音楽美学を研究する悦び

掲載日: 2016年09月01日English

enlearge image (to back to press x)2015年に分析美学のブックガイド「分析美学は加速する 美と芸術の哲学を駆けめぐるブックマップ」を共同で執筆しました。Web上でご覧いただくことができます。(http://socio-logic.jp/events/201509_aesthetics.php

私は音楽美学という枠組みを用いながら、音楽の研究を進めてきました。とりわけ現代英語圏の美学、分析美学で議論されている問いに取り組んでいます。

私にとって音楽美学を学ぶことは、音楽についてどのような問いを立てることができるのか、を学ぶことでもありました。音楽美学は、素朴な直観に従っているだけでは見えてこなかった音楽の諸相を私に示してくれたのです。

博士論文では存在論的な問いを扱いました。音楽作品は、例えば絵画といった芸術ジャンルと比べたときに、多くの「謎」が立ち現われてきます。直観に従うならば、絵画は燃やされてしまうならば消滅し、経年変化で色あせた場合には修復がなされるでしょう。では、音楽作品の場合、何が行われたらそれは「消滅」するのでしょうか。あるいは、絵画における修復のような作業を音楽作品に当てはめる場合、何がそれに該当するのでしょうか。また、音楽批評には、作品の批評と演奏評が存在しています。作品と演奏は密接に結びついているように思われますが、突き詰めて考えた場合、音楽において作品と演奏はどのような関係にあるのでしょうか。こういった一連の問いに答えるためには、音楽作品がどのようなものであるか、その存在条件や同一性条件は何であるのかに答える必要が生じます。音楽に関して抱かれる直観や表明される言説、著作権など音楽を取り巻く社会的・歴史的コンテクストを整理しながら、他方で現代形而上学の諸論点に取り組む非常にスリリングな領域が音楽作品の存在論です。(註)

音楽美学は私に問いの存在を気づかせてくれましたが、同時に、古くから抱いていた素朴な疑問を学問的に練り上げる方法も私にもたらしました。これから取り組もうと考えている音楽認知の問題は、まさにそのような問いです。

enlearge image (to back to press x)拙稿が掲載されている『美学』と、生存学への手引きとなる『生存学の企て』。

私は昔から、音楽と記述の関係について、経験に根差した次のような疑問を抱いていました。第一に、なぜ楽曲の説明が音楽を聴いているときの私の経験を説明するのか、という問いです。「ああ、それは転調したからだよ」と言われるとき、音楽を聴いて感じたことがたしかに説明されたように思われるが、それはなぜなのか。第二に、楽曲の説明を読んだ後の音楽聴取は確かに以前と異なっているのだが、それは何が変化したのだろうか、という問いです。例えば、耳を傾ける部分が変化する、というように言いたくなるのですが、それは具体的にどういう変化なのでしょうか。幸いなことに、音楽美学にはこの疑問と共鳴する先行研究が存在しています。それらを活用しながら、整合的で説得力ある答えを打ち出したいと願っています。

音楽美学が問いを示したように、生存学もまた考えるべき問題を私に示しました。音楽に合わせて踊ること、音楽を介して繋がりあうこと、共同で音楽を奏でること、そうした風景のうちにある問いを「身体化された音楽認知(embodied music cognition)」論の観点から研究し、身体の不和あるいは異なりをもつ身体――障老病異――を描きこむことで、包括的な音楽認知論と生のあり方に新たな視点を提示することができると考えています。

(註)音楽作品の存在論の詳細については、「分析美学は加速する 美と芸術の哲学を駆けめぐるブックマップ」の「音楽作品の存在論」の項目もご参照ください。

田邉健太郎(立命館大学 生存学研究センター客員研究員)

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