この時代に産業社会を考えるということ――イヴァン・イリイチの思想研究から

掲載日: 2019年02月01日English

写真1:国際カンファレンスで報告しているときの写真

私は産業社会を批判したイヴァン・イリイチの思想を研究しています。

イリイチは、大学院修了後にカトリックの神父となり、アメリカのニューヨークのハーレムで貧しい人々のために奔走し、その後はプエルトリコやメキシコで活動した人物です。彼はそれらの活動から、貧富を生みだす産業社会の構図を分析しました。彼は、学校や病院、交通が貧富と緊密に結びつくことで様々な格差の温床となっていることを明らかにしました。そして、元来人に備わっている「自律」性によって、そのような格差そのものを覆せることを指摘したのです。しかし、その後のイリイチは伝統文化や中世主義の推奨者とみなされ、彼の産業社会批判も懐古主義によるものとされてしまいました。そのような経緯から、イリイチは産業社会批判のブームのなかの一人として扱われてきました。

現在イリイチの思想は、教育や医療の分野では、欠かすことのできない古典の一つとして高い評価を受けていますが、最近では自律性についても注目されています。例えば、情報技術や情報機器といったテクノロジーの利用と彼のいう自律性とを絡めた研究もあります。また、彼が所属していたペンシルベニア州立大学の教員らを中心に立ち上げたThe International Journal of Illich Studiesという雑誌(註1)も近年創刊され、再評価の機運が徐々に高まっているように思えます。

写真2:学生が描いてくれた私のイラスト

ただし、イリイチの思想が十全に理解されているとはいえません。なぜなら彼は単なる産業社会批判者ではなく、産業社会を丁寧に分析していたからです。私の研究では、イリイチのいう「相補性」に着目しています。イリイチは相補性のひとつとして男性と女性の性差をあげて、お互いが異なる身体を持ちつつ、そのことが互いの生活にとって重要になると述べました。この指摘は、産業社会における男女の性差を批判する文脈で使われたこともあって、フェミニストたちによって批判されたのですが、それでも彼はコインの表と裏のごとく、非対称な二つの対象は、一つのものを構成するうえでなくてはならないものだという相補性にこだわっていました。

例えば、彼の自著である『シャドウ・ワーク』のなかで、イリイチは、家や生活、文化など、以前からあったものを産業社会は容赦なく破壊していくだけでなく、他方でそのような破壊は、破壊によって失われた過去への感傷を引き起こしているともいっています。そして、そのような感傷が新たな創造の基盤となるのです。ここに、破壊と創造という相補性の一例をみてとることができます。イリイチは、産業社会のなかで決して無下にできないものを見定めた上で、産業社会の功罪を追究しているのです。彼の産業社会批判は、そのような繊細な手つきのもとで行われています。

イリイチは、シャドウ・ワーク(家事育児や通勤通学や受験勉強などの賃金が支払われない労働)を、「賃金を支払うための条件」となるだけでなく、それは更なる欲望を惹起し、新たな消費を下支えしていると考えていました。さらに彼は、シャドウ・ワークを担っているのが、その時代の多数者(例えば、専業主婦やブルーカラーの労働者など)であることから、彼/彼女たちは大きな消費を生みだす一方で、大多数が関わるためその活動自体は低く見られ、だからこそ、多くの人々は低賃金な労働から逃れ難いのだと指摘しました。イリイチは、現代で生きることの難しさを『シャドウ・ワーク』で描いたのです。その「欲望」とセットとなるのが「ニーズ」です。私は博士論文で、これらの関係を相補性という観点から検討し、とりわけ現在にあって過去にないものを明らかにしたいと考えています。

安田智博(立命館大学大学院先端総合学術研究科院生)

註1https://journals.psu.edu/illichstudies

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