡大に強い懸念をいだいて国際的製薬企業へ途上国向けエイズ治療薬割引販売の働きかけなどを行っていた。
 そうした中、2000年12月にエチオピア・アディスアベバで開かれた国連アフリカ経済委員会(ECA)主催のアフリカ開発フォーラムで、息子のHIV感染を公言していたケネス・カウンダ元ザンビア大統領は

「反撃に出る時だ。HIV/AIDSへ戦いを挑み総力戦を戦う時だ。会議やミーティングで語られるスピーチの中だけの国家戦争ではなく、この戦いはアフリカ大陸の全生命をかけての総力戦である」

と呼びかけた。南アから参加したHIV陽性の女性は、

「私がしていることをする勇気を持つものはそう多くはないでしょう」

「私は意識して指導者になろうと努力してきました。そしてHIVに感染していると診断されたとしても、そのひとの人生が終わるわけではないことを証明してきました。同じような状況下に置かれてなお、感染者にとって重要なウイルスについて日々学び、情報を求め歩くものは少ないでしょう」

「あえて差別されることに立ち向うことができる人も多くはありません。いまだに恐怖の中で死んでいったり、被害者意識にとりつかれている人がほとんどです。私たちはそうした人々を被害者から勝者に変える手助けをする必要があるのです」

と語り、HIV陽性者自身の発言・行動の重要性を訴えた。 このような国際的な問題意識の高まりの中で発足した世界基金は、先進国を代表する理事、途上国を代表する理事に加え、エイズ・結核・マラリアに影響を受けるコミュニティを代表する理事、そして北のNGO、南のNGO、民間財団、民間企業を代表する理事が議決権を持つという先駆的な運営形態を持っている。こうした世界基金の運営形態は、一国の存亡がエイズ対策に関わっているとの危機感を感ぜざるを得なくなったボツワナ共和国のような国々の政府、労働者そして中間管理職・専門職として育て上げた人びとが本人もしくは家族・親族のHIV感染によって職場から離れ事業運営の見通しを立てること自体に困難をおぼえる南アフリカ共和国ほかの国々の企業、そして先進国では可能になった延命治療にアクセスできない「世界に見捨てられた」アフリカ諸国のHIV陽性者たちの声から取り組みが始まったことを如実に示している。
 2000年7月、南ア・ケープタウンで開かれた国際エイズ会議に参加した林達雄(元日本国際ボランティアセンター代表)は、エイズ会議会場を包囲して行われたHIV陽性者たちを中心とするデモに加わり、TAC議長ザッキー・アハマット、HIV陽性であることを公言している南ア最高裁判事エドウィン・キャメロンら、アフリカのHIV陽性者運動に関わる人びととつながりを作って日本へ戻ってきた。林は、TACを始めとするアフリカのHIV陽性者運動が求めるアフリカでのエイズ治療実現への壁となっているエイズ治療薬の特許権の問題への関心を高め、エイズ治療薬の特許権の例外規定の活用などを通したアフリカ諸国でのエイズ治療の実現・拡大を求める声を日本からも高めようと、いくつかの国際協力NGOへ働きかけた。国境なき医師団「必須医薬品キャンペーン」担当者は、林の呼びかけもあって、2001年4月、エイズ治療薬の特許権問題につながるとして国際的にも注目されていた南アの改正薬事法裁判での国際製薬企業と南ア政府および法廷の友として裁判に関わっていたTACのやりとりを見るために南アへ行き、提訴した製薬企業39社の提訴取り下げが人びとに伝えられるその場に居合わせることとなった。
 林の提起を受けて、AJFは、前述したように感染症研究会を設け、アフリカのHIV陽性者運動そして国際的なエイズアクティビズムとつながる活動を模索することとなった。
 2002年8月、AJFは、南ア・ジョハネスバーグで開かれる持続可能な世界を目指す環境・開発会議(地球サミット、リオ+10)に向かう小泉首相に対し、日本政府の世界基金への拠出額を増額することを求める署名を行うことを決め、代表の林、会員の勝俣誠(当時、明治学院大学教員)、西浦昭雄(創価大学教員)、やはり会員でエリトリアで憲法制定のための調査活動に関わったことのある土井香苗(弁護士)と日本国際ボランティアセンター(JVC)の南ア代表を担っていた津山直子に加え、『世界がもし100人の村だったら』再話者の池田香代子、そして障害者の当事者運動にさまざまな形で関わってきた市野川容孝(東京大学教員)および立岩真也(立命館大学教員)が呼びかけ人として署名を呼びかけた。
 後に、この呼びかけを踏まえて、立岩は「基本的に分配は国境を越えたものであるべきだし、また、そうでないとうまく機能しない。それをいっきにできないとすれば、さしあたり、命に直接関わりありそうなところからでもよい。HIV・エイズに関わる活動に後でふれるが、例えばその活動・議論からは、医療保険――保険制度でなくてもよいから公的医療制度――を世界大に拡張したらよいのだという案も示される。」(「限界まで楽しむ」、『希望について』青土社2006年収録)と記している。
 2004年には、先端学術総合研究科の大学院生が、AJF会員でもあるアジア経済研究所・牧野久美子研究員主宰のエイズ危機がアフリカ諸国の政治・経済・社会に及ぼす影響をテーマとした研究会に参加し、2005年3月に発行された牧野久美子・稲場雅紀編『エイズ政策の転換とアフリカ諸国の現状-包括的アプローチに向けて-』(アジア経済研究所)の作成にも関わった。
 2007年〜2011年には、AJF・グローバルCOE生存学、そして京都大学大学院でエチオピア農村におけるエイズ対策の研究を行っていた西真如が主宰する〈リスクと公共性〉研究会三者の共催で、京都駅ビル内にある京都府国際センターでセミナー「関西からアフリカのエイズ問題を考える」を開催した。
 10年を超えるAJF・生存学の協働によって日本社会に初めて伝えられてきたことの一部は、2003〜2005年に資料集『貧しい国々でのエイズ治療実現へのあゆみ アフリカ諸国でのPLWHAの当事者運動、エイズ治療薬の特許権をめぐる国際的な論争』第1〜4部として公開され、また、2011年に生存学研究センター・新山智基客員研究員によって『世界を動かしたアフリカのHIV陽性者運動-生存の視座から』(生活書院)にまとめられた。AJFは、現在も月2回発行のメールマガジン「グローバル・エイズ・アップデイト」(メールマガジン登録は http://melma.com/backnumber_123266/、項目別にまとめられたブログは http://blog.livedoor.jp/ajf/)を通して、情報提供を行っている。

