第4回「生存学奨励賞」受賞作が決定しました

掲載日: 2018年12月21日

第4回「生存学奨励賞」について、計6名の審査員による厳正な選考の結果、以下のように決定いたしました。

生存学奨励賞 著者:小西真理子
タイトル:『共依存の倫理ー必要とされることを渇望する人びと』
出版社:晃洋書房

生存学奨励賞講評(生存学研究センター センター長 立岩 真也)

 選者たちの間に、ある程度の共通性と不思議な違いが顕わになることが、今年はそんなことにはならないと思ったのだが、起こる。総じて評価の高かった比較の難しい幾つかについて、さらに評価が分かれ、その後本書に決まった。

 本書が選ばれたのは、私ならこういう事情によると思う。まず、共依存の人たちの重いできごとが描かれている。というか、その人たちが語ること、作品の中で描かれることが記される。きっとそんなことがあるのだろうと思う。次に、依存しあっている人たちを離すことが常に最善であるのだろうかと著者は言う。すると、著者と同じように思う。しかしそれでは、ひどいことになるのではないか。しかし著者はそのことはわかっている。そのうえで書いていると言う。離すこと「だけではないのではないか」と言われれば、そしてさらに「そうしないと危険が及ぶ時には無理やり離すこともある」と言われば、その通りと言うしかしない。

 次に私(たち)は、以上はその通りだとして、「その先を」と言いたくなる。しかし、それが、引き離した方がよい場合とそうでない場合とを、しかじかの基準で分ける、その基準を出せといったことであるなら、そんなものを示すことを求めることは、無理な要求であると思える。ここでも、私(たち)は著者に負ける、というか勝てない。加えて、これまでの共依存を巡る論議が、素人であるから判断しずらいのではあるが、きっとよく検討され紹介されているだろうことも評価されよう。後半の記述が並列的な印象を与えるのはすこし惜しいし、内容面では、「病理」という言葉が頻回用いられるけれどもよくわからないのは実は行論と議論の詰めに関わっているように思われるが、全体としてはよく書けている。しかしなにより、ことの重さと、著者のその先を考えられないために、この本でよかろうと、そういうことになったと思う。

 ただ、その後に思ったことがある。8頁に引用されている斉藤学の「人に自分を頼らせることによって相手をコントロールしようとする人と、人に頼ることでその人をコントロールしようとする人との間に成立するような依存・被依存の嗜癖的二者関係」とその関係を捉えるなら、頼ることも頼られることも肯定しなから、しかし双方が双方をコントロールすることは否定されると、まずはそのように単純に捉えたらよいのではないか。その次に引かれるキデンズの「存在論的安心を維持するために」についても同じように言える。コントロールすることより安心の望みはもっともなものと思えるが、それでも、そんな安心感をわざわざ自己・他者破壊的な依存/被依存によって得ようとするなら、それをそれほどのものかと言い、そのようにして安心を求めざるをえないでいる状態はよろしくないと言えるのではないだろうか。そしてそこからまた議論をしていくことができるのではないか。それは、本書で正当に批判されている、「自律」を至上のものとすることによって共依存を批判・否定しようとする議論とは異なる。自律をもちあげずに、支配を否定することはできるのである。とすると、冒頭で紹介される――多くの人はここで本書で言われていることがもっともなことだとまず思う――映画『リービング・ラスベガス』はどう読めるか。ここに現われるのは例えば「存在論的安心感」を求める人たちだろうか。

 受賞が決まってから一人の人が考えたことを書くという「講評」は普通ないと思う。しかし、この章については許されると考えて以上記した。今年も種々よい本が寄せられた。来年も多くの作品が寄せられることを期待する。