東アジアにおける入植者の歴史と日本帝国の記憶――「日中韓農業史学会」に参加して

掲載日: 2019年10月01日English

ソウル大学湖岩教授会館で開催された日中韓農業史学会

私は境界をこえる「移民」や「植民」の視点から近現代北海道史を研究しています。2018年9月13日から14日にかけて、ソウル大学湖岩教授会館で開催された日中韓農業史学会での発表と群山(クンサン)へのエクスカーションに参加しました。今回の大会テーマは「東アジア農業における国家と農民」で、韓国・中国・日本の農業史の研究者が一堂に集まってそれぞれの研究成果を発表しました。

私は「酪農のユートピアと地域社会の軍事化――根釧パイロットファームの再編と北海道・矢臼別軍事演習場の誘致」(낙농의 유토피아와 지역사회의 군사화: 콘센 파일럿 팜의 재편과 홋카이도 야우스베츠 군사연습장의 유치)という発表をしました。

これまで、1950年代に世界銀行の融資をうけた根釧パイロットファームは、機械開墾による農業開発モデルとして、その後の北海道開発や途上国への開発援助へつながると評価されてきました。今回の発表の目的は、1960年前後の自衛隊基地の誘致(矢臼別軍事演習場、別海駐屯地)と大規模農業開発プロジェクトの関係性から地域社会が抱える問題を明らかにすることでした。当時の別海村では、主要産業である漁業や酪農開発の先行きに陰りが見えるなかで、ソ連が実効支配する国後島が隣接するという地政学的な条件から、自衛隊の誘致による地域の財源確保が議論されました。この地域の歴史から見えてきたことは、土地の利用や入植者の移動の経路などの日本帝国との歴史的な連続性のもとで農業と軍事という領域が切り離せないことでした。

2日目の午後は、貸し切りバスで2時間の道のりを群山まで行きました。沿岸部にはセマングムという広大な干潟が広がっています。干拓事業によって水が抜かれ、広大な水田地帯となっています。群山は、日本帝国時代には米の生産と日本内地へ米を輸出する拠点でした。市内には当時の家屋や曹洞宗の寺院が残され、植民地支配の負の遺産とともに観光資源として整備されています。月明洞など改装された料亭やブックカフェなど、「日本時代」風のアレンジを加えられた観光空間は韓国の若者たちでにぎわっていました。私が泊まったゲストハウスも、当時の壁や柱が部分的に残され、リフォームされていました。アクリル板で保護されているとはいえ、自分が眠るすぐ横にある日本帝国時代の崩れかけた土壁に息苦しさを感じました。

群山市のBack to 1930'sフェスティバル

私が群山を訪れた日には「バック・トゥ・1930年代」という大きなお祭りが開かれており、日本帝国時代とハロウィンの仮装がごっちゃになったパレードを見物しました。また、終戦後に日本人の製菓店を買い取って創業した李盛堂(イソンダン)というベーカリーでは、名物の餡パンを買いました。創業者のイソグ氏は北海道生まれで、両親が全羅北道から北海道に渡って鉱山で働いていました。終戦後、韓国に引揚げてきた後に群山に留まってパン屋を始めたそうです。

翌日は群山近郊のかつての日本人農業移民の入植地に向かいました。代表的な不二農村では、学校を中心に広島、佐賀、山口、岡山、徳島、香川、新潟、宮城、福島など内地からの出身県ごとに村がつくられていました。入植地は10戸ごとに集住する形態がとられましたが、山形村では後に満州開拓にもかかわる加藤完治の影響で20戸が集住する形態がとられたそうです。この地域は、現在も穀倉地帯として米の生産が非常に盛んです。かつての日本人入植者の子ども世代が自身の育った場所を探しに来るそうで、専門の観光ガイドをともなって記憶の場所を探し当てるのだそうです。近年まで入植者の家屋がまとまって残っていたそうですが、現在は道路開発にともなって廃墟と化した数軒が残るのみとなりました。私たちが見た家屋は、瓦屋根が崩れかかり、家屋は物置になっていましたが、巨大なナツメの木にはたくさんの実がなって色づき始めていました。

群山市内の観光事業のために保存された日本人家屋も日本帝国の歴史を考えるための重要な場所だと思います。植民地の物理的な記憶装置がまさに崩壊する瞬間に、かつての入植者たちの廃墟を訪れることができたことは貴重な経験でした。

番匠健一(立命館大学衣笠総合研究機構生存学研究所客員協力研究員)

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