アフリカ障害者の10年につながる取り組み

 DPI(障害者インターナショナル)日本会議の中西由起子によれば、1981年の国際障害者年以前のアフリカの障害者の状況は、

「それ以前のアフリカでは障害者に関する施策もほとんどない状態で、1981年のDPIの設立総会に参加したことを契機に権利意識に目覚め、国内で障害者組織を作り上げたという障害者が結構いる。もちろん、それ以前の1970年代にも、先進国の障害者が施設での差別的な扱いに対して抗議闘争を起こしたことと同様な反施設運動を行っていたジンバブエの障害者リーダーのような障害者は一部には存在した。しかし一般の障害者は医療も受けられず、教育の機会もなく、仕事もなく希望もなく生きていた。」
(「アフリカ障害者の10年」、AJF会報「アフリカNOW 第78号」掲載)

であった。また、

「1982年の国連総会において、1983〜1992年までを国連障害者の10年と決定した。同様なインパクトが期待されたこの「10年」であったが、1987年の各国政府へのアンケート調査に基づいた中間年の評価においては、特にアジアやアフリカでの取り組みの重要性が強調された。さらに「10年」の終わりには、途上国の障害者の生活の向上に貢献したかという疑問もあがり、期待したほどの効果はなかったとの見解が一般的であった。」(同上)

