第2回「生存学奨励賞」受賞作が決定しました

掲載日: 2016年12月19日

第2回「生存学奨励賞」について、生存学研究センター運営委員および外部審査員からなる計7名の審査員による厳正な選考の結果、以下のように決定いたしました。

生存学奨励賞 『しかし、誰が、どのように、分配してきたのか――同和政策・地域有力者・都市大阪』
矢野 亮 著 洛北出版 刊

生存学奨励賞講評(生存学研究センター センター長 立岩 真也)

 昨年、第1回の選考は最後まで意見が収束せず、結果複数の本に賞が与えられた。この第2回の選考においても、研究する対象も方法もまたその結果の質も異なる複数の重要な業績について、それらにどのようにして順序をつけたものか、議論がなされた。ただこのたびは、やがてこの一冊がよいだろうということになった。矢野亮『しかし、誰が、どのように、分配してきたのか――同和政策・地域有力者・都市大阪』(洛北出版、2016)。

 これはそうきれいにまとまった、読むとすぐにわかる、という本ではない。対象領域としても、どれだけ多くの人が大阪住吉の部落について、部落解放運動とその困難について関心をもってくれるかということはあるだろう。しかし賞というものに意味があるとすれば、その意味は、「にもかかわらず」重要な本を選びそれを知らせることにあるのではないか。すくなくともそんな意義が、すくなくともこの賞にはあると、審査員たちは考えることにした。

 審査員の一人がこの本(のもとになった博士論文)に言及している文章を以下引用する。『生存学の企て』(生存学研究センター編[2016])の「補章」の第3節「穴があいているので埋める・塊を作る」の「代行者に権限が行く場合」。

「差異について、名乗ること、名乗らねばならないこと、このことと保障すること補償することとは大きく関わる。それが気にいらないなら無条件にというのでよいように思われる。しかしそれでは結局差異に対応できないというのが一つの問題だ。このことを述べた。

 その問題が差別への対応の場面で生ずる。その博士論文(矢野[2015])において矢野亮が丹念に行ったその記述から見えてくるのは、それを巡る争い、問題の難しさでもある。また山本崇記の博士論文(山本[2009])他の仕事もそのような方向に読んでいくことができる。

 ここまで種々の研究に隙間が開いていること、穴が開いていることを述べてきたのだが、部落差別に関わる領域については例外的に研究が厚く蓄積されてきた。完全な素人である私に言えることはほとんどない。ただ、前項に述べたことに関係する問題があること、現に生じていることは言える。

 差別を解消しようと言う。すると普通は誰が被差別者かその特定から始まることになる。しかし、部落差別は名指されることにおいて現れてくるようなできごとでもある。すると誰が被差別者だと誰が決めるか。個別に指定することが問題であれば、被差別者側に委託し、そこが代表して受け取り、それを分けるというやり方は合理的な方法ではある。というか他のやり方をなかなか思いつかない。するとそこには権限が生じるし、権益が発生する。それは「取り合い」の世界にもなる。それは好ましくない結果も生じさせうる。その実際のところを知り、ではどのように考えるかという課題がある。

 一つだけのものを記述する。その場において様々な力が働いてる。たんに今まで気づかなかったり、語る人がいなかったり、あるいは作為があり利害が働いて、見えなくなっている部分がある。それで取り出して丹念に記述する。それはそれとして意味がある。それを十分に書けたらそれだけでよいとも思う。しかしそれはただ特殊なことであるのか。そうではないはずだ。すくなくともそれだけではないことがある。個別の複雑なできごとをなにかの筋で捉えることもできる。それは実は多く基本的な問題に接合する。事件の記述が、ごく基本的な問題を考えさせてることにつながる。いろいろな人の仕事を見ているとそのように感じることがある。」(立岩[2016:211-212])

 これは一つの読み方でしかない。ただ、一つのことをきちんと調べて考えてものを書いていくなら、それは様々なところに通じていくのだということはそこに示されているものと思う――その場所の前では「ベーシックインカム」についての研究を紹介している。その『生存学の企て』という本は、それに関わった人たちがどんな仕事をしてきたのか、それらが互いにどのように関わっていて、さらに社会・世界にどのようにつながっていくかを各人の書籍・論文の一部をそのまま引用し解説を加えるかたちで紹介した本なのだが、この「補章」では、そこまでに挙げられたものに加え、さらに数多くの書籍や論文を紹介している。学が集合的な営為としてなされることに時によいことがあるのは、人がしていることの、ときに自分がしていることの意味・位置が、比べ並べ議論することで見出され、さらにそれ(ら)が豊かなものになることにおいてだろうと思う。

 言うまでもないことを付言しておく。今述べたように、今回の受賞作は研究組織としての生存学研究センター、そしてそのメンバーの多くが関わってきた教育機関としての(立命館大学大学院)先端総合学術研究科に関わる人の作品ではあった。しかし、一つ、私たちは、とにかくよい作品を選び、世に知らせたいだけだ。そして一つ、この「センター」はたしかに「障老病異」を謳ってはいるのだが、べつに病気や障害についての社会の理解を深めたりすることを目指して活動などしていない。「異」と言えばどんなものでも含まれてしまうという理屈もないではないが、それは後付けの理由だ。おもしろい、大切な業績・作品なら歓迎する。そのことは今回の受賞作が示しているのでもある。