過去・現在・未来のためのアーカイブ――死刑制度の歴史研究と新史料の発掘
わたしは日本の死刑制度がどのような歴史的・社会的文脈のなかで論じられてきたかについて研究しています。死刑制度についての研究というと、死刑を残すべきか、なくすべきかという死刑存廃論を思い浮かべるかもしれません。そうした研究は、主に法学の分野に膨大な蓄積があります。しかし、死刑はあらゆる文脈から切り離されて議論されてきたわけではありません。死刑の議論は、その時々の国内外の情勢に大きく影響されるのです。
このような研究に取り組むにあたり、多くの史料の蒐集ならびに新史料の発掘は欠かすことのできない作業です。ここでは、その具体例として、1948年12月23日のA級戦犯の死刑執行始末書の原本の入手についてのエピソードと、そこから得られた新たな知見を紹介します。
日本が死刑を存置している根拠の一つに1948年3月12日の最高裁判決があります。そこでは、何が残虐な刑罰にあたるかは「時代と環境」によって異なると前置きしたうえで、1948年の時点では、死刑それ自体、および絞首刑という執行方法は日本国憲法36条の残虐な刑罰の禁止には反しないとされたのです。従来の研究では、この判決はもっぱら日本国内の文脈だけで分析されてきました。しかし、この判決はアメリカの絞首刑の影響を受けている可能性が極めて高いと考えられます。そう考える理由はいくつかあるのですが、その一つが、A級戦犯の絞首刑がアメリカ第8軍によって執行されたことです。
図1:黒塗りされた史料のコピー。写真は筆者がアメリカ国立公文書館Ⅱで撮影したもの
その詳細な執行手順が記されている史料が、A級戦犯の死刑執行始末書です。この死刑執行始末書は刑法学者の永田憲史によって発見され、多くの新聞で取り上げられました。しかし、その死刑執行始末書には黒塗りで隠された部分がありました(図1)。死刑執行人の名前、および死刑執行の技術責任者の名前が不明だったのです。A級戦犯の死刑執行にあたっては、スガモプリズン内に絞首台が新設されたという事実があります。そのため、1948年12月23日の絞首刑はアメリカ式の方法ではなく、執行方法だけイギリス式のものだったという可能性もないわけではありませんでした。そこでわたしは、永田の研究を頼りに、それが確実にアメリカ式のものだったといえるための史料を求め、アメリカ合衆国メリーランド州にある国立公文書館Ⅱ(注1)に向かいました。永田はこの史料を日本の国立国会図書館憲政資料室に所蔵されているマイクロフィッシュで確認したとのことでしたので、アメリカには黒塗りがされていないオリジナルの史料が保管されているのではと考えたからでした。
図2:黒塗りされた史料と一緒に発見された封筒。この封筒のなかに原本が保管されていた
永田の先行研究があったおかげで、史料にたどりつくこと自体は容易でした。ただ、その史料はマイクロフィッシュ版と同じく、原本のかわりに、死刑執行人の箇所を黒塗りしたコピーがはさまれており、わたしは少なからず落胆しました。しかし、史料が入っていたBOXのなかに、史料のフォルダとは別にされた封筒が入っていることに気づきました(図2)。わたしは公文書館の職員に、中身を見て写真を撮ってもよいか改めて確認をとったのちに、震える手で封筒を開いてみました。はたして、そこから出てきたのは、黒塗りがされる前の原本でした。そこに記されていた執行人の名前は、1946年にスガモプリズンの絞首刑執行マニュアルを作成するにあたり中心的役割を果たしたアメリカ第8軍所属の人物の名と一致しました。つまり、A級戦犯の絞首刑は1946年から用いられていたアメリカ式の絞首刑と同一の基準を採用した方法であった可能性が極めて高いことが、史料から明らかとなったのです。
日本国内で執行されていたアメリカの絞首刑が、日本の絞首刑の議論にどのような影響を与えたのか。その詳細を明らかにすることが、現在のわたしの課題です。そうした課題に取り組むのは、過去を知るためだけではありません。現在の社会を知るためであり、未来への道筋を知るためでもあります。また、こうした研究ができるのは先人達が史料を集積してくれていたおかげです。史料が遺されていなければ、史料を発掘することがそもそもできません。アーカイブは過去・現在・未来に生きる人のためのものなのだと、改めて実感しました。
(注1)アメリカ国立公文書館新館「Archives Ⅱ」については、以下のリンクを参照。
https://www.archives.gov/dc-metro/college-park
櫻井悟史(立命館大学 生存学研究センター専門研究員)