という状況で、アフリカにおける障害者の社会参加と自立支援の取り組みは遅々として進まなかった。
 それでも、アジアにおける取り組みが前進したことを受けて、

「1998年初頭にケープタウンで開かれた「開発協力、障害と人権に関するアフリカセミナー」に集まった14カ国の障害当事者国内連合組織と6つの国際障害当事者団体により、各国政府が2001年から2010年までをアフリカ障害者の10年として認めるように、という宣言が出された。その後、AU(アフリカ連合)の前身であるOAU(アフリカ統一機構)の2000年第72回閣僚協議会および第36回首脳会議総会において、アフリカ諸国の政府が障害者のエンパワーメントと状況の改善、社会的経済的政治的な国内計画に障害を組み込むことなどを目的として、1999〜2009年をアフリカ障害者の10年とすることが決議され」(同上)

 主として障害当事者団体主導で、取り組みが広がり始めた。こうしたアフリカにおける障害者の社会参加と自立支援に関わる動きの進展に対して、日本政府の国際協力機関である国際協力機構(JICA)は2002年度から「南部アフリカ障害者の地位向上コース」という障害者団体の次世代リーダー育成支援の取り組みを開始し、その実務をDPI日本会議が担った。
 2004年、前節で紹介した世界基金の発足、また2003年に始まった米国大統領緊急エイズ救済計画(PEPFAR)によって、アフリカ諸国でも、HIV陽性者支援、エイズ治療実施を中心にすえたHIV/AIDS対策が実施されるようになる中、JICAの地位向上コースに参加する南部アフリカ諸国の障害者団体の中から、地位向上コースにエイズ対策に関するプログラムも欲しいとの声が上がっていると、DPI日本会議の担当者からAJFに相談があった。その年は、AJFの国際保健部門担当の稲場雅紀が地位向上コース参加者とオプショナルな討議の機会を持ち、翌2005年には地位向上コースのプログラムに稲場による研修が組み入れられた。
 他方、2006年末、亀井伸孝著『アフリカのろう者と手話の歴史』(明石書店)が刊行され、アフリカにおける障害者の声・取り組みを伝える動きが大きく進んだ。2009年1月に開催したAJFアフリカひろば「アフリカの手話とろう者の世界-ここでしか出会えない異文化への扉を開こう-」には、アフリカのろう者に関する報告を手話で聞くことができると、多くのろう者が参加した。
 2009年7月のAJF・DPI日本会議共催学習会「コートジボワールの障害者の成形調査:公務員無試験採用を中心に」(講師:亀井伸孝)を経て、2009年12月、AJFがDPI日本会議とグローバルCOE生存学をつなげる形で、京都大学大学院に在籍する戸田美佳子を招き、三者共催による「アフリカ障害者の10年」学習会「カメルーン熱帯雨林地域で暮らす障害者の生存戦略」を開催した。
 2010年3月に、エジプトのナイル・デルタで障害者支援につながるJICAのコミュニティ・ベースド・リハビリテーション(CBR)プログラムの立ち上げと終了に専門家として関わった社団法人神奈川学習障害教育研究協会(神奈川LD協会)の山内信重による「エジプトにおける障害者支援の現状と課題」を開催し、同年12月には「アフリカの障害者の現状と課題:ろう者の取り組み、JICA研修の波紋」(講師:原山浩輔)を開催した。手話通訳、要約筆記、磁気ループによる情報保障を行うことを明示した12月の学習会には、ろう者の生活・就労がテーマだったこともあってたくさんのろう者が参加した。
 2011年12月、立命館大学衣笠キャンパスを会場に、戸田美佳子を講師に開催した「アフリカ障害者の10年」セミナー「アフリカ社会と障害者――カメルーンの都市と森で暮らす障害者の生活から」では、生存学から立岩真也、新山智基が発言し、ケニアの遊牧民社会の調査を行いつつ日本にいる時はガイド・ヘルパーとしても活動しているという中村香子(京都大学アフリカ地域研究資料センター)から体験に基づくコメントを受けた。
 2012年3月には「南アフリカにおける障害者メインストリーミング(自立生活)の可能性を探る 障害者メインストリーミング(自立生活)研修の追加フォローアップ報告」(報告者:降幡博亮(ヒューマンケア協会)、中西由起子(DPI日本会議))を開催し、アフリカ諸国の障害者運動とつながる取り組みのフォローアップを積み重ねている。

