大量死を意味づける-1945年前後の東アジア島嶼地域の経験から

掲載日: 2016年02月01日English

enlearge image (to back to press x)台湾2・28事件で行方不明になった近親者を弔う様子(2013年2月28日筆者撮影)

私の研究は戦争や虐殺といった紛争を経験した人びと(生存者や遺族)が、彼らの社会的文化的な意味づけを通してどのように近親者の死を表現し、その過程で生起する国家権力との葛藤を乗り越えるためにどのような工夫と知恵を発揮してきたかを社会学的・人類学的に考察するものです。

具体的には、研究対象を「1945年前後の東アジアにおける苛酷な紛争と大規模暴力を経験した島嶼地域」に設定し、「太平洋戦争」と大量殺戮といった紛争に巻き込まれるなかで、東アジアの島嶼地域民に強いられた夥しい人命損失と人権蹂躙、共同体破壊の歴史を辿ることで、今日の東アジアの根幹を規定する問題を解明する可能性を模索しています。とくに、1948年大韓民国誕生期に起きた済州島4・3事件の調査を中心に据え、そこで得た知見を踏まえて議論を普遍化するための試みとして、第2次大戦における沖縄戦と解放後の台湾における2・28事件(本省人〔台湾人〕と外省人〔在台中国人〕との大規模な衝突)との比較研究を実施し、その成果を社会に発信してきました。

帝国日本の統治下にあった東アジア諸地域において、1945年は「終戦」あるいは「解放」「光復」(植民地解放)として認識されています。しかし、済州島や沖縄、台湾といった帝国日本の周縁島嶼地域の視座に立てば、日本の敗戦は、駐屯占領軍が入れ替わっただけであり、占領は連続的なことで、新たな支配構造への編入に他ならなかったのです。植民地体制から冷戦体制への移行期において、島嶼民の自治的な意思表現や脱植民地化の動きは制約され、監視の対象とされ、最終的に島嶼地域は紛争に巻き込まれ社会の分裂につながりました。さらに、その後は、「戦後処理」「過去清算」という名目で国民国家が自らの「正当性」に回収しようとする強制力・秩序としての記憶の操作、それに対抗する私的記憶の形成との狭間で、体験者であってもかつての自己の経験と記憶が曖昧になり、客観的に整理できていない状況が続いています。それゆえ、紛争と大量死(mass death)の記憶のダイナミックな生成と変容の解明は、その後につづく和解と共生の実現に向けた方途という面も含めて、人文社会科学の研究課題として重要かつ喫緊な意味をもっていると思います。

enlearge image (to back to press x)済州4・3犠牲者慰霊祭(2013年4月3日筆者撮影)

私が注目する各地域における大量死は、伝統的な死の観念と食い違う「異常死」であり、紛争後社会の正統性を脅かす「不穏な死」でもあります。それゆえ、これらの死への対処をめぐって、各国・各地域には、修復と救済という名目で「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(日本)と「2・28事件処理及び賠償条例」(台湾)、「済州4・3事件真相糾明及び犠牲者名誉回復に関する特別法」(韓国)が適用されています。そして、こうした過去を克服するプログラムの一環として、各々の公的な領域で大量死への意味付与が試みられてきました。その結果、「戦没者」(日本)と「受難者」(台湾)、「4・3犠牲者」(韓国)のような公式の集合化された死者群、すなわち「抽象的な集合体の死」が創りだされ、それが事件を表象・代弁する、過去と現在をつなぎあわせる媒介項となっています。

こうした死の集合表象に関しては、これまで政治学・社会学などの諸分野から、国家が国民共同体を維持・強化するために自らの正統性を事後的に主張する「死の意味の独占」として批判されてきました。こういった批判は、「死者の犠牲者化」ともよばれています。私の研究では、こうした「死者の犠牲者化」についての批判を一定評価しつつ、「それにもかかわらずそこに参入した/せざるを得なかった」生者の「思い」を基点とし、国家の「正当性」に回収させようとする強制力に、時に順応し、時に抵抗しながら、近親者の死を再定位しようとする生者の振る舞いを解明していきたいと思っています。

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