「能力の社会モデル」の視座からの「異在労働同一賃金」の展望 ──障害教員運動史が示す「異なる在り方」の社会
「能力」の問題は厄介です。障害者の就学や就労においては、「能力」という言葉がふるいとなって差別を生み出してきました。たとえば「○○ができる(能力がある)」ことが教育や労働の現場に参入する際の条件とされ、能力がない(低い)と見なされる障害者の排除が正当化されてきました。こうした考え方は、「能力主義(meritocracy)」が「健常者中心主義(ablism)」として障害者運動のなかでも批判されてきました。しかし一方で、労働には「人間が自らの生存を維持し豊富化させていくために、意識的に自然界に働きかけて有用な価値を形成する基本的な営為」という意味があります。生存のために有用な価値(よい物、よいサービス)が生産されることは、その受益者(消費者)にとってはよいことであり、その価値を産み出す「能力」も賞揚されることになります。近代社会において、あらゆる差別は解消すべきものとされてきましたが、現実には「能力」評価に基づく差別だけは例外として残っており、それどころか社会を駆動させる原理として能力主義が機能してきました。
この「能力(できる/できない)」を問われ続けてきた存在に、障害教員(障害のある教員)があります。「障害があれば教員はできない」という通念に対して、「できる」と主張してきたのが障害教員たちでした。私自身、視覚障害のある高校教員として30年余働いてきましたが、2018年から立命館大学大学院先端総合学術研究科一貫制博士課程で、日本の障害のある教員の当事者運動の歴史を研究してきました。調査を進めるなかで、近代学校が創設して以来約150年、障害教員たちは、点字・手話といった独自の文字・言語や教材・教具を駆使し、同僚や生徒等の支援を受けながら、障害に応じた、他の教員たちとは「異なる在り方の働き方」を模索してきたことがわかってきました。この「異なる在り方の働き方」のことを「異在労働」と呼びます。
この障害教員運動史のなかで主張されたことを分析すると、主に三つの特徴が浮かび上がりました。第一に、他の教員と差異のある「異在労働」(勤務軽減を含む)を認めるように求めつつ、賃金等の待遇では、差別のない平等な評価を追求していたことがわかります。これを「異在労働同一賃金」の主張と概念化しました。第二に、障害教員たちが「できる」と言うときの「能力」は、誰が何をどのようにしてできるのかということを、他者の支援や協力なしに、自力や独力で発揮される「個人的なもの」としてではなく、周囲の人、道具、制度、観念、自然環境等を含む「社会的なもの」として捉えられることが明らかになりました。この新たな能力観を、障害学の「障害の社会モデル」や、社会哲学の「能力の共同性論」を参照して、「能力の社会モデル」と呼ぶことにしました。そして第三に、この「能力の社会モデル」に基づけば、「異在労働同一賃金」の主張を理論的にも実践的にも正当化しうる可能性がある、という結論に至りました。
本研究は、2025年3月に学位を授与された博士論文にまとめられ、同年11月に書籍として刊行されました。本書は、障害教員が主張した「異在労働」を起点に、社会の構成員が相互に支援や協力し合って必要かつ有用な価値を産み出していく「能力」のあり方=「能力の社会モデル」を構想するものです。そして、差別の根拠としての「能力」を根本から問い直し、障害者を含むすべての人にとっての「異なる在り方」の社会を展望するものです。お読みいただければ幸いです。
栗川治(日本学術振興会特別研究員PD(同志社大学)/立命館大学生存学研究所客員研究員)













