1920年代ベルリンを読む――ドヴィド・ベルゲルソン「盲目」

掲載日: 2020年07月01日English

ホロコースト以前のロシア東欧に広く定住した東欧ユダヤ人(アシュケナジム)の母語の一つにイディッシュ語がある(今でもパレスチナや北米にその話者は多い)。アルファベットはヘブライ文字だが、中高ドイツ語をベースにヘブライ語やスラヴ諸語が混ざり合ってできたイディッシュ語には、十世紀頃にライン川沿いに定住し、その後東欧に移住したユダヤ人の長い歴史が染み込んでいる。
そのイディッシュ語に加え、ポーランド語やドイツ語などの多言語が錯綜した戦間期のポーランド文学が僕の主な研究領域だ。そして現在、その延長として、東欧から移民や亡命者が集まっていたロシア革命後のベルリンの文学を研究している。

1917年の革命後、ロシア一帯は赤軍・白軍・諸勢力が入り乱れての内戦状態と化し、革命に抗したロシア人のみならず、飢餓や混乱に直面した無数の人々を国外に吐き出したが、その結果、東西ヨーロッパの玄関にあたるベルリンにロシアからの逃亡者が殺到し、1920年代のベルリンはロシアの飛び地のような様相を呈したという
『雪解け』(1954年)の著者として有名なソ連の作家イリヤ・エレンブルグは回想録の中で、「あのころ、ベルリンに何人ロシア人がいたか知らないが、おそらくかなりの数だったように思われる――どこへ行ってもロシア語が耳にはいってきた」と語っているが、エレンブルグが耳にしたというロシア語には(彼自身がそうだったように)イディッシュ語を母語とする「ロシア人」(ロシア系ユダヤ人)の声も混ざっていたはずだ。
19世紀末以来、ロシアで繰り返しポグロム(ユダヤ人虐殺)が発生し、とりわけ内戦時代には20万ものユダヤ人が殺害されたというが、ベルリンはポグロムを生き延びたユダヤ人にとっての避難場所でもあったからだ。

内戦時代にロシアを脱し、ベルリンにやってきた数多くのユダヤ人の中に、ウクライナのシュテットルに生まれ、キエフでイディッシュ語作家としてデビューしたドヴィド・ベルゲルソン(1884-1952)がいた。
20年代ベルリンの亡命ロシア人と言えばウラジーミル・ナボコフが有名だ。ナボコフは『マーシェンカ』(1926年)や『賜物』(1938年)などでロシア語が飛び交うベルリンの亡命社会を描いたが、その同時代に、ドイツ語とロシア語に囲まれて生きるイディッシュ語話者のベルリンを描いた作家がベルゲルソンだった。
ベルリンでの亡命時代(1921-33)にベルゲルソンが発表した短篇に「盲目」(1926年)がある。
夫とともにロシアからベルリンにやって来た中年女性と、戦争で視力を失ったドイツ人青年との束の間の恋を描いたこの小説は、第一次世界大戦後の人々が抱えた喪失感をテーマにしたものだ。そしてそれがドイツ人青年とロシア出身の女性との紐帯になりえた空間が20年代のベルリンだった。
「盲目」は言語の面でも当時のベルリンを反映した複雑な構造を持っている。
ベルリンのアパートに引越してきた「わたし」が、前の住人が置いていった「女の達筆でぎっしりロシア語が書かれたノート」を発見するところから始まるこの小説は、ノートの著者であるソーニャがドイツ語で交わした恋人との会話を、まずは彼女がロシア語で記述し、それを「わたし」がイディッシュ語で語り直すという多重翻訳の形式をとっている。しかも、ソーニャはイディッシュ語からロシア語に自己翻訳を行っていた可能性も示唆されている。彼女はそのロシア風の名の他に、イディッシュ語で呼ばれていた別の名を持つことがノートには記されていた。

 駆け回る子どもを呼びとめる女中の叫び声が私の耳に届いた。それはぼんやりと声を変え、故郷での半分忘れてしまった昔の私の名を呼んでいるようだった。
 「ハナ!…… ハナ!」
 そんな風に聞こえた。
 開け放った窓の前で金縛りになったみたいに立ち竦んでしまった。

ソーニャは故郷にいた頃の名前(ハナというユダヤ名)を耳にしたことで失われた日々を想起するが、それは「なかったことにしたい「二、三年間」」の「災難」の記憶とも結びついていた。直接言及されていないが、それが内戦時代のポグロムを指していることは間違いない。
何の変哲もない言葉が別の言語と連鎖反応を起こし、聞く者を震え上がらせる力を発揮することがある。ソーニャ/ハナがベルリンで直面したトラウマ的な記憶の想起には、ドイツ語とイディッシュ語の近さもまた大きく関与していたはずだ。それは、ドイツ人はもとよりナボコフのようなロシア人にも起こりえない特殊な体験だった。

多言語的な文学研究は近年盛んになりつつあるが、ロシア語やドイツ語のような大言語に比べてイディッシュ語のような小言語は今も見過ごされがちだ。ラジオの周波数を変えるように、僕らはもっと小言語の話者の聴覚に近づいてみる必要がある。文学を読む行為とは五感を駆使して他者の体験に寄りそうことでもあるからだ。他者の想像的な感覚を体験しなおすこと。そのような感性の鍛錬を行う上でも、イディッシュ語やウクライナ語がドイツ語やロシア語と隣接していた20年代ベルリンの文学は、挑戦しがいのある研究対象だと僕は考えている。

  • 諫早勇一『ロシア人たちのベルリン』(東洋書店、2014年)はロシア文学者の視点から20年代ベルリンを論じた最新の成果だ。
  • エレンブルグ『わが回想:人間・歳月・生活Ⅱ』木村浩訳、朝日新聞社、1968年、23頁。
  • דוד בערגעלסאן, בלינדקייט, געקליבענער ווערק 6, ווילנע, 1929, ז.59-60.

田中壮泰 (先端総合学術研究科・研究指導助手)


ベルゲルソンの小説は様々な言語に翻訳されており、例えば、ベルリン時代に書かれた短篇の主だったものを英訳した短編集が、The Shadows of Berlin(J. Neugroschel編訳)として2005年に刊行されている(写真左側)。また、写真右側の『世界イディッシュ短篇選』(西成彦編訳、岩波文庫、2018年)には、現在のところ日本語で読める唯一のベルゲルソンの作品「逃亡者」(1927年)が収録されている。故郷のシュテットルを破壊したウクライナ人のポグロムチク(虐殺者)が、ベルリンのアパートの隣室に転がり込んできたことから、その殺害を計画するに至るユダヤ人青年の数奇な運命を描いたスリリングな短篇だ。


ベルゲルソンと息子レヴ(1922年フライブルクにて)。出典:Joseph Sherman and Gennady Estraikh (Ed.), David Bergelson: From Modernism to Socialist Realism, MHRA and Routledge. 2007, p. 82.

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