第8回「生存学奨励賞」受賞作が決定しました

掲載日: 2023年01月13日

第8回「生存学奨励賞」について、7名の審査員による厳正な選考の結果、以下のように決定いたしました。

生存学奨励賞 著者:江口 怜
タイトル:『戦後日本の夜間中学-周縁の義務教育史』
出版社:東京大学出版会

生存学奨励賞講評(生存学研究所 所長 立岩 真也)

出版助成を得たり、著者は印税を受け取らないといった取り決めのうえなのだろうが、それで12000円+税という本だ。これをこちらでは何冊購入するか、それは研究所の財政にとってどうなのかといった話があったのだった。(それは、この賞に応募すると、本が何冊かは売れるということなのだから、応募するだけで有益だということだ。みなさんどうぞ応募してください。)結果、審査員の数だけ買うことは断念され、本は審査員の間を行き来することになった。そして、この賞を誰にさしあげるかは、毎年、意外なほど様々意見が出て決まるまで時間がかかったりするのだが、今回はあっさり、本書に決まった。

決まるのはあっさりだったのだが、どうもおめでとうです、以外、何を言ったらよいものだろう。「講評」をまずまずの数書いてきた私は、けっこう難儀した。

まず、ただ調べて書くだけ、というのは、なにかよくないことのように言われることがあるが、そしてそんなことしかできませんみたいなことを謙遜?して言う人たちがいるのだが、しかし、だったらこの本ぐらい――というのは明らかに言い過ぎだ、そんなにがんばることはない――調べて書いてほしいものだと、まずは、こちらにたくさんいる大学院生たちに言いたくて、審査の終わったこの本を、こちらで書庫と言っている場所に、並べて――つまりそれは販売に貢献しないということなのだが――置いて、読んでもらおうと、その前にまずはその質量を味わってもらうと思う。

それでもなお、著者が一番わかっていると思うのだが、本書の4倍ぐらいの文字があってもよかったと思う。そんな分量のものは書籍にはならないし、なったとして誰も買わないにしてもだ。字を書いて残すという営みをどんなふうにしたらよいのだろうか。そのことを考えてしまう。考えたが、わかりはしない。何人が読んでくれるのかとか考えず、買ってはもらえないけれども、読んではもらえるかもという媒体にひたすら書き続けることぐらいしか思いつかない。

次に、ただ書く、とあえて言ったが、実際にはそんなことはできない。どこを書くかということがある。先行研究のことは何も知らないのだが、これまで夜間中学について書かれてきたなかでも、そんなに注目されなかったのかもしれない、そして「普通には」おもしろいとは思われないのかしれない、夜間中学の制度的な位置づけを巡った記述は重要だと思う。

「例外」を制度のなかに位置づけることを嫌うことについては、たんに官僚主義的な官僚たちが嫌う、というだけでもない。たしかに夜間中学ははまず必要とされている。だから必要だし、制度のもとに位置づけられるべきだ。しかし、それはやがて、あるいは既に、「普通」の学校で面倒とされる人たちがそこに送られることがありうるし、実際ある。「普通」のほうに行けるようにするほうが先にするべきことではないか。でないと、その「普通」の場にいてよい人たち、いたい人たちがいられなくなる、その可能性はある。その懸念がある。そしてそれはたんなる懸念ではない。養護学校(義務化)を巡って起こったこともそのように見ることができる。しかし、それでも、「普通」のものとして用意されるところにいられない人たちがいる。その「普通」がこのままでは、そんな場にいたくない人たちもいる。だからそれは必要だ。

おおまかな構図はそんなところだ。ではどうするか。「正解」は言える。多様であること「普通」でない人がいる場所があることを認めながら、「普通」の場をその人たちをぜったいに排除しないような場にしていくことだ。

そしてそれは、もちろん「場」というだけのことではない。もう一つ、教わる/教えることをどのように考えるかだ。それはこの世で生きていくのに必要なことではある。どんな場合にどれだけ必要かはその世・社会の形状による。その人自身は知識がなくてもべつだん困らないという状態を想定することはできる。しかし実際にはすこしもそんな具合に社会はできていないから、その前提のもとでは、生きていくのにあったほうがよい技はある。しかし加えて、その環境や手段が提供されても、そして実際にはその環境や手段の量・質は異なるから、実際にできるようになる度合いは異なる。とすると、ときに、そうした環境・手段があることによって、むしろ、「相対的な」自ら(たち)のできなさが示され、そしてそのことと人の価値が結びつけられてしまっているなら、さらに、そのための手段がいちおうは提供されているなら、そのことは自分のことともされる。結果かえって損、ということはある。自分が、あるいは自分の子どもに、学校なんか行かないほうがよいのだと言い、そうすることには十分な合理性があった。本書に出てくる、学校に近づこうとしなかった人たち、近づかせようとしなかった人たちにそんなところがあった。

しかし、ではそれはそのまましたらよいのか。そんなことにはならない。ここは略すが、知ることによいことはある。いま記したような事情のうえで、しかし教わるほうが得だということある。ただ、知ることが快であるこということもある。さらに、教育とか勉強とかとあまり関係なく、別の時間・空間がそこにある、あったということがある。そこは学校であった必要が必ずしもないかもしれない。しかし、実際にそのように機能したこともあった。

とするとどうなるか。どうするか。基本的には一つしかない。教えることはする。同時に、そんな場のどこにも来ないという人を認めることにもなる。と同時に、教えながら、知ること、教わることの位置を教えるということであらざるえないし、教えるだけでは仕方がないのだから実際に社会の形状を変更するその方向に向かうことだ。そんなややこしいことを思いつき、そして実際にしたのか、と思われるかもしれない。しかし、それはなされたし、なされてきた。そう考えてよいと私は思っている。

本書にも紹介されている映画や書籍が夜間中学を描いてきた。それは能天気に教育・学校を肯定するものであったきたか。そんなところもなくはないだろう。しかし、実際を描くというものであったなら、それだけのことではなかったはずだ。そして著者は、大学生の時に夜間中学に出入りすることになった。それは、基本的に、肯定的な体験であり、それはそのまま今まであり続けていると思う。そしてその肯定の経験・感覚は、今述べたその一筋縄でないところにもあったのだと思う。

そしてさらに、そこにはさらに様々な思惑が加わり、それが交錯する。本書を手にした時、私がまず想起したのは、私の務め先の研究科で博士号を取得した梁陽日(やん・やんいる)の博士論文「在日コリアン教育運動の現代史――戦後大阪の公立学校を中心に」(2017年度)だった。その論文よりさらにおもしろかったのは梁から聞いた、その運動を巡る、すぐには文章にできないところが多々あるとも言われた、ときに笑ってしまうが、しかしそれですませることもできない、摩擦や争い、その他様々だった。そんなおもしろさが本書にあるかと言えば、著者はじつはかなりそういうことごとを知っているはずだが、じつはそうでもない。梁の論文、というより話のほうがおもしろかった。

だから、この12000円の本にみなが書いてあるわけではない。しかし、何度でも言うが、こういう仕事がなされなければならない。学校を批判する言論が現われ、それを一定とりいれてきた教育学がいま何をしているのか私は知らない。どこかで、知ること、教わること、教えることを結局は否定しつくせないなら、基本的にはその場所に住んで、いくらか進歩的なことを言うぐらいであるのかもしれない。それでもよい、と言おう。しかし、そういう場所に暮らしていてもよいから、せめて言論の密度と精度は上げたほうがよい。本書はそんな仕事の一つとなった、というより、これからなる、と思う。