スーダン障害者教育支援の会メンバーを囲んで

 視覚障害者を対象とした留学支援プログラムを通して来日し、盲学校高等部で学んで鍼灸師の資格を取得し、その後、さらに大学・大学院で学びつつ祖国スーダンの障害者支援の活動を行っている日本で暮らす視覚障害者のスーダン人たちとのつながりができたことも、大きな力となっている。
 2007年8月、AJFのインターンを通して接点のできたスーダン障害者教育支援の会(CAPEDS)のモハマド・オマル・アブディン(代表、当時、東京外国語大学学生)と福地健太郎(理事、当時、筑波大学学生)、東京大学先端科学技術研究センターでバリアフリーに関する研究を行っていた星加良司、そしてGCOE生存学の青木慎太郎の4人の視覚障害者が参加する座談会を、斉藤が司会して開催した。
 アブディンの以下の発言は、障害者支援を考える上で、きわめて重要。

「自分の兄は先に同じ大学の法学部に入っていましたので、もうそれに沿っていくように勉強していました。兄にはロールモデルがなかったっていうわけですね。だから、兄に話を聞くと、もっとおもしろいネタが出たかもしれませんけども。僕は兄を見習うようにずっとやっていました。やっぱり、見えないとなると、…じゃあ、どっちが先なのか、健常者なのか障害者なのか、っていうことで、どっちが先なのかって言われたときに、僕が思うには、高等教育を必要としない、例えば重労働といった就職先もあるのですけれども、そういった面では障害者は競争できないので、どちらかといえばやっぱり高い教育を受けて、そこで差別化を図る必要性があるんじゃないかなと思うのです。」

 この座談会の記録は、生存学ウェブサイトで読むことができる(http://www.arsvi.com/2000/070809.htm)。概略をAJF会報「アフリカNOW」第78号に掲載した。
 翌年2月には、AJF・CAPEDS・GCOE生存学が協力して大阪で開かれる国際協力イベント「ワン・ワールド・フェスティバル」でブラインド・サッカーに焦点をあてたワークショップを行った。
 同年6月、筑波大学に進学したばかりだったCAPEDS理事のヒシャム・エルサーを立命館大学衣笠キャンパスへ迎え、GCOE生存学の青木、植村要、韓星民が参加する公開座談会を開催した。この座談会のスピーカー4人も全員が視覚障害者である。日本・韓国・スーダンの視覚障害者がどのようにして学校で学び、大学・大学院へ行ったのか、経験を突き合わせる機会となった。
 スーダン・ハルツーム大学で学ぶ視覚障害者たちの「生徒会」設立を通して大学へ処遇改善を働きかけた報告に注目したい。

「それで、このままではだめだということで、生徒会をつくろうという話が持ち上がりました。何のために開くのかということを話し合ったり、集まって生徒会の重要性を考える勉強会などを開いたりしました。目的は、視覚障害者の存在を知ってもらい理解してもらうこと、視覚障害者が生活しやすいようにしていくこと、としました。
手続きとか面倒でしたが、結局生徒会を作ることができました。そして、生徒会ができてから2年間で大学での生活がかなり変わってきました。例えば寄宿舎の入居の際も、1階の特別な部屋に優先的に住ませてもらえるようになったとか、試験の際にもサポートしてくれる人を予め探して事前に顔合わせの機会を設けるなど、各学部でも特別な配慮が少しずつですがされるようになってきました。」(http://www.arsvi.com/2000/080621.htm)

 2008年には、立岩研究室で、座談会記録とCAPEDS作成の資料をまとめた資料集が作成・発行された。
 次いで、2009年6月、京都府国際センターで、当時、立命館大学大学院生であったCAPEDS理事のモハメド・バシールへの公開インタビューを開催した。白杖を持ったバシールが最寄り駅を利用している姿をいつも見かけている、子どもにその白杖を持った視覚障害者の話を聞かせたいと連れてきた、という参加者があったことが思い出される。
 また、この年、CAPEDSのメンバーが座談会などで報告したことをもとに斉藤が執筆した「スーダンと日本、障害当事者による支援の可能性」が、生存学研究センター報告6『視覚障害学生支援技法』(翌年、センター報告12『視覚障害学生支援技法 増補改訂版』として再版 http://www.arsvi.com/b2010/1003as.htm)に収録された。
 こうした経緯もあって、2013年11月、セミナー「目の前のアフリカ」第4回に、アブディンを迎えて、スーダンにおけるブラインド・サッカー普及活動について聞くことができた。

