開催報告 書評セッション:平山亮著『迫りくる「息子介護」の時代』

掲載日: 2014年08月01日

 立命館大学国際言語文化研究所ジェンダー研究会は、同生存学研究センターとの共催のもと、2014年7月4日(金)に「書評セッション:平山亮著『迫りくる「息子介護」の時代』」を開催した。

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 書評の対象として挙げられた平山亮氏(東京都健康長寿医療センター研究所、日本学術振興会特別研究員)の『迫りくる「息子介護」の時代』(光文社新書、2014年)は、「息子」として家族介護を行う当事者28人への聞き取り調査を踏まえた著者の考察をまとめたものであり、今回は著者ご本人をお招きしての書評セッションとなった。

 まず上野千鶴子氏(立命館大学先端総合学術研究科特別招聘教授)による簡潔な趣旨説明が行われた後、二人のコメンテーターがコメントを行った。一人目のコメンテーター・泉谷瞬(立命館大学文学研究科博士課程)は、「現代日本文学は「息子介護」をどのように描いているか?」というテーマを打ち出し、日本文学研究における高齢者介護問題の先行論を整理した。続いて、平山氏の著書が基軸とする「息子介護」という観点を活用することで、井上靖・佐江衆一・嵐山光三郎・玄侑宗久・盛田隆二・佐伯一麦などによって書かれた「息子介護者」の物語を再検討した。虚構としての文学作品を精読する作業が高齢者介護問題に寄与する可能性も述べた上で泉谷は、現状において「結婚」以外に「息子介護者」の孤立を防ぐ手立ては考えられるのかという疑問点を挙げた。具体的には、本書で指摘されるような、母親が培ってきた「女縁」(ネットワーク)の恩恵が受けられなくなった世代の「息子介護者」の周囲には果たして誰が残るのかという問題を強調した。

 二人目のコメンテーター・谷村ひとみ氏(立命館大学先端総合学術研究科博士課程、日本学術振興会特別研究員)は、「問題介護者」として一括されがちな「息子介護者」のイメージを払拭し、多様な当事者たちの姿を記述しようとする著者の姿勢を高く評価した。谷村氏のコメントは多岐に渡るものであったが、特に重要な指摘として以下の二点を紹介する。谷村氏は、「本書で示された「ミニマムケア」は“誰のための”ケアであるのか。介護者の怠慢、あるいは虐待と「ミニマムケア」の境界線は曖昧ではないか」という疑問を提示した。「(被介護者に)どこまで、いつまで、頑張らせるのか?」というその問いかけの中心には、そもそも高齢者のADL低下を「異常」な事態と捉えてしまう我々の日常的な人間観への問い直しに繋がる問題が含まれている。さらに谷村氏は、介護者が介護を優先することで受ける他のペナルティ――介護者の老後における公的年金の減額等について言及し、本書に書かれた射程のさらなる拡張を促す報告を行った。

 また、二人のコメンテーターが共に本書を評価した点が、「息子介護者」の普段の生活を支える妻の負担=「介護の基礎」を可視化させた箇所であったことにも触れておきたい。男性による「家族介護」の背景に潜むジェンダーの非対称性を浮き彫りにする「介護の基礎」という著者の指摘は、「超高齢社会」を迎えた日本社会にとって極めて重要な概念として扱われるべきものだろう。

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 以上のコメントを受け、著者の平山氏からは、「息子介護者」=「問題介護者」というイメージ付けの拒否に至った動機や、息子介護者同士のホモソーシャルな関係性に対する危惧などが述べられた。男性性とケア行為が結びついた時、どのようなジェンダーの難問が前景化するのかが、改めて確認された。

 参加者とのやり取りでは、「息子介護者」としてのアイデンティティを欠いた当事者への支援方法、「ミニマムケア」の定義内容、女性介護者を貶める「ミソジニー」以外の連帯、被介護者自身の当事者性など、様々なトピックに関する議論が交わされた。

 介護者・被介護者の当事者性という話題に絡めて、司会の上野氏はセッションの終わりに、「する側/される側」双方にたとえば「虐待」の意識が無い場合、加害者のみならず被害者からも支援・介入を拒絶されるような事態を指摘した。そこには特に、母親が息子に介護を受けるという状況において発生する感情やジェンダーの問題が内在している。「母と娘」の関係と比較するならば「母と息子」は取り上げられる機会も少ないが、いざ「介護」が絡んできた際、「この二者の関係は極めて複雑な「闇」を伴う」という上野氏の発言は、研究者・支援者・そして当事者たちにとって不可避の課題となるに違いない。このような状況が迫りくる中、本セッションによって多くの人々が問題意識を共有することができた意義は決して少なくないだろう。

(立命館大学文学研究科 泉谷瞬さんによる寄稿)