分水嶺を歩いてみませんか――イヴァン・イリイチの思想から見える風景

掲載日: 2025年04月01日

 私は、教育、道具、交通、医療、労働、宗教などといった多岐にわたる分野を横断し、各分野の基礎となる社会制度を洞察した、思想家イヴァン・イリイチについて研究しています。以前、登場した「研究の現場」では、産業社会との関係のなかでシャドウ・ワークを軸に論じました(注1)。今回の「研究の現場」では、研究の成果として2024年3月に提出した、博士論文『分水嶺を歩む思想家イヴァン・イリイチ』を基に説明していきます。本論を通じて、私の研究について触れていただくことを目的としています。

写真1: 博士論文『分水嶺を歩む思想家イヴァン・イリイチ』。

 イリイチは、教育や道具、労働、医療などといった商品やサービスと、それを希求する欲望を人々のなかに形成させることで、人々がみな生産者かつ消費者として適応し、生産と消費の循環構造に組み込まれていくと考えていました。

 たしかに、産業社会の発展により人々の生活水準は向上し、学校の普及により身分や階級に囚われることなく教育や社会への参画が可能となり、医療の進歩により感染症の予防や治療の範囲が広まり、さらに、性別に縛られることなく賃金労働に従事できるようになった点で産業社会が果たした貢献は大きいといえるでしょう。しかし、同時にこれらの発展が、貧富の格差の土台を固め、学校教育の普及や道具の電動化・自動化、医療の発展、賃金労働とシャドウ・ワークとの対立などによって、新たな弊害を引き起こすことになるとイリイチは主張しました。

 弊害の一例を取り上げます。学校教育の普及のための資本の投入によって、一般社会に教育サービスの普及が可能になるかと思いきや、かえって教育商品や教育サービスへの欠乏状態を人々の内に生み出しました。そして、貧富の格差に応じて、商品やサービスへのアクセス可否が生じる弊害を、イリイチは「貧困の近代化」と呼びました。この弊害の困難をイリイチは、教育商品や教育サービスに依存することから、商品やサービスに頼らずに独力で学ぶ能力が得られないだけでなく、解決に向けた自力での判断ができない人間になると指摘しています。

写真2: 学位授与式での様子(著者近影)

 また、労働とシャドウ・ワークについては、産業社会での経済が男女の性役割を経済的差別へと移行させ、男女間の経済的競争を引き起こすと主張しました。イリイチは、賃金労働における性差別的な側面に着目し、特にこれまで女性が従事してきた家事、育児、介護といったシャドウ・ワークが低く評価され、低賃金労働となる経済的差別を問題視しました。一方で、男性が従事する賃金労働に対して、シャドウ・ワーカーからの妬みや羨望が向けられることから、性差間の労働を巡る対立が起きることを指摘したのです。

 ただし、これまでのイリイチ研究は、上記で言及したイリイチの各概念や特定の活動の分析に留まっており、イリイチの思想の変遷を通じた総合的な読解を提示していませんでした。そこで私は、これまで言及されてこなかった「分水嶺」という概念を分析し、産業社会への批判と擁護という、イリイチのなかに矛盾した態度が意味していることを見いだしました。

 イリイチのいう「分水嶺」には二種類の意味があります。
 これまでの研究で論じられてきたイリイチの分水嶺とは、専門知識や技術がある一線を越えることで、当初は良いとされてきたものが反転し、良からぬものに転化するという意味合いとして理解されてきました。前述した学校教育や労働とシャドウ・ワークとの関係についても、この点から理解されてきました。そのためイリイチは、一定の限度を設けて、制限をかけることで、良からぬものに転化しないように考えていました。
しかしながら、これまでの研究で私が明らかにしたもう一つの分水嶺は、相反した両立しがたいものの分水界となる基点を歩み続けることで、両者の立場や議論から調和やバランスをとるのではなく、相反する議論や他者と向きあうことで、自尊心や自主性を生み出すことにあります。イリイチの産業社会批判は、イリイチの思想のあくまで片側でしかなく、批判と擁護の両側とそれぞれ向きあうことによって、主体性をもった自己が形成され、転化せずに産業社会の弊害から解き放たれることができると、イリイチは考えていたのではないでしょうか。今後も「分水嶺」を軸にイリイチの総合的な分析を続けていきたいと思います。

注1「この時代に産業社会を考えるということ――イヴァン・イリイチの思想研究から」
https://www.ritsumei-arsvi.org/essay/essay-2618/

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