当事者の声を出発点に:広がる当事者支援の取り組み

 既に紹介したように、JICAは2002年に「南部アフリカ障害者地位向上コース」という障害者団体の次世代リーダー育成研修を開始し、2010年からは、対象をアフリカ全域に広げ名称も「アフリカ障害者メインストリーミング(自立生活)研修」と変更して今日も実施している。この研修事業の実務を担っているのはDPI日本会議で、日本国内では、参加者によるカントリーレポート作成、経験交流を踏まえたアドボカシーワークショップ、自立生活センター滞在・ホームステイなどを通じた自立生活と外出体験を、もう一つの研修先であるタイ・バンコクで自立生活センター設立運動について学び、より母国に近い環境での自立生活を体験するというプログラムと聞く。
 2009年には、ケニア・マラウイ・南アでフォローアップ・ワークショップが行われ、日本で研修を受けたメンバーにとどまらない参加があったとのこと。
 各国を訪問したDPI日本会議のスタッフは、それぞれの国で障害者団体に参加する当事者の生活の場にも足を踏み入れており、帰国後、課題の大きさを痛感したと語っていた。そして、このフォローアップ・ワークショップから、ヒューマンケア協会とJICAの共同事業として、南ア自立生活センター設立を担う人材育成プログラムが立ちあがった。このプログラムを通して、南アの福祉行政担当者による日本の障害者支援事業視察、南アのケアホームに暮らす障害者による日本の自立生活センターでの体験研修などの取り組みが進められている。
 2005年には、(独法)日本貿易振興機構アジア経済研究所(アジ研)に「障害と開発」をテーマとする研究会が立ちあがった。主宰する森壮也(開発経済学者、ろう者)は、「「開発と障害」は「社会福祉」というより、「女性と開発」と同様にクロスカッティングな視点から取り組む必要があります。なかなか理解されず、何度か研究提案を繰り返した後、やっと2005年に研究会「開発問題と福祉問題の相互接近:障害を中心に」を組織することができました。」と研究会立ち上げまでの困難を語っている。アジ研の研究会は『障害と開発-途上国の障害当事者と社会-』(アジア経済研究所)、『途上国障害者の貧困削減 かれらはどう生計を営んでいるのか』(岩波書店)といった研究成果を公開している。
 2009年11月、国際開発学会の研究部会として「障害と開発」研究部会が発足した。同年から、年に3回程度の研究会を開催している(参照 http://blog.canpan.info/disability_d/)。2011年度第3回公開研究会では、AJF・DPI日本会議・GCOE生存学共催学習会でも報告した戸田美佳子が「アフリカにおける障害と移動:カメルーン首都ヤウンデに集まる身体障害者を事例に」と題して報告している。
 これらは、国際協力、開発の課題の中での障害者支援の位置付けが「困っている人を助ける」にとどまらず、当事者自身の声・取り組み・努力を支援するという方向に向かっていることを感じさせる動きと言える。

当事者の声をさらに伝える努力を

 2008年に開催した座談会「大学における視覚障害者支援の現状と課題 スーダンで今求められていること」の記録を読み返していたら、以下の記述が目に飛び込んできた。

韓: 韓国の場合だと、僕が盲学校初めて行ったときですが、小学1年に15歳とか、小学5年に30歳とか、という人がいたんです。なんでそういう現象があるかというと、韓国の場合、障害の子供が生まれると、親が隠してしまうケースがあるんです。部屋の中に入れられて、子どもが生まれてないことにしちゃったケースがありました。今でも田舎なんかはあるかもしれないですよね。
ヒシャム: スーダンにも同じようなことがあります。
韓: だから、そういう子どもをどのように発掘して社会に出すのか、という課題があります。これは難しい問題ですが、韓国の場合、盲学校の教員が非常に熱心に田舎など出向いて閉じ込め視覚障害者発掘作業が行われたりしました。教員が強い正義感を持っているケースもありますが、盲学校の学生数が減ったもので、これ以上減ると教員のクビが危ないんですよ(笑)。視覚障害者がいるという情報を入手すると、うちにぜひ入れてくださいじゃないんですが、営業しに行くケースもあるんです。その発掘作業はいい意味取り残される障害者を無くす役割となっておりますが、そこら辺、アフリカはどうですか。
ヒシャム: そうですね。アフリカも同じで。視覚障害者、隠される場合、多いですね。だから僕らも田舎に、田舎というか、メディアを通じて僕らのことをアピールして、やっぱり教育を受けたらこういう風になるんだよっていう風に、両親に納得させようって思うんです。教育を受けた視覚障害者が田舎に出向いて、セミナーとか講演を開いたり、パソコンを使っているところをみんなに見せたり、やっぱり教育を受けたらこういう風になるんだよ見てもらえれば、両親がうらやましがるんじゃないかなーと思っています。私の子どもを出したらこういう風になるんじゃないかなーとか、思わせて、だんだん感化されていったら、子どもたちのフリーダムというか自由を…。

 定藤邦子『関西障害者運動の現代史――大阪青い芝の会を中心に』が伝える在宅障害者訪問活動、かつて斉藤が住む足立区でも金井康治君の転校実現運動を契機に誕生した障害者の自立をめざす会が試みた在宅障害者との交流の取り組みは、アフリカ諸国でどのくらい行われているのだろうか?そういった取り組みを追求するアフリカの障害者団体はどのくらいあるのだろうか、どういった支援を受けているのだろうか?
 この座談会での「教育を受けた視覚障害者が田舎に出向いて、セミナーとか講演を開いたり、パソコンを使っているところをみんなに見せたり」という発言は、その後、「一般社団法人国際協力システム、(株)イオンフォレス、ザ・ボディーショップニッポン基金の助成を得て、2011年12月から2012年2月にかけてスーダン・アルジャジーラ(ジャジーラ)(Al Jazirah)州ワッダルファーニ・コーラン学校で、2012年4月から7月にかけてハルツーム(Khatoum)州東ナイル地区の視覚障害児を対象に、国立エルヌール盲学校で点字指導を実施」(アフリカNOW 第96号掲載「スーダンと日本をつなぐ視覚障害者の活動に学ぶ」http://www.ajf.gr.jp/lang_ja/africa-now/no96/top4.html)という形で実現された。
 この取り組みは、また、日本の国際協力機関、NGOによる国際協力活動においてイスラム教に基づくコーラン学校をどのようにとらえるのかという問いをも発した。CAPEDSは、

「第1フェーズにおいては、スーダンのアルジャジーラ州の伝統あるコーラン学校でコーランを学ぶ30名ほどの視覚障害者を対象とした。特定の宗教教育を支援することはNGOが渋ってきた分野だが、当会では、むしろこれに力をいれることにした。
 その理由は二つある。一つ目の理由は、スーダンの地方においては、視覚障害者の多くはコーラン学校で学んでおり、コーラン学校で優秀な成績で卒業し、イスラム大学に進学するために点字の勉強が不可欠であること。二つ目の理由は、コーランを暗記し、大学に進学して卒業すれば、「イマーム」というイスラム指導者の資格を付与され、宗教活動を直轄している省庁の職員になることができるからだ。そうすれば、モスクで説教したりする際、事前に内容を点字で書いて、読み上げることができる。宗教指導者という職業は、今日のスーダンの視覚障害者にとって、大変重要な位置を占めており、ならばこの現実を当会のほうが受け止め、しっかり支援することが大切ではないかという考えのもとで、本プロジェクトの対象者にコーラン学校の生徒を含めることにした。」
(CAPEDS「点を繋いで描く夢 2012報告書」)

と、この試みが「日本における国際協力の常識」から外れていることを自覚している。私たちは、支援を必要とする仲間がいるところ、そこが活動の現場、というCAPEDSが示した姿勢ときちんと向かい合っていかなくてはならない。
 知る、伝える努力、「常識」を疑い新しい視点から「当事者の声」を探る工夫、課題は明らかである。一緒に考え、課題に取り組んでいこう。