12人のライフヒストリーで置き去りにされた教育史を浮き彫りにする ―『教師という希望 ―視覚障害教師の50年史―』(学文社、2025年)―
記憶は伝承すれば物語や歴史になるが、放置すれば忘却され、あったということさえも知られなくなる。本書の目的は視覚障害教師たちの記憶を書きとどめ、置き去りにされた事実を教育史に位置づけることである。本書は教員採用において障害者を欠格とする内規が存在した1970年代から障害のある教師の雇用に合理的配慮が義務づけられている現在までの50年にわたる視覚障害教師の記録である。記録の本筋は12人の視覚障害教師のライフヒストリーだ。この12人のライフヒストリーに関連して、さらに19人の視覚障害教師の個人史を本筋を補強する史料として織り込んだ。
本書は3部12章、および補遺で構成される。第1部「門戸を開く」は1970年代から1980年代前半に視覚障害者に教職の道を開いた4人のライフヒストリーである。第2部「隘路を歩む」は1980年代後半から1990年代にまだ異例だった視覚障害教師として働き続ける方策を模索した4人のライフヒストリーである。第3部「行方を探る」は2000年以降から現在、視覚障害者が働くために必要な環境を職場に作りながら、障害教師の存在意義を探求する4人のライフヒストリーである。ライフヒストリーは単に歴史的事実を示す情報源というわけではない。それは一人の人間が生きた人生の物語だ。歴史的事実が個人の物語の中に現れ、個人の物語が歴史的事実を構成する。個人の唯一の経験、複雑な感情、練り上げられた思考、多様な営為を知ることで、視覚障害教師の歴史をより深く理解できるはずだ。
さて、本書は5年前に刊行した拙著『障害教師論――インクルーシブ教育と教師支援の新たな射程』(学文社、2020年)の研究を補完、拡充するものである。同書は博士論文をもとにした研究書であるため、学術論分の作法に強く縛られている。すなわち、データを収集、整理し、それらを分析、考察して、新たな知を創出するという定式だ。この作法に則ると、考察の材料となったデータは論文に示されるが、その他の多くのデータは捨象されてしまう。前著では20人の視覚障害教師にインタビューを実施し、100時間を超える口述データを収集したが、論考で取り上げたのはそのごく一部で、しかも要素に分節化されたものだ。収集した口述データには知られるべき事実がまだ豊富に残されている。視覚障害教師20人の記憶は一旦記録され、忘却により消失することを今のところ押しとどめてはいるが、記録のまま埋没してしまえば、語られた事実は知られず、歴史に刻まれることもない。そこで、これまで蓄積した視覚障害教師たちの口述データをなるべくそぎ落とさない形で書き残し、公刊することにした。その有効な方法が個人が生きた現実をライフヒストリーとして全体的に記述することであり、個人のライフヒストリーを時間軸に沿って連ねることで視覚障害教師たちのエスノヒストリーを描き出すことだった。
本書の12人のライフヒストリーは障害教師が直面した学校教育の課題を具体的に提示している。本書に登場する教師たちは本来的に特別な教師というわけではない。どこにいてもおかしくない多様な教師たちの中の一人だ。たまたま視覚障害があったり、偶発的に視覚障害を有することになっただけである。どんな教師でも目が見えなくなれば、たちまち本書の教師たちと同様の問題に直面するはずだ。現代の学校組織、教育制度が持つ同じ構造の中で、障害のある教師も障害のない教師も教職生活を送っている。障害教師の存在によって照らし出された抑圧構造はすべての教師を潜在的に支配している抑圧構造なのだ。
教師は子どもたちの幸福に直接寄与できる魅力的な仕事だ。だが、現在、多くの教師たちが教師という仕事に困難を感じている。不条理にさらされ、疑問を感じながらも、自分の信念や価値観にフタをして黙々と職務に取り組んでいる教師もいる。その困難や不条理もまた学校組織や教育制度の構造的問題として捉えることができる。そして、私にはそれらが視覚障害教師を抑圧している構造的問題と同一であるように思えるのだ。本書が学校教育のいびつな構造に警鐘を鳴らし、すべての教師と子どもが尊重される学校を構想する水先案内となることを願っている。歴史は単に過去の記録ではなく、未来を見誤らないための羅針盤なのだ。
関連リンク
障害のある教師という視座から教育を問い直す(中村雅也)
https://www.ritsumei-arsvi.org/essay/essay-3333/
中村雅也(立命館大学衣笠総合研究機構専門研究員)