開催報告 「生存学と文学」研究会・文学と盲目性(第二回)
立命館大学生存学研究センターは、2014年9月6日(土)、「生存学と文学」研究会・文学と盲目性(第二回)を開催いたしました。今回は、「盲目の〈闇〉と視覚性」と題する報告を野田康文さん(福岡大学非常勤講師)に、また「盲目の視覚性/視覚の盲目性――身毒丸と弱法師をめぐって」題する報告を秋吉大輔さん(本学文学研究科)に、それぞれお願いいたしました。
野田さんを本研究会にお招きするのは二度目で、初回は、2011年にご発表されて話題を呼んだ論文「谷崎潤一郎と盲者の<視覚性>」を中心にお話いただきましたが、今回は「盲目の〈闇〉と視覚性」のタイトルのもと、内田百閒の作品「柳検校の小閑」を中心にお話いただきました。
しばしば盲者は、晴眼者から異質な他者としてステレオタイプ化された修辞で語られ、例えば、盲者の視界を<闇>として捉える表象がありますが、野田さんは、盲者といっても先天盲と中途失明では大きく異なり、その視覚性も多様で、単なる<闇>ではないと述べられました。その上で野田さんは、中途失明の盲者の視覚性を、その実態に近い形で描くことのできた例外的な作家として谷崎と内田の二名をとりあげて比較されました。その比較を通じて野田さんは、盲者の視覚性を足音や匂い、触覚性など様々な身体的な経験と連動する形で描写していた点で、内田が谷崎以上のリアリティを獲得していたことを明らかにし、その背景として、内田が盲目の筝曲者で随筆家でもある宮城道雄との交友関係があった事実を掘り起こされました。
野田さんはリアリズムとしての盲目性を議論されましたが、秋吉さんは、寺山修司と三島由紀夫を中心に、近世以降の俊徳丸伝説の系譜にも触れながら、日本の戯曲作品における盲者のメタファーについて議論されました。近世において盲者は謡曲『弱法師』などで「日想観」を体現した存在として、いわば聖性を帯びて登場しましたが、三島と寺山は、そこから宗教性を剥ぎ取りつつも、暴力的なまでに盲者を特権的な存在として描いていた点に秋吉さんは注目されました。
その後の共同討議ではフロアから多くの意見や質問が飛び交いました。例えば三人称で書いた谷崎と一人称で書いた内田のナラティヴの違いをどう考えるのか、あるいは寺山と三島の暴力性をどう評価するのか、そこに西欧文学の影響が読み取れないかといった質問がなされ、発表者の議論のさらなる進展か模索されると同時に、参加者の間でも文学と盲目性をめぐる問題意識を共有し深めることができました。
(本学衣笠総合研究機構・専門研究員である田中壮泰さんによる報告を